2020/07/07 - 2020/07/11
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xiaomaiさん
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1999年から4年間、台南に住んでいた。彼の地を離れた後も台南へは数度行っているが、台南市の中心部(府城)を訪れたのは17年ぶり。当時を懐かしみながら街歩きと台南美食を楽しんだ。
「府城」というのは、旧時代(清朝)に最高行政機関が所在していた場所のことで、台湾で府城といえば、台南のことを指す。より具体的には、現在の中西区、東区、南区、北区、安平区が概ねそれに該当する。
2日目:
阿堂鹹粥、旧台南刑務所附属施設、神農街、水仙宮市場、タイワンサワラ羹、赤崁樓、武廟、蝸牛巷、公会堂、再發號、武聖夜市
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旅の2日目。美食の都と呼ばれる台南では、ホテルで朝食をとるのはもったいない。ホテルから徒歩でお目当ての食堂へ。表通りを歩かず、細い裏通りを進んだ。
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日本時代(あるいは戦後間もない頃)、ここに何かの施設があったようだ。
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観光客が訪れそうな場所ではなく、誰もいなかった。
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西門路と府前路が交差する「小西門円環」にある蘇さんのお宅(1932年建設)。
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明朝の時代に設立された良皇宮。保生大帝を祀る宮で、龍の柱と石獅が結合しているのは台湾でほとんど見られぬ様式。
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この日の朝食は阿堂鹹粥で。
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台南で非常に有名な虱目魚(サバヒー)の食堂。朝早い時間に行くと、朝食を求める客が多く並んでいる。その時間帯を過ぎた頃(8時40分)に到着。並ぶことなく、すぐ座れた。
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食べたいものがありすぎる。
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台南名産の3種のシーフードが入ったお粥を注文。
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左から、牡蠣、虱目魚(サバヒー)、タイワンサワラ。すべての味が楽しめたけど、どれか1種にした方がよかったようにも感じた。
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阿堂鹹粥の隣にある「包成羊肉」も有名な食堂。
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宿泊している台南晶英酒店の周りには他のホテルや三越などがある。もともとここには広大な台南刑務所があった。それを取り壊し、大規模な複合施設を完成させた。つまり、元刑務所があったところに一晩寝ていたことになる。民宿のオーナーによると、台南の人はこのことを知っていて、陰気な感じがするとし、この地域にはあまり近づきたがらないのだそうだ。和意路を挟んで、ホテルの向かいにあるのは刑務所の付属施設。これは武術を稽古した要道館。
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別の角度から見ると、非常に危険であることがわかる。早く修築しないと手遅れになりそうだ。
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本来の様子(正面)
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本来の様子(側面)
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宿舎の間取り図
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要道館の隣にあった共同浴場。よく見ると、女性は男性の更衣室を通り抜けていくようだ。
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刑務所長宿舎
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日本時代の配置
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建物群の間の空間は和意公園として開放されている。
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ホテルに戻り、客室の窓から刑務所付属施設を見てみた。これは刑務所長宿舎。
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こちらは要道館と浴場。
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11時半に晶英酒店をチェックアウトし、神農街にある民宿へ向かった。タクシーで90元の距離だった。
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2泊したのは、「神榕147」という築60年ほどの建物。神農街の一番奥、金華路すぐのところ、三協境全台開基藥王廟の隣にある。
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神農街は旧称「北勢街」で、以前は商店が立ち並ぶ、台南きっての繁華街だったが、その後、徐々に没落していき、誰も見向きもしない通りになってしまった。私が台南に住んでいた頃はその名を聞くことさえなかったが、10年ほど前から急に脚光を浴びるようになり、新しい観光スポットになった。
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宿泊した客室。
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浴槽はないが、とても広い浴室。
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窓からの景観(正面)。前の空き地には新しい建物が建設されるそうだ。
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窓からの左手の光景は薬王廟。三協境全台開基藥王廟は台南府城「七寺八廟」の一つで、台湾薬王廟の開基祖廟でもある。1831年の創建とされ、旧廟の一部が残されている。
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窓からの右手の光景(神農街の起点)。
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ここにはもともとガジュマルの木があり、それを取り込んで建設された。民宿名の「神榕147」の「榕」はガジュマルを意味し、147は147号(番地)のこと。
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細くて急な階段を上っていくと......
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屋上と客室がある。
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階段が狭く角度がきつい。大きめのスーツケースは持って上がるのが大変であるに違いない。下りる時はもっと大変だ。
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1階部分。ここにはもともとテーラーがあり、台南の名士紳士がここでスーツをオーダーメイドした。
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ソファも当時のもの。オレンジ色の方はレザーの張り替えをしているとのことだ。
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従前は店の前を多くの人が行き来していたのだろう。
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赤い階段の手すりには渦巻状の飾り。
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現在、1階はコーヒーショップになっている。
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宿泊せずともここでおいしいコーヒーを飲みながら、ゆっくりするのもいいだろう(ただし、2020年7月現在、喫茶部はコロナウィルス対策で休業中)。
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宿泊者のみ、1泊につき1杯のコーヒーがクッキーとともにもてなされる。しばらくオーナー(テーラーをされていた先代の息子さんの奥さん)とお喋り。ともに10数年前の台南の様子をよく知っているため、話している時、親戚のうちに来たような感じがした。
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12時40分ごろ、散策開始。
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Sam’s soft-serve ソフトクリーム店。「毎日自身のカッコよさに驚かされる」こんなことを言ってみたいものだ。
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暑い日中に神農街を訪れる人は少ない。
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2005年に台南市の古跡に指定された金華府。関羽、馬李黄の王爺を祀る。
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泉州晋江から台湾へ渡ってきた許氏苦力(肉体労働者)が資金を集めて建立したと言われている。
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電気製品修理の店。乱雑な感じがいい味を出している。
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神農街はそれほど長い通りではない。
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のんびりと歩きたい小さな通り。
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野菜や果物、生鮮食品を売る130ほどの店が入る水仙宮市場へ行ってみた。
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昼を回っていたから、既に多くが店じまい。
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水仙宮の前方に設置されているから水仙宮市場という。
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水仙宮は神農街にある薬王廟同様、「七寺八廟」の一つで、1684年の創建。海神の水仙尊王を主神とし、貿易商、船員、漁師からの信仰を集めている。台北の龍山寺でも祀られている。
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台南美食のメインストリートである「国華街」。ここも以前は特に取り上げるほどの通りではなく、近年になり人が集まるようになった。
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台南名産のタイワンサワラ羹の食堂。羹というのはとろみのあるスープのことで、台南に多い。
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ビーフンや麺を好みで入れることができる。
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揚げる前のタイワンサワラ
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揚げたタイワンサワラ
タイワンサワラは澎湖でもよく食べられる。
参考:https://4travel.jp/travelogue/11615275 -
タイワンサワラの食堂の向かいにある青草の店。看板は20年前に作成したもので、既に80年の営業実績があるそうだ。
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青草茶は火照った体を優しく癒してくれる。
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西門路と民族路とが交差する円環にある古い店。この円環には南座という歌舞伎を演じる劇場があったが、火事で焼失している。
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台南滞在中、台北と違い空が大きいと何度も思わされた。
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媽祖を祀る大天后宮。
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明朝寧靖王朱術桂が住んでいた寧靖王府邸を1684年に媽祖廟にした。
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台湾が日本に割譲された後、台湾民主国が設立されたとき、ここに総統府がおかれ、政務が執られていた時期もあった。台湾民主国が瓦解した後、日本は台湾平定を宣言し、日本から曹洞宗が布教活動に来て、ここで普及活動をした(日本に割譲されるまでは臨済宗)。
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正殿には媽祖を中心にして、水仙尊王、四海龍王が祀られている。後殿には媽祖の両親や姉兄、月下老人などが祭祀されている。さらに、阿彌陀佛、釋迦牟尼佛、藥師佛、觀世音菩薩も祀られている。
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廟内の絵画が芸術大学の学生により修復されていた。
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こちらも学生による修復。
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続いて、赤崁樓へ。その隣に度小月があった。
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以前ここに行ったのは20年以上前のことだ。今回の台南旅行で、歴史的観光施設に入場料を支払ったのは、赤崁樓と安平古堡のみである。
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入り口と建物の間には庭園がある。しかし、深い穴がたくさん掘られていた。
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考古学資料となる史物が多く発見されているらしい。
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池に大きな鯉がたくさん泳いでいた。皆丸々と太っていたのは、鯉の餌自動販売機のせいだろう。
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1960年に大南門城から移築された九座贔屭碑。贔屓とは龍が生んだ9頭の神獣「竜生九子」の一つで、亀に似ている。重いものを背負うのを好むとされ、石柱や石碑の土台になることが多い。中国や台湾などでよく見られる。
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赤崁樓はオランダ人が1653年に建造したProvintia城がその前身で、のちに漢人が儒教や道教の祠を建て、今日に至る。
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まず海神廟に上る。1875年に沈葆楨が海神の庇護に感謝するために建立した。
沈葆楨:洋務運動の中心的人物で、牡丹社事件発生時に欽差大臣として台湾に派遣された。 -
在りし日のProvintia城の復元模型
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文昌閣の屋根にあった装飾「藻飾」
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2階に上がれるようになっている。
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壁に塗られた青が南国らしい鮮やかさを放つ。
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海神廟から文昌閣を望む。
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海神廟内部はこれまた南国らしいミントグリーン。
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文昌閣から海神廟を望む。
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Provintia城の城壁が今に残る。
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文昌閣のオランダ時代の入り口
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1944年に修建した際、発見された。
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文昌閣は1886年に教育振興のために建立された。2階には人間界の学問と官位を司る魁星爺が祀られている。魁星爺は科挙合格祈願の神であり、現在では試験合格祈願の対象となっている。
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左に文昌閣、右に海神廟。
1661年に鄭成功がProvintia城を攻め落とし、東都明京と定めて承天府を設置。のちにZeelandia(現在の安平古堡)をも攻略し、オランダ人追放に成功。鄭成功は赤崁樓と安平古堡の2つを台湾統治の中心地とした。しかし、半年後に鄭成功が病没すると、息子の鄭経は承天府を廃止。それ以降、赤崁楼は火薬貯蔵庫となった。 -
附設のお土産店で売られていた台南限定のスナック菓子。
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「成功」ビールもあった。
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悪霊退散のスナックも。これらは台北で見かけたことはない。購入したかったけれど、嵩張るからやめた。
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赤崁樓を囲む赤い壁。
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赤崁樓のすぐ隣にあるのが関羽を祀る武廟。
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実際は関羽だけでなく、多くの神が祀られている。
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関羽のほか、その息子の関平や周倉将軍などを祀る正殿。
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男女を婚姻縁を司る月下老人も祀られている。
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樹齢100年ほどの梅
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文昌殿は文章を司る文昌帝君を祀る。学問の神とされ、科挙を受ける人々から厚い信仰を受けた。現在でも、受験生に広く信奉されている。
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文昌燈
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文昌殿に限らず、武廟の他の殿閣にもある。それぞれに寄進者の姓名が記されるが、文昌殿ののみ、まだ個人名が記載されていないものが多く撮影した。
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「受験生や功名を求める者は必ず購入すべし」文昌燈奉納希望者はスタッフにその旨伝える。
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筆記具やお札などを授けていただける。油香金は専用投入口に入れる。
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受験生の祈りが聞き届けられますように。
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武廟を離れ、永福路をしばらく進むと、右手に全美戲院が現れる。1950年に欧氏兄弟により建てられたバロック建築の映画館。日本時代、台南は芸術文化を重んじる都市で、文化の隆盛では台北に次ぐ地位を占めていた。全美戲院は戦後、台南で最大の映画館であり、1960年代前後に出生した台南出身者にはその名を知らぬものはいないとされている。1965年生まれの友人に尋ねると、確かに学生時代によく行った映画館だと言っていた。現在、台南には新しくて大きな映画館があるが、この映画館もぜひ存続していってほしい。
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さらに前進してくと、これが......。台南は街全体が博物館だ。
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永福路二段81巷を右折すると、日本時代の木造建築が登場。
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所有者が今でも大事にされている様子。
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さらに進むと、蝸牛巷。
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ミルクティーのみを販売する店。
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このエリアにはカタツムリをモチーフにしたオブジェがたくさんある。
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台湾文学家の葉石濤が生前ここに住んでいた。
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他に見かけた観光客はほんの数人。カタツムリのようにのんびり散策。
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その蝸牛巷にあるどら焼き専門店。
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3種のどら焼きを販売。
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せっかくなので、本日の限定品であるチョコレートを50元で購入。濃厚なチョコレートを使用しているのはいいんだけれど、皮の味が完全に負けてしまっていると思った。30歳前後の男性が一人でやっているようだった。
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思いがけなくムヒの看板
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清時代に建立された沙淘宮。沙淘太子(鄭成功の孫、鄭克ゾウ)とナタを祀る。
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蝸牛巷、侮れない......。
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巴哈迪印象甜品工房。若い男性スタッフの姿が店内に見えた。
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カタツムリのロールケーキが看板商品のようだ。興味は持ったけれど、クリーム系のスイーツが苦手なため、入店せず。
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民生路一段157巷にある蝸牛巷の入り口
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公園路19号にある筆の専門店「忠文堂」。離れたところから見てみると、建物自体に歴史的価値があることがわかる。
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日本時代に開業した老字号。店内に入り、購入したかったけれど、毛筆が苦手であるからやめた。以前なら、「記念に」購入したかもしれないけれど、所有物を減らすことをモットーにしているため、ウィンドウショッピングのみにした。台南にある名門成功大学出身の友人はここで筆を購入したことがあると言っていた。
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公園路6号にある太平境馬雅各紀念教会。英国長老教会のマクスウェル牧師(Dr. James L. Maxwell, M. D.)が1865年が設立した教会で、マクスウェル牧師自身が医師で、医療を行いながら宣教活動をしたようだ(淡水のマッカイ牧師も同様)。
太平境の「境」というのは、八協境東門大人廟、仁厚境福徳祠などのように、台南に多く存在する廟の管轄範囲を意味する。この教会にも太平「境」という字がついている。もともとここに太平境福徳祠があり、基督教会がそれを踏襲したもので、台南ではこのようなことは普遍的なことらしい。道光22年には、82の境が台南にあり、日本時代は治安や行政事務に大きな影響力を持ったようだ。 -
太平境馬雅各紀念教会から程近いところにあるのが公会堂。市民が集まり集会を行う場所として、1911年に建設された。当初は台南公館と呼ばれていたが、1923年に台南公会堂と名称が改められた。台湾文化協会成立後、蔡培火や連横などの文化人がここでスピーチを行なっている。
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公会堂のすぐ脇にあるのは柳屋という料理店。今は台南市民生緑園文化園区旅客サービスセンターとなっている。
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公会堂の裏には、清時代の豪商呉尚新の庭を持つ自宅があったが、今は「呉園」として、その一部しか残っていない。
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呉園にある建物
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そこは王育徳記念館となっている。
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王育徳氏(1924-1985)は台湾の言語学者であると同時に、台湾独立運動の中心的人物で、李登輝元大統領と深い親交があった。
台南で生まれ、台北高校卒業後、東京帝大文学部支那哲文科に入学するも、戦争激化で台南に戻った。台南一中で教師をしながら、台湾語劇活動を行なっていたが、228事件で兄が殺害されたことを知り、演劇で国民党批判をしていた自身の身の危険を感じて、小さなカバン一つで香港に脱出し、その後日本へ向かった(この時、台南出身で、当時香港に住んでいた実業家邱永漢に助けられている)。 -
1950年に東京大学文学部中国文学科に復学し、1955年に文学修士号取得。画像を見て分かる通り、その時の東大総長はは、経済学者にして植民政策学者でもあった矢内原忠雄。『帝国主義下の台湾』という著作がある。
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1969年には論文「閩音系研究」で文学博士号を取得。
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王育徳氏は1960年に博士課程課程終了後、明治大学で教鞭をとり始め、最終的には教授に就任している。台湾語クラスの音声記録を聴くことができる。
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また、多くの台湾語教材を執筆し、その音声教材を聴くこともできる。なお、北京語と台湾語には大きな違いがあり、北京語がわかれば、台湾語もわかるというものではない。王氏は「言語は民族の霊魂」と考え、非常に台湾語というものを重視していた。現在の台湾で、台湾語を日常言語として使用しているのは、高齢者か中南部の中高年がほとんどで、居住地にかかわらず、若い世代は台湾華語(北京語)で話している。小学校での方言教育を実施して既に長い年月が経っているが、残念なことに功を奏しているとは言えない。外国人である私さえ、台湾語の存続に危機感を抱いている。
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研究指導の傍ら、1960年に台湾青年社を結成し、台湾に関しての自由な論説を言論の自由のある日本にいる台湾人から発していこうという趣旨により、雑誌『台湾青年』を発行した。残念ながら、人手不足を理由に2002年の500号で停刊となってしまっている。
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東京都豊島区にあった自宅書斎(6畳)の様子が再現されている。
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所持品には高級品はなかったという。1949年に台湾を脱出後、二度と故郷の地を踏むことなく、1985年に心筋梗塞で東京で他界された。台湾独立運動に多大な影響を与えたこの人物にお会いしてみたかった。
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台湾語教材の著書に近藤綾という人物がいることは知っていたが、それが王氏の外孫であることは知らなかった。5歳の時に王氏と死別されているが、大量にある遺稿の整理や編集・翻訳・出版作業に関わってこられているようだ。
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実に見応えのある記念館だ。次回台南を訪れた際もまた見学に行きたい。
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民宿へ戻る途中、たまたま粽で有名な再發號の前を通りかかった。もともと行くつもりでいたから、16時という中途半端な時間だったけれど入店した。
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1872年(西太后の時代)に創業した、台南美食を代表する名店。以前、台南で歴史ある名店といえば、この再發號と擔仔麵の度小月ぐらいだった。台北や中国などに進出せず、1つの場所で地道な営業をする再發號にとても好感を持っている。5代目にあたる若い男性も店を手伝っている。
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肉粽は50元で値上がり幅の小ささに台南出身で台北で働いている友人が驚いていた。もう一つは海老すり身入りのスープ。どちらもおいしかった。
肉棕というと、郭金發の「燒肉粽」という台湾語の名曲を思い出す。
https://www.youtube.com/watch?v=cRkh2EXV65w
郭金發は私が好きな台湾語歌曲の歌手だったけれど、2016年に舞台で自身の代表曲である「燒肉粽」を歌っている時、急に意識を失い、病院へ搬送されるも72歳で急逝した。遺族やファンは大きな悲しみに沈んだけれど、今思うに、「寶島低音歌王」「肉粽歌王」と呼ばれていた実力派歌手にふさわしい最期だった。最後までかっこいい生き方をした郭大哥を忘れることはない。 -
再發號のすぐ近くにある北極殿。1660年代創建の古廟で、玄天上帝を祀る。
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台南の空は大きく、雲が美しい。このような景観を滞在中に何度も目にした。
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一度、民宿に戻り休憩。画像は民宿の右手にある榕松公。民宿の中を貫いている古木を神として崇めている。確かにその生命力は崇めるに値する。
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17時から2時間、民宿で休息をとり、その後、徒歩で武聖夜市へ向かった。台南にも多くの夜市があるが、規模が大きいのは、大東、花園、武聖の3つで、曜日ごとに開催地が決まっている。この日は水曜日で武聖。
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民宿のオーナーは規模は他の2つよりは小さいけれど、ほとんどが地元民で家族で楽しめる武聖夜市がお好きだと言っていた。
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このような遊戯は台北の夜市にはない。
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メガ輪投げは、地方の夜市ではよく見られる。
参考:羅東夜市(https://4travel.jp/travelogue/11608348) -
排骨酥というのは、豚肉を油で揚げた台湾料理。購入希望者が長い列をなしていた。
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麻雀のようなゲームで勝つと景品がもらえるようだった。
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民宿のオーナーは花園余市などに比べると小さいと言っていたが、台北から来た者からすると、十分に大規模。
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小学生くらいの男子がこぞってこれを買っていた。中年以上の人には懐かしく感じるものなのかもしれないと思い、自分も買ってみた(後日、50代半ばの友人に尋ねたら、少ないお小遣いでも買えた「滿煎糕」というもので、子供の頃の唯一のおやつだったと言っていた)。
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食べてみると、甘いシロップを挟んだパンケーキのようなものだった。確かに、今ほど物質的に豊かでなかった頃の子供たちのごちそうのような感じがした。
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並ぶゲーム機の数も半端ない。
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喉が乾いたから、スイカジュース。
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食べ物やゲームのほか、衣類、スマホケース、寝具などを売る店も多数あった。
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暑いためか誰もマスクをしていない。コロナウィルスの蔓延を抑え込むことに成功している台湾ではあるけれど、ふと「三密」が気になった。
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このようなゲームが今でも健在である台湾をかわいく思う。
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遊ぶ人、食べる人、食べながら遊ぶ人。
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さつまいもボール
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パンケーキ、さつまいもボール、スイカジュースがこの日の夕食となった。
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台北の夜市がかわいく思えるほど、にぎやかさを感じた。
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バイクで来る人が多く、駐輪場もとても広い。
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武聖夜市を後にし、安平運河へ行ってみた。画像は新臨安橋からの眺め。橋の画像を撮り忘れたけれど、非常に美しい。
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水に親しむ水上楽園。家族連れ、カップルなどが夜のひと時を楽しんでいた。
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だいぶ歩いて、神農街に戻ってきた。
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電気製品修理店が夜にはさらにいい味を出す。
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この通りは夜の方が雰囲気がよいため、観光客が増える。
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鰻屋があり、白焼きなども提供するようだった。
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民宿に戻ったのは21時。鍵を開けて民宿に入る様子は、さながらここに住んでいる気分。この日も炎天下をよく歩いた。
(続)
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