2020/10/13 - 2020/10/13
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この旅行記のスケジュール
2020/10/13
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長崎市原子爆弾無縁死没者追悼祈念堂
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爆心地
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令和2年4月スタートの朝ドラ「エール」。10月16日の放送分から物語は戦後編に突入する。以前チラ見した予告編には名曲「長崎の鐘」作曲のエピソードがあったような気がする。
そこで「長崎の鐘」の舞台になった長崎市へ『予習』しに行くことにした。
わずかニ泊の短い滞在であったが、手応えは十分であった。
(2020.10.13旅行記の作成開始)
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二日目。
いつも通り午前5時にホテルで目を覚ます。昨日の夕食がまだもたれていたので朝食はごく軽めにした。
いつもの私と比べると今日は観光に気合が入っている。午前9時過ぎにホテルを出発し、路面電車に乗って大橋駅へ向かう。 -
今日はこれから原爆関係の資料館や原爆遺跡を次々と訪れる予定である。
電車を下りて道路を渡った先に早速解説板を見つけた。
当時の長崎電気軌道大橋営業所は原爆投下で甚大な被害を被った。
https://nagasakipeace.jp/japanese/atomic/record/gallery/ohashi_dentei.html -
交通量の多い国道206号に交わる「サントス通り」沿いに歩いて行く。
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09時50分長崎市永井隆記念館に到着した。
如己堂 永井隆記念館 美術館・博物館
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エントランスのコンクリートの壁に特別展示の案内ポスターが貼られている。
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玄関を入った正面の壁には福島市の古関裕而記念館のポスター。
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小さな展示室の壁沿いに常設展示。永井隆博士の業績と戦後の著作活動についての内容が中心である。
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ウィキペディアより
【永井 隆(ながい たかし、1908年(明治41年)2月3日 - 1951年(昭和26年)5月1日)は、日本の医学博士、随筆家。『長崎の鐘』や『この子を残して』等の著書がある。】 -
展示室の一角をパネルで仕切って特別展示「長崎の鐘」のコーナーがある。
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ウィキペディアより
【『長崎の鐘』は、永井隆が執筆した随筆。
内容は、長崎医科大学(現長崎大学医学部)助教授だった永井が原爆爆心地に近い同大学で被爆した時の状況と、右側頭動脈切断の重症を負いながら被爆者の救護活動に当たる様を記録したもの。
被爆時に大学をはじめとする長崎の都市が完全に破壊された様子、火傷を負いながら死んでゆく同僚や市民たちの様子を克明に描いている。
永井は、この時妻を亡くした。また、救護の際には、頭部の重症と疲労から自らも危篤状態におちいるが、同僚医師や看護婦たちの努力により一命を取り留める。
「長崎の鐘」とは、廃墟となった浦上天主堂の煉瓦の中から、壊れずに掘り出された鐘のこと。】 -
永井隆著「長崎の鐘」初版本。
博士の著作の題は戦前から浦上天主堂の鐘楼にあった二つの鐘「アンジェラス(英エンジェル)の鐘」に由来する。
毎日決められた時刻に鳴らされ、その音色は浦上地区におけるカトリック信仰を象徴するものであった。 -
原爆で浦上天主堂は全壊。アンジェラスの鐘のあった鐘楼も崩れ落ちた。
大小二つの鐘のうち小さい方の鐘は大破した。現在その一部がここ(次の写真)と浦上天主堂の信徒会館に展示されている。後者をこの後見学した。
大きい方の鐘は奇跡的に壊れないまま瓦礫の中から発見された(上の写真)。 -
破壊された小さい方の鐘の破片。
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浦上天主堂の再建にはかなりの時間を要したが、昭和20年の暮に掘り出された大きい方の鐘が仮設の鐘楼に吊り下げられ、浦上の焼け野原に再びその音を響かせた。
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奇跡的に無傷で発見された大きい方のアンジェラスの鐘。
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永井博士の著作(上の写真)で言及されて有名になったこの鐘は、平和への思いとともに長崎の復興のシンボルとなった。
現在も一日三回、05時30分、12時00分、18時00分に浦上天主堂の鐘楼で時を告げている。 -
永井博士の著作「長崎の鐘」は1949年(昭和24年)1月に日比谷出版社から出版され、紙不足の当時としては空前のベストセラーとなった。
同年7月にサトウハチロー作詞・古関裕而作曲で同書をモチーフとした歌謡曲が発売されて大ヒットし(上の写真)。 -
長崎の鐘をモチーフにした曲を作ることを最初に提案したのは永井博士自身であったという。
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作曲した古関裕而氏宛の永井博士の書簡。
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2012年の新聞記事。
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歌謡曲「長崎の鐘」が大ヒットした翌1950年(昭和25年)には松竹により映画化された。
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古関裕而氏の直筆色紙。
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常設展示コーナーの片隅に映像上映のコーナーがある。ニ本の短いビデオプログラムを視聴することができる。
長崎を訪れたならば、多くの人にこの永井隆記念館に足を運んで永井博士の生涯を知って欲しいと思う。
私は映像を見ているうちに身体の内から熱いものがこみ上げてきた。 -
記念館の敷地内に博士が晩年を過ごした「如己(にょこ)堂」が当時のままの姿で建っている。
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晩年の永井隆氏。二人のお子さんとともに。
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永井隆記念館から中国の駐長崎総領事館の前を通るゆるい坂道をしばらく歩いて行くと、浦上天主堂が見えてきた。
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修学旅行のバスが何台も連なって浦上天主堂の方へ向かってくる。 この後訪れた原爆資料館でも小学校や中学校の生徒を多く見かけた。
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浦上天主堂へ行く手前で左に曲がり川沿いにある「浦上天主堂旧鐘楼」を敷地の外側から眺める。
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もう一つの長崎の鐘(二つあったアンジェラスの鐘のうち大きい方)を納めていた鐘楼が原爆の爆風で吹き飛ばされて下へ落ちた。
それをそのまま保存してある。コンクリート製の頑丈そうな遺構である。 観察すると金属製の鐘の破片は撤去されているようである。浦上天主堂旧鐘楼 (アンジェラスの鐘) 名所・史跡
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天主堂に上がる階段の途中で脇へ入っていくと旧鐘楼の遺構を上から眺めることができる。
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上から見るとこんな感じである。解説がないと何だかよくわからないと思う。
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解説板の一部。
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おそらく大きい方のアンジェラスの鐘の写真だと思われる。(永井隆記念館の展示)
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坂を上ったところに浦上天主堂が建っている。
天主堂の中へ無料で入ることができるが、残念ながら撮影禁止である。浦上天主堂 寺・神社・教会
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原爆で破壊される前の浦上天主堂は「東洋一の教会」と称された。
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原爆投下から約二か月後の浦上天主堂。
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戦前の天主堂にも左右二つの鐘楼があった。左側に大きい方の鐘、右側に小さい方の鐘が設置されていたようだ。
原爆によって破壊されなかった小さい方の鐘はおそらく元と同じ右側の鐘楼に設置されているのであろう。このとき誰かに確認をすればよかったと今になって思う。
ちなみに、この後平和公園にいる時12時の鐘の音を聞くことができた。感無量であった。 -
私はこの浦上天主堂を30年以上前に一度訪れているのだが、現在の天主堂の手前にあるこの遺構については記憶がない。
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首が無くなった聖像が静かに佇んでいる。
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天主堂の前の坂を下りる途中の左側に信徒館が建っている。
事前に調べて、この中に破損したアンジェラスの鐘の大きい方の一部が保管されていることを把握していた。(永井隆記念館でも小さな破片が展示されていた。) -
原爆で倒壊した旧浦上天主堂のさまざまな遺物が展示されている。
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ガラスで仕切られた奥にアンジェラスの鐘がある。
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もう一つの長崎の鐘。永井隆記念館の展示を見てきたのでひときわ感慨深い。
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別の方向から。
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浦上天主堂へ到る正門。この後平和公園と原爆資料館へ向かう。
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案内の地図。観光スポットの位置関係がよく分かる。
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平和公園を訪れるのは初めてである。修学旅行の小学生たちが記念撮影をしていた。
平和公園 公園・植物園
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平和祈念像(1955年建立)とニ羽の鳩。
平和公園 公園・植物園
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平和公園の一角にある「長崎の鐘」。
現在の浦上天主堂の鐘楼に戻された「アンジェラスの鐘」(原爆による破壊を免れた小さい方の鐘)よりもこちらの方が有名になっている。平和公園 公園・植物園
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私も柄杓を手にして花に水をかけさせてもらった。
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現在の平和公園がかつての刑務所の跡地であることを初めて知った。
原爆によって職員と受刑者など134名全員が即死とある。長崎刑務所浦上刑務支所跡 名所・史跡
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刑務所の壁の一部が残されている。
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公園から車道を挟んで外側に建つ「長崎市原子爆弾無縁死没者追悼祈念堂」。
修学旅行生などはここを訪れることはないようだ。 -
昼食は原爆資料館へ向かう途中に見つけた小さな食堂で皿うどんを食べた。あまり美味しくなかった。
長崎県内にはちゃんぽんや皿うどんを出す店が数多くあるが、味にかなりの格差があると考えられる。 -
長崎原爆資料館。元あった長崎国際文化会館を建て替えて1996年に開館した。
私が以前一度見学したのは建て替え前の原爆資料館であった。その時の記憶はまったく残っていない。
小学生の団体がちょうど自分の前後にいた。学習ノートのようなものに各自が一所懸命書き込みをしている。長崎原爆資料館 美術館・博物館
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長崎に投下されたプルトニウム型原子爆弾「ファットマン(太っちょ)」の原寸大レプリカ。迫力がある。
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原爆が投下された11時02分で停止している時計。
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永井隆博士に関する展示。
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若い頃の肖像と揮毫「平和を」「如己愛人」。
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今日最初に訪れた永井隆記念館の展示と重複しているが、博士の生涯と業績を要領よく紹介している。
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資料館を出てすぐ近くの爆心地公園へ(写真は爆心地に立つ石柱)。
ここまでの見学ですでにヘロヘロである。朝から天気がよく10月とは思えないくらい気温が高い。爆心地 名所・史跡
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現在の浦上天主堂が建てられる際、遺構の一部がここに移された。てっぺんに立っているのはフランシスコ・ザビエルと使徒。
平和公園 公園・植物園
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最後のスポットへ行く途中に出会った猫。
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車道から長崎大学医学部の方向へ少し階段を上ったところに山王神社二の鳥居が建っている。片側を原爆で吹き飛ばされた有名な遺構である。
山王神社二の鳥居(一本柱鳥居) 名所・史跡
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吹き飛ばされた部分の破片が近くに並べられている。
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さらに階段を上っていくと山王神社がある。
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境内の入り口に立つ日本のクスノキの巨木。原爆によって上の方の枝が吹き飛ばされ、かつ根本近くの幹には大きな穴が開き石などがその中にたくさん入っていた。
山王神社の大クス 名所・史跡
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木の寿命を伸ばすための修復が行われた。
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解説板。
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電停「浦上駅前」まで歩いて市電に乗って帰った。
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夜は中華料理屋で定食を食べた。
昨日新地中華街で最初に入ろうとした店の系列である。 -
店の入口で夜定食のメニューを見て惹かれた。あまり美味しくなかった。とほほ。
【了】
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朝ドラ「エール」ゆかりの地を訪ねて
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