2018/10/23 - 2018/10/24
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出羽と越後の名城巡りの締め括りです。本丸南側の石垣と堀、櫓門の本丸表門と二重櫓の二の丸隅櫓が現存し、三階櫓や二階櫓の復元建築があります。現存建築物がある城跡としては、新潟県内では唯一です。(ウィキペディア、日本百名城・続日本百名城公式ガイド)
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松の木に後ろに隠れてしまいましたが、『辰巳櫓』がある方面の光景です。入り口方面に向かう階段が設けられていました。その階段を登って、小高い土楼の上に向かいました。(同上)
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『辰巳櫓』がある土塁の上から眺めた、北側方面の光景です。城郭跡の大部分は、旧日本軍解体まで陸軍が置かれていたこともあり、現在も陸上自衛隊の駐屯地(新発田駐屯地)となっています。その兵舎や、ジープなどが見えていました。(同上)
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同じく、『辰巳櫓』がある土塁の上から眺めた、新発田駐屯地方面の光景です。中央付近に見える建物は、城内にあった休憩所のような建物です。左奥方面に、三階櫓が見えていました。(同上)
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フクロウか、ミミズクかの見分けがつかなかった像の光景です。『辰巳櫓』の入口近くに置かれていました。フクロウ科の鳥で、生物学的には同種とされるようです。ミミズクは、フクロウの中でも特に耳があるようにみえる種類のこととされますから、この像はフクロウかも知れません。(同上)
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『辰巳櫓』の鯱と瓦に記された、柴田藩主の著作から選ばれた『願文』を紹介したステンレスプレートの光景です。『願文』は、『陰徳陽報』、『克己復礼』、『誠実公正』と『至誠一心』でした。平成16年(2004年)に再建された時の応募作品から(揮毫)文字が選ばれたと紹介されていました。(同上)
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『辰巳櫓』のタイトルがあった説明立看板の光景です。『かつて、赤穂義士の堀部安兵衛の父が管理責任者でしたが、櫓の焼失の責任をとって浪人の身になった』と紹介されていました。この建物は、平成16年(2004年)6月に再建されたものです。(同上)
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辰巳櫓に登る石段の上から眺めた、西側方面の城内光景です。堀部家の養子となった安兵衛武庸の本姓は、中山氏でした。高田馬場の決闘と、吉良邸への討入と、二度の大きな戦いを経験した人です。(同上)
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東北側から眺めた、辰巳櫓の光景になるようです。平成16年(2004年)6月に再建された建物です。内部見学もできましたが、前回見学しましたので、外観だけの見学にしました。(同上)
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海鼠(なまこ)壁が印象的な、西側から眺めた『本丸表門』の光景です。現存する建造物の一つです。櫓の外壁には、冬季の積雪への対策の意味もあり、海鼠壁が用いられていました。享保17年(1732年)に再建された現存の櫓門です。(同上)
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『本丸表門』の『海鼠(なまこ)壁』のズームアップ光景です。土蔵などに用いられる、日本伝統の壁塗りの様式の一つです。壁面に平瓦を並べて貼り、瓦の目地に漆喰を蒲鉾形に盛り付けて塗る工法によるもので、目地の盛り上がった形がナマコ(海鼠)に似ていることからの命名です。(同上)
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『本丸表門』の楼門の内部光景です。前回訪れた時には、靴を脱いで内部を見学しましたので、今回は入口からの見学だけにしておきました。年代を感じさせる板張りだった、国の重要文化財の建物です。(同上)
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『本丸表門』の入口横から眺めた、内堀と、本丸表門に繋がる橋の光景です。縄張図を参照しますと、南にあるこの『表御門』と、北側にある『裏御門』の二箇所に橋が架かっていたようです。(同上)
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『本丸表門』の入口横から眺めた、西側方面の光景です。この延長線上に本丸の西南に位置する『鍛冶櫓』がありましたが、現在はその場所に『旧二の丸隅櫓』が移築されています。(同上)
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立看板や道案内標識が錯綜した一角の光景です。立看板には、『国指定重要文化財・表門』のタイトルがありました。順路2番の矢印方向が入口です。桁行9間(約16.3メートル)、奥行き3元(約5.4メートル)の楼門で、享保17年(1732年)の再建と紹介されていました。(同上)
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『石垣内部構造』のタイトルがあった説明パネルの光景です。新発田城の石垣には、市内古寺で産出する『古寺石(こでらいし)』が使用されていると紹介されていました。(同上)
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石垣の内部構造説明のための展示の光景です。側面が金網となって、『切込み接ぎ』の内部の構造を見ることができました。背後に大量に使用された裏籠石の光景です。(同上)
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『石垣展示』の文字が刻まれた石標の光景です。三階櫓施工が新発田建設、巽櫓施工が伊藤組、新規石垣施工が西塔石材店と紹介されていました。いずれも平成16年(2004年)の施工です。(同上)
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城内側から眺めた『旧二の丸隅櫓』の建物光景です。縄張図でも確認しましたが、この位置は『本丸鉄砲櫓』があった場所とされます。その場所に現存の『旧二の丸隅櫓』が移築されてきました。(同上)
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『旧二の丸隅櫓』の前から眺めた東方向の城内光景です。左手に見える塀が、陸上自衛隊の新発田駐屯地との区域境になるようです。城内では、春の頃にはソメイヨシノが咲き競います。(同上)
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内堀の外から眺めた右端の『辰巳櫓』と、その左側(西側)に位置する『本丸表門』の建物光景です。縄張図を参照しますと、撮影している場所は二の丸エリア、その南に位置する三の丸も取り囲むように外堀が廻らされていました。(同上)
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イチオシ
内堀の外から眺めた『辰巳櫓』の光景です。本丸から見て南東(辰巳)に位置することからの呼び名です。各地のお城でも使われていた呼び名です。平成16年(2004年)6月に再建された、二階二層の隅櫓です。(同上)
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内堀の外から眺めた『本丸表門』の光景です。享保7年(1732年)に再建された現存の櫓門で、2階に格子窓を設け、門の真上の床を外して石落としとする構造となっています。国の重要文化財の建物です。(同上)
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内堀の外から眺めた『本丸表門』の右手(東側)方面の石垣光景です。地震被害を受けたらしい、石垣の歪みがありました。越後平野では、150~200年くらいの間隔でM7クラスの地震を繰り返してきました。寛文10年(1670年)の四万石地震(西蒲原地震)や、1828年の三条地震、1833年の庄内沖地震(M7.5)、1964年新潟地震(M7.5)等です。(同上)
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内堀の外から眺めた『本丸表門』の左手(西側)方面の石垣光景です。内堀の西南の終端部分に隅櫓が見えていました。1668年の大火後に建築された層塔型2重2階の『旧二の丸隅櫓』です。本丸鉄砲櫓の跡に移築されました。(同上)
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城内側から眺めた『本丸表門』の光景です。その右手に、『雁木(がんぎ)』と呼ばれる石段が見えていました。これで、新発田城の紹介はお終いですが、新発田城所縁の堀部安兵衛についても紹介しておきます。(同上)
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堀部安兵衛立像の光景です。『堀部安兵衛武庸(1670~1703年)』は、高田馬場の決闘で名を馳せ、赤穂浪士四十七士の随一の剣客でした。越後国新発田藩(現在の新潟県新発田市)溝口家家臣の中山弥次右衛門(200石)の長男として新発田城下外ヶ輪中山邸で誕生しました。母は同じく新発田藩藩士・溝口盛政の六女で、武庸を出産した直後に亡くなりました。武庸が13歳のときの天和3年(1683年)、父は溝口家を追われて浪人となりました。浪人になったいきさつには諸説あるようですが、櫓失火の責を負って藩を追われたという『世臣譜』にある説が有力とされます。その父も、浪人後まもなく亡くなり、孤児となった武庸は、はじめ母方の祖父・盛政に引き取られました。(同上)
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ズームアップした、堀部安兵衛の全身像の光景です。溝口盛政は、その後2年ほどで死去したため、姉・きんの嫁ぎ先である長井家に引き取られました。元禄元年(1688年)、19歳になった武庸は、長井家の親戚・佐藤新五右衛門を頼って江戸へ出て、小石川牛天神下にある堀内正春の道場に入門しました。天性の剣術の才で頭角をあらわし、すぐに免許皆伝となり堀内道場の四天王の一人に数えられました。同門の菅野六郎左衛門は武庸と親しく、甥叔父の義理を結んでいましたが、元禄7年2月11日(1694年3月6日) 、高田馬場で果し合いをすることになり、武庸は助太刀を買って出て、相手方3人を斬り倒しました。いわゆる『高田馬場の決闘』です。(同上)
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イチオシ
堀部安兵衛像の頭部のズームアップ光景です。この決闘での武庸の活躍が『18人斬り』として江戸で評判になり、これを知った赤穂浅野家家臣・堀部金丸が武庸との養子縁組を望みましたが、武庸は、中山家を潰すわけにはいかないと断っていました。しかし、藩主の浅野長矩の許可で、中山姓のままという条件で堀部家の婿養子に入り、200石で浅野家家臣となりました。(同上)
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今回の見学先の最後となる新発田城の見学を終え、夜の明かりが灯った新潟空港に到着しました。往きは秋田空港に到着しましたが、南下して新潟空港からセントレアに向かいました。(同上)
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同じく、新潟空港のターミナルビル内の光景です。搭乗機はANA1812便、20時05分発で、21時10分のセントレア空港着の便でした。約1時間のフライトで、定刻にセントレア空港に到着しました。(同上)
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