2005/04/25 - 2005/04/25
1位(同エリア4件中)
jijidarumaさん
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<2005年“北ドイツ周遊”>
期間:2005年4月21日(木)~5月5日(木)15日間 (1982年から数えて 23年ぶりの北ドイツ)
目的地:ドイツの誇る世界遺産の町々(ブレーメン、リューベック、ヴィスマール、ヒルデスハイム、更にクウェートリンブルグ、ゴスラー)や、ハンザ諸都市・Alte Salzstraße塩街道(エリカ街道)・ハルツ山地(魔女伝説)・メルヘン街道を巡った盛りだくさんの旅。
<使用レンタカー>
Renaut Espace R157-ディーゼル2200cc Automatic、
<塩の道(エリカ街道 Lübeck=>Celle)>
2005.4/25 (月) 快晴 197km
8:20 Lübeckリューベック=>塩街道(エリカ街道)をCelleツェレに向かう。B207―30km=>Ratzeburgラッツェブルク9:00着、人口1万3千人。Inselstadtインゼルシュタット(島の町)の異名を持つ。市内観光;Dom大聖堂、ラッツェブルクを9:45にスタート。B207―9km、=>Mölln メルン10:00着、人口1万6千人。市内観光;Marktplatz、Till Eulenspiegelティル・オイレンシュピーゲルの像、St・Nicolai-Kirche、Rathaus;メルン10:50出発。B207―Schwarzenbekシュバルツェンベク B209―32km、=>Lauenburg/Elbeラウエンブルク・エルベ11:45着;Elbstrasseエルべ通りのPost郵便局108、Zollhaus税関26 、
*8℃と徐々に春めいた暖かさ。8:20リューベック・ホルステン門を出て、リューネブルクまで、B207を距離凡そ100kmあるSalzstrasseザルツストラッセ(塩の道)或いはエリカ街道と称される道を走る。
写真は2005.04.25.Ratzeburgラッツェブルク:Inselstadtインゼルシュタット(島の町)の異名を持つ。Dom獅子の大聖堂 。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- レンタカー
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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<Alte Salzstraßeアルテ ザルツストラッセ(塩街道(エリカ街道)>
Alte Salzstraße塩街道(エリカ街道)は、ドイツFerienstraße観光街道の一つで、Lüneburg リューネブルクとLübeckリューベックを結ぶ昔の商業路である。ドイツ語の直訳では「昔の塩街道(95km)」である。
ハンザ同盟の時代、リューネブルクの岩塩はその大半が北海の水産加工業で、ニシンの塩漬けの材料として北方ドイツに輸出されていた。
その主要積出港がリューベックで、この町がハンザ同盟の首都にして、バルト海沿岸の最も重要な商業港でもあった。
今日では、塩街道というと、リューネブルクとLauenburg/Elbeラウエンブルク / エルベとの間の国道209号とリューベックからRatzeburgerseeラッツェブルク湖を経て、フレデブルク、メルンというラウエンブルク方向のルートにほぼ相当する。
塩街道は、自然公園ラウエンブルク湖エリアの中を横切って通っている。
・・・・・
参考写真はRatzeburgラッツェブルクの周辺図 -
参考写真はWappen von Ratzeburgラッツェブルクの紋章・・・かつての要塞都市(Festung Ratzeburgを思わせる紋章で「銀色の盾の紋章には、開かれた丸いアーチ型の門、盾の下端に達する銃眼付きの壁、3つの銃眼付きの塔が並ぶ赤い城が描かれ、中央の高い塔には青い尖った屋根(赤い柱頭が付き)があり、両隣の塔には盾の下端から伸びる3本の金色の柵の柱が見える。」
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ラッツェブルクを描写した絵(1588年、(Georg Braunゲオルク・ブラウンとFrans Hogenbergフランス・ホーゲンベルクによる)が残る。
そこにはRatzeburger Schlossラッツェブルク城(手前)とその背後の島、街と大聖堂地区(左手奥)が描かれている。
この後、1692年にHerzog Georg Wilhelm von Braunschweig-Lüneburgブラウンシュヴァイク・リューネブルク公ゲオルク・ヴィルヘルムにより、強固な要塞都市化された。
が、これを不快に思ったKönig von Dänemark Christian V.デンマーク王クリスチャン5世は、1693年に Dominsel 大聖堂島を除いたラッツェブルクをほぼ完全に瓦礫と灰にしてしまった(この文章だと実際の被害地がよく分からない)。
参考写真はRatzeburgラッツェブルク:ラッツェブルク城(手前)とその背後の島、都市と大聖堂地区(左手奥)が描かれている・・・1588年の絵 -
このため、Mannheimマンハイム(プファルツ選帝侯の宮廷所在地)の市中心部(格子状に直交する道路で区切られた街区= マンハイムの四角形)をモデルにしたバロック様式での完全な再建が望まれたと云う。
尚、ラッツェブルク要塞の残っていた部分は、1816年にデンマーク人により完全に除去されてしまった。
参考写真はラッツェブルク:Plan der Stadt und Festung 町と要塞の縄張り 1730年・・・中央下に要塞部分、左手奥に獅子の大聖堂、中央に整然とした、きれいな市街区(前述したようにマンハイム式の市街地が島内の町に導入されたのか、影響を受けたのか・・・)がある。 -
【ラッツェブルクは”島の町”の異名を持つ保養地で、獅子の大聖堂、社会風刺画のヴェーバー博物館、稀代の彫刻家バルラハ博物館がある。】
「地球の歩き方(2003&2004年版)」に塩の道(塩街道)上の町々として、湖上に浮かぶ中世の町Ratzeburgラッツェブルク、Till Eulenspiegelティル・オイレンシュピーゲルのゆかりの町Mölln メルンの事が続いて載っている。
以前からこの地域には足を延ばしていたが、ラッツェブルクがかつての要塞都市であったことは知らなかった。興味をもって先の古い絵やこの俯瞰写真を見つけた際に、メルンと共にラッツェブルクも訪れる計画を立てた。
ラッツェブルク(人口13千人)の町に9:00到着。マルクト広場の駐車場に停めて、13世紀に建てられたDom獅子の大聖堂を訪ねる。
この町はInselstadtインゼルシュタット(島の町)の異名を持つように、ラウエンブルグ湖沼自然公園の中の湖に浮かんでいる島にできた町、獅子の大聖堂を中心に出来た町である。
今は湖沼自然公園を背景にした保養地になっている。
参考写真はRatzeburgラッツェブルク:俯瞰(左奥に大聖堂) -
イチオシ
観光シーズンには早い所為か、月曜日の朝とあってか、Dom獅子の大聖堂に向かって歩く観光客もいない。
朝日の中、どっしりとした大聖堂はロマネスク様式のレンガ造り建築で、北ドイツ最古のものだが、ちょうど島の先端に立っている(後述)。
写真は2005.04.25.Ratzeburgラッツェブルク:Inselstadtインゼルシュタット(島の町)の異名を持つ。Dom獅子の大聖堂 。大聖堂 (ラッツェブルク) 寺院・教会
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早い時間なので大聖堂もクローズしていた。しかたなく周りを散策して戻る。
犬と散歩途中のご夫人が、「写真をお撮りしましょう」と親切に声を掛けてくれた。
それではと、Dom獅子の大聖堂と、Herzogtum Sachsenザクセン大公Heinrich der Löweハインリヒ獅子公(1129年~1195年)のシンボルである獅子像をバックにお願いした。
旅行中は夫婦で一緒の写真を撮るチャンスが少なくなるので、大変嬉しい申し出だった。
マルクト広場への帰り道に見た、道路沿いの庭に咲く大きな木蓮、群生している石楠花の花々も美しく、この町の豊かさを思った。
写真は2005.04.25.ラッツェブルク:塩の道Map(冊子から切り取った貼り付けた)、ラッツェブルクはInselstadtインゼルシュタット(島の町)の異名を持つ。Dom獅子の大聖堂 。 -
【Der Ratzeburger Domラッツェブルク大聖堂】
Der Ratzeburger Domラッツェブルク大聖堂(または聖マリア大聖堂、聖ヨハネ大聖堂、いわゆる獅子(ライオン)の大聖堂とも云う)は、北ドイツにあるロマネスク様式のレンガ建築の代表的な教会である。
Hl. Ansverus 聖アンスヴェルス(また、Ansuerusアンスエロス、ドイツ語のAnswer)はシュレースヴィヒ・ハイタブで1038年に生まれ、ラッツェブルク近郊で1066年に死去した。
ベネディクト会の修道士で、カトリック教会では聖人として列聖されている。
ラッツェブルク大聖堂内に聖アンスヴェルスの骨が安置されている。
島全体でラッツェブルクの町を形づくり、島内にそびえ立つロマネスク様式のラッツェブルク大聖堂は、1160年から1220年の間に建てられた。
大聖堂はラッツェブルク教区の司教教会としてHeinrich dem Löwenハインリヒ獅子王によって寄贈され、州内で最も古い教会の1つと云われている。
教会にはKreuzgang回廊とFriedhof.墓地がある。
ラッツェブルク大聖堂の印象的な部分はロマネスク様式のバシリカ翼廊の北側に隣接するPrämonstratenser-Klosters (1251年)プレモントレ修道会修道院のゴシック様式の回廊(1251年)である。
参考写真はラッツェブルク大聖堂(獅子の大聖堂): -
ラッツェブルク大聖堂はSchwerinシュヴェリーン、Lübeckリューベック、 Braunschweigブラウンシュヴァイクと、4つのいわゆる「Löwendome獅子大聖堂」の中で最も古いものである。
また、ブラウンシュヴァイクの獅子を参考にして作られたレプリカは、1881年以来、ラッツェブルクの大聖堂の中庭に立っている。
参考写真はラッツェブルク大聖堂と獅子(ライオン)の像 -
【slawischen Göttin Siva(Siwa)スラヴ人の女神シヴァ】
ラッツェブルクの旧市街の北端の高い丘にあるラッツェブルク大聖堂の敷地内には、かつて「slawischen Göttin Siva(Siwa)スラヴ人の女神シヴァ」の寺院があったそうだ。・・・ドイツの北部はスラヴ人が支配していたから、その事績も多いと云う。言葉の上でもスラヴ語の影響がこのあたりに残っているそうだ。スラヴ人によって設立されたドイツの都市の名前はスラヴの言葉に起源を持つとか(例えば、シュヴェリーン、ロストック、リューベック、ベルリン、ドレスデンなど)・・・
女神シヴァの元の名前は「生きている者」を意味し、スラヴのパンテオンの数少ない女神の一人だったと云う。ラッツェブルクの丘の寺院は後に「Polabenbergポラベンベルク」と呼ばれ、大きな環状列石もあったそうだ。
尚、1068年から1069年にかけて、ドイツ人は遠征によってスラヴ人(ヴェンド人)の主要な異教の神殿の1つである Rethraレスラを襲って破壊した歴史がある。
ここでは女神シヴァの寺院の解体後、この場所にEvermodエフェルモッド司教の下で1160年にラッツェブルク大聖堂が建てられた。
ラッツェブルク大聖堂には1066年Wendenaufstandヴェンド人(スラヴ人)の蜂起で殺されたHl. Ansverus 聖アンスヴェルスの骨が収められている(聖人に列聖された謂れはそのあたりにありそうだ)。
参考写真はラッツェブルク大聖堂の僧院 -
参考写真はラッツェブルク大聖堂(獅子の大聖堂)の内部
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参考写真はラッツェブルク大聖堂(獅子の大聖堂)の内部の宗教画作品(1269年)
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参考写真はラッツェブルク大聖堂(獅子の大聖堂)の内部の説教壇
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【社会風刺画家のAndreas Paul Weber Museum アンドレアス・パウル・ヴェーバー 博物館】
帰り道には、気になった社会風刺画家のAndreas Paul Weberアンドレアス・パウル・ヴェーバー の博物館(住所:Domhof 5)があった。
1973年、彼の80歳の誕生日に開館した。
アンドレアス・パウル・ヴェーバー(1893年Arnstadtアルンシュタットに生まれ~1980年シュレースヴィヒ・ホルシュタイン州メルン近郊のSchretstakenシュレツテイケンにて死去)はドイツのLithograf石版画家、Zeichner製図家、Maler画家である。
参考写真はラッツェブルク:ヴェーバー博物館・前景パウル ヴェーバー美術館 博物館・美術館・ギャラリー
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イチオシ
ヴェーバーは広範なグラフィックとリトグラフの作品群を残した。
とりわけ、彼はナチズム、政治、環境、医学のトピックをテーマにしていた。
彼はまた、商業グラフィックや多くの本のイラストをデザインしている。
画像の他のシリーズは、チェスプレーヤー、肖像画の似顔絵、動物の風刺的/寓意的な表現、Ernst Niekischエルンスト・ニーキッシュが発行した雑誌レジスタンスに掲載したものである。
最もよく知られているのはリトグラフのDas Gerücht(噂)で写真と説明は後述した。
参考写真はラッツェブルク:ヴェーバー博物館・風刺画作品・ヴィルヘルム皇帝 -
参考写真はラッツェブルク:ヴェーバー博物館・風刺画作品・ドンキホーテとサンチョ
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参考写真はラッツェブルク:ヴェーバー博物館・風刺画作品・マリアテレジア女帝
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参考写真はラッツェブルク:ヴェーバー博物館・諷刺画作品・ナポレオン皇帝
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参考写真はラッツェブルク:ヴェーバー博物館・諷刺画作品・鳩首
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<ヴェーバー作、リトグラフのDas Gerücht(噂うわさ)の書評(拙訳)>
「噂(うわさ)」は白黒のリトグラフで、1943年アンドレアス・パウル・ヴェーバーによって作られた。オリジナルは40.5 x 56.2センチで、ラッツェブルクのヴェーバー博物館にある。
まず、1943年に風刺画「噂(うわさ)」を制作した。その10年後、ヴェーバーはこのモチーフをリトグラフとして制作した。
彼の最も有名な作品として、「噂」は彼の芸術の一種の象徴となっている。
ヴェーバーは芸術表現よりも内容に焦点を当てていた。
ヴェーバーの得意とする分野には、しばしば抽象的な用語の物語的で劇的なイラストが含まれていた。ここで彼は「噂」という言葉を、盲目の眼鏡をかけた蛇のような先のとがった鼻の生き物として提示している。
体は無数の目で覆われている。その存在は、高層ビルの窓からこぼれ落ちる物体の拡散した「何か」から発展していく。
この存在によって、ヴェーバーは噂(うわさ)が何であるかを正確に示した。
一度それが世界に持ち込まれると、それはもはや止めることができず、ある時点で誰もが盲目的に参加するほど圧倒的になるのだ。
Kunst & Krempel
Familienschätze unter der Lupe
Samstag, 28.09.2013
参考写真はヴェーバー博物館:諷刺画作品・最もよく知られているのはリトグラフのDas Gerücht(噂(うわさ))。 -
参考写真はラッツェブルク:Weberヴェーバー博物館内の展示
A Paul Weber - YouTube -
バルラハは1870年、ハンブルク近くのWedelヴェーデルに生まれ、1877年にはRatzeburgラッツェブルクに家族と引越し、若い時期をここで10年ほど過ごした。
68歳の1938年10月、Rostockロストックで脳溢血のため死去し、ラッツェブルクの墓地に家族と共に葬られている。
参考写真はラッツェブルク:小さなBarlachmuseumバルラハ博物館 、 Barlachplatz 3バルラハ広場3番地の家にはかつてバルラハの父が住んでいだ(1884年、父が死去した)。
Ernst Barlach Museum - YouTubeバーラッハ美術館 博物館・美術館・ギャラリー
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ラッツェブルク大聖堂の僧院の内庭の壁にドイツの彫刻家Ernst・Barlachエルンスト・バルラハ(後述)の作品「Der Bettler auf Krücken杖をついた物乞い」がかけられていた。
大聖堂に相応しい作品かもしれない。
参考写真はラッツェブルク大聖堂の僧院の内庭・バルラハの作品「Der Bettler杖をついた物乞い」(1930年) -
1938年10月24日、彫刻家で作家のエルンスト・バルラハは、Rostockロストックの診療所にて脳溢血のため68歳で亡くなった。彼は父Dr. Georg Barlachゲオルク・バルラハの住居のあったラッツェブルクの墓地に埋葬された。
1877年から1884年まで、父ゲオルク・バルラハ医師一家はラッツェブルクのSeestrasseゼーシュトラーセにあるStadtkirche St. Petri聖ペトリ教会の隣にある家に住んで、その家で診療を行っていた。
バルラハ家の墓はラッツェブルクのいわゆる「郊外墓地」にあったので、エルンストもそこに埋葬されたのです。
参考写真はラッツェブルクのいわゆる「郊外墓地」・Der singende Klosterschüler Barlach-Grabmal in Ratzeburgバルラハの墓所にある、歌う僧院の学徒碑 (1931年) -
<2014年ドイツ:北方二州を巡る>
(北方二州:シュレースヴィヒ・ホルシュタイン州 &
メクレンブルク・フォアポンメルン州を中心に巡る旅)
(2014年05月09日~23日 15日間)
今まで足を伸ばした事が無いシュレースヴィヒ・ホルシュタイン州フレンスブルクのグリュックスブルク城、かつてのドイツ海軍の基地キールを訪ね、メクレンブルク・フォアポンメルン州の世界遺産シュトラールズントやバルト海に面したリューゲン島、ノイブランデンブルクやメクレンブルク湖水地帯、州都・シュヴェリーン一帯の湖水地方などを主に巡る旅である。
その他にも、メルヘン街道やニーダーザクセン州の州都ハノーファー等を訪ね、ノルトライン・ヴェストファーレン州の州都デュッセルドルフに至る旅である。
レンタカーはVW Golf 5 GTD 2000cc 白 5T TDI・DSG
オートマチック・エアコン・ナビ、ディーゼル車。
<05月13日(火) 205km、晴れ時々曇り 13℃、相変わらず寒かった。>
Kielキールはバルト海に面したドイツ北部の都市。シュレースヴィヒ・ホルシュタイン州の州都で最大の都市である(人口は約24万人)。
St.Nikolai-Kirche聖ニコライ教会: 12:45~13:20
船乗りや商人の守護神である聖ニコライの教会として1242年に建設されている。
19世紀後半、ネオ・ゴシック様式で建て替えられた聖ニコライ教会は第二次大戦で大きく損傷し、1950年に再建されている。
教会を入ると右手にライオンの像が支えている青銅の洗礼台がある。1344年と古いもので、青銅の周囲の面には青銅鋳造者であるヨハン・アペンゲターにより描かれたキリストの一代記などが見て取れる。1460年の大聖壇、小さなキリスト洗礼の聖壇(1490年)もあり、ここには内側の扉4面に福音書著者であるマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの聖人4人が描かれ、裏側の4面には4人の天使の姿が描かれている。
1705年に作られた説教壇を支える聖人クリストファー、パイプオルガンは1965年製と新しい。
特筆されるのはバルラハの「Der Geistkämpfer闘う天使若しくは精神の戦士」(1928年作品)が聖ニコライ教会前にあることだ。
尚、バルラハについてはGüstrowギュストローのバルラハ博物館見学で後述したい。
写真はエルンスト・バルラハ:キール市の聖ニコライ教会前の「闘う天使若しくは精神の戦士」像聖ニコライ教会 (キール) 寺院・教会
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<05月17日(土) 170km、晴れ、16.5℃、今日も天候に恵まれた。>
Schlosshotel Gross Plasten古城ホテル グロース・プラステン城を9:35に出発。
「地球の歩き方(2003&2004年版)」には、キールやシュヴェリーンといった都市はあるがさすがにGüstrowギュストローは出てこない。
今日の目的は「Barlachstadt」バルラハの町、この町(人口3万人)が公式に名乗っているのは2006年からである。Güstrowギュストローにはエルンスト・バルラハ博物館(ギュストローの名誉市民でもある)があり、じっくりその作品を見たい。それからギュストロー城博物館・庭園、シュヴェリーン城の伝説の小人に会いたい・・・といったところである。
エルンスト・バルラハ博物館はGüstrowギュストローの市内に入る6km手前にあった。急に博物館の案内板:Atelierhaus アテリールハウス(アトリエ)、 Graphikkabinettグラフィックカビネット(博物館の展示場):が出てきて、左の道に入ると、Inselseeインゼル湖畔の静かな緑濃い森の中にバルラハ博物館(Heidberg 15)があった。
私共はすでにキールの聖ニコライ教会前でバルラハの有名な「Der Geistkämpfer 闘う天使若しくは精神の戦士」(1928年作品)には出会っている。
写真はGüstrowギュストロー:エルンスト・バルラハ博物館の作品:「闘う天使若しくは精神の戦士」像 -
【Barlachstadt Güstrowバルラハの町ギュストロー】 10:43~14:00
http://www.guestrow.de/
人口28千人の町の創設者はメクレンブルク侯爵(治世1219~26年)Fürst. Heinrich Borwin IIハインリヒ・ボルヴィン二世(ロストック侯爵・領主)である。
現在、ギュストローはBarlachstadt Güstrowバルラハの町ギュストローと称しているが、個人名を町の名前に冠しているのも珍しい。
(尚、Lutherstadtルターの町と称する3つの町があるのも良く知られている。Wittenberg、Eisleben、Mansfeldである。)
エルンスト・バルラハは1870年1月2日、シュレースヴィヒ・ホルシュタイン州のピンネベルク地区、ハンブルクの西方に当たるWedelヴェーデルに生まれた。
父は医師のGeorg Barlachゲオルク・バルラハ、母はJohanna Luise Barlachヨハンナ・ルイーズ・バルラハで、四人兄弟の長男であった。
一家は1872年にシェーンベルクに、1877年にはRatzeburgラッツェブルクに引越し、エルンストは若い時期をここで10年ほど過ごした。
68歳の1938年10月24日、ロストックで脳溢血のため死去し、ラッツェブルクの墓地に家族と共に葬られている。
後に「バルラハの町ギュストロー」と呼ばれるようになったが、ギュストローに住んだのは1910年から彼の死の1938年までの28年間であり、晩年期にあたる。
バルラハの博物館はギュストロー以外に生誕地ヴェーデルと、墓のあるラッツェブルクにもある。生まれた家、父の家がそれぞれ博物館になっている。
写真はGüstrowギュストロー:エルンスト・バルラハが住んだAtelierhaus アテリールハウス(アトリエ)である。 -
【Güstrowギュストロー:稀代の彫刻家エルンスト・バルラハ博物館】
(ERNST BARLACH STIFTUNG GÜSTROWエルンスト・バルラハ財団(ギュストローという組織があり、Sankt Gertrauden-Kapelle聖ゲルトラウデン礼拝堂(こちらは少し離れた旧市街傍の礼拝堂内に展示があり、後で訪れた)、Atelierhaus アテリールハウス(アトリエ)、 Graphikkabinettグラフィックカビネット(博物館の展示場)の3つが博物館を構成している)
<Atelierhaus &Graphikkabinett> 10:43~11:35
D-18273 Barlachstadt Güstrow 、Heidberg 15
開館:火~日 10:00~17:00
共通入場券(Euro20.5)を購入し、グラフィックカビネットに入った。
1998年に開館し、都度、展示品も変える。
320体の彫刻、1400の素描・スケッチ、300の版画、110の文学草稿、130の下書き・草案、手帳など相当の数のコレクションが蒐集されているとのことだ。
闘う天使若しくは精神の戦士、読書する人、眠れる小作農、笑う老人、耳を澄ます人たちのフリーズ、自画像、数々の素描・スケッチ、版画を見る。
写真はBarlachstadt Güstrowバルラハの町ギュストロー:エルンスト・バルラハ博物館の作品・・素描・スケッチ -
*Ernst Barlachエルンスト・バルラハと作品について:
エルンスト・バルラハ(又はバルラッハ:1870年~1938年)は20世紀ドイツの、表現主義の彫刻家、画家、劇作家である。
第一次世界大戦に始めのうちは賛同していたが、自身が戦争を体験することにより転換。反戦的、厭戦的な作品を多く残すようになった。
しかし、そのためにナチスによって「退廃芸術」の烙印を押され、多くの作品が没収、いくつかは破壊された。
彼は彫刻家として最もよく知られているが、絵画、陶芸、版画、戯曲、小説といった幅広い分野で作品を残している。
初期のアール・ヌーヴォースタイルの絵画は日本の浮世絵の影響を受けているという。(Wik抜粋)
その作品群は
『闘う天使、風の中の旅人、ハンブルク戦没者記念碑、マクデブルク戦没者記念碑、再会、ギュストロー戦没者記念、眠れる小作農、漂う天使(ドーム天使)、狂戦士、読書する人、杖をついた物乞い、耳を澄ます人たちのフリーズ、笑う老人、歌う男、マントを着た男、』などがある。
写真はGüstrowギュストローのエルンスト・バルラハ博物館の作品:素描・スケッチ -
イチオシ
写真はエルンスト・バルラハ博物館の作品:自画像(1928年)
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写真はエルンスト・バルラハ博物館の作品:Der lehrende Christus 説教しているキリストBronze(1931年)
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写真はエルンスト・バルラハ博物館の作品:Der Flüchtling逃亡者、避難民Bronze, (1920年)
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写真はエルンスト・バルラハ博物館の作品:Der Buchleser 読書する人Bronze
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写真はエルンスト・バルラハ博物館の作品:Schlafende Vagabunden (Schlafendes Bauernpaar) 眠れる小作農(1912年)
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写真はエルンスト・バルラハ博物館の作品:Lachende Alte笑う老人(1937年)
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写真はエルンスト・バルラハ博物館の作品:Fries der Lauschenden耳を澄ます人たちのフリーズ(1930~35年)
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写真はエルンスト・バルラハ博物館の作品:Russisches Liebespaarロシアの恋人たち(1909年)
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参考写真はエルンスト・バルラハの作品:Der_singende_Mann歌う男Bronze(1928年)
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参考写真はエルンスト・バルラハの作品:Ernst_Barlach_Der_Berserker_Nussbaum狂戦士(1910年)
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<Sankt Gertrauden-Kapelle聖ゲルトラウデン礼拝堂(バルラハ作品の展示)> 11:50~12:15
D-18273 Barlachstadt Güstrow 、Gertrudenplatz 1
この礼拝堂は聖女Gertraud (若しくはGertrud)von Nivelles ニヴェルのゲルトラウデ(626年~659年)を祀るもので、礼拝堂内にバルラハ作品が展示されている。
主要な教会はマルクト広場を中心とする旧市街にあるが、こちらは旧市街からほんの少し外に立っているKapelle礼拝堂である。駐車場を見つけて車でうろうろしていたら、これを見た近所の親切なドイツ人が、“ここにあるよ!”と3台ほどの駐車場を示してくれた。感謝!
そこから教会の塀に沿って100mぐらい歩くと、入口になった。
14世紀末から15世紀初めに作られた礼拝堂(実際の建物は写真の様に教会並みに大きな建物だった)の重い扉を押して中に入ると、数人の観光客が熱心に見ている。
ここにもバルラハ作品である「読書する人、杖をついた物乞い、母親を彫ったというMutter‐Erde母なる大地、再会、漂う天使(ドーム天使)のマスクなどの彫刻が見られた。
写真はSankt Gertrauden-Kapelle聖ゲルトラウデン礼拝堂の建物と広い敷地 -
参考写真は*Gertraud (若しくはGertrud)von Nivelles ニヴェルのゲルトラウデ(626年~659年)は、ベルギーのアウグスティヌス修道院ニヴェルの修道院長であり、ローマ・カトリック教会の聖人。
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イチオシ
写真は聖ゲルトラウデン礼拝堂(バルラハの作品): Das Wiedersehen Mahagoni再会 マホガニー(1926年)
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写真は聖ゲルトラウデン礼拝堂(バルラハの作品):Wanderer im Wind風の中の旅人. Eichenholz; H. 120 cm (1934年)
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写真は聖ゲルトラウデン礼拝堂(バルラハの作品):Der Kopf des Schwebenden 、 auch Schwebender Engel漂う天使(ドーム天使)1927年の頭部
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写真は聖ゲルトラウデン礼拝堂(バルラハの作品):Mutter‐Erde母なる大地(1920年)
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礼拝堂周辺の広い庭園には西洋サンザシの赤い花や白い小手毬が咲き誇って、やはり春なのだ。
庭園にも数体のブロンズ像が芝生の上に置かれていたが、あの礼拝堂内にあったMutter‐Erde母なる大地に似た石像もあった。
写真は聖ゲルトラウデン礼拝堂(バルラハの作品):母親を彫ったというMutter‐Erde母なる大地(1920年) -
1928年以降もバルラハは自身の戦争体験に基づいた反戦的な作品を作り続けていたが、ナチズムの台頭により作品は様々な批判の対象となった。
例えば、「Magdeburger Ehrenmalマクデブルク戦没者記念碑」は、英雄的なドイツ兵が国家の栄光のために戦った場面を期待されてマクデブルク市から制作を依頼されたが、バルラハはフランス兵、ドイツ兵、ロシア兵が戦争による恐怖と痛みに絶望の表情を見せる作品を作った。
当然のことながら、この作品は戦争支持者による激しい議論を巻き起こし、結局、1934年に撤去された。
他国に売却されるところを、友人のベーマーが買い取って保護していたため、戦後マクデブルク大聖堂に設置された。
しかし、このような攻撃はバルラハが死去するまで続いた。
参考写真はバルラハの作品:Magdeburger_Ehrenmalマグデブルク戦没者記念像 (1928~29年) -
<Güstrower Domギュストロー大聖堂> 12:30~12:55
入場券・カメラEuro3
http://www.dom-guestrow.de/
聖マリア、聖ヨハネ、聖セシリアの大聖堂は1226年6月3日、メクレンブルク公Fürst. Heinrich Borwin IIハインリヒ・ボルヴィン2世侯爵が建てたもので、北ドイツ独特の煉瓦造りゴシック様式の建物である。西塔は44mの高さである。
歴史を感じさせる内部には15、6世紀のClaus Bergクラウス・ベルクのイエスの像、及びHinrik Bornemannヒンリック・ボルネマンのBornemann Altar祭壇(1495年)がある。オランダの建築家Philipp Brandinフィリップ・ブランディンが作成したメクレンブルク家のStammbaum家系図も一見の価値がある。
参考写真はGüstrower Domギュストロー大聖堂は聖マリア、聖ヨハネ、聖セシリアの大聖堂とも云う。 -
また、大聖堂の背面の壁にHerzog Ulrich von Mecklenburg-Monument&Epitaphメクレンブルク公爵ウルリッヒの記念碑および墓碑銘が見事な形で作られている。そこには最初の公妃Elisabeth von Dänemarkデンマークのエリザベート(中央)と2番目の公妃Anna von Pommernポメラニアのアンナ(左;バルト海南岸のポメラニアにあった西スラヴ系の公国、現ポーランドのStettinシュテティーンに首都があった)の墓がある。
更に1927年、エルンスト・バルラハは第一次大戦の犠牲者を悼んだDer Schwebende, auch Schwebender Engel漂う天使(ドーム天使)を創った。
教会内の内陣にこの天使は漂っていた。
開館時間:月~土 10:00~17:00
写真はエルンスト・バルラハの作品:Der Schwebende, auch Schwebender Engel漂う天使(ドーム天使) (1927年) -
イチオシ
大聖堂からフィリップ・ブランディン通りを右手に歩くと、裁判所、インフォーメーション、エルンスト・バルラハ劇場、そしてギュストロー城・庭園が集まった広場に出た。
<Schloss Güstrowギュストロー城> 13*00~13:50
D-18273 Güstrow 、Franz-Parr-Platz 1
入場料Euro10
http://www.museum-schwerin.de/orte/schloss-gustrow/
ギュストロー城もシュヴェリーン城もそうだが、当時、力のあったスラヴ人がそれぞれの地にスラヴ風の砦を築いていた。
ギュストローには1219年、西スラヴ人の砦が最初に築城された。その後、1229年から1436年までFürst. von Werleヴェルレ侯爵(西スラヴ系)の代々の居城となっていた。
ヴェルレ侯の死後、1436年、Herzogtum Mecklenburg Schwerinメクレンブルク・シュヴェリーン公爵(元々に遡るとスラヴ系の出身)がギュストロー城を第二の居城とした。
ギュストロー城は1972年以来、中世、狩猟と武器や現代美術の北ドイツ芸術のための博物館として使用されている。庭園は珍しい事にルネサンス風だと云う。
*1986年以来、シュヴェリーン州立博物館及びルートヴィヒルスト城博物館、ギュストロー城博物館の三州立博物館は一体の組織になっている。
開館:火~日、10:00~17:00
広場中央にDenkmal Freiwillige Jäger志願した猟師兵(義勇兵)の記念碑のあるFranz-Parr-Platzフランツ・パル(城の建築家の名前を取った)広場・・・1813年志願兵がここに参集し、訓練をしたという広場だ・・・を横切り、Torhaus城門 を抜け、Eingangsportal 玄関から城内に入っていく。
城内博物館は1階、2階、そして地下に展示がある。Tordurchlass通り抜けの間の天井模様は漆喰芸術が見られ、コロッセウムの剣闘士、猛獣の争闘、狩猟の場面などが描かれていた。
トイレを借りに行ったら、「庭園を写すなら、ここ(3階)のトイレから撮ると良い写真が撮れる」と、博物館の男性スタッフが教えてくれた。
確かに、俯瞰した庭園全体が写真に納まった。
その他の城内展示にはメクレンブルク・シュヴェリーン公爵夫妻の人物画、陶磁器、キリストの聖壇、木彫りと思しき女性の胸像など。
ギュストロー城の庭園に出てみると、庭園中央にビオラと桜草の花で美しく彩ったハート、その周囲を幾何学模様の庭が8つ、広々とした庭を形作っていた。
この庭園から見るギュストロー城は最も好まれるビューポイントだそうだとか・・納得。
<Barlach-Theaters Güstrowバルラハ劇場(ギュストロー)>
http://www.ernst-barlach-theater.de/
開館:水~金 12:00~18:00
D-18273 Güstrow 、Franz-Parr-Platz 8 (Bühneneingang)
ギュストロー城から出ると、右手にある。学生たちが集まっていたが、観劇でもするのか?ここは時間もなく、遠くから眺めて写真を撮っただけに終わった。
写真はかつてのスラヴ人の城Schloss Güstrowギュストロー城:城内博物館と美しい庭園
・・・・・
本日の最後は64km先のSchwerinシュヴェリーンの観光です。
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塩の道からラッツェブルクを訪れてみれば、この町にからんだスラヴ人の女神シヴァ、要塞都市、獅子の大聖堂、社会風刺画のヴェーバー博物館、稀代の彫刻家エルンスト・バルラハの作品と、様々におさらいをしてしまった。
じっくり訪ねれば、もっといろいろが見えたのかもしれない。
(2025年03月20日Wiki・HP参考、訳・編集追記)
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この旅行記へのコメント (2)
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- pedaruさん 2025/03/22 07:06:53
- 北ドイツ周遊
- jijidarumaさん おはようございます。
今までたくさんのドイツの旅行記を読ませていただきましたが、言えるのはただ驚きの一言であります。
ご自身で撮られた写真は勿論、絵地図、紋章、歴史書、交通地図、絵その他あらゆる資料を駆使して余すところなく創作なさっている姿勢は稀有なものです。
情熱を感じます、それはたぶん性格からくるものだと思いますが、私のように場当たり主義で旅行記を作る者に取っては驚きでしかありません。
ドイツ旅行記に関しては、本にして出版なされば、ドイツ愛の集大成となるでしょう。その際は書店にて買わせていただきます。
>スラヴ人によって設立されたドイツの都市の名前はスラヴの言葉に起源を持つとか(例えば、シュヴェリーン、ロストック、リューベック、ベルリン、ドレスデンなど)・・・
遺跡などで歴史を感じることが多いですが、言語でも歴史を知ることは興味深いですね。私もjijidarumaさんに学ばなくてはと思っております。
pedaru
- jijidarumaさん からの返信 2025/03/22 19:44:17
- Re: 北ドイツ周遊
- pedaruさん、
今晩は。いつもありがとうございます。
急にまた暖かくなりました。不思議と気分が高揚します!
<・・・様々におさらいをしてしまった。
じっくり訪ねれば、もっといろいろが見えたのかもしれない>などと、最後にまだ書き足らぬような言葉を書きましたが、もう20年前になる旅、セピア色となった旅なのに、冥途の土産にする気かと冷やかされそうで・・・。
おっしゃるように、傘寿を過ぎても何やら拘り、不明な所には時間をかけて原文資料まで読み込み、関係写真も見つけ出すなど、歳と共にこの性格はひどくなってしまったようです。夜中、暇な時間がありすぎる(苦笑)のでしょう。
20年前に書き残した旅行記は既にファイルにあり、アルバムもあり、娘達や孫たちに残す資料としては十分なのに。
改めて塩の道から(日本人観光客や、ドイツ時代の部下たちも含めてはあまり興味を示さない)ラッツェブルクを訪れてみれば、この町にからんだスラヴ人の女神シヴァ、獅子の大聖堂、社会風刺画のヴェーバー、稀代の彫刻家エルンスト・バルラハを気になって見直してしまいました。
このような「自己中」然としたものを投稿して見て頂くのは
誠に恐縮、恐縮です(-_-;)。
先月、卒業旅行で南ドイツを巡った孫娘、友人たちと短いソウルの旅に行った大学2年の孫娘、まだ私がドイツの旅に行きたいと言っているうちに、若い人はどんどん行動に移しています。私の方はオアシをあげるのみ!
それではまた、ありがとうございました。
jijidaruma
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