2019/03/27 - 2019/03/27
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長興山紹太寺跡の山中に稲葉氏一族の墓がある。
寛永9年(1632年)、下野国真岡藩から稲葉正勝が8万5千石で入封した。稲葉正勝(慶長2年(1597年)~寛永11年(1634年))は第3代将軍・徳川家光の乳母・春日局(天正7年(1579年)~寛永20年(1643年))の子で、家光の乳兄弟として幼少時より小姓として仕えた。正勝の後は正則(元和9年(1623年)~元禄9年(1696年))、正往/正道(寛永17年(1640年)~享保元年(1716年))と続いた。いずれも幕府の老中に就任している。この間に10万2千石に加増されたが、稲葉氏は貞享2年(1685年)に越後高田藩へ転封する。
稲葉氏一族の墓所には、8基の墓石が横一列に並んでいる。3代続いた小田原城主のうち、初代と2代の城主が眠っている。第3代藩主正往/正通はその後、越後高田藩主、下総佐倉藩初代藩主を歴任し、77歳の生涯を閉じた。どの墓にも法名のほか俗名も刻まれている。正面左から小田原藩第2代藩主稲葉正則、正勝の正室、小田原藩初代藩主正勝、春日局(の供養塔)、正則の正室、小田原藩第3代藩主正往/正通の後室、正則の長兄、そして少し離れたところにあるのが正勝の家臣・塚田正家の墓及び供養塔である。墓及び供養塔の型は、正則だけが位牌型で、その他は五輪塔である。塚田正家は正勝の一周忌に殉死した忠節をたたえて、藩主の墓地に葬られた。
長興山紹太寺は2代城主正則が創建した寺で創建前に亡くなっていた正勝は墓を移したのであろう。また、春日局も創建前に亡くなっているが、こちらは供養塔である。
なお、春日局の菩提寺は麟祥院(東京都文京区湯島4)にあり、先立った正勝の菩提寺は養源寺(東京都文京区千駄木5)にある。また、正往/正通も養源寺に埋葬された。
(表紙写真は稲葉氏一族の墓)
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道標。
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稲葉氏一族の墓への石段。
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「刻銘石「昆弟槙」」。
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「刻銘石「瓔珞櫻」」。
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「長興山紹太寺 御霊屋跡」。
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更に石段。
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御霊屋跡。
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稲葉氏一族の墓。
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稲葉氏一族の墓。
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稲葉氏一族の墓。
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「稲葉氏一族の墓」。
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「市指定史跡 稲葉一族の墓所は、平成二十六年七月に倒木により被災しましが、‥‥の支援を頂き平成二十九年八月に修復されました。」
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稲葉正則の墓。
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「潮信院殿前従四位侍従兼美濃守泰応元如大居士塔」。
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稲葉正勝の墓。養源寺(東京都文京区千駄木5)に埋葬された。
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春日局の供養塔。春日局の墓は麟祥院(東京都文京区湯島4)にある。
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五輪塔(正岩院殿天室智鏡大姉(寛文4年(1664年)没))。
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五輪塔(龍智院殿珠光元明大姉(漢文10年(1670年)没))。
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五輪塔(梅嶺宗春童子(寛永2年(1625年)没))。
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五輪塔(長興院殿心傳妙安大姉(寛永3年(1626年)))。
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五輪塔(塚田正家の墓(寛永11年(1634年)没))。
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「潮信院殿塔前石燈籠」。
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