2020/09/18 - 2020/09/19
6位(同エリア897件中)
noelさん
この旅行記のスケジュール
2020/09/18
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諫早10時すぎ→千々和→小浜(ランチ)→口之津港13時10分頃(車)
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船での移動
口之津港:14時→鬼池港:14時30分(フェリー)
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鬼池港:14時30分→富岡城跡:15時(車)
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富岡城跡:15時30分→望洋閣(ホテル):16時(チェックイン)
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この旅行記スケジュールを元に
10月からいよいよ東京もGO TO トラベルの対象に。
その前の9月の連休の2日前に、フライング・スタートをして長崎へ。
そして、そこから車で熊本・天草へ向かいました。
ここ数年は潜伏キリシタン関連の教会に出かけてますが、天草もその1つです。
五島や外海とはまた違ったその姿を拝見しに出かけました。
【旅程】
9月17日
羽田空港:16時10分発→長崎空港:18時05分 ANA667便
長崎空港→諫早
9月18日●
諫早:10時すぎ頃→千々和→小浜(ランチ)→口之津港
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口之津港:14時発→鬼池港:14時30分着 フェリー
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富岡城
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望洋閣(ホテル)
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9月19日●
五足の靴文学遊歩道
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大江教会・ロザリオ館
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崎津教会(崎津集落)
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天草コレジヨ館
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鬼池港
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鬼池港:12時45分→13時15分 フェリー
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六兵衛t茶屋千々和店(ランチ)
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諫早
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9月20日
9月21日(亀山社中跡他・大浦天主堂)
9月22日
9月23日
長崎空港:15時10分→羽田空港:17時00分 JAL612便
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 4.0
- グルメ
- 4.0
- ショッピング
- 4.0
- 交通
- 3.5
- 同行者
- 家族旅行
- 一人あたり費用
- 1万円 - 3万円
- 交通手段
- レンタカー JALグループ ANAグループ 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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ここは長崎県の千々和方面から小浜温泉に向かう海岸側の道です。
県道251号線から左に入り201号線を行くと、このような緑のトンネルがあります。
ここは昔は温泉鉄道として利用されていたものでした。
以前は木々がもっと繁っていましたが、安全のため伐採されたようです。
ちなみに、この狭い道ですが相互通行です。
でも狭いからこそ、ちょっとワクワクします。 -
海鮮市場「蒸し釜や」
小浜温泉の海沿いにあります。
温泉蒸し、刺身料理、地魚定食があります。蒸し釜や グルメ・レストラン
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注文のしかた
・食材をチョイス
・レジで精算
・スタッフが蒸します
・蒸し時間のタイマーを渡されます
・タイマーが鳴ったら蒸し釜へ -
「蒸し釜や」のすぐそばの海に面している海上露天風呂「波の湯茜」です。
入浴料は300円ですが、コロナのためか営業していませんでした。波の湯「茜」 温泉
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入口はこちらです!
チケット売場は向かい側にあります。
それにしても、この入口どこかで見たような・・・・。 -
これはサントリーニ島のフィラですが、ちょっと似ていませんか?
(思い出すと、また行きたくなります。) -
こちらは小浜温泉の橘湾の眺めです。
夕陽を眺めながらの温泉は格別でしょうね。 -
口之津港です。
ターミナルが少し移転して綺麗になりました。
ところで、この口之津からさほど遠くない所に、天正8年(1580年)に開校して、33年間存続したものの迫害のために閉鎖したセミナリヨ(初等教育機関の神学校)がありました。
その後、南島原市加津佐町天辺に「コレジヨ・セミナリヨ」~「浦上セミナリヨ」と転々としました。
天正7年(1579年)、日本にやってきたイエズス会の巡察師のAlessandro Valignano(アレッサンドロ・ヴァリニャーノ)が創立しました。
キリシタン大名・有馬晴信の領有する日野江城下に、イエズス会が開いたものです。
また、このセミナリヨからは、ヴァリニャーノが企画した天正遣欧少年使節の4名の少年が選ばれています。 -
島鉄フェリーは約30分の航行です。
8月17日から10月31日までは減便ダイヤでした。
一日に口之津港と鬼池港をそれぞれ7便運航してます。
出港10分前までには、乗船手続きをお済ませください。
天草に渡って、西海岸を南下してぐるりと周遊しました。 -
桟橋です。
私たちは車で入りました。 -
船内の様子です。
この日は連休前でしたので、乗客はほとんどいませんでした。
しかも新型コロナウイルス対策がとられていて、シートは1つ空けてます。 -
島原半島に別れを告げて、天草に向かいます。
ちょっと薄曇りです。
ただ昨日の夕方長崎空港に到着した時は、スコールのような激しい雨でしたので、雨が降っていないだけでもありがたいです。 -
定刻通り到着しました。
鬼池港です。トナカイではなくイルカのそりがあります。
それにしてもなぜ天草でサンタクロースなのか、謎ですが。
イルカについては、口之津、そして天草でもイルカウォッチングができます。 -
ホテルに直行するには、少し時間がありました。
そこで港からホテルまでの途中にある富岡城へと立ち寄りました。 -
「天草回天之碑」逆光で誰だが全然見えません(-_-;)
この像は最近造られたようです。
鈴木重成(左)と鈴木正三(右)です。正三は重成の兄です。
鈴木重成は、天草・島原の乱の後、寺沢堅高の後を継いだ山崎家治が富岡城の立て直しを終えると、寛永18年(1641年)に天草は天領となり、初代代官として鈴木重成が赴任しました。
鈴木正三は、重成の兄です。関ヶ原の戦いなどで活躍しました。旗本に取り立てられましたが、42歳の時に弟の重成に家督を譲って出家しました。全国を行脚し、厳しい修行に励み、「仏の教えは特別なものでなく広く世のため、人のためを考えて、毎日自分の職業に励むことが仏の心につながる」という「万民徳用」の考えをまとめました。 -
勝海舟(左)と頼山陽(右)です。
今更言うまでもありませんが・・・・。
幕府倒壊後の処理を一身に担い、新政府側の中心人物であった西郷隆盛と会見をして、江戸城の無血開城を果たし、江戸の町を戦火から救ったことは、あまりにも有名です。
一方で、坂本龍馬の師としても知られています。龍馬は江戸で、勝海舟から、海軍構想を聞かされて心服し、即座に入門しました。文久3年(1863年)4月に開設された海軍塾では塾頭を務め、勝の片腕となりました。
勝海舟は、安政3年(1856年)10月、長崎海軍伝習所の訓練中に観光丸で富岡に来航しました。この時、宿泊した鎮道寺の御堂の柱に「日本海軍指揮官 勝麟太郎」との肩書をつけて自分の名前を落書してます。当時、彼は伝習生にすぎず、若くして将来の日本を担う気構えを示したものと思われます。彼は翌3月にも再訪し、今度は別の柱に
「蒸気の御船にのりて再びここに旅寝せしかば、頼まれぬ世をば経れども契りあれば再びここに月をみるかな」との墨書を残しました。
当時は、寺の人が、柱の落書きを洗い落とそうとした逸話が残っています。
確かに私も消したかもしれません。(-_-;)
なお、この当時の一行は海舟と共に榎本武揚、五代友厚、お雇い教師カッテンディーケ(後のオランダ海軍大臣)等、そうそうたる14名のメンバーでした。 -
「観光丸」鎮道寺蔵
安政2年(1855年)、長崎海軍伝習所の練習艦としてオランダより江戸幕府へ贈呈された軍艦です。 江戸幕府初の木造外車式蒸気船です。
ちなみに「観光丸」の名前の由来ですが、「観光」は古代中国『易経』にある「観国之光,利用賓于王(国の光を観る、用て王に賓たるに利し)」との一節によるものだそうです。
これを略したのが「観光」とのことです。
つまり現在の観光・・・は、この後にここからとった言葉であると言われてるようです。
ついでに岩倉具視の「外国をよく観察して、日本に役立てる」という意味の「米欧回覧実記」の冒頭に表されているとも・・・・。 -
富岡城
関ヶ原の戦いの後に、天草の領主となった寺沢広高によって慶長7年(1602年)に築かれました。世間では本城の唐津城を「舞鶴城」、支城の富岡城を「臥龍城」と呼びました。寺沢堅高の時代、寛永14年(1637年)に「天草、島原の乱」が勃発し、幕府側の拠点として一揆勢から3回の攻撃を受けましたが、唐津藩の必死の守りで城が守られました。
乱の終結後、天草は築城の名手と謳われた山崎家治の領土となり、乱で傷んだ城の修理と守りの強化のための縄張り拡大が行われ、今に残る「城絵図」に描かれた姿となりました。あたかもこの時期、江戸幕府は海外列強の侵略を恐れて鎖国政策を進めており、乱を契機に外洋に面した国内最西端の富岡城を列強の守りの最前線基地として位置付けたものと思われます。
その後、乱後の復興事業にあたった鈴木重成、重辰代官の天領時代を経て、天草が私領に戻った戸田忠昌時代の寛文10年(1670年)に富岡城は、戸田氏によって破城されました。その後、忠昌は老中まで登り詰めました。
富岡城は約70年間存続しましたが、破城後も三の丸に代官所が置かれ、明治初期まで富岡は天草の行政の中心としての役割を果たしました。 -
二の丸は左、本丸は右です。
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この左は資料館になっています。
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鈴木重成公の資料が展示されています。
初代の代官でした。
農村の行政組織を整備し、実兄の正三和尚の助言を得て、寺社を復興して民衆強化を図り、荒地を開拓して各藩から住民の受け入れを促進しました。時に天草の石高四万二千石が過大で、乱の一因であったことを痛感し、幕府に半減を再三上申しましたが容認されず、抗議の意味で江戸駿河の自宅で切腹したと伝えられます。その後、重成の願いは幕府に認められ。重辰代官時代の万事年(1659年)、石高二万一千石へ半減されました。
なお、重成は天草に赴任するに際し、三河国足助から「一仏二十五菩薩」円通寺に祀り、島民の心の拠り所にしました。今、この菩薩群は国照寺に安置されています。
一方兄の正三は、代官になった重成の依頼によって、63歳にして天草に赴いて3年間滞在し、政策顧問として補佐しました。乱で荒廃した島民の心の安定が第一と考え、荒廃した神社仏閣の復旧を重成に勧め、「農民一人一人が心を正しく持って自分自身の仕事に打ち込んで働けば、結果として生甲斐のある世の中になる」と説きました。
晩年は江戸に住み、明暦元年(1655年)に77歳で生涯を閉じました。天草の人々は重成、正三、重辰の遺徳を偲んで、島内の各地に鈴木大明神、鈴木塚を祀り、鈴木神社も造営されています。 -
さて、それではいよいよ本丸へ向かいます。
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本丸の櫓は、現在はビジターセンターになっています。
入場は無料です。島原・天草一揆で攻防戦の舞台になったお城 by noelさん富岡城(富岡ビジターセンター) 名所・史跡
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砂嘴の始まり
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砂嘴の発達
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砂州の形成
砂嘴に囲まれた巴湾が天然の土塁となりました。
このおかげで海からやってくる外敵を防衛することができました。
そして陸からの攻撃は砂州のみしかありません。
よって攻撃する側にとっては、難い天然の要害を形成していたことになります。 -
お城からの眺めは圧巻です。
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見事な石垣ですが、途中から切り替わっています。
かつての天草島原の乱の攻防戦が行われた痕跡を残してます。
手前の石垣はその後のものです。
この写真からは、ちょっとわかりにくいのですが・・・・
1 寺沢氏が築いた石垣で、一揆の攻防の跡が残っています。
2 1の石垣を隠すため急造されたのですが、途中で壊れたようです。
3 乱の後の領主、山崎氏が修復を行った際に築いたものです。
つまり三重構造になっています。 -
鈴木重成公の像
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望洋閣
連休前に急に出かけることを決めたので、連休中は私がチェックした他のホテルもいっぱいでした。
たまたま、こちらのホテルは、この日だけは2室のみ空いていたので、即刻決めました。天草の海に沈む夕陽を見ることができます。 by noelさん天草下田温泉 望洋閣 宿・ホテル
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くまモンです。
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床の間に一輪
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お部屋からは海が望めます。
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洗面所
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ちょっと雲がでてきました。
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夕食です。今回は8月解禁になった伊勢海老会席御膳プランにしました。
季節の創作料理5点
旬の小鉢(蒟蒻の酢の物) -
天草海の幸5点盛
天草天然伊勢海老のお造り -
左上:蒸し鮑のコンソメジュレ添え
右上:野菜のテリーヌ
左下:伊勢海老グリルと香味ソース(トマトとバターのソース)
右下:鯛出汁うどん -
左上:伊勢海老の味噌汁
右上:鯛と栗のの釜飯
下 :自家製アイスとコーヒー -
こちらは朝食です。
黒酢、温泉卵、ひじき、白和え、そうめん、じゃこと大根おろし、自家製ところてん、生野菜、納豆、鯛の胡麻和え
あさりとあおさの味噌汁
香物
自家製温泉まんじゅう
フルーツ
ヨーグルト(いちじくジャム添え) -
天草名物みりん干し
牛深かまぼこ -
ロビーの外にねこちゃんがいました。
ドアは閉まっているのですが、いつもおこぼれでももらっているのでしょうか・・・。ジーっとおとなしく待っていました。 -
そのうち他の猫もやってきました。
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今度は外に出て撮ってみました。
すると・・・・お腹ペコペコなのでしょうか・・・・。
立ってます(笑) -
朝食後のお散歩です。(ねこちゃんではありません。私の散歩です。)
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港に向かいました。
ここにも猫ちゃんがいます。漁師町ですので、あちこちにいます。 -
おばあちゃんが網をきれいに整えていました。
働き者ですね~! -
堤防に描かれたカラフルな魚たちです。
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ゴツゴツしたテトラポットも。
遠くにうっすらと見えるのは、長崎県の野母崎です。 -
ホテルに戻るとお庭にアズレージョ(タイル)がありました。
よく見ると、ポルトガルに係る物が描かれてます。
天正遣欧少年使節は元より、ヴァスコ・ダ・ガマや、エンリケ航海王子やベレンの塔等までが描かれていました。
ポルトガルに行った去年の夏を思い出しました。 -
昔の写真がありました。
昭和天皇が行幸になられました。
昭和32年の海岸の写真もありました。昔のホテルの写真も。
ちなみにホテルは、ジャルディンマール望洋閣ですが、「ジャルディン」は庭、「マール」は海という意味です。 -
こちらはチェックアウトをした後に向かいました。
この先は細い道が続いています。
こちらは、「五足の靴文学遊歩道」です。
なぜ5足かと言うと、北原白秋、与謝野鉄幹、平野万理、吉井勇、木下杢太郎の5人の辿った遊歩道です。50分コースと2時間コースがあります。
ちなみに北原白秋の「邪宗門」は、大江天主堂の司祭ガルニエ神父を訪ね、深い衝撃を受けて、その2年後に出版されました。
大江天主堂(教会)にはこの後、向かいます。北原白秋、与謝野鉄幹、平野万理、吉井勇、木下杢太郎らが歩いた道 by noelさん五足の靴文学遊歩道 自然・景勝地
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手前にドーム状の屋根があり、その先に白亜の教会が見えます。
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イチオシ
大江天主堂です。
フランス人宣教師ガルニエ神父が、地元の信者たちと協力して建立しました。
現在の建物は昭和8年(1933年)のものです。
天草で最も早く建てられました。
崎津天主堂の神父でもあったガルニエ神父が峠道を往来しました。
両地区にキリスト教を布教したことから、崎津集落と密接な関係があるそうです。
ガルニエ神父はパアテル(神父)さんと呼ばれて慕われて、「五足の靴」の旅はこのパアテルさんに会うのが主な目的でした。ロマネスクの白い美しい教会・・・でも入れませんでした。 by noelさん大江教会 寺・神社・教会
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ルドヴィコ・ガルニエ塔
Frederic Louis Garnie(フレデリック・ルイ・ガルニエ)(仏)
フランス人カトリック司祭
1892年に天草のここ大江教会に司祭として赴任しました。
1941年1月19日に亡くなりました。
ご本人は墓石にはお金をかけずに、困っている人のために使うように言い残しました。
ただ信者たちは、神父のために立派な御影石で墓塔を作りました。 -
世界文化遺産記念として平成30年(2018年)7月に植樹されました。
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マリア像がありました。
ルルドの聖母とルルドの泉を模して、洞窟が造られました。
フランスのピレネー山脈の麓にルルドの村があります。
1858年2月11日聖母マリアが、ベルナデッタという14歳の少女に、この村の洞窟の中で御出現になりました。その後18回にわたって御出現になり、罪人の改心のため、私たち自身が心を改めて生活をし、よく祈るように勧めました。
また、マリア様の指図によって掘られた小さな穴が泉となって、ここから湧きだした水が不思議な力をもって、多くの人々の体の病や心の病を癒しています。
このことが世界中に知られ、多くの人々がルルドに巡礼するようになりました。また各地でルルドに似せて洞窟を造り、聖母像を安置して神への取次を願う祈りが捧げられるようになりました。 -
教会は残念ながら閉まっていて、中に入れませんでした。
ただし窓が少し開いていました。 -
ロマネスク様式でステンドグラスやアーチも美しいです。
鉄川与助が設計施工を請けました。
この他、「江上教会」「旧野首教会」「頭ヶ島天主堂」「崎津教会」も施工しています。
祭壇には「受胎告知」の絵があります。
ソフィー・ルイズ・ガルニエさん(神父の姪)が描いたものです。 -
聖母子像です。
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教会の左側面から写しました。
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大江天主堂は、小高い丘の上に建てられています。
絵になりそうな天主堂です。 -
天草ロザリオ館
キリシタンの暮らしや信仰などの資料が展示されてます。天草ロザリオ館 美術館・博物館
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こちらは崎津天主堂です。
アルメイダ神父により永禄12年(1569年)に建てられました。
ここを中心にキリスト教は天草に栄え、寛永15年(1638年)に禁教令が実施されてから崎津では特に激しい迫害の嵐が吹き荒れました。
キリスト教徒は、隠れキリシタンとなり、ひそかに真夜中に一緒に集まって礼拝し、祈りをささげていました。天草の小さな漁村にある世界遺産の教会 by noelさん﨑津教会 寺・神社・教会
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こちらが入口です。
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大江天主堂に続き、こちらも感染拡大のために中に入ることができません。(悲)
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窓が少し開いていたので見てみました。
リブ・ヴォールトの天井やステンドグラスは綺麗なのですが、中は本当に質素です。
パイプ椅子と、その後ろは畳です。
今まで畳の教会は見たことがありません。 -
アルメイダ神父でしょうか。
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窓もお花柄で可愛らしいです。
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聖母マリアです。
しかも池には鯉が泳いでいます。
日本的な光景です。社寺で見かけたら自然なのですが、ちょっと不思議な感じです。 -
崎津地区がある河内浦では、南蛮貿易が栄えており、1566年にアルメイダ修道士らを受入れました。そして同じ年に教会堂を建てました。1571年には領主の天草氏が洗礼を受けジョアンとなりキリスト教が広がりました。1592年には信者が15000人いたとされています。
その後キリシタン大名が天草を支配をするようになり、天草氏も反乱を起こそうとしますが、のちに和解をして従うようになり、キリスト教がその場に根付きました。豊臣秀吉のバレテン追放令が出た後も、天草氏らは宣教師らをかばい、天草に移転したと言われています。
江戸時代の1613年にキリスト教禁止令が発令され、一部の信者は潜伏キリシタンになりました。島原天草の乱後には、乱に加わらなかったキリシタンは潜伏しながら信仰を続けましが、1805年に「天草崩れ」が発生し、10669人中のうち5205人の潜伏キリシタンが摘発されてしまいました。
崎津・大江・今富村など10000人のうちの半数がキリシタンであると判明します。キリシタンの数があまりにも多いため厳重に処罰するには難しく、穏便に済ませたい江戸幕府の意向と「心得違いをしていたが改心した」とみなして許したため、多くの人は信仰を捨てませんでした。
キリスト教禁止令が1873年に解かれると、長崎から伝導士が入り、カトリックへの復帰が始まりました。1876年に崎津村では、多くの人がカトリックになりました。1882年には神父が着任し、1885年には大きな教会が建てられました。明治の中期には、崎津村の全世帯のうち550戸がキリスト教徒であったとされています。 -
よく見ると、この教会のファサードはゴシック様式で、尖塔なども鉄筋コンクリートですが、後方の祭壇付近は木造です。これは予算不足だったためです。
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紋付屋旅館跡
「天草は旅人を詩人にする」司馬遼太郎(「街道を行く」の著書より)
「崎津は天草で一番好きな港」林芙美子
またNHKテレビ小説の「藍より青く」のロケ地にもなりました。 -
崎津観光交流広場
菊池寛、林芙美子、野口雨情、林房雄、大宅壮一、司馬遼太郎など多くの作家や文人が訪れた旅籠の跡地です。 -
杉ようかん
200年以上も前から伝わる天草の和菓子です。(小豆のこしあん入りようかん)
天草産のうるち米粉を使用しています。
製造・販売元:南風屋(ハイヤ)
この杉ようかんといちじくを購入しました。
実はこちらでは「南蛮柿(いちじく)」と呼ばれています。
16世紀九州のキリシタン大名の大友宗麟らの名代としてローマへ派遣された「天正遣欧少年使節」の引率者メスキータ神父の記録(手紙)によると「リスボンからいちじくの木を持ってきた。」との記述があります。
日本のいちじく発祥の地は河浦町だそうです。 -
墓地が見えます。
珍しいことに、十字架のキリスト教徒のお墓も、仏教徒のお墓も一緒にあります。
お互いを尊重し合って、村人として共存しているようです。 -
西宮宮
祭神は蛭子神(ひるこのかみ)で、村中安全、大漁満願、商売繁盛を祈願して祀り、漁業を中心とする崎津の生業と密接に関わっています。古文書などから18世紀には造立が確認されています。 -
海上マリア像
天草漁協の堤防から撮影しました。
岬の突端で海に向かって佇むマリア像です。昭和49年(1974年)に建てられました。漁船の航行の安全豊漁を静かに見守っています。
マリア像の先に陽が沈む様はとても美しく、天草夕陽八景の1つにもなっています。
写し方が悪くて、灯台にしか見えないのですが、れっきとしたマリア像です。
m(__)m -
崎津諏訪神社
文化2年(1805年)、潜伏キリシタンが発覚する「天草崩れ」の舞台になった神社です。
禁教時代、崎津の潜伏キリシタンは、この神社の氏子となって参拝の際には密かにおらしょを唱えていました。
代官所の役人は異仏取り調べのため、信徒たちが所有していた信心具を差し出すよう、境内に設置した箱に捨てるよう指示しました。
取り調べを受けた崎津集落の信仰組織の指導者は、「どちらへ参拝するときも『あんめんりゆす(Amen,Deus)又は(Amen,Jeuが語源)』と唱えます」と述べたことが記録されているそうです。
境内には創建にかかわる1685年銘の鳥居が現存します。
鳥居からは崎津教会が望めます。
※ おらしょとは、隠れキリシタンの行事で唱えられる祈りの言葉です。
ラテン語の「oratio」(祈り)が語源になっているようです。 -
個人宅のマリア像かと思ったのですが、こちらは旧崎津教会跡だそうです。
キリスト教解禁後の明治21年(1888年)に、崎津に建てられた教会の跡地です。
その後、修道院として、崎津教会のシスターが寝泊まりしていました。今は使われていないようです。
こちらは、先ほどの崎津諏訪神社の目と鼻の先です。 -
イチオシ
河浦町崎津集落
羊角湾からの眺めです。まさに海の天主堂です。 -
道の駅
崎津集落ガイダンスセンター -
天草コレジヨ館
「コレジヨ」とは、ポルトガル語で「collegio」(カレッジのこと)です。
つまり聖職者育成のための神学校です。
16世紀末、宣教師の養成を目的に天草学林が作られました。
各地で学んだ者の中から選抜された青年たちです。
宣教師たちからラテン語、神学、ヨーロッパの文化、情報などを学びました。
※この宣教師たちは、当時はバテレン追放令によって天草に集結していた宣教師たちでした。天正遣欧少年使節団などの南蛮貿易などの展示物がたくさんあります。 by noelさん天草コレジヨ館 美術館・博物館
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天正遣欧少年使節団の4名です。
伊東マンショ、千々和ミゲル、中浦ジュリアン、原マルティノです。
天正10年1月28日(1582年2月20日)に長崎を出発し、スペイン国王フェリペ2世、ポルトガル王、ローマ教皇グレゴリウス13世、トスカーナ公国のフランチェスコ1世らに謁見しました。
そしてグーテンベルク印刷機や楽器など様々なものを持ち帰りました。
その後、天正18年6月20日(1590年7月21日)、長崎に帰国して、ヴァリニャーノとともに日野江城に戻りました。
【伊東マンショ(主席正使)】
日向の都於郡(現在の宮崎県都於郡町)を本拠にして戦国時代まで勢力のあった伊東氏の血をひいて、1570年に生まれました。その後、島津勢によって追われ、孤児同然の姿で白杵の教会で保護されていたのを、豊後に赴いたヴァリニャーノが拾い、有馬神学校に送りました。10歳の生徒でした。
【中浦ジュリアン(副使)】
1567年、大村純忠の領地中浦で生まれ、13歳の時、第一期生として入学しました。
【原マルチニョ(副使)】
1568年に大村の波佐見で生まれ、12歳で神学校に入学しました。
【千々石ミゲル(正使)】
雲仙の麓、千々石の出身。
彼らの旅は決して楽ではありませんでした。現在でさえ海に慣れない人には大変ですが、当時は烈しい船酔いや慣れない食べ物や疫病(マラリヤや伝染病)、嵐など並大抵なものではありませんでした。
特に寄港地として初めて訪れた東南アジアの植民地で、見たこと・・・。
バリニャーノは当然善きヨーロッパの姿を見せようとしたはずですが、その旅の途上では侵略され、虐待されたアジア人の姿なども目にしたはずです。
その結果、伊東マンショ、中浦ジュリアン、原マルチニョは終生ヴァリニャーノが願っていたように聖職者として神に身を捧げましたが、千々石ミゲルは一度は神学校に復学したものの、間もなく棄教しました。
「切支丹宗門は、表に後世菩薩の理を解くといえども、実は国を奪うなり」と主張しています。
(ただこれについては、棄教していないという説もあるようですが・・・。)
参考:「銃と十字架」遠藤周作
また、伊東マンショは宣教師となって活動したのですが、若くして病死しました。
原マルチニョはマカオに追放されました。中浦ジュリアンは殉教しました。 -
南蛮船(ナウ)の模型
崎津には前後2回南蛮船が入港しました。
1回目は1587年7月25日で、それは博多で豊臣秀吉が宣教師追放令を出した翌日の事でした。この船は、船長アルグメイドの40人乗りのスペイン船で、マカオからメキシコへ行く途中でした。
2回目は2年後の1589年7月で、この時はドン・ジョアン・ダ・ガマのポルトガル船でした。
当時来航していた南蛮船は船首と船尾に高いデッキをもった帆船で、カラック型とがレオン型に大別されます。
これはポルトガルから購入したものです。 -
南蛮衣装
カルサン・ジュバン・カパ(ポルトガル語)
南九州の諸港へ、ポルトガル船が渡来したのは天文年間後半(1540年代)のことでした。その日本・ポルトガル貿易の情景を描いた(南蛮屏風)に見られるカピタンの衣装を基に制作したものです。
膨らんだ脚衣(カルサン)、タイトスリープでハイネック、4枚に分かれたペブラムの着いたシャツ(ジュバン)、その上に羽織る装飾的なカパ。
これらの衣装は豊臣秀吉時代、秀吉を初めとする諸大名の間でも一種の流行として着られていたようです。
(長崎・玉木女史短期大学製作) -
天正遣欧少年使節の衣装
天正10年(1582年)大村純忠らのキリシタン大名によってヨーロッパに派遣された少年使節団は、当時、日本の正装であった裃姿でローマ法王に拝謁する予定でした。
ただローマ市民がその姿を大変不思議がり笑う人もいました。そのことを聞かれた法王がヨーロッパ風の衣装を新調してくださいました。
これは1586年、ドイツの新聞に掲載された少年使節の半身の肖像画に基づいて製作した試作品です。 -
西洋楽器
キリスト教の信仰と共に伝わりました。ことに遣欧四少年は訪欧の途中、西洋楽器の演奏を習いましたが、帰国後京都の聚楽第に秀吉を訪れた時も、秀吉の所望によって演奏したそうです。秀吉は珍しがって3度もアンコールしたばかりか、ラポオ・アルパ・ラウデ・ラヴェキーニャ等の楽器を手にとって眺めたり、ヴィオラやアレージョの演奏を命じたりしました。また天草氏の館では、信者たちによる詩編唱の合唱も行われました。天草コレジヨ付属の志岐の工房では竹のパイプを使ったオルガンが造られて各地の教会に配られました。 -
竹のパイプオルガン
1579年に来日した巡察師ヴァリニャーノが持ってきた2台が最初のものと推定されています。1600年頃には、志岐でも製作されたという記録があります。
イエズス会「日本諸国記」1599-1601年より
ここには本年、絵師の同宿らが住み、数台のパイプオルガンが竹の管を用いて製作されましたが、竹はヨーロッパ産の植物よりもずっと太く丈夫な茎であり、ブリキと同等かあるいはそれにも勝る心地よい音色を備えています。 -
グーテンベルク印刷機(複製)
グーテンベルグの木製印刷機は活字の広がりと共に堅牢な鉄製の印刷機へと変化していきました。1798年イギリスの科学者チャールズ・スタンホープが初めて総鉄製の手引き印刷機を考案し、ロンドンでスタンホーププレスの名称で市販されました。
嘉永3年(1850年)徳川家(家康公)に献上されています。明治に入り、コロンビアンプレスやアルビオンプレスなどの印刷機は輸入され始めると、技術習得の早い日本人は早速それを模して国産の印刷機を製造するようになりました。
この印刷機は日本で製造販売されたアルビオンプレスの改良型の印刷機と思われます。明治初期の出版物はほとんどこの印刷機で刷られ、ハンドプレスと呼ばれて大正時代まで使用されました。 -
「天草本 伊曽保物語」これは天草で今から400年以上も前にラテン語から日本語(ローマ字)に、翻訳されて印刷された「イソップ物語」です。現存するのは、イギリスの大英図書館に所蔵されている一冊のみです。
その「天草本 伊曽保物語」の前半に、イソップ生涯の物語として誰よりも賢く、また誰よりも醜い男だったイソップの半生が様々なエピソードとともに記されています。 -
ESOPO(イソポ(イソップ))
イソップの生涯のストーリーが、色々なエピソードと共に描かれてます。 -
鬼池港
無事にフェリー乗り場まで着きましたが、実はコレジヨ館を出てそのまま266号線を通り、その後324号線に出て向かえばよいものを、この道は以前も通ったことがあったっため、海沿いのロザリオ・ライン26号線に出ようとしたのですが・・・。
なんだか凄いくねくねの細~~い山道を通って行くことになりました。お陰で久々に軽い車酔いをしてしまいました。(-_-;) -
またイルカのそりの場所に来ました。
久しぶりに韓国語が聞こえました。
来るときはガラガラだったのですが、連休に入ったせいか、帰りのフェリーは多かったです。車はびっしりでした。
それにしても、本当は本渡のあたりでも寄りたい所はあったのですが・・・・。 -
天草四郎の像です。
江戸時代初期のキリシタンです。
島原の乱における一揆軍の最高指導者でした。本名は益田 四郎と普通の名前です。諱は時貞です。洗礼名は初期の頃はGeronimo(ジェロニモ)だったのですが、一時期表向きに棄教をしていたためかと思いますが、島原の乱の頃はFrancisco(フランシスコ)でした。
一般には天草四郎という名前で知られています。
今回はこの天草四郎関連の施設には、全然行けませんでした。 -
六兵衛茶屋
長崎県島原市萩原1-5916
たまたま見つけたお店です。
本当は普通の蕎麦屋さんを探していたのですが、1軒見つけて行ったところ、本日の蕎麦は全て終わっていました。
そんな中、見つけたお店です。 -
とんねるずのみなさんのおかげでしたの『わざわざゴ麺ナサイ』のコーナーで紹介された時の様子です。
出演:木梨憲武(とんねるず)・にしきのあきら・ウド鈴木(キャイーン)・大地洋介(ダイノジ)・加藤綾子アナ・三田友梨佳アナ -
囲炉裏がありました。
-
ごぼう天
お蕎麦ですが、麺が太目でこしがありました。
普通の蕎麦とはちょっと違いましたが、1度食べると病みつきになるような、そんなお味でした。
元々ろくべ(さつまいもから作った麺)が有名なお店のようです。 -
千々和です。
ここは天正遣欧少年使節の千々和ミゲルの出身の地です。
昨年はスペイン~ポルトガルと、天正遣欧少年使節の辿った道の一部を、逆方向に旅しました。
そして今年は、彼らの故郷の辺りを巡ることができました。
同時に潜伏キリシタンの聖地の1つを旅することができました。
現在の私たちが忘れてしまったた何かを、思い起こさせてくれるような旅でした。
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この旅行記へのコメント (6)
-
- sanaboさん 2020/10/10 21:57:44
- 潜伏キリシタンの聖地”天草”
- noelさん、こんばんは~
連休より少し早めにご出発され、フェリーなどが空いていて良かったですね。
とはいえコロナの影響なのか、海上露天風呂「波の湯茜」さんや
いくつかの教会が閉まっていたのは残念でしたね。
noelさんもそうだと思いますけど、かつてポルトガルやスペインを
旅行した私としては天正遣欧少年使節に思い入れがあり、この地の
セミナリヨで少年たちが学んだのかと思うととても感慨深いです。
鈴木正三は家督を弟に譲り出家なさった立派な方だったのですね。
キリシタンではなくなぜ仏教徒だったのだろうかと、単純な疑問というか
漠然とした疑問が湧きましたけど、ご本人でないとわかりませんよね(笑)
富岡城は立派なお城ですね。三重構造の石垣が戦乱の時代を表していますね。
天草にこのようなお城があることを初めて知りました。
急遽決められたご旅行だったそうですけど、良いホテルを確保できて
良かったですね。
くまモンが迎えてくれるとやっぱり嬉しいしほっこりしますね^^
海を望めるお部屋も最高☆彡
そして天草天然伊勢海老のお造りや伊勢海老グリルをはじめとする
ご馳走の数々に目が釘付けになりました。
ご朝食の小鉢類も可愛くて、右上の椿(かしら?)の小鉢が欲しくなりました。
背伸びする猫ちゃんの激写は可愛すぎまーす!
堤防に描かれたカラフルな魚たちはユニークで楽しいですね~
絵のタッチがヨーロッパで見る壁画のようで、お目目パッチリの
まつ毛の長い緑の魚ちゃんや大きなお口を開けてる青い魚など
それぞれがとても個性的です(´艸`*)
ホテルのお庭のアズレージョはやはり土地柄を感じさせますね~。
大江天主堂と崎津天主堂の中に入れなかったのは残念でしたけど、
窓から撮られたお写真がとてもよく撮れていて中の様子がよく
わかりました。
お花柄の窓が凄く可愛くて胸キュンです♪
竹のパイプオルガンは見てビックリ、そして心地よい音色を奏でると
お聞きしてさらにビックリしました。
この地ではいちじくが「南蛮柿」と呼ばれているそうですね。
「天正遣欧少年使節」の引率者メスキータ神父が
いちじくの木をリスボンから持ってきたとは衝撃の真実でした!
日本とポルトガルは本当に思わぬところで繋がっていて
いろいろとご縁がありますね。
天草の歴史や天正遣欧少年使節団に関する詳しい記述も
興味深く読ませていただき、大変勉強になりました。
いつもながらですけど、素晴らしい力作を心に響く
心地よい解説とともに楽しませていただきました。
急に気温が下がりましたので、体調管理にお気をつけ下さいね^^
sanabo
- noelさん からの返信 2020/10/11 15:16:46
- RE: 潜伏キリシタンの聖地”天草”
- sanaboさん、こんにちは
いつもありがとうござます。
> 連休より少し早めにご出発され、フェリーなどが空いていて良かったですね。
> とはいえコロナの影響なのか、海上露天風呂「波の湯茜」さんや
> いくつかの教会が閉まっていたのは残念でしたね。
はい。そうなんです。
事前にあまり調べてなくて、交通機関とホテルだけ抑えただけでした。
ただ、混まないのは良かったです。
同じ場所に少し後に行かれた方は、渋滞もあって大変だったようです。
> noelさんもそうだと思いますけど、かつてポルトガルやスペインを
> 旅行した私としては天正遣欧少年使節に思い入れがあり、この地の
> セミナリヨで少年たちが学んだのかと思うととても感慨深いです。
そうですよね。
sanaboさんは、私以上にポルトガル、スペインの多くの地域を旅されたので、気になりますよね。
どこに行っても、彼らの足跡が残っていることが多かったと思います。
> 鈴木正三は家督を弟に譲り出家なさった立派な方だったのですね。
> キリシタンではなくなぜ仏教徒だったのだろうかと、単純な疑問というか
> 漠然とした疑問が湧きましたけど、ご本人でないとわかりませんよね(笑)
確かにそうですね。
徳川家康について関ヶ原の戦いなどの大きな戦いで、成功はおさめてますが、おそらく戦いの中で死を身近に感じていたのかと思います。若くして仏教の経典なども読んでいて、かなり仏教に傾聴していったのかと思います。
出家後もキリスト教を理論的に批判しているようです。
天草へは弟の重成の要請で向かいました。
弟は島原・天草の乱を平定させる代官として踏絵の執行なども行っていたようです。あまり天草ではこのことには触れてませんでしたが‥‥。
ただ島民の不満であった重税から救ってくれたとして、評価されていました。
個人的には仏教徒に改宗することで、実は潜伏キリシタンとしての存続が可能になったとも思えるので、実のところはどうだったのか、鈴木兄弟に聞いてみたいくらいです。
> 富岡城は立派なお城ですね。三重構造の石垣が戦乱の時代を表していますね。
> 天草にこのようなお城があることを初めて知りました。
実はチェックインの時間にちょっと早かったのと、通り道にあって眺めも良さそうでしたので寄ってみました。
夫と義理の姉には、散歩した方が夕食を美味しくいただけると説得して行きました。笑笑
> 急遽決められたご旅行だったそうですけど、良いホテルを確保できて
> 良かったですね。
> くまモンが迎えてくれるとやっぱり嬉しいしほっこりしますね^^
はい、そうですね。ありがとうございます。
くまモン、可愛いです。
> 海を望めるお部屋も最高☆彡
> そして天草天然伊勢海老のお造りや伊勢海老グリルをはじめとする
> ご馳走の数々に目が釘付けになりました。
> ご朝食の小鉢類も可愛くて、右上の椿(かしら?)の小鉢が欲しくなりました。
以前、天草の牛深と言う所に義母も一緒に出かけた時は、やはり伊勢海老目当てだったのですが、期待はずれでした。実は今回もあまり期待しないように夫と義理の姉には言っておいたのですが、思ったよりも良くてラッキーでした。
器も流石sanaboさん、お目に留まりましたね。私も気になってました。
> 背伸びする猫ちゃんの激写は可愛すぎまーす!
ホントに可愛かったです。よっぽどお腹がすいてたのかなぁ〜と思いました。
ずっーーーーっと待っていたんです。
> 堤防に描かれたカラフルな魚たちはユニークで楽しいですね?
> 絵のタッチがヨーロッパで見る壁画のようで、お目目パッチリの
> まつ毛の長い緑の魚ちゃんや大きなお口を開けてる青い魚など
> それぞれがとても個性的です(´艸`*)
凄いですね。私はぼーっとして写真撮ってました。汗汗
> 大江天主堂と崎津天主堂の中に入れなかったのは残念でしたけど、
> 窓から撮られたお写真がとてもよく撮れていて中の様子がよく
> わかりました。
祭壇のあたりが、あまり見えなくてちょっと残念でしたが。
> 竹のパイプオルガンは見てビックリ、そして心地よい音色を奏でると
> お聞きしてさらにビックリしました。
私も竹には吃驚しました。尺八などならわかりますが。
まさか竹のパイプオルガンなんて。
> この地ではいちじくが「南蛮柿」と呼ばれているそうですね。
> 「天正遣欧少年使節」の引率者メスキータ神父が
> いちじくの木をリスボンから持ってきたとは衝撃の真実でした!
そうですね。意外な物を持ち込んでいました。
ずっと日本にあるのだと思っていました。
でも確かにヨーロッパ多いですね。いつもお土産に買ってきてますし。
> 天草の歴史や天正遣欧少年使節団に関する詳しい記述も
> 興味深く読ませていただき、大変勉強になりました。
> いつもながらですけど、素晴らしい力作を心に響く
> 心地よい解説とともに楽しませていただきました。
そんなそんなトンデモないです。
そもそも現地では、あまりネガティブなな情報は残されていませんでした。
たまたま、読んでいた遠藤周作の本に掲載されていました。
知らない方が良かったかもしれませんが、その反面なるほどと頷ける事もありました。
sanaboさんも、どうぞご自愛くださいね。
noel
-
- たらよろさん 2020/10/10 19:42:11
- ニャンコが!!!
- こんばんは、noelさん
天草は行きたい場所、ナンバーワンなんですよねー
なかなか行けてないんだけれど、
やっぱり、キリシタンの世界を求めて、
教会巡りをしてみたい~♪
それにしても、ニャンコが可愛い。。。
この立ち姿、これは反則ですねー♪
天草に行く時には、ぜひバイブルにしたいと思います♪
たらよろ
- noelさん からの返信 2020/10/11 13:53:51
- RE: ニャンコが!!!
- たらよろさん、こんにちは
いつもありがとうございます。
> 天草は行きたい場所、ナンバーワンなんですよねー
> なかなか行けてないんだけれど、
> やっぱり、キリシタンの世界を求めて、
> 教会巡りをしてみたい?♪
行きたい場所ナンバーワンだったんですね。
色々な場所にお出かけされてるたらよろさん、そう言っていただけると天草の人たちも喜びそうです。
食べ物も美味しいですし、私も好きな場所です。
何度か行ってますが、今までは教会に行ってなかったので、今回初めて行きました。
> それにしても、ニャンコが可愛い。。。
> この立ち姿、これは反則ですねー♪
そうですよね。
よっぽどお腹がすいてたのか、じーーーーっと待っていて、しまいには立っておねだりポーズでした。
> 天草に行く時には、ぜひバイブルにしたいと思います♪
そんな、トンデモないです。お恥ずかしい汗汗
でも、そう言っていただき嬉しく思います。
どうぞ、機会がありましたら、天草に行ってらして下さいね。
ありがとうございました。
noel
-
- ishigantouさん 2020/10/10 01:27:59
- 奇遇です
- noelさん、こんばんわ。
まだ旅行記を書けない状態ですが、何と僕も9/20日に熊本に入り、21日に天草に行きました。レンタカーを借りて熊本市内から行ったのですが、連休中だったためか道が凄く混んでいて、天草では教会2か所とコレジョ館しか周れませんでした。ただその前に明治に開港され、特別輸出港に指定された「三角西港」に寄って来ました。そこには建物がいくつか残っていて、小泉八雲が宿泊した‘浦島屋’なども移築保存されてました。
そのうち旅行記をアップします。
- noelさん からの返信 2020/10/10 16:43:21
- Re: 奇遇です
- ishigantouさん、こんにちは。
いつもありがとうございます。
それにしても奇遇ですね。ちょっと日程がずれてたら、すれ違っていたかもしれません。
やはり連休中は、混んでいたんですね。お疲れ様でした。
三角西港にも行かれたんですね。だいぶ前に三角には行ったことがありますが、八雲の浦島屋など観てないです。
また、機会があったら行ってみたいです。
では、ishigantouさんの旅行記も楽しみにしています。
noel
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