2009/06/24 - 2009/06/26
168位(同エリア837件中)
まさとしさん
6/23 東京(1250)~TK051~イスタンブール(1940) AKGUN ISTANBUL
6/24 イスタンブール(845)~TK1457~キエフ(1045) Kiev Lodging Hostel
6/25 キエフ(チェルノブイリ原子力発電所1日ツアー) Kiev Lodging Hostel
6/26 キエフ(837)~キシニョウ HOTEL Zarea
6/27 キシニョウ(1100)~ブカレスト HOTEL CARPATI
6/28 ブカレスト(2121)~ 車中泊
6/29 ~ベオグラード~ 車中泊
6/30 ポドゴリツァ(755)~コトル HOTEL MARIJA
7/1 コトル(858)~バール(1145)~ウルツィニ(1230)~▼~シュコダル~ティラナ ▼Vila Verae
7/2 ティラナ(555)~ポグラデック~スヴェタ・ナウム~オフリド 民宿/オフリド
7/3 オフリド~スコピエ~プリシティナ~ミトロビツァ Hotel Genti
7/4 ミトロビツァ~プリシティナ(1630)~ティラナ Vila Verae
7/5 ティラナ Vila Verae
7/6 ティラナ(1000)~TK1474~イスタンブール(1235) SERES HOTEL
7/7 イスタンブール(1710)~TK50~ 機内
7/8 ~東京(1100)
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11時にウクライナのキエフ・ボリスピリ空港に到着した。一見どこかの地方空港かと思うくらい古びた昔ながらの空港だ。
入国審査の行列は長く、進みも遅いのでかなり待たされた。荷物を受け取り到着ロビーに出た。
今回は珍しく空港送迎をお願いしていたので到着ロビーで自分の名前を探した。
すぐに僕の名前が大きく書かれた紙を持ったウクライナ人男性を発見。握手をして車へ案内してもらった。
迎えに来てもらったのは明日のチェルノブイリツアーのガイドの友人で、タクシーより割安だった事もあるが、僕が無事キエフに到着し宿泊先を友人であるこの運転手を通してガイドに伝えるための送迎だ。 -
さすがに送迎は便利だ。個人だと今頃市内へのバス乗場を必死になって探していたかもしれない。
空港からハイウェイを20分ほど走った。最高速度が130キロというのには驚きだ。 -
キエフの町が見えてきた。キエフは丘の上に建設された歴史都市だ。
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あっという間にキエフの都会へ滑り込んだ。整然と区画整備された町並み。広い歩道には街路樹が並び、300万人都市だというのに町の中心部は落ち着いた雰囲気で都会の謙遜というのは今ひとつ感じられない。日差しが強いからか町並みは明るい。
高台に街の中心があり、途中両替所によってもらったあと予約してあるホステルの前につけてもらった。送迎の代金は150グリブナ(1950円)。タクシーだと250グリブナ(3250円)位かかるらしいので少し安い。
でも空港バスだと地下鉄を乗り継ぎただ同然でここまでこられたが、こんなにスムーズにホステルまでこられなかっただろう。とにかくキエフでは時間がない。キエフで観光できる時間は事実上今日の午後だけだ。明日は1日チェルノブイリでつぶれてしまい、明後日の朝にはキエフを出発しないといけない。
ここでゆっくりしているとあとの日程が詰まって行けない場所が出てくる。そんなことからキエフは今日が最初で最後の日なので多少疲れていても観光しなければ後悔することになる。キエフの街も観光する場所は限られているので実際半日もあれば十分だと思う。あらかじめ観光ルートは決めてある。 -
キエフで滞在するホステルは日本で予約した「キエフロッジ」という場所でアパートの2階にある。
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建物の外には目印がなく、かろうじてチャイムの横にそれらしき印があった。
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ホステルの値段は1泊20ユーロ(2800円)もするが簡素なドミトリーで他にもあるホステルとどこも同じような相場らしい。物価が安いウクライナで宿泊費だけはやたらと高く感じる。でもホステルはアットホームな雰囲気でキッチンなども完備し、インターネットは自由に使うことができる。
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ホステルでくつろぐ間もなく外へ出た。
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宿は独立広場の近くにあり、立地条件は文句なし。地下鉄の駅も近いのでどこへ行くのも便利だ。
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こちらはウクライナ独立記念碑。ウクライナ自体独立したのが1991年なのでこれらの名所に歴史はない。記念碑も10年ほど前に出来たらしくまだ新しい。
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ウクライナの町の中心は高台の植木あるのでドニエプル川の方へ歩いて行くと下町が一望できる場所がある。
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中心部の北側にウラジーミルの丘という公園があり、ここから下町へケーブルカーが運行されている。料金は片道20円ほど。
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下町に到着したがすぐ上に戻ることにした。
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ウラジーミルの丘のケーブルカーの駅近くには聖ミハイ黄金ドーム修道院がある。
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キエフ最古の教会「ソフィア大聖堂」
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これはアンドレイ教会。
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キエフで一番観光客が集まるウラジーミルの丘やアンドレイ坂を散歩した後、下町へ行ってみた。
坂の下にある下町も賑やかな街でトラムが走っている。 -
庶民でにぎわっている下町の一角にチェルノブイリ博物館がある。下町に来たのかこの博物館に入るのが目的だ。
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チェルノブイリ博物館には事故の再救援活動に使用された作業者が展示されている。比較的放射能汚染が少ない車両で汚染された危険な車両はまだチェルノブイリに残されている。
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博物館の内部。
キリル文字なのでまったく理解できないが展示されている資料はかなり多い。 -
2階が展示場だ。
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時計の時刻は事故が起きた時間だ。
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チェルノブイリ原子力発電所の事故を起こした4号炉の模型。
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こちらは慰霊スペース。
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被爆した子供たちの写真が壁一面に貼られている。
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事故処理の際、使用された防護服だが、実際はこのような服で放射能を防御できるわけもなく、事故処理をした人はすべて高濃度の放射能を浴び被爆し、その後亡くなっている。
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博物館の見学を終え 地下鉄で国鉄キエフ駅へ向かうことにした。次の目的地モルドヴァの首都キシニョウへの列車の切符を買うためだ。
この建物の1階に地下鉄の駅の入り口がある。少しわかりづらい。 -
ウクライナの地下鉄も他の旧ソ連諸国と同じでジェトンというプラスチックのコインを改札機に入れて通る仕組みだ。1回1.70グリヴナ(22円)とかなり安い。
ウクライナは交通費だけは極端に安いようだ。
ホームへの長いエスカレータは旧ソ連圏のスタンダード。 -
ホームには今でもレーニンの顔のオブジェが飾られている。
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車両はもちろん旧ソ連製。
駅名はキリル文字のみなのでわかりづらく。うっかりしていると逆方向の列車に乗ってしまう。ただ乗ってしまえば車内にある液晶テレビに次の駅名が表示されるのでわかりやすい。 -
バクザリーナ駅(ウクライナ語で駅)で下車。地上へ向かった。
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人でごった返すキエフ駅にやってきた。人混みをかき分け駅舎の中の切符売り場へ向かった。
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豪華なキエフ駅構内。この駅舎は最近完成したばかりでまだ新しい。
明後日のキシニョウへの出発時間や値段はガイドのアレクセイさんに聞いていたので列車はあらかじめ決めてある。
予約するのは朝8時台に出発する列車で一番安い座席車だ。値段は22ユーロと安い。しかし30カ所ぐらいある窓口のどこに並んでいいのかわからない。大半の窓口は長蛇の列でおそらく短距離列車の切符売り場のようだ。列が短い窓口が5カ所ほどあり、試しに並んでみることにした。すると勘は当たりキシニョウ行きを買えるようだ。紙を見せたらなにやら話しかけてきた。何等車にするのか聞いてきたようで「値段が240グリブナ」と指示すると理解してくれたようであっさり購入することができた。
言葉のわからない国では行き先や等級、日付や列車番号などを紙に書いて見せるのだが、それに対して何か話しかけられると理解できないのでドキッとするが、今回は勘がさえていたので面倒くさい状況に落ちいらなくて良かった。 -
キエフ駅からホステルまで歩いて戻ることにした。坂の多い町で歩くと結構疲れる。途中ウラジミール聖堂に立ち寄った。
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その後、黄金の門に行ってみた。
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ここは展望台になっていたので上ることが出来たが、見晴らしはいまいち。
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キエフで滞在した宿界隈。ヨーロッパでは夕方になると時差ボケのピークがやってくる。疲れたので宿に戻ることにした。
(6月25日)
今日一日チェルノブイリ居住禁止区域の見学に行くことになっている。
チェルノブイリへの専用車は8時にホステルの前まで迎えに来てもらうことになっている。ホステル前の路上で待っているとガイドのおじさんがやってきた。今までチェルノブイリのツアーの打ち合わせを国際電話やメールでやりとりしてきた日本語ガイドだ。今日一日同行してもらう事になる。車に案内され、そこで運転手兼立ち入り禁止区域のガイドを紹介された。彼ら二人とチェルノブイリ立ち入り禁止区域内を行動することになる。
すぐにキエフを出発し北へ向かった。チェルノブイリツアーは日帰りにもかかわらず高額な費用がかかり、その場で現金で支払った。北朝鮮以来の高額な出費となる。よほどの物好きしか参加しないのだろう。ガイドにどんな人が参加するのか聞いたら、どうやら年間4〜5人(組)の日本人が参加しているようでほとんどがジャーナリストかカメラマンだとのこと。僕のこともジャーナリストだと思っていたらしい。 -
チェルノブイリ原発はキエフから北へ百キロほどの距離にある。車で二時間ほどの距離だ。北へ行くほど人口も減り、交通量は減る。
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禁止区域内にも買い物をする店はあるらしいが、ここでジュースと朝食のパンを購入した。
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チェルノブイリへ向かう途中、ある記念碑に立ち寄った。リクビダートル(掃除人)と呼ばれる人たちの記念碑だ。事故直後消防車で原発の消火作業に当たった人たちのことで彼らはたいした装備も付けず、何も知らされないまま危険な任務を命じられ、すさまじい放射能を浴び死んでいった人たちだ。事
事故現場を覆う石棺工事も彼らの手で行われた。誰かが行わなくてはならない作業に従事し、彼らのおかげで世界が放射能汚染から救われた。そう意味でリクビダートルはいわば人類の英雄だ。 -
記念碑のプレートには名前ではなく作業者の番号が刻まれていた。
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その後給油。
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キエフから2時間。
10時過ぎにチェルノブイリ原発の制限区域(居住禁止区域)の検問所に到着した。この先は許可がない先に進めない。とはいえこの辺りの放射能は基準値と大差はないようだ。 -
検問所のバリケード。この先が制限区域になる。一般の人はここまでしか来ることは出来ない。
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いよいよ制限区域へ。ここから急に道が悪くなった。半永久的に人が住めなくなった地区の道路なので補修は満足にされていないから無理もない。
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チェルノブイリ制限区域の入域許可書を持つ日本語ガイド。
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しばらく走るとチェルノブイリの案内表示が見えてきた。
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キリル文字だが「チェルノブイリ」と書かれている。
チェルノブイリは原発の町だったことが絵で表現されている。 -
こちらは地図と共にチェルノブイリ市についての案内が表示されている。
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この斜めの線が入ったチェルノブイリの看板は反対車線の表示で「ここまでがチェルノブイリ」という意味。
制限区域はまさに「死のエリア」。道路は必要な区間以外はすべて閉鎖されている。
北へ進み立ち入り禁止区域にあるチェルノブイリ市のビジターセンターらしき場所に連れて行かれた。死のエリアだと思っていたが、この界隈で働いている人は結構多い。
ビジターセンターの建物は国営ホテルでもあり、食堂にもなっていて昼食はここに戻ることになる。2日以上のツアーに参加した場合、この建物で宿泊することになる。ただ宿泊施設の設備はあまりいいとは言えない。 -
ここでチェルノブイリ原子力発電所に行くための手続きを行い、建物の一室で今日これからどのように制限区域を回るか地図を使って打ち合わせをすることになった。
チェルノブイリについての説明をしてくれるガイド。 -
制限区域(居住禁止区域)はかなり広範囲に広がり、に帰りで回れる場所はかなり限られてくる。
これからまずチェルノブイリ市内の見所を回り、昼食を食べてからチェルノブイリ原発とプリピャチ市へ行くことになった。
ちなみに原発があるのはチェルノブイリ市ではなく、北へ20キロほど行ったプリピャチ市になる。
ソ連時代プリピャチ市は地図上に存在しない軍事機密の都市だった。 -
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チェルノブイリ市の町並み。荒廃した雰囲気だが、建物は今でもここで働く人の宿舎として利用されている。
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チェルノブイリ市のスタジアムだった広場にやってきた。
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ここには事故後の消火活動に従事したリクビダートル(清掃人)が使用した作業車が放置されている。
これらの車にはまだ強い放射能が残っているので近づかない方がいいらしい。 -
そんなわけで放射能測定器であるガイガーカウンターを使用して近づいたが、基準値を大きく上回ることはなかった。
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消防車や給水車が消火作業の主役になった。
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戦車みたいなものもあるが、戦車に乗っている間は放射能汚染を軽減されるとされていたらしい。
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スタジアムを離れた。チェルノブイリ市内では職員用のバスが走っている。
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その後船の墓場と呼ばれる場所へ向かった。
冷却水を確保するために作られた人造湖で今ではその役目を終えている。周辺は人がいなくなったこともあり美しい自然が広がっている。 -
その人造湖のほとりには船が打ち上げられ放置されていた。いわゆる「船の墓場」と呼ばれる場所だ。
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ただ事故から23年。川辺に打ち上げられた船の多くは撤去解体され、ほとんど姿を消してしまった。でもまだ少しだけ船の残骸が残っている。
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当時消火作業の拠点となった消防署が今でもチェルノブイリ市内にあり、建物の前にはモニュメントが建っている。
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チェルノブイリ大聖堂。廃墟ではなく現在も使われている教会だ。
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教会の敷地内には平和の鐘がある。鐘を鳴らすアレクセイさん。
鐘の向こうには原子力発電所に関連する送電線が見渡せた。 -
チェルノブイリ市内には使われなくなった家屋を頻繁に目にする。
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そんな中、一帯が森になっている場所が多く、山の中を走っているのかと思っていると、森の中に一戸建ての家が埋もれているのを至るところで目にする。この森一帯はかつて比較的高級な一戸建ての住宅街だったようだ。
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それが23年間放置され木々の覆われてしまったようだ。高級住宅街の廃墟。
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こちらも木に覆われてしまった一戸建ての廃墟。
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しばらくは走るとヘリコプターで消火作業に従事したリクビダートルの慰霊碑があった。
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近くにはヘリコプターが安置されている。これは放置されているわけではないらしい。
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その後、チェルノブイリ市原発を遠くに望めるプリピャチ川の橋の上に行ってみた。
かつては周辺の町を結ぶ幹線道路だったようで橋の上まで照明が完備され、この周辺の電力が豊富だったことが伺える。 -
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ここから初めて事故を起こしたチェルノブイリ原発4号炉の石棺、そして周辺の原子力プラント一帯を肉眼で目にすることになった。ここから4号炉の石棺まではまだ10キロ以上も離れている。幸い今日は天気がいいので遙か遠くまでよく見える。周辺は交通量が少なく人がいないので空気が澄んでいるのも理由かもしれない。
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一旦ビジターセンターに戻って昼食をとることになる。
途中バーがあり、昼前から一杯やることになった。また昼食のウォッカもガイドがここで勝手に購入していた。 -
居住禁止区域とはいえ、働く人の憩いの場所としてこのようなバーが存在する。ここで働く人は放射能汚染を避けるため長期間とどまることは良くないので普通の人より労働時間が短いようだ。たとえば3日働いて禁止区域の外で4日休むといった感じだ。
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ビジターセンターでの昼食。
メニューはウクライナ料理のフルコースでかなりのボリュームだ。15ドルを別に支払ったのでかなり豪華だ。メインはチキンの揚げ物。ただ昼間からウォッカが出てくるのは勘弁してもらいたい。
なんでもウォッカを飲むと放射能を浄化する効果があるとのことだが、そんな科学的根拠は聞いたことがない。そんなことで解決していれば、社会問題にもならずここに僕が来る事もなかっただろう。
この食堂は周辺で働く従業員用のレストランらしい。昼食時でたくさんの人が食事にやってくる。立ち入り禁止区域では予想以上に多くの人が働いていいることに驚いた。 -
食後、今日のハイライトであるチェルノブイリ原発へ向かった。
この道をまっすぐ進むと発電所だ。ここから20キロほど先になる。 -
やがて前方に大規模な送電線が見えてきた。旧ソ連最大級だった原子力発電所は近い。
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まず最初に見えてきたのは冷却水用のタンクだ。
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その横で建設途中の原子力発電所5号炉の廃墟がそびえ立っていた。23年前の春事故が起こった時に工事は中断し、当時のまま放置されている。
クレーンなどもそのままだ。 -
そしてこれが事故を起こしたチェルノブイリ原子力発電所4号炉だ。火災を起こされた部分はコンクリートで固められ放射能は封じ込められている。
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原子力プラントに到着した。
建物前の広場の銅像は「プロメテウスの炎」。
この彫刻はチェルノブイリの街の中心にあった。事故のあとこの場所に移された。 -
原発横の冷却水に利用されていた池には大きなナマズがいる。昔は釣って食べていたらしいが、今では放射能に汚染されてみんな餌はやるが誰も釣らなくなりどんどん大きくなってしまったようだ。中には2メートルくらいある大ナマズもいる。まるでワニみたいだ。
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冷却水用貯水池にかかる鉄橋。
事故を起こした4号炉をはじめ周辺の原子力プラントは現在原子力発電所としては機能していないが、原子力事業所として石棺の管理・補修作業が半永久的に行われることになる。
チェルノブイリ原発の石棺内部の放射能を除去することは不可能で現在も95パーセント以上の放射能がこの中に押し込められている。
基本的に原子力プラントの建物は撮影禁止で決まった場所からしか撮影できない。その理由は原発自体テロの標的になる可能性もあり、万が一攻撃を受けた際はとんでもないことになる。そのような理由で禁止事項は尊重しなくてはならない。
撮影禁止の場所から原子力プラントを見て、チェルノブイリの事故が目に見えないものだという事が実感できる。巨大な平屋の建物の先端の一部が煙突のある4号炉になっているのがわかる。
4号炉の石棺と繋がっている建物は今でも人が働いている。追加料金を払い滞在期間をのばせ原発事務所内部も見学できるとのことだ。放射線測定器を取り出して確認するとこの辺りはそれほど高い数値ではない。何でも昨日雨が降ったようでその影響か今日はいつもより数値が低いとのこと。これはラッキーというべきなのだろうか。
チェルノブイリ事故は広島のように原子爆弾が爆発したような状態になったと思っている人も多いようだが、4号炉の爆発や火災自体たいしたことはなく、問題はそこから漏れた(放射能という)見えない物質だ。実に広島原爆の500倍の放射能が放出された。
石棺の周辺の建物は何の変哲のない発電所で今でこそ稼働は停止したが、隣にある1〜3号炉は無傷で事故後も2000年前まで稼働していただから驚きだ。また周辺には鉄道が通っていて今でも従業員のために列車が運行されているらしい。
だいたい周辺の危険ゾーンで勤務している人は4日働いて3日間は安全な場所で休むと行った生活を送っているらしい。でも放射能が人間に与える影響などまだ解明されていない部分は多い。休んだからといって無害なわけがない。できれば関わりたくないが、それを承知でここでの勤務に携わっている人はこれ以上の放射能が漏れるのを防ぐために貢献しているわけで尊敬されるべきなのかもしれない。
まさに現役のリクビダートルだ。 -
撮影可能な位置に車で移動し、4号炉の石棺を写真におさめた。
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発電所前には慰霊碑が建てられている。 -
事故直後、突貫工事で作られた石棺はいつ崩れてもおかしくない状態だった。
それが昨年新しい石棺が完成し、当分の間大丈夫になったとのことだ。チェルノブイリと言えばこの角度から撮影されるのが一般的だ。一歩ずつ近づくごとに放射能測定器の数値が上がる。 -
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その後、原発従業員たちの家族が住んでいたプリピャチ市へ向かった。
走ること数キロ。
プリピャチ市はそのすべてがチェルノブイリで働く従業員とその家族の町だった。 -
プリピャチに入る前に再び検問所があった。その先には生い茂った木々の中からそびえる不気味な高層アパート群が見える。
突然退去命令がでた1986年4月26日。それ以降23年間そのままの状態で放置された無人の都市廃墟だ。戦争で廃墟になった場所はまた人が戻ることは可能だ。しかし放射能で汚染されたこの場所に永遠に人が戻ることはない捨てられた町だ。 -
プリピャチの街へ入った。
ここはメインストリートだった道路だが、言われなければわからないただの森だ。
目をこらして森の中に目を向けると建物が埋もれているのが確認できる。 -
木々は高層マンションと同じ高さまで成長している。
なんとも不気味で不思議な光景だ。 -
そんな中、廃墟になったプリピャチの中心部にある文化センターにやってきた。
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その横には街で一番のホテルだった建物がある。名前はホテル・ポリシア。
ポリシアは、チェルノブイリ地域がある地方の名前だ。 -
プリピャチで一番高い高層アパートだ建物が見える。
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まず文化センターの廃墟に潜入してみることにした。
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プリピャチの文化センターの廃墟。
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昨日の雨の影響で建物の中は雨漏りがひどく、ひどい有様だ。建物の石灰が溶けて小さな鍾乳洞のようになっている場所もある。
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天井は比較的きれいだ。
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文化センター内にある劇場も荒れ果て酷い有様だ。
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文化センターの内部。
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文化センターから町の中心に位置する広場を眺める。
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次に向かったのは文化会館の裏手にある遊園地だ。
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アトラクションがそのまま残っている。
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観覧車は建設途中で事故が発生し、一度も子供たちが乗ることはなかったようだ。
コンクリートの割れ目から育った黄色い花がきれいだ。 -
その後プリチャピの学校に行ってみた。学校の廃墟ほど気味の悪い場所はない。最初に入ったのは体育館だ。
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空気の入ったボールや抜けたボール。蹴飛ばすと壁の方まで飛んでいった。
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照明が落下し、木でできた床が腐り、体育の授業で使ったバスケットボールがそのまま放置されている。
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とにかく足場は悪く、頭上もいつ何が落ちてくるかわからない危険な場所だ。
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別角度から見た体育館内部。
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ここは体育館の隣にあった特殊教室だろうか。
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本校舎に入り、二階へ上がってみた。
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二階の廊下に出た。ずいぶん広い。
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そしてこれは教室の内部だ。
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教室には子供たちが使っていたノートや教科書、テストの答案など23年前のそのままの状態で放置されている。
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散乱した教科書やノート。
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薄気味悪い人形が置き去りにされていた。
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理科の教材か。
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こちらは図工で使われたのか絵の具らしきものが。
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トイレ。
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荒れ果てた校舎を離れることにした。
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その後プリピャチで終始気になっていた一番高い建物である16階建ての高層アパートに上ることになった。
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入り口付近は茂みに覆われている。
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入り口にある郵便受け。
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エレベーターがあるが、動かないので階段で16階まで登ることになる。
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開いたままのエレベーターの扉から中をのぞいてみた。
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12階付近でエレベーターの籠は宙づりになっていた。
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屋上までやってきた。
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屋上からの眺め。プリピャチは事故直前人口は47500人。人が住んでいたアパートはそのままだが、建物の周りは気に囲まれている。
静けさが不気味な都市廃墟だ。 -
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遊園地の観覧車が見える。
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最初に見学した文化センターとホテルを見下ろすことができる。
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そしてもちろんチェルノブイリ原子力発電所4号炉の石棺も見渡せる。事故当時たくさんの野次馬がこの屋上から発電所の火事を見守ったらしい。
そして致死量の放射線を浴びてしまった。 -
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アパートの階段を下りる途中アパートの部屋に入ってみた。部屋の中に残されているのはソファーや家具のみだ。写真や小物など思い出の品は一時帰宅の際すべて持ち出されたようだ。
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1階まで降りてきた。
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高層アパートをあとに。そしてプリピャチの街を離れることにした。
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プリピャチを出てしばらくすると「死の橋」と呼ばれる場所にさしかかった。
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原子力発電所からプリピャチへ向かう途中にある鉄橋で、ここからは原子力発電所がよく見える。事故の夜、ここの橋にたくさんの野次馬が集まった。そして火事の様子を見守っていた人はすべて致死量の放射線を浴びて亡くなった。
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橋の下は鉄道が通っていたが今は廃線になっている。
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プリピャチの街を離れた。
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プリピャチの入り口を通過する際、案内表示と地図あった。
帰り道、立ち入り禁止区域に住んでいるサモショールの家を訪ねることになった。サモショールとは立ち退きを拒否してそのまま禁止区域に住み続けている人たちで政府は黙認し電気も供給し続けている。それらの村は何カ所かあり、運転手の知り合いがいるというオターシェフという村へ行くことにした。
車はどんどん原発から離れ、南へ向かう。何となくではあるが原発から離れることで気分的に楽になっている気がする。チェルノブイリは来てみたい場所だが実際はあまり長くいたい場所ではない。 -
チェルノブイリの禁止区域には従業員が生活していることもあり、スーパーなどもある。
チェルノブイリのバスターミナルに到着した。
禁止区域とはいえ定期バスが運行されている。もちろん一般の人は乗車できない。 -
バスターミナルの中にあるマーケットがあり、ここでサモショールの村の人に渡すおみやげを買うことにした。
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水と油、パンやソーセージに甘い飴などを購入する。2軒回るので2軒分買い込んだ。
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向かった先の家ではおばあさんが一人で暮らしていた。
集落になっていて他の家のおばあさんたちで仲良く暮らしているようだ。畑がありそこで自給自足に近い生活を送っている。ここでもウォッカを勧められ、おばあさんたちもよく飲む。 -
庭では鶏が飼われていた。
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通信手段はラジオ電話。
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訪問したおばあさんの家で。
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彼女たちはサモショールと呼ばれる不法移住者だが彼女たちは強制移住させてもそこで慣れない生活をして余計なストレスを抱え込むだけだろうということでそのまま立ち入り禁止区域で生活することを認められた人たちだ。お年寄りにとっては放射能汚染よりも慣れない土地に移住させられる事の方が問題なのだ。
庭では野菜が栽培されている。 -
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シャワーらしいがこれでは冬は凍結して使えないだろう。。
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サモショールの集落を離れ、18時過ぎに立ち入り禁止区域の検問所にさしかかった。最後にここで体に放射能がついていないかチェックを受けることになる。すると僕の足から反応が出た。靴に土が付いていたからだろうか。でも他の機械で検査を受けると反応しなかったのでそのまま通してもらえた。
ソ連製のアナログ機械なのでどこまで信頼できるのか怪しい限りだが、反応が出たので少し驚いた。
キエフまでは2時間。来た道を南下し夜8時前にはホステルに到着した。12時間のツアーだったがそれなりに満足のいく内容だった。ただもう少し料金が安ければ良かったのだが。 -
キエフに戻ってきた。
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(6月26日)
キエフの朝は遅い。同室の旅行者は8時前になっても誰も起きようとしない。宿のスタッフも半分寝ている。そんな中、7時半に荷物をまとめ、宿を出発した。
通りはまだ人はまばらだ。キエフに限らずヨーロッパの朝は遅い。そんな中地下鉄に乗り込んだらそれなりに通勤ラッシュで混雑していた。 -
8時にキエフ駅に到着した。
この界隈は朝から活気があり、たくさんの人が行き交う。 -
キシニョウ行きの列車の発着ホームを確認し乗場へと向かった。
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到着したのはモスクワからの国際列車でモルドヴァの首都キシニョウへ向かう。列車は当然ロシア製の客車で二等の開放寝台。
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車内はそれなりに人がいるが窮屈さを感じるほどではない。
昼間でもシーツが準備されるので横になってくつろげる。 -
途中の停車駅で物売りやってくるがウクライナの通貨をユーロに戻してしまったので買い物ができない。腹が減ってきたが我慢するしかなさそうだ。
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国境に着く頃には車内はガラガラだ。ウクライナ国内の乗客がほとんどだったようだ。
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国境付近は丘陵地帯になっていてのんびりした車窓が広がる。しかし天気も悪くなってきた。空は真っ暗ですごい雷雨だ。黒海からの湿った空気がこの一体の山にぶつかり降水量が多い場所なのだろうか。しばらくして雨はやんだ。ゆっくりとしたスピードで車窓からのどかな川や村を見下ろしているとスイスにいるみたいだ。あくまで雰囲気がそうなだけでそこにある家は貧相だ。
モルドヴァへは電化はされておらずディーゼル機関車が牽引している。 -
午後4時30分にモルドヴァに入国。モルドヴァ最初のバルチネツ駅に到着した。モルドヴァの鉄道はすべて電化されていない。旧ソ連ではまさに僻地であり西の果てだ。チェルノブイリなど原発の乱立などでかつての共産圏では電力が豊富だというイメージがあるが、意外な感じがする。国境へはディーゼル機関車が長大編成を牽引している。
モルドヴァもウクライナも出入国手続きや税関は至ってスムーズ。質問もなく荷物を調べられることもない。もはや国境の役人の腐敗ぶりは伝説になりつつあるようだ。 -
バルチネツ駅舎。ウクライナ語とモルドヴァ語が併記されている。
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旅行記グループ
2009年 旧ソ連圏を含む東欧諸国
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2009/06/23~
イスタンブール
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2009/06/26~
キシニョウ
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2009年 旧ソ連圏を含む東欧諸国-A(トルコ編)/イスタンブール空港乗り継ぎ
2009/06/23~
イスタンブール
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