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出羽と越後の名城巡り、日本百名城31番の新発田城の紹介です。最初に城が築かれた時期は不明ですが、鎌倉時代初期に幕府設立に戦功のあった佐々木盛綱の傍系である新発田氏による築城と考えられています。(ウィキペディア、日本百名城・続日本百名城公式ガイド)

2018秋、出羽と越後の名城(17/18):10月24日(8):新発田城(1):新発田城石碑、内堀

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2018/10/23 - 2018/10/24

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旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

出羽と越後の名城巡り、日本百名城31番の新発田城の紹介です。最初に城が築かれた時期は不明ですが、鎌倉時代初期に幕府設立に戦功のあった佐々木盛綱の傍系である新発田氏による築城と考えられています。(ウィキペディア、日本百名城・続日本百名城公式ガイド)

交通手段
観光バス ANAグループ

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  • 新発田城のシンボルとなっている、屋根の上に三つの鯱が乗る、珍しい姿の三階櫓の光景です。内堀に面した、本丸の西北角に位置します。新発田城の別名は、『菖蒲城(あやめじょう)』、新発田藩の藩庁が置かれていました。(同上)

    新発田城のシンボルとなっている、屋根の上に三つの鯱が乗る、珍しい姿の三階櫓の光景です。内堀に面した、本丸の西北角に位置します。新発田城の別名は、『菖蒲城(あやめじょう)』、新発田藩の藩庁が置かれていました。(同上)

  • 夕日に輝く、屋根の上に三つの鯱が乗る、珍しい姿の三階櫓のズームアップ光景です。江戸幕府に遠慮して、天守を公称しなかったとされますが、三階櫓は新発田城における実質的な天守でした。(同上)

    イチオシ

    夕日に輝く、屋根の上に三つの鯱が乗る、珍しい姿の三階櫓のズームアップ光景です。江戸幕府に遠慮して、天守を公称しなかったとされますが、三階櫓は新発田城における実質的な天守でした。(同上)

  • 少し場所を変えての三階櫓の撮影です。丁字の屋根に載せられた3匹の鯱の姿が同時に確認できました。ネット情報では丁字の屋根の意味合いを『攻め入った敵を鯱の位置で方向を惑わす役割があったとされます。真ん中の後ろを向いているのがメスの鯱で、左右の2匹はオスの鯱です』との解説もありました。(同上)

    少し場所を変えての三階櫓の撮影です。丁字の屋根に載せられた3匹の鯱の姿が同時に確認できました。ネット情報では丁字の屋根の意味合いを『攻め入った敵を鯱の位置で方向を惑わす役割があったとされます。真ん中の後ろを向いているのがメスの鯱で、左右の2匹はオスの鯱です』との解説もありました。(同上)

  • 内堀に姿を映した、三階櫓の光景です。かつての縄張図では、三階櫓の北側も内堀が巡っていましたが、埋め立てられてしまったようです。埋立てられた場所を含めて、新発田城の北側方面は、自衛隊の駐屯地になっていました。(同上)

    イチオシ

    内堀に姿を映した、三階櫓の光景です。かつての縄張図では、三階櫓の北側も内堀が巡っていましたが、埋め立てられてしまったようです。埋立てられた場所を含めて、新発田城の北側方面は、自衛隊の駐屯地になっていました。(同上)

  • 同じく、西側からズームアップした三階櫓の光景です。新発田城は、代々新発田氏の居城となっていましたが、天正9年(1581年)、新発田重家(1547~1587年)が上杉景勝に対して反乱を起こしましたが、天正15年(1587年)、景勝方の攻勢により新発田城は落城し、新発田氏は滅亡しました。上杉景勝(1556~1623年)は、 豊臣政権の五大老の一人で、米沢藩の初代藩主でした。養父は上杉謙信公です。(同上)

    同じく、西側からズームアップした三階櫓の光景です。新発田城は、代々新発田氏の居城となっていましたが、天正9年(1581年)、新発田重家(1547~1587年)が上杉景勝に対して反乱を起こしましたが、天正15年(1587年)、景勝方の攻勢により新発田城は落城し、新発田氏は滅亡しました。上杉景勝(1556~1623年)は、 豊臣政権の五大老の一人で、米沢藩の初代藩主でした。養父は上杉謙信公です。(同上)

  • 新発田城の三階櫓の紹介が続きます。承応3年(1654年)に創建されたものは、寛文8年(1668年)の火災により焼失し、現在復元されている三階櫓は、延宝7年(1679年)に再建されたものです。(同上)

    新発田城の三階櫓の紹介が続きます。承応3年(1654年)に創建されたものは、寛文8年(1668年)の火災により焼失し、現在復元されている三階櫓は、延宝7年(1679年)に再建されたものです。(同上)

  • 内堀で泳いでいた水鳥さん達の光景です。低い場所は、薄暗くなり始め、夕日に照らされる頃合いとなっていました。五羽ともカルガモさんでした。『カルガモ(軽鴨)』は、カモ科マガモ属に分類される鳥類です。都心部や、人家近くでの子育て風景が、しばしばテレビや新聞などで紹介されます。(同上)

    内堀で泳いでいた水鳥さん達の光景です。低い場所は、薄暗くなり始め、夕日に照らされる頃合いとなっていました。五羽ともカルガモさんでした。『カルガモ(軽鴨)』は、カモ科マガモ属に分類される鳥類です。都心部や、人家近くでの子育て風景が、しばしばテレビや新聞などで紹介されます。(同上)

  • 堂々とした旧字体の『新発田城』の文字が刻まれた、まだ新しい石標の光景です。内堀を挟んだ、旧二の丸跡地に建っていました。江戸時代の初代新発田城主は、家康に安堵された溝口秀勝でしたが、その子孫は12代続いて、明治期を迎えています。溝口家は外様でしたが、江戸時代の270年余り、一度も改易や転封もなく続いた数少ない藩の一つとされます。(同上)

    堂々とした旧字体の『新発田城』の文字が刻まれた、まだ新しい石標の光景です。内堀を挟んだ、旧二の丸跡地に建っていました。江戸時代の初代新発田城主は、家康に安堵された溝口秀勝でしたが、その子孫は12代続いて、明治期を迎えています。溝口家は外様でしたが、江戸時代の270年余り、一度も改易や転封もなく続いた数少ない藩の一つとされます。(同上)

  • 『三階櫓』のタイトルがあった説明立看板の光景です。三階櫓の特徴を、『木造の三層三階櫓で、入母屋造、本瓦葺』と紹介されていました。更に、『最上階の屋根は丁字型の入母屋造で、3匹の鯱を載せていることが、全国でも類を見ない』とも紹介されていました。新発田城のシンボルとなっています。(同上)

    『三階櫓』のタイトルがあった説明立看板の光景です。三階櫓の特徴を、『木造の三層三階櫓で、入母屋造、本瓦葺』と紹介されていました。更に、『最上階の屋根は丁字型の入母屋造で、3匹の鯱を載せていることが、全国でも類を見ない』とも紹介されていました。新発田城のシンボルとなっています。(同上)

  • 『日本百名城』の文字が刻まれた石標の光景です。この辺りが、三階櫓と二階隅櫓を同時に撮影できるポイントとなっているようでした。新発田城は、平成19年(2007年)4月、ほかの城郭と同時に日本百名城の31番に選ばれました。(同上)

    『日本百名城』の文字が刻まれた石標の光景です。この辺りが、三階櫓と二階隅櫓を同時に撮影できるポイントとなっているようでした。新発田城は、平成19年(2007年)4月、ほかの城郭と同時に日本百名城の31番に選ばれました。(同上)

  • 新発田市長名による、『三階櫓』の鯱と瓦に刻まれた『願文』の解説文でした。その6項目は、『道学共創』、『大地悠久』、『万民安康』、『凛乎不朽』、『世世進展』、と『長久安全』でした。(同上)

    新発田市長名による、『三階櫓』の鯱と瓦に刻まれた『願文』の解説文でした。その6項目は、『道学共創』、『大地悠久』、『万民安康』、『凛乎不朽』、『世世進展』、と『長久安全』でした。(同上)

  • 『新発田城三階櫓復元記念』の石碑の光景です。先ほど紹介した6点の『願文』の揮毫が刻まれた石碑です。市内の小中学生から王分された99人余りの作品から選ばれた揮毫でした。(同上)

    『新発田城三階櫓復元記念』の石碑の光景です。先ほど紹介した6点の『願文』の揮毫が刻まれた石碑です。市内の小中学生から王分された99人余りの作品から選ばれた揮毫でした。(同上)

  • 西側方面から眺めた、『旧二の丸隅櫓』の建物光景です。かつては、『本丸鉄砲櫓』があった場所です。国の重要文化財の建物です。新潟県に現存する、数少ない江戸時代の城郭建築物の一つです。(同上)

    西側方面から眺めた、『旧二の丸隅櫓』の建物光景です。かつては、『本丸鉄砲櫓』があった場所です。国の重要文化財の建物です。新潟県に現存する、数少ない江戸時代の城郭建築物の一つです。(同上)

  • 同じ場所から眺めた『旧二の丸隅櫓』と内堀の周りの光景です。お堀の左手方面(北側方面)に三階櫓、右奥方面(東側方面)に、辰巳櫓と本丸表門が位置します。現存する建物は、この内の『旧二の丸隅櫓』と『本丸表門』の二つです。(同上)

    同じ場所から眺めた『旧二の丸隅櫓』と内堀の周りの光景です。お堀の左手方面(北側方面)に三階櫓、右奥方面(東側方面)に、辰巳櫓と本丸表門が位置します。現存する建物は、この内の『旧二の丸隅櫓』と『本丸表門』の二つです。(同上)

  • 新発田城本丸石垣と、その周りの内堀の光景です。石垣には、横矢が通せるよう、屈曲部分が設けてありました。石垣の左端付近に三階櫓が見えていました。(同上)

    新発田城本丸石垣と、その周りの内堀の光景です。石垣には、横矢が通せるよう、屈曲部分が設けてありました。石垣の左端付近に三階櫓が見えていました。(同上)

  • 新発田城本丸の西南角付近の光景になるようです。かつては本丸の鉄砲櫓があった場所ですが、現存する建築物の『旧二の丸櫓』が、この位置に移築されました。国の重要文化財の建物です。(同上)

    イチオシ

    新発田城本丸の西南角付近の光景になるようです。かつては本丸の鉄砲櫓があった場所ですが、現存する建築物の『旧二の丸櫓』が、この位置に移築されました。国の重要文化財の建物です。(同上)

  • 縄張図を参照しますと、本丸の北側にあった『古丸』と『御米蔵所』から本丸の東側を通って表門方面に繋がる通路があり、鉄砲櫓付近まで伸びていいたようです。内堀に残った、その名残の小島のようでした。(同上)

    縄張図を参照しますと、本丸の北側にあった『古丸』と『御米蔵所』から本丸の東側を通って表門方面に繋がる通路があり、鉄砲櫓付近まで伸びていいたようです。内堀に残った、その名残の小島のようでした。(同上)

  • 本丸鉄砲櫓跡に移築された『旧二ノ丸二階櫓』の光景です。国の重要文化財に指定されています。この建物も、寒冷地に適しているとされるナマコ壁の外壁部分を持っていました。(同上)

    本丸鉄砲櫓跡に移築された『旧二ノ丸二階櫓』の光景です。国の重要文化財に指定されています。この建物も、寒冷地に適しているとされるナマコ壁の外壁部分を持っていました。(同上)

  • 内堀に架かる橋の袂から眺めた『本丸表門』の光景です。縄張図を参照しますと、橋は土橋ではなく、危急の時の対応を考えた木橋のようでした。(同上)

    内堀に架かる橋の袂から眺めた『本丸表門』の光景です。縄張図を参照しますと、橋は土橋ではなく、危急の時の対応を考えた木橋のようでした。(同上)

  • 夕日が射していた、『重要文化財・新発田城表門・二ノ丸隅櫓』の文字が刻まれた石標の光景です。この石標は、本丸表門の前にありましたが、かつての本丸鉄砲櫓の位置に移築された『旧二ノ丸二階櫓』を指しているようでした。(同上)

    夕日が射していた、『重要文化財・新発田城表門・二ノ丸隅櫓』の文字が刻まれた石標の光景です。この石標は、本丸表門の前にありましたが、かつての本丸鉄砲櫓の位置に移築された『旧二ノ丸二階櫓』を指しているようでした。(同上)

  • 『新発田藩領内組分概念図』のタイトルがあった説明パネルの光景です。現在の地図上に、かつての領内の組分が色分けしてありました。左下部分は、現在の三条市方面の飛び地でした。(同上)

    『新発田藩領内組分概念図』のタイトルがあった説明パネルの光景です。現在の地図上に、かつての領内の組分が色分けしてありました。左下部分は、現在の三条市方面の飛び地でした。(同上)

  • 『新発田城』のタイトルがあった説明パネルの光景です。二重の堀に鴨まれた、かつての縄張り図ですが、南側(右手前方面)の『二の丸』や『三の丸』部分が省略された縄張図でした。(同上)

    『新発田城』のタイトルがあった説明パネルの光景です。二重の堀に鴨まれた、かつての縄張り図ですが、南側(右手前方面)の『二の丸』や『三の丸』部分が省略された縄張図でした。(同上)

  • 郷土研究社編の『明治初年の新発田藩家中屋敷割図』のタイトルがあった説明パネルの光景です。右下に、図とは別の一覧表も添えられているようでした。(同上)

    郷土研究社編の『明治初年の新発田藩家中屋敷割図』のタイトルがあった説明パネルの光景です。右下に、図とは別の一覧表も添えられているようでした。(同上)

  • 『新発田城中御間柄全図』のタイトルがあった説明パネルの光景です。左下に『昭和9年(1934年)10月の日付があり、縮尺が400分の1であることが記されていました。本丸部分が記された、市販のための絵図のようです。(同上)

    『新発田城中御間柄全図』のタイトルがあった説明パネルの光景です。左下に『昭和9年(1934年)10月の日付があり、縮尺が400分の1であることが記されていました。本丸部分が記された、市販のための絵図のようです。(同上)

  • 『新発田城下町概要図』のタイトルがあった説明パネルの光景です。二の丸屋三の丸を含めたお城全体の縄張りのほか、町家などの城下町も詳細に記されていました。右下が三の丸の大手門、ここから本丸エリアまでには、四つの橋を渡る必要があったようです。(同上)

    『新発田城下町概要図』のタイトルがあった説明パネルの光景です。二の丸屋三の丸を含めたお城全体の縄張りのほか、町家などの城下町も詳細に記されていました。右下が三の丸の大手門、ここから本丸エリアまでには、四つの橋を渡る必要があったようです。(同上)

  • 台座に刻まれた文字は、『新発田藩初代番・溝口伯耆守秀勝公像』でした。溝口秀勝公(1548~1610年)は、尾張国中島郡西溝口村(現愛知県稲沢市西溝口町)に生まれました。幼少時より丹羽長秀に仕えましたが、天正9年(1581年)に織田信長からその才能を見出され、直臣として若狭国大飯郡高浜城(現福井県大飯郡高浜町)5000石を与えられました。天正10年(1582年)、本能寺の変で信長が横死した後は、羽柴秀吉(豊臣秀吉)に属しました。秀吉から偏諱を受けて秀勝と改名し、豊臣姓を授与されました。朝鮮派兵の際は、肥前国名護屋城を守備し、慶長3年(1598年)、越後国蒲原郡新発田城6万石を与えられました。(同上)

    台座に刻まれた文字は、『新発田藩初代番・溝口伯耆守秀勝公像』でした。溝口秀勝公(1548~1610年)は、尾張国中島郡西溝口村(現愛知県稲沢市西溝口町)に生まれました。幼少時より丹羽長秀に仕えましたが、天正9年(1581年)に織田信長からその才能を見出され、直臣として若狭国大飯郡高浜城(現福井県大飯郡高浜町)5000石を与えられました。天正10年(1582年)、本能寺の変で信長が横死した後は、羽柴秀吉(豊臣秀吉)に属しました。秀吉から偏諱を受けて秀勝と改名し、豊臣姓を授与されました。朝鮮派兵の際は、肥前国名護屋城を守備し、慶長3年(1598年)、越後国蒲原郡新発田城6万石を与えられました。(同上)

  • 溝口秀勝公像の頭部のズームアップ光景です。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは東軍に与し、越後において上杉景勝が煽動する上杉遺民一揆の鎮圧に努めました。戦後、徳川家康から所領を安堵され、新発田藩初代藩主となりました。(同上)

    溝口秀勝公像の頭部のズームアップ光景です。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは東軍に与し、越後において上杉景勝が煽動する上杉遺民一揆の鎮圧に努めました。戦後、徳川家康から所領を安堵され、新発田藩初代藩主となりました。(同上)

  • 『市指定文化財記念物史跡・新発田城跡』のタイトルがあった説明立札の光景です。戦国時代には、佐々木氏の一族の新発田氏の居城で、近世では慶長3年(1598年)以降、溝口氏の居城となったことが紹介されていました。現在の石垣延長が350メートルであることも紹介されていました。(同上)

    『市指定文化財記念物史跡・新発田城跡』のタイトルがあった説明立札の光景です。戦国時代には、佐々木氏の一族の新発田氏の居城で、近世では慶長3年(1598年)以降、溝口氏の居城となったことが紹介されていました。現在の石垣延長が350メートルであることも紹介されていました。(同上)

  • 休憩所の建物光景です。周りに配慮したデザインの木造建築となっていました。休憩所ですが、『城内飲食禁止』の掲示があり、飲物の自販機も置かれていませんでした。夏場の見学は大変になりそうです。(同上)

    休憩所の建物光景です。周りに配慮したデザインの木造建築となっていました。休憩所ですが、『城内飲食禁止』の掲示があり、飲物の自販機も置かれていませんでした。夏場の見学は大変になりそうです。(同上)

  • 『新発田城の4つの魅力」のタイトルがあった説明パネルの光景です。箇条書きで紹介しておきます。(同上)<br />〇三匹の鯱:全国でも珍しい、三階櫓の屋根の上の3匹の鯱です。<br />〇堀部安兵衛:高田馬場の敵討ちや、赤穂浪士の討入で有名な堀部安兵衛の出身地です。辰巳櫓消失の責任をとった父が、浪人となる前の新発田藩の出身でした。<br />〇写真:かつての新発田城の写真が数多く残されています。<br />〇石垣:手の込んだ切込み接ぎの石垣が三度事の一つです。

    『新発田城の4つの魅力」のタイトルがあった説明パネルの光景です。箇条書きで紹介しておきます。(同上)
    〇三匹の鯱:全国でも珍しい、三階櫓の屋根の上の3匹の鯱です。
    〇堀部安兵衛:高田馬場の敵討ちや、赤穂浪士の討入で有名な堀部安兵衛の出身地です。辰巳櫓消失の責任をとった父が、浪人となる前の新発田藩の出身でした。
    〇写真:かつての新発田城の写真が数多く残されています。
    〇石垣:手の込んだ切込み接ぎの石垣が三度事の一つです。

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