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匝瑳 (そうさ)という地名をすぐ読める方は少ないと思います。<br />mistralが通っていた高校の名前はその難しい漢字を高校名としていました。<br />電車通学をしていたのですが、当時は高校へ通うのみ、周辺にある名所旧跡などは知る由もありませんでした。<br /><br />このコロナ禍の折り、匝瑳市から旭市にかけてかつて広がっていた椿海(つばきのうみ)周辺の探訪記を少しずつアップしています。<br /><br />匝瑳市(もとの名前は八日市場市といった。)北西部の高台に位置する飯高寺に置かれた「飯高檀林」は、天正8年(1580年)に開設された日蓮宗最古・最大・最高の学問所の跡地です。つまりお坊さんの為の学校の跡地なのです。<br />檀林という名称は江戸時代に入ってから一般化したもので、中世後期までは談所・学室・学問所などと呼ばれ、各宗派にあったようです。<br />その後、明治5年(1872年)の「学制」発布によって、明治7年に廃檀となるまでの300年の長い期間学問所であり続けたのです。<br /><br />そんなかつての檀林跡地の訪問旅行記です。<br />まだ冬真っ最中の1月21日にも一度訪問、すっかり春めいた3月に再度訪れてみました。<br /><br />(表紙写真は山門を境内から見たもの)

檀林って何? こんな規模の建造物が何故匝瑳に。

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2021/03/23 - 2021/03/23

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mistral

mistralさん

匝瑳 (そうさ)という地名をすぐ読める方は少ないと思います。
mistralが通っていた高校の名前はその難しい漢字を高校名としていました。
電車通学をしていたのですが、当時は高校へ通うのみ、周辺にある名所旧跡などは知る由もありませんでした。

このコロナ禍の折り、匝瑳市から旭市にかけてかつて広がっていた椿海(つばきのうみ)周辺の探訪記を少しずつアップしています。

匝瑳市(もとの名前は八日市場市といった。)北西部の高台に位置する飯高寺に置かれた「飯高檀林」は、天正8年(1580年)に開設された日蓮宗最古・最大・最高の学問所の跡地です。つまりお坊さんの為の学校の跡地なのです。
檀林という名称は江戸時代に入ってから一般化したもので、中世後期までは談所・学室・学問所などと呼ばれ、各宗派にあったようです。
その後、明治5年(1872年)の「学制」発布によって、明治7年に廃檀となるまでの300年の長い期間学問所であり続けたのです。

そんなかつての檀林跡地の訪問旅行記です。
まだ冬真っ最中の1月21日にも一度訪問、すっかり春めいた3月に再度訪れてみました。

(表紙写真は山門を境内から見たもの)

旅行の満足度
4.0
同行者
一人旅
交通手段
自家用車

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  • 駐車場は2か所あります。<br />ここは南駐車場、126号線から東総広域農道に向かって走っていくと<br />大きな立て看板が見えてきます。<br />(もう一か所、北駐車場があります。)<br />駐車場には案内所があり、コロナ禍の折は難しいのでしょうが、ボランティアのガイドの方がおられるようです。

    駐車場は2か所あります。
    ここは南駐車場、126号線から東総広域農道に向かって走っていくと
    大きな立て看板が見えてきます。
    (もう一か所、北駐車場があります。)
    駐車場には案内所があり、コロナ禍の折は難しいのでしょうが、ボランティアのガイドの方がおられるようです。

  • 周辺に広がるスポットを巡る散策路の案内図。<br />後ほど妙福寺、飯高神社へも行きます。

    周辺に広がるスポットを巡る散策路の案内図。
    後ほど妙福寺、飯高神社へも行きます。

  • 駐車場に車を停めて、民家の間の細い道を<br />上っていく。<br />途中に咲いていた花の名前は?<br />(見たことがあっても思い出せない、、、)

    駐車場に車を停めて、民家の間の細い道を
    上っていく。
    途中に咲いていた花の名前は?
    (見たことがあっても思い出せない、、、)

  • 日蓮宗 飯高寺 というのが正式名称。<br />この看板が見えたら坂道を左折する。

    日蓮宗 飯高寺 というのが正式名称。
    この看板が見えたら坂道を左折する。

  • 石段の先に山門が顔を見せる。

    石段の先に山門が顔を見せる。

  • 急な石段を息を切らせて登ったところに<br /><br />国の重要文化財の「総門」がある。<br /><br />延宝8年(1673年)に建立、天命2年(1782年)に再建される。

    急な石段を息を切らせて登ったところに

    国の重要文化財の「総門」がある。

    延宝8年(1673年)に建立、天命2年(1782年)に再建される。

  • 鬱蒼とした深い森が広がっている。

    鬱蒼とした深い森が広がっている。

  • 今登ってきたところを振り返ってみると<br />かつての椿海のあと、<br />今となっては広々とした田園地帯の眺めが。

    今登ってきたところを振り返ってみると
    かつての椿海のあと、
    今となっては広々とした田園地帯の眺めが。

  • 立て看板の説明によると、<br /><br />「天正8年(1580年)土地の豪族平山刑部少輔常時は日生を招き、城内に寺を作り学問所(檀林)としたのが始まりと伝えられる。<br />天正19年に、徳川家より日蓮宗の宗門根本檀林として公認され、以後徳川家の保護を受けてきました。<br />特に家康の側室養珠院「おまんの方」の信仰が厚く、その子水戸頼房・紀伊頼宜の寄進等により規模が整えられました。<br />以後、寺は日蓮宗の根本檀林として遠近各地から参集する修行僧らでにぎわい、名僧を輩出しました。

    立て看板の説明によると、

    「天正8年(1580年)土地の豪族平山刑部少輔常時は日生を招き、城内に寺を作り学問所(檀林)としたのが始まりと伝えられる。
    天正19年に、徳川家より日蓮宗の宗門根本檀林として公認され、以後徳川家の保護を受けてきました。
    特に家康の側室養珠院「おまんの方」の信仰が厚く、その子水戸頼房・紀伊頼宜の寄進等により規模が整えられました。
    以後、寺は日蓮宗の根本檀林として遠近各地から参集する修行僧らでにぎわい、名僧を輩出しました。

  • この森の植生についての説明板:<br />「スギを主体とする人工林で、幼齢林から老齢林まで存在し、スギ林の生態を知るうえで貴重な森林です。<br />この中には200~300年生のスギの巨木が多数あり、その年輪には寒冷期、ひでり、台風など過去の気候が刻み込まれています。」<br />とあった。

    この森の植生についての説明板:
    「スギを主体とする人工林で、幼齢林から老齢林まで存在し、スギ林の生態を知るうえで貴重な森林です。
    この中には200~300年生のスギの巨木が多数あり、その年輪には寒冷期、ひでり、台風など過去の気候が刻み込まれています。」
    とあった。

  • 表紙に使った写真は、総門を境内から写したもの。

    表紙に使った写真は、総門を境内から写したもの。

  • 上記写真の様子に見覚えのある方がおられるかもしれません。<br /><br />駐車場にあったパネルによると、この檀林は数々のテレビ番組、映画のロケ地となっているようです。<br />最近では2020年の大河ドラマ「麒麟がくる」の第1,3,8回に登場したとのことです。<br /><br /><br />

    上記写真の様子に見覚えのある方がおられるかもしれません。

    駐車場にあったパネルによると、この檀林は数々のテレビ番組、映画のロケ地となっているようです。
    最近では2020年の大河ドラマ「麒麟がくる」の第1,3,8回に登場したとのことです。


  • 樹齢2~300年のスギの大木が並ぶ参道。<br />

    樹齢2~300年のスギの大木が並ぶ参道。

  • これらのスギは、紀州家から寄進された熊野杉とのこと。

    これらのスギは、紀州家から寄進された熊野杉とのこと。

  • 空気そのものが浄化されているように感じられる。

    空気そのものが浄化されているように感じられる。

  • 「廟所」との案内があり、右手に曲がってみる。<br />

    「廟所」との案内があり、右手に曲がってみる。

  • そこには歴代の化主(けしゅ)の供養塔が並んでいる。<br />化主とは、檀林の最上位のお坊さんを意味している。

    そこには歴代の化主(けしゅ)の供養塔が並んでいる。
    化主とは、檀林の最上位のお坊さんを意味している。

  • ここに並んでいるのは墓石ではなく慰霊塔であり、<br /><br />歴代の化主は、それぞれが池上本門寺や身延山久遠寺など<br />全国でも有名どころのお寺へ招かれていったため<br />墓所はそれぞれのお寺にある為です。

    ここに並んでいるのは墓石ではなく慰霊塔であり、

    歴代の化主は、それぞれが池上本門寺や身延山久遠寺など
    全国でも有名どころのお寺へ招かれていったため
    墓所はそれぞれのお寺にある為です。

  • 参道を進むと、<br />もともとは平山常時の居城であったため<br />その当時の跡である空堀が残っている。

    参道を進むと、
    もともとは平山常時の居城であったため
    その当時の跡である空堀が残っている。

  • 更に参道右手にあるのは<br />立正大学発祥の地、との立て看板。<br /><br />「大檀林として多くの学徒を集めて栄えていたが、やがて<br />明治5年(1872年)東京の芝二本榎に設けられた宗教院にその使命を譲った。<br />これが後に日蓮宗大学となりさらに立正大学に発展する。」<br /><br />その石碑

    更に参道右手にあるのは
    立正大学発祥の地、との立て看板。

    「大檀林として多くの学徒を集めて栄えていたが、やがて
    明治5年(1872年)東京の芝二本榎に設けられた宗教院にその使命を譲った。
    これが後に日蓮宗大学となりさらに立正大学に発展する。」

    その石碑

  • 「題目堂」<br />

    「題目堂」

  • 18世紀ごろの建立。<br />学問僧たちが上級試験に合格できるよう祈願したそうだ。

    18世紀ごろの建立。
    学問僧たちが上級試験に合格できるよう祈願したそうだ。

  • 巨木な切り株。

    巨木な切り株。

  • 参道の先には講堂が見えてきた。<br />遠目にも屋根の存在感が素晴らしい。

    参道の先には講堂が見えてきた。
    遠目にも屋根の存在感が素晴らしい。

  • 三基ある石塔。<br /><br />右にあるのは明治49年(1909年)の題目塔。<br />左は道標だそうです。<br />正面には「飯高檀林道」と、側面には「いいたか」「てうしみち」<br />と刻まれている。(てうしみち、とは銚子道のことのようだ。)

    三基ある石塔。

    右にあるのは明治49年(1909年)の題目塔。
    左は道標だそうです。
    正面には「飯高檀林道」と、側面には「いいたか」「てうしみち」
    と刻まれている。(てうしみち、とは銚子道のことのようだ。)

  • 真ん中の石は「たたりいし」とある。<br /><br />この石にまつわる話は<br />「飯高檀林の総門前の石段をつくるにあたり、江戸で買った石を小見川まで船で運んできた。その後、陸路を運ぶ際、途中の村人が石の一つを盗んでしまった。その村人の家にはその後不幸が続き、石を盗んだ祟りだということになった。<br />その後、懺悔の意を「祟石」と刻み、檀林へ戻したそうです。」

    真ん中の石は「たたりいし」とある。

    この石にまつわる話は
    「飯高檀林の総門前の石段をつくるにあたり、江戸で買った石を小見川まで船で運んできた。その後、陸路を運ぶ際、途中の村人が石の一つを盗んでしまった。その村人の家にはその後不幸が続き、石を盗んだ祟りだということになった。
    その後、懺悔の意を「祟石」と刻み、檀林へ戻したそうです。」

  • その左手にある<br />「古能葉稲荷大明神」(このはいなりだいみょうじん)<br /><br />このお稲荷さまには面白い言い伝えがあります。<br />「その昔、大講堂周辺に狐の足跡がついているのを見つけた。僧たちが狐を探してみたがなかなか見つからない。数日後、「南無妙法蓮華経」とお題目を書いた木の葉が落ちているのが見つかった。更に何年かたって上人の入山式の酒盛があり、その日は無礼講とあって大酒盛となった。一人の僧が酔いつぶれてしまい動けなくなり、上人が尋ねると、その僧が正体を現してしまい、狐だったことがわかった次第。<br /><br />もともとこの狐は橋げた近くの穴に住んでいたが、毎日、学僧の唱える法華経の教えに感動し、勉強がしたくなり授業に出席するようになったそうだ。<br />その後、一生懸命になっていろいろな教えを身につけ、時々、学寮の僧たちに、法門を指南するまでになったそうだ。<br /><br />上人は法華経の奥義をきわめた努力に対して、僧に化けていたことを許し、大講堂の前庭の一角に祠をつくり、そこに住まわせたそうだ。」<br />

    その左手にある
    「古能葉稲荷大明神」(このはいなりだいみょうじん)

    このお稲荷さまには面白い言い伝えがあります。
    「その昔、大講堂周辺に狐の足跡がついているのを見つけた。僧たちが狐を探してみたがなかなか見つからない。数日後、「南無妙法蓮華経」とお題目を書いた木の葉が落ちているのが見つかった。更に何年かたって上人の入山式の酒盛があり、その日は無礼講とあって大酒盛となった。一人の僧が酔いつぶれてしまい動けなくなり、上人が尋ねると、その僧が正体を現してしまい、狐だったことがわかった次第。

    もともとこの狐は橋げた近くの穴に住んでいたが、毎日、学僧の唱える法華経の教えに感動し、勉強がしたくなり授業に出席するようになったそうだ。
    その後、一生懸命になっていろいろな教えを身につけ、時々、学寮の僧たちに、法門を指南するまでになったそうだ。

    上人は法華経の奥義をきわめた努力に対して、僧に化けていたことを許し、大講堂の前庭の一角に祠をつくり、そこに住まわせたそうだ。」

  • 右手にある「鼓楼」<br />享保5年(1720年)建立。<br />重要文化財。<br /><br />学僧を講堂に集めるためにここで太鼓を鳴らした。

    右手にある「鼓楼」
    享保5年(1720年)建立。
    重要文化財。

    学僧を講堂に集めるためにここで太鼓を鳴らした。

  • 左手にある「鐘楼」<br />重要文化財。<br />慶安3年(1650年)火災で焼失後、承応年代(1652~1654年)再建。

    左手にある「鐘楼」
    重要文化財。
    慶安3年(1650年)火災で焼失後、承応年代(1652~1654年)再建。

  • おりから枝垂桜がちらほら咲き始めていた。<br />他所よりいくぶん遅咲きのようだ。

    おりから枝垂桜がちらほら咲き始めていた。
    他所よりいくぶん遅咲きのようだ。

  • 「講堂」<br /><br />屋根は栩葺(とちぶき)<br />重要文化財としては県内最大のもの。<br /><br />学僧の増加とともに手狭になった為、慶安元年(1648年)「おまんの方」の寄進により再築。その後、慶安3年(1650年)の火災により焼失。慶安4年水戸藩の寄進によって再建されたものが現在の講堂。<br />何度かの修理により鉄板葺となっていたのを、平成9年から14年(1997~2002年)の半解体修理の際の調査で、かつての入母屋造の栩葺に戻された。

    「講堂」

    屋根は栩葺(とちぶき)
    重要文化財としては県内最大のもの。

    学僧の増加とともに手狭になった為、慶安元年(1648年)「おまんの方」の寄進により再築。その後、慶安3年(1650年)の火災により焼失。慶安4年水戸藩の寄進によって再建されたものが現在の講堂。
    何度かの修理により鉄板葺となっていたのを、平成9年から14年(1997~2002年)の半解体修理の際の調査で、かつての入母屋造の栩葺に戻された。

  • 以下は「飯高壇林物語」という小冊子によります。<br /><br />学籍簿にあたるのが「学徒帳」<br />開講期ごとにおよそ600人の僧の名前が記載されていたそうです。<br />開講期間は、第一期は2月1日から5月10日、第二期は8月1日から11月10日までのそれぞれ100日間で、休講期間はそれぞれ故郷に帰っていたそうです。<br /><br />600名の多くは寄宿生活で、寄宿先は所化(しょけ)部屋や小路(しょうじ)と呼ばれる衆寮に寄宿。亭和3年の記録で衆寮が59軒、所化部屋が125軒もあったとのこと。

    以下は「飯高壇林物語」という小冊子によります。

    学籍簿にあたるのが「学徒帳」
    開講期ごとにおよそ600人の僧の名前が記載されていたそうです。
    開講期間は、第一期は2月1日から5月10日、第二期は8月1日から11月10日までのそれぞれ100日間で、休講期間はそれぞれ故郷に帰っていたそうです。

    600名の多くは寄宿生活で、寄宿先は所化(しょけ)部屋や小路(しょうじ)と呼ばれる衆寮に寄宿。亭和3年の記録で衆寮が59軒、所化部屋が125軒もあったとのこと。

  • 初等教育課程は4部からなる下4部、そのうえの専門研究課程の4部を大部(たいぶ)と呼んだ。<br />壇林長である化主は、江戸時代中期までは在任期間に差異があったが、それ以降、開講期間にそれぞれ1人ずつ、1年に二人が就任していった。<br /><br />入学から全過程終了までには早くて13~15年、普通は20年を必要としたそうだ。<br /><br />ある程度生活に余裕のある家の子弟でないと、檀林での長期間の生活は、すべてが自己負担だったそうなので難しかったようだ。

    初等教育課程は4部からなる下4部、そのうえの専門研究課程の4部を大部(たいぶ)と呼んだ。
    壇林長である化主は、江戸時代中期までは在任期間に差異があったが、それ以降、開講期間にそれぞれ1人ずつ、1年に二人が就任していった。

    入学から全過程終了までには早くて13~15年、普通は20年を必要としたそうだ。

    ある程度生活に余裕のある家の子弟でないと、檀林での長期間の生活は、すべてが自己負担だったそうなので難しかったようだ。

  • 講堂前では<br />かつて「西郷どん」のロケ地ともなったそうです。

    講堂前では
    かつて「西郷どん」のロケ地ともなったそうです。

  • 北駐車場に車を停めると裏参道から<br />講堂の裏手に出るようになっている。<br />(前回1月の折りの訪問時)

    北駐車場に車を停めると裏参道から
    講堂の裏手に出るようになっている。
    (前回1月の折りの訪問時)

  • 講堂の裏手にある化主の住まいとなる<br />「庫裏」への入口

    講堂の裏手にある化主の住まいとなる
    「庫裏」への入口

  • 庫裏と講堂とは渡り廊下でつながっている。

    庫裏と講堂とは渡り廊下でつながっている。

  • 裏庭には牡丹園があるようだ。<br />

    裏庭には牡丹園があるようだ。

  • 講堂を横手からみる。

    講堂を横手からみる。

  • 再び講堂を背にして参道を見ている。<br /><br />同様に「飯高壇林物語」より<br /><br />23年間在壇したという木積村(現在の同市内)生まれで、池上本門寺25世となった「日顗」(にちぎ)の例による修学課程を以下に書きますが<br /><br />1681年生まれ、同村園実寺の日宣に10歳のとき弟子入り、1693年、本門寺付設の南谷(なんごく)壇林に入り、後、飯高寺学徒帳によれば、4年から学んでいるとある。<br />入壇から18年かかって、中座に昇格し3か年、三老を1か年、板頭(二老)を1か年、玄能を1か年、つまり執行部を6か年勤め、23年かかって退壇し、江戸浅草の寺院住職に就いたといいます。10数年して再び飯高壇林に戻り、第57代化主となり、亭保12年(1727年)池上25世にすすんだとされる。<br /><br />気の遠くなるような長い年月をここで学んだ僧は、在壇中に、全国の寺院からの招請によって、それぞれの在籍していたグループ毎の縁寺や出世寺へと進んでいったそうだ。

    再び講堂を背にして参道を見ている。

    同様に「飯高壇林物語」より

    23年間在壇したという木積村(現在の同市内)生まれで、池上本門寺25世となった「日顗」(にちぎ)の例による修学課程を以下に書きますが

    1681年生まれ、同村園実寺の日宣に10歳のとき弟子入り、1693年、本門寺付設の南谷(なんごく)壇林に入り、後、飯高寺学徒帳によれば、4年から学んでいるとある。
    入壇から18年かかって、中座に昇格し3か年、三老を1か年、板頭(二老)を1か年、玄能を1か年、つまり執行部を6か年勤め、23年かかって退壇し、江戸浅草の寺院住職に就いたといいます。10数年して再び飯高壇林に戻り、第57代化主となり、亭保12年(1727年)池上25世にすすんだとされる。

    気の遠くなるような長い年月をここで学んだ僧は、在壇中に、全国の寺院からの招請によって、それぞれの在籍していたグループ毎の縁寺や出世寺へと進んでいったそうだ。

  • 何故この地に最大規模、最上位の壇林が存在したのか、<br /><br />それは1692年、幕府の全国的な寺院本末帳の作成によって、寺院の上下階層組織が形成され、それによれば身延山久遠寺が日蓮宗寺院の最上位となり、その支配下となった飯高壇林・飯高寺は全国でも10余ある日蓮宗壇林の中で最上位の壇林となったそうだ。<br /><br />更にはお万の方など幕府の援助を受けたことも最大の要因として挙げられる

    何故この地に最大規模、最上位の壇林が存在したのか、

    それは1692年、幕府の全国的な寺院本末帳の作成によって、寺院の上下階層組織が形成され、それによれば身延山久遠寺が日蓮宗寺院の最上位となり、その支配下となった飯高壇林・飯高寺は全国でも10余ある日蓮宗壇林の中で最上位の壇林となったそうだ。

    更にはお万の方など幕府の援助を受けたことも最大の要因として挙げられる

  • 久遠寺と飯高壇林との関係は<br />第2代化主の日道が身延山十九世として入山したのに始まり、<br />明治7年、壇林が廃止された時、72世までのすべてが飯高壇林出身の化主が就任していることなどから明らかとなっている。<br /><br />そんなかつての勢いを誇っていた壇林だが<br />いまではひっそりと匝瑳の深い山の中に眠っているかのようだ。

    久遠寺と飯高壇林との関係は
    第2代化主の日道が身延山十九世として入山したのに始まり、
    明治7年、壇林が廃止された時、72世までのすべてが飯高壇林出身の化主が就任していることなどから明らかとなっている。

    そんなかつての勢いを誇っていた壇林だが
    いまではひっそりと匝瑳の深い山の中に眠っているかのようだ。

  • 壇林を後にして妙福寺、飯高神社のある森にやってきた。<br /><br />この地域にはモミとスダジイが群生しているそうだ。<br />他にタブノキ、ウラジロガシなども交じり<br />社寺林がつくられている。<br />やはり深い森となっている。<br /><br />

    壇林を後にして妙福寺、飯高神社のある森にやってきた。

    この地域にはモミとスダジイが群生しているそうだ。
    他にタブノキ、ウラジロガシなども交じり
    社寺林がつくられている。
    やはり深い森となっている。

  • 妙福寺は延慶3年進藤太縦空(しんどうたじゅうくう)が<br />守護神として妙見尊を祀り建立。<br /><br />本堂(写真は撮らなかった)には曼荼羅本尊 三幅が<br />所蔵されているそうだ。<br />(八日市場指定有形文化財となっている。)<br />この曼荼羅は、日蓮宗に限られたもので、図像化されたものでなく<br />文字によって表現されているようだ。<br />日祐・日伝・日生の三師によるもので、それぞれは<br />1358・1547・1590年に書かれたものだそうだ。<br />

    妙福寺は延慶3年進藤太縦空(しんどうたじゅうくう)が
    守護神として妙見尊を祀り建立。

    本堂(写真は撮らなかった)には曼荼羅本尊 三幅が
    所蔵されているそうだ。
    (八日市場指定有形文化財となっている。)
    この曼荼羅は、日蓮宗に限られたもので、図像化されたものでなく
    文字によって表現されているようだ。
    日祐・日伝・日生の三師によるもので、それぞれは
    1358・1547・1590年に書かれたものだそうだ。

  • 鐘楼

    鐘楼

  • 更に奥に進むと飯高神社の鳥居が見えてくる。<br /><br />明治に神仏分離がなされ、妙福寺より分けられた神社。<br />祭神は、御中主命(何てよむんでしょう?)を祀る。

    更に奥に進むと飯高神社の鳥居が見えてくる。

    明治に神仏分離がなされ、妙福寺より分けられた神社。
    祭神は、御中主命(何てよむんでしょう?)を祀る。

  • 長い年月の間にすり減り<br />波打つようになった石段を上がっていく。<br /><br />このところ鄙びたところの神社巡りをしていたので<br />結構ひっそりとした神社を歩く度胸がついてきたように思う。

    長い年月の間にすり減り
    波打つようになった石段を上がっていく。

    このところ鄙びたところの神社巡りをしていたので
    結構ひっそりとした神社を歩く度胸がついてきたように思う。

  • 飯高神社拝殿<br />建築年代は江戸時代後期と考えられている。<br />入母屋造り、銅板葺き。<br /><br />補強材が周囲にしっかりとされている。<br /><br />内部の天井には植物を描いた133枚の板絵がはめ込まれているそうだ。

    飯高神社拝殿
    建築年代は江戸時代後期と考えられている。
    入母屋造り、銅板葺き。

    補強材が周囲にしっかりとされている。

    内部の天井には植物を描いた133枚の板絵がはめ込まれているそうだ。

  • 正面の見事な龍の彫刻

    正面の見事な龍の彫刻

  • 木鼻(というらしい)の獅子?<br /><br />本来の木鼻は、切って捨ててしまう部材のようですが、<br />だんだん棟梁の腕の振るいどころとなり、別の木に彫刻を施して<br />貼り付けるようになったそうです。

    木鼻(というらしい)の獅子?

    本来の木鼻は、切って捨ててしまう部材のようですが、
    だんだん棟梁の腕の振るいどころとなり、別の木に彫刻を施して
    貼り付けるようになったそうです。

  • こちらの木鼻は獅子なのか?

    こちらの木鼻は獅子なのか?

  • 海老虹梁 (えびこうりょう)という名称の<br />弓形に曲がった部材。

    海老虹梁 (えびこうりょう)という名称の
    弓形に曲がった部材。

  • ぐるっと裏手に回っていくと本殿が見えてくるが、<br />その前に目を引くのは本殿を取り囲むように巡らされた<br />垣で、この垣は<br />「瑞垣」みずがき、あるいは「玉垣」と呼ばれる。<br />(八日市場市指定有形文化財)

    ぐるっと裏手に回っていくと本殿が見えてくるが、
    その前に目を引くのは本殿を取り囲むように巡らされた
    垣で、この垣は
    「瑞垣」みずがき、あるいは「玉垣」と呼ばれる。
    (八日市場市指定有形文化財)

  • 本殿は銅版葺、神明造

    本殿は銅版葺、神明造

  • 玉垣にも極彩色(かつては)の彫刻が施されている。<br />彫刻の内容は「二十四孝」というそうです。<br />中国の孝行者24人を著した教訓書であり、<br />日本では江戸時代に訳本も多く刊行されていたそうですが<br />その書にそっての彫刻が施されているようだ。<br /><br />所々に、図柄の説明書がぶら下げてあって<br />理解する為には更に勉強することが必要そう。<br />

    玉垣にも極彩色(かつては)の彫刻が施されている。
    彫刻の内容は「二十四孝」というそうです。
    中国の孝行者24人を著した教訓書であり、
    日本では江戸時代に訳本も多く刊行されていたそうですが
    その書にそっての彫刻が施されているようだ。

    所々に、図柄の説明書がぶら下げてあって
    理解する為には更に勉強することが必要そう。

  • 玉垣の戸が一か所開いていて、そこから<br />飯高神社本殿に入れた。<br />三間社流造という造りだそうだ。<br />(千葉県指定有形文化財)<br /><br />建築年代は「飯高村誌」によれば延亭4年(1747年)とあるそうだが<br />屋根銅版の墨書には宝暦8年と銘が入ったものもあり、特定できていない。<br /><br />

    玉垣の戸が一か所開いていて、そこから
    飯高神社本殿に入れた。
    三間社流造という造りだそうだ。
    (千葉県指定有形文化財)

    建築年代は「飯高村誌」によれば延亭4年(1747年)とあるそうだが
    屋根銅版の墨書には宝暦8年と銘が入ったものもあり、特定できていない。

  • 本殿全体が彫刻で飾られ、彫刻には彩色が施されている。<br /><br />江戸時代中期になると、関東の神社建築は規模が大きくなり、<br />彫刻による装飾が発展する。<br />このような特徴を先駆的に取り入れたこの本殿は、<br />建築史の上でも価値が高い貴重な建物だそうだ。

    本殿全体が彫刻で飾られ、彫刻には彩色が施されている。

    江戸時代中期になると、関東の神社建築は規模が大きくなり、
    彫刻による装飾が発展する。
    このような特徴を先駆的に取り入れたこの本殿は、
    建築史の上でも価値が高い貴重な建物だそうだ。

  • 本殿前の狛犬の足元に咲くスミレが可愛い。<br /><br />なんとなく未来型ロボットみたいな雰囲気。

    本殿前の狛犬の足元に咲くスミレが可愛い。

    なんとなく未来型ロボットみたいな雰囲気。

  • この神社では珍しく一組のご夫婦とすれ違った。<br /><br />当日は天候に恵まれ、飯高壇林の見学の方も多くおられたので<br />その方々のほんの一部の方がこの神社まで<br />足をのばされるのだと思います。

    この神社では珍しく一組のご夫婦とすれ違った。

    当日は天候に恵まれ、飯高壇林の見学の方も多くおられたので
    その方々のほんの一部の方がこの神社まで
    足をのばされるのだと思います。

  • 鳥居前にて。<br /><br />ここは長閑な田園風景と深い森が広がっている別世界。

    鳥居前にて。

    ここは長閑な田園風景と深い森が広がっている別世界。

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この旅行記へのコメント (10)

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  • マリアンヌさん 2021/04/21 11:58:33
    檀林
    mistralさん 再びおじゃまします。

    恥ずかしながら檀林って知りませんでした
    飯高檀林って日蓮由来の学問所だったのですね。
    それも飯高壇林・飯高寺は、身延山久遠寺に続くような全国でも10余ある日蓮宗壇林の中で最上位の壇林とは、すごい。
    子供の頃、家族で行川アイランドや鴨川シーワールドに来たことがあり、誕生寺に行ったことがあります。イタリア語の先生は創価学会で千葉に日蓮関係の史跡は多いなぁとは思っていました。身近な歴史散策、いいかもですね。
    mistralさんのようにきちんとは調べられそうもないですが、私風にミーハー的に(笑)

    マリアンヌ

    mistral

    mistralさん からの返信 2021/04/21 19:32:33
    RE: 檀林
    マリアンヌさん

    こちらにも有難うございます。

    > 恥ずかしながら檀林って知りませんでした。

    私もですよ。
    以前から、その存在には注目してましたが、最初にその言葉を聞いたときには、何それ?って感じでした。

    > 飯高檀林って日蓮由来の学問所だったのですね。
    > それも飯高壇林・飯高寺は、身延山久遠寺に続くような全国でも10余ある日蓮宗壇林の中で最上位の壇林とは、すごい。

    我が実家は真言宗ですが、檀林のあるあたり、九十九里沿岸は日蓮宗が多いようです。
    ほんとうに何もないような所なんですがね。それも都からも離れていますし。

    > 子供の頃、家族で行川アイランドや鴨川シーワールドに来たことがあり、誕生寺に行ったことがあります。イタリア語の先生は創価学会で千葉に日蓮関係の史跡は多いなぁとは思っていました。身近な歴史散策、いいかもですね。

    誕生寺、まさにそうですね。
    イタリア語の先生、もちろんイタリア人の方ですよね、が創価学会ですか。

    この時期でないと身近な地の探索にまでは、なかなか手が回らないですから、
    また近場だと取材もれの時は最チャレンジが出来るし、おすすめです。

    いつも有難うございます。

    mistral
  • 川岸 町子さん 2021/04/08 08:16:10
    匝瑳市
    mistral さん、おはようございます(^-^)

    関西の旅から帰ってきました。
    匝瑳市、なんだか不思議な文字に見えます。
    他であまり使われることないような文字。
    千葉には、私が正しい読み方出来ない地名いくつかありますね。

    日本全国には沢山の寺社があり、その中からロケ地を選ぶのでしょうが、まさにふさわしいお寺ですね。
    堂々と、静寂も感じられる佇まい。
    背の高い杉木が参拝者を迎え、引き込まれるようです。
    機会あれば、訪れてみたいと思います(^_-)
    町子

    mistral

    mistralさん からの返信 2021/04/08 21:54:53
    RE: 匝瑳市
    町子さん

    こんばんは。

    > 関西の旅から帰ってきました。

    旅から帰られお疲れではないですか?
    コメントまでありがとうございました。
    関西へ?折から大阪ではコロナ感染者数が急激に増大してますが、
    きっとその前にお帰りだった事でしょう。

    > 匝瑳市、なんだか不思議な文字に見えます。
    > 他であまり使われることないような文字。
    > 千葉には、私が正しい読み方出来ない地名いくつかありますね。

    匝瑳なんて普通、読めないですよね。
    そもそも漢字にこんな文字があるなんて!

    > 日本全国には沢山の寺社があり、その中からロケ地を選ぶのでしょうが、まさにふさわしいお寺ですね。
    > 堂々と、静寂も感じられる佇まい。
    > 背の高い杉木が参拝者を迎え、引き込まれるようです。

    ロケ地としては、比較的都心からもそう遠くないので、ある意味人気があるようです。
    今は無住のお寺ですので、そういう意味ではお寺の行事に左右されることもないですし。
    ここへ行く人は、参拝に行くのか?ちょっとわからなくなりました。
    多分ご本草はおられないかも、、、
    でも御朱印は駐車場でいただけるはずなんです。
    何て書いてあるのか?ちょっと興味がわいてきました。

    > 機会あれば、訪れてみたいと思います(^_-)

    千葉にいらっしゃる折にはご案内しますので是非お声をかけて下さいね。

    mistral
  • sanaboさん 2021/04/03 00:11:36
    「飯高檀林」
    mistralさん、こんばんは

    コロナ渦でも春爛漫の様相となり、やはり気分も上がりますね。
    今回の旅行記のタイトルを拝見した時、「檀林」と「匝瑳」という
    始めて目にする言葉が2つもあり、檀林とは何かの林なのかしらと
    思いましたが、僧侶の学問所のことだったのですね。
    匝瑳はmistralさんが通われてらした高校のお名前でもあったそうですけど
    当時、脇目も振らず寄り道もせずに通学してらした勉学熱心な文学少女の
    姿が目に浮かびました^^
    「日蓮宗 飯高寺」は由緒ある立派なお寺さんなのですね。
    樹齢200~300年の大木が物語っていますし、紀州家から
    寄進されたという熊野杉もたいそう立派だこと!
    檀林は数々のテレビ番組や映画のロケ地にもなったそうですね。
    私は観てなかったのですが「麒麟が来る」にも登場したと聞き
    親近感を覚える方も多いのではないでしょうか。
    『周辺に広がるスポットを巡る散策路の案内図』を拝見し
    思わず散策に出かけたくなりました♪
    スポットの解説に英語表記もあり感心しました。

    ここのところ感染の第4波が気がかりですね。
    引き続きご自愛の上、お過ごし下さいませ☆

    sanabo

    mistral

    mistralさん からの返信 2021/04/03 11:21:00
    RE: 「飯高檀林」
    sanaboさん

    こんにちは。
    いつも有難うございます。

    > コロナ渦でも春爛漫の様相となり、やはり気分も上がりますね。

    そうですね!
    桜が満開の下を歩く時、コロナ禍のことを忘れてしまいそうになります。

    > 今回の旅行記のタイトルを拝見した時、「檀林」と「匝瑳」という
    > 始めて目にする言葉が2つもあり、檀林とは何かの林なのかしらと
    > 思いましたが、僧侶の学問所のことだったのですね。

    そうだと思います。
    匝瑳という地名は私にとっては馴染みのあるものでしたが、
    檀林の存在は長いこと知らず、ましてや学問所とは思ってもみませんでした。

    > 匝瑳はmistralさんが通われてらした高校のお名前でもあったそうですけど
    > 当時、脇目も振らず寄り道もせずに通学してらした勉学熱心な文学少女の
    > 姿が目に浮かびました^^

    フフフ、そうですか?
    高校は一応は共学の進学校でしたが、年中行事には力が入っていて
    次々とやってくる諸々の行事を思いっきり謳歌した、楽しい高校生活を送りました。
    あれこれの歴史、関連文学に興味を持つようになったのは
    4トラに出会い、旅行記を書くようになってからかも知れません。
    そんな私が、最近では日本書紀?!万葉集?!なんて信じられないことです。
    年取ったせいかも(笑)

    > 「日蓮宗 飯高寺」は由緒ある立派なお寺さんなのですね。
    > 樹齢200?300年の大木が物語っていますし、紀州家から
    > 寄進されたという熊野杉もたいそう立派だこと!
    > 檀林は数々のテレビ番組や映画のロケ地にもなったそうですね。
    > 私は観てなかったのですが「麒麟が来る」にも登場したと聞き
    > 親近感を覚える方も多いのではないでしょうか。
    > 『周辺に広がるスポットを巡る散策路の案内図』を拝見し
    > 思わず散策に出かけたくなりました♪
    > スポットの解説に英語表記もあり感心しました。

    このコロナ禍がなかったなら、出会えなかったスポットたちです。
    遠くに出かけにくい分、今まで通り過ぎていた地元の地にも目が向き
    新たな発見がたくさんありました。
    コロナの思いがけない効果!でしょうか。

    > ここのところ感染の第4波が気がかりですね。
    > 引き続きご自愛の上、お過ごし下さいませ☆

    ありがとうございます。
    sanaboさんも!
    いつの日か(一体いつになるのやら。その折には旅行など無理な年になって
    しまいそう。) 旅立てる日まで、
    お互いに気をつけてすごしましょう。

    mistral

  • しにあの旅人さん 2021/04/01 16:57:58
    力作拝読
    我が家近くにも宮谷(みやさく)檀林というのがあったそうです。外房も茂原あたりは法華七里と言って法華宗が強く、他宗の托鉢には何も出さないという強硬派の根拠地でした。不受不施派というそうです。
    檀林がいくつもあったのですね。
    今でもこの辺りは日蓮宗の方が多いようです。我が家はよそものですが、現在では全くかつての面影はないようです。
    九十九里は北の方まで日蓮宗なのですね。
    地元旅行記もここまで本格的だと読み応えありました。

    mistral

    mistralさん からの返信 2021/04/01 21:15:09
    RE: 力作拝読
    しにあの旅人さん

    こんばんは。
    いつも有難うございます。

    > 我が家近くにも宮谷(みやさく)檀林というのがあったそうです。外房も茂原あたりは法華七里と言って法華宗が強く、他宗の托鉢には何も出さないという強硬派の根拠地でした。不受不施派というそうです。
    > 檀林がいくつもあったのですね。

    そうなんですか。
    八日市場にも更にもう一つの檀林があったようです。

    旅行記作成中、受布施派と不受布施派との対立の記述に出会いました。
    その折には今一つピンと来ていませんでしたが、しにあさんのコメントからやっとわかりました。
    1955年、家康さんが大阪城で二つの派の代表の討論会を催し、その後、江戸城でも対決させ、受布施派が打ち負かしたようです。結果、政治的に支配者側にとって都合の良い、受布施派の久遠寺が最上位の寺院へ、更に飯高檀林もトップの檀林に上り詰めた、と言うことが理解できました。

    > 今でもこの辺りは日蓮宗の方が多いようです。我が家はよそものですが、現在では全くかつての面影はないようです。
    > 九十九里は北の方まで日蓮宗なのですね。

    八日市場あたりは日蓮宗が多いと聞いたことがあります。そこから東には真言宗が混じり、
    因みに実家は真言宗です。

    > 地元旅行記もここまで本格的だと読み応えありました。

    ありがとうございます。
    今までも飯田檀林には興味を持っていたのですが、旅行記にする機会がありませんでした。
    今回コロナ禍の影響で、旅行記にする機会が作れましたのは思わぬコロナ効果?
    飯高神社にはちょっと驚きました。

    mistral
  • salsaladyさん 2021/03/31 22:17:32
    さすが歴史に詳しいmistral !
    ☆稲毛の浜編にチェックを有り難う!(先ほどご挨拶に伺った時はコメントが入らなくて、follow外れた?かと思って引き返しました)PCの調子かな?時々ログイン出来ないとはねられる事が。。。

    ☆千葉は奥が深いですね。こんな時代劇用のセットみたいな、江戸時代そのままの様な城址や櫓が普通に保存されている?(風雨にさらされてるとも言えるか?)

    ☆稲毛編は、お気に入りの場所が重複しないよう、脳天気に空ばかり撮ってました。

    ☆流山へもご縁が有ればいらっしゃれば、楽しいと思いますよ。手前味噌?~謝謝~

    mistral

    mistralさん からの返信 2021/03/31 22:56:42
    RE: さすが歴史に詳しいmistral !
    salsaladyさん

    こちらにもコメントをありがとうございます。

    > ☆稲毛の浜編にチェックを有り難う!(先ほどご挨拶に伺った時はコメントが入らなくて、follow外れた?かと思って引き返しました)PCの調子かな?時々ログイン出来ないとはねられる事が。。。

    そうなんですか。
    ログインが出来ない時があるんですか。
    私も、時々色々なことが起こります。
    一生懸命書いたコメントが、あっという間に消えてしまったり。
    こちらでfollowを外す?!なんて事は、決して致しておりません (笑)

    > ☆千葉は奥が深いですね。こんな時代劇用のセットみたいな、江戸時代そのままの様な城址や櫓が普通に保存されている?(風雨にさらされてるとも言えるか?)

    どちらかと言うと、風雨に晒されている、が当たっていると思います。
    映画、テレビの時代劇のロケにはおあつらえ向きの場所です。
    それでも、このコロナ禍の折だからこそ、思い切って行ってみて良かったです。

    > ☆稲毛編は、お気に入りの場所が重複しないよう、脳天気に空ばかり撮ってました。

    そんなお気遣いされていたんですか?!
    すみませんでした。
    重複しても、なんでも、多分salsalady さんがつくられる旅行記は、全く私のとは別ものに
    なったと想います。

    > ☆流山へもご縁が有ればいらっしゃれば、楽しいと思いますよ。手前味噌??謝謝?

    流山、行ってみたいです。
    コロナ禍がおさまったら遠征しようかしら。

    mistral

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