2018/11/02 - 2018/11/02
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bunbunさん
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2018年6月30日にUNESCOの世界遺産に登録された「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」と関係する、西坂公園の日本二十六聖人殉教記念碑および日本二十六聖人殉教記念館、聖フィリッポ教会、大浦天主堂、カトリック神ノ島教会を見学して来ました。
この旅行記はhttps://4travel.jp/travelogue/11450983 の続きです。
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6:07、宿泊ホテル:稲佐山観光ホテルの部屋から見た夜明け前の長崎の街。
長崎湾方向です。 -
6:39、一風呂浴びて部屋に戻ってきました。
ホテルの部屋から見た朝焼けの長崎の街ってとこですか。 -
朝食をとって、7:58稲佐山観光ホテルを出発し西坂公園に向かいます。
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途中で撮影した稲佐山観光ホテル。
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西山公園に着きました。
駐車場に車を置いて階段を上った所に「西坂公園総合案内板」がありました。
大きな案内板で、1つの写真で示すと細部が小さくなりすぎて分かりにくいと思いますので、左側の説明文を主体とした部分(上の写真)と右側の地図を主体とした部分(下の写真)に分けます。
この写真は左側部分です。説明文は日本語、英語、中国語、韓国語で書かれていますが、英語、中国語、韓国語での説明文の一部を省いております。
上の西坂公園の説明文は文字が大きいのでお読み頂けると思います*)が、下の記念碑等の説明文は文字が小さくて読めないと思いますので、書き写したものを以下の「 」内に示します。なお、番号は下の写真の地図の番号に対応しています。
「① 日本二十六聖人殉教記念碑
西坂の丘で殉教した日本二十六聖人の列聖百周年を記念し、1962年に完成。日本を代表する彫刻家、船越保武**)氏により制作されました。讃美歌を歌いながら昇天する26人の姿が描き出されています。
② 日本二十六聖人殉教記念館***),4*),5*)
1962年に完成した日本二十六聖人殉教記念碑と日本のキリシタン史を紹介する史料館です。館内には聖フランシスコ・ザビエルや中浦ジュリアンの直筆の手紙をはじめ、ここでしか見ることができない貴重な史料が数多く展示されています。
③ 聖フィリッポ教会(日本二十六聖人記念聖堂)4*),5*)
アントニオ・ガウディ研究の第一人者であり、高名な建築家である今井兼次6*)氏により設計されました。サグラダ・ファミリアの建築スタイルを明確に意識した特徴ある双塔は、長崎市のランドマークのひとつになっています。
④ 大浦天主堂(日本二十六聖人殉教者聖堂)4*)
1865年に建てられた、現存する日本最古のカトリック教会。日本二十六聖人に捧げられた教会堂で、殉教の地である西坂の丘に向けて建てられたと言われています。」
著者注
*) 殉教に至るまでの過程は、後で説明します。
**) 経歴は後で説明します。
***) 設計者は聖フィリッポ教会と同じ今井兼次氏です。
4*) この後行きます。
5*) 詳細は後で説明します。
6*) 経歴は後で説明します。 -
「西坂公園総合案内板」の右側部分。
「板石舗装に刻まれている年号は、二十六聖人ゆかりの主な出来事です。*)
A 【1597年2月5日】長崎・西坂の丘で26人の信者が殉教。
B 【1862年6月8日】26人の殉教者はローマ教皇によって聖人の称号を与えられる。
C 【1865年2月19日】日本二十六聖人に捧げられた大浦天主堂献堂式。
D 【1865年3月17日】信徒発見。
E 【1962年6月10日】日本二十六聖人殉教記念碑、日本二十六聖人殉教記念館、聖フィリッポ教会が完成。」
―案内板の説明文より―
著者注
*) アルファベットは地図上のそれに対応しています。
右上の挿入地図は現在地(西坂公園)と大浦天主堂の位置関係を示したものです。
位置関係を示す大きな地図を後でまた示します。
「・・・・(赤い点線)は、西坂公園と大浦天主堂を直線で結んでいます。この線を幅25 cmのツバキをデザインとした板石舗装により表現しています。」
―「 」内は説明文より― -
日本二十六聖人殉教記念碑。
彫像の制作者である船越保武(1912-2002)は、岩手県二戸郡一戸町で熱心なカトリック教徒であった父のもとに生まれました。県立盛岡中学校(現県立盛岡第一高校)時代から彫刻家を志し、1939年に東京美術学校(現東京芸大)彫刻科を卒業後彫刻家として活躍、1967年~1980年東京芸大教授、1980年~1986年多摩美大教授、1986年~東京芸大名誉教授。この間生まれて間もない長男が急死した1950年に洗礼を受けてカトリック信者となります。主な作品は1962年の「長崎26殉教者記念像」(高村光太郎賞)の他に、1972年の「原の城」(中原悌二郎賞、大聖グレゴリオ騎士団長勲章)、1977年の「道東の四季-春-」(長谷川仁記念賞)、非専門の方にもなじみの深い作品として田沢湖畔に立つ1968年の「たつ子像」等があります。
「遠くから見ると全体が極端に横長の巨大な十字架に見えるようにした。丘を登ってこの記念碑が初めて目に入ったとき、これは白い石に嵌めこまれた大きなブロンズの十字架に見えるはずである。
私は二体だけを除いてあとは同じ姿勢に統一した。合掌して点を仰ぐ形は、その下に立って見上げる人に最も美しく見えるように考慮し、そのことに苦心した。先の二体というのは聖ペドロ・バプチスタと聖パウロ三木*) である。この二体は観る人の方に、つまり下の方に視線を向けている。これは観る人と視線が合うことによって、その人の心を上の方に引き上げてくれる役割をしている。二十六体を人間の身体に例えるならば、この二人はその眼に相当するものである。
最初に雛型の試作では、二十六体の顔の向きを中央に集まるように作った。天の一点に視線を集中させて天国を暗示させるために。
しかし、その次の制作に当たっては、顔の方向は真っすぐ上にと変えた。観る人が中央の下に立ったとき、左右の像の視線は、順々に外にひらいて見える。こうして天の拡がりを感じさせる方が優れていると考えた。私はこの方に変えて成功したと思っている。」
―船越保武 長崎二十六殉教者―船越保武彫刻作品集―、美術出版社、1963年。より―
著者注
*) 右から6番目と11番目の二体です。以下を参照してください。 -
各聖人の顔が分かるように、3つに分けた写真を示します。
分からなかったら写真を拡大してください。
記念碑右側の10聖人。
名前の前の番号は右端からの順番を示しています。
右から
「1.聖フランシスコ吉
大工。逮捕されてはいないが、殉教者と行を共にしたいと願い、長崎への途中でとらえられ、殉教者に加えられる。年齢不詳。京都生まれ。
2.聖コスメ竹屋
刀剣師。受洗後、伝道士として大阪のマルティン神父を助ける。愛をもって病人の世話を市、神父の支えとなった。38歳。尾張生まれ。
3.聖ペトロ助四郎
殉教者の世話をするようにと、京都のオルガンティノ神父から派遣されたが、途中自分も縄を受け、受刑者の一人に。年齢不詳。京都生まれ。
4.聖ミカエル小埼
弓矢師。ある日、宣教師の説教を聞き、信仰の道へ。フランシスコ会第三会に入会。息子トマスと共に殉教。46歳。伊勢生まれ。
5.聖ディエゴ喜斉
イルマン(イエズス会修道者)。体をヤリで貫かれる時、小声でイエズスとマリアの名を唱えた。64歳。備前生まれ。
6.聖パウロ三木
イルマン(イエズス会修道者)。「わたしは何の罪も犯したわけではござらぬ。キリシタンの教えを広めただけで処刑されまする」と群衆に。33歳。摂津生まれ。」
後述の「十字架に付けられたパウロ三木の説教」、「聖パウロ三木」も参照してください。
「7.聖パウロ茨木
弟レオ鳥丸と共に貧者、病人の世話をし、宣教に力を尽くす。死を前に「神よ、あなたに命をささげます」と祈る。54歳。尾張生まれ。
8.聖ヨハネ五島
イルマン(死ぬ前にイエズス会の入会が認められた)。「父上も神の教えの誠を信じ、怠りなく神にお仕えくださるよう」と言って自分のロザリオを父に渡す。19歳。五島生まれ。
9.聖ルドビコ茨木
最年少者。京都のフランシスコ会修道院の待者として仕える。司祭が逮捕の時、彼は除外されたが、捕らえるよう願い出た。「私の十字架はどこ」と刑場で尋ねた話は今も語り継がれる。12歳。尾張生まれ。
10.聖アントニオ
父親は中国人、母は日本人。マルチノ神父に京都に連れて来られ、他の少年たちと共に教育を受ける。刑場に来て嘆く両親に、慰めと励ましの言葉をかける。13歳。長崎生まれ。」
―「 」内はこの後行った日本二十六聖人殉教記念館内Zone 1の説明文より― -
記念碑中央の10聖人。
右から
「9.聖ルドビコ茨木
上記参照。
10.聖アントニオ
上記参照。
11.聖ペトロ・バプチスタ
司祭。キリストにならって両手を釘付けにされることを願った。イエズスとマリアの名を呼び息絶える。48歳。スペイン生まれ。
12.聖マルチノ・デ・ラ・アセンシオン
司祭。ヤリで体を突かれる時、大声で「主よ、わが魂を御手に委ねます」と叫んだ。30歳。スペイン生まれ。
13.聖フィリッポ・デ・ヘスス
修道士。喜びの涙を流して讃歌を歌って一番目に息を引き取る。24歳。メキシコ生まれ。
14.聖ゴンサロ・ガルシア
修道士。ヤリで突かれる前、刑使に悔悛と改宗をすすめたという。40歳。インド生まれ。
15.聖フランシスコ・ブランコ
司祭。十字架にはりつけられた時の微笑は、死後も消えなかったという。28歳。スペイン生まれ。
16.聖フランシスコ・デ・サン・ミゲル
修道士。若くしてフランシスコ会に入会。貧しい人や病人の友となり、愛徳の実践者。53歳。スペイン生まれ。
17.聖マチアス
家がフランシスコ会修道院のすぐ近くにあった。洗礼後、間もなく迫害が始まり捕らえられた。年齢不詳。京都生まれ。
18.聖レオ鳥丸
パウロ茨木の弟。フランシスコ会土のもとで伝導した。京都市中の人たちに尽力し、「神の聖役者」と呼ばれる。48歳。尾張生まれ。」
―「 」内はこの後行った日本二十六聖人殉教記念館内のZone 1の説明文より―
上部に書かれたラテン語 ”LAUDATE DOMINUM OMNES GENTES” は、「全ての国よ、主を讃よ」の意。下部には日本語で、「人若し我に従はんと欲せば 己を捨て 十字架をとりて我に従ふべし マルコ第八章」と書かれています。 -
記念碑左側の10聖人
17.聖マチアス
上記参照。
18.聖レオン烏丸
上記参照。
「19.聖ボナベントウラ
出生後受洗。両親の死後、仏教徒として育ち、子供のとき僧侶になるため寺に入った。ある日、洗礼を受けたことがわかり、フランシスコ会の同宿として教理の勉強に励み、宣教に尽力。年齢不詳。京都生まれ。」
20.聖トマス小崎
ミカエル小崎の息 子。マルチノ神父を手伝う。信仰深い少年で、司祭になる希望を持ち、母親にあてた手紙は感動的。14歳。伊勢生まれ。」
後述の「母に宛てたトマス小埼(14歳)の手紙」も参照してください。
「21.聖ヨアキム榊原
最初は医学を学んだ。ある日、宣教師の説教にひかれ受洗。貧しい病人たちのために働く。40歳。大阪生まれ。
22.聖フランシスコ医師
豊後の大名、大友宗麟の侍医を務める。京都で洗礼を受け、聖ヨゼフ病院で活躍。46歳。京都生まれ。
23.聖トマス談義者
キリシタンの教えを聞き改宗。その後、フランシスコ会の伝道士として働く。強い正義感の持ち主。36歳。伊勢生まれ。
24.聖ヨハネ絹屋
修道院近くに住み、外国人宣教師と接触の機会が多く、その教えを聞いて洗礼を受ける。28歳。京都生まれ。織物師。
25.聖ガブリエル
京都奉行に仕えていたが、改宗してフランシスコ会に入り司祭、修道士の仕事を手伝う。両親も信徒に。19歳。伊勢まれ。
26.聖パウロ鈴木
若くして洗礼を受 け、フランシスコ会の伝道士。 通訳として外国人司祭の宣教を助け、自らも説教師として活躍した。49歳。尾張生まれ。」
―「 」内はこの後行った日本二十六聖人殉教記念館内のZone 1の説明文より― -
日本二十六聖人殉教記念館に向かいます。
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日本二十六聖人殉教記念館入口。
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「Zone 1 26人の旅」説明板。
「1597年2月5日、この地、西坂にて6人の外国人宣教師と20人の日本人キリスト教のはりつけによって、日本における殉教の始まりとなった。26人は1月4日に京都を出発し、約1ヶ月をかけて長崎までの約1000kmを歩いた。それは彼らにとって、神の国に近づく、苦しくも栄光の旅であった。*)
● 事の始まり
時代背景
秀吉は、天下統一を図り、統治上の問題から1587年にバテレン追放令を公布したが、一方、南蛮貿易は認めており、禁教はまだ形式的な面もあった。
● 京から長崎への旅」
中央やや下の地図に、経路、地名、月日が記載されていますので、写真を拡大してご覧ください。
「二十六聖人殉教のきっかけとなったサン・フェリペ号事件
1596年10月19日、フィリピンからメキシコへ向かうスペイン船サン・フェリペ号が土佐の浦戸湾に漂流した。
乗員たちの命は助けられたが、貴重な積荷を没収されることとなり、スペイン人たちは大きなダメージを受けることとなる。
この一件を通じ、秀吉のスペイン人ひいてはフランシコ会宣教師に対する懐疑が強まることとなる。
以前出されていた禁教令を根拠に、乗船していた宣教師(聖フィリッポ**))を含め、見せしめとして都にいたキリスト教徒の処刑が行われることとなった。
● 二十六聖人の列聖(1862年6月8日)
二十六人の殉教は、ルイス・フロイス報告書等により、世界に伝わり遠くヨーロッパ・アメリカでも大きな反響を呼ぶこととなった。
日本においては、その後のキリスト教禁教令により、さらに厳しく取り締まられ、彼等の高貴な精神は、広く世界の人々の胸に刻み込まれた。
1862年6月8日、ローマ教皇ピオ9世は二十六人の殉教者を列聖した。
禁教期、西坂では合わせて600人ほどの殉教者が加わり聖地となって、1956年に県史跡、2012年に全国レベルの「巡礼地」に制定された。」
著者注
*) 「秀吉が、京都ではなく、長崎で処刑を行わせた理由は、道中の人々及び長崎に多かったキリシタン達に、弾圧の姿勢を強く示すためだったと思われる。しかしその意図とは裏腹に、見物人たちは、彼らが微笑みを浮かべながら歩き、死の間際まで神への祈りを捧げている信徒の姿に感動したという。」
―吉田さらさ著、長崎の教会、JTBパブリッシング、2015年。より―
**)フィリッポ(Fillipo)はスペイン語のフェリペ(Felipe)のイタリア語名です。日本二十六聖人殉教記念館内部の説明文でも混在して使われていますのでご注意下さい。
―「 」内は説明板より― -
「Zone 2 キリスト教伝来」説明板。
上部中央が白くなっているのは、照明によるハレーションです。ご容赦ください。
キリスト教の日本伝来は、1549年8月15日、イエズス会の宣教師であるフランシスコ・ザビエル等の鹿児島上陸によって始められた。ザビエルはローマ教皇パウロ3世から東アジア全体の福音宣教責任者に任命され、ゴア、マラッカ、アンボイノを経て、日本にキリスト教をもたらした。
● ザビエル年記
1506年4月7日 スペイン バスク地方 ナバラ王国に生まれる
1525年 パリ大学入学 イグナチオ・ロヨラと出会う。
1534年8月15日 ロヨラ等とイエズス会結成
1541年4月7日 宣教のためアジアへ向けリスボン出発
1541年8月15日 鹿児島到着
1551年 府内よりゴアへ出発、日本を去る。
1552年12月3日 中国上川島にて没
● 日本での新しい宣教方針
・現地の風俗、言語、習慣を重視する。
・日本の宗教者と討論し、意見交換を図る。
・対話型の宣教を中心にする。
・天皇・大名等に謁見し、宣教の許可を得る。
・日本に、ヨーロッパ文化を体験させる。
・交流によって日本人の国際的視野を広める。
● ザビエル アジアの旅」
左下の地図に、経路、地名が記載されていますので、写真を拡大してご覧ください。
「ザビエルはアジアの各地から多くの手紙を発し、教皇やスペイン国王にアジアの文化の豊かさを伝えている。当館展示の書簡は1546年5月16日にモルッカ諸島アンボイノで書かれたもの。この頃、日本人ヤジロウと出会う。日本についての知識を得、宣教を決意する。
● ザビエル 日本の旅
各地において、現地型・対話型の宣教を進め、多くの人々の共感を得た。その後、ザビエルの蒔いた宣教の種は、トーレス、アルメイダ、フロイス等により育てられていく。」
右下の地図に、経路、地名、月日が記載されていますので、写真を拡大してご覧ください。
―「 」内は説明板より― -
「Zone 3 受容・発展・交流」説明板。
「キリスト教の伝来は、同時に、当時のヨーロッパの知識と技術を日本にもたらした。それは、一般的に行われていた南蛮貿易の物品以上に時代の精神と英知ともいうべき貴重なもので、日本の近代化の萌芽となった。
● キリシタン文化 ヨーロッパから届いた知識
宣教師たちは、教理の基本的な理解を支えるため、また社会に貢献できる人材を育成するため、様々な学問をキリシタンに伝えた。その内容は哲学、語学から天文学、医学まで幅広いもので、セミナリオ(中高学校)、コレジオ(大学)と呼ばれる学校を設立して教えた。一方、庶民の生活支援を重視し、孤児院、総合病院を建設し、ミゼコルディアという社会福祉組織を作った。これらの仕組みは、その後の弾圧時代を越え、後世に伝わった。
● 天正遣欧少年使節(1582~1590)初めてヨーロッパを訪れた日本の使節
イエズス会巡察師ヴァリニャーノの勧めにより、九州のキリシタン大名大友、有馬、大村氏が、ローマ教皇に対して送った使節で、正使に伊藤マンショと千々石ミゲル、副使に中浦ジュリアンと原マルチノが選ばれた。彼らは有馬のセミリオの学生でいずれも13、14歳の少年だった。ヴァリニャーノの目的は、日本のことをヨーロッパ社会に伝えることと、少年達に世界を見せ、日本にそれを伝えさせることだった。」
右の下から2番目の地図に、経路、地名、年が記載されていますので、写真を拡大してご覧ください。
「彼らの旅
・総勢10名が、1582年2月20日長崎を出航。
・1584年8月ポルトガルに到着。
・マドリードで国王フェリペ二世に謁見し、大歓迎を受ける。
・1585年3月23日、教皇グレゴリオ13世の公式謁見。
・1585年5月1日、新教皇シクスト5世の戴冠式参列。
・1585年5月29日、ローマ市の名誉市民権授与。
・1586年4月、ヨーロッパを後にし、ゴアで、ヴァリニャーノと再会。
マカオで禁教令のことを知り、2年間帰国の機会を待った。
・1590年7月、ヴァリニャーノはインド副使節として、少年使節とともに、日本へ戻った。
・1591年3月3日、京都で秀吉に帰国報告」
右下の地図に、経路、地名が記載されていますので、写真を拡大してご覧ください。
―「 」内は説明板より― -
「Zone 3 迫害・殉教」説明板。
「二十六聖人殉教の後も、迫害に対し信仰を堅持したキリシタンの殉教は、明治6年まで続いた。一方、1637年には島原、天草を中心に圧政に対する農民一揆(島原の乱)が起きた。これは島原、天草のキリシタンが中心となって起こした乱であり、迫害に対する大規模な反抗として、唯一最大のものであった。
● 日本の殉教者たち
そのうち聖人に列せられた者42名(日本26聖人、聖トマス西ら16人)。福者に列せられた者が393名(205福者とペトロ岐部ら188福者)。西坂殉教地とその附近で殉教した人々の数は記録に残ったものだけでも600名に達している。殉教は神への忠誠と自分の良心の尊厳を守り通すために生命を捨てる最も崇高な死として尊ばれている。」
1597年~1869年の年別殉教者数は、左上の棒グラフに示されていますので、写真を拡大してご覧ください。
「● 島原の乱*) ~徳川幕府を震撼させた123日~
島原、天草は、キリシタン大名の有馬氏、小西氏の元領地であり、領民の多くがキリシタンだった。徳川幕府による両氏の遺風改易後、領主松倉氏、寺沢氏は領民に苛烈な年貢を課した。松倉氏の森岳城建設では過酷な使役を課し、領民は困窮を極めていた。おりしも異常気象による凶作が続き、領内は飢饉の様相を呈していた。圧政に耐えかねた領民は各地の代官所を襲い、森岳城を攻撃し、原城にろう城し反抗を続けた。戦いは圧倒的兵力を有する幕府軍が兵糧攻めを行い、88日間のろう城の後一揆軍の全滅という形で終わった。一揆軍の求心力とキリスト教が大きく存在したことから、幕府は徹底的なキリスト教禁教政策を進めた。
*) 詳細はhttps://4travel.jp/travelogue/11466797 をご覧ください。
<一揆軍の総大将 天草四郎>
キリシタン大名、小西行長の遺臣で天草の人、益田甚兵衛を父とし、本名を増田四郎時貞という。旧有馬氏、小西氏等の家臣であったキリシタンは、改易後も雲仙や天草に農民として残った者も多く、彼らは農民に対して指導的立場をとり一揆の中核をなした。天草四郎は彼らから一揆団結の象徴として総大将に推戴されたが、戦いの最後に討ち死にした。16、17歳と言われている。」
右下は愛久沢勇悟作の天草四郎の版画です。
―「 」内は説明板より― -
「踏絵の聖母
踏絵として使われたメダルの型を拡大した中田秀和による1965年の作品」
―説明文より― -
「Zone 5 隠れキリシタン
信徒を導いていた宣教師は国外追放となり、また密かに日本に留まった宣教師も捕縛され殉教した。神父たちがいない中、残された信徒たちは、その信仰を守るために表向きは仏教・神道を装ってはいたが、集落ごとにキリシタン信仰を維持していく組織を作り、親から子、子から孫へと信仰が受け継がれた。その後、信仰の自由が認められたが、地域的な背景によってカトリックに帰依せず、現在も潜伏時代の信仰形態を維持してきた人々を「隠れキリシタン」と呼んでいる。
● 隠れキリシタンの歴史」
―「 」内は説明文より―
年表は写真を拡大してご覧ください。
「200年以上の迫害の間に、ほとんどのクリスチャンは地下生活を余儀なくされました。 19世紀後半、隠れたキリスト教徒の大きなグループがカトリック教会に戻ってきて、久しぶりに日本に戻ってきた宣教師から秘跡を受け取りました。今日、「隠れキリシタン」は、カトリック教会に戻るのではなく、迫害の時代の伝統と祈りの方法を守ることを選んだクリスチャンです。これらの人々は教会から離れることを選択しなかったため、広い意味でキリスト教徒であると考えられていますが、彼らのお祝いはキリスト教の典礼とはほとんど共通していません。現在、「隠れ」グループはメンバーが年をとるにつれて姿を消す傾向があり、伝統を守ろうとする若者はほとんどいません。現在、カトリック教会と「隠れ」の指導者の両方が友好関係にあり、いくつかの一般的な典礼のお祝いがあります。」
―英語説明文の意訳。この部分の日本語の説明がない理由は不明。―
「● 長崎の隠れキリシタン
長崎のキリシタンは、潜伏時代より平戸、生月、五島列島、外海、長崎周辺で信仰が受け継がれてきた。地域的つながりで、主に二つの系列がある。隔離して独創的に発展した生月、平戸形と、原形に近い儀式を保った外海、五島列島、長崎系の隠れキリシタンである。彼らは二百数十年間、潜伏した先人達の記憶を受け継ぎながら生活をしてきた。このため集落内に指導者の役職(外海系 張方・水方・聞き役)を設け行事を行ってきた。長崎の隠れキリシタンの多くの人々は、組織以外の者に存在がわからないように信仰を続けてきた。年々後継者や、その信仰が持つ本来の意味が希薄となり、過疎化とあいまって、現在消滅の危機にある。」
―説明文より―
「長崎県の隠れキリシタン分布図」は写真を拡大してご覧ください。 -
「ピエタ(県文化財)
イタリア製ブロンズ16-17世紀
昭和37年に長崎で発掘。昭和45年に県文化財指定。
踏絵と同型が、没収されないようにキリシタン達が保管し、最後まで絵踏に使用されなかった。」
―説明文より― -
「牢屋の柱(三井楽、五島)
「最後の迫害」(1868~73)では、キリシタンが民家に閉じ込められた。この柱は牢屋の代わりになった山下善三郎の住宅の一部であった。」
―説明文より― -
「守山甚三郎(1846-1932)
浦上キリシタン中心人物の一人。浦上四番崩れ*) により慶応4年(1868)津和野藩に流された。牢内では冬でも着物一枚で、夜は凍りつくような板の間にむしろをかぶり寝るというような生活を強いられた。明治2年(1869)冬高木仙右衛門とともに水責めに処されたがくっしなかった。その後、父と弟殉教に立ち会った。明治6年保釈の形で姉マツとともに浦上に戻った。その後は農業に従事しながら、教会の教え方として活躍した。」
―説明文より―
*) https://4travel.jp/travelogue/11450983 参照。 -
2階「栄光の間」の入口にある「ピラル(柱)の聖母」
「サラゴサ市(スペイン)の大聖堂に安置されている聖母像。展示している像は17世紀に作られた雪花石こう製のレプリカ。
1585年 天正少年使節もサラゴサの大聖堂で祈りを捧げた。」
―説明文より― -
栄光の間。
二十六聖人の遺骨が納められています。
祭壇のレリーフは彼らが殉教した時に咲いていた梅の花を模っています。 -
「日本イエズス会士殉教図
17世紀南蛮絵師、ローマ、ジェス教会資料
イタリア内務省FEC所管(写真)」
―説明文より― -
「『元和大殉教図』(写真)
1622年9月10日 西坂 55人殉教
17世紀南蛮絵師、ローマ、ジェス教会資料
イタリア内務省FEC所管」
―説明文より― -
「レオナルド木村らの殉教(写真)
1619年11月18日 西坂 5人殉教
17世紀南蛮絵師、ローマ、ジェス教会資料
イタリア内務省FEC所管」
―説明文より― -
「Zone 8 その時の世界
~ポルトガル・西班牙アジアへの航海~
古来、人々は新世界を求め、未知の海へ船出していった。古代ギリシャ・ローマ人は地中海を世界年とし、その東の果てにインド・中国の東洋に思いを馳せた。このヨーロッパ人の東洋への憧れがポルトガル・スペインによる大航海時代を推し進めて行った。海により、世界は一つにつながった。
● ポルトガルのアジア進出
15世紀中頃のアフリカ西岸進出の後、1488年の喜望峰発見を経て、1498年にインドに到着し、アジア進出を果たす。1511年にはホルムズからマラッカを活動の場とし、さらにモルッカ諸島、マカオへ進出する。ゴアは全アジアにおける統治・物流のセンター機能を果たし、マカオは中国・日本の交易の拠点となった。
● スペインのアジア進出
アジアはポルトガルより遅れ、1521年にマゼランが太平洋を横断する西廻り海路で、フィリピン諸島に到着した。1529年のサラゴサ条約において、アジアの交易は制限されたが、マニラを中心に活動し、1580年のポルトガル合併時には、全アジアで貿易を行った。
● 両国間の条約
両国の植民地の利権を巡る紛争を調停するため、ローマ教皇の仲介で1499年にトルデシリアス条約、1529年にサラゴザ条約を結んだ。これにより両国は他のヨーロッパ諸国の進出を防ぎ、既得権を守ろうとした。
<鄭和の大航海>
明の永楽帝の命により、1405年から1431年にかけて航海を行い、東アジアからアフリカ東岸までの広大な海域で明国の国威をしめした。その海はイスラム商人達が活動する海でもあった。」
―「 」内は説明文より―
南アジア貿易圏は、写真右下の地図を拡大してご覧ください。 -
左
「十六世紀のポルトガルのフスタ
16世紀に宣教師も使用した船。この模型は当時の史料を基にしたマドリッド海軍資料館のモメヌー氏による。イエズス会準管区長コエリオ神父はフスタを造らせ、日本で反響を起こした。目撃者のフロイスは、『日本史』で、「フスタ船では、朝から晩まで絶えず出入りする来客の対応に忙殺された」と書き、秀吉は1587年に博多の姪の浜でそのフスタに乗り、当時の「最先端船」を視察したことを述べる。「フスタ船で浜に着いた宣教師と(秀吉)出会い、フスタ船に乗ってその動きなどを詳しく監視した。」(『日本史』、第2部96章)」
右
「サン・フェリペ号模型
1596年に浦戸(土佐)海岸にスペインのガレオン舟、サン・フェリペ号が漂着、二十六聖人殉教事件の発端となった。この模型はマドリッド(スペイン)の海軍資料館で作られたもの。「激しい嵐に遭遇してマストもロープも切れ、港の入口で船底が壊れた。船は「サン・フェリペ」と呼ばれ、一千トン位の船です。乗船していた人の中にはアウグスチノ会修道者四名、ドミニコ会一名、我ら修道士フライ・ファン・ポブレと神学生のフライ・フェリペ(デ・ヘスス)が居ました。」(聖ペトロ・バウチスタ、都より1596年書簡より)」
―「 」内は説明文より― -
「細川ガラシャ
油絵、上田康照作、1961年
細川ガラシャ(1563-1600)。明智光秀の愛娘、名前は玉子。1587年大阪で洗礼を受け、ガラシャという名で知られるようになった。戦国時代に生きた夫人として多くの試練にあったが、最後まで自分の夫とキリシタンの教えに忠実であった。1600年、関ヶ原合戦を前に石田三成軍によって殺害された。知識と美貌に優れ、日本とヨーロッパでも今日に至るまで憧れ、夫人の模範とされる。」
―説明文より― -
「十字架に付けられたパウロ三木の説教
ここにおいでななる全ての人々よ、私の言うことをお聴きください。私はルソンの者ではなく、れっきとした日本人であってイエズス会のイルマンである。私は何の罪も犯さなかったが、ただ我が主イエス・キリストの教えを説いたから死ぬのである。私はこの理由で死ぬことを喜び、これは神が私に授け給うたた大いなる御恵だと思う。
今、この時を前にして貴方達を欺こうとは思わないので、人間の救いのためにキリシタンの道以外に他はないと断言し、説明する。キリシタンの教えが適及び自分に害を加えた人々を赦すように教えている故、私は国王(秀吉)とこの私の死刑に拘わった全ての人々を赦す。王に対して憎しみはなく、むしろ彼と全ての日本人がキリスト信者になることを切望する。
(フロイス、1597年の『殉教記録』より)」
「聖パウロ三木 1564年~1597年
武士として名を挙げた三木半太夫の子、安土のセミナリオの第一期生。少年時代から宣教師の教育を受け、1585年イエズス会に入会した。
当時イエズス会員のうちで一番説教家として認められた。有馬と天草で勉強し、日本最初の司祭になる予定だったが、長崎と大阪で宣教している間殉教者の列に加わることになった。
京都から長崎までの殉教の道で毎日説教したが、その最後の説教は十字架の上からであった。」
―説明文より― -
「母に宛てたトマス小埼(14歳)の手紙
神の御助けによって、この数行をしたためます。長崎で処刑されるためそこへ向かう神父と私達は、先頭に掲げた宣告分の通り、二十四人です。私と父上ミゲルのことについてはご安心くださいますように。天国で近いうちにお会いできると思います。神父様達がいなくとも、もし臨終の時、犯した罪の深い痛悔があれば、またもし主イエス・キリストから受けた数多くのお恵みを考えそれを認めれば救われます。現世ははかないものですから、パライソの永遠の幸せを失わぬように努めて下さいますように。人々からどのような事に対しても忍耐し、大きな愛徳をもつようにして下さい。私の弟達マンショとフェリペを未信者の手に渡さぬようご尽力下さい。私は我が主に母上達のためにお祈り致します。私の知人の皆様に宜しくお伝え下さい。重ねて申し上げます。貴女が犯した罪について深い痛悔をもつようにしてして下さい。これだけが大切なことです。アダムは神に背いて罪を犯しましたが、痛悔と償いによって救われました。
安芸の国三原の城より
十二番目の月の二日(1597年1月19日)」
―説明文より― -
「永遠の巡礼者ザビエル
17世紀ドイツ製の木彫。
ザビエルがスペインの「サンチアゴの道巡礼者」姿を示す。神に向かった歩んだ「旅人」ザビエルの心を現わしている。」
―説明文より― -
日本二十六聖人殉教記念館から出て、また日本二十六聖人殉教記念碑前の広場にやって来ました。
広場から見た日本二十六聖人殉教記念碑と、その向う(右)の双塔の聖フィリッポ教会。 -
聖フィリッポ教会。
アントニオ・ガウディの作品をご覧になった方でしたら説明するまでも無く、双塔はガウディの影響を深く受けていることに気づかれると思いますが、前記したように、この双塔はアントニオ・ガウディの建築スタイルを明確に意識した特徴を有します。
双塔の高さは16 m、左(北西側)の塔は、祈りと賛美の塔で、聖母マリアの象徴を表し、避雷針には地上の勝利の王冠がついています。右(南東側)の塔は、お恵みが下がってくる塔で、聖霊と賜物を象徴し、燃える炎を示す赤色が多用されています。避雷針には、ハトと光の輪がついています。側面に施された陶磁器は、殉教者が歩いた京都から長崎の間にある工房で作られたものや、メキシコやスペインの有名な陶芸家から送られたもので、日常生活と宗教の関わりを示しています。
設計者今井兼次(1895-1987)は、東京市赤坂区権田町(現東京都港区元赤坂)生まれ。青山尋常小学校、日本中学校(現日本学園中学校・高等学校)を経て、1919年に早大理工学部建築学科を卒業。同年早大助手、1920年~1937年早大助教授、1937年~1965年早大教授、1965年早大名誉教授、1966年~1982年関東学院大学教授。この間1926年~1927年にはヨーロッパ諸国を回り、帰国後日本建築学会や近代建築写真展、欧州新建築展などを通して、アントニオ・ガウディの作品を含む西欧建築の新潮流を我が国に紹介しています。また、1948年には妻の死をきっかけに洗礼を受けてカトリック信者となります。主な作品は1963年の日本二十六聖人殉教記念館(日本建築学会賞作品賞)の他に、1928年の早稲田大学坪内博士記念演劇博物館、1941年の航空記念碑、1958年の碌山美術館、1959年の大多喜町役場(日本建築学会賞作品賞)、1966年の桃華楽堂(日本芸術院賞)、1970年の遠山美術館等があります。また1970年には「アントニオ・ガウディの研究とその一連の建築作品について」の功績で勲三等瑞宝章、1973年には「ガウディの研究」の功績でスペイン賢者聖アルフォンソ10世市民賞を受賞しています。 -
少し東に移動して見た聖フィリッポ教会。
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聖フィリッポ教会の南から見上げた南東側の塔。
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2つ上の写真の下に見える道路を左(北)に進み、聖フィリッポ教会入口へ向かいます。
途中、日本二十六聖人殉教記念館の西側の壁が見えました。
破砕タイルを使った今井兼次のガウディ風モザイク画「望徳の壁」です。
中央はキリストの木、左の赤は血のリボン、右上の星からキリストの木に希望の光が差しています。
ガウディの建築様式は、建築学の分野ではモデルニスモ(Modernismo)に分類されますが、その作品は、3次元幾何学曲面形状、破砕タイルによる鮮やかなモザイク模様等で、他のモデルニスモ建築家の作品とは一線を画します。
今井兼次の建築様式はガウディのそれを踏襲していますが、彼は聖フィリッポ教会の双塔等を含めた彼のモザイク模様を、「フェニックス・モザイク」と呼んでいます。これは、モザイク画の陶片は日常使われていて不要となった陶磁器の破片を用いており、どんなに小さく粗末なものであっても、それらが集まれば偉大な成果となり、フェニックス(不死鳥)のように、たとえくじけそうになっても甦り、社会をも変革することになる、といった意味を込めています。
ガウディの場合、モザイク模様を作るタイルの多くは専用に焼かれたものですが、例えばグエル公園の蛇行ベンチのように、不要陶磁器の破片を用いたものあり、モザイク模様の作り方に関して言えば、フェニックス・モザイクは今井兼次のオリジナルではありません。
今井兼次のフェニックス・モザイクの代表作の一つに、東洋学園大学の壁画(1961年)がありますが、これはどちらかと言うと、点描派の抽象画といった印象を受けますが、聖フィリッポ教会の双塔やこの「望徳の壁」はガウディに近いものを感じます。 -
北東から見た「望徳の壁」。
人類史上最高の天才建築家としてアントニオ・ガウディを崇める私としては、たまりませんね。 -
南から見た「望徳の壁」。
-
「望徳の壁」から道路を隔てて東に見える聖フィリッポ教会とその入口。
-
聖フィリッポ教会(聖フィリッポ西坂聖堂)入り口に来ました。
識字率が高い1962年に造られたにしては珍しく、入口の上にはキリストのストーリーを描いたステンドグラスがあります。*)
*) https://4travel.jp/travelogue/11198227 参照。 -
教会に入りました。
8:30、東(右)側から植物を描いたステンドグラスを通して、カラフルな柔らかい光が差し込んでいます。
左側の壁にはモザイクで作られたイエズス会の紋章があります。
IHSはラテン語”Iesus Hominum Salvator”の頭文字をとったもので、意味は「人類の救世主イエス」です。 -
「日本初上陸の聖フィリッポ像
この像はメキシコのグアダラハラ大司教、フランシスコ・オロズコ・ヒメネスより、長崎の大司教パウロ山口(在任1937~1962)に送呈されたものである。
第二次世界大戦の間、この像は大浦の大司教館に保管され、後にこの西坂聖フィリッポ教会に移されることになった。」
―説明文より― -
聖フィリッポ教会主祭壇側。
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祭壇に向かって左側の「殉教者の元后」聖母マリア像。
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祭壇に向かって右側の、教会の保護者である聖フェリペ・デ・ヘスス像。
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聖フィリッポ教会主祭壇。
祭壇の前面には中央の「AΩ」を円形状に囲んだ26の十字架のレリーフがあります。ギリシャ語のアルファベットは「A」が最初で「Ω」が最後ですから、聖書では「AΩ」は万物の最初と最後、すなわち永遠の存在者であるキリストを意味します*)。26の十字架は聖二十六聖人を示しますから、このレリーフはキリストを礼拝する聖二十六聖人を意味します。
*) https://4travel.jp/travelogue/11184027 の無原罪懐胎説教会参照。 -
主祭壇上部の抽象模様のステンドグラス。
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主祭壇とは反対側。
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聖フィリッポ教会を出て、大浦天主堂近くの駐車場に車を停め、グラバー通りを南に上ります。
前方に大浦天主堂が見えて来ました。 -
大浦天主堂への参道上り口手前にやって来ました。
このあと行った旧羅典神学校の説明板に鳥瞰図がありましたので、全体の様子が分かるよう、最初にここで示します。
現在地は中央やや右の一番下の階段の手前です。 -
大浦天主堂への参道上り口手前。
左に大浦天主堂、右に旧大司教館、その間に旧羅典神学校が見えます。 -
少し進んで、左の階段が参道上り口、右は旧大司教館です。
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参道上り口の左(東)にあった、国宝 大浦天主堂の説明板。
説明文が読みにくいようでしたら、写真を拡大してお読みください。
著者補足
1873年、明治政府は禁教令の撤廃を決定、潜伏からカトリックへの復帰が本格化します。その結果、大浦天主堂は手狭になり、1879年に創建時の木造聖堂を包む形で2倍に増築され(後述)、表面を漆喰で塗られた白亜の煉瓦造りとなり、大塔は細くなって現在のスマートな形になりました。
大浦天主堂は1933年に国宝に指定されましたが、原爆による損傷の修復が完了して後、1953年国宝に再指定されています。また、「信徒発見」の場であることで知られており(後述)、2018年6月30日に登録されたUNESCOの世界遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」を構成する12件の資産の1件になっています。 -
1つ上の写真の右下にあった地図。
右が北です。大浦天主堂はそのファサードが日本二十六聖人の殉教地に建てられた日本二十六聖人記念館の方向に向けて建てられています。 -
階段を1つ上った左側にある大浦天主堂拝観券売場で¥1,000/人の拝観券を購入し、また1つ階段を上って左側の広場にやって来ました。
広場の西側にあった、右からプティジャン司教之像、朝鮮教区 1866年 4殉教者 遺骨保管 記念碑、教皇ヨハネ・パウロ二世胸像。 -
プティジャン司教之像。
プティジャン(Bernard-Thadée Petitjean、1829-1884)司教はフランス出身のカトリック宣教師で、1860年に那覇に渡り、2年間日本語と日本文化を学んだ後、1862年横浜、1963年には大浦の居留地に住むフランス人の司牧として長崎に着任しました。1864年には彼らのために大浦天主堂を建設し、1986年には日本代牧区(代理区)の司教となりました。この間、1865年には大浦天主堂を訪れた一行の中の杉本ゆり(1813-1893)から、自分達がキリスト教信者である旨の告白を受け、これが世界中のカトリック教徒を驚かせ、2018年に長崎と天草地方が世界文化遺産登録される根拠となった、隠れキリシタンの発見となりました。(詳細は後述します。https://4travel.jp/travelogue/11450983 の「信徒発見150周年記念レリーフ」も参照ください。) -
朝鮮教区 1866年 4殉教者 遺骨保管 記念碑。
「韓國カルメモツ*)(???)にて殉教後、ソジツユル**)(???)に埋葬された4人の殉教者の遺骨を(現)長崎大司教が1882年から1894年までここ大浦天主堂に大切に保管してくれたことを感謝し、記念碑を建てる。
2016年9月29日
韓國 大田区区長 ラザロ 兪興植***) 司教」
―碑の説明文より―
*) 敢えてカタカナで書けば「カルメモッ」が近い発音です。
**) 碑文に忠実に書きましたが、正しくは「ソジッコル」が近い発音です。
***) 碑文の文字がIMEパッドでも出なかったため、「兪」を当てましたが、正しくはは「愉」から立心偏がとれた文字です。 -
教皇ヨハネ・パウロ二世胸像。
「ここは日本の新しい教会の信仰と殉教と宣教の原点です
修道女たちになされた御訓話の一節
教皇は1981年2月26日午後日本カトリック教会再復興の地大浦天主堂をご訪問になられた」
-台座に刻まれた碑文より(漢数字はアラビア数字に変えています。)-
浦上天主堂にも同じ胸像がありますが、台座には別の碑文が刻まれています。(https://4travel.jp/travelogue/11450983 参照) -
方向を変えて見た教皇ヨハネ・パウロ二世胸像。
後ろの灯篭、刈り込んだ庭木、池の錦鯉が日本らしさを演出しています。 -
キリスト信者発見百周年記念碑。
浦上の信徒たちがプティジャン神父に信仰を告白する場面が描かれています。
「記念碑文
紀元1865年(慶応元年)2月19日、仏人宣教師プチジャン神父(後の初代長崎司教)により大浦天主堂が建立されたが、同年3月17日天主堂参観の浦上の住民等十数名が同神父に近づき「私達もあなた様と同じ心の者でございます。サンタ・マリアの御像はどこ」と云った。彼らは300年に亘る厳しい迫害を堪え忍び、ひそかに守り伝えたカトリックの信仰を表明した。日本のキリスト信者のこの信仰宣言は市場に例のない事実として全世界を驚歎させた。その感動的な場面をこの碑に再現し、信者発見百周年記念としてこれを建立するものである。
1965年3月17日
信者発見百周年行事実行委員会」
―碑文より(漢数字は適宜アラビア数字に変えています。)― -
この後階段を上って大浦天主堂に入りますが、天主堂の後に行った旧羅典神学校に大浦天主堂の説明板がありましたので、前もってここで示します。
見にくいようでしたら写真を拡大してご覧ください。
「国宝 大浦天主堂
現存する日本最古の洋風建造物として国宝に認定されています。
1597年に長崎で殉教した26人に奉献されました。
1879年ポワリエ神父の設計で拡張されて、外観はほぼ現在の形になりました。
外観
構造的に不安定だった尖塔が台風によって倒壊し、また信者数の増加に対応するため、1879年外壁を煉瓦構造とするとともに、間口を左右に1間(約1.8メートル)ずつ広げ、奥行きも深くして当初の2倍の大きさに拡張し、ゴシック建築様式となりました。
内観*)
初代の聖堂の三郎に側郎が足された五郎式となっています。
敷地内には神学校や修道院(伝道学校)がありましたがそれぞれの建物に専用の礼拝室はありませんでした。そこで、1879年の増改築時に第祭壇に向かって中央に広い信徒席、右側奥に神学正席、左側奥に修道院正席に分けられ静かに聖なる雰囲気で祈られる構造となりました。
天上*)
リブ・ヴォールト**) 天井といい、天井部分の軽量化が可能で、特にゴシック建築において決定的な空間の特徴の1つとなりました。コウモリ天井とも呼ばれ、細かな装飾として正面入口中央の天井にはパリ外国宣教会の印があり、その左右には教皇ピオ9世の紋章と、教皇レオ13世の紋章があり、ちょうど信徒発見と増改修工事の時期にあたります。この天主堂がこの2教皇の強い思いと庇護のもと建ったことを物語っていると言えるでしょう。」
右の下から3番目の写真の紋章
「第256代ローマ教皇・レオ13世の紋章です。すなわち、レオ13世、本名ジョアッキノ・ヴィンチェンツォ・ベッチですが、イタリアの貴族であるベッチ家の紋章です。」
右の下から2番目の写真の紋章
「第255代ローマ教皇・ビウス9世の紋章です。本名ジョバンニ・マリア・マスタイ=フェレッティといい、ローマ貴族マスタイ=フェレッティ伯家の紋章でもあります。
柱頭飾り*)
堂内の柱頭や左右の小祭壇などには、コリント風のものをゴシック化したブドウの樹・葉の彫刻が施されています。1879年の増改築を担当した大工、丸山佐吉によるものとされています。
写真提供:長崎県(『「長崎の教会群とキリスト教関連資産」校正資産候補建造物調査報告』)
」
*) 内部は撮影禁止でしたので、写真はありません。
**)
https://4travel.jp/travelogue/11198227
https://4travel.jp/travelogue/11200101 参照。
―「 」内は説明文より― -
参道に戻り、階段を大浦天主堂へと上ります。
大浦天主堂北側の白亜のファサードです。
ヨーロッパの教会に比べると複雑な装飾や彫刻は無く、シンプルです。 -
大浦天主堂北側ファサードの中央アーチに立つマリア像。
信徒発見を記念してフランスから送られたもので、プティジャン神父により、「日本之聖母」と名付けられました。 -
日本之聖母像を拡大。
-
大祭壇。
撮影禁止ですので、拝観券の写真です。
著作権の使用許諾は大浦天主堂博物館より得ております。 -
西側から見た大浦天主堂。
ゴシック建築に特徴的なバットレスやフライング・バットレス*) は無いですねえ。
木造建築で軽いからそこまでして支える必要はないということですか。
*) https://4travel.jp/travelogue/11198227、
https://4travel.jp/travelogue/11200101 参照。 -
旧羅典神学校に入りました。
旧羅典神学校の説明板。
「国指定重要文化財 旧羅典神学校
現存する明治初期の神学校建築の遺構として、長崎の洋風建築発展に礎をなした建造物として、国の重要文化財に指定されています。
日本での再布教をめざし、後任となる日本人司祭を早急に要請することを目的としていました。設計はド・ロ神父があたり、1875年に竣工しました。」
外観
建物は地下一階、地上三階建てで、柱などの構造材を真壁風に露出し、柱間には当地でコンニャク煉瓦と呼ばれる薄手の煉瓦を積み上げています。内外とも漆喰塗り仕上げとした木骨煉瓦造りです。
内観」
右上の写真
「完全な左右対称の立面となるのは南正面のみとなりますが、壁面における開口部の配置は各階ごとにほぼ左右対称の均衡が保たれるように配置されています。」
右下の写真
「階段部だけが螺旋階段に近い形状で廊下や階段の天井は菱組孔子となっていますが、全体的には装飾的な要素もほとんどない簡素で質実な意匠になっており、いかにも神学校という機能が表されているド・ロ神父らしい実直な造形となっています。
写真提供:長崎県(『「長崎の教会群とキリスト教関連資産」校正資産候補建造物調査報告』)」
―「 」内は説明文より― -
大浦天主堂から女神大橋(愛称:ヴィーナス・ウィング)を通って長崎湾を渡りカトリック神ノ島教会にやって来ました。
丘の中腹に真っ白な教会が見えます。
長崎港の入口に位置するこの丘は、現在九州本土と陸続きになっていますが、1960年代に埋め立てられるまでは直径1 km程度の島で、禁教令時代には、多くの潜伏キリシタンが隠れ住んでました。
この階段を上るのか。88段あるそうです。ちょっと大変だな。 -
階段を上ります。
-
フェンスで囲まれた教会の敷地に入りました。
東北方向に女神大橋が見えます。 -
女神大橋、ズームイン。
きれいな斜張橋だ。 -
南東に見える高鉾島。
この島は、徳川幕府が出した禁教令から3年後の1617年、宣教師をかくまった潜伏キリシタンが、長崎で初めて処刑されたことで知られています。 -
カトリック神ノ島教会の南西側ファサード。
この教会は1981年にラゲ神父が建立した木造建築を1897年にデュラン神父が煉瓦造りで建て替えたものですが、外壁は当初の漆喰塗りから現在の石灰塗りになっています。 -
教会の敷地から丘の上方に続く階段上ると、ルルドの聖母像があります。
ルルドの聖母は1858年フランスのルルド(Lourdes)に現れ、洞窟から湧き出る泉(ルルドの泉)によって、不治の病を治癒しました。日本には幕末維新期にフランスのパリ外国宣教会の司祭たちによって紹介され、1899年ころから長崎を中心として日本全国のカトリック教会にルルドの洞窟が盛んに造られるようになりました。 -
ルルドの聖母像位置から見た、カトリック神ノ島教会の南西側ファサード。
ファサード中央部の8角形のドームを有する鐘塔の両側には、会堂部の屋根よりも低い切妻屋根がついていて、拝廊*) の一部を構成しています。
*) 教会堂のロビーに相当する場所。詳しくはhttps://4travel.jp/travelogue/11198227 参照。 -
教会内部。
3郎式で、板張り4分割リブ・ヴォールトの天井を有します。列柱は重ね柱で、各種アーチや開口部は全て円形アーチを基調としています。 -
神ノ島教会から下りて、南側の海岸にやって来ました。
岩の上に見える白い像は「岬のマリア像」、その右に見える岩は「ドンク岩」(後出)です。 -
岬のマリア像、ズームイン。
-
コンクリートの堤防を通って、岬のマリア像に向かいます。
階段の下に鳥居がありますが、昔岩の上には恵比寿神社があったそうです。 -
階段の下に来ました。
鳥居は2つありますね。 -
階段を上るとえびす像が5つあります。
-
正面から見た岬のマリア像。
「感謝のことば
昭和24年(1949年)聖フランシスコ・ザビエル渡来400年を記念し、世界平和と航海安全を祈って、この地に建てられたマリア像は永年の風雨に傷み、再建のやむなきに至りました。幸い多くの方々、とくに昭徳昭生両水産会社のご支援により、国際都市長崎の港口を守る大マリア像を建てることができました。ここに制作者ファロニー師と、御協力くださいました方々に深甚の謝意を表し、神のおん母聖マリアの特別なる御守護を記念いたします。
1984年6月19日(マリア像着座の日)
神ノ島教会信徒一同
記
一、祝別者 長崎大司教 里脇枢機卿
一、製作者 ファロニー師(サレジオ会イタリア人)
一、マリア像の高さ 4 m 60 cm」
―台座に張られたパネルより(漢数字は適宜アラビア数字に、長さの単位はアルファベットに変えてあります。)― -
岬のマリア像の位置から見た東シナ海に沈む夕日。
手前は「ドンク岩」です。
「ドンク」とは長崎県の方言でカエルのことです。干潮時に眺めると、突き出た岩のシルエットがカエルに見えるそうですが、ここからはカエルには見えませんねえ。 -
岬のマリア像の位置から見たカトリック神ノ島教会。
ここからだと教会全体の外観がよく分かります。 -
カトリック神ノ島教会から島原市の宿泊ホテル南風楼にやって来ました。
部屋からみたホテルの庭。 -
部屋から見たホテルの庭。
この旅行記はhttps://4travel.jp/travelogue/11466797 に続きます。
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