2017/09/19 - 2017/09/21
1786位(同エリア4299件中)
tomoさん
この旅行記のスケジュール
もっと見る
閉じる
この旅行記スケジュールを元に
2泊3日の函館新選組巡り一人旅1日目。
函館到着後、まず五稜郭に行きました。
今回は、昼食から。長いです。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 3.5
- グルメ
- 4.0
- ショッピング
- 4.0
- 交通
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 10万円 - 15万円
- 交通手段
- レンタカー JALグループ
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
昼食は函館のご当地バーガー、ラッキーピエロへ。
五稜郭のすぐ近くにあります。ラッキーピエロ 五稜郭公園前店 グルメ・レストラン
-
ラッキーピエロのお土産ベスト10。
私は買いませんでしたが、色々ありました。 -
メニュー。
どうしてラッキーピエロに来たかと言うと、「土方歳三ホタテバーガー」という人気メニューがあったらしいんです。それが食べたかったんです。
でも私が行った時にはもうありませんでした(;_;) -
で、食べたのは一番人気というチャイニーズチキンバーガー。
味は覚えてないけど、「美味しい」って家族にlineしたのは覚えてます(笑) -
セットのポテト。
店内は混んでて、結構待ちました。
お客さんは中国人らしき方々が多かったです。 -
昼食後、レンタカーのある駐車場へ。
五稜郭タワーとはこれでお別れ。 -
2泊3日、旅の相棒だったレンタカー。
お世話になりました。
この子のおかげで快適に旅ができました。 -
まず向かったのはここ。
車で10分近くのところにある、亀田八幡宮。亀田八幡宮 寺・神社・教会
-
亀田八幡宮は、箱館戦争の降伏の地です。
明治2(1869)年5月17日、旧幕府軍の榎本武揚は、この地で降伏を誓約しました。 -
ピンボケしてるけど鳥居。
-
鳥居アップ。
-
境内。
-
旧拝殿と、「箱館戦争降伏式之地」の石碑。
-
この「箱館戦争降伏式之地」という石碑は、2012年(平成24年)に建立されたそうです。形は刀の切先をイメージしているとか。
これ凄いのが、碑銘は榎本武揚の曾孫である榎本隆充氏が書いているということ!
直径子孫の方が書いているのは、感慨深いですね。 -
御朱印もいただきました。
ここでびっくりしたのが、御朱印の料金が「お気持ち」だったこと…
函館では3か所で御朱印を頂きましたが、すべて「お気持ち」でした。
今まで「お気持ち」だったことがなかったのでどうしようかと思いましたが…そして300円か500円かで迷いましたが…
たしか500円払いました。
これ相場が分からないと悩みますね(^^;) -
御朱印を頂いた時に弾痕の場所も聞きまして、ここにあると教えて頂きました。
箱館戦争時、ここも戦場となっていたので、弾痕が数多く残っています。 -
これとか…
-
これとか…
-
至る所に弾痕がありました。
戦争の激しさを物語っていますね。 -
亀田八幡宮を後にして、次に向かったのは「土方歳三最期の地」。
車で5,6分。土方歳三最期の地碑(若松緑地公園内) 名所・史跡
-
総合福祉センターの敷地内、若松緑地という公園の中にあります。
-
この奥に行くと…
-
ありました。
-
土方歳三最期の地の案内。
最期の地には諸説あるのですが、この一本木関門が最有力のようです。 -
明治2(1869)年5月11日、土方さんは五稜郭から、島田魁(新選組仲間)らが守っていた弁天台場が新政府軍に包囲されたのを救出するため、五稜郭からこの一本木関門付近まで来て応戦、馬上で指揮を執っていたそうです。
最期についても諸説ありますが、腹部に銃弾を受け、落馬したとか。
一説には、味方に狙撃されたという話もありますが…(早く降伏したいのに徹底抗戦を主張する彼が邪魔に…) -
遺体の行方も謎のままです。
仲間がすぐに斬首し近くに埋めたとか、五稜郭に持ち帰ったとか、色々な説がありますが…本当の所は分かりません。 -
きれいな花が供えられています。
土方さんが、今もいかに愛されているかが分かりますね。 -
今まで日野、京都、会津と、新選組と土方さんの軌跡を辿ってきましたが、とうとうこの最期の地まで来たんだ、と感無量でした。
-
公園内のひっそりとした場所にありました。
ちなみに駐車場はないので要注意。 -
次に来たのは、函館元町ホテル。
最期の地から車で10分位。函館元町ホテル 宿・ホテル
-
ここは新選組屯所跡地です。
-
「新選組屯所」跡地の案内。
ここは明治12年までは「称名寺」というお寺がありました。(現在は移転)
その称名寺が、新選組屯所として使われていました。 -
蔵を改修した蔵の宿「屯所の庵」。
新選組好きにはたまらないお宿ですね。 -
私は泊まらず、写真だけ撮らせていただきました(^^;)
-
次に来たのは、高龍寺。
車で2,3分。
函館最古の寺院だそうです。高龍寺 寺・神社・教会
-
ここに来た目的はこれ、「傷心惨目の碑」です。
-
「傷心惨目の碑」の案内。
以下、案内文そのまま書きます。
明治2(1869)年5月11日、箱館戦争最大の激戦が箱館の市街地で行われた。当時の高龍寺はもっと坂の下にあり旧幕府脱走軍の箱館病院分院にあてられたが、同日、新政府軍の先鋒隊が乱入し、傷病兵らを殺傷して寺に放火し、会津遊撃隊の者が多数犠牲になったという。
明治12(1879)年高龍寺は移転、翌13年に旧会津藩有志がこの碑を建て、惨殺された藩士を供養した。
碑面「傷心惨目」は、中国、唐の文人李華の作「古戦場を弔う文」からとったもので、文字は中国南宋の中心岳飛の真跡を写したものである。 -
高龍寺でも御朱印を頂きました。
-
こちら。
-
御朱印をお願いしたら、住職さんが「書いている間に中を見学してください」とおっしゃったので、中に入ってみました。
-
廊下には色々な方のありがたいお言葉がたくさん飾ってありました。
こちらは昭和天皇。
本堂ではたしか掃除か何かをされていたので、写真はありません。 -
次に来たのは高龍寺のお隣、称名寺。
称名寺 寺・神社・教会
-
称名寺の案内。
称名寺は、元々少し前に載せた函館元町ホテルの場所にありました。
そこが明治12(1879)年の大火で焼失し、明治14(1881)年にこの地に移転されました。 -
境内案内図。
ここに来た目的は、「土方歳三と新選組隊士の供養碑」です。 -
こちら。
以下、案内文をそのまま書きます。
土方歳三(新選組副長)は、榎本軍に加わり、函館で戦死した。その場所は一本木(若松町)、鶴岡町、栄国橋(十字街)など諸説があるが、土方ゆかりの東京都日野市金剛寺の過去帳には、函館称名寺に供養碑を建てた、と記している。
称名寺は、明治期の大火で3回も焼けて碑は現存しないため、昭和48年有志が現在の碑を建立した。他の4名は新選組隊士で、称名寺墓地に墓碑があったが、昭和29年の台風で壊されたため、この碑に名を刻んだ。 -
供養碑の横に、ノートがありました。
全国から訪れた新選組ファンがコメントを残しています。
私も書きました。 -
こんな感じです。
-
称名寺でも御朱印を頂きました。
-
次に来たのは、弁天岬台場跡。
称名寺から車で2,3分。弁天台場跡 名所・史跡
-
弁天岬台場跡の案内。
以下、案内文をそのまま書きます。
西洋列強からの圧力が増してきた江戸末期に、幕府は蝦夷地を2度目の直轄領とした。安政元(1854)年、箱館奉行竹内下野守と堀織部正は、箱館の警備について幕府へ上申し、弁天岬台場を築造することになった。
台場は、安政3年、10万両の予算で、現在の函館どつくの一角に着工された。設計・監督は五稜郭と同じ武田斐三郎によるもので、不等辺六角形(周囲約684m、面積約32.340㎡)をした台場は、元治元(1864)年に完成した。
この台場が実際に使われたのは、箱館戦争の時であった。台場を占拠した旧幕府脱走軍は、新政府軍と砲戦を展開したが、新政府軍に圧倒され、明治2(1869)年5月15日、台場に籠城していた箱館奉行永井玄玄蕃ほか約240名全員が降伏した。
台場はその後、弁天砲台として陸軍省の所轄となり、函館砲隊が守備していた。明治29(1896)年、港湾改良のために取り壊されて周囲が埋め立てられたので、今は昔の姿を知ることができない。 -
この弁天岬台場跡が、新選組最後の地として石碑にも書いてあります。
-
石碑の裏に書いてある文。
箱館戦争のとき、旧幕府軍の一隊として、ここにあった弁天台場を守っていた新選組百余名は、明治2年(1869)新政府軍の猛攻撃で、5月15日降伏した。ここが最後の地である。
島田魁もここにいました。
降伏後は名古屋に送られ、謹慎がとけると京都で剣術道場を開き、最終的には西本願寺の警備員になりました。
明治33(1990)年、73歳で亡くなっています。
彼は土方さんの戒名を書いた布を常に懐に携えていたとか。
葬儀には永倉新八も参列したそうです。
ちなみに私の中で、島田魁=照英氏(新選組!)です(^^;) -
港の方に行くと、石碑がありました。
-
函館港改良工事記念碑
-
明治に函館港を改良工事したらしいです。
新選組は関係ないので、詳細は省きます(^^;) -
静かな港でした。
-
次は函館山の南東端、立待岬へ。
弁天岬台場跡から車で15分位。立待岬 自然・景勝地
-
駐車場
-
海!
-
立待岬の石碑。
-
立待岬の案内。
この地名は、アイヌ語のヨコウシ(待ち伏せするところ、すなわち、ここで魚を獲ろうと立って待つ)に因むという。
18世紀末に幕府が蝦夷地を直轄すると、警備のため、ここに台場が築かれたことがあった。
また、第二次世界大戦中は、要塞地帯法により市民は立ち入りを禁じられていた。
現在は、津軽海峡を望む景勝地として、多くの観光客が訪れている。
近くには石川啄木一族の墓や与謝野寛・晶子の歌碑もある。
与謝野晶子の歌碑なども写真を撮りましたが、新選組関係ないので省略(^^;)
そもそも何で立待岬に行ったのかもう覚えてません…なぜだ?海が見たかったのかな?(^^;) -
私の目当ては、碧血碑です。
立待岬から車で10分位。
この写真の右側が車道。左側の細い道が、碧血碑へ向かう道です。
車はここに置いて、歩いていくしかありません。 -
碧血碑 旧幕府軍の墓 入口
-
碧血碑の案内。
箱館戦争(明治1~2年)のさい官軍との交戦で倒れた新撰組の土方歳三ら旧幕府軍の戦死者約800人の霊がまつられています。
建立明治8年(1875年)
この先約230m -
この道を進みます。
-
碧血碑は、心霊スポットとしても有名です。
なんせ800人の死者をまつる場所です。
そしてこんな道を一人でひたすら進みます。
正直めっちゃ怖かったです…(>_<) -
まだ着かない…
-
階段が見えてきました。
-
急に開けた場所に来ました。
人がいない… -
碧血碑の案内。
以下、そのまま書きます。
箱館戦争で戦死した土方歳三や中島三郎助父子をはじめ、北関東から東北各地での旧幕府脱走軍戦死者の霊を弔っているのが、この碧血碑である。碑石は、7回忌にあたる明治8(1875)年、大鳥圭介や榎本武揚らの協賛を得て、東京から船で運ばれたもので、碑の題字は、戦争当時陸軍奉行であった大鳥圭介の書といわれている。
碑の台座裏に、碑建立の由来を示す16文字の漢字が刻まれているが、その表現からは、旧幕府脱走軍の霊を公然と弔うには支障があったことが推測される。
なお、碧血とは「義に殉じて流した武人の血は3年たつと碧色になる」という、中国の故事によるものである。 -
これが碧血碑。
碧血碑 名所・史跡
-
ここまで1人で来るのは怖かったんですが、来てよかったです。
敗戦後、賊軍とされた旧幕府軍の遺体は埋葬を禁止され、野ざらしにされていたそうで…
哀れに思った方々が埋葬しこの碑を建てたわけですが、その野ざらしにされていた方々を思うと何とも言えない気持ちになりますね…。 -
カラスさんがいました。
この木々に囲まれた山の中、人は全くおらず、いるのはカラスだけ…
怖かったですよ…(;_;) -
全国からお参りに来た人の為に、ノートが置いてありました。ビニールはカラス除けです。
私も書きました。
私は9/19に行きましたが、その前に書いてあったのは、9/8に来た京都の方の文でした。 -
こちらが、旧幕府軍の遺体を埋葬し、碧血碑を建てた柳川熊吉さんの碑。
-
「柳川熊吉翁の碑」
以下、そのまま書きます。
柳川熊吉は、安政3(1856)年に江戸から来て請負業を営み、五稜郭築造工事の際には、労働者の供給に貢献した。
明治2(1869)年、箱館戦争が終結すると、敗れた旧幕府脱走軍の遺体は、「賊軍の慰霊をおこなってはならない」との命令で、市中に放置されたままであった。新政府軍のこの処置に義憤を感じた熊吉は、実行寺の僧と一緒に遺体を集め同寺に葬ったが、その意気に感じた新政府軍の田島圭蔵の計らいで、熊吉は断罪を免れた。
明治4年、熊吉は函館山山腹に土地を購入して遺体を改葬し同8年、旧幕府脱走軍の戦死者を慰霊する「碧血碑」を建てた。大正2(1913)年、熊吉88歳の米寿に際し、有志らはその義挙を伝えるため、ここに寿碑を建てた。
この後、来た道を戻っている時に、若いカップルとすれ違いました。
人がいる!とちょっとホッとしました(^^;) -
碧血碑を後にして、今度は函館山に登ります!
ここはロープウェイ乗り場。函館山ロープウェイ 乗り物
-
16:45発のに乗りました。
-
ロープウェイ。
さすがにここは人がたくさん。 -
ロープウェイからの景色。
-
上に来ました!
-
旅行前は、函館山の夜景はもちろん見たいけど、昼間の景色も見たい…でも昼間から夜までずっと函館山にいるのは時間がもったいないし…どうしよう…と悩んでたんです。
結局、日が暮れる直前に行くことにしたのでした。函館山展望台 名所・史跡
-
ちなみにここは明治の日清戦争後、函館要塞として大砲が設置されていました。
色々ありましたが、明治32年から第二次世界大戦後の昭和21年まで、函館山は一般市民は立ち入り禁止だったそうです。 -
暗くなるまで待ちます。
夕日がきれいでした。 -
ちょっと上から撮影。
-
だんだん沈んでいきます。
-
あと少し
-
太陽は沈んでいきました。
思えば、こんなにじっくり日暮れを見たのは初めてだったかもしれません。 -
日が沈むのを見たところで、夜景の場所取りへ向かいます。
-
この時17:46。
ちなみに、夜景の場所取りはこの時間でもういっぱいいました。
前後左右人に挟まれ、身動きできません。
日が暮れて気温はだいぶ下がっていましたが、人に囲まれてたのでそれほど寒さは感じませんでした(^^;) -
この時18:12。
暗くなってきました。 -
下の方、見えますでしょうか。
人がたくさんいます。 -
暗くなり、街の明かりも増えました。
-
きれいです!
-
人がいっぱい!
-
夜景の左側を見てみました。
これのもっと左が夕日が沈んだ方向です。 -
この時18:30。
すっかり暗くなりました。
結局、函館山に一人で約2時間いました…疲れました(^^;) -
日中は、夕飯は寿司を食べに行こうと思っていたんですが、函館山ですっかり体が冷えてしまいまして…
とにかく温かいものが食べたいと思い、ラーメンを食べることにしました。
ということで、有名なあじさいさんへ。麺厨房あじさい 紅店 グルメ・レストラン
-
函館といえば、塩ラーメン!
美味しかった…と思います(^^;)
体が温まりました。
この時19:27。
疲れたのでホテルへ向かいます。 -
これはたぶんホテルの駐車場から見た五稜郭タワー…かな?
-
なぜかホテルの外観を撮ってませんでした。
ここに泊まったらしいです。函館パークホテル 宿・ホテル
-
室内。
ここは本館ではなく別館です。 -
そういえば旅行前に、2段ベッドの上と下どちらで寝るべきか悩んだ気がする…(^^;)
そして結局どちらで寝たか覚えてません(^^;)上かな? -
たしか初日は、ここから下水か何かの匂い?がして…
トイレ位なら我慢できるけど、ここでシャワーは無理!と思い、浴場へ行ったんです。
でもその浴場は家族風呂程度の大きさで…そこで他のお客さんと一緒に入ったのもかなり嫌だったんですよね…(*_*)
2日目はどうしようかと思ってたんですが、匂い自体はなぜかなくなってました。
それとは別に、岩盤浴もあったのでそれに行き、そこのシャワー室で済ませました(^^;)
岩盤浴は貸し切りで快適でした。
ということで、1日目は終わり。
2日目は、松前城や江差など、函館市街から離れて所縁の地を巡りました。
それはまた次回!
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
この旅行で行ったホテル
この旅行で行ったスポット
もっと見る
この旅行で行ったグルメ・レストラン
函館(北海道) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
旅行記グループ 2017年函館新選組巡り一人旅
0
104