2019/05/10 - 2019/05/10
648位(同エリア1038件中)
belleduneさん
- belleduneさんTOP
- 旅行記839冊
- クチコミ134件
- Q&A回答177件
- 1,382,543アクセス
- フォロワー62人
丸ノ内線新大塚駅から歩いて、3分ほどのところに鈴木信太郎記念館が2018年に開館しました。日本のフランス文学研究の草分けである鈴木東大名誉教授は、現地に住宅を建て、没後、長男である鈴木成分建築計画学教授が2010年まで住んでいました。成分氏は戦後の復興期に計画された公営住宅標準設計「51C」の設計に参加されたそうです。その後も住居研究を続け、『建築計画』を著しておられます。昭和3年に建てられた鉄筋コンクリート造の書斎棟と昭和21年に建築制限下に造られた茶の間・ホール棟と明治時代に建てられた信太郎の実家の一部を移築した座敷棟があります。平成22年に急逝した長男成分氏の弟、フランス文学者・鈴木道彦氏が豊島区へ寄贈し、開館の運びとなったそうです。
記念館の開館迄に、平成29年(2017)1月から約1年掛けて旧鈴木家住宅の保存改修工事を行いました。可能な限り、伝統的な工法で修理を行ったという。
慎太郎氏は、総領息子ということで、父の政次郎氏は厳格な教育方針の元に、育てられました。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 交通手段
- 私鉄 徒歩
PR
-
地下鉄茗荷谷駅から2、3分のところにありました。坂道になっている路地を進むと右側にかなり傾斜のある宅地に建っていました。記念館の更に上に見える高層住宅はありますから、この辺りはずっと傾斜地になっているのですね。次男・鈴木道彦氏の『フランス文学者の誕生 マラルメへの旅』の中に、当時の写真等がありましたが、この大谷石の塀はありました。今見えている書斎棟だけが空襲による火災で焼け残った写真もありました。この辺りの木造住宅は全て焼けてしまった中に、コンクリート造の書斎棟がぽつんと写っている光景は遣瀬ないものです。暫く書斎で暮らしていたそうです。井戸を当初から使っていたので、水には困らなかったそうで、他の人に比べると随分恵まれた生活ができたと言っています。
-
十段ほどの大谷石の階段を上ると、記念館の3棟が見えてきます。
左手が、1948年に埼玉・春日部市の本家から一部を移築した明治の木造平屋建で、下見板張となっています。 -
まず、茶の間・ホール棟が入り口になっています。3棟が其々時代が異なり、建材も異なるので面白い建物です。玄関左手が茶の間です。
-
右手に鉄筋コンクリート造の書斎棟があります。意匠のある外壁や自身がデザインされたステンドグラスが、マラルメの研究者・鈴木信太郎に相応わしいものとなっています。書斎室で5枚のステンドグラスを外光で浮かび上がる光景は実際に見る価値があります。
-
門から玄関までの敷石はいつのものか、分かりませんが、遊びかな。この茶の間・ホール棟は、栗谷鶉二氏の設計で、昭和21年(1946)に建てられましたが、当時建築制限があり、15坪(約50平方m)以下となっていました。そのため、この建築面積は14坪ちょっと(約47平方m)に抑えられています。増築された茶の間はは家族用、ホールは応接間として使用されていました。この時期に建てられたものは、殆どが建て替えられているため、極めて貴重な建物となっています。
-
茶の間に展示してあった全体模型
茶の間は掘り炬燵があったので、暫しビデオを見ながら、休憩していたら、他の見学者が見えて、同じく休憩されていたので、茶の間内部の写真はありません。 -
この平面図は、現地での最初の建築で、現在のものとは異なっていますが、書斎の2階に、書斎が建てられた昭和3年(1928)の3年後、やはり栗谷鶉二氏が設計した陸屋根の遊び部屋が増築されました。ピンポン台を置いて楽しんでいたようです。また、陸屋根は雨漏りや結露がひどかったそうで、26坪の広い空間は子供達にとっては格好の遊び場だったでしょうね。隣の蔵の2階は、ここより10mほど高かっため、2階の図面では階段が付いています。その2階は畳敷きでちゃんとしていたらしい。
-
茶の間棟と移築した座敷棟の間の内玄関の内側。懐かしいような昔の玄関図です。一部をここへ移築する前の図面では、現在の入り口になっている玄関の所にありました。
-
玄関の照明器具
-
-
座敷棟の縁側。突き当りが洗面室。
座敷棟は、埼玉県北葛飾郡島富多村吉妻(現・春日部市)に明治20年代に建てられた実家の書斎部分だけを昭和23年に移築しました。
縁側部分では雨漏りで損傷していた柱を切除して、金輪継ぎで新規材と継いで補修し、また土台部分の取り替えは腰掛け鎌継ぎを用いて、既存部分と新規材を継いであります。 -
8畳の書院に6畳の次の間が続いています。書院の床の間の床は、ケヤキの一枚板で、左手に平書院が付いています。ここの天井に和釘が残っていたので、明治20年代の建造ということが裏付けられているそうです。
移築前の家祖図によると、押入れ部分は縁側となっていたので、その押入れ部分の床板は縁側と一体のケヤキ厚板が使われていたそうです。 -
平書院の手の込んだ桟
-
縁側から見た庭
-
座敷棟の縁の下には多くの瓦が置いてありました。内部の説明を読むと、移築の際に、実家の瓦の下に屋根下地がトントン葺というスギやヒノキを薄く削った板で吹いてあったそうです。この移築に際して、ここではアスファルトルーフフイングに変更し、軒先には水切板金を新設したとのことでした。つまりこの瓦は移築前のものか。
-
座敷棟前庭から見た茶の間棟玄関
-
座敷棟の庭
-
書斎棟を見たところ
-
茶の間棟から座敷棟を見たところ
-
その間にある玄関は、茶の間棟のものなので、家族用でしょうか。
-
こちらが先ほど入ってきた玄関です。廊下傍に鈴木信太郎先生がお立ちになっておられます。編集中
-
その天井の照明です。
-
書斎棟入り口は鉄製の防火扉になっています。鈴木信太郎氏が大正15年にフランスから日本へ輸送中の蔵書を舟火事で失った経験から、当時としては珍しい鉄筋コンクリートで造ったということです。昭和20年4月13日の空襲劫火に耐え、終戦後は茶の間・ホール棟が増築するまでは、慎太郎一家はここで暮らしていたそうです。
昭和3年(1928)竣工。2階はスタッコ吹付で一部タイル貼。設計が1階が大塚泰、2階が栗谷鶉二(1931)、鈴木成分(1956)となっています。
北側廊下の壁紙を剥がすと、当初の漆喰仕上げが残っていたそうです。漆喰には、色粉を混ぜて、薄黄色にしたタマゴ漆喰仕上げというものでした。柱と梁の漆喰は、仕上げ材が浮き上がり、剥落の恐れがあったため、塗り替えられました。 -
書斎内には天井までの書棚がずらっと並んでいます。このデスクでお仕事をなさっていたのですね。
-
暖炉も洒落ています。全ての窓はスチールサッシで、鉄製のシャッターが備え付けられています。
-
暖炉の上の絵は「鷲図」で、須田国太郎氏から贈られたものだそうです。右下にある印は鈴木信太郎氏が字をデザインし、印章を押し、その印章を須田に贈ったもの。須田国太郎は「ステファヌ・マラルメ詩集考」や「ヴィヨン詩鈔」の表紙絵を描いています。
-
書斎の南側の5つの窓には上部に鈴木がデザインしたステンドグラスが嵌め込まれています。
-
ちょっとぶれていますが、左か鰐 LE MONDO 、その下が鳩 EST FAIT 、右上から鹿 POUR ABOUTIR 、その下が獅子 A UN BEAU 、その下は犬 LIVRE S.M.
となり、絵の下の字を通して読むと、世界は、一冊の美しい書物に 近づくべくできている ステファヌ・マラルメ となります。南から入る陽で、綺麗に観ることができます。 -
書斎棟の前には、このような鉄柵があります。これは、長男鈴木成分氏がデザインしたもので、玄関へのアプローチ部の両側に1956年頃に設置したものの一部だそうです。
-
書斎棟の外壁
このサイズの窓が3つありました。 -
こちらの細いタイプの窓が2つあります。
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
belleduneさんの関連旅行記
大塚・巣鴨・駒込(東京) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
31