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東海地区最大級の弥生遺跡の朝日遺跡の紹介です。『あいち朝日遺跡ミュージアム』としてオープンされました。2012年(平成24年)9月に、朝日遺跡から出土した主要な出土品2千点余が、国の重要文化財に指定されたことがきっかけのようです。以前の『史蹟・貝殻山貝塚』はそのエリアの一角に残されています。

2021早春、あいち朝日遺跡(1/6):上小田井駅から朝日遺跡へ、竪穴式住居、高床倉庫、貝塚

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2021/02/06 - 2021/02/06

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旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

東海地区最大級の弥生遺跡の朝日遺跡の紹介です。『あいち朝日遺跡ミュージアム』としてオープンされました。2012年(平成24年)9月に、朝日遺跡から出土した主要な出土品2千点余が、国の重要文化財に指定されたことがきっかけのようです。以前の『史蹟・貝殻山貝塚』はそのエリアの一角に残されています。

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  • 昨年(2020年)11月にオープンした『あいち朝日遺跡ミュージアム』のアクセスは、いくつかありましたが、歩く距離は少し長いものの、電車・バスなどの乗り換えが一番少ないコースを選びました。それは、地下鉄鶴舞線に乗車し、乗り換えなしで終点の上小田井駅で降り、後は、徒歩でミュージアムに向かうコースです。歩く時間はざっと40分と見積りました。その途中の光景です。

    昨年(2020年)11月にオープンした『あいち朝日遺跡ミュージアム』のアクセスは、いくつかありましたが、歩く距離は少し長いものの、電車・バスなどの乗り換えが一番少ないコースを選びました。それは、地下鉄鶴舞線に乗車し、乗り換えなしで終点の上小田井駅で降り、後は、徒歩でミュージアムに向かうコースです。歩く時間はざっと40分と見積りました。その途中の光景です。

  • 暑くも寒くもなく、散策には最高のコンディションの2月初めのこの日でした。地下鉄の上小田井駅からは、、ほぼ西方面に向かっての移動です。この写真の左右に走っている『東名阪自動車道』に沿っての移動となりますが、自動車専用道ですから、なるべく並行する道を探しながら西に向かいました。

    暑くも寒くもなく、散策には最高のコンディションの2月初めのこの日でした。地下鉄の上小田井駅からは、、ほぼ西方面に向かっての移動です。この写真の左右に走っている『東名阪自動車道』に沿っての移動となりますが、自動車専用道ですから、なるべく並行する道を探しながら西に向かいました。

  • 新川あたりを横断する箇所に差し掛かっているようでした。上小田井駅からは、まだ西に数百メートルか移動していない場所です。横断歩道の手摺りにあった表示は、やって来た方向が『名古屋市西区長先町方面』、向かっている先が『清須市朝日愛宕・貝塚方面』の表示でした。

    新川あたりを横断する箇所に差し掛かっているようでした。上小田井駅からは、まだ西に数百メートルか移動していない場所です。横断歩道の手摺りにあった表示は、やって来た方向が『名古屋市西区長先町方面』、向かっている先が『清須市朝日愛宕・貝塚方面』の表示でした。

  • 広い通りを横断歩道で横断する時の、横断歩道橋の上からの光景です。下に見えている通りは、南北に走る路線のようでした。あとで地図を確認しましたら、国道22号線当たりのようでした。

    広い通りを横断歩道で横断する時の、横断歩道橋の上からの光景です。下に見えている通りは、南北に走る路線のようでした。あとで地図を確認しましたら、国道22号線当たりのようでした。

  • 道路脇にあった道案内標識です。右への矢印で『清須市朝日貝塚』、左向きの矢印で『清州市朝日愛宕』の表示がありましたから、右方向へ向かいました。名古屋市西区を過ぎて、清須市の地内に入って来たようです。

    道路脇にあった道案内標識です。右への矢印で『清須市朝日貝塚』、左向きの矢印で『清州市朝日愛宕』の表示がありましたから、右方向へ向かいました。名古屋市西区を過ぎて、清須市の地内に入って来たようです。

  • 推測になりますが、高架道路が交差する中に取り残されたように見えた貝塚らしい小山です。古墳後かも知れません。立寄ることにしましたが、残念ながら、立ち入ることが出来る道は設けていないようでした。(追記):後日調べましたら、朝日遺跡の一部になる『検見(けみ)塚貝塚』でした。ネット情報でも、立ち入る場所はないと記されていました。

    推測になりますが、高架道路が交差する中に取り残されたように見えた貝塚らしい小山です。古墳後かも知れません。立寄ることにしましたが、残念ながら、立ち入ることが出来る道は設けていないようでした。(追記):後日調べましたら、朝日遺跡の一部になる『検見(けみ)塚貝塚』でした。ネット情報でも、立ち入る場所はないと記されていました。

  • 貝塚らしい小山を見学する道を探してみあましたが、空振りに終わりました。目的としたその小山がこの写真の中央奥辺りに見えています。推測ですが、発掘調査を終えて積み上げられた小山かも知れません。

    貝塚らしい小山を見学する道を探してみあましたが、空振りに終わりました。目的としたその小山がこの写真の中央奥辺りに見えています。推測ですが、発掘調査を終えて積み上げられた小山かも知れません。

  • 『歩行者道路案内図』の光景です。広い自動車専用道を横断する歩行者用の道筋は、階段を登ったり下りたりと、なかなか大変でした。それでも、何とかクリアーして、目的地のミュージアム・貝殻山貝塚に向かっているようでした。

    『歩行者道路案内図』の光景です。広い自動車専用道を横断する歩行者用の道筋は、階段を登ったり下りたりと、なかなか大変でした。それでも、何とかクリアーして、目的地のミュージアム・貝殻山貝塚に向かっているようでした。

  • 高速道路を西に越して、開けた場所にやって来ました。寺社や遺跡巡りで覚えたコツですが、古木が立ち並んだ場所は、歴史を刻んだ場所の確率が高いことでした。田圃の先に見えてきた樹木が、どうやらそのパターンに合致しているようでした。萱葺屋根が見えてきました。間違いなかったようです。

    高速道路を西に越して、開けた場所にやって来ました。寺社や遺跡巡りで覚えたコツですが、古木が立ち並んだ場所は、歴史を刻んだ場所の確率が高いことでした。田圃の先に見えてきた樹木が、どうやらそのパターンに合致しているようでした。萱葺屋根が見えてきました。間違いなかったようです。

  • 農道を少し歩いて、先程の茅葺屋根が見える場所に近付いてきました。間違いなく、弥生時代の住宅を復元した場所でした。無事、『あいち朝日遺跡ミュージアム』への到着です。

    イチオシ

    農道を少し歩いて、先程の茅葺屋根が見える場所に近付いてきました。間違いなく、弥生時代の住宅を復元した場所でした。無事、『あいち朝日遺跡ミュージアム』への到着です。

  • 『あいち朝日遺跡ミュージアム』への出入口は複数あるようでしたから、表門らしい西側に回り込む必要はありませんでした。東側から入場して、早速の見学です。屋外施設は入場券が必要がないようでした。

    『あいち朝日遺跡ミュージアム』への出入口は複数あるようでしたから、表門らしい西側に回り込む必要はありませんでした。東側から入場して、早速の見学です。屋外施設は入場券が必要がないようでした。

  • 『弥生時代前期の環濠と貝層』のタイトルがあった説明パネルの光景です。弥生時代は、日本ける時代区分の一つであり、異説もありますが、紀元前6世紀頃から、紀元後3世紀中頃までにあたる時代です。弥生時代の始まりは、縄文時代晩期との明確な区分が付きませんが、概ね紀元前6世紀頃から始まり、終りは古墳時代との区別が付き難い点もありますが、概ね紀元3世紀頃までです。また、弥生時代は、早期、前期、中期、後期と晩期の五つの区分など、いくつかの区分方法があります。説明文の中で、『前期~中期初め』の期間を『紀元前6~紀元前3世紀』と表現してありました。後ほど時代区分の一覧も紹介します。

    『弥生時代前期の環濠と貝層』のタイトルがあった説明パネルの光景です。弥生時代は、日本ける時代区分の一つであり、異説もありますが、紀元前6世紀頃から、紀元後3世紀中頃までにあたる時代です。弥生時代の始まりは、縄文時代晩期との明確な区分が付きませんが、概ね紀元前6世紀頃から始まり、終りは古墳時代との区別が付き難い点もありますが、概ね紀元3世紀頃までです。また、弥生時代は、早期、前期、中期、後期と晩期の五つの区分など、いくつかの区分方法があります。説明文の中で、『前期~中期初め』の期間を『紀元前6~紀元前3世紀』と表現してありました。後ほど時代区分の一覧も紹介します。

  • 入口とは反対側から眺めた、『復元竪穴住居』の光景です。展示品として意識されたのでしょうか、かなりお洒落な造りとなっていました。屋根の飾りや、通風や明かり取りらしい造りの部分です。(追記):復元された竪穴住居で、岩倉市にある愛知県指定史跡の大地遺跡の復元建物です。

    入口とは反対側から眺めた、『復元竪穴住居』の光景です。展示品として意識されたのでしょうか、かなりお洒落な造りとなっていました。屋根の飾りや、通風や明かり取りらしい造りの部分です。(追記):復元された竪穴住居で、岩倉市にある愛知県指定史跡の大地遺跡の復元建物です。

  • 『あいち朝日遺跡ミュージアム』の影が映り込んだ、『復元竪穴住居』の光景です。こちらの復元施設も、屋根から破風に相当する部分にかけては、現代でも通用するような見事な造りでした。

    『あいち朝日遺跡ミュージアム』の影が映り込んだ、『復元竪穴住居』の光景です。こちらの復元施設も、屋根から破風に相当する部分にかけては、現代でも通用するような見事な造りでした。

  • 左斜め前から眺めた、『復元竪穴住居』の正面光景です。中に入ることは出来ませんが、入口の扉から、中を窺うことができました。その内部の状態は、この後に紹介します。

    イチオシ

    左斜め前から眺めた、『復元竪穴住居』の正面光景です。中に入ることは出来ませんが、入口の扉から、中を窺うことができました。その内部の状態は、この後に紹介します。

  • 『復元竪穴住居』のタイトルがあった説明パネルの光景です。朝日遺跡で見付かった、丸形と方形の竪穴式住居の解説です。丸形には大型のものがあり、その住居の中央には大きな丸穴があり、左右に2つの小型の穴が付属している特徴があり、これは、抽選半島から北部九州を経由して、東日本に伝搬したと解説されていました。発掘写真や復元図、平面図が紹介されていました。

    『復元竪穴住居』のタイトルがあった説明パネルの光景です。朝日遺跡で見付かった、丸形と方形の竪穴式住居の解説です。丸形には大型のものがあり、その住居の中央には大きな丸穴があり、左右に2つの小型の穴が付属している特徴があり、これは、抽選半島から北部九州を経由して、東日本に伝搬したと解説されていました。発掘写真や復元図、平面図が紹介されていました。

  • 『復元竪穴住居』の内部光景です。屋根を支える主要な箇所に柱が立ち、柱や梁の固定は、すべて縄や蔓などを使っているようでした。『復元竪穴住居』のタイトルがあった説明パネルで紹介されていた、『大型の丸形の住居』に該当するようでした。

    『復元竪穴住居』の内部光景です。屋根を支える主要な箇所に柱が立ち、柱や梁の固定は、すべて縄や蔓などを使っているようでした。『復元竪穴住居』のタイトルがあった説明パネルで紹介されていた、『大型の丸形の住居』に該当するようでした。

  • 『復元竪穴住居』のタイトルがあった説明パネルで紹介されていた、大きな穴と、その左右に付属した小さな穴の光景です。解説はされていませんでしたが、大きな穴が火を使う炉で、小さな穴は、鍋を掛ける軸を支えた支柱の穴のようにも見えました。しかし、この再現施設では、火を遣った跡はなく、小さな穴も、底が浅過ぎるようですから、別の説明が要りそうです。

    『復元竪穴住居』のタイトルがあった説明パネルで紹介されていた、大きな穴と、その左右に付属した小さな穴の光景です。解説はされていませんでしたが、大きな穴が火を使う炉で、小さな穴は、鍋を掛ける軸を支えた支柱の穴のようにも見えました。しかし、この再現施設では、火を遣った跡はなく、小さな穴も、底が浅過ぎるようですから、別の説明が要りそうです。

  • 角度を変えて眺めた、『復元竪穴住居』の外観です。全体は萱で葺かれているようでした。日本名城巡りの青森県の『根城』で、江戸時代の『竪穴住居』の再建光景を目にしましたが、それに引けを取らない立派さでした。

    角度を変えて眺めた、『復元竪穴住居』の外観です。全体は萱で葺かれているようでした。日本名城巡りの青森県の『根城』で、江戸時代の『竪穴住居』の再建光景を目にしましたが、それに引けを取らない立派さでした。

  • 『復元高床倉庫』のタイトルがあった説明パネルの光景です。発掘調査で見付かった柱穴や、その柱穴の断面図が周りに記されていました。面白いのは、一本木を使った梯子です。復元倉庫にも、その梯子が付属していました。高床倉庫は穀物を貯蔵したもので、高床にすることで通風を良くし、ネズミなどの被害も防ぐ目的と解説されていました。同じような建物はアジアの国に多く見られるので、日本へも伝わって来たと推測されていました。

    『復元高床倉庫』のタイトルがあった説明パネルの光景です。発掘調査で見付かった柱穴や、その柱穴の断面図が周りに記されていました。面白いのは、一本木を使った梯子です。復元倉庫にも、その梯子が付属していました。高床倉庫は穀物を貯蔵したもので、高床にすることで通風を良くし、ネズミなどの被害も防ぐ目的と解説されていました。同じような建物はアジアの国に多く見られるので、日本へも伝わって来たと推測されていました。

  • 右斜め前から眺めた、『復元高床倉庫』の光景です。大げさすぎるくらい立派な茅葺の屋根が乗せられていました。主要な6本の柱の位置は、発掘調査を基に再現されているようでしたが、屋根の部分は、想像も交えられているようでした。

    右斜め前から眺めた、『復元高床倉庫』の光景です。大げさすぎるくらい立派な茅葺の屋根が乗せられていました。主要な6本の柱の位置は、発掘調査を基に再現されているようでしたが、屋根の部分は、想像も交えられているようでした。

  • 左斜め前から眺めた、『復元高床倉庫』の光景です。余りに立派過ぎる萱葺屋根ですから、つい、台風襲来の時の、風の心配などが頭を過(よ)ぎりました。屋根の重たさではなく、風圧荷重の問題です。

    左斜め前から眺めた、『復元高床倉庫』の光景です。余りに立派過ぎる萱葺屋根ですから、つい、台風襲来の時の、風の心配などが頭を過(よ)ぎりました。屋根の重たさではなく、風圧荷重の問題です。

  • 左斜め前からズームアップした、『復元高床倉庫』の光景です。壁板などにも、随分と立派なものが使われていました。これらの造作も、個人的な感想でいえば、弥生時代を連想麻せてくれるような造りを期待したいところです。殊に、発掘調査を基に再現された、梯子との落差が大きすぎます。

    イチオシ

    左斜め前からズームアップした、『復元高床倉庫』の光景です。壁板などにも、随分と立派なものが使われていました。これらの造作も、個人的な感想でいえば、弥生時代を連想麻せてくれるような造りを期待したいところです。殊に、発掘調査を基に再現された、梯子との落差が大きすぎます。

  • 弥生時代の高床倉庫の梯子のズームアップ光景です。出土したものを参考に再現した梯子のようでした。東南アジアの旅行では、今でも多くの高床式の建物を見かけますが、この種の梯子には気が付きませんでした。現在はもっと簡便な造りのものに代わったのかも知れません。

    弥生時代の高床倉庫の梯子のズームアップ光景です。出土したものを参考に再現した梯子のようでした。東南アジアの旅行では、今でも多くの高床式の建物を見かけますが、この種の梯子には気が付きませんでした。現在はもっと簡便な造りのものに代わったのかも知れません。

  • 『弥生時代前期の環濠と貝塚』のタイトルがあった説明パネルの光景です。平成7~8年(1995~1996年)の発掘調査で見付かった環濠であることが紹介されていました。史跡指定地の南側で見付かった、幅2.5~4.5メートルの環濠で、出土した土器類は、弥生時代前期から中期始めの、紀元前6世紀~紀元前4世紀のものと紹介されていました。弥生時代の貝殻山貝塚の南には、砂浜や干潟が広がっていたと推測されていました。

    『弥生時代前期の環濠と貝塚』のタイトルがあった説明パネルの光景です。平成7~8年(1995~1996年)の発掘調査で見付かった環濠であることが紹介されていました。史跡指定地の南側で見付かった、幅2.5~4.5メートルの環濠で、出土した土器類は、弥生時代前期から中期始めの、紀元前6世紀~紀元前4世紀のものと紹介されていました。弥生時代の貝殻山貝塚の南には、砂浜や干潟が広がっていたと推測されていました。

  • 場所は代わって、貝塚の発掘場所の光景です。実際に発掘された貝類は、現在のものに置き換わったかも知れません。環濠の中に展示してありましたから、貝殻の捨て場になった箇所の再現のようでした。

    場所は代わって、貝塚の発掘場所の光景です。実際に発掘された貝類は、現在のものに置き換わったかも知れません。環濠の中に展示してありましたから、貝殻の捨て場になった箇所の再現のようでした。

  • 『貝殻山貝塚』の発掘写真です。『弥生時代前期の環濠と貝塚』のタイトルがあった説明パネルには、ハマグリ、カキを中心に、シジミ、サルボウ、アカニシなどの貝殻が溝に残っていたと説明されていました。

    『貝殻山貝塚』の発掘写真です。『弥生時代前期の環濠と貝塚』のタイトルがあった説明パネルには、ハマグリ、カキを中心に、シジミ、サルボウ、アカニシなどの貝殻が溝に残っていたと説明されていました。

  • 現地で入手した『弥生・あいち朝日遺跡ミュージアム』のタイトルがあったパンフレットには、『体験弥生ムラ・体験水田』と記されていました。今は、刈り取りが済んだ、切り株だけが残っていました。

    現地で入手した『弥生・あいち朝日遺跡ミュージアム』のタイトルがあったパンフレットには、『体験弥生ムラ・体験水田』と記されていました。今は、刈り取りが済んだ、切り株だけが残っていました。

  • 繰り返しになりますが、最後にもう一度紹介する、『復元竪穴住居』の外観です。

    繰り返しになりますが、最後にもう一度紹介する、『復元竪穴住居』の外観です。

  • 『史跡・貝殻山貝塚』、副題に『貝殻山貝塚とあいち朝日遺跡ミュージアム』のタイトルがあった説明パネルの光景です。朝日遺跡の中に、その貝塚の位置が記されていました。弥生時代の遺構として、施設の地下には貝塚を始めとする遺跡があることが紹介されていました。

    『史跡・貝殻山貝塚』、副題に『貝殻山貝塚とあいち朝日遺跡ミュージアム』のタイトルがあった説明パネルの光景です。朝日遺跡の中に、その貝塚の位置が記されていました。弥生時代の遺構として、施設の地下には貝塚を始めとする遺跡があることが紹介されていました。

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