2020/11/04 - 2020/11/04
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chiaki-kさん
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戦後歌謡のヒット曲「長崎の鐘」は、サトウハチロー作詞、小関裕而作曲の名曲だが、曲の基になったのは1949年1月に出版された同じタイトルの小説で、カトリック教徒であった医学博士・永井隆氏が書いた被爆体験記。
内容は、長崎医科大学助教授だった永井氏が爆心地に近い同大学で被爆、頭に傷を負いながら被爆者の救護活動に当たる様を記録したもの。被爆時に大学をはじめとする長崎の都市が完全に破壊された様子や、火傷を負いながら死んでゆく同僚や市民たちの様子を克明に描いている。
小説に登場する「長崎の鐘」とは、破壊された浦上天主堂の近くから発見された「アンジェラスの鐘」のことで、1945年のクリスマスイブに天主堂の庭で久しぶり(戦時中は鳴らせなかったので)に鳴らすことが出来た。永井隆氏は、その鐘の音を聞いて、”新しき 朝の光さしそむる 荒野に響け 長崎の鐘”と句を詠んだそうです。
表紙の写真は平和公園から撮影した浦上天主堂。長崎の鐘の音は、今でもこの鐘楼から浦上の街に流れている。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- グルメ
- 4.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 5万円 - 10万円
- 交通手段
- レンタカー 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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南風崎(はえのさき)を後に、右手に大村湾を眺めながらR205を南下。東そのぎICから長崎自動車道に入り、長崎多良見JCを右折して長崎市内に入る。写真はレンタカーのスイフトを駐めた長崎平和公園前の民間駐車場。平日なのですんなり駐められた。
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平和公園は後回しにして、最初の見学は「爆心地公園」から。
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「長崎原子爆弾落下中心地碑」。1945年8月9日11時2分に、この上空約500mで原子爆弾が炸裂した。
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爆心地から北東約500mにあった浦上天主堂は、丁度、儀式を行っていたが、司祭と信徒もろとも爆風で崩れ落ちた建物の下敷きになり全員が死亡する。写真は崩れ落ちた天主堂の惨状。
広島の原爆ドームのようにこのまま保存しようとする動きもあったが、当時の市長の判断で取り壊され、同じ場所に新しい天主堂が再建された。 -
わずかに残った壁の一部が公園の一角に移築されていた。
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UPです
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続いて訪れたのは長崎原爆資料館。
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入館すると、時計の針を巻き戻すような、下りの螺旋スロープがある。
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スロープを下って行くとこの時計にたどり着く。時計は1945年8月9日11時02分を指している。
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1945年8月7日に米軍が撮影した長崎市の航空写真。度重なる空襲で、敵機に慣れてしまったこともあり、反撃らしい反撃の無い日本上空を、このように米軍の偵察機は、自由に飛行できたようだ。
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そして、2日後、テニアン島を飛び立ったB-29爆撃機・ボックスカーは最初の目標地点である小倉市へ向かうが、前日にアメリカ軍が行った、八幡市空襲(八幡・小倉間の距離はおよそ7km)の残煙のため目標が目視できず、やむを得ず目標を長崎市へ変更する。
小倉市の爆撃に失敗したボックスカーの燃料は残り少なくなり、爆撃に失敗した場合、太平洋に原爆を投棄せねばならなかったが、厚い雲の隙間から不運にも長崎の街が姿を現してしまった。 -
長崎に投下された原爆はプルトニウムを使用する原子爆弾で通称「ファットマン」。TNT火薬換算で22,000t相当の破壊力があり、広島に投下された原爆「リトルボーイ」の1.5倍の威力であった。
仮に最初の標的であった小倉市に投下されていた場合、関門海峡が丸ごと被爆し、小倉市および隣接する戸畑市、若松市、八幡市、門司市、即ち現在の北九州市一帯と下関市まで被害は広がり、死傷者は広島よりも多くなっていたのではないかと推測されている。 -
原爆の熱線、爆風、そして火災により焼け野原となった浦上地区。写真を拡大していただくと解るが、浦上地区には国民学校、盲学校、長崎医科大学、長崎刑務所、そしてカトリック教会など、およそ戦争とは結びつかない平和な地区だった。
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秒速360mという爆風により根元から折れ曲がった火の見櫓。
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再現された浦上天主堂の惨状。聖像は熱線と炎により黒く変色し、石柱はずれが生じている。
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原爆の投下により、当時の長崎市の人口24万人(推定)のうち約7万4千人が死亡し、建物は約36%が全焼または全半壊した。写真パネルはその惨状を記録したもので、手前の資料は溶解したビン、黒焦げになった弁当箱、そして各種の什器などが展示してあった。
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小説「長崎の鐘」を執筆した永井隆氏の写真もあった。
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原爆資料館を後に、次にむかったのはお馴染みの平和公園。ここを訪れる人の高齢化対策か、階段の隣にエスカレーターが設置されている。
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エスカレーターを降りた地点にあるのは、平和の泉と呼ばれる噴水。
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そして、噴水の向こうにに平和祈念像が見える。
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広場への通りの左右には平和モニュメントなどが並ぶ。
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この鐘は、1977年(被爆から33回忌にあたる)に造られた、長崎の軍需工場で働いていて亡くなった人々の慰霊のためのモニュメントで、鐘は「アンジェラスの鐘」に似せて造られたという。
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この丘には長崎刑務所浦上支所があり、職員、収容者併せて134人全員が熱線や爆風で即死した。
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刑務所の基礎部分だけが証人として残っている。
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この平和祈念像は、1955年の被爆10周年に向けた記念行事の一貫として長崎市が建設を計画し、1951年に着工、1955年の8月8日に完成した。作者は長崎県・南島原市生まれの彫刻家、北村西望氏。
像は高さ9.7m、重さ約30tの青銅製で、像の柔和な顔は、神の愛と仏の慈悲を、天に向けて垂直に高く掲げた右手は原爆の脅威を、水平に伸ばした左手は平和を、横にした右足は原爆投下直後の長崎市の静けさを、立てた左足は救った命を表し、軽く閉じた目は戦争犠牲者の冥福を祈っているそうだ。
なお、この像は2000年に作者遺族の了解を得て修復保存工事が行われている。 -
像の周囲は、黒い御影石に滝のように水が流れ落ちているが、ひょっとしてNYにあるグランドゼロはこれをヒントにしたのかも知れない。
なお、設立当時から現在でも、「西洋の原爆という究極的武力の被災地」としては、「屈強な西洋的男子を象徴するような像は平和記念碑にふさわしいのか」という議論もあるそうだ。 -
当時の長崎市長・田川 務 氏の平和祈念像建立の言葉が台座にはめ込まれていた。
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こちらは像の制作者・北村西望氏の言葉。
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像の後ろ側に「天主堂の見える丘」が、あったので行ってみた。
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イチオシ
1959年、同じ場所に再建された浦上天主堂だが、建物・信徒数ともに日本最大のカトリック教会。1981年2月25日に訪日中のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が当教会を訪れ、ミサを捧げた。
天主堂へは時間があれば行って見たかったが、この後2カ所も予定した場所があるので、残念ながらPassする。 -
13:00 広場は昼食を終えた修学旅行の生徒達で大盛況に。なお、後ろに聳えている山は長崎のシンボル稲佐山。
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像の後ろ姿を撮影して平和公園を後にした。
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浦上川沿いの県道112号線を15分ほど南下し、近くの駐車場にスイフトを駐め、やってきたのは出島和蘭陀(オランダ)商館跡。
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新地に近い東ゲートから入場。入場料金は520円(大人1名)。ちなみにこの建物は旧出島神学校。
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いきなりナインチェ(ミッフィー)がお出迎え。
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旧長崎内外倶楽部は、1903年、長崎に在留する外国人と日本人の親交の場として建てられた。1階は長崎の食をテーマにしたレストラン、2階は居留地時代の展示を行っている。
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時刻は13時を回り、腹の虫が鳴きだしたので、ここで昼食。店内はこんな感じで、平日ということもありガラガラ。
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注文したのは長崎出島ビーフライス・オランダ風。1950円とちょっとお高いが、牛肉がホロホロで、バターで炒めた出島の形をしたライスもおいしかった。
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お腹も満たされたので、見学開始。これは出島のメインストリート(と、いうかこれしか無い)。着物姿で、そぞろ歩きするのはインバウンドさんだけでは無いのね。
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江戸時代には唯一の出入口がこの表門。ここに詰めていた探番(さぐりばん)が出入りする人を改めていた。
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旧石倉(左側の建物)は幕末の商社の石倉。
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水門は西洋と日本の文化・学術・貿易品が最初に出入りした象徴的な建物。2つの通り口のうち南側は輸入用、北側は輸出用に使われていた。
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イチオシ
右手の建物が一番船頭部屋。オランダ船(一番船)船長や商館員の居宅として使用されていた建物。ちなみに船員は丘に上がれずに船で暮らしていたらしい。
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2階に上がるとテーブルなどを展示し、当時の居室を再現している。
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ベッドが小さいので当時のオランダ人は小さかったと間違える方が多いようだが、当時の寝姿は水平では無く、クッションに寄りかかり、上半身を起こして寝ていたから。
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右手2番目の青い階段がある建物がカピタン部屋。オランダ商館長(カピタン)の事務所や住居として使用されていた出島で最も大きな建物。日本の役人や大名などが出島を訪れたときに、接待の場所としても使われていた。
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今日はお客を招いて宴会らしい。
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豚の頭焼きは中華料理の定番。
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当時の宴会の様子にCG合成したお役人が入っているビデオを鑑賞。おや、芸者さんも呼ばれたのね。ちなみに色黒の給仕達はインドネシア人か、マレーシア人らしい。
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商館員たちは1日2回、カピタン部屋の2階で食事をしていたが、その食事を作っていたところが、この料理部屋。写真は料理部屋の中だが、ここでも豚の頭を発見。
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最後に出島のミニチュアを見て、出島見学は終了~。
1636年(寛永13年)に築造された出島は、1859年(安政6年)オランダ商館が閉鎖される218年間に渡り、わが国で唯一西欧に開かれた窓として日本の近代化に大きな役割を果たしてきたが、最後に出島の歴史を年表形式でスタディ。
1543年 ポルトガル人、種子島に漂着、鉄砲伝来
1549年 フランシスコ・ザビエル、鹿児島に上陸。キリスト教を伝える
1571年 ポルトガル船、長崎入港・長崎開港
1590年 秀吉、全国統一
1597年 26聖人殉教事件
1600年 関ヶ原の戦い、オランダ船リーフデ号、豊後に漂着
1602年 オランダ東インド会社設立
1603年 徳川家康、江戸幕府を開く
1609年 オランダ、平戸商館を設置
1616年 中国船以外の貿易を平戸・長崎に限る
1635年 唐船の入港を長崎港に限定、日本人の海外渡航、
海外在住日本人の帰国全面禁止、
1636年 出島完成、ポルトガル人を出島に収容
1637年 島原・天草一揆(~1638)
1639年 ポルトガル人の来航禁止
1641年 平戸オランダ商館、長崎出島に移転、鎖国体制完成
そして時代は流れて幕末となり・・・
1853年 ペリー浦賀に来航、翌年、日英和親条約を長崎で調印
(長崎・函館を開港)、日本開国
1859年 出島の和蘭商館廃止、領事館設置
1904年 第2期港湾改良工事完成(出島姿消す)
さらに時代は流れて・・・
1994年 都市計画事業認可を受ける、出島史跡整備審議会を設置
1996年 審議会の答申を得て、復元整備事業に着手
2000年~2017年 ヘトル部屋ほか4棟、カピタン部屋ほか4棟、
乙名詰所ほか5棟、出島表門橋を架橋
公式HP・出島~Dejima~参照 -
そして2020年現在も復元工事は続いている。
長くなりましたので、これで「2020年 長崎・熊本・福岡旅行記2:長崎1」は終了です。本日も最後までご覧いただき、ありがとうございます。
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この旅行記へのコメント (4)
-
- ねんきん老人さん 2021/10/26 10:23:19
- 多くを学ばせていただきました。
- chiaki-k さん、こんにちは。
長崎の旅行記、感銘を受けました。 単なる旅行記や食レポではなく、長崎の歴史、とりわけ原爆被害について細かな考察を展開されている内容に敬服しながら拝読しました。
長崎には何度か行っており、この5月にも行ってはいるのですが、chiaki-kさんの旅行記に接して、自分が多くを見落としていることを痛感しました。 また、同じ見聞でも、視点が違えば見えてくるものも違うのだということを感じました。 己の浅く薄っぺらな見聞が悔やまれるばかりです。
かくなる上は、もう一度長崎に行き、自分が見落としていたものをじっくり見てきたいものだと思っています。 歳と経済を考えると実際には難しいのですが、自分の長崎理解があまりにもお粗末だということが分かりましたので、このままでは心残りです。
ある意味では「心残り」があるということは次へのエネルギー源でもありますので、己に活を入れることにもなりました。
貴重な刺激をありがとうございました。
ねんきん老人
- chiaki-kさん からの返信 2021/10/26 16:07:42
- お褒めの言葉をありがとうございます
- ・
ねんきん老人さん、こんにちは。長崎旅行記に”いいね”と、身に
余るお褒めの言葉をいただき、ありがとうございます。
一般的な旅行記や食レポ中心的な旅行記も、肩に力が入らず読める
ので悪くないと思いますが、生来の歴史好きな性格が災い?して、
私の旅行記は大体こんな感じになってしまいます。
せっかく貴重な時間と大金?を費やして行くわけですから、そこに
あるもの、過去にあったもの、そして未来はどうなるか、など思い
をめぐらせ、可能な限り事前情報を収集するのも、また楽しいもの
です。
ちなみにレンタカーの場合、私はカーナビは使いません。事前に
GooglemapやGoogleストリートビューなどでコースは、ほぼ頭の
中に入っています。Googleでは解らない立体交差や坂道などで迷っ
たときは第六感をフルに活用して行動しています。
家に帰ってからも大変で、1日当たり多い時は500枚近く撮影した写真
の整理から始まり、旅行記の構想、使えそうな記事の選定、そして
プロローグやエピローグの作成など、老化防止に役立つことばかり
です。(^^;;
> ある意味では「心残り」があるということは次へのエネルギー源
でもあります・・・
良い言葉ですね。私も同様に世界中「心残り」だらけです。しかし、
時間には限りがありますので、これからは取捨選択の時代になるの
かな、なんて思っています。
では、また。
chiaki-k
-
- kiju-jiさん 2021/05/01 16:47:27
- chiaki-kさん。今日は。kiju-jiといいます。
- 我が故郷に来られて有難う。私は3歳の時に長崎市に隣接した長与村(現長与町)で被爆しました。あってはならない悲劇です。
私のブログ・ドイツの魅力13日間旅行記のポツダム篇に少し原爆について書いています。暇な時に読んでいただければ幸いです。ではまた。イイネを有難う。
- chiaki-kさん からの返信 2021/05/01 22:42:58
- はじめまして
- ・
kiju-jiさん、はじめまして。長崎旅行記に”いいね”をありがとう
ございます。
ご紹介のあった「ドイツの魅力13日間旅行記?ドレスデンからポツ
ダムのツェツィリーエンホーフ宮殿の観光」編、再度拝見いたしまし
た。
偶然ですが、kiju-jiさんがポツダムに行かれた2014年10月の、およ
そ1年前に私もポツダムを訪れ、ツェツィリーエンホーフ宮殿も見学
いたしました。
https://4travel.jp/travelogue/10829122
kijyu-jiさんも書かれていますが、ニューメキシコ州アラモゴード
のホワイトサンズ射爆場において人類史上初の核実験が実施されまし
たが、この実験は砂漠に設置された地上実験だったので、もっとも
効率の良い地上500m、しかも人間の住む町の上での実験結果がほしか
ったのでは、と私は推測しています。
また、スターリンとの密約によりソ連が日本に参戦した訳ですが、
一日でも早く戦争を終わらせて、新たなる敵、ソ連との競争に勝ちた
い目的もあったかと考えられます。
唯一、救いがあるとすれば、この尊い犠牲で終戦がやっと迎えられ、
これ以上の戦争犠牲者を出さなくてすんだことかと思います。
では、また。
chiaki-k
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