2018/11/03 - 2018/11/03
1位(同エリア325件中)
bunbunさん
- bunbunさんTOP
- 旅行記179冊
- クチコミ0件
- Q&A回答0件
- 582,258アクセス
- フォロワー874人
島原城は、五条(奈良県)から入封した松倉重政が1618年着工、4~7年の歳月を経て完成させた城です。破風をもたない層塔型総塗込の五層の天守閣を据える本丸。北へ二の丸と三の丸を配置して、要所を三層櫓で固め、外郭は4キロにわたり矢狭間をもつ練塀で取り囲みました。以来、松倉氏・高力氏・松平氏・戸田氏・再び松平氏と4氏19代の居城として輝きました。その間、1637年島原の乱では一機軍の猛攻をしのぎ、1792年島原大変時には打ち続く地震と足下を洗う大津波にも耐えてきました。
明治維新で廃城になり、払下げ・解体されましたが、島原市民の夢である御城復元への取組みが長年続きました。1964年天守閣が復元するなど、次第に昔の面影を取戻しつつありますが、天守閣の内部はキリシタン資料館を含む資料館等になっています。また本丸にある3つの三層櫓も西望記念館や史料館等になっています。
今回はボランティアのガイドさんと一緒に回りました。本旅行記では島原城1階のキリシタン資料館に展示されている様々な品々、島原城内の西望記念館(巽の櫓)に展示されている、平和祈念象の作者である北村西望の作品群、島原城西に位置する武家屋敷を中心にご報告します。
なお、本旅行記掲載の展示品につきましては、2019年3月8日全て島原市しまばら観光おもてなし課より著作権の使用許可を得ております。
-
朝、島原市の宿泊ホテル南風楼の部屋からの眺め。
島原湾の向こうに熊本県の筒ヶ岳(501 m、左)や国見山(389 m、右)等の山々が見えます。 -
ホテル南風楼の部屋からみたホテルの庭と島原湾。
今日もいい天気だ。 -
ホテル南風楼の西に見えた媚山。
媚山は、七面山(819 m、右)、天狗岳(695 m、中央の尖った山)、南峰(708 m、左奥)の総称です。 -
ホテル南風楼を出て島原城に向かいます。
-
島原城南側、本丸天守閣前の駐車場に着きました。
ここで予約してあったボランティアのガイドさんと待ち合わせです。 -
天守閣と反対側。
中央の建物は西の櫓です。 -
天守閣入口にあった説明板。
分かり易いよう、左右にならんだ図を上下に並び替えています。
上の図は左がほぼ北です。
「島原城由来
この地は森岳といい、有馬晴信が本陣を構えて佐賀・龍造寺隆信軍を撃破した所です。この瑞祥の地に、五条(奈良県)から入封した松倉重政が島原城を築きました。1618年(元和4年)着工、4~7年の歳月を経て完成。同時に島原城下町も整備したといいます。
破風をもたない層塔型総塗込の五層の天守閣を据える本丸。北へ二の丸と三の丸を配置して、要所を三層櫓*)で固め、外郭は4キロにわたり矢狭間をもつ練塀で取り囲みました。
四万石の大名には過分な城です。ここに有馬氏時代からの海外貿易の利益と、松倉氏の新興大名としての意気込みが見られます。
以来、松倉氏・高力氏・松平氏・戸田氏・再び松平氏と4氏19代の居城として輝きました。その間、1637年(寛永14年)島原の乱では一機軍の猛攻をしのぎ、1792年(寛政4年)島原大変時には打ち続く地震と足下を洗う大津波にも耐えてきました。
明治維新で廃城になり、払下げ・解体されましたが、島原市民の夢である御城復元への取組みが長年続きました。1964年(昭和39年)天守閣が復元するなど、次第に昔の面影を取戻しつつあります**)。」
―説明文より(漢数字は適宜アラビア数字に書き換えています)―
*) 下の「ありし日の島原城」の左端の西の櫓、中央の巽の櫓(今は西望記念館、今日後で行きます。)、右端の丑寅の櫓(今は民族資料館)の3つの三層櫓です。
**)天守閣の内部は後で示す資料館になっています。 -
天守閣の内部にはいりました。
「島原城構築の図
有馬藩主が延岡へ移封された後、幕府の命により松倉豊後守は4万石の領主として備前島原を治める事となった。松倉氏は原城や領内の古い砦を廃し、森岳の丘へ新たな城を構える事とした。着工に当たって各村の庄屋へ割当し苦役を動員させた。松倉豊後守は築城の名手として名高く、その規模は膨大で優美、かつ戦略的なものであった。1日300~500人の苦役によって7年3ヶ月を要し、工事中事故による多くの犠牲者を出しながら、延べ100万人の労力を費やしてようやく完成した。その間、領民の経済的な重圧は言語を絶し、苦しさ余り作業中にも密かに十字を切る者も居たといる。
島原の乱がおきたのは、城完成後13年目のことであった。
注.この絵は着工より3年半から6年目の工事状況を一画面に現したものです。
解説、 絵 宮崎昌二郎」
―説明板より― -
天守閣内部の説明図。
しばらく1階のキリシタン資料館を見て回ります。 -
「メルカトル・アジア地図*)
大航海時代になるとメルカトル図法(正角円筒図法)が活用され、各地図が描かれた。この図は16世紀のアジア地図で、その頃の日本は存在だけが知られていた程度である。そういう未知の国へザビエルは布教を決意し、大きな功績を残す。」
―説明板より―
*) この地図はメルカトル図法じゃないですね。メルカトル図法は正角図法でどの点でも角度が保存されますが、この地図では本来直角に交わるはずの緯線と経線が中央から離れるにしたがって直角でなくなります。 -
「象牙製のマリア像
南蛮貿易とともに多くの宣教師が来日してキリスト教を布教した。この象牙製マリア像は日本への来航の途中で、宣教師が刻んだものと伝えられる。」
―説明文より― -
ステンドグラス*)。
*) ステンドグラスについてはhttps://4travel.jp/travelogue/11198227の付録で詳しく説明しました。興味のある方はご覧ください。 -
「セミナリオ
ヨーロッパの教育制度を取り入れて設置した初等神学校。高等神学校も開かれて、コレシオといった。
1579(天正7」年に来日したヴァリニャーノ巡察師は日本人聖職者育成の必要性を認め、翌年有馬と安土に開校した。
10歳ぐらいからの少年を入学させ、全寮制の学園で、神学やラテン語、日本語、歴史、音楽などを学ばせた。
千々石ミゲル、伊藤マンショ、中浦ジュリアン、原マルチノら1582年ローマ教皇のもとへ旅立ち、大歓迎を受けて無事に大役を果たした。」
―説明板より― -
「マリア観音像
徳川時代、キリシタン信徒は表面は仏教信者のように装い、実際はキリシタン宗門に対する信仰を保ち、マリア像に似たマリア観音を礼拝することに信仰の目的を達した。
元来、マリア観音像は聖母マリアが御子キリストを抱いた像が多く、弾圧が厳しくなるにつれ、キリストが姿を消し、マリアだけになった。」
―説明板より― -
マリア観音像。
-
「織部灯篭
その名のもととなった古田織部正重然は武士であり茶人、千利休の高弟であったという。
別名、キリシタン灯篭と呼ばれるのは、棹の部分を正面から見ると十字架の形に見えること、その下の人物が宣教師のすがたであると伝えられていることによる。従来の灯篭に比べて台石がないこと、棹の部分が地中に埋められている点、特殊な石灯篭であることには違いない。」
―説明板より― -
「千々石ミゲル(千々石町教育委員会所蔵)
彼は千々石城主・千々石淡路守の子で、有馬晴信の名代としてローマへ旅立った。ローマ教皇に謁見して帰国した彼はイルマン(修道士)となり活躍するが、やがて棄教。人知れず生涯を終わる。何が理由だったのだろうか。」
―説明板より― -
「雲仙地獄の殉教図
各地で棄教を求める拷問と迫害が行われたが、島原や長崎の信者は雲仙へ引き立てられて棄教を脅迫された。それが地獄攻めといわれ、その悲惨さはヨーロッパの人々に大きな衝撃を与えた。1669年発行のモンタヌス「日本誌」にはその絵が記載されている。島原地方のキリシタン弾圧の物凄さを今日までも伝えている。」
―説明板より― -
「花十字模様丼
南蛮文化はいろんな文物に影響されていく。
花十字模様が巧みにデザインされている。」
―説明板より― -
「キリシタン鋏
刃を閉じると手元にクルス(十字)が現れるように作られている。
出品 山崎 魁さん(島原市)」
―説明板より― -
「魚拓
魚及び魚の形はキリスト教信者のシンボルであった。」
―説明板より― -
象牙製ピエタ像(4.6 cm)
-
「隠し十字入地蔵型灯篭
火袋の底面に十字の彫刻がある。約40 cmの円筒型の底面には十字紋が刻まれている。円筒部には2体の地蔵が彫り込まれ、背面には火袋もある。潜伏キリシタンが密かに月待講や地蔵講などの名のもとに集会時に利用していたものか。」
―説明板より― -
「影踏・踏絵
キリスト教禁止政策の中で信者を判別するために、キリスト像やマリア像を踏ませる「踏み絵」を実施した。初期は大型メダイを板にはめ込んで使っていたが、不足してきたので長崎奉行は板踏絵を制作した。
島原藩では「板踏」とともに、「箱踏」といって穴を明けた箱に聖画像を入れた道具も利用していた。郡方役人が所持していた「影踏方一件」を見ると、島原藩の厳しいキリシタン取締まりの実態がわかる。
(左)踏絵(レプリカ) (右)踏箱(島原藩オリジナル)」
―説明板より― -
「雲仙地獄の殉教図
各地で棄教を求める拷問と迫害が行われたが、島原や長崎の信者は雲仙に引き立てられて棄教を脅迫された。それが地獄責めといわれ、その悲惨さはヨーロッパの人々に大きな衝撃を与えた。1669年発行のモンタヌス「日本誌」にはその絵が記載されている。島原地方のキリシタン弾圧の物凄さを今日まで伝えている。」
―説明板より― -
キリシタン禁制の制礼
「(文字が摩滅して読みにくいが、次のとおり推読される。)
定
きりしたん宗門ハ累年
御制禁たり不審成者
有之ハ申出へし御褒美として
伴天連之訴人 銀五百枚
い流まん訴人 銀三百枚
立かヘリ者の訴人 同 断
同宿併宗門の訴人 銀百枚
右之通可被下候たとひ同宿宗門内たり
といっとも訴人に出る品により銀五百枚
可被下之を隠置地所よりあらハるるに
おゐてハ其所の名主併五人組を一類共に
可被嚴科者也仍下知如件
天和二年五月 日
奉行」
「このキリシタン訴人懸賞制礼は寛永10(1633)年から明治維新まで徳川幕府が全国に建てさせたもので、現在までに発見されたものの中では、正徳時代(1711~1715)のものが最も古いとされていたが、この御礼は天和2(1682)年のものである。最も古いと思われる。
出品 藤田 実さん(島原市)」
―説明板より― -
左
「納戸佛(神)
島原の乱後のキリシタンは納戸にマリア像を隠してなお祈り続けたといわれる。」
右
「納戸仏
キリシタン宗門が禁制になり、マリア像を礼拝することが禁じられた。弾圧が厳しくなるにつれマリア像を仏像に仕立て、人目につかない納戸に祀っていた。」
―説明板より― -
「隠れキリシタン 聖水石鉢
聖水とは、聖職者が規定の儀式書に従って祝福した水であり、洗礼や信心のために用いられる。信者たちは、教会に入る時に手や指に聖水をつけて十字を切ることになっている。
これは隠れキリシタンが使用していたものと思われる。
出品 山崎 魁さん(島原市)」
―説明板より― -
「天草びな
天草で多く見出だされるマリア観音で、粘土で型をつくり、中央で継ぎ合わせ、彩色したものである。人形玩具も禁教時代になると、聖母子に仮託されて信仰の対象となっていく。」
―説明板より― -
「隠れキリシタン大日像
大日如来は密教の中心となる仏で、宇宙全体の中心で、宇宙の真理そのものといわれている。
南有馬町より伝えられたこの像は、大日像であるが首が抜けるようになっていて、後頭部には磔刑のキリスト像が彫られている。禁教時代の隠れキリシタン遺物といわれる。なお、その地では大日講が江戸時代中期より昭和14年頃まで続けられていたという。」
―説明板より― -
「羽柴コレクション
羽柴政寿氏が収集された数多くのキリシタン資料の一部である。まとめて展示しています。」
―説明板より― -
「天草四郎陣中旗
この旗は信仰の中心として篭城中にも掲げられていた。108 cm四方で、舶来品の綸子に油絵の具で描かれている。
聖餅と聖杯を二人の天使が拝み、上部には「いと尊き秘蹟ほめ尊まれ給え」とポルトガル語でかかれている。イエスとの一体化を願っている。
製作 島原市立第一中学校生徒」
―説明板より― -
「島原の乱大手門の戦い
寛永14(1637)年10月25日、島原藩主の圧政に反発して島原地方の農民が一揆を起こして、原城後に立篭る作戦をとった。ここに島原の乱が始まるのである。
宮崎昌二郎さん 画」
―説明板より― -
「オランダ船原城砲撃の図
幕府上使・松平信綱は平戸にいたオランダ商館長ニコラス・クーケバッケルに「オランダ船を有馬表へ回航させよ」と、一揆鎮圧へ協力を依頼した。
デ・ライブ号は1月11日有馬沖に着き、原城を砲撃。また前に送っていた大砲で陸上からも攻撃した。しかし、敵味方ともに「外国人に援助を仰いだ・・・」と非難され、1月28日引揚を命じられた。その間426発の砲撃を打ち込んだという。
砲丸の一部は本館に展示している。
宮崎昌二郎さん 画」
―説明板より― -
「原の城攻防図模型
原城跡に立篭った一揆軍*)の意気は高かった。幕府・大名軍は12万の軍勢で取り囲み、兵糧攻めをとる。地元中学生が、その攻防図模型を製作・展示。
製作 南有馬中学校」
―説明板より―
*) 手前十字の旗が立ち、塀で囲まれている部分です。下の図も参照してください。 -
「島原の乱「原城攻防図」
本図と同種類のものも多いが、本図は島原藩所有の写しである。
幕府大名軍の配置が良く分かる。」
―説明板より―
下がほぼ北で、一揆軍が立篭った原城は図の上部です。 -
島原の乱攻防図(寛永15(1638)年2月中旬頃)
航空写真をもとに作成されているようですが、縮尺は左右(南北)に伸びています。 -
「手槍
一揆軍3万余人と幕府軍12万余人が原城で3ヶ月間戦った時の一揆軍使用の手槍。」
―説明板より― -
「「殉教の砦」
3万もの人々が殉教した原城を描いた作品。中央に骨かみ地蔵と天草四郎像を配置し、多くの犠牲者の鎮魂を表している。
日本南蛮院評議員 実成眉仙」
―説明板より― -
「天草一揆陣営の図
山田右衛門作 画
南蛮絵師山田右衛門作(やまだえもさく)は有馬家譜代の家臣であったが主君有馬直純の延岡移封のとき、浪人となって口之津村に住み、得意の画業をもって生活にしていた。
島原の乱がおこると一揆軍に加わり大将天草四郎の指物と言われる「天草四郎陣中旗」を描いたといわれる。原城籠城中は武将として働くが、のち裏切って幕府大名軍に内応する。乱後、江戸に連行され上使松平伊豆守のもと画業のかたわら切支丹目明しの役を仰せつかっていたといわれる。本図は征討軍旗奉行西村氏の命により描かれたものである。」
―説明板より― -
左
「黄金の十字架
島原の乱の戦場であった原城から出土した十字架。
(縦3.95 cm、横2.4 cm)」
―説明板より― -
「原城出土の砲弾
幕府軍はオランダの船デ・ライブ号を平戸より原城沖へ廻航させ、海陸両面より砲撃させた。原城へ426発が打込まれたが、その効果はあまりあがらなかった。この砲弾は原城近くの畑や海底から出土したものである。」
―説明板より― -
「首塚・島原の乱供養塔(拓本)
島原の乱の供養塔で、南有馬町八幡神社にある。幕府は反乱者の首を三分して島原・天草・長崎に葬った。それで首塚とも呼ばれている。
「血が流れて川をなし草木の色あせて虫が山野を覆い、疫病は流行して五穀も稔らず、、」と、乱後の村々は荒廃した。代官として派遣された鈴木重成は、亡くなった人の霊を供養して僧侶に三日三晩にわたり読経させて盛大な法要を営み、この供養塔を建てた。」
―説明板より― -
原城出土 南蛮製花瓶
-
「島原半島殉教者記念聖堂
島原半島はかつてキリスト教布教の中心地で、その文化が豊に栄えた土地であった。しかしその後、徹底した弾圧により壊滅したという特別な歴史をもつ。キリスト教の歴史と殉教という栄光の足跡を記念するため、島原市白土町にこの聖堂が創建された。」
―説明板より― -
「① 有馬川の殉教
有馬晴信の後を継いだ直純は重臣たちに棄教を求めた。しかし従わないものもいた。そこで奉行は処刑することにした。
1613年10月7日、レオ林田助右衛門と妻マルタ、娘マグダレナ、息子ディアゴ、アドリアノ高橋主水と妻ヨハンナ、レオ竹富勘右衛門と息子パウロが有馬川の中州で火あぶりとなった。その日は2万人あまりの信者が集まり、その中での殉教であった。
12歳のディエゴ林田は柱の縄が焼け落ちたとき、燃えている母マルタの足元に駆寄った。そのとき母は、「天を仰ぎなさい」と指差して、母子ともに神をたたえながら殉死したという。」
―説明板より― -
「② 島原海の殉教
有馬氏が延岡に添封されると、島原地方は一時的に幕府の管轄となった。やがて松倉重政の統治が始まると、さらに取り締まりが激しくなった。
1627年2月21日、島原城の牢屋から16人の信者が引き立てられて島原の海で処刑されることになった。激しい拷問でも信仰を捨てなかった16人は、真冬の島原海で次々に殉教する。
まず指切りの拷問が始まった。5歳のイグナチオ内堀は、切り取られた手を顔近くに差し上げて、苦しみもせずに真っ赤なバラでも眺めるように見つめていたという。さらに船に乗せられ、海に投げ込まれては信仰を捨てるように責められた。「こんな大きなお恵みのために神に感謝しましょう」といって、アントニオ内堀は殉死したという。」
―説明板より― -
「③ 雲仙地獄の殉教
激しい拷問を加えても信仰を捨てない信者たちに、領主松倉重政はさらに残酷な「地獄責め」の刑罰を思いついた。
1627年2月28日、島原村の有力信者パウロ内堀作右衛門をはじめ16人は島原から引き立てられて雲仙へと向かった。雲仙地獄は泥混じりの熱湯が吹き上げていて、文字通り「地獄」である。
裸にされて首には縄がつけられ、一人ずつ飛び込めと命じられた。最後に残ったパウロ内堀は、逆さづりにされて何度も煮えたぎる地獄に落とされた。
さらに5月17日、口之津、深江、屋良尾の庄屋、島原の武士ら10人が雲仙地獄へ引き立てられた。信仰の地である故郷が一望できる地で一休みしたときの歌が残っている。
「はるかなるパライソ身近に今ぞ見るこの喜びに心高鳴る」(エアキム峰)
「引かれ行く命果てなしふるさとを眼下に見ては名残り尽きざる」(バルトロメウ馬場)」
―説明板より―
雲仙地獄にはこの時の「キリシタン殉教記念碑」が建っています。詳細はhttps://4travel.jp/travelogue/11421349をご覧ください。 -
続いて2階の郷土史料館です。
島原城廻之絵図
中央やや右の濃紺に塗りつぶされている部分が島原城の堀で、堀の内側左(南)が本丸、右(北)が二の丸、そのさらに右が藩主の御殿がある三の丸です。白い部分は上級武士の屋敷でこの白い部分を含めた全体が江戸時代の島原城となります。水色の部分は下級武士の屋敷、ピンクの部分は町家です。 -
島原城模型
長くて一枚の写真に納まらないので2つに分けます。
これは南側部分です。方位は1つ上の写真の絵図と対応していて、左が南です。
堀の内側左(南)が本丸、右(北)が二の丸です。 -
島原城模型の北側部分。
左中央が三の丸、右側は上級武士の屋敷です。
「島原城の完成
島原の新領主となった松倉豊後守重政は、戦国大名の意気込みを持って乗り込み、大規模な築城事業を始めた。1624(寛永1)年頃には完成し、ここに島原城が誕生した。
前領主・有馬直純が延岡(宮崎県)に転封されると、その後へ松倉重政が五条(奈良県)から入り、将軍から匿名を受けてキリスト教弾圧に力を注ぐ。領国統治の根拠地として新しい居城を島原に置き、同時に島原城下町も整備していった。
城の外郭は東西350 m、南北1200 mあって、周囲に3800 mの塀を巡らしていた。内郭は15 mの深い堀と石垣に囲まれ、南に片寄って本丸(160×200 m)が、その北隣に二の丸(120×120 m)、さらに三の丸(150×300 m)があった。
本丸には5層の天守閣が高さ32 mとそびえ、3層櫓3ヶ所、2層櫓7ヶ所を配置した。三の丸には御殿が置かれ、藩主の居住地と藩庁があった。また上級武士屋敷街を城内に、下級武士屋敷を場外西に配置した。
城の東と南側には城下町を築くなど、4万石の大名にしては過分の城構えであった。これも南蛮貿易で栄えた有馬氏以来の島原地方の経済力の現れといえよう。」
―説明板より― -
「御殿様の鎧、兜
島原藩主松平氏は三河(愛知県)の出身で、松平・徳川氏の一族という旧家である。この具足も室町時代の作で、長い歴史を経た逸品である。
出品 松尾昭和さん(島原市)」
―説明板より― -
「島原藩家老板倉家の甲冑
板倉家は代々八右衛門を名乗り、石高1,900石を給されていた。三河時代から松平藩主に従い、筆頭家老としての重要な役割を果たす。
出品 松本高雄さん(国見町)」
―説明板より― -
「長崎代官の甲冑
出品 陶山美寛さん(島原市)」
―説明板より― -
「兜 六十二間小星兜
鎧 伊予札二枚胴具足
寄贈 山本正良さん(東京都)」
―説明板より― -
島原藩の大砲
奥
「島原藩の大筒(大砲)「貞夫一」
この大筒は、島原藩の砲術師範であった宮川度右衛門守興(みやがわたくえもんもりおき)が、御用鉄砲鍛冶の国友正久とともに天保9(1838)年に作った大砲で、「貞夫一」(ていふいち)と命名した。
制式は『百匁石火大筒』(ひゃくもんめいしびやおおづつ)と呼ばれたもので、重量は120 kg。
文献によれば、天保10年3月に三会村の大塚山で試射を行い、弾丸は、約3 km離れた眉山に着弾した。」
手前
「島原藩の大砲類
島原藩砲術指南・宮川家は寛政年間に讃州丸亀で荻野派火術を学ぶ。
歴代宮川度右衛門と称し、大筒の作製と訓練にあたった。幕末には西国遊学中の吉田松陰も訪れて、海防などを論議している。」
―説明板より― -
最上階の5階展望台に出ました。
東北東方向の風景
島原湾を隔てて熊本県の山々が見えます。 -
東方向の風景
朝、島原市の宿泊ホテル南風楼の部屋からの眺め。
中央、島原湾を隔てて見える山々は、朝、島原市の宿泊ホテル南風楼からも見えた熊本県の筒ヶ岳や国見山等の山々です。 -
南南東方向の風景
-
南南西方向の風景
-
西南西方向の風景
中央左の山は媚山、中央その奥の山は1990~1996年に普賢岳の噴火でできた、雲仙岳の最高峰平成新山(1,483 m)です。 -
媚山の七面山と平成新山ズームイン。
-
媚山の七面山と平成新山をさらにズームイン。
-
西方向の風景
-
北西方向の風景
-
北方向の風景
-
北東方向の風景
-
東南東方向下方
中央に見える三層櫓は巽の櫓で今は西望記念館になっています。
この後行きます。 -
西望記念館に入りました。
「将軍の孫
この作品のモチーフは、当時5才の長男治禧さんです。
当時アトリエには橘中佐像制作のために、中佐の劔や軍帽が送られて来ていて、その遺品から帽子を取り出してかぶり、ぶかぶかの軍靴をはいて西望に敬礼したといわれています。」
―説明文より― -
「健康美
この作品のモデルは早稲田の運動選手で、前後、左右から精密な写真を撮って研究しました。すなわち、徹底した完全主義の彫刻にいどんだのです。明治時代にせいようから彫刻がはいってきて半世紀。西望らによって、はじめて日本的理想主義が現実的に確立されたもっともアカデミックな正当な像のひとつの代表のように思われます。」
―説明文より― -
「平和象立像試作
「平和祈念象」のために無数の構想的試作のひとつですが、浦島連作と同時制作のためか、ポーズ顔もよくにています。しかし、「奈良の大仏」にも負けにようにとまで考えた平和祈念象には、立像ではどうも重量感にとぼしいということで中止になり、座像がとられました。」
―説明文より― -
「平和祈念象
西望は、高さ四十尺(約12 m)の祈念象を作るのに必要なアトリエの大きさを計算してみると、そうしてもお金がたりませんでした。それでやむなく三十二尺(約9.7 m)の像に変更したのです。後年「あと一千万円あったらなあ。あの時は、ほんとうに残念だった。」と語ったそうです。」
―説明文より― -
「平和象の顔
西望は、デッサンを何十、何百と描き直しました。苦心に苦心をかさねたすえ、やっとできあがったのは、じっと目をつぶった、きびしいようでいてだれでも抱きとめるようなやさしい表情。それはやさしい男の神様の顔でした。」
―説明文より― -
「阿弥陀三尊 1972年 88歳」
「阿弥陀三尊
三尊の方は二年前に作られ、この年背後の大きな光背が二重身光として作られました。光背の鳳凰、そして唐草模様も、まったく独自なもので、蓮弁と螺旋状のバロック的な光線の象徴のようなものをつけ、「普通のものではない」光背を工夫したと作者は言っています。裏面には作者の筆で「大慈無辺」と刻銘があります。」
―説明文より― -
「拳闘
この像のもでるは、日本プロボクシングの黎明期、アメリカにも渡って活躍した帝挙所属ライト級佐藤東洋選手です。モデルはあらゆるポーズをとってよく協力してくれたと言っています。当時の評に、「外形的であるが、かなりこまかいところまで神経を使っています。が、左手にもう少し防ぎょと同時に攻撃にうつれる闘争精神がほしいものです。」とあります。」
―説明文より― -
「虎(春風)
虎をモチーフとした作品も多いようです。サブタイトルがついたものには。「虎-青嵐」「虎-虎視眈々」「猛虎」等があり、他にも「虎」という題で14点ほどが数えられます。本作品のように春風の中をさっそうと草原に行くもの、あるいは、次の飛翔にそなえているのでしょうか、低く身構えたものなどあります。いずれも芸術に対する作者の心意気を示したものでしょう。」
―説明文より― -
「天使降誕
この作品の天使が左手を水平にあげ「宇宙の平和」を願っていますが、同じようなモチーフで右手を直角に上げて「宇宙の無限」を示したものもあります。」
―説明文より― -
「清正公 1934年 50歳」
「加藤清正講像
この作品の四倍大の清正公像が熊本の本妙寺に昭和35年4月5日池上住職らにより再建されました。
像は中尾山上から熊本市内を見下ろしています。」
―説明文より― -
「獅子(熱風)
獅子の作品には、題がついたものが多くみられます。「百獣の王」「月に吼える」「厳頭」「原風蒼茫」「獅子奮迅」「獅子咆吼」などがあり、獅子とも6点ほどあります。その作品は力強さ逞しさ、自由奔放さにあります。それは西望翁のほとばしるエネルギーから生まれた作品だからでしょう。なお「獅子咆吼」は東京都から大相撲の優勝者に贈られています。」
―説明文より― -
「師範代 1920年 36歳」
「師範代
この作品は、空手や柔道にも縁がない医学校の某運動選手をモデルにして制作されたものです。木彫のような思い切った面取りがなされていますが、よく見ますと指紋のあともついているような実に繊細な肉付きがなされています。作者はこの年最初の場上の大像、「寺内元帥馬上像」の依頼をうけて着手しています。いま、まさに順風に帆をあげようとする自信にあふれた作品です。」
―説明文より― -
「夢 1970年 86歳」
「夢
大正末期に制作された「女」とまったくおなじポーズですが、本作品の方がすこし大きく、頭に蝶をとまらせているところがちがいます。双方に共通していることは、ぶっきらぼうぐらいに飾りつけのない素朴な作風のなかにも、自然にでてくる人間性、うぶでどこかしら哀愁がこめられています。この年の作者の俳句に「ねむの花 しばしまどろむ 夢の夢」があります。」
―説明文より― -
西望記念館から外に出ました。
天守閣が綺麗にみえますねえ。 -
西の櫓です。
今は、日本全国の城の絵や各県の特徴あるこけしなどを展示しています。
このあと武家屋敷に向かいます。 -
途中、堀の外側から見た島原城。
左から天守閣、巽の櫓(西望記念館)、木に隠れて見えにくいですが丑寅の櫓(民族資料館)です。 -
綺麗なんで、天守閣と巽の櫓(西望記念館)をズームインしてもう一枚。
-
島原城西側の武家屋敷にやってきました。
武家屋敷の中の道路の中央をほぼ南北に流れる水路です。
「武家屋敷街
ここ一帯に徒士屋敷があり、松倉重政が島原城を築いた時に、下士をまとめて住まわせました。(上士は城内に取り込んでいます。)
一軒一軒の屋敷には境界の塀がなく、隣家の奥までまる見えで鉄砲の筒の中を覗いたようだというので、鉄砲町と呼ばれていました。
鉄砲組すなわち歩兵の居住地帯であったからでもあります。
城に近い方から、下ノ丁、中ノ丁、古丁(ここまでが松倉時代分)、下新丁、上新丁、さらに新建と江戸丁、新屋敷などを配置しました。
いずれも長さ400 mの屋敷町です。
それぞれ約90坪の屋敷に建坪約
25坪で、屋根はわら葺きです。約700軒ありました。
街を流れる清水は北方約2 mにある杉谷・水の権現(温泉熊野神社)から引いた人口の水路です。
飲用水にもなっていましたから、水奉行を置くなどして大切に使用されていました。
1775年頃には石垣などを整備しています。
ここには江戸の昔が残っています。
島原市」
-説明板より(漢数字は適宜アラビア数字に、単位は適宜アルファベットに変えています。)- -
まず、篠塚邸の見学です。
-
地図がありました。
現在地は中央右上です。
「篠塚邸
この屋敷に住んでいた人は姓を篠塚と言い、代々順右衛門を称し祖先は三河(愛知県)深溝であるが、寛文9(1669)年、松平主殿頭忠房が丹波福知山5万石から7万石石島原城主として移されたときに従ってきて、明治初代まで11代、8石から13石2人扶持を給され、主として郡方祐筆(書記)や代官などを務めた。屋敷坪数はこのあたりすべて3畝(90坪)である。」
-説明板より- -
手前が8畳の男座(おとこざ)、その奥が6畳の次の間、さらにその奥には女座(女座、後出)があります。
男座では当主が息子の教育をしています。 -
庭
-
庭から見た家の内部
-
庭
左の木はヤマモモです。 -
家の内部
広いね。
手前は4.5畳の茶の間。 -
左奥は6畳の女座。
-
台所
-
次は山本邸の見学です。
「山本邸(明治元年 建設)
山本家の初代佐五座衛門は、忠房公の先代三河(愛知県)の吉田城主忠利公時代から家臣となり、寛延2年(1749)、5代忠衹公の宇都宮移封、安永3年(1774)、6代忠恕公の島原への所管の所替に際して随行し、その後幕末まで前後13代の城主に使えました。山本家は城主から信任が厚く明治以後は悟郎氏秀武氏と合わせ10代続いております。
5代茂親氏は寛政2年(1970)に一刀流の免許、文化元年(1804)には荻野流鉄砲術師範、文化8年(1811)大銃術の免許皆伝を得て、代々重職を務めました。
17石2人扶持で、門構えは最後の城主忠和公から特別に許されたものであります。」
-説明板より- -
井戸
「六五の井戸
ここ鉄砲町は古くから町筋の中央を流れる清水を、水奉行の厳重な管理のもと、飲料水として使用していた。
しかし、大正初期、周囲に田園地帯が急増し、灌漑用に使用するなど、当時の通水は従来の四分の一程度に減少し、さらに、伝染病が猛威を降るふるい、多数の患者が出るにいたって大きな問題となっていた。
山本家第八代当主秀左右は、この現状を深く憂慮し、井戸掘りに着手した。
大正六年五月に完成をみたので、それに因んで
六五の井戸と命名した。
井戸の深さ 約8.2 m
水 深 約2 m
形 円形(直径約1 m)
作業延人員 42人
総 経 費 50円95銭2厘
※当時の米10 kgが約1円
工事日数 10日
山本家「井戸掘日記」より」
-説明板より- -
来客用玄関。
-
控間。
その奥は居間です。 -
台所。
-
醤油絞り機
-
屋根裏。
釘は使っていません。 -
台所から見た居間。
-
控間から見た家の中。
広いね。 -
庭から見た山本邸。
-
当主の部屋。
-
トイレ
-
庭
-
庭の木
珍しい木があると、どうしても気になりますねえ。
背の高い木は常緑針葉樹の「イヌマキ(もしくは単にマキ)」だそうです。
マツ目、マキ科です。 -
山本邸を出ました。
もう一度水路です。 -
売店の旗です。
-
確かに売店だ。
この辺でガイドさんとは別れて、雲仙地獄に向かいます。
この旅行記は「長崎 雲仙地獄」(https://4travel.jp/travelogue/11421349)に続きます。
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
この旅行記へのコメント (5)
-
- Decoさん 2021/04/04 10:44:51
- 原城
- bunbunさん、こんにちは。
いつも旅行記など評価していただいて、ありがとうございます。
私は親戚が島原・有馬に住んでいることもあって、ときどき訪ねて行っていますので、こちらの旅行記は興味深く読ませていただきました。
島原藩のキリシタン弾圧、人間はどこまで残酷になれるのだろうかと思いました。以前、外海の遠藤周作記念館を訪れたり「沈黙」を読んだりして、その凄まじさは知ってはいましたが、改めてbunbunさんの旅行記を読んで、言葉もでません。こういった内容の旅行記は、書く人にも負担がかかると思いますが、よくぞここまで丁寧に書いてくださったと感銘を受けました。
また、折に触れ、他の旅行記も読みたいと思っています。
Deco
- bunbunさん からの返信 2021/04/05 13:29:21
- RE: 原城
- Decoさん、こんにちは。
ご訪問、私の拙い旅行記にいつも投票ありがとうございます。
長い旅行記を丁寧に読んでくださり、感謝申し上げます。お褒めのお言葉を頂き、恐縮です。長崎には初めて行きましたが、人間の残酷さを改めて思い知らされました。国内や世界を回っても、博物館・美術館・資料館はもとより、街角でも彫刻や写真等で表示されこのような悲惨な過去を目にします。人間社会はこのようなの膨大な数の不条理の歴史の上に成り立っておりますが、こういった歴史を風化させてはならないと思います。幸い現在は人権尊重の民主主義社会の方向に向かっておりますが、人間が進化する過程で得た残虐さはしっかりとDNAに刻まれており、これが現れないよう私達はしっかりと見張らなければならないと思っております。
「植木温泉「旅館いろは」で日帰り温泉」拝読いたしました。私も温泉は大好きで、宿泊施設を選ぶ場合、必ず温泉をチェックします。「旅館いろは」のレトロな雰囲気はいいですね。玉砂利が敷き詰められて緑に囲まれた露天風呂なんて最高です。やはり日本人には温泉ということでしょうか。なかなか九州までは行けませんが、もし熊本に行く機会がありましたら是非宿泊して見たいと思います。
素敵な旅行記をありがとうございました。
これからもDecoさんの旅行記を楽しみにしております。
bunbun
- Decoさん からの返信 2021/04/05 15:40:22
- Re: 原城
- ご丁寧な返信をいただき、ありがとうございました。
温泉については、私は日帰り専門で宿泊のことはよくわからないし、知っているエリアも限られますが、情報提供はできるだけ致しますので、ご旅行の際は遠慮なくお声をかけてくださいね。
人間は、自らに正義があるとか、相手が邪悪だとか思い込んでしまうと、残酷なこともしてしまうと思います。キリシタンの人々を迫害した藩の武士たちも、本来は情けもあっでしょうに。
自分自身も気をつけなければならないと思いました。
Deco
-
- mom Kさん 2020/04/12 08:31:27
- 島原へはためらいが
- bunbunさん 初めまして。私の五島旅に共感してくださってありがとうございます。
島原の様子拝見。胸がつまります。私は中学生の時、同級生に薦められて「沈黙」を読み、隠れキリシタンの世界を知りました。それは楔のように心に入り込んだ衝撃。以来旅でひょっこり遺品に出会うたびにそのことがよみがえります。
島原でも地元中学生が歴史を学び、このような展示品の製作にもかかわっていると知り、うれしく思いました。
ご存知かもしれませんが、「半泊教会」について。あの日帰宿して、女将さんに「今日は忘れられない教会に会えました・・・。」と衝撃を聴いてもらいました。すると、訪れたことを驚き、「よく行けたねえ。あそこはレンタカーではむずかしいので、行かないように言ってるんよ。あの教会については、二人の女性が守っておられて、長崎テレビのドキュメンタリーで放映されたこともあるぐらい、有名な教会。」と。
教会内の手書き文字の筆跡、お目にかかりたくなるものでした。
大村市を訪れた時、キリシタンの遺品はおろか何を見たわけでもないのに、歩き回っただけなのに、町全体から不穏な気配を感じ、心がしずみました。ですから、島原にはまだ足が向きません。ありがとうございました。
- bunbunさん からの返信 2020/04/12 17:11:38
- RE: 島原へはためらいが
- mom Kazuko さん、こんにちは。初めまして。
ご訪問、私の拙い旅行記への投票ありがとうございました。
お恥ずかしい話ですが、私が隠れキリシタンを知ったのは、多分「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」がUNESCOの世界遺産に登録されてからです。長崎旅行の最大の目的はこの遺産を自分の目で見るためでした。キリシタンに対する偽政者の弾圧行為は目を覆いたくなるものばかりです。生物学的に見ると、生命の誕生から人類までの進化は、強いものが弱いものを淘汰する過程ですから、現在地球上に存在する人類を含めた生命体は、何らかの形でそのようなある意味悪しきDNAを持っています。しかし、現在の人類は全ての人間が自由平等の民主主義社会を構築してきている訳ですから、後戻りすることは許されません。しかしながら悪しきDNAを持つがゆえに、強い権力を持った人間が弱い人達を虐げることはよく起こります。イギリスの歴史学者ジョン・アクトンの言葉「権力は腐敗する。絶対権力は絶対腐敗する。」はあまりに有名ですが、実にうまく真実をついています。民主主義社会になって、国の行政を担う政治家を我々自身が選ぶことが出来るようになしましたが、我々が無知であっては、とんでもない政治家が選ばれ、我々を騙してとんでもない政治を行います。残念ながら今はこれが現実です。これを防いでより良い社会を構築するためには、我々一人一人が賢くならなければなりません。私はこのブログ会社の性格上、プロフィールには「好奇心旺盛で・・・何にでも興味を示します。」と書いていますが、本音は上記のように、何でも勉強して賢くならなければならないといった思いです。
mom Kazuko さんのように負の側面に目を向ける方がいらっしゃることは救いです。
bunbun
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
島原(長崎) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
5
112