2019/05/18 - 2019/06/02
10位(同エリア41件中)
さいたまさん
ガダルカナルにおける戦いの跡の一部を辿ってみました。地形が厳しいとの印象が一番でした。
1942年8月7日、米国軍は、日本の大本営の予想よりも1年早く、反攻を開始しました。
その手始めの第一段として、日本海軍が飛行場の建設を完了したしたガダルカナル島の占領が目標でした。
その後、第二段~第三段として、島嶼沿いにニューギニアを攻略することを目標としたのです。
ガダルカナルの飛行場を奪われた日本海軍は、陸軍部隊の派遣を要請し、
飛行場奪回の作戦を開始したのです。
しかし、日本軍は、ラバウルの航空基地から約1000km離れていたため制空権を確保できず、戦闘部隊の推進はもとより物資補給もままならず、情報面の準備不足も戦況に大きく影響するばかりか、補給面でも、ガダルカナル作戦の遂行に苦しみました。
その結果、日本軍は、ガダルカナルの戦いにおいて、マラリアの蔓延と糧食不足により、多くの戦病死者と餓死者を出すことになったのです。
今回、ガダルカナルの戦史資料を基に、関係する一部の戦跡を廻りましたが、厳しい地形に阻まれ、ほんの一部の部分しか見ることができませんでした。
志を果たせず、南海の孤島に散華した英霊の気持ちに添えず、残念な思いが残りました。
ガダルカナルの地において無念の思いに苛まれた将兵が、心安き眠りにつかれることを念じています。
写真は、歩兵第124連隊等の部隊が全滅した激戦地アウステン山から見た稜線とツラギの水上機基地の方向の海岸です。
- 旅行の満足度
- 3.5
- 観光
- 3.5
- 同行者
- その他
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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-
ガダルカナルの激戦は、ガダルカナル島のほぼ中央、北川海岸にある飛行場を焦点とする攻防戦でした。
日本軍は、ルンガ飛行場と呼び、米軍は、海兵隊の飛行隊長ヘンダーソン少佐の名前をとって、ヘンダーソン飛行場と呼びました。
写真は、現在の名称のホニアラ国際空港のターミナルビル北側に置かれた記念碑の銘板です。 -
現在のホニアラ国際空港のターミナルビル北側の様子です。
ソロモン諸島ガダルカナルの表玄関です。
ガダルカナルの戦いは、この飛行場の争奪戦が、焦点でした。 -
ホニアラ国際空港のターミナルビル南側の到着エプロンの様子です。
左側に、入国管理カウンターがあります。 -
ルンガ飛行場の周辺は、平地部ですが、約2km程度進むと、丘陵部となり、さらに進むと山岳地になります。
至る所に密林と凹地が存在しています。
日本軍は、米軍の航空火力及び陸上火力を避けるため、山岳地帯の密林内を大きく迂回し、飛行場まで近接しました。 -
米軍は、日本軍の予想よりも、約1年早く態勢を整え、日本に対して、反攻の行動を開始したのです。
米軍は、日本海軍の飛行場設営隊を急襲し、ヘンダーソン飛行場を確保しました。
日本軍は、この飛行場を奪回すべく、一木支隊、川口支隊、そして第2師団を、逐次に戦闘に加入させました。 -
ホニアラ国際空港(日本名ルンガ飛行場)から南西方向を見ています。
飛行場の南東にルンガ川があり、さらに南東奥にガダルカナル島における激戦地のアウステン山に連なる丘陵地帯がが見えます。 -
ホニアラ国際空港(日本名ルンガ飛行場)から南西方向を見ています。
日本軍の主力部隊である第2師団等は、南西方向の密林内を、飛行場の南側まで、大きく迂回し、飛行場に近接して来たのです。 -
現在のホニアラ国際空港の受付カウンターです。
国際線の搭乗受付中です。 -
現在のホニアラ国際空港の受付カウンターです。
複数の国際線の離発着があります。
ソロモン諸島の表玄関です。 -
陸軍参謀本部以下、日本陸軍は、ガダルカナルに関して、ほとんど情報をもっていませんでした。
当然、地図も保有していませんでした。
兵要地誌としてまとめ出したのは、一木支隊及び川口支隊の敗戦により、地図の必要性のため、急遽、兵要地誌と地図を作成しました。 -
ガダルカナルの兵要地誌ですが、第2師団等の攻撃に寄与したか否かは、判りません。
地図も、間に合わなかったようです。
情報に対する認識が甘かったのでしょう。 -
飛行場を中心としたガダルカナル島の北側海岸周辺です。
南西部に山岳地が存在しています。
一木支隊と川口支隊の主力は、東側から飛行場を目指し、第2師団等は、西側から飛行場を攻撃しました。 -
ガダルカナル島のホニアラの市街と市街地の中央北部につき出しているクルツ岬です。
クルツ岬の周辺海域は、日本軍や米軍の艦艇や戦闘機等が撃沈等され、海底に沈んでいることから、アイアン・ボトム・サウンド(鉄底海峡)と呼ばれています。 -
ガダルカナルのルンガ飛行場(ヘンダーソン飛行場)の上空から見た飛行場の東側の地形です。
平野部が存在する中、密林が発達しています。
日本軍は、米軍の航空機を避け、夜間、密林内を行軍しました。 -
ガダルカナル島の戦いの際には、住民は少なく、ソロモン諸島の首都機能は、ツラギにありました。
戦後、ガダルカナル島には、多くの住民が入り、首都もツラギから、ガダルカナル島のホニアラに移転してきました。
現在の住宅地の状況です。 -
飛行場は、ホニアラの市街地の東側にあります。
かつては、さらに東側にも、予備の飛行場が建設されていました。
現在は、予備の飛行場は、ありません。 -
飛行場の東側から、飛行場を見ています。
飛行場は、海岸の傍に在ります。 -
飛行場の西側の丘陵地帯です。
白色に見えるのは、人家の屋根です。
南側の丘陵地帯と山岳部には、あまり人家は見られませんが、海岸部には、人家が多く見られます。
戦争当時には、住民は少なかったそうです。 -
第2師団長丸山中将が指揮する第2師団が、山岳地帯に迂回した付近の地形です。
有名な丸山道は、この周辺から山岳地帯に入って行きます。
現在は、南側の丘陵地帯と山岳部に、あまり人家は見られませんが、海岸部には、人家が多く見られます。 -
飛行場の東側には、ルンガ川が流れています。
写真左側に飛行機の右翼端が見えますが、その翼端の下側に飛行場の西端があります。
ルンガ川の両側では、日米両軍の激闘が繰り広げられました。 -
ルンガ川の流域の状況です。
飛行場は、写真の下側にあります。
米軍の陣地は、写真の右側の茶・緑色の丘陵部の線にありました。 -
飛行場の西端です。
平地部の南側に丘陵部が見えます。
日本軍が南側の山岳地から、米軍の陣地に突入してきました。
残念ながら、飛行場までは、たどり着けなかったのです。
激戦地であったムカデ高地一帯です。 -
1942年8月7日、米軍が日本海軍の飛行場設営隊を急襲しました。
青緑色の点線が、米軍の攻撃経路です。
赤色は、日本海軍設営隊の位置を表しています。 -
米軍の飛行場奪取の報告を受けた日本の大本営は、ミッドウェー上陸のためグァム島周辺で待機していた一木支隊を、ガダルカナルに投入することに決しました。
一木支隊は、隠密裏にガダルカナル島東部のタイボ岬に上陸しました。
上陸後、昼間を避け、夜間のみ西進し、飛行場攻撃のため移動しました。 -
海岸沿いに前進した一木支隊は、米軍の情報の優越及び火力の優越の前に、大損害を受けました。
海岸沿いで、兵力の再編成中に、米軍の南側から海岸方向への逆襲により、ほとんどの将兵が、亡くなりました。
日本軍の連戦連勝の流れが、大きく変わりした。 -
一木支隊の飛行場奪還の戦いで、大損害を受けた後、川口支隊が、飛行場奪回のため投入されました。
川口支隊は、飛行場の北側に迂回し、山岳部からの攻撃を企図しました。 -
米軍の上陸から、川口支隊の攻撃、第2師団の攻撃等を記載した米軍の資料です。
米軍の上陸に関する状況について、左上に記載があります。
下半分は、川口支隊の攻撃と第2師団の攻撃の資料です。 -
飛行場周辺の平地部の南側には、丘陵地帯と山岳部があります。
川口支隊等の日本軍は、圧倒的な米軍火力を避けるため、山岳地を利用しました。
就中、ジャングル地帯を利用し、飛行場への接近を図りました。 -
当初は、海岸沿いに前進しましたが、途中から山岳部に入りました。
地図が無かったせいか、途中、少し海岸側に戻りましたが、また山の中に入りました。
地図というものは、自分の場所や、目標地点を把握するために、大事なものです。 -
川口支隊の移動経路です。
米軍の資料です。
山岳部の方から、飛行場の南側にある丘陵部を攻撃する予定でした。 -
川口支隊の飛行場への攻撃経路を示しています。
米軍の資料です。
南側の丘陵地帯からの攻撃で、3種類の資料が、同じ内容の記録になっています。
結果的に、川口支隊の攻撃も失敗しました。 -
陸軍参謀本部は、一木支隊と川口支隊の飛行場奪回の攻撃が失敗したことを踏まえ、第2師団と第38師団をガダルカナルの戦いに参加させました。
第2師団等は、ガダルカナル島の西側から、飛行場を攻撃することとし、山岳部を大きく迂回させることとしました。
丸山道とは、第2師団長丸山政男中将の名前からとっています。 -
丸山道は、急峻な山岳地帯の密林を切り開きつつ、進む細く厳しい徒歩道です。
車両は、起伏が厳しいため、使用できません。
なんとか揚陸された大砲や戦車も、丸山道では、運行できませんでした。 -
現地の人は、ここが丸山道だと言っていました。
道路と言えないことは無いかもしれませんが、獣道の類でしょう。
戦後70年が経っていますので、当時のことは、解りませんが。 -
密林の中で、丸山道を切り開きつつ、前進することには、多大な労力を要しました。
地図が無いため、磁石や天測を頼りに、獣道的な通路を造りました。
丸山道は、起伏が厳しく、歩兵でさえ移動が困難でした。 -
丸山道とするならば、まさに密林の中に道路を造ることは、大変なことだったと思います。
鉈が、主たる手段だったでしょうから。
意外と、つるや下草が、厄介です。 -
第2師団の丸山道を経由しての迂回行動に連携して、住吉支隊による海岸沿いの側面攻撃も実施されましたが、局面を変えることはできませんでした。
第2師団等の丸山道を利用した飛行場への攻撃も、成功しませんでした。 -
起伏の多い山岳地帯です。
地図と磁石が無いと迷ってしまいます。
地図の無かった日本軍は、苦労したと思われます。 -
周りの地形が見えない密林の中です。
地図も無ければ、自分の位置も判りません。
まして敵陣の様子など、全く判らないまま、攻撃することは、大変です。 -
米軍の資料です。
東側の赤い矢印が、日本軍の主力部隊です。
飛行場を南側から攻撃する計画でした。 -
丸山道は、写真中央の高地の奥側を迂回しています。
密林内の迂回は、将兵の疲労を激しくしたようです。
さらに、攻撃失敗後の撤退行動では、多くの将兵が飢えと疲労で斃れました。 -
飛行場の南西側の丘陵地帯の地形です。
目標の飛行場が近くなると、開闊した部分が増えてきます。
陵線と凹地を経ているため、起伏は、またまだ厳しいものがあります。 -
第2師団は、右翼隊を川口少将が、左翼隊を那須少将が指揮し、総攻撃を実施しました。
図で、歩兵第29連隊が右翼隊に編成されていますが、左翼隊の誤りだと思われます。(根拠:ガダルカナル戦記、三矢猶吉著)
併せて、住吉少将が、歩兵第124連隊長岡大佐を加えて、海岸正面から攻撃しました。
火力に優越した米軍は、これらを撃退し、日本軍の攻撃は、成功しませんでした。 -
米軍の態勢は、ヘンダーソン飛行場の北側に、第1海兵師団長バンデクリフトの指揮下で、防御陣地を構築していました。
多数の聴音器を張り巡らし、日本軍の夜襲の兆候を早期に察知したことが、勝敗に大きく影響したものと考えられます。 -
激戦地であったアウステン山から、海岸方向を見ています。
東北側の方向の海岸との中間点付近に、米海兵隊の砲兵陣地があり、アウステン山は、海兵隊の大砲火力の弾巣になってしまいました。 -
日本軍は、アウステン山の洞窟等の地形を利用し、頑強な防御戦闘を展開しました。
日本軍との近接戦闘による損害を避けるため、米軍は、航空火力及び陸上火力により日本軍の漸減を図る戦法を採用しています。 -
アウステン山及びその周辺山岳地帯において防御陣地を固守し、奮闘してい歩兵第124連隊、第228連隊等は、逐次、圧迫され、西側に追いやられていました。
図の状況は、1942年の12月下旬の状況です。
12月31日、大本営にて、ガダルカナル島からの撤退が決定されましたが、現地では、この種情報は、全く伝わっていませんでした。 -
米海兵隊は、正面の丘陵の方向から、西側への方向へ圧迫を加えてきました。
砲兵火力を中心とする圧迫は、地形を変えてしまうまでの激しさだったそうです。 -
アウステン山の西側の丘陵地帯です。
日本軍は、逐次、米軍の圧迫により西側に後退して行きます。
丘陵地帯の飛行場側が、赤く、変わっている感じがします。
激しい砲兵火力により、地表面植生及び土質が変わったとされています。 -
飛行機から見たガダルカナル島の丘陵地帯の様子です。
南側に密林が密生している地域があることが判ります。
丸山道は、南側の密林の中を、南側に延びて行ったようです。
写真中央の道路は、丸山道ではありません。森林開発用の道路です。 -
アウステン山から海岸へ延びた稜線は、ホラニアの幹線道路まで至っています。
現在は、幹線道路の交差点の付近の高台に、教会が建てらています。 -
ギフ高地の東側に位置する高地です。
ウマ高地とも呼ばれていたようですが、この周辺の地名は、部隊ごとに、呼び方が異なっていたようです。
いずれにしても、起伏のある厳しい地形であることには変わりがありません。 -
アウステン山の西側からアウステン山の方向を見ています。
アウステン山のギフ高地やシーホース高地、ギャロッピングホース等の高地が一連に続いています。
戦後、木材切り出しが盛んになり、丸山道とは無関係に道路が、出来てきています。 -
丸山道の東側の丘陵地帯です。
開発が進み、立木が切り倒され、焼き畑により密林の姿が変わってきているとのことです。
ガダルカナル島で、あちこちの密林が焼かれています。
立木や下草が焼かれ、密林が、畑等に変わっています。
温暖化と山岳地帯や丘陵地帯の開発による保水機能の喪失が、懸念されています。 -
東南アジアでもオセアニアでも、焼き畑農業が残っています。
密林や草地が焼かれ、植生が変わっています。
ガダルカナルの戦いで、散華された英霊の遺骨が、流された土砂で埋められていきます。
戦後70年の変化なのかもしれません。 -
ルンガ飛行場のすぐ西側を流れるルンガ川です。
この川の上流では、日米両軍による激闘が繰り返されました。
平和な時代の現在では、想像もつかない歴史の一局面です。 -
歩兵第4連隊、歩兵第16連隊、独立速射砲第二大隊等が、この付近での攻防に参加していた記録があります。
11月初旬の最終段階には、独立速射砲第二大隊の対戦車戦闘の記録が残っています。
現在のキタノ・メンダナ・ホテルの付近です。 -
日本軍は、約半年の間、飛行場の奪回に失敗しました。
弾薬、食糧等の補給が続かず、餓死とマラリアによる戦病死者が続出しました。
大本営は、1942年12月31日、ガダルカナル撤退を決定しました。
ガダルカナルの西端のエスペランス岬から3次にわたり、撤退が実施されました。 -
ソロモン諸島のガダルカナル島の北西海岸です。
撤退する将兵が、逐次、集まり、海軍艦艇が来る時期を待っていました。
密林が、日本軍の行動を守ってくれました。 -
日本軍は、ソロモン諸島のガダルカナル島の海岸から、ブーゲンビル島に撤退しました。
総合的な国力に劣る日本は、勝機を短期決戦に求めましたが、日本軍は、ガダルカナル島で、意に反して、消耗戦に引きずり込まれた結果になりました。
日本は、ガダルカナルの敗戦から、引き続き、各地で不利な戦いを続けるになりました。
約半年にわたるガダルカナルの戦いは、日本軍の転換点となったのです。
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