2017/05/20 - 2017/05/20
347位(同エリア419件中)
オータムリーフさん
- オータムリーフさんTOP
- 旅行記104冊
- クチコミ157件
- Q&A回答43件
- 198,297アクセス
- フォロワー16人
その⑦旧奥州街道一人歩き9回目第7日、最終日で今日龍飛岬に到着する予定の旅行記です。
浅田次郎さんの小説「流人道中記」を読みました。この小説は、名のある旗本で罪人となった青山玄藩が蝦夷松前藩に預かりとなり、それを護送する江戸の与力見習いで押送人・石川乙次郎が奥州街道を下り、津軽の三厩(みんまや)まで歩いた物語です。この小説に触発されて、2017年に歩いた旧奥州街道一人旅の旅行記を書いてみる気になりました。
高野碕~最終目的地の龍飛岬迄歩きました。本当の最後の一人歩きです。尚「流人道中記」と明記した後の分は小説からの引用文が多いのですが、ご勘弁下さい。
その①旧奥州街道一人歩き最終回1日目(七戸十和田~野辺地)編
その②旧奥州街道一人歩き最終回2日目(野辺地~西平内駅)編
その③旧奥州街道一人歩き最終回3日目(西平内駅~青森)編
その④旧奥州街道一人歩き最終回4日目(青森~蓬田)編
その⑤旧奥州街道一人歩き最終回5日目(休養日・青森市内観光)編
その⑥旧奥州街道一人歩き最終回6日目(蓬田~高野碕)編
その⑦旧奥州街道一人歩き最終回7日目(高野碕~三厩~龍飛岬)
その⑧旧奥州街道一人歩き最終回8日目(休養日・龍飛岬周辺観光と帰宅)
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 5.0
- グルメ
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円 - 3万円
- 交通手段
- 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
海峡の家ほろずきにて
いよいよ今日は龍飛岬まで歩く最終歩行である。長かった奥州街道歩きも今日で終了するのだが、かなり寂しい限りだ。
昨夜は荷物を整理し終えると、何もすることがない。テレビも無いし、早々と床に就いた。いつの間にか眠ってしまい、早かったので目覚めは04:00頃、寝床の中でごろごろして起床は05:00で、06:00頃に朝風呂に入った。
朝食はないので持っていたおにぎり(腐っていないと思われるもの)を2個(一口サイズ)とお菓子を食べて朝食とした。
07:00頃チェックアウトする。出発に際しては管理人がお見送りしてくれた。彼が聞くには、どうして、この海峡の家を知ったかと。去年放送されたテレビ「人生の楽園」を観て知ったことを伝えた。
今日も天気は上々で暑くなりそうだ。挨拶をしてここを後にする。袰月海岸 ビーチ
-
ほろずき中学校跡碑
この海峡のいえほろずきは元々ほろずき中学校の跡地である。入口にその跡碑が建っている。この中学校は1994年に今別中学校と統合されました。 -
袰月集落を通る
海峡の家を出て、280号線に復帰し、左手に進む、最初は民家もない道を進むが、やがて津軽には必ずある地蔵尊が出てきて、民家が広がってくる。郵便局を過ぎて、一軒の家の前に石碑があった。 -
袰月集落を通る-2-
一軒の家の前に石碑があった。何やら津軽弁らしい言葉で詩が彫ってある。「陽コのあだネ村 この村サ一度だって陽コあだたことあるガジャ」
その横には作者の高木恭造氏の略歴が載っている。それによると彼は青森市生まれで、後に、ここ袰月尋常高等小学校の代用教員となった人で、方言詩集「まるめろ」を刊行した人で後に医学博士を取得する。いわゆるおらが村の誇れる偉人らしい。 -
陽コのあだネ村の全文
津軽弁そのまま丸出しの文章は迫力があるというか、何か良いなぁ~と思う。 -
袰月海雲洞釈迦堂
袰月集落の出口付近、左側に袰月海雲洞釈迦堂がある。津軽三十三観音の21番札所である。 -
釈迦滝
袰月海雲洞釈迦堂の横には、滝があった。この時は水流が少なく、一条の滝のようであるが、写真の岩盤一帯を迸るように流れ落ちる滝とのことだ。
手前の細い道が、かつての松前街道である。この辺は険しい山道(崖路)であったようだ。 -
旧松前街道
この赤い橋が旧松前街道だったらしい。この辺りの道は険しい崖側の細い道だったらしいが、当時は大変な街道歩きだったのでしょう。 -
一本木漁港
ここにある道路標識に竜飛岬まで26kmとあった。まだまだ先は遠いなア~。
街道右側の、今別町一本木漁港袰月地区である。この辺は、入江となっており、規模は小さいが昔からの自然の良港であった -
国道280号線
一本木漁港袰月地区の横の鋳釜崎の登坂で、かつての難所も、今は車が通れるように山が削られている。
【流人道中記】小説では次のような表現をしている。
二人の侍は物も言わずに、海峡の波がからからと石を磨く海浜をひたすら歩いた。いくつもの難所を越して岬に立ったとき、海と空に究まる彼方に、蝦夷の山並みがみえた。 -
今別、袰月海岸鋳釜崎
鋳釜崎の先端である。「津軽国定公園 袰月海岸 鋳釜崎」の標識が建っていた。本来なら、ここからは北海道の松前半島が見えるはずだが、今日はもやっていて見えない。 -
鋳釜崎
名前の由来だが、この湾が鋳釜の形に似ているから、そのように名前が付いたのだろうか。 -
釣りを楽しむ人々
鋳釜岬の岩場には釣りを楽しむ人が何人かいました。今日は風もなく、海も穏やかなので、絶好の釣り日和でしょう。鯨が釣れるのかな? -
吉田松陰記念碑
鋳釜崎には、未だ新しい吉田松陰の「東北旅日記」記念碑(松陰顕彰碑)が建っていた。嘉永4年(1851年)に松陰は宮部鼎蔵と共に、江戸から140日及ぶ東北遊学の旅に出ており、その時の記録が「東北旅日記」だ。その中に、嘉永5年(1852年)3月、津軽半島の三厩、今別、平舘、青森と辿った記録がある。松陰は、当時23歳であった。 -
イチオシ
今別、鋳釜崎展望台
鋳釜崎の展望台である。見晴らしの良い、広々とした広場となっている。この辺一帯は、洗い場や水洗トイレ、照明施設もありフリーテントサイトとなっている。約80張が可能とのことだ。
左の山並みが津軽半島の龍飛境で、右奥の山並みが見えるはずだったが、今日は観えない。北海道の松前半島が観えないかったのは残念である。
-
龍飛岬の遠望
展望台から津軽半島突端を眺めると、その先が龍飛岬だろうと思う。今日はあそこ迄歩くのである。 -
今別大泊の三叉路
今別町大泊(おおどまり)の三叉路である。旧奥州街道は、右の細い道で、急な下り坂となっている。 -
今別、大泊集落
三叉路からの急な坂を下っていくと、正面に、三厩湾を背にした大泊の集落が見えてきた。
一人の老婆が電気で動く三輪車に乗って坂を上ってきた。挨拶をすると停まって、色々と話しをしてくれた。
このおばあちゃんの旦那はすでに亡くなっているが、昔は船乗りで、一旦海に出ると半年は帰ってこないと云う。10分位の立ち話だろうか。現地の人と交流が出来たことに満足です。彼女と別れて坂を下っていく。 -
大泊集落
左手に赤い鳥居があり急な階段の稲荷神社がある。それを横目で見て、集落のほうに歩いていくと地元の中年の男女が話しかけてきた、そしてこう云う。今日はここから松陰くぐりを通れるよと。 -
イチオシ
松陰潜り
松陰くぐり? 何のことかわからないまま、その人の家に入り、勧められるままに裏口から海岸に出た。道らしきものは無く、磯をしばらく歩くと、左手に大きく穴の開いた洞窟がある。 -
松陰潜りー2-
これだ!と思いそれを通り抜けた。調べてみると、吉田松陰は、長州藩の武士であり、幕末の維新志士を多く育てた思想家です。
松陰は、若かりし時分、ロシア船の北方出没を知りその防備を確かめるため、嘉永4年 (1851年)12月14日 (陰暦)に、脱藩覚悟で宮部鼎蔵と共に江戸から140日間に及ぶ東北遊学の旅に立ちました。江戸出発から嘉永5年(1852年)4月5日江戸へ帰るまでの視察状況を記録したのが『東北遊日記』です。その中には、津軽半島(三厩、今別、平舘、青森)をたどったという記録があり、この辺りも通ったそうです。 -
イチオシ
松陰潜り-3-
潜って反対側から撮った松陰潜りです。
袰月海岸の波打ち際にある洞門。かつて松前街道の難所で、嘉永5年(1852年)に吉田松陰が海峡警備の検分に平舘台場へ向かう途中、通ったとされることから、この名で呼ばれています。
現在は、引き潮の時しか道が水没して、通行できません。所在地:東津軽郡今別町大字大泊。自分はなんと幸運な時にここを通過したのでしょうか。
ただし、ここに行くには地元の人に聞かないと行けそうもありません。 -
松陰潜り付近にて
【流人道中記】から
「乙次郎。俺は勝手をしたか」と流人の青山玄藩は聞く。
いやと言いかけたが声にはならなかった。僕は黙って海岸を眺めていた。おもうところの何ひとつとして言葉にならぬおのれの幼さに、僕は眦を決したまま泣いた。父を送る子と同じように。海の面を霧が寄せてきた。僕らはしばらくの間、時も場所も分からぬ浜道を、寄する波音だけを頼りに歩いた。
ときおり白い鷗や黒い鵜が、鰯の群れを見つけたのであろうか、泣き騒ぎながら目の前を横切りった。海のほかに何もないところに来てしまった。
その光景は、この写真にあるような場所を通ったのであろうか。 -
国道280号線に復帰する
松陰くぐりを通過して、街道に復帰するのに苦労した。民家の中を通るので、びくびくしながら、何とか街道に復帰した。ここからしばらくは右手に三厩湾を観ながら西に向かって歩く。時々車が通るが、歩道はないのだ。しばらく歩くと、又、右手に分かれる旧道が出て来たので、その旧道に入る。 -
今別町に向かう
山崎という集落があり、この辺りは農業をやっている家が多いのかな。山崎一本木浜に並行した道を進む。誰も通らない。途中にパーキングが有ったので、トイレ休憩とする。 -
今別海岸
しばらく、そこで休んでいると、目の前には今別海岸が穏やかに光っていて、その先には、多分、龍飛岬と思うがぼんやりと見えている。今別川に架かる今別橋を渡ると、そこは今別町の入り口だった。
左の今別川沿いの道を行くと、650mほどで、JR今別駅に着く。 -
今別宿を歩く
この辺が、今別宿の入口付近だ。右側の建物は、今別郵便局である。ここの地名は、今別町大字今別字今別となっており、まさに今別町の中心部となっている。今別宿の旧街道を進むと、左側に今別役場があり、その入口に大きな看板がある。今別駅 駅
-
北海道新幹線開業
左に開業した北海道新幹線の「奥津軽いまべつ」駅のイメージ図だ。そして、右側は今別町の詳細な案内図となっている。 -
今別宿
今別宿は、北前船の寄港地の1つであり、木材の積出港で、蝦夷地と行き来する拠点の1つでもあった。そして、以前は松前藩の参勤交代の寄港地でもあったそうです。そして、津軽藩の町奉行所や御山奉行所も置かれていた。なお、今別町の花は菊で、鳥はかもめ、そして木はヒバと指定されている。 -
今別町 本覚寺入口
今別の街を進むと、左側に本覚寺がある。今別に境内を構えている浄土宗の寺院です。案内板によると「 この寺は、明暦3年(1657)、安長上人によって開かれた浄土宗の寺で、阿弥陀如来を本尊としています。当寺の第五世住職貞伝上人は、名僧の誉れ高く、地域の産業振興にも尽くした人物。漁師の生活を安じた貞伝上人が、境内の多門天堂に祈願し、経を書いた石を念仏読経とともに、海に投げいれ昆布を根付けさせたといわれ、当地方では、今別昆布は貞伝上人の賜わり物とされており、また、ただ取るだけでなく育てる漁業の先駆者ともいわれております。」とあります。 -
車に乗っていきませんか!
この辺りを重い荷物を背負ってテクテク歩いているのが気の毒になっと見えて、一台の軽ワゴンが目の前に停まった。若い女性が「先はまだ長いので乗っていきますか?」と声を掛けて来た。
街道歩きをしていて、こんなことは初めての事だった。自分で歩かないと意味が無いので、丁寧にお断りしました。 -
再び外ヶ浜に入る
ここから、今別町浜名から外ヶ浜町三厩となる町境である。今別町の前にも外ヶ浜町があったが、ここ三厩地区は、今別町を挟んだ外ヶ浜町の飛び地となっている。外ヶ浜町は、蟹田町と平舘村、
そしてここ三厩村が合併して、平成17年に出来た町である。なお、地名の外ヶ浜は、率土の浜(そっとのひん)からきており、「辺土の浜」のことで、国の果ての海辺の意味とのことだ。古くは、辺境の地に名付けられていた地名である。 -
松前街道バイパス合流点
旧奥州街道(松前街道)とバイパスの合流点である。旧街道は、このバイパスを斜めに横断する。
標識には「左 外ヶ浜、直進三厩駅 右 龍飛」とある。右の大きな白いモニュメントは、風力発電機の羽を利用したものだ。「右 龍飛崎 風の岬へようこそ」「左 三厩駅 津軽国定公園」と書かれてある。 -
ここはJR津軽線三厩駅
ちょっとこの宿場には似合わないほど新しい駅舎である。ここは地の果てなので、もっと昔風の古い建物を想像していたが、ちょっとがっかりかな。 -
増川川橋
三厩駅より、旧街道に復帰すると、すぐ増川川の橋を渡る。増川川は、増川岳(標高714ml)の北麓を源流とする川で、ここで三厩湾に流入している。
増川川河口、あすなろ大橋
増川川河口で、正面の橋は国道280号線(松前街道、陸羽街道)に架かるあすなろ大橋だ。
あすなろは、前にも書いたが青森県の県木である青森ヒバの別名である。 -
三厩宿入口
増川川を渡ると、三厩の集落に入る。この先が緩い枡形になっており、旧奥州街道112番目の宿場・三厩宿の入口であったところであろう。いよいよ旧奥州街道の終点である三厩宿である。
右側の東酒店の「銘酒 心の酒」の看板が気になった。地酒の銘柄ではないようだ。 -
三厩宿中心部
三厩宿中心部である。この右側には、外ヶ浜町役場三厩支所のあるところだ。その背後に、三厩港がある。三厩港は、松前藩主や幕府巡検使が津軽海峡を渡る際の港で、三厩昆布や木材の積出港であった。この旧道の左側は、三厩本陣(山田家)や脇本陣(安保家)があったところとのこと。この宿場が奥州街道最後の宿場になるのである。 -
コンビニは何処だ!
さて、昼食を調達する必要があり、三厩町の中にはサークルKがあるはずだが、見当たらない。色々と探したがどうしても無いのである。280号線のバイパスに戻ってみると、遥かに過ぎた後ろのほうにありました。1kmは戻ったかな。そこで昼食を調達してパイパスを北に向けて歩く。 -
義経寺が観える
道は280号線が消えて、339号線となるが、前方に義経寺が小さく見える。その前に公園があるので寄ってみる。義経寺 寺・神社・教会
-
義経寺
源義経は平泉で死なず、ここ三厩までたどり着き、蝦夷に渡ったといわれている。 -
三厩、厩石公園
左側に、三厩湾に面して厩石(まやいし)公園がある。背後の大岩が厩石だ。厩石公園には、大きく書かれた、未だ新しい「三厩村地名発祥之地」碑と、「松前街道終点之碑」が立っていた。
長かった、松前街道(旧奥州街道)の終点である。 -
イチオシ
松前街道終点の碑
三厩、真矢石公園の前に松前街道終点之碑が建っていました。日本橋からここ迄、何と長かったことか、そして、よくぞここ迄歩いてこられたものだと感慨に耽った。 -
奇岩、厩石である。
説明板によると、源義経は平泉では死なずに、ここまで逃げてきて、ここから蝦夷に渡ったと伝えられている(義経北行伝説)。岩手県から青森県にかけて、今でも多くの義経所縁の地や逸話が残されている。
更なる説明板によると、藤原秀衡の遺書、「危難が迫ったら館に火をかけ、自刃を装って遠く蝦夷が島(北海道)へ渡るべし」の通りに北を目指してこの地に辿り着いたという。しかし、荒れ狂う津軽海峡が行く手を阻んで渡ることが出来なかったので、義経は海岸の奇岩の上に座して祈願した。
。 -
三厩発祥の地
義経は海岸のこの奇岩の上に座して、観世音を安置し、三日三晩祈願すると、白髪の翁が現れ、「三頭の龍馬を与えるから、これに乗って渡るがよい」と言って姿を消した。岩を降りると、岩穴には三頭の龍馬が繋がれ、海上は鏡のように静まって、義経は無事蝦夷が島(北海道)に渡ることが出来た。それから、この岩を厩石、この地を三馬屋(三馬屋村、そして三厩村)と呼ぶようになった。 -
厩石前、源義経渡道之地
三厩の厩石前に立っている「源義経渡道之地」標識。ここから、蝦夷ヶ島(北海道)へ渡ったという場所だ。左の石碑は、大きい方が「源義経龍神塔」、その右が「静御前龍神塔」である。 -
松前街道終点の碑
この公園の中に「松前街道終点の碑」が建っています。北海道の松前藩の殿様は参勤交代のときに、船でここに上陸して、後は陸路で江戸に向かったとあります。だから、ここが松前街道の終点とありますが、始点でもあるのです。
奥州街道は青森の善知鳥神社前で終わり、そして、ここで松前街道の終点を迎えることになったが、何か、よくぞここまであるいたなと云う感慨と一方ではこれで終わるのかとの寂しさも交じって複雑な気持ちになった。
でも、自分の奥州街道歩きは龍飛岬と決めているので、これから先、少しではるが未だ、奥州軌道歩きは続くのです。 -
三厩船着き場?
源義経もこの三厩の船着き場から北海道に渡ったという伝説がある。そして
【流人道中記】小説のハイライトで終わりのストーリーもこの地であろうと思われる。小説では次のように語っている。
「浜辺にそそり立つ奇岩の先に小さな船着き場があり、潮風に撓んだ松林のほとりに蝦夷福山陣屋があった。しかし霧の中にぼんやりと佇むそれは、松前候の参勤が五年に一度ゆえであろうか陣屋と呼ぶにはあまりにもわびしい。陣屋の前には松前様の御家来衆が幾人かぼんやりと佇んでいた。石を積んだ桟橋にはあまりにも小さな帆を下した船が待っていた」 -
【流人道中記】の続き
「ここで良い。苦労であった」立ち塞がるように玄藩は言った。取り乱す僕(石川乙次郎)をみかねたかに違いなかった。
「いいえ、玄藩さま・・・」乙次郎は初めて玄藩の名前を呼んだ。僕にとってこの人は、決して流人ではない。立ち込める霧を腹いっぱいに吸い込んでから、僕は陣屋に向かった進み出た。
「新御番士青山玄藩頭様、ただ今ご到着でござる。くれぐれもご無礼のなきよう松前伊豆守様御元許福山御城下まで御案内くだされよ」
僕は踵を返して歩き出した。すれ違う一瞬、玄藩はにかっとほほえんだ。餞の言葉はいらない。鷗の声と寄する波音を聴きながら、僕は真っ白な霧の帳を押し開けた。流人道中記の完
そのような会話が有ったのは、この辺りにあった船着き場だったのだろうか。 -
義経海浜公園
三厩中浜の集落を進むと、右側が開け、正面に義経海浜公園がある。ここから北海道へ、源義経が逃げて行ったという伝説をもとにつくられた、外ヶ浜町の三厩中浜にある広大な公園だ。
海水浴場や、更衣室、温水シャワーを備えた監視塔もあり、海をバックにした野外ステージ、芝広場、ピックニックゾーンや、義経伝説をイメージした散策路や築山を設けた歴史ゾーンも出来ている。 -
竜飛岬に向けて歩く
【流人道中記】のお話はここで終わったが、自分の一人歩きは、この先も続く。龍飛岬まで歩くのである。
藤島集落⇒四枚橋⇒釜の沢集落
義経海浜公園を後にして、更に北上すると藤島集落を通り四枚橋、釜の沢集落を通過する。まもなく三厩中学校入り口が見えてきた。そこにテーブルが有ったので少し休む。何だかかなり疲れて来た。そこで休んでいると、昨日、高野崎でお会いしたキャンピングカーのおじさんの車が通過していった。こちらに向かって手を振っていたので間違いないだろう。 -
宇鉄集落を通過
下宇鉄、元宇鉄そして上宇鉄の集落を歩くが、これと云った珍しいものは何も発見できなかったが海だけは美しかった。
いくつかの隧道をくぐり、尻神という場所を歩くが、何の変哲もない地域である。龍飛岬3㎞の地点までくる。もうすぐだと自分に言い聞かせて歩行を頑張る。 -
ついに龍飛に到着する
気が付かなかったけれど。歩いている道は国道339号線となっている。これは三厩の義経寺から339号に替わっている。それまでは280号線であった。
龍飛岬方面に車で行く場合は木落というバス停から左の坂を登っていくが、自分は龍飛岬の先の帯島に行きたかったので真っすぐに進んだ。龍飛漁港に向かう。途中は漁村の風景だが、昔の道だろうか、その時の隧道が見える。 -
龍飛崎先端の太宰碑公園。
太宰治文学碑があった。その碑には、小説「津軽」の一節が彫ってあった。
「ここは、本州の袋小路だ。諸君も銘肌せよ。
諸君が北に向かって歩いている時、その路をどこまでも、さかのぼり、
さかのぼり行けば、必ずこの外ヶ浜街道に到り、
路がいよいよ狭くなり、さらにさかのぼれば、
すぽりとこの鶏小舎に似た不思議な世界に落ち込み、
そこに於いて諸君の路は全く尽きるのである」
と刻まれている。太宰治文学館なるものがあった。彼の文学作品を刻した石碑が沢山あった。その斜め前には龍飛旅館があり、そこは観光案内所も兼ねている。 -
帯島
帯島に到着する。写真は、龍飛崎の先端にある帯島だ。住所は、外ヶ浜町三厩龍浜となる。
最高標高は37mで、テレビ中継局や、写真左側の赤い社の弁天神社、右側には海鮮料理店・民宿兼営の津軽海峡亭がある。義経がここで帯を締めなおして、北海道に渡ったとの伝説より、帯島(おびしま)と呼ばれるようになった。
帯島は、昔は離れた島であったが、本土と防波堤で繋がり、車で行けるようになっている。 -
イチオシ
階段国道を歩く
三厩龍浜集落の中に、階段国道339号入口がある。路面が朱に塗られているからわかるが、国道にはとても見えない。国道399号線の日本で唯一の階段国道入口で、階段国道案内図がある。
塗られた色通りに歩いていくと、何か民家の庭先や民家の路地を通ている感じで、家の中が覗けそうな感じで進む。そうすると、国道399号線標識が建っていて、上りの階段が出て来た。 -
階段国道案内板がある
もともとは坂道であった。名物として残すために地元の声によって階段が整備されたのは、国道制定後、20年近くたってからである。
この階段は全部で362段、全長388.2m、標高差は70mの急な階段となっている。重いリュックを背負って登っていく。72歳のおじいさんには大変だ。 -
三厩、階段国道頂上
階段国道を頂上出口である。北海道の松前半島が見えるところである。国道339号の標識に階段国道と龍飛と表示されていた。 -
三厩龍浜、東方面
階段国道を上り詰め、龍飛崎灯台に向かうと、今度は「階段村道」の標識がある階段を上る。
その「階段村道」の途中より振り返って撮影した写真である。素晴らしい眺めだった。 -
イチオシ
龍飛崎灯台
階段国道ではなく、階段村道を登ったところにある龍飛崎灯台。対岸の北海道白神岬灯台と共に、津軽海峡の西側玄関口に位置する灯台で、昭和7年設置された。明るさ47万カンデラ、群閃回数は、20秒ごとに2閃光、海水面から119mの位置にある灯台である。龍飛崎 自然・景勝地
-
津軽海峡、松前半島
龍飛崎の先端にでる。見晴らしの良いところで、正面は津軽海峡を挟んで、北海道の松前半島が良く見えるはずだったが、残念、観えませんでした。ここと、北海道の白神岬とは、津軽海峡を挟んで19.5kmの距離である。
右手の鉄骨のあるところは、海上自衛隊竜飛警備所で、レーダー塔の監視機器が設置されている。 -
龍飛崎駐車場、展望台
龍飛崎灯台側の駐車場だ。シーズンに入ったのか、駐車している車は結構あった。 -
龍飛崎、歌謡碑
竜飛灯台より階段村道を下りたところに、龍飛崎歌謡碑がある。ここからは、津軽海峡が一望できるところだ。津軽海峡冬景色歌謡碑である。石川さゆりのヒット曲「津軽海峡冬景色」の歌詞が刻まれている歌謡碑で、中央の赤いボタンを押すと
「ごらんあれが 竜飛岬 北のはずれと 見知らぬ人が 指をさす・・・
ああ 津軽海峡 冬景色」
と2番の歌詞が流れてくる。一度は誰もいなかったので赤いボタンを押したら大音響で津軽海峡冬冬景色の歌が流れて来た。2回目を押そうとしたら、団体の観光客が来たので止めた。 -
反対側の海岸
この眺めも素晴らしいものが有った。荒々しい海岸が連続している。何故か、ここが龍飛なんだと思わせる風景だった。
龍飛の語源はアイヌ語のタム・パの転訛で「突き出た地」の意味を持つらしい。
その通りの地であった。 -
龍飛崎温泉、ホテル竜飛
津軽海峡冬景色歌謡碑の近くにある龍飛崎温泉、ホテル竜飛である。今夜はここに泊まる予定で予約を入れてあるのだ。dトラベル(JTB系)を通しての予約だが、ホテル代は事前に払ってある。チェックインでその旨を伝えると、暖房費は別だと云う。150円だったかな。この辺りは5月でも暖房費がかかるんだなぁ~と感心もする。 -
ホテル竜飛
津軽海峡を見下ろす良い位置にあるホテルであるし、部屋も海峡側だった。眺めは最高である。
夕食と明日の朝食の時間を決めて部屋に入ると、部屋そのものが素晴らしいのである。ツインベットで清潔、窓側には一段高くなり、畳が敷いて有ってなかなか都合が良いし、旅館並みにお菓子も置いてあるのだ。驚いたことにトイレには照明のスイッチが無く、扉を開けると電気が自動的に付き、でも、少し時間がたつと豆電球となり、そして完全に消えてしまうが、体を動かすと再度点灯とする。こんなの初めてだ、面白い。 -
再度歌謡碑に出向いた
大浴場があるそうなので、寝る前に入ろうと思う。少し休んでからもう一度ホテル周辺の散歩に出かけた。歌謡碑には誰もいないので、もう一度スイッチを押すと、シーンとした周囲に大音響の津軽海峡冬景色が鳴り響いた。今度は、それを聴きながら津軽海峡を眺める余裕があった。
ホテルに戻り、約束の時間に夕食会場に行ったら、既に用意されていた。同じテーブルの向かいにはおっさんが一人で座っている。こちらもおっさんですが。結構、豪華なメニューだったが、しかし、テーブルに依ってはメニューが違うのが気になった。料金が違うのだろうか。 -
イチオシ
夕日の龍飛埼灯台
夕食後に大浴場に行ったら、誰も入っていなかった。少しばかりの露天風呂もあるし湯船も広い豊富な湯が湯船に注ぎ込んでいる。この風呂も大満足であった。
夕食前に津軽海峡に沈む夕日が観たかったが、ここからでは灯台の山が邪魔して観えないそうだ。夕焼けに染まった龍飛灯台は写真に収めた。
ここで奥州街道てくてく一人歩きの旅は完全に終わった。達成感がじわじわと来た。暫くの間ぼんやりと暗い津軽海峡を眺めていた。
明日はこの龍飛岬周辺の観光をして関東に帰るのである。明日は遅くてよいので安心である。今日は疲れた。
これまでの旅日記をご覧いただき有難うございました。明日もう一日の旅行記を出しますので、お付き合いいただければ嬉しいです。
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
この旅行で行ったホテル
津軽半島(青森) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
67