2019/07/12 - 2019/07/12
19位(同エリア1012件中)
エンリケさん
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2019年夏休みのポーランド旅行記7日目後半。
ヴィエリチカ岩塩坑の見学から戻って、クラクフ旧市街の見どころを巡ります。
14世紀創立の伝統あるヤギェウォ大学を皮切りに、聖マリア教会、織物会館の地下博物館、国立美術館と回り、映画“シンドラーのリスト”の舞台ともなった、オスカー・シンドラーの琺瑯工場へ。
そして、陽が落ちてからは、たくさんの人々で賑わう中央広場の夜景を鑑賞。
この街が歩んできた様々な苦難の歴史に思いを馳せながら、平和のありがたさを再実感したクラクフ観光となりました。
<旅程表>
2019年
7月 6日(土) 羽田→ミュンヘン→ワルシャワ
7月 7日(日) ワルシャワ
7月 8日(月) ワルシャワ→グダンスク
7月 9日(火) グダンスク→マルボルク城→グダンスク
→トルン
7月10日(水) トルン→ウッチ→クラクフ
7月11日(木) クラクフ
〇7月12日(金) クラクフ→ヴィエリチカ岩塩坑→クラクフ
7月13日(土) クラクフ→アウシュヴィッツ・ビルケナウ
強制絶滅収容所→クラクフ
7月14日(日) クラクフ→ミュンヘン→
7月15日(月) →羽田
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- グルメ
- 4.0
- ショッピング
- 4.0
- 交通
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 20万円 - 25万円
- 交通手段
- 高速・路線バス 徒歩
- 航空会社
- ルフトハンザドイツ航空
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
7月12日(金)
10時、ヴィエリチカ岩塩坑の見学を終了。
これからクラクフへ戻るのですが、この時間帯は電車がないため、バスを利用。
駅へ戻る途中の幹線道路沿いにあるバス停で待っていると、クラクフ行きの304番のバスはすぐ到着。
乗車券はバスの中にある券売機で購入(4.6ズウォティ=約130円)し、近くにある改札機に乗車券を突っ込んで改札終了。ヴィエリチカ岩塩坑 (ツーリストルート) 建造物
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バスはクラクフ本駅まで行くのですが、懐かしい(?)旧市街が見えたところで待ちきれなくなって、11時15分、旧市街西側のヤギェウォ大学近くのバス停で下車し、そのままヤギェウォ大学へ。
1364年、“大王”ことカジミェシュ3世により創建され、あのコペルニクスも学んだ、スラヴ人にとっての最古の大学です。ヤギェウォ大学 建造物
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敷地内に立っているこちらは、ニコラウス・コペルニクス(1473-1543年)の像。
彼が地動説を唱えたのも、このヤギェウォ大学(当時の名はクラクフ大学)で天文学を学んだことがきっかけでした。 -
ヤギェウォ大学を出て、旧市街を取り囲む外縁の歩行者道をてくてく。
緑がいっぱいで気持ちいいですね。 -
12時、クラクフ本駅東側のMDAバスターミナルで翌日のアウシュヴィッツ(オシフィエンチム)へのバスチケットを購入した後、ガレリア・クラコウスカ内のファストフード店“Polskie Smaki”でランチタイム。
これまでレストランでの重い食事が続いていたので、たまにはファストフードでもと思い、肉、ビート、ジャガイモの入ったポーランドの伝統料理を注文(20ズウォティ=約580円、ほかにペットボトルのレモンティー6ズウォティ=約180円)したところ、これがなかなかの味。
長旅で疲れた胃と財布には、ガレリア・クラコウスカ内の“Polskie Smaki”、おすすめです!ギャレリア コラコウスカ ショッピングセンター
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ガレリア・クラコウスカでの食事を終え、13時、前日に引き続き、旧市街の中央広場へやってきました。
この日も相変わらずすごい人出です。中央広場 広場・公園
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さて、まずは前日入れなかった聖マリア教会に入ってみるとしますか。
聖マリア教会 寺院・教会
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教会の南側外にあるチケット売り場で入場券を買い(10ズウォティ=約290円、塔は別途15ズウォティ=約440円のところ、この日は売り切れ)、観光客用の入口から内部へ。
目にしたのは、一部改修中なのが残念ではありますが、高い天井の下に広がる荘厳な空間・・・。 -
こうしてみると、内陣の部分は、撮影禁止だったヴァヴェル大聖堂に似ています。
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一般用の入口の近くには、熱心に祈りを捧げる人々の姿も。
・・・この聖マリア教会、1222年に創建されたものの、1240年からその翌年にかけてのモンゴル軍の来襲で破壊され、現在の建物は14世紀、カジミェシュ3世によりその廃墟の上に建てられたもの。
ここでもまた“大王”カジミェシュ3世・・・現代に残るクラクフの街はまさに、カジミェシュ3世が造ったといっても過言ではないのですね。 -
13時30分、聖マリア教会の見学を終え、外へ。
教会の前には、この旧市街とマッチした、絵になる馬車の姿が。 -
このように馬車は観光客を待って列をなしていますが、御者は全員女性。
日本でも乗馬教室に通うのは女性が多い印象ですし、ポーランドでもそういうことなんでしょうか。 -
聖マリア教会から中央広場の真ん中に位置する織物会館をパチリ。
本当に、人々が集う平和な広場ですね。織物会館 (織物取引所) 市場
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織物会館前には、旧市街の様々な風景を描いた水彩画も。
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その織物会館の向かって右端にある入口から、“地下博物館”へ(入館料21ズウォティ=約610円)。
この地下博物館、中央広場の地下4mにある、2010年にオープンした比較的新しめの博物館で、クラクフの街がこの高さにあった13世紀以前の姿や人々の生活などを展示しています。
館内に入ってすぐのところにあるこの展示は、その頃の住居を復元したものでしょうか。
思ったよりも木の部材が多く使われています。地下博物館 博物館・美術館・ギャラリー
-
こちらは中央広場の地下に眠っていた13世紀以前の石積みの跡。
今のクラクフの街の下にこんな街があるなんて、何だかSFの世界のようでもありますね。
しかし、この地下都市は13世紀以前のもの・・・とすれば、13世紀のモンゴル軍の来襲によって滅びてしまった街の跡でしょうか。
ポーランドは20世紀にもナチス・ドイツにより大量虐殺の歴史を経験していますが、13世紀にモンゴル軍によって受けた被害は、人口の差こそあれ、ひとつの街を埋めて作り変えなければならなかったほど、大きなものだったのですね・・・。 -
こちらは2005年10月、中央広場下を発掘中の写真。
確かに、きちんと区画された石積みの遺構が見えますね。
当時はまさかオリジナルの世界遺産でもあり、クラクフの街の中心でもあるこの場所で、こんな大掛かりな作業が行われていたなんて、知りもしませんでした・・・。 -
2006年10月、聖マリア教会の塔から見た中央広場の写真。
発掘作業は1年以上にも渡って続いたのですね。
“街の中心を閉鎖してまで発掘作業を行う”というのはなかなかの決断だったとは思いますが、このときの投資があったからこそ、今のクラクフの観光都市としての賑わいがあるのかもしれませんね。 -
こちらは2007年4月に撮影された、11世紀に埋葬された女性の写真。
中央広場の下には墓地もあったのか、それとも??? -
石積みの遺構をくぐり抜け、続いてはクラクフの歴史をVTRで紹介するコーナー。
スラヴ人の集落が形成された頃から、第二次世界大戦中のユダヤ人迫害までの歴史がいくつかの部屋に渡って放映されており、言葉が分からなくても映像だけで伝わってくる、大変興味深い一角。
VTRの作りが凝っていて、ずっと見ていたい衝動にかられましたが、次に行きたい施設もあるので、見るのもそこそこに引き上げます・・・。
ちなみに、映像ではキリスト教伝播以前の原始的な集落生活を送る人々の様子もありましたが、西暦900年以前のクラクフについては、人々が本当はどのような生活をしていたか、現在でもよく分かっていないそうです。 -
VTRコーナーの壁には、ポーランドの歴代君主たちの画像が。
この画像、目の前に立つと顔が動いてしゃべる仕掛けが施されています。
こちらはこの旅行記ではお馴染み、ポーランド唯一の“大王”ことカジミェシュ3世(在位:1333-70年)。
トランプの“キング”のようなヒゲが印象的な王様ですね。
2018年には、以下のようなドラマも製作されたようです。
【大王カジミェシュ~欲望のヴァヴェル城~】
https://www.youtube.com/watch?time_continue=107&v=qZiFQuGQVtg&feature=emb_title -
こちらはクラクフがポーランドの首都だった頃のヨーロッパの交通図。
まさにヨーロッパの東西南北をつなぐ東欧の要衝としての役割を果たしていたのですね。 -
1時間ほどで地下博物館の見学を終え、15時、今度は織物会館の2階にある、国立美術館の分館へ(入場料25ズウォティ=約730円)。
入ってみると、クラクフ旧市街の中心に位置しているにもかかわらず、観覧者は少なく静かで落ち着いていて、何とも贅沢な空間が。クラクフ国立美術館 博物館・美術館・ギャラリー
-
この国立美術館分館、部屋はたった4つしかないですが、落ち着いた素敵な絵画ばかりで、外の喧騒を忘れてゆったりした時間を過ごすことができます。
そんな作品たちのいくつかを紹介。
まずは、Stanislaw Maslowski(1853-1926年)の“月の出”(Moonrise、1884年)。
夕暮れの静かな雰囲気の中、湖面に長く映える月影が印象的な作品です。 -
次は、Leon Wyczolkowski(1852-1936年)の“クロッケーゲーム”(A Game of Croquet、1895年)。
ムンクっぽい、人物像に特徴のある印象的な絵ですね。
【ノルウェー~デンマーク紀行(5) ベルゲン美術館のムンク作“女の三相/スフィンクス”(1894年)】
https://4travel.jp/travelogue/10480377#photo_link_19640705 -
同じくLeon Wyczolkowskiの“ウクライナの耕起”(Ploughing in the Ukraine、1892年)。
早朝の大地の匂いが伝わってきそうな絵です。 -
ワルシャワの国立美術館にも作品のあったポーランド人画家、アレクサンダー・ギエリムスキ(Aleksandar Gierymski、1850-1901年)の、“セーヌの夕べ”(Evening on the Seine、1893年)。
こちらも夕暮れの静けさが伝わってくる作品です。
【雨多き初夏のポーランド(2) ワルシャワ国立美術館のギエリムスキ作“ヴェネツィアのサン・マルコ寺院の内部”】
https://4travel.jp/travelogue/11527283#photo_link_61517861 -
Tadeusz Ajdukiewicz(1852-1916年)の“ヘレナ・モジェエフスカの肖像”(Portrait of Helena Modrzejewskiej、1880年)。
現在でも有名なポーランド人女優を描いたものですが、暗い背景の中から浮き上がる、美しい女性の顔や白を基調とする衣装の質感がよく出ていて、ハッとさせられる作品です。 -
この美術館は壁紙もパステル系の柔らかい色調で、静かな雰囲気にマッチしていて素敵ですね。
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こちらはこの旅行記ではお馴染み、“ポーランドの国民画家”ヤン・マテイコ(Jan Matejko、1838-93年)の、“ヴェルニホラ”(Wernyhora、1883-84年)。
この“ヴェルニホラ”とは伝説的なコサックの預言者のこと。
マテイコがこの作品を描いた19世紀、近代化や都市化が進む裏で、そういう神秘思想が流行ったのでしょうか。 -
マテイコはクラクフの出身だけあって、この美術館には彼の作品が多数あります。
こちらは“プロイセンの臣従”(The Prussian Homage、1882年)という作品。
1525年、ドイツ騎士団総長のアルプレヒト・ホーエンツォレルンが跪いて聖書に手をおき、ポーランド王ジグムント1世に臣従を誓う場面を描いたもので、これにより長年ポーランド王国と争ってきたドイツ騎士団領は消滅し、新たにプロイセン公国が誕生することになります。
・・・マテイコの時代、ポーランドの西部は臣従を誓ったはずのプロイセン(公国から王国に昇格)に呑み込まれてしまったわけですが。 -
“プロイセンの臣従”の中央部をズームアップ。
マテイコの歴史画の特徴として、登場人物がかなり多数に上ることが挙げられますが、いずれの人物も、手を抜かず細かく描き込まれていることが分かります。 -
こちらもマテイコの歴史画、“ラツワヴィツェの戦い”(Kosciuszko at Raclawice、1888年)。
“ラツワヴィツェの戦い”とは、ロシア、オーストリア、プロイセンによるポーランド分割時代の1794年4月4日、ポーランドの国民的英雄コシチュシュコが、クラクフ近郊のラツワヴィツェでロシア軍を破った戦いのこと。
この勝利がきっかけとなり、ワルシャワやヴィリニュスでも反乱の火の手が上がりますが、やがて兵力を補充してきたロシア・プロイセンの連合軍に敗れ、コシュチュシュコの起こした反乱は鎮圧。
コシチュシュコ自身も捕らえられ、やがてフランスへ亡命することに。
この後、ナポレオンにより一時的にワルシャワ公国が建国されるも、第一次世界大戦終了まで、ポーランド分割の時代は続くことになります・・・。 -
こちらもマテイコ作、“キエフの黄金の門におけるボレスワフ勇敢王とスヴャトポルク”(Boleslaw Chrobry and Svetopelk at the Golden Gate in Kiev、1884年)。
この絵画に登場する“ボレスワフ勇敢王”とは、ピャスト朝ポーランド2代目の君主で、ポーランドで初めて“王”を名乗ったボレスワフ1世(在位:992-1025年)のこと。
一方、“スヴャトポルク”とは、ボレスワフ1世の娘を妻に持つキエフ大公のことで、この絵画は、内戦(1015-19年)に巻き込まれたスヴャトポルクを支援してキエフに入場するボレスワフ1世を描いたもの。
ポーランドはこんな昔からウクライナとの関係が深かったことに気付かされます。
・・・うーむ、マテイコの絵画を見ていると、ポーランドの歴史が分かってきますね。
さすがはポーランドの国民画家。 -
こちらはマテイコには珍しく、他国の君主が主題となっている“イヴァン雷帝”(Ivan the Terrible、1875年)。
描かれているのはもちろん、モスクワ大公国の大公であり、周辺諸国を征服してロシア史上初めて“ツァーリ”(皇帝)を名乗った“雷帝”ことイヴァン4世(在位:1533-74、76-84年)。
しかし、この場面はというと、近習に体を支えられ、雪の大地をさまよっているような、“雷帝”に似つかわしくない何とも情けない姿・・・。
イヴァン4世は晩年、激高しやすい性格が災いして、息子を錫杖で殴って殺してしまい、その罪の意識から、深夜に徘徊したり、国内外の修道院に多額の寄進をすることが続いたという・・・。
マテイコとしては、当時ポーランドを支配していたロシアを貶めるため、このようなツァーリの情けない姿を描いたのでしょうかね・・・。 -
マテイココーナーは終わり、こちらはPantaleon Szyndler(1846-1905年)の“入浴する少女”(Bathing Girl、1881-84年)。
ポーランドらしい(?)エロティックな絵画です。 -
Pawel Merwart(1855-1902年)の“エジプト人を殺すモーセ”(Moses killing an Egyptian、1883年)。
よくある“出エジプト”のモーセではなく、同胞のヘブライ人がエジプト人に虐待されているのを見て、そのエジプト人を殺害してしまう若き日のモーセを描いた作品です。
ちなみにこの絵画、額がアール・ヌーヴォーチックでおもしろいですね。 -
ワルシャワの国立美術館にも作品のあったヘンリク・シエミラツキ(Henryk Siemiradzki、1843-1902年)の“ネロの松明”(Nero's Torches、1876年)。
“ネロ”とはもちろん、史上初めてキリスト教徒を弾圧したローマ帝国第5代皇帝のこと。
右端に描かれているのは、長い棒に括りつけられ、松明によって火をつけられようとしている、黒を基調とするキリスト教徒たち。
その左側には、キリスト教徒の処刑を見せ物のように楽しむ、白を基調としたローマ人の姿が、強烈な対比をもって描かれています。
この絵の作者シエミラツキも、マテイコと同じく群像型絵画の画家ですね。 -
“ネロの松明”の中央部分をズームアップ。
一目でローマ人と分かるトーガを着た人々に混ざって、なぜか裸の女性も。
これはローマ人の男性が連れている娼婦ということでしょうか? -
最後は淡い緑の壁紙の肖像画コーナーで、16時30分、以上をもって国立美術館分館での作品鑑賞を終了。
数は多いとは言えませんがどれも魅力的な作品で、クラクフ中心部にもかかわらず、静かな雰囲気の中、時を忘れて楽しめる素晴らしい美術館でした。 -
中央広場に降りてきました。
先ほどの美術館内とは打って変わって、こちらは人、人、人の賑やかな雰囲気です。 -
さて、この日は17時に、旧市街から南東に少し離れたところにある人気スポット、“シンドラーの工場”を訪れる予約をしていたので、そちらに向かうことに。
旧市街からだと2km以上離れていて、トラムを使うのも手だったのですが、わたしはクラクフの街並みを眺めながら、スタロヴィシュルナ(Starowislna)大通りをてくてくと歩いて行くことに。
途中現れるヴィスワ川を渡ればシンドラーの工場はもう少しです。 -
・・・と思ったら、シンドラーの工場周辺は新駅の建設に伴う開発で工事中の箇所が多く、回り道を余儀なくされます。
そして予約時間の17時を過ぎようとする頃、それらしき建物が目に入ってきました。シンドラーの工場 博物館・美術館・ギャラリー
-
表札には、ユダヤ人の使うヘブライ文字とともに“Oskar Schindler”の名前もあるし、ここが“シンドラーの工場”で間違いないですね。
なお、入館の予約は以下のサイトから。
【シンドラー工場予約方法】
http://www.visit-krakow.pl/ポーランド/シンドラー工場インターネット予約手続き/
入館料24ズウォティ(約700円)をクレジットカードで前払いし、メールで送られてくる予約証を受付に見せれば、入館手続き完了です。
ちなみに、この時間帯、当日券は売り切れとのことでした・・・。
シンドラーの工場を訪問予定の方、事前予約は必須です。 -
それでは、館内の見学スタート。
この“シンドラーの工場”、スティーヴン・スピルバーグ監督の映画“シンドラーのリスト”(1993年)を観た方ならお分かりでしょうが、第二次世界大戦期に実在し、自らの工場で働いていた1,200人のユダヤ人を虐殺から救ったドイツ人実業家、オスカー・シンドラー(1908-74年)と、当時のクラクフをテーマにした博物館となっています。
まずこちらは、1918年10月31日、第一次世界大戦でオーストリア・ハンガリー帝国の敗戦が決定的となり、同国からの解放を喜ぶクラクフ市民を写したもの。
ここから、ロシア、オーストリア、ドイツに三分割されていたポーランドが独立を回復し、復興を遂げていくことになります。 -
こちらの写真は1930年、人々で賑わう中央広場の花屋の様子を写したもの。
花を選んでいる特徴的な髭と帽子の男性はユダヤ人でしょうか。 -
こちらは1939年9月、ドイツのポーランド侵攻により第二次世界大戦が始まり、ドイツとソ連とで二分割されるポーランドの様子を追った映像。
これまでは独立を回復して経済も順調に進んでいたのに、突然悲劇が舞い降りてきたなという印象です。 -
ハーケンクロイツが掲げられた、ナチス・ドイツ占領下のクラクフの様子をイメージした通路。
足取りが重くなる通路です・・・。 -
こちらの通路は床がハーケンクロイツになっていますね。
一見、ナチス礼賛ともとられかねないですが・・・。 -
小さなオフィスのような部屋に入ると、そこはかつてのオスカー・シンドラー琺瑯工場の執務室。
そしてこちらは社長であるオスカー・シンドラーのデスクを再現したもの。
ナチ党員でもあった彼は、1939年10月、戦争での一儲けを狙い、やってきたクラクフで、ナチスがユダヤ人から没収した琺瑯(ホーロー)容器工場を買収。
ユダヤ人を含むポーランド人を労働者に使い、ドイツ軍の厨房用品製造工場として急激な成長を遂げていきます。 -
こちらがこの工場で生産されていたという琺瑯容器群。
シンドラーは当初、ユダヤ人を搾取的に使っていましたが、強制絶滅収容所へ送られていくユダヤ人を目の当たりにするにつれ、ナチスへの不信感と、ユダヤ人を救済する気持ちが芽生えていったといいます。 -
こちらの地図は、上(北)から順に、①クラクフ旧市街、②中世からのユダヤ人街のあるカジミェシュ地区、③第二次世界大戦期にユダヤ人を隔離するために作られたクラクフ・ゲットーとシンドラーの工場、④リバン採掘場(Liban Quarry)、そして、⑤クラクフ・プワシュフ強制労働収容所(Plaszow camp)。
クラクフ・プワシュフ強制労働収容所は1940年に開設され、クラクフ・ゲットーからユダヤ人が多数送られてくるようになり、1944年には被収容者が24,000人以上にも達したそうです。
1943年には“シンドラーのリスト”にも登場した悪名高きアーモン・ゲート親衛隊少尉(後に大尉)が所長として赴任。
彼は異常なサディストで、囚人を恣意的に撃ち殺したり、犬に食い殺させたり、拷問したりと、直接殺害された人だけでも500人以上、全体でも8,000人もの人々が、プワシュフは絶滅収容所ではないにもかかわらず殺害されたという・・・。
ちなみにドイツ敗戦後、捕虜だった彼はすぐにクラクフに送られて裁判にかけられ、プワシュフ収容所における8,000人殺害の責任、クラクフ・ゲットーにおける2,000人の虐殺に対する共同責任などにより死刑に。
刑は1946年9月に執行され、遺体は焼却、遺灰はヴィスワ川に流されたそうです・・・。 -
収容所あるいは採掘場の写真が浮かぶ白い壁紙に、白い砂利が床一杯に敷き詰められた部屋。
歩くとじゃりじゃりと音が鳴る感覚がこの世の果てを表わしているようで、なんだか気が滅入る感じがしました・・・。 -
プワシュフ収容所所員の制服のレプリカ。
こんなものも展示するのですねえ・・・。 -
こちらのちょっとこぎれいな部屋は散髪屋でしょうか。
といっても、壁紙から分かるように、ゲットーの住人や収容所の囚人のためのものではなく、ドイツ人のためのものなのでしょうが・・・。 -
細かいことに、パーマの機械までありますね。
-
最後は“Room of Choices”(選択の部屋)と名付けられた、白い壁一面に複数の言語で文章が刻まれた部屋。
“I began to trade”とか“Thanks to them”とか、取引に関する英語があったり、ドイツ語やポーランド語、ヘブライ語もあったりします。
当時この工場で交わされた言葉を集めたものなのでしょうか・・・。 -
ロビーに戻ってきてシンドラーの写真に気付き、思わずパチリ。
彼は、1943年3月、クラクフ・ゲットーが解体され、彼の工場労働者たちがプワシュフ収容所に移送されそうになったとき、前述のアーモン・ゲートと交渉して、ユダヤ人たちに比較的快適な条件の小屋を提供。
1944年末、ソ連の侵攻でプワシュフ収容所が解体され、工場労働者たちが絶滅収容所へ移送されそうになったときも、自らが新たに手に入れたチェコのブリュンリッツの工場に移動させ、ナチスの親衛隊たちに手出しはさせなかったという・・・。 -
こちらはオスカー・シンドラーによって救われた、彼の工場で働いていた人々の顔写真。
やはり言葉だけでなく、一人一人の顔があると、命の尊さがより深く伝わってきますね。 -
第二次世界大戦終了後、彼が救ったユダヤ人たちと過ごしているシンドラーの写真。
彼は戦後も数々の事業を手がけましたが、いずれもうまく行かず、資金繰りに苦慮しているところ、彼の噂がユダヤ人たちに広まり、彼はイスラエルに招待されることになったそうです。
真ん中の写真は1962年、イスラエルの“ヤド・ヴァシェム”(ドイツによるユダヤ人大量虐殺の犠牲者を追悼する国立の記念館)の“諸国民の中の正義の人通り”にイナゴマメ(洗礼者ヨハネがよく食べていたとされるもの)の木を植えるシンドラー。
晩年の彼はドイツとイスラエルとの間で二重生活を送るようになり、1974年に彼が亡くなるまで続いたという・・・。 -
19時30分、シンドラーの工場の外に出てきました。
見学時間は2時間半。
館内は意外と広く、それまで知らなかったことなど情報量も多くて、見応えたっぷりの博物館でした。
実はわたしは映画、“シンドラーのリスト”を観ていなかったのですが、観ていない人でも十分、事実として興味を持てる内容の博物館となっています。 -
20時過ぎ、帰り道はかつてユダヤ人がたくさん住んでいたというカジミェシュ地区に立ち寄りつつ(翌日も立ち寄ったので、後でまとめてご紹介)、てくてくと歩いて旧市街に戻ってきました。
金曜日の夕方ということもあって、フロリアンスカ門の外では、何か楽しそうな音楽イベントが行われています。フロリアンスカ門 (聖フロリアン門) 建造物
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ガレリア・クラコウスカ内のショップにて、お土産を物色しつつ、夕食タイム。
お昼にも利用したファストフード店“Polskie Smaki”にて、スープ(7ズウォティ=約200円)とカシスジュース(同)の簡素な食事。
旅も終盤になってくると、疲れがたまって食欲もなくなってきますね・・・。ギャレリア コラコウスカ ショッピングセンター
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21時50分、陽が落ちてすっかり暗くなった旧市街の様子を見ようと、再び中央広場にやってきました。
予想通り、織物会館はライトアップされ、広場は各国からの観光客でいっぱいです。
夜なのに馬車も見えますね。中央広場 広場・公園
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薄っすらライトアップされた聖マリア教会。
誰も彼も楽しんでいる平和な夜です。 -
聖マリア教会の手前には夜も営業を続ける花屋。
シンドラーの工場で見た、大戦前と変わらない中央広場の花屋の営みですね・・・。 -
織物会館をほぼ正面から。
ヨーロッパには珍しい、ゴミの落ちていない綺麗な広場ですね。 -
そんなこんなで30分ほど、クラクフ旧市街の平和な夜の雰囲気を味わい、22時20分、宿へ戻ります。
この日も新たな発見が多かったクラクフ観光でした。
翌日はいよいよ、ポーランド旅行のクライマックス、アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制絶滅収容所を訪れます。
記憶を振り絞って、綴っていきたいと思います!
(ポーランド旅行8日目~アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制絶滅収容所観光に続く。)
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この旅行記へのコメント (2)
-
- 川岸 町子さん 2020/04/26 16:36:29
- クラクフの歴史と今
- エンリケさん、こんにちは(*^▽^*)
私はクラクフ訪れたことあるのに、なんて浅い観光だったのかと思いました。
エンリケさんは様々な事をご存知の上、現地でも吸収なさって学ばれることも多いと、改めて感じます。
その一つ一つが文字になり、沢山の事を伝えて下さるのですね!
中央広場の穏やかさ、ゴミ一つも落ちていない清潔さ、聖マリア教会や織物会館の美しさ、昼も夜も素晴らしい姿で、とても懐かしく拝見しました。
私は地下博物館や国立美術館分館を知らず、ホントに情報収集不足です…。
シンドラーの工場は今も訪れる人が多く、当日券が売り切れなのですね。
ハーケンクロイツの床は、現地でも今も見るだけで、なんだかドキドキします…。
私は映画を見ていたので、映像と目の前の展示がダブり、心が震えました。
「イスラエルの“ヤド・ヴァシェム”(ドイツによるユダヤ人大量虐殺の犠牲者を追悼する国立の記念館)」に関する内容を読みました。
私はパレスチナでの時間が予想以上にかかり、エルサレムでここを訪れる時間が無くなり残念でした。
ユダヤ人の歴史は旅先で目にし、帰国後に改めて学ぶこと、多々あります。
昔話を思い出しちゃいました(苦笑)
シンドラーの工場へ行く際は私一人だけ、同行者には出発前も当日もお茶飲んでいてほしいと伝えたのに、無理やり付いて来た(-_-;)
工場を出た途端に立腹、工場をバカにされて大変不快だった(-_-;)
変な事書いちゃって、スミマセン…。
22時頃まで観光できるなんて、ポーランドの旅は夏がベストシーズンでしょうね。
次回はポーランド旅行のクライマックスでもある「アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制絶滅収容所」ですね!
とても楽しみにしています(*^-^*)
- エンリケさん からの返信 2020/04/27 21:43:29
- 旅の楽しみ方は人それぞれ・・・。
- 川岸 町子さん
こんばんは。いつもご訪問ありがとうございます。
> 私はクラクフ訪れたことあるのに、なんて浅い観光だったのかと思いました。
> エンリケさんは様々な事をご存知の上、現地でも吸収なさって学ばれることも多いと、改めて感じます。
> その一つ一つが文字になり、沢山の事を伝えて下さるのですね!
いえいえ、わたしなんてガイドブックに載っている施設ばかりの観光で、町子さんをはじめ、たくさんの4トラベラーのみなさんのように、オシャレなスポットの開拓すらできない有り様です・・・。
シンドラーの工場へ行ったのも、町子さんの旅行記にヒントを得てのことですので、こちらこそ勉強になっているというものです。
> シンドラーの工場は今も訪れる人が多く、当日券が売り切れなのですね。
> ハーケンクロイツの床は、現地でも今も見るだけで、なんだかドキドキします…。
> 私は映画を見ていたので、映像と目の前の展示がダブり、心が震えました。
シンドラーの工場は、アウシュヴィッツと合わせて、イスラエルをはじめ、欧米の若者の巡礼地になっているような印象でした。
こういう施設を、感受性の強い若い頃に訪れるのは、いろいろ得るものがあるのだろうと思います。
そのためには、博物館側も、実際の資料に基づく客観的な展示をすることが必要だと思いますが、ポーランドの場合は比較的できているのかな・・・。
> 「イスラエルの“ヤド・ヴァシェム”(ドイツによるユダヤ人大量虐殺の犠牲者を追悼する国立の記念館)」に関する内容を読みました。
> 私はパレスチナでの時間が予想以上にかかり、エルサレムでここを訪れる時間が無くなり残念でした。
> ユダヤ人の歴史は旅先で目にし、帰国後に改めて学ぶこと、多々あります。
わたしも、見学時に時間がない場合は写真だけ撮って、帰国後に写真を見返していて気付くことも多いですね。
今回登場したポーランドの国民画家ヤン・マテイコもまさにそんな感じで、こんなに彼の作品があったんだと、旅行記作成時に改めて気付きましたね。
> シンドラーの工場へ行く際は私一人だけ、同行者には出発前も当日もお茶飲んでいてほしいと伝えたのに、無理やり付いて来た(-_-;)
> 工場を出た途端に立腹、工場をバカにされて大変不快だった(-_-;)
こういう趣旨の博物館は拒否反応を起こす人も中にはいますからねえ・・・。
何でわざわざ苦しくなるものを見なくちゃいけないんだと。
人によって、旅の楽しみ方は様々だと、勉強になったと思えば・・・。
> 次回はポーランド旅行のクライマックスでもある「アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制絶滅収容所」ですね!
こちらも、見たくない人もおそらくたくさんいらっしゃるところかと思いますが、自分の記憶として、しっかり旅行記に綴っておきたいと思います!
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