2020/12/08 - 2020/12/08
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この旅行記のスケジュール
2020/12/08
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ホテル→沖縄県立博物館・美術館
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徒歩での移動
沖縄県立博物館・美術館→DFS
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おむろまち駅→見栄橋
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この旅行記スケジュールを元に
沖縄はかっては琉球王国と呼ばれていたことは知っていましたが、1879年に沖縄県として日本の一部になるまでの歴史については全く知りませんでした。首里城の正殿の玉座の上に「中山王」と書かれているのを見て、なぜ琉球王ではないのかと不思議に思っていました。今回沖縄県立博物館・美術館へ行くチャンスがあり疑問を解くことができました。
沖縄県立博物館・美術館はかっては首里城の中にあったそうですが、19年前に現在の場所に移動してきたそうです。グスクをイメージさせる外観の建物の中にある展示物は充実していてとても有意義な時間を過ごすことができました。ゆっくり見ると一日では見終わらない必見の博物館だと思います。撮ってきた写真を旅行記にUPしながら再度学んでいます。解説をたくさん撮ってきました。私にとって初めて知る内容ばかりでした。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- ホテル
- 4.0
- 交通
- 4.0
- 交通手段
- タクシー JALグループ ANAグループ 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
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コンドミニアムからタクシーを拾って現地へ行く。入り口が見える。建物はまるでグスクのようなデザイン。
沖縄県立博物館 美術館 美術館・博物館
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入り口の右手に民家の模型が展示されている。パンフレットにあった景色だ。
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正式な名前は沖縄県立博物館・美術館。美術館もセットで建物の中にある。
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外観とは対照的なエントランス。12世紀の外観から一度に現在に戻された感じがする。
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2階まで吹き抜けのエントランス。メイン階段は2階まで続いている。
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博物館は一階の奥にある。透明ガラスの床には驚かされた。何かが始まりそうな気配を醸し出している。
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入ると大きなジオラマがあり、展示室全体が見渡せる。ここで見学時間の配分を決めることができそうだ。
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表示は全部で7つある。1つ目は先史時代。
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どこの国を訪ねても、先史時代の展示物に大きな差はない。皆このような土器が展示されている。
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先史時代の文化に大きな違いがないということは人類の元を辿ると同じ種に行き着くということなのだろう。
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古我地原貝塚から出土した主な生物の分布から、なんと哺乳類の犬がもうすでに生存していることが分かる。20~30%が哺乳類だ。
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「島と自然の暮らし」のコーナーでは海を想像させる照明。
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このころから人々は島を行き交っていた。
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貝の装飾品。腕輪。 どのような目的で作ったのか?
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ゴボウラという名前の貝が腕輪として九州に運ばれ、九州からは弥生式土器が沖縄にもたらされたと表示されていた。
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螺鈿細工の材料のヤコウガイがこの時代から奄美大島ですでに採取されている!
螺鈿細工の源はこの時代からあったのだ! -
下田原城の模型が展示されていた。波照間島にある城。石灰岩の石積で作られている。グスクは石灰岩を使っている。
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沖縄県立博物館
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グスクから出土された土器 九州との交易で運ばれてきたのだろうか。
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グスクの機能は様々で集落や聖域として機能していたものから按司の居城や山城のなったようだ。14世紀には空堀や石積みのあるグスク、建物の礎石のあるグスクもできている。
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中国銭がすでにある! 中国とも行き交っていたのだろう。
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この解説で私の疑問は解けた。14世紀の沖縄島は3つの大きな勢力に分かれていた。北山(今帰仁が拠点)、中山(浦添が拠点)、南山(大里が拠点)の王は中国の皇帝から王として承認され、交易をしていたそうだ。その中の中山王の思紹、尚巴志の父子が三山を統一して琉球王国を作っている。
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なるほど3つの国に沖縄島は分かれてそれぞれに王がいた。
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3つを統一した尚氏が拠点として首里城を築城したので、玉座の上に「中山王」と書かれていたのだ。つまり中山は琉球王国の本拠地。
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首里城からの出土品が展示されていた。中国は勿論、タイやミョアンマーがある。すでに交易は中国を通して他の国々とも行っていたようだ。
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沖縄県立博物館
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旧首里城正殿鐘 「万国津梁の鐘」と表示されている。
第一尚氏泰久王の時代1458年に作られている。製作者は北九州の藤原国善。 -
琉球に仏教が伝えられたのは13世紀中頃。国王の位牌を守る円覚時が建てられた。尚泰久王の時代には23口もの梵鐘が製作されていた。
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統一されて王国が繁栄する。
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系図を見ると尚氏は途中で途切れている。7代目の王の跡継ぎがいない。
第二尚氏の血縁のない系図が書かれている。 -
初代の思紹王から7代目の尚徳王までを第一尚氏王統と呼ぶ。琉球はこの時代に外交に力を入れ文化導入を図っていた。首里城と那覇を結ぶ道路港湾の整備も行っていた。
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確かに中山王尚真と書かれている。
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第二尚氏の尚真王は国王を中心としての制度を整えながら明との進貢貿易を活発にし、貿易国家として繁栄していた。
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その時代の進貢船の絵が掛け軸になっていた。この船で東南アジアまでよく行くことができたと思うと感心する。
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模型が展示してあった。大きさは何分の一かは分からないが1隻に100人前後乗船。2~4隻で編成されていた。
中国皇帝への貢ぎ物を乗せていた。2年に1貢(時代によって異なる)中国へ派遣されていた。 -
王府によって統一はされたが琉球王国には有力な按司がいたようだ。第二尚氏の尚真王の時に身分制度を作り国家組織を強化している。
権力を保つには身分制度を作る必要があった。日本も江戸時代に身分制度を作っている。 -
役人の位階制度の展示があった。身分によって被っている帽子の色が違う。
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この時代の沖縄県はこのような形と考えられていたようだ。
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尚真王は王権を強化するために神女(村落祭司を司る祝女)を組織し、中央集権的な宗教組織を整備した。どこかの国に似ている。
神女の頂点に国王の姉妹を就任させ国王を支えさせた。 -
玉ハベルと呼ばれる神女が首にかけて祭司を行った。布の中にガラス玉を編み込んである。珍しい故に神秘さが増していただろう。
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琉球王国の最高神女を聞得大君(きこえおおぎみ)の即位儀礼を御新下(おあらおり)といい、沖縄最高の聖地の斉場御嶽(さいじょううたき)で行われた。
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第二尚氏王統の尚円王の時代の伊是名(いせな)島に住む姉に与えた特別な神職の名が阿母加那志(あもがなし)という称号。
刺繍衣装は当時の権威の象徴。確かにすばらしい。 -
再現するとこのようになる。艶やか。
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神がかっているように見える。
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薩摩藩が琉球王国を支配する時代
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1609年に薩摩軍3000人が琉球に攻め入り徳川将軍の影響下に置かれることになる。慶賀・謝恩使節を恒常的に派遣しなければならなった。
薩摩藩の支配下にあり、なおかつ中国に朝貢使節を派遣しなければならず大変な負担だったと思う。 -
沖縄県立博物館・美術館
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尚寧王の絵。家臣より王はかなり大きい。権威があることを示している。
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なるほど、北京と薩摩への航路が残っている。北京までは海路ではなく陸路を使っていた。陸路の方が安全なのかもしれない。
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17世紀、中国は清。交易を通して中国の文化を学び人材の育成をした。
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久米村は現在でもある地名だが、もとは中国から渡航したした人々が住んでいた。琉球王国が東南アジアで貿易を行うための通訳や航海に貢献していた。
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江戸上がりの慶賀・謝恩使節の図。
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海難事故も想定して複数の船で船団を作り、江戸へ向かったのだろう。
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解説を見ると、なるほど中城王子が江戸に行っていた。王子は王の使者としては最適だろう。
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港に入港しているように見える。那覇港?
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この表からは10年に一回は江戸上がりをしていることが分かる。将軍が変わる時は慶賀使節、謝恩は保護を受けているお礼という意味だったと思う。
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薩摩が支配していた頃の琉球文化
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「中山世鑑」1650年に編集した琉球最初の正史。第一尚氏、第二尚氏の尚清王代まで書かれている。
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2つの国との関係を維持しながら「琉球らしさ」を発揮するには中国と日本の2つの文化を学んで融合させている。
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三線は琉球独自の文化と思っていたが中国から伝来していた。
三味線は三線を源にして江戸時代に作られている。三味線の音色は確かに三線によく似ているが、やはり音色は違う。
私は三味線の細竿を持っている。かっては長唄が趣味だった。 -
琉球の芸能は宮廷芸能が大きな影響を与えていた。中国の使者を歓待するために組踊りという宮廷演劇と古典舞踊が創作されている。
「御冠船踊」と呼ばれた。庶民の間にも広がり古典芸能と呼ばれている。
村落祭祀の奉納芸能にも「御冠船踊」が影響を与えたそうである。
御冠船踊をじっくりと見てみたいと思う。 -
薩摩藩が支配していた頃の様子
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新しい時代が始まったために、制度の改革をせざるを得なくなった。氏族身分と百姓身分に明確に区別され、百姓は年貢や労働などの負担を負うことになった。
百姓によって王国は維持されていた。 -
ずいぶんたくさんの部署がある。18世紀以降は行政の組織が明確になっていた。
地頭という名前があり興味深い。 -
農村支配の仕組みはかなり複雑。農民が農民を管理するような仕組みになっていた。これでは一番下の一般住民は負担はかなりが大きいのではないだろうか?
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沖縄県立博物館・美術館
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中国と江戸に貢物をしなければならない状況で財政基盤が農村となると生産性を高める必要があると思う。国家を再建する賢者が出現して政策を成功させていた。
中国からの貢物の返礼品を他国に売り、貿易を行ってはいるが、そもそも貢物の原資は農村? -
久米村は中国からの渡来人のコミュニティー。中国の文化の文物の導入に大きな役割をしていた。航海術、儒学、風水、中国風の書漢詩、中国音楽など琉球の外交には欠かすことのできない特殊技術。江戸上がりの使節の一員になった。
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中国に派遣された国費留学生の詩作が収録された「琉球官生詩集」
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5番目のコーナーは王国の末期。王国が衰亡する。
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19世紀になると王国経営は行き詰まる。農村の疲弊、王府の財政難が原因。
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度重なる災害や飢饉・伝染病によって農村は疲弊し生産力が低下した。税金が払えず逃亡する、税を払うために身売りする者が増加。結果として人口が減少し王府の財源が減少し危機を迎えた。
ストックがあれば何とかなりそうであるが度重なるとそうもいかないのだろう。 -
琉球の歴史を王代ごとに書いた書。政治・経済・外交や文化・役人の人事・社会状況・気象など異変現象を収録している。王府末期の様子も記録されている。
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19世紀のイギリスの産業革命後、欧米諸国がアジアへ進出し、1840年にアヘン戦争が起きた。日本や琉球を訪れる異国船が増加した。
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掛け軸に異国船が描かれている。さぞ驚いたことだろう。
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なんとペリーが琉球王国に来ている。当時は大平洋を突っ切る航路はなく、大西洋、喜望峰を回りマラッカ海峡から上海を経由して、琉球に来た。その後1ケ月半後に久里浜に現れた。「日本遠征記」に海上から那覇を見た風景が描かれている。
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これは?
WIR WILHELMとは誰かの名前のようだ。掛け軸にする意味は? -
沖縄の近代化?
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500年にわたって続いた琉球王国が滅亡する。明治維新で政府は沖縄に大きな変化を要求した。琉球王国を薩摩藩に編入させようとする。
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1872年に王国の体制を維持したまま薩摩藩となり、日本の一部に組み入れられた。
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日本は南の境界線を確定する必要があり琉球王国を廃止し、日本の内部に編入しようとした。承知しない沖縄に1879年に軍隊と警察官を送った。尚泰王は首里城を明け渡し琉球王国は滅びた。
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青い線は清が要求した琉球三分論。赤い線は日本が要求した琉球二分論。
1894年の日清戦争で日本が勝利し、1895年の下関条約で琉球は日本の領土となった。 -
驚いた! 1880年に井上馨外務卿は琉球帰属文書で宮古・八重山諸島を清に分割割譲し、代償として中国での日本の通商権を認めさせようとしていた。
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明治12年(1879年)4月2日 琉球藩を廃止し沖縄県となった。
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明治12年(1879年)4月2日 琉球藩を廃止し沖縄県となった。
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琉球処分後の首里城の使用方法は兵舎や学校など多岐にわたっていた。当時の人々は王の居城に自由に出入りができるとは考えてもいなかっただろう。
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琉球処分後に絵描かれた首里城。守礼門の先が広く描かれている。広く感じたのだろう。
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ラストエンペラー。首里城を出た後は東京に移り住んだと聞いている。
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モダンな博物館。光を天井から取り入れている。
沖縄の歴史を学んだ後に見ると柔らかな光に見える。 -
入り口の左手に見えた民家。やはり見ておく必要がある。
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日本の文化と似ている。床の間がある。家長の席だったのでは?
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神棚?説明がないのは残念。
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博物館を標識から見渡す。大きな建物。今まで知らなかった知識が増えたようで充実感を味わいながら後にした。
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おむろまち駅へ向かう途中でDFSへ寄ってみた。クリスマス近くなのでデコレーションはトナカイ。
Tギャラリア 沖縄 by DFS ショッピングモール
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おむろまち駅。モノレールの本数は多い。
久しぶりに沖縄に来て、博物館で今まで分からなかった沖縄の歴史がを少し理解することができた。沖縄の人々は本土の歴史と琉球王国の歴史の両方を学ぶという。本土に生まれ育った私はもっと沖縄の歴史の理解を深める必要があると感じている。
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