2005/05/02 - 2005/05/02
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<東西ドイツの歴史的記念の地:シフラースグルント国境博物館>
Gedenkstaette Grenzmuseum Schifflersgrund
歴史的記念の地シフラースグルント国境博物館
https://www.grenzmuseum.de/
D-37318 Asbach - Sickenbergアスバッハ・ジッケンベルク 、
Platz der Wiedervereinigung(再統一(再会)、若しくは和解の地の意味)1,
Tel: 036087 - 98409
開館:1月~12月(クリスマスイブと大晦日は休み)、
月~日曜日の10時から17時。
写真は歴史的記念の地シフラースグルント国境博物館
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- レンタカー
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
イチオシ
2005年4月21日(木)~5月5日(木)15日間 ;
1982年から数えて 23年ぶりの北ドイツ周遊です。
目的地:1989年の来日以来、16年ぶりに旧交を温めるべく、ブレーメンのSさん御夫妻を訪問し、ドイツの誇る世界遺産の町々(ブレーメン、リューベック、ヴィスマール、ヒルデスハイム、更にクウェートリンブルグ、ゴスラー)や、ハンザ諸都市・エリカ街道(塩の道)・ハルツ山地(魔女伝説)・メルヘン街道を巡る、盛りだくさんの旅。
<使用レンタカー>Renaut Espace R157-ディーゼル2200cc Automatic、
5/02 (月)快晴 26℃ 157km
GoettigenゲッティンゲンからB27を南に32km下ると、Bad Sooden-Allendorf-Ellerhausenバート・ゾーデン・アレンドルフの一地区エラーハウゼンの村に着いた。村のいくつかの家はWerraヴェラ川(全長は298km。ともにヴェーザー川の源流をなすフルダ川の右岸を流れる川である)のすぐ隣に立っており、この川はこの地域の国境川(かつては東西ドイツの国境、現在はチューリンゲンとヘッセンの州境)でした。
写真は歴史的記念の地シフラースグルント国境博物館 -
イチオシ
ヴェラ川の対岸の小さなチューリンゲン村Wahlhausenヴァールハウゼン(チューリンゲンとヘッセンの州境に位置するLandkreis Eichsfeld an der Werraアイヒスフェルト・アン・デア・ヴェラ地区の自治体)に渡り、そこからGrenzmuseum Schifflersgrundシフラースグルント国境博物館までわずか2kmである。
(国境博物館からB27沿いに西南へ3km行くと、バート・ゾーデン・アレンドルフの町がある。塩水療法の保養地(人口1万人)でシューベルトの“Brunnen vor dem Tore泉に添いて、繁る菩提樹(1827年作曲)”を見ることができる)
写真はシフラースグルント国境博物館:ドイツで最初にできた国境博物館です -
今回の旅では、世界遺産など、歴史的には中世を見る・感じるという旅が多いが、ここは現代史・・・東西ドイツの統一から15年しか経っていない今・・・の遺跡、歴史の記念碑的な場所である。
写真は1990年2月現在、ドイツ国内の国境ポイント(南部) -
ヴァールハウゼンの村からクネクネとした1台しか通れないような山道を、対向車を気にしつつ上がっていくと、突然、シフラースグルント国境博物館にある20mほどの見張り塔が出てくる。
塔の上にはサーチライトが装備され、博物館の周囲は高々とした4mの金網で囲まれているのが見える。
写真はシフラースグルント国境博物館の俯瞰・・・上に見える菜の花畑の上にヴェラ川も見える。 -
ここはシフラースグルント国境博物館、住所はアスバッハ・ジッケンベルク、「Wiedervereinigung再統一、若しくは和解の地」と付けた1番地である。
この国境博物館はドイツ再統一1周年の1991年10月3日にオープンした。
つまりドイツで最初の国境博物館になったということになる。
写真はシフラースグルント国境博物館:館内展示 -
東西ドイツの人々の「再統一、若しくは和解の地」の言葉はだからたいへん意味があるものなのだ。その1番地の駐車場には国境警備隊であろう警備車が停まっていた。私共以外にも20名ぐらいの観光客が車で来ているようだ。
ヴェラ川の右側一帯はNaturpark Eichsfeld-Hainich-Werratalアイヒスフェルト・ハイニヒチ・ヴェラタル自然公園になっている為、周りは緑の森である。
東西ドイツの統一以前は国境地域として、住民を住まわせなかったと思われる。
写真は国境警備のシステム -
13:30入口から入ると、左手に在る小屋では、さっきの警備車で来た若い新人国境警備隊員が教官の説明を真剣な顔で聞いている。彼らにとっては、ドイツ統一から15年しか経っていないだけに、大変身近の事として理解しているだろう。教官が指す方向を見ると、小屋下は10mの空堀になり、かつての西ドイツ側との間を金網の柵で遮断しているのが見える。
当時の国境は境界石が置かれ、金網の柵があり、更にその後方を空堀、斜面、車両侵入止め、見張り塔、訓練されたシェパード犬、トーチカで東から逃げる、あるいは西からの侵入を阻止していた。東ドイツ側の最後のラインは頑丈なコンクリートの塀を高く作って防御していたようだ。
写真はシフラースグルント国境博物館:屋外展示場・ジープ、バイク -
このあたりは境界点の歴史として、いまだに凡そ1kmに渡る金網を残しているそうだ。
博物館内には東西冷戦時代の歴史、東ドイツの体制を嫌って西ドイツ側に逃げようとして、此処で射殺されたハインツ・ヨーゼフ・グロースの十字架、この地域の人々の受けた物心両面の傷等々を、当時の新聞写真などで説明されていた。
博物館内に東西の国境警備隊の軍服、兵器装備、オートバイなども展示されていたが、ドイツ人老夫婦がじっと掲示写真を見つめているのが、印象的であった。外にも当時の戦車、ソビエト製のヘリコプター、パトカー、軍用車両の現物も陳列してあり、それらはかつての東西の緊張を物語っていた。
写真はシフラースグルント国境博物館:屋外展示場・当時の戦車の展示T-34・85 -
*シフラースグルント国境博物館で知った事を以下に書いた。
<①ハインツ・ヨーゼフ・グロースは東独の国境警備隊員に射殺された。>
第二次大戦後、米英仏3国とソ連が対立し、1948年6月24日にソ連が米英仏の管理地区(西ベルリン)と西ドイツとの陸路を封鎖して「ベルリン封鎖」を行った。米国は6月26日から「ベルリン大空輸」で対抗して西ベルリン市民を助けたのは良く知られている。
1949年にドイツ連邦共和国(旧西ドイツ)、ドイツ民主共和国(旧東ドイツ)が建国され、ドイツが分断された。
この東西両陣営の冷戦時代に入ってから、東ベルリンから西ベルリンへの人口流出が後を絶たず、危機感を抱いたソ連と東ドイツは1961年8月13日午前0時に突然西ベルリンを包囲し、東西ベルリン間48kmを含む西ベルリンと東ドイツとが接する分割境界線155kmあまりの境界線の通行を一切遮断し、西ベルリン周囲の境界線から少し東ドイツ領内に入った地点に有刺鉄線を張りめぐらせ、その後に巨大な壁を建設した。
その後は東西ドイツの国境線を封鎖し、40年以上にわたり、「eine fast unueberwindbare Grenze die Deutschen in West und Ostほとんど乗り越えられない国境が西と東のドイツ人を分離して」しまった。
バルト海から黒海までのいわゆる「Eisernen Vorhangs鉄のカーテン」の一部となった。
見張り塔、有刺鉄線などで装備された国境線は東独の人々が西に入るのを防ぐために長大な距離1,378kmで使用された。
写真はシフラースグルント国境博物館:ハインツ・ヨーゼフ・グロースが逃亡に利用した車両・Original_Frontladerフロントローダー -
東独の土地改良事業の建設作業員であったHeinz-Josef Grosseハインツ・ヨーゼフ・グロース(1947~1982年、享年34歳)は東西ドイツ国境での公式に存在しない銃撃命令の犠牲者の一人になった。
彼は1982年3月29日にシフラースグルントの国境で西ドイツへの脱出を図り、東独の国境警備隊員に射殺された。
(私は同年2月末に二度目のデュッセルドルフ駐在で赴任し、3月26日には家族も来独してバタバタしていた頃だ。こうした国境での射殺事件のニュースは覚えていない)
写真はシフラースグルント国境博物館:グロースが逃亡を図り、東独の警備隊員に射殺された場所に十字架が立つ(赤丸) -
グロースはこの日、国境の金網を越え、丘の斜面を上に登ろうとFrontladerフロントローダーの助けを借りて脱出しようとした。金網を上手く越え、丘の斜面も半ばまで行ったが、東独の国境警備隊員3人がおよそ60mの距離から放った9発のカラシニコフ自動小銃の弾丸が命中し、グロースは斜面の草むらに倒れ込んだ。彼はもう血を流して死ぬだけだった。
彼が倒れた地点(*十字架が立つ)はまだ東独の支配地であった。あと25mで西ドイツ側の道路に至るもので、その気持ちを思って西側の地に更にグロースの記念碑が立っている。それらは国境博物館からはっきりと見える。
*十字架にはEINIGKEIT-RECHT-FREIHEIT統一、正義、自由の文字が読める。・・・ドイツ連邦共和国の国歌(現在3番のみで、その冒頭に出てくる歌詞)である。また、国歌は通常『世界に冠たるドイツ』の名前で呼ばれる。
写真はシフラースグルント国境博物館:グロースが逃亡を図り、東独の警備隊員に射殺された場所に十字架が立つ。
(Einigkeit und Recht und Freiheit統一と正義と自由を) -
写真はシフラースグルント国境博物館:グロースの逃亡、東独の警備隊員の銃撃、射殺された場所、国境線の位置など其々の説明図。
-
(それでもグロースはまだ恵まれていたかもしれない。ベルリンでは同じように悲劇的な亡命を試みて銃殺された人の十字架に、Unbekannt(無名者)1963年4月16日と書かれていたから)
写真はシフラースグルント国境博物館:西ドイツ側の地に立つグロースの記念碑。 -
<②Schuesse auf Wahlhausenヴァールハウゼンで発砲>
冷戦下では東西両陣営の境界線は特に厳格に管理され、「Eisernen Vorhangs鉄のカーテン」と呼ばれていた。この「カーテン」の内、ハンガリーとオーストリアとの境界の部分について、1989年5月2日、鉄条網の撤去を開始した。
徐々に「鉄のカーテン」は崩壊し、東西ドイツの国境も揺らぎだした。
写真は東西ドイツの国境の1980年代初めの様子:バート・ゾーデン・アレンドルフ近く。観光案内所 (バート ゾーデン アレンドルフ) 散歩・街歩き
-
それは突然やって来た。突然変わったのです。
その場所は東独のメディアと国際的な報道機関の注目を浴びたのである。
何が起こったのか?
1989年8月17日から18日の夜、西ドイツ側の名も分からぬ人物が、東独のヴァールハウゼンの村内の2軒の家と教会に向けて、小口径の銃器から約100発を発砲しました。
加害者の身元と背景はいまだ不明です。
写真は東独のヴァウルハウゼンへの銃撃で窓を貫いた銃弾
1989-0819-022,_Wahlhausen,_Beschuss -
1989年の夏、東独は終わりを迎えようとしていた。
ベルリンでの様々な出来事は東独政府への抗議と不満の増大につながっていた。この年の7月と8月は主にハンガリーとチェコスロバキアで起きた東独難民の西ドイツ大使館への駆け込みの波が目立ち、1989年8月19日、ハンガリーとオーストリアの国境で行われたデモ「汎ヨーロッパピクニック」が行われ、これを利用して多数の東ドイツ国民が越境した。
ヴァールハウゼン近郊の国境では東独国境警備隊が撤退し、難民の流れを食い止める為にチェコスロバキアとの国境に配備された。
自然の国境を形成したヴェラ川の国境地帯にあるバート・ゾーデン・アレンドルフの町(ヘッセン)とヴァールハウゼンなどの村々は比較的静かであると考えられていたから、東独国境部隊の削減は問題がないと思われていた。
そんな状況下で事件は起きたが、45分間の射撃で住民の怪我はなく、窓を銃弾が貫いたたこと、住居の壁に被害が見られたこと
東独の国境監視は世界で最も厳しいものの一つでしたが、西独国境警備隊からの警報や情報はなく、東独国境部隊と西独国境警備隊の間の電話回線は相互に使用されなかったと云う。
代わりに、犯行の数時間後、東独のTV放送の記者が現場にいました。西独国境警備隊は東独の通信社ADNがニュースの公開で初めて事件を知ったと云う。
写真は1990年2月現在、ドイツ国内の国境ポイント(北部) -
警察の捜査は直ちに東と西の両方で開始された。東独の出来事は国家の安全に関連する出来事であったため、刑事警察ではなく国家安全保障省によって調査された。西側の犯行現場では小口径の銃器の合計91個のカートリッジスリーブがヘッセン州警察によって押収されたが、銃声が発射された畑やカートリッジスリーブも発見された堤防には足跡などの痕跡は見つからなかった。
ヴァールハウゼンでは責任ある人民警察と特別捜査官が国境地帯の教会、2つの住宅で少なくとも50件の命中の痕跡を発見した。
東独側の意向はこの銃撃は西側主導の「挑発」として報告された。
Erfurtエアフルト地区の第一書記であるゲルハルト・ミュラーは第二大戦後に起こった「西ドイツの国境で起きた最悪の挑発の一つ」であると、東独の通信社ADN に語っている。
1989年8月18日の朝、西ドイツ首相官邸に対し、東独の大使は「重大な挑発的攻撃」として抗議した。直ちに「このような犯罪攻撃を阻止するための措置」を求めた。
東独国境部隊によって警報が発令されず、そのような事件のために特別に設置された電話回線は西独国境警備局には使用されなかっただけでなく、夜間の行為の直後に数人の東独の記者がすでに現場に来ていたという不自然さなどを勘案し、難民と急増する東独国内の抗議行動に対する大規模な問題から気をそらすために、東独当局が起こした可能性があると、当時担当していたヘッセン州のWerra-Meissner-Kreisヴェラ・マイスナー郡の警察責任者ヴォルフガング・ルスケは述べた。
写真は東独の国境エルベ川畔の警戒をする警備兵 -
ただ、犯行後、カッセルの西独国境警備隊は犯人がある祝賀会の参加者の一人であるという匿名の通報を受けていた。これによると、ドイツの分裂によって失われた以前の財産がヴェラ川の反対側にあったヘッセン州の土地貴族が飲み過ぎて、問題の財産やそこに住む住民へ嫌がらせに銃撃したのではないかという推論もしていた。カッセル検察庁は当時の所有権の問題を明確にするため、東独当局に法的支援を求め調査したが、これに対する回答はなかった。
1989年11月9日、ついに「ベルリンのMauerfall壁が崩壊」する。
Deutsche Wiedervereinigungドイツ再統一は1990年10月3日に成立した。
1991年2月、カッセル検察庁は当該銃撃事件における証拠の欠如を事由に、意図的殺人未遂事件の捜査を終了した。
ドイツ再統一後に公表されたシュタージ(旧東ドイツの秘密警察機関)のファイルにも、事件を語る明確な手がかりを得ることができなかった。
写真は東独の国境で行われたトランク内検査の様子
・・・・・
<Grenztruppen der DDRドイツ民主共和国(東独)国境警備隊>
1946年12月1日より、「ソビエト軍占領地区」を守るためのドイツ人による「Deutsche Grenzpolizeiドイツ国境警察」が設立となり、最初は、3000人であったが、1950年には、18,000人を超える組織となる。「警察」という組織から、「国境警備軍」たる組織が求められることとなる。
1961年、軍隊組織としての「ドイツ民主共和国国境警備隊」が組織されることとなり、管轄が内務省から国防省に移る。
東ドイツより西ドイツへ脱出を図る市民が続出し、特に医師や技術者などの流出は、東ドイツにとって、重大な問題であった。同年8月13日『Berliner Mauerベルリンの壁』の建設となる。同年8月24日に亡命しようとしたギュンター・リフティンが殺害されるという最初の『ベルリンの壁』射殺事件が起きる。
東ドイツ存続期間で、ベルリンで197人が射殺されたとされる。亡命者の中には、子どもを連れているのもいて、2007年8月15日に発見された内部資料には、「たとえ越境者が女性や子供を連れていたとしても、武器の使用をためらってはならない。反逆者がよく使ってきた手だ」という秘密指令が見つかる。『ベルリンの壁』で殺害されたことが確定している136人のうち9人が子どもであった。
ベルリンばかりでなく、西ドイツとの国境での、亡命者の摘発および射殺事件は続出した。1964年に、国境地域に地雷を設置する。1971年には、自動発砲装置を設置する。西ドイツでの国境地帯では、ベルリンのよりも殺傷を狙った作戦行動に出ている。
<Bundesgrenzschutz (BGS)連邦国境警備隊>
連邦国境警備隊は、ドイツ連邦共和国BRD(西ドイツおよび統一後のドイツ)の法執行機関。連邦政府初の実力組織として、東西冷戦中の1951年に創設された当初は準軍事組織としての性格もあったが、後に文民警察化された。
また国境警備を主任務としてはいたものの、順次に任務の範囲を拡大し、多彩な警備警察組織に発展していったことから、名称が実態に即していないと指摘され、2005年、連邦警察(Bundespolizei, BPOL)と改称された。
尚、1977年、特殊部隊GSG-9はルフトハンザ航空181便ハイジャック事件に投入され、世界的にその存在を知られるようになった。(Wiki)
・・・・・・ -
参考:Museum der innerdeutschen Grenzeドイツ国内の国境博物館一覧
Grenzdokumentations-Staette Luebeck-Schlutup e.V.、
Grenzhus Schlagsdorf、
Priesterkate Buechen 、
Elbbergmuseum Boizenburg 、
Grenzlandmuseum Schnackenburg、
Grenzmuseum Swinmark、
Museum Burg Brome、
Zonengrenz-Museum Helmstedt、
Gedenkstaette Deutsche Teilung Marienborn、
Grenzdenkmal Hoetensleben、
Brockenhaus、
Grenzmuseum Sorge、
Grenzlandmuseum Bad Sachsa、
Grenzlandmuseum Eichsfeld、
Grenzmuseum Schifflersgrund、
Museum Burg Wendelstein、
Gedenkstaette Point Alpha、
Deutsch- deutsches Freilandmuseum Behrungen、
Archaeologiemuseum Bad Koenigshofen、
Museum fuer Grenzgaenger、
Gedenkstaette Heinersdorf-Welitsch、
Deutsch-Deutsches Museum Moedlareuth 。
写真はニーダーザクセンとザクセンアンホルトの国境・記念の看板が立つMattierzollマティエッオル
国道B79の道路際に記念の看板が立つMattierzollマティエッオルはニーダーザクセン州Winnigstedtウィニヒシュテット村(人口700人)の一地区で、ここは国道B79が通り、HalberstadtハルバーシュタットとWolfenbuettelヴォルフェンビュッテルの中間にあった。
つまり、西独のニーダーザクセン州と東独のザクセン・アンハルト州の州境に直接位置していたので、ここに東独の国境警備所が置かれていた。
1989年11月12日午前7時58分、国境は東独側に開かれ、国道B 79は再び通行可能になったのである。今日では記念の看板と保存された国境警備所の見張り塔とインフォーメーションポイントだけが以前の国境を思い出させている。 -
国道B79通るマティエッオルと同様にAutobahnkontrollpunkt Helmstedtヘルムシュテット高速道路コントロールポイントは開通し、写真は開通後のヘルムシュテット・マリーエンボルン検問所の国境である。
多分左が西側のニーダーザクセン州に向かう人々や車の列だろう。東西に分断されていた頃は西独と東独を結ぶ連邦自動車道2号線であり、最も重要な国境通過地点であった。
また西独から西ベルリンへ向かうトランジット区間の西側最終地点であったから、当時私が車で2度ベルリンを訪ねた際、此の国境で検問を受けたのだ。
写真は東西ドイツの国境Helmstedtヘルムシュテットは1989年11月に開通した。
・・・・・・・・・・
シフラースグルント国境博物館は武漢ウイルス禍で閉館していたが、HPを見ると2020年4月20日から再開したようだ。
ドイツ各地では様々な施設が休館中だが、シフラースグルントは何やら意地でも開館したように思えてくる。
シフラースグルント国境博物館では今更ながら、二十世紀の共産主義、社会主義の恐さ、陰湿さを肌で感じたものだ。
この地を訪れたのは東西ドイツの再統一から15年後、今は2020年、既に30年近くが過ぎようとしている。ドイツ全体で再統一30周年を祝う事だろう。
だが、再統一当時、人々が将来を語った思いは達成されたのだろうか。
国境博物館という本来不要であった施設を作り、Platz der Wiedervereinigung再統一、若しくは和解の地の名称をわざわざ付けた気持ちは忘れてほしくないものだ。 和解はもう出来たのだろうか?
・・・・・・・・・・
(2020年5月3日訳・編集加筆)
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この旅行記へのコメント (2)
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- M-koku1さん 2020/05/04 08:45:49
- 黒歴史
- おはようございます
ドイツの黒歴史の一つですね。
あの頃の共産主義者、社会主義者は、本当に怖かったですね。
ソビエトのチェコ進行、中国の文化大革命など、日々のNHKの七時のニュースは陰惨でした。
それが1989年になって、突如東西ドイツ統一へと動いて、びっくりしました。
観光で東ベルリンに入っていったときの、あの陰鬱な雰囲気は、今でも忘れられないです。
チェックポイント·チャーリーで実際の銃を構えている兵士を見たときには、別世界だと思いました。それはモスクワ空港での乗り換えの際にも感じましたが、経由便の乗り換えの乗客を、銃を持った兵士たちが監視していましたからね。
ISの恐怖が出てくる前は、共産主義が一番怖かった気がします。
何だか隔世の感がします。
コロナ問題の終了後、また世界が緊張状態にならないことを祈ります。
Mより
- jijidarumaさん からの返信 2020/05/04 20:10:45
- Re: 黒歴史
- M-koku1さん、
今晩は。
11年ぶりに長持ちしていた多機能印刷機が壊れて、昨晩からあたふたし、結局自分では何ともできずに、新し機種を購入する事になりました。
まだこれから設置と機械に不器用なので、時間をかけることになりそうです。
さて、この章にもコメントを頂きありがとうございました。
言われるように、文字通りの《黒歴史》、このような田舎町にこうした歴史の後が残るとは思ってもいませんでした。グロース氏の亡命失敗事件、闇夜の銃撃事件も後から知ったわけで、2005年頃はまだ旅の出発前に各地の歴史調べも浅かったようです。
このところの番外編も口コミも定年後に行った2005年の旅のアルバム写真がベースになりました。(急に、何かのきっかけで見直すのですよ)
私のベルリン2度目の訪問は1983.4.1~4.4(3泊4日)で、再統一前でした。
当時観光バスで東ベルリンを周りましたが、おっしゃっている様子を同じように見て、同じ思いを感じたものです。
あの時代を見聞きし、体験したことは得難いものですね。
1970年代に日本赤軍派の影響を受けたドイツ赤軍も恐ろしいほど残虐でした。
変な形で日本がドイツに影響を与えたのが実にザンネン。
今は目に見えないコロナですから、こちらも後年の人に〖黒歴史〗と云われるかもしれませんね。 ありがとうございました。
jijidaruma
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