2020/11/05 - 2020/11/05
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chiaki-kさん
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スコットランド出身のトーマス・ブレーク・グラバー(1838年・アバディーンシャイア出身)は1859年9月に開港間もない長崎に「グラバー商会」を設立し、貿易業を営む。当初は生糸や茶の輸出を中心として扱ったが、幕末の混乱時には討幕派の藩、佐幕派の藩、幕府問わず、武器や弾薬も扱った。坂本龍馬の興した亀山社中とも取引を行う一方、薩摩藩・森有礼らの海外留学、長州藩・井上馨、伊藤博文らのイギリス渡航の手引きをしたり、大浦海岸において蒸気機関車(アイアン・デューク号)を走らせたりした。
武器の輸入販売はあくまでも副業であり、明治新政府が発足した後は本業に力を注ぎ、1866年には大規模な製茶工場を建設、1868年には肥前藩と契約して高島炭鉱(一部世界遺産)開発に着手、さらには、長崎の小菅に造船工場(世界遺産)を造ったりした。1885年以後は三菱財閥の相談役としても活躍し、経営危機に陥ったスプリング・バレー・ブルワリーの再建参画を岩崎弥太郎に勧めて、後の麒麟麦酒(現・キリンホールディングス)の基礎を築いた。
晩年は東京で過ごし、1908年には外国人として初めて勲二等旭日重光章を授与された。1911年に死去。墓は長崎市内の坂本国際墓地に、妻ツルとともに埋葬されており、息子の倉場富三郎夫妻の墓とは隣同士である。邸宅跡がグラバー園に残されており、今では世界遺産として登録され、多くの観光客で賑わっている。
表紙の写真はグラバー園にある旧リンガー邸の庭から眺めた長崎港。港を行く船の左後方にジャイアント・カンチレバークレーン(世界遺産)と、長崎のシンボル稲佐山が見える。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ショッピング
- 3.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 5万円 - 10万円
- 交通手段
- レンタカー 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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出島を後に3分ほど車で移動。大浦天主堂、グラバー園近くの市営松が枝町第2駐車場にレンタカーを駐める。写真右側の白い建物が駐車場、そして左側が・・・
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長崎チャンポン発祥の店として有名な中華料理店「四海樓」。但しこの時間(15時)は営業時間外で閉まっていた。昼飯をここで食べるプランもあったが、出島で食べて正解。
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普通なら大浦天主堂やグラバー園へ向かうグラバー通りを行くのだろうが、ここはちょっとへその曲がった管理人、裏道の松ヶ枝通りを歩き出す。写真は「大浦川沿いのまちなみ」を説明した看板だが、「松が枝」は昔は「下り松」と呼ばれていたそうだ。
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これが今の大浦川。どこかで見た風景だと思ったら、NHKで放送した「ブラタモリ」でタモリさん達が長靴に履き替えてハシゴで川へ降りていった場所。
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川の上には長崎電気軌道の路面電車の駅ができていた。
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高低差に敏感なタモリさんが気がついた盛り上がった路面の下には・・・
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橋があったのね。
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そしてこんな物が見えてきた。
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グラバースカイロードという名の斜行エレベーター。ソウルの南山にもあったね。
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坂の多い長崎の街を、足の弱い人でも楽に上がれるように市が設置してくれたもので、もちろん無料。
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長崎のニャンがお出迎え。
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スカイロードを降りた地点から眺めた長崎の街1
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スカイロードを降りた地点から眺めた長崎の街2
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イチオシ
スカイロードを降りた地点から眺めた長崎の街3
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スカイロードを降りた地点から眺めた長崎の街4
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さらに普通のエレベーターに乗り換えて一段と高くなった場所から眺めた長崎の街。
手前にある白い尖塔が「大浦天主堂」。左側の緑の尖塔は「マリア館大浦カトリック教会」。緑の大きな屋根を持つビルは「ANAクラウンプラザホテル長崎グラバーヒル」。そして、公園の向こうに見える気になるオレンジの玉は「ドラゴン・プロムナード」と名付けられた展望遊歩道にあるもので、遊歩道は龍を、玉はドラゴンボール!!!なんだそうですよ。 -
エレベータを降りて30秒! でグラバー園入口・第2ゲートへ。ほんまに楽ちんや~。入場料は大人520円。
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園内はこんな感じで、園内にもエスカレーターが何カ所か設置してある。では、上の方から下へ降りてゆこう。
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最初の建物は「旧三菱第2ドックハウス」
ドックハウスとは、船が修理などのためにドックに停泊している間、船員たちが宿泊するための施設。1896年に三菱造船所第二ドックの建造にともない、ドックの傍らに建築された。明治初期の典型的な洋風建築であるこの建物は、1972年に三菱造船より長崎市が寄贈を受けて現在地に移築復元されたもの。
あら、1Fベランダにいるお二人さんは・・・ -
結婚写真の前撮りのお二人でした。赤いウェディングドレスがすてきです。あまり近づくとこちらが恥ずかしいのでちょっと離れた場所からパチリ。
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ドックハウス前の庭園から眺めた長崎港。庭園には季節外れのバラが咲いていた。
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ドックハウス内ではちょうど「明治日本の産業革命遺産展」をやっていたので何枚かご紹介を。
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三菱重工業(株)長崎造船所にある「ジャイアント・カンチレバークレーン」(世界遺産)
1909年に竣工したスコットランド・アップルビー社製の大型電動クレーン。高さは約62m、アーム部分の長さ約75m、巨大なクレーンは、機械工場で作られたタービンや、船舶用プロペラといった製品や機材を吊り上げ・吊り下げし、船に積み込む役目を担っている。 -
軍艦島(世界遺産)
正式名は「端島」。日本海軍の戦艦「土佐」に似ていることから別名「軍艦島」とも呼ばれた。周囲1.2㎞、面積は約6.3haあり、南北に細長く長さ約480m、幅約160m海岸線は直線的で島全体が護岸堤防で覆われている。炭鉱で採炭される石炭は八幡製鐵所の製鉄用原料炭として供給し、日本の近代化を支え続けてきた。 -
最盛期の1960年には狭い島内に5267人もの人々が暮らしており、東京の9倍という脅威の人口密度だった。炭鉱労働者は所得も高く、大半の人が都会にも無かったコンクリートでできた高層マンションに暮らし、カラーテレビの普及率が平均10%時代に、この島では100%の人が所有しており、島には土地も無かったため土を購入しベランダで植物栽培をしたり、主婦の人気の習い事が生け花教室であったりと、水道や風呂、トイレ、炊事場以外は文化的な生活が営まれていた。
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その後エネルギーの主役は石炭から石油へと移り、戦後初めてのマイナス成長となった1974年1月15日に閉山となり、4月20日に全島民が島を離れ、その後は無人島になり、今日に至る。
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こんなスロープを下へ降ると・・・
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旧ウォーカー住宅
ウォーカー商会を設立したロバート・ニール・ウォーカーJrの旧邸。もとは大浦天主堂のそばに建てられ、移築された建物のほかに台所と和室もあった。ロバート・N・ウォーカーは、1874年に来日。1876年に日本政府より甲種船長の免許を受け、三菱系列の会社と日本郵船に勤務した。退社後、1898年に「R. N. ウォーカー商会」を設立し、海運業を中心とした貿易事業を幅広く展開、また、1904年には、「バンザイ清涼飲料工場」を開業、ジンジャーエールなどの大量生産に成功した。 -
この方です。
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リビングルーム 寝心地の良さそうな長椅子がある。
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ベランダからは長崎港が一望。
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旧リンガー住宅(外観・撮り忘れました)の案内板
グラバー商会に勤め、1868年にホーム・リンガー商会を設立したフレデリック・リンガーの旧邸。1966年6月、国の重要文化財に指定。リンガーは製茶業を手始めに製粉、石油備蓄、発電などの事業に幅広い活動を始め、明治、大正、昭和初期を通じウラジオストクなど海外各港との貿易事業、各国商社代理業務にたずさわった。居留地の英字新聞ナガサキプレスを刊行したり、捕鯨業やわが国初のトロール漁業、長崎市の上水道敷設、内外倶楽部の設立、そして大浦海岸通りに建設した「ナガサキ・ホテル」は、当時アジアの一流ホテルとして名を馳せた。 -
リビングルーム。 蓄音機がある。
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応接室
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暖炉飾りと置き時計。もう、どれくらいの時間を刻んだのだろう。
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オルゴール。どんな曲を聞いていたんだろう。
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イチオシ
庭園から眺めた長崎港。
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イチオシ
いいね
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ジャイアント・カンチレバークレーンも良く見える。
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旧グラバー住宅(看板を撮影)
長崎開港直後の1859年、グラバーは弱冠21歳で上海を経由して来日。ベテランの外国人商人たちの中にあって茶やその他の産物、武器・艦船などを取り扱う商人として仲間入りをする。やがて彼は、日本の再建と近代化に、外国人商人としての立場を超越した活躍を見せ始めた。それには日本の若い志士たちに国際的な目を開かせることが先決だとして、伊藤博文をはじめ数多くの若者の海外勉学の旅を斡旋している。こうして維新動乱前後に、多くの新時代の日本の指導者が続出したのは彼の努力に負う所が少なくない。
次にグラバーは、産業立国の大方針を以て、造船、炭鉱、水産、鉄鋼、造幣、ビール産業の分野を開拓した。1865年わが国の鉄道開通の7年も前に大浦海岸に蒸気機関車を試走さた。また、1868年(明治元年)には小菅町に近代式修舟場(造船所・世界遺産)を設け、1869年には高島炭坑(一部世界遺産)を開設するなど、日本の近代化に大きく貢献した。その後、グラバーの息子、倉場富三郎とその妻ワカは、1939年に三菱重工業株式会社長崎造船所(一部世界遺産)に売却するまでこの家を自宅として利用したが、1957年三菱造船株式会社・長崎造船所開設100周年記念として長崎市に寄贈され、翌年から一般公開された。
そして、2015年、「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」を構成する遺産の一つとして世界遺産に登録される。 -
そして現在のグラバー邸は・・・
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残念ながら絶賛・修復中。
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いまは、瓦を葺いているところ。
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トーマス・グラバーさんです。
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長崎港の見納め1
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長崎港の見納め2
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長崎港の見納め3
上からおりてきた場合、グラバー園からの出口は通常第1ゲートなのだが、グラバー邸の工事の関係で長崎伝統芸能館から退出。 -
イチオシ
大浦天主堂の正式名は日本二十六聖殉教者天主堂。その名のとおり日本二十六聖人に捧げられた教会堂で、殉教地である長崎市西坂に向けて建てられている。2018年に「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」を構成する文化財の1つとして世界遺産登録が決まった。
時間はすでに16:00過ぎ、これから島原まで走らなければならないので内部の見学はあきらめた。なお、入館料は大人1000円と、ちょっと、お高い。おまけに撮影禁止。 -
グラバー通りを中程まで下ったところに・・・
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こんな案内看板あり。ん?コルベ通りとな。
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大浦聖コルベ館という建物で入口はほとんどお土産屋風だが、こんな看板あり。
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マキシミリアノ・マリア・コルベ(1894年-1941年)は、ポーランドのカトリック司祭。アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所で餓死刑に選ばれた男性の身代わりとなったことで知られ、「アウシュビッツの聖者」と呼ばれる。カトリック教会の聖人で記念日は命日の8月14日。
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2016年6月に訪れたポーランド・アウシュビッツ強制収容所。
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元々はポーランド軍の兵舎だったが、ナチスが収容所に改装した建物が並ぶ。
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1941年7月末、収容所から脱走者が出たことで、無作為に選ばれる10人が餓死刑に処せられることになった。囚人たちは番号で呼ばれていったが、フランツェク・ガイオニチェクというポーランド人軍曹が「私には妻子がいる」と泣き叫びだした。この声を聞いたとき、そこにいたコルベは「私が彼の身代わりになります、私はカトリック司祭で妻も子もいませんから」と申し出た。所長のルドルフ・ヘスは、この申し出を許可し、コルベと9人の囚人が地下牢の餓死室に押し込められた。
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通常、餓死刑に処せられるとその牢内において受刑者たちは飢えと渇きによって錯乱状態で死ぬのが普通であったが、コルベは全く毅然としており、他の囚人を励ましていた。時折牢内の様子を見に来た通訳のブルーノ・ボルゴヴィツは、牢内から聞こえる祈りと歌声によって餓死室は聖堂のように感じられた、と証言している。
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2週間後、当局はコルベを含む4人はまだ息があったため、フェノールを注射して殺害した。
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1930年にコルベ神父は、他の2名の修道士とともに長崎に到着すると、長崎大司教区、大浦神学校で哲学を教えることを条件に大浦の仮修道院で日本語版の『無原罪の聖母の騎士』の出版を開始、さらに、聖母の騎士修道院を設立する。しかし1936年、ポーランドのニエポカラノフ修道院の院長に選ばれたため、故国に帰国した。
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1939年、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻、WW2が始まると、ユダヤ人やナチスに反抗的な者を次々と捕まえ始めた。コルベ神父はポーランド人だが、『無原罪の聖母の騎士』の内容がナチスに批判的だと解釈され1941年ゲシュタポにより逮捕される。
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上記のとおりポーランド兵の身代わりとなり餓死刑を宣告される。
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フェノールを打たれるコルベ神父。
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1982年10月、ポーランド出身の教皇ヨハネ・パウロ2世によって聖人に列せられた。 列聖式の場には、コルベに命を助けられたガイオニチェクの姿もあったそうだ。
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16:40 松が枝町第2駐車場を後に、市民病院前交差点を右折して、ながさき出島道路へ。長崎ICから長崎自動車道へ入り諫早ICから島原道路へ。島原道路はまだ全線開通していない為、諫早市内のR57の渋滞に巻き込まれてしまう。
18:00頃、1寸ずりのR57から、やっと雲仙グリーンロードに入り、遅れを取り戻そうと頑張るが、狭小な農免道路に加え、交通量が、そこそこあり、レンタカーのライトも暗いハロゲンランプという苦しい条件が重なり、なかなか挽回できない。
それでも「がまだすロード」になってからは道も広くなり、交通量も減ってきたので、今夜の宿「東洋九十九(つくも)ベイホテル」に、なんとか18:40に到着する。予定より40分遅れてしまったが、自分に頑張ったねと、ご褒美をあげたい。ホテルの口コミは↓をご覧ください。
https://4travel.jp/dm_hotel_tips_each-14199431.html
これで「2020年 長崎・熊本・福岡旅行記3:長崎2」は終了です。本日も最後まで、ご覧いただき、ありがとうございます。
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