2018/11/01 - 2018/11/01
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レンタカーで長崎を回りました。今回は平和公園、浦上天主堂をご報告し、最後に長崎原爆資料館を少しだけ付け加えます。
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長崎空港に着きました。
予約してあったレンタカーで出発です。 -
近くの駐車場に車を置いて、平和公園にやって来ました。
公園内にあった「長崎市原子爆弾被害区域図」。北は右方向です。
原爆投下中心を中心として、半径1000 ft(304.8 m)間隔の同心円が描かれています。
平和公園の中央(赤に白抜きで「現在地」とかかれた場所のやや左)は、原爆投下中心から約250 mです。
「原爆搭載機長崎へ
長崎は深い入り江に面した美しい港を中心に繁栄し、三方(東・西・北)を山に囲まれた複雑な地形とたたずまいの中に、ポルトガル船入港から原子爆弾投下に至る370有余年の歴史を刻み込んだ、九州の最西端に位置する港湾都市であった。
太平洋戦争の末期、昭和20年8月9日早朝、西太平洋マリアナ諸島のテニアン基地を飛び立った原子爆弾搭載機B29「ボックスカー」号は、第1攻撃目標の北九州の工業地帯小倉市上空に到達したが、小倉市上空は天候不良のため視界が聞かず、第2目標であった長崎へと方向を転じた。
長崎市上空へ侵入した「ボックスカー」号は、雲の切れ間に三菱長崎兵器製作所の巨大な工場群を発見、高度3万 ft(約9,000 m)から投下した原子爆弾は、午前11時2分、長崎市の北部、松山町の上空約500 mで天を裂くような熾烈な閃光を伴って爆発した。
原子爆弾による被害状況
死者・・・・・・・・・・・・73,884人(当時の推定人口24万人)
負傷者・・・・・・・・・・・74,909人
罹災人員・・・・・・・・・・120,820人(半径4 km以内の全焼、全壊の世帯員数)
罹災戸数・・・・・・・・・・・18,409戸(半径4 km以内の全戸数、市内総戸数の約36%)
全焼・・・・・・・・・・・・11,574戸(半径4 km以内 市内の約1/3にあたる)
全壊・・・・・・・・・・・・1,326戸(半径1 km以内を全壊とみなしたもの)
半壊・・・・・・・・・・・・5,509戸(半径4 km以内を半壊とみなしたもの)
焼失土地面積・・・・・・・・6.7 km2」
―図の説明文より(カタカナの単位はアルファベットに書き換えています)― -
公園の南南西にある平和の泉。
公園の中央を南南西から北北東にはしる通りの先に平和祈念象が見えます。
「のどが乾いてたまりませんでした
水にはあぶらのようなものが
一面に浮いていました
どうしても水が欲しくて
とうとうあぶらの浮いたまま飲みました
―あの日のある少女の手記から」
―石碑に刻まれた文より―
この石碑の手前左側には
「平和の泉
長崎市長
諸谷義武 書」
と書かれたプレートが、
右側には
「核兵器禁止平和建設國民会議
平和の泉建設委員会
昭和44年8月3日建立」
と書かれたプレートが埋め込まれています。
「平和の泉
昭和20年8月9日原爆のために体内まで焼けただれた被爆者は「水を」「水を」とうめき叫びながら死んでいきました。
その痛ましい霊に水を捧げて、めい福を祈り、あわせて世界恒久平和を祈念するため、核兵器禁止世界平和建設国民会議と長崎市は、全国からの浄財を基として、ここに「平和の泉」を建設しました。
今日、ここを訪れてくださいましたあなたに、めい福を祈り、平和を祈念していただければ、誠に幸いと存じます。
長崎市長
噴水池の直径: 18 m
噴水の高さ: 0.5~6 m
刻々と変化する水形は、平和のはとの羽ばたきを形どり つるの港といわれる長崎港のつるも象徴しています
昭和44年8月 完成
昭和60年8月 改修」
―脇にあった説明板より(カタカナの単位はアルファベットに書き換えています)― -
1つ上の写真の反対側から見た平和の泉。
この方が噴水の形が分かりますかね。
後ろの電波塔の見える山は稲佐山です。 -
北北東の平和祈念象の方向へ進みます。
この付近は世界平和シンボルゾーンで、世界各国から贈られた平和を象徴する15個のモニュメントがあります。
Aコール(A Call)
昭和55年12月3日建立
作者:ボリス・ゴンドフ
「この像は、ブルガリア人民共和国から同国の建国1300年を記念して長崎市が計画している「世界平和シンボルゾーン建設」に寄贈さらた「Aコール」です。腕をあげた女性像で、平和と調和と求めて戦う若者を表現しています。
長崎市 」
―像の説明文より― -
戦災復興記念碑
「昭和50年11月14日建立
製作者:富永 直樹
昭和20年8月9日午前11時2分、一個の原子爆弾によって長崎市は、一瞬のうちにその大半が焦土と化した。
その範囲は爆心地からおよそ3.5 m、面積約6.7 km2に及び、死傷者約14万9千人、被災家屋1万8千余戸に達した。
昭和21年9月「戦災復興計画基本方針」にもとづき、復興土地区画整理区域を決定、直ちに事業に着手した。混乱した戦後の社会状況のなかで、しかも当時としては画期的な大事業であったが関係者の協力のもと、幾多の困難を克服し着手以来28年余の歳月を費やし、昭和50年2月に完了するにいたった。戦禍の街は、今や希望と繁栄に輝く平和都市として再現されたのである。
ここに都市再建の業績を記録し、記念碑を建立する。
昭和50年11月14日
長崎県知事 久保勘一」
―長崎市 平和・原爆 公式HPより(カタカナの単位はアルファベットに書き換えています)― -
クローク・オブ・ピース(Cloak of Peace,平和のマント)
平成18年10月21日建立
制作者:キングスリー・ビアード(Kingsley Baird)
「“クローク・オブ・ピース(平和のマント)“ はニュージーランド政府、及び、クライストチャーチ、ウェリントン、オークランド、ネイピア、ワイタケレ、ファカタネの6都市から長崎市に友好の証として寄贈された平和のモニュメントです。
“マント”は平和な世界に身をゆだねる人々に一体感とそれらを包み込み、守るものを象徴しています。
2006年10月21日
フィル・ゴフ軍縮・軍備管理大臣により序幕」
―説明板より― -
乙女の像
昭和60年7月16日建立
「この像は、長崎市がすすめている「世界平和シンボルゾーン建設計画」の主旨に賛同し、中華人民共和国から中国日本友好協会を通じて寄贈された「乙女の像」です。
人類の平和と末長い日中友好を願う中国人民の真心を表わしています。
1985年7月」
―説明板より― -
乙女の像の反対側
「印は、「百折千回心不退」で、意味は1961年中日友好協会の副会長趙樸初氏の言葉で、「百回の曲折があっても、心はかわらない」という意味がある。」
―長崎市 平和・原爆 公式HPより― -
長崎の鐘
昭和52年7月20日建立
「碑文
長崎の鐘よ鳴れ
長崎の鐘よ鳴れ
私達の肉親を奪った
私達のからだをむしばんだ
あの原爆が
いかに恐ろしいものであるか
あの戦争が
いかに愚かなものであるか
長崎の鐘よひびけ
長崎の鐘よひびけ
地球の果てから
果ての果てまでも
私達の願いをこめて
私達の祈りをこめて
昭和52年7月20日
長崎県被爆者手帳友の会
長崎県動員学徒犠牲者の会
会長 深堀勝一
松岡國一 刻」
―説明板より―
「<建立の経過>
原爆投下後、33回忌を迎えるにあたり、動員学徒、女子挺身隊、徴用工、一般市民の原爆殉難者の冥福を祈り、あのようなむごい原子爆弾が、再びこの地球で炸裂しないためにも、この鐘を鳴らし続けて恒久平和の確立を世界の人々に訴えるため建立したものである。遺族、被爆者、およそ21,000世帯の拠出金により建立された。」
―長崎市 平和・原爆 公式HPより― -
長崎の鐘の柱に掲げられていた絵
「昭和20年8月9日。原爆で破壊された三菱兵器製作所大橋工場で、生き残った早崎猪之助(当時14歳)が多くの重傷者とともに救援列車で脱出した。その惨状は生涯忘れることができなし。(画・マルモトイヅミ)」
―絵の説明文―
この絵の下には
「原爆とも知らず七万四千人の長崎市民が黒焦白骨となりました。一杯の水も飲めず皆んな世を去りました。旅のお方、花に一杯の水を下さい」
と書かれた看板がありました。 -
平和祈念象へと続く通り。
-
通りの右側、長崎刑務所 浦上刑務支所跡。
「長崎刑務所浦上刑務支所は、松山町・岡町・橋口町の三か町にまたがる丘の上にあり、敷地約2万 m2、庁舎面積約1万3千 m2の爆心地にもっとも近い公共の建物であった。
1945年(昭和20年)8月9日、 午前11時2分、一発の原子爆弾のさく裂により、職員、官舎居住者、受刑者及び刑事被告人計134名*)が死亡した。周囲の高さ4 m、幅0.25 mの鉄筋コンクリート壁は、殆ど根元から倒壊し、木造庁舎も炊事場の煙突1本残して倒壊全焼した。」
―説明板より(カタカナの単位はアルファベットに書き換えています)―
*)長崎市 平和・原爆 公式HPによると、内訳は
「職員18名、官舎住居者35名、受刑者及び刑事被告人81名(うち中国人32名、朝鮮人13名)」
とのことです。
「これは、被爆当時の状況ではなく、工事をして基礎の部分を見学できるようにしたものです。原爆の爆風でこのようになったわけではありません。」
―長崎市 平和・原爆 公式HPより― -
長崎刑務所 浦上刑務支所跡は通りを挟んでその左(西)側へと続いています。
-
大きな石畳の広場に出ました。
右側には制服の子供たちがいっぱいです。
立派なもんですねえ、平和教育は子供のうちからやらないと。 -
前に進みます。
中央の平和祈念象とその両側の折鶴の塔です。 -
平和祈念象
昭和30年8月8日建立
制作者:北村西望
「平和祈念像建立のことば
昭和20年8月9日午前11時2分、一発の原子爆弾が、この地上空でさく裂し、方五粁一帯を廃墟と化し、死者7万3千余、傷者また7万6千余におよんだ。
哀愁悲憤の思いは、今もなお胸を裂くものがある。
私ども生き残った市民は、被爆諸霊の冥福を祈り、かつ、この惨禍が再び地上にくり返されることを防ぐために、自ら起って、世界恒久平和の使徒となることを決意し、その象徴として、この丘に、平和祈念像の建立を発願した。
かくて、私たちは、平和祈念像建設協賛会を組織し、内外の熱烈な協賛のもとに、昭和26年春、工を起してより、ここに4年、念願の像を完成し、除幕の式を挙げた。
この日原爆十周年の日の前日である。
私は、30万市民と共に、この平和祈念像が、万人に仰がれ、世界平和の保持に大きな貢献をなすものと信ずる。
昭和30年8月8日
長崎市長 田川 務」
―像の説明文より(漢数字は適宜アラビア数字に書き換えています)―
「平和祈念像作者の言葉
あの悪夢のような戦争
身の毛のよだつ凄絶悲惨
肉親を人の子を
かえり見るさえ堪えがたい真情
誰か平和を祈らずにいられよう
茲に全世界平和運動の先駆として
この平和祈念像が誕生した
山の如き聖哲
それは逞しい男性の健康美
全長32尺余
右手は原爆を示し左は平和を
顔は戦争犠牲者の冥福を祈る
是人種を超越した人間
時に仏 時に神
長崎始まって最大の英断と情熱
今や人類最高の希望の象徴
昭和30年 春日 北村西望」
「この作者の言葉は平和記念象の裏に刻まれています。」
―説明板より(漢数字は適宜アラビア数字に書き換えています)―
「平和祈念象の修復に当たって
平和祈念象は、尊い犠牲者の霊魂をなぐさめるとともに、世界恒久平和への情熱の象徴として、北村西望氏により制作され、昭和38年8月8日完成した。
完成以来今日まで、44年余りが経過し、その間幾多の修復を行ってきたが、平成9年の平和祈念象老朽度調査の結果、経年劣化による像の損傷が激しく、本格的な保存修復の必要性が生じた。
修復にあたっては、製作者のご子息、北村治禧氏のご了解を頂き、また、地元自治会及び有識者等からなる「平和祈念象修復懇話会」(委員15名)を設立して、その意見等を聴きながら、建設当時制作に携われた富永直樹氏に監修をお願いして、このたびの修復を行った。
この修復を契機に、平和への新たな決意のもと、この碑を設置する。
なお、今回の修復関係資料を後世に残す為、平和祈念象台座内に保管する。
2000年(平成12年)3月
長崎市長 伊藤 一長」
―平和祈念象の裏の碑文より(漢数字は適宜アラビア数字に書き換えています)― -
平和祈念象
北村西望の作品は、今回の旅行で行った島原城西望記念館に、1/4大の平和祈念象、平和像立像首試作、平和祈念象立像試作等を含め、たくさん展示されています。
「平和像の顔
西望は、デッサンを何十、何百を描きなおしました。苦心に苦心をかさねたすえ、やっとできあがったのは、じっと目をつぶった、きびしいようでいてだれでも抱きとめるようなやさしい表情。それはやさしい男の神様の顔でした。」
「長崎原爆が丘にそびえる平和祈念象は台座13尺(約4 m)、高さ32.4尺(約9.7 m)計14 m余り。これに消費した青銅は約6千貫(約23 t)。男体のブロンズとしては世界最大です。(中略)右手は天空に直立して原爆の恐怖心を示し、水平に広げた左手には平和を願ってます。人類普遍の信仰心を凝縮した大慈、大悲の姿でしょう。」
「西望は、高さ40尺(約13 m)の記念像を作るのに必要なアトリエの大きさを計算してみると、どうしてもお金がたりませんでした。それでやむなく32尺(約9.7 m)の像に変更したのです。後年「あと1千万円あったらなあ。あのときは本当に残念だった。」と語ったそうです。」
―以上、島原城西望記念館の説明文より(漢数字は適宜アラビア数字に書き換えています)―
北村西望の作品はいろいろな所で展示されていますが、私が今年6月に行った、蓼科湖畔にある「蓼科高原芸術の森彫刻公園」にもたくさんありました。 -
折鶴の塔(右)
「長崎北クラブ15周年記念事業
ライオンズクラブ国際協会
長崎北クラブ
京都北クラブ
昭和57年10月6日建立
建設の経過
原子爆弾犠牲者の霊を慰めるとともに、二度とこの地球上に原爆の惨禍を招くことがないよう、世界恒久平和を祈って寄せられた折鶴を塔に掲げ、その意を伝えるため。」
―長崎市 平和・原爆 公式HPより―
色鮮やかな千羽鶴が沢山捧げられています。 -
折鶴の塔(左)
「長崎北クラブ15周年記念事業
ライオンズクラブ国際協会
長崎北クラブ
京都北クラブ
昭和57年10月6日建立
建設の経過
原子爆弾犠牲者の霊を慰めるとともに、二度とこの地球上に原爆の惨禍を招くことがないよう、世界恒久平和を祈って寄せられた折鶴を塔に掲げ、その意を伝えるため。」
―長崎市 平和・原爆 公式HPより― -
西から見た左側の折鶴の塔
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西から見上げた左側の折鶴の塔上部の折鶴
悲しいほどに美しい。 -
西から見た平和祈念象とその両側の折鶴の塔
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南南東から見た折鶴の塔と平和祈念象
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平和公園の北東端にある「天主堂の見える丘」にやって来ました。
東方に浦上天主堂が見えます。 -
浦上天主堂、ズームイン。
人が一杯だ。
ヨーロッパの教会に倣って、ファサードは西向きです*)。
この後、平和公園の丘を下りて浦上天主堂に向かいます。
*) ファサードの向きに関してはhttps://4travel.jp/travelogue/11180256の付録3.で詳述しましたので、ご興味のある方はご覧ください。 -
途中で見た浦上天主堂の鐘楼。
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浦上天主堂
ラテン十字形の教会です。 -
天主堂へ行く前に、その北側にある浦上天主堂旧鐘楼がある場所にやって来ました。
右側には子供達。先生の説明を受けているようです。 -
浦上天主堂旧鐘楼
「原爆により崩れ落ちた浦上天主堂の鐘楼
爆心地より北東へ約500 mの小高い丘の上に建つこの赤レンガ造りの浦上天主堂は、原爆により崩壊したが、被災前の天主堂は浦上の地に暮らしていたカトリック信徒たちが、1895年(明治28年)から赤レンガを一枚ずつ積み上げて30年の歳月をかけて建てた、当時としては東洋一の偉容を誇る大聖堂であった*)。
1945年(昭和20年)8月9日、午前11時2分。原子爆弾のさく裂により、天主堂はほとんどが破壊され、その後かろうじて残っていた堂壁や鐘楼も崩れ落ち、一部の堂壁だけが残った。崩れ落ちた鐘楼の一つ(重量約50 t)が現在もこの地に原爆被害の跡をとどめて眠っている。
爆心地に程近い当地区は、17世紀初頭に始まるキリシタン禁令の時代からカトリック信徒のおおいところであり、原子爆弾はこのカトリック信徒の聖地にさく裂し、約12,000名の信徒のうち約8,500名が犠牲となった。
長崎市はこの地で亡くなられた方々のご冥福をお祈りし、二度とこのような惨禍が繰り返されないことをねがって、この銘板を設置する。
1987年(昭和62年)8月
長 崎 市
(原爆資料館) 」
―銘板の説明文より(カタカナの単位はアルファベットに書き換えています)―
*) 次および次の次の写真参照 -
「国指定史跡 長崎原爆遺跡
浦上天主堂旧鐘楼」
の説明板。
上の写真は
「1914年~1925年までの浦上天主堂
「神の家族400年より」」(左)
「1925年から被曝前までの浦上天主堂
米国陸軍病理学研究所資料」(中)
「1945年10月の浦上天主堂
林重男撮影」(右) -
被災前の浦上天主堂の説明板
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浦上天主堂石垣の名盤
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名盤部分の拡大写真
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浦上天主堂の前にやって来ました。
「浦上天主堂の歴史と由来
浦上は、戦国時代の末ころから、キリシタンの村であった。その後、徳川幕府のキリシタン弾圧、近くは1868年(明治元年)浦上村民総流配が決定され、名古屋以西の21藩に村上信徒3414人が流配された*)。1873年(明治6年)キリシタン弾圧は停止され信徒たちは帰村したが、なによりも欲しかったのは、「神の家」魂のよりどころである天主堂であった。
1880年(明治13年)信徒たちは旧庄屋屋敷を買収して仮天主堂とした。
1895年(明治28年)長い弾圧と流配の打撃から生活の再建も充分でなかったので、この年になってようやく天主堂の建立に着工。
主任司祭フレノ師(フランス人)が設計監修し、信徒たちは材料運搬などの労力奉仕のほか、それぞれ分に応じた献金をした。
設計は石と煉瓦造りの壮大なロマネスク様式であったが、資金難から工事はとだえがちで、1911年(明治44年)フレノ神父は過労にたおれた。後任のラゲ神父(ベルギー人)が工事を続行したが、速く完成するため屋根を木造瓦ぶきに設計変更した。
1914年(大正3年)20年の歳月を経て、赤煉瓦造りの天主堂が完成し、3月17日浦上信徒発見の記念日に、コンパス司教によって献堂式をあげた。床面積1,162 m2(352坪)東洋一の大天主堂であった。
1925年(大正14年)双塔ができて、2個の聖鐘がつるされた。着工から30年目であった。
1945年(昭和20年)8月9日原爆被災により破壊焼失した。
信徒も12,000人のうち、8,500人が爆死したと推定されている。
1959年(昭和34年)原爆被災前の天主堂をモデルにした鉄筋コンクリート造りの現在の天主堂が落成し、11月1日ローマ教皇庁公使フルステンベルグ大司教によって聖別された。床面積1,679 m2(509坪)。(設計施工 株式会社鉄川工務店)
1962年(昭和37年)1月1日大司教座聖堂(カテドラル)に指定された。
1980年(昭和55年)完成後21年経過したこの天主堂はあちこち補修の必要にせまられていた。ときあたかもローマ教皇様の訪日がきまりつつあり、有史以来初めてのこの慶事を記念して、歴史性の高い原爆被災前の天主堂のように外装は赤煉瓦造り、窓は全部ステンドグラスにするなど内装も立派に整備して10月完工した。(設計施工 株式会社大林組)
なお、浦上は現在信徒数8,500人、日本で一番、信徒数の多い小教区である。
(浦上教会について詳しい解説つきの絵ハガキが売店ピエタにあります。)」
―説明板より―
*) 以下の「信仰之礎碑」、「信徒発見150周年記念レリーフ」の説明の中の「浦上四番崩れ」参照 -
左(北)側の植え込みに何体も石像と千羽鶴があります。
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聖人の石造です。
どれも熱線で黒く焼け焦げ、鼻や頭部を欠いたものもあり、その姿は痛々しい。 -
拷問石(右(南))側植え込みの中)
「明治4年6月中旬、長崎浦上切支丹教徒260名は、博多の獄舎より転送せられて萩に来り、堀内岩国屋敷に収容された。
萩での食事等の待遇は博多より余程良かったが、それでも明治5年4月の帰国までには、相当の志望者(28人)を出している。其の間、信者は獄使、神官等より改宗の説諭を受けたことは勿論であるが、中々転向しないので、遂には非常手段として、鉄砲責、寒晒などと呼ばれる拷問方法が用いられた。その時、信者が座らされた石に「拷問石」と呼ばれるものがあり、それには切支丹の尊敬名誉の表章である十字架が刻まれてある。石は花崗岩の庭の飛石であった。
此の「拷問石」は牢番長であった寺本源七氏が、大正元年頃堀内から持ち帰り、自宅(萩市春若町)の庭に据え置かれ、霊を慰めたとされる。
その後、子孫英吉氏が保存されていた。(萩の史実より抜粋)
萩教会の信徒で郷土史家・宮木忠雄氏が大変苦労されて寺本氏から譲渡を受け、萩教会に保存されていたものである。
2008年7月10日、宮木氏が「浦上に置いたが一番有意義である。」と判断されて寄贈され、ここ浦上天主堂に安置された。
なお、「拷問石」の底面には十字架が刻まれ、傍らには「經石」が備えてあった。寺本源七氏が堀内から持ち帰った後、供養の意味で拷問石の下に埋め込んだものだろう。
「拷問石」の上に太めの茎で編んだ葦簀を敷き、全員がその上に座らされて拷問、説諭を受けたが、その中でも最も有名な拷問が「寒ざらしのツル」の話である。22歳のツルは裸にされて18日間(昼間)の拷問を受け、一週間目には大雪と成り、雪の中に晒され、18日目に雪の中に倒れた。それでも彼女の強い信仰心を改心させることはできなかった。(旅の話)
此の「拷問石」の入手については平野勇師の「殉教者の霊性」を如何に子孫が受け継ぐかの司牧的熱意によって実現したものである。
2008年11月23日
設置者 カトリック浦上教会」
―説明板より(漢数字はアラビア数字に書き換えています)― -
信仰之礎碑(総流配50周年記念碑、右(南))側植え込みの中)
幕末から明治初期にかけてのキリシタンの大量弾圧・検挙事件を「崩れ」と呼び、いくつかの地域で多数回発生しています。浦上で発生した4回目の崩れは「浦上四番崩れ」と呼ばれ、1868年から1870年にかけて、浦上村のほぼ全村民約3400名が津和野、萩、福山等への流罪となり、流刑先で残虐な拷問を受けます。1873年(明治6年)になると、明治政府は欧米諸国からの強い抗議によってキリスト教禁止政策を破棄し、流罪のキリシタンを釈放しました。この間約660名が殉教しましたが、生き残ったキリシタンは晴れて浦上に帰ることができました。彼らはこの流罪の苦難を「旅」呼んでいます。
この碑は公教復活50年を記念して1920年(大正9年)に建立されたものです。
「浦上は素と眇たる一寒村に過ぎず而も長崎及び浦上の谷は我國に於ける聖教の發祥地として恰もユダの地に於けるイエルサレム及ベトレヘルムの其れの如く聖會史上に特筆大書せらる蓋し聖教の一度長崎に伝へらるゝや浦上は之に隣接するの故を以て最も聖化に浴するに到りし也當時其の教勢の果して如何なりしか吾人は未だ之れを詳にする能はずと雖も既に聖ラザル癩病院の如きが設けられありし事実に鑑み禁教後250有余年の久しきに亘り有らゆる窘逐の 襛にありて不屈不撓能く其の信念を守持して失はざりし天下靚覩の異例に顧み其の由来する所の極めて深かりしは因より疑を容るべくもあらす思ふに後の二十六聖者等が殉教の途次其 の死別を浦上に告げられたる豈偶然ならんや実に聖教の種子は茲に秘められ永久にそが不朽の生命を傅ふべく厳冬烈霜の下方に萌芽の期を俟ちつつありし也果然慶応明治の交に迨び真理の光明は鎖國禁教の幕を破りて吾が浦上の一角より其の新なる輝きを發し地下に埋りたる聖教の種子は乍ち勃如として芳芽生々の観を呈するに至れり吾人は今父祖の功績を永く傅へて子孫の蔵となすべく聊か之れを碑に刻みて後世に遺さんとす若し夫れ巨細の事蹟を詳にするには碑面の容す限りにあらず僅かに之が概容を録して以て後人の記憶に便にすと云爾
大正9年11月 浦上天主公教信徒誌す」
―台座に刻まれた碑文より(漢数字は適宜アラビア数字に書き換えています)― -
さて、いよいよ天主堂に入ります。
内部は撮影禁止でしたので、写真はありません。 -
教皇ヨハネ・パウロ二世の像(入口右(南)側)
「私は、光栄と悲劇の跡をとどめている歴史の町、ここ長崎を訪れ、栄光を勝ち取り悲劇を乗り越えた人々の子孫であり、後継者である皆さんにお話しできることを神に感謝します。私は大きな愛情と、この地方教会の素晴らしいカトリックの伝統に対する深い尊敬の念をもって、皆さんにご挨拶の言葉をのべます。
(25日の説教の冒頭のお言葉)
教皇は浦上の司教座聖堂に於いて1981年2月25日司祭叙階のミサを司式され、翌26日に修道女達にお話をなされた。」
―台座に刻まれた文章より(漢数字はアラビア数字に書き換えています)― -
信徒発見150周年記念レリーフ(入口左(北)側)
1865年(元治2年)杉本ゆりがプチジャン神父に進行を告白しました。この信徒発見から150周年を記念して、2015年(平成27年)に建立されました。
「日本の信徒発見150周年記念「旅」殉教への門出
浦上とキリスト教
キリスト教は、1549年8月15日(天文18年7月22日)鹿児島に上陸したイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエル(スペイン人)によって、日本にもたらされました。
翌8月、聖師フランシスコ・ザビエルは鹿児島を離れ、途中平戸、博多、山口に立ち寄りキリスト教を宣べ伝え、苦難の末1551年1月中旬、日本の帝都京都へ上られます。こうして日本におけるキリスト教宣教が始まりました。
浦上村(有馬領)では、「宣教師ルイス・デ・アルメイダが、1567年(永禄10年)長崎の町(大村領)に宣教を開始した」と記録にあることから、町に隣接する浦上村にもその頃からキリスト教が伝えられ、村民の間に広まっていったと推察されます。
1584年(天正12年)、浦上の領主キリシタン大名有馬晴信は、沖田畷(おきたなわて)の戦いで、永年の宿敵佐賀の龍造寺隆信に勝利したことを感謝し、浦上村をイエズス会に寄進し知行地としました。これによって浦上村は、ローマにその名が知られるようになり、名実ともにキリシタンの村となりました。
信徒発見(浦上切支丹とプチジャン神父)
1853年7月14日(嘉永6年6月3日)4隻の艦船を作ったアメリカのマーシュ・ペリーの来航によって、日本は鎖国の夢を破られました。1858年10月9日(安政5年9月3日)フランスの特派大使グロ男爵は、日仏通商条約と貿易章程(細則)の調印を自国に有利となるよう日本側に迫り、その第4条に「居留地内にフランス人のための礼拝堂建設を認める」条文が規定されました。
1865年2月19日(元治2年1月24日)大浦天主堂献堂。天主堂とは中国風の呼び方です。当時の長崎の人々はその荘厳さに目をみはりフランス寺と称して連日見物に押しかけました。見物人の中には、浦上の農民たちもまじっていました。1865年3月17日(元治2年2月20日)のことです。天主堂の中で祈っていたプチジャン神父に、イザベリナゆり(杉本ゆり)はそっと近づき「ワレラノムネ アナタノムネトオナジ」「サンタ・マリアノコゾウハドコ?」とささやきました。この言葉が歴史を作りました。七世代250年に及ぶ浦上キリシタンの潜伏時代が終わり、宣教師の指導のもとに入りました。それは世界を驚かせ、「日本のキリシタンの復活」と称賛されています。
浦上四番崩れ『旅(1868~1873)』
信徒発見からおよそ2年後の1867年4月5日(慶応3年3月1日)本原郷の茂吉が死亡。この葬儀を境に浦上キリシタンは自葬を強行し、やがて、ほとんどの村民が檀那寺との関係破棄、寺請け制度の拒否を伝える書付を庄屋に出しました。これは徳川幕府が歴代励行して来た「祖法」に対する爆弾的なレジスタンスで、大きな問題となりました。
自葬事件未解決のまま、大政奉還を経て明治新政府誕生。日本は文明開化の新しい時代を迎えたものの、新政府が浦上キリシタンに下した処置は、神道国家主義政策のもと、「全村民3,394名を名古屋以西10万石以上の大名、21藩22か所へ流配し棄教を強いる」という世界史上、類のない厳しいものでした。これが今日まで綿々と語り継がれている「浦上四番崩れ」で、私達の先祖はこれを『旅』と呼びました。
一村総流罪といううその『旅』は、近代日本の歴史に特筆されるべき残酷物語ではありますが、しかし『旅』に出る先祖たちの心は明るかったのです。神と信仰に背くことを人倫の極悪と感じ、自分の信念と神への忠実さを貫くために殉教の『旅』に出ることは、先祖たちに残された、ただ一つの真の幸福への活路であったと言えましょう。」
―台座の説明文より― -
浦上天主堂内を見学して、長崎原爆資料館の西側にやって来ました。
前を歩く赤い帽子を被った子供達。どこに行っても子供達を見ます。平和教育が徹底しているのですね。 -
平和の母子像(通路脇)
1987年(昭和62年)8月1日設置
作者:金城 実(1939年-、沖縄県浜比嘉島に生まれ)
「男たちが戦場に向かったとき、女たちもまた勝利を祈った。しかし、広大な大陸や、はるかな海の島々では、数知れない人々の血が流されていった。そして遂に1945年、沖縄での惨劇についで、8月6日広島、9日長崎への非道な原子爆弾攻撃に至った。
ああ、あの閃光の下で、幾万もの男女、無数の母と子が灼かれ、ひき裂かれ息絶えた。
あれから四十余年、今第二の核戦争へとシグナルは点滅し、地球は破壊の渕にある。
戦争も核兵器も許してはならない。命あるすべてのものが生きる、この緑の大地を、地球を守ろう。
それぞれの「あの日」を生きつづける女たちの、たぎる思いをひとつにあわせ、再びあの惨禍を繰り返さぬ誓いをこめて、ここにこの像を建てる。
1987年8月1日
崎平和の母子像を建てる会 」
―像脇の文章より(漢数字は適宜アラビア数字に書き換えています)― -
原爆資料館の中に入りました。
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長崎市付近のジオラマに天井からのプロジェクションマッピングで、原爆投下直後から火球、熱線、爆風、放射線が面的に広がっていく様子を分かり易く表示しています。
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投下原爆(ファットマン)の原寸模型
その他目を覆いたくなるような写真や展示物がたくさんありますが、ここでの紹介は止めておきます。
ご自分の目で直接見るのが一番いいと私は思います。 -
17:30、今日の宿泊ホテル:稲佐山観光ホテルの部屋に入りました。
何も無かったように、窓一杯に長崎の街が広がっている。
ホッとしますね。
右は長崎湾、左は長崎駅の方向です。 -
夕暮の長崎港
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夕暮の長崎(東(長崎駅)方向)
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夕暮の長崎(北東(平和公園)方向)
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20:30、夕食を済ませて部屋に戻って来ました。
窓一杯に広がる夜景が綺麗ですねえ。 -
長崎の夜景
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長崎の夜景
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長崎の夜景
あ~あ~、長崎~♪、長崎の夜はむらさき~♪
瀬川瑛子か。むらさきじゃないねえ。
この旅はまだ続きます。
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この旅行記へのコメント (4)
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- kiju-jiさん 2021/06/23 15:22:05
- bunbunさん。初めましてkiju-jiと云います。
- 私は3歳2ケ月の時、長崎市の隣村の長与町で被爆しました。11:02後の約20秒間は忘れることはできません。背中が異様に熱く感じられ、振り向くと長崎の方向でピカッと光っていました。母親がとっさの判断で少し離れた大きな樹の陰に・・・。そして、爆風がきて大きな樹の民家のガラス戸のガラスが割れて吹き飛びました。今は長与町となり、開発が進み大きな樹があった場所も民家も無くなっています。
平和公園、原爆資料館の詳しい説明、私も知らなかったことも・・・。
ファットマンはプルトニウムを核爆発材料に、リトルボーイはウラニウムを核爆発材料に使用。ファットマンの方がリトルボーイより1.5倍位威力があったと云われています。広島は目視目標から僅か200m外れた、広島市の大田川の河口のデルタの中心部に投下され被害が波紋が広がるように・・・、
長崎市は、曇っていて雲の隙間からやっと兵器工場が見えたので投下したと、ファットマンの機長が回想して・・・。市の北部の民家などが少ない所だったとの東西に山があり、広島に比べ被害が少なかった。
私の原爆投下に対する思いを、ドイツの魅力13日間旅行記のポツダム篇に、書いています。ご興味がおありでしたら、読んでいただければ幸いです・・・。
ではまた・・・。
- bunbunさん からの返信 2021/06/24 17:15:11
- RE: bunbunさん。初めましてkiju-jiと云います。
- kiju-jiさん、こんにちは。
またのご訪問、私の拙い旅行記に投票ありがとうございます。
原爆の被爆体験、貴重な情報ありがとうございました。勉強になります。
日本人なら1回は見なくてはならいという思いから、平和公園と原爆資料館を訪れました。原爆の惨状の写真、絵画や碑文等は、見ていて、読んでいてこみ上げてくるものがありました。学校で勉強はしていましたが、聞くのと見るのでは大違いです。kiju-jiさんは直接被爆という悲惨な体験をされたんですね。資料を見るのと、被爆体験ではまた格段の差があると思います。こういった歴史は絶対風化させてはならないと思います。kiju-jiさんもそのうちのお一人と察しますが、原水爆禁止運動や平和運動をされている方々には頭が下がります。
ドイツはしばらく住んでいたこともあり、格別な思いがあります。ポツダム篇の旅行記、楽しみにしております。
bunbun
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- ことりsweetさん 2019/03/02 12:57:42
- 長崎旅♪
- bunbunさん、こんにちは。
私も長崎旅にイイネ、とフォローをありがとうございました。
まだ長崎から帰って一週間ですが
気持ちがどっぷりアチラに持っていかれています。
今回長崎の平和記念公園も行きましたが
修復中でホロをかぶっていたので
像の全体を見られてよかったです。(実は子供の頃に見たことはあります)
浦上天主堂は会堂に入るぐらいしかしなかったのですが
原爆で崩れ落ちた鐘楼もあったのはbunbunさんの記事で
知りました。
ホテルのお部屋からのふた方向からの夜景
きれいですね!
また寄らせていただきますね。
ことりsweet
- bunbunさん からの返信 2019/03/03 11:29:05
- RE: 長崎旅♪
- ことりsweetさん、こんにちは。
私の拙い旅行記にいつも投票ありがとうございます。
「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が世界文化遺産に登録されたということで、初めて長崎県に行って来ました。2泊3日の短期間でしたので、行けたのは長崎市中心部周辺と天草半島だけで、ことりsweetさんが行かれている五島列島には行けませんでした。また次回の楽しみです。
長崎というとまず頭に浮かぶのは原爆で、日本人として一度は訪問しなければいけないと思い、平和記念公園と原爆資料館行きました。やはりネットや本で見るのと直接見るのとでは圧倒的な違いあり、今回の長崎旅行では最も印象に残りました。平和記念公園も原爆資料館も原爆で崩れ落ちた浦上天主堂の鐘楼も、先生に引率された子供達がたくさん来ており、長崎県の平和教育には感心させられました。昨年4月には沖縄に行き、南の島の美しい景色を堪能してきましたが、やはり一番印象に残ったのはひめゆりの塔と平和記念公園でした。人間と言うものはなんてこうも愚かなんでしょうか。私達は歴史からしっかりと学んでいかなければならないと思っております。
平和記念象の作者が北村西望であることは、昨年6月蓼科に行ったときに初めてしりました。蓼科湖畔にある「蓼科高原芸術の森彫刻公園」に北村西望の作品がたくさんあり、一緒に行った高校時代の友人が、北村西望は長崎の平和記念象の作者であると教えてくれました。
潜伏キリシタンについてはあまり知識がなかったのですが、今回長崎を訪問し、彼らの発見が如何に世界を驚かせた重大事であったのか、初めて知りました。世界文化遺産登録も納得です。
私達は旅行に行くとき、旅行先が決まりますと、妻が口コミを読みまくって、食事、部屋とそこからの眺望、浴室等文句なしの部屋を見つけます。稲佐山観光ホテルの部屋からの夜景には感激しました。
瀬川瑛子の歌に「長崎の夜はむらさき」がありますが、私にはとても「むらさき」には見えませんでしたし、ことりsweetさんのお写真を拝見しても「むらさき」には見えません。ネットで画像検索すると、「むらさき」の夜景がたくさん出てきますが、本当に「むらさき」に見えるときがあるのでしょうか。
これからもどうぞよろしくお願いいたします。
bunbun
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