2018/03/27 - 2018/03/27
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ドクターキムルさん
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鎌倉市の中心には鶴岡八幡宮があり、その参道、若宮大路のなかで、二の鳥居から鶴岡八幡宮前の三の鳥居までの車道より一段高い歩道が段葛として残っている。元々、段葛は一の鳥居からの参道であったが、横須賀線(明治22年(1889年)に開通)の建設により、一の鳥居から二の鳥居の間が撤去された。三の鳥居の先は鶴岡八幡宮の境内であるが、若宮大路は鶴岡八幡宮の境内と同様に、一部は国の史跡に指定されている。また、神奈川県指定史跡でもある。
若宮大路は、養和2年(1182年)、京の朱雀大路に倣って築造が開始された。若宮大路は、由比ガ浜の一の鳥居まで、1,800mに渡って続いている。
段葛は、頼朝の御台所(結婚前は朝日御前か?)、後の晩年に平政子と名乗った、が、二代将軍源頼家を懐妊した養和2年(1182年)、安産を祈って北条時政以下の御家人と共に、土石を運んで築いた。段葛は、道の中央に段2壇を築き緑石を兼ねる葛石を並べて一段と高い道を云うもので、段葛の名はこの段の葛石に因んでいる。
しかし、段葛がある若宮大路は南北方向ではなく、北からほぼ27度東へ偏った方位を示す。このため、鶴岡八幡宮・浅草寺・筑波山(筑波山神社の境内地で御神体)が一直線に並んでいる。鶴岡八幡宮と浅草寺の距離が約47.8km、鶴岡八幡宮と筑波山の距離が約109.4kmである。
鶴岡八幡宮は、治承4年(1180年)10月、平家打倒の兵を挙げ鎌倉に入った源頼朝が、源頼義が勧請した鶴岡若宮(現材木座1)を現在の地である小林郷北山に遷した。治承5年(1181年)に鶴岡八幡宮の造営に当たったのが武蔵国浅草の浅草寺の宮大工であったと伝えられている。観音信仰に厚かった頼朝は鶴岡八幡宮の参道である若宮大路を浅草観音を祀る浅草寺に向けた。なお、治承4年(1180年)、源頼朝は平家追討に向かうため下総から武蔵国へ入り、浅草の石浜に軍勢を揃えた際に、浅草寺に参詣して戦勝を祈願した。また、その後の文治5年(1189年)、奥州征伐で平泉に向かう際にも、頼朝は戦勝を願って浅草寺に田園36町(約35万7000m^2)を寄進している。観音信仰に厚い頼朝は、その後も浅草観音に信仰を寄せている。さらに、浅草寺の御神木「イチョウ」は樹齢800年を超える古木で、源頼朝が挿した枝が根付いたものと伝えられている。
また、筑波山は坂東無双の名嶽・霊峰であり、太古の昔から崇められ、信仰の対象として仰がれて来ている。なお、建久2年(1191年)源頼朝は安西三郎景益、千葉介常胤、茂木四郎義国等の武将を伴って筑波山神社に参詣し、神領を寄進している。
浅草観音を祀る浅草寺に向けて参道である若宮大路を造営しているが、浅草寺と筑波山の線上に鶴岡八幡宮の遷座地を選定している可能性も高いのではないかと思われる。
(表紙写真は段葛)
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