2018/04/13 - 2018/04/14
5位(同エリア1044件中)
montsaintmichelさん
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- 旅行記367冊
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珍しい名前の寺院ですが、日光や城崎など有名な温泉地に「温泉寺」はあります。諏訪市湯の脇にある臨済宗妙心寺派の末寺であり、山号は臨江山、本尊には釈迦如来を祀ります。高台に佇み、諏訪湖を一望できるのが最大のお勧めポイントです。
2代高島藩主 諏訪忠恒が下諏訪の慈雲寺14世 泰嶺玄未を開山とし、1640(寛永17)年に建立しました。それ以来、高島藩諏訪氏の菩提寺となり、歴代藩主の墓所があります。信濃の名門 諏訪氏は武田信玄に滅ぼされますが、諏訪頼忠がその後復活して徳川家康に従い、諏訪藩主に返り咲いています。
寺名の由来は、この付近に温泉が湧き、かつて温泉の守り仏として薬師如来を祠った堂宇があった場所を広げて寺を建立したことに因みます。その甲斐あってか、上諏訪温泉は明治時代以降に温泉地として発展し、温泉観光地として現在も栄えています。
境内には、高島城から薬医門や能舞台が移築されています。また、稀代の高遠石工 守屋貞治による願王地蔵菩薩などの石仏が多数安置されています。更には、諏訪大社とも関わりがあり、寺院ながら多宝塔の四隅には御柱が建てられています。他にも、庭園や諏訪大社由縁の鉄塔など、上諏訪温泉郷から徒歩圏内ながら見所多彩なお寺です。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 観光バス
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
- 利用旅行会社
- クラブツーリズム
PR
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ホテル紅や
2日目は9:30出発なので朝はゆっくりできます。その時間を有効に使うため、「温泉寺」へのショートトリップを愉しみます。2日前の天気予報では本日は春の嵐との予報でしたが、天候の悪化が少し遅れているようです。
諏訪湖畔屈指のビックホテル「紅や」の裏手にある別館「アネックス 稀石の癒」です。露天風呂などがある諏訪エリア最大級の日帰り温泉施設の上階が宿泊施設になっており、露天風呂付きの部屋もあります。岩盤浴はじめ足湯や露天風呂、サウナなど多彩な湯処を巡りながら上諏訪温泉のお湯に親しめます。温泉三昧するならお勧めです。 -
湯の脇公民館前
温泉寺の総門を思わせるスペースです。
「南信名勝温泉寺」と刻字された石碑が立つ参道入口の祠には、大きな地蔵菩薩も安置されています。この地蔵菩薩は、悟りを開かれているのか、お顔が平坦すぎて表情を読みとれません。
本来、菩薩は、悟りを開く前の修行時代の仏陀のことです。しかし、釈迦如来入滅後、56億7千万年後に弥勒菩薩が現れるまでの間は仏が散在しないため、釈迦如来に次ぐ地蔵にこの間を守るように頼みました。そのため、地蔵は悟りを開いているものの現世に留まり、衆上を救うために菩薩のままになったそうです。 -
覆屋
温泉寺エリアには、高遠石工の稀代の名工 守屋貞治(もりやさだじ)の石仏が多数遺されています。その訳は、温泉寺の住職が貞治が師と仰いだ願王和尚だったからです。若き貞治は、温泉寺で和尚に仕え、雲水として仏道修行に励んだと伝わります。
温泉寺への参道を登っていくと、途中、右手に西国三十三ヶ所観音像を納める、瓦屋根、白壁の細長い覆屋が佇みます。石仏を各11体ずつ奉納する社が、段違いで3棟設けられています。最下段の覆屋へ向かって右から、1番、2番…と左に進み、次の覆屋では左から右へ12~22番までが並びます。
この時代にすでに現在の一部の寺院で行なわれているような、ひとつの寺院で西国三十三ヶ所巡りができる仕組みがあったとは吃驚ポンです!江戸時代熟成期とは言え、飢饉や疫病に対して人々は仏に祈るしか成す術は無く、観音経が熱狂的に信仰されていました。三十三観音はその人その立場に応じて33通りに姿を変えて救ってくれると説きます。遠方まで出かけられない人々は多く、三十三観音を1ヶ所にまとめた信仰の場を熱望していたはずです。そのニーズを具現化したのがこの覆屋です。このスタイルも守屋貞治のイノベーションなのでしょうか? -
覆屋 如意輪観音(西国第一番 那智山 青岸渡寺)
端正で美しいお顔の仏像に心が洗われるような気持ちになります。
ここにある観音像たちは、1831(天保2)年、貞治が67歳で制作に着手した最晩年の作品群とされ、昇華された精神性を湛えた気品漂う傑作と称されています。しかし、石工の職業病である眼病が悪化したために23体で制作が中断され、以後は弟子が引き継いでいます。 -
覆屋 十一面千手千眼観音(西国第四番 槇尾山 施福寺)
貞治の作風を簡潔に表現すると、線が端正で優美なことです。この線の美しさは、仏像の衣皺(衣文)表現の基礎を確立していたからと思います。仏像においては、顔や手で表情を豊かにすることは邪道です。仏像の生命感、エネルギー、威厳といったものは、衣文で表わすのが基本です。とにかく「丁寧に造る、美しく仕上げる」、そうした仏は美しいという貞治の哲学を黙して語る彫像たちです。 -
覆屋 准胝観音(西国第十一番 深雪山 上醍醐 准胝堂)
山がちで耕地が狭かったため農家は貧しく、高遠藩の財政は逼迫していました。故に農閑期の出稼ぎは常態化し、農繁期には帰村することを条件に藩も半ば出稼ぎを奨励するほどでした。その出稼ぎの手段が、石工でした。江戸時代、信州高遠は石工の里として全国に名を馳せていました。高遠藩領内出身の石工は「高遠石工」と呼ばれ、優れた腕を持ち、出先で石仏や石塔、石橋、鳥居、石垣など様々な石造物を造りました。高遠石工はこれまでに1300人もの名前が判明していますが、大半の作品は出先に安置されており、最近まで地元でもその存在はあまり知られていなかったそうです。 -
覆屋 准胝観音(西国第十一番 深雪山 上醍醐 准胝堂)
江戸時代、高遠石工の評判はうなぎ上りで、長野県内をはじめ岐阜や愛知、山梨、群馬、栃木、埼玉、東京、神奈川、静岡が主な出先でした。その高遠石工の中でも稀代の名工と呼ばれたのが守屋貞治です。高遠町に生まれ、15歳から石工の修行に励み、 20代で自立して以来石仏の制作を専門にし、68年の生涯で336体におよぶ名作を彫りました。「貞治仏」は故郷に近い信州や甲斐に大半が集中していますが、遠方では伊勢や周防、播磨、但馬にあることが知られています。 -
覆屋 十一面千手観音(第二十三番 応頂山 勝尾寺)
貞治に多大な影響を与えたのが温泉寺の住職 願王和尚でした。貞治の技術と人格を深く愛し、彼の大作には偈や讃を書き与えて彫らせ、布教先で彼を推薦したり紹介したりしました。それに応え、貞治は仏門に帰依し、香を炊き、念仏を唱えながらひたすら彫像に励んだそうです。そうした貞治の篤い信仰が、天性の素質と培われた技術と相俟って、続々と傑作を生みだしたのです。 -
覆屋 十一面観音(第二十四番 紫雲山 中山寺)
西国三十三ヶ所観音の制作は1番から順に手掛けるものかどうかは未詳ですが、もしそうであれば24番から先は弟子の作品になります。しかし、当方には、その差は判りません。あるとすれば、表情の穏やかさくらいでしょうか?
貞治に関する面白いエピソードがあります。
貞治が但馬 和田山にある円明寺の光隣和尚の要請で延命地蔵尊を彫っていたところ、仕上げ間近になって顔に石の傷が出てしまったそうです。途方にくれる貞治に、光隣和尚は「そのままでいい」と慰めたそうです。実は光隣和尚の顔にも同じ所にシミがあったというのです。円明寺には願王和尚と貞治と実門(願王和尚の弟子で絵師)も同行したことが判っており、実門は絵にシミまで描いたことは想像に難くなく、今でもシミ取り地蔵として伝承されている由縁だと思います。 -
温泉寺
参道脇の巨大な石碑が迎えてくれます。
この先の階段を登れば温泉寺の境内です。
中部四十九薬師霊場7番、諏訪三十三番観音霊場24番、諏訪湖七福神(布袋尊)でもあります。 -
温泉寺
温泉寺の創建前から、この地には豊富な温泉が湧出し、薬師如来を祀る「薬師の名湯」として眼病治療の霊場でした。2世 通方和尚が2代藩主 諏訪忠恒からこの地を賜り、隠寮として吸江院(現 指月庵)を建立したのが始まりです。
近隣には現在も上湯・平湯・中村の湯などの「薬師の名湯」があり、温泉と信仰の関連を窺わせます。 -
温泉寺 山門
階段を登ると迎え入れてくれるのが、薬医門形式の山門です。この門は、明治3年の寺の火災の後、本堂と共に高島城から移築されたものですが、高島城の何処にあったのかは不詳のようです。
扁額には山号「臨江山」の文字が躍ります。 -
温泉寺 山門
門の中には仁王像が納まっています。
アクリル板で保護されているため、少々見難いのが難点です。 -
温泉寺 山門
門を潜って振り返ると、目の前にこうした風景が広がります。
ここもそうでうが、諏訪の社寺は諏訪湖を見渡せる景色の良い立地に建立されることが多かったようです。 -
温泉寺 山門
参拝者は当方以外ひとりもおらず、境内はし~んと静まり返っています。 -
温泉寺 本堂
山門同様に高島城から移築されたものです。高島城では、能舞台として使用されていました。移築時の改装なのか、向拝の唐破風と重層という形式が武骨さを顕にしています。
1827(文政10)年、高島藩主8代 諏訪忠恕(ただみち)の時代に本丸御殿脇に建てられた能舞台です。確かに佇まいが一般的な本堂とは異なります。 -
温泉寺 本堂
建物は六間四方で、その真中に三間四方の本舞台、後座(現在は仏壇を安置)、地謡座などの遺構をそのまま残し、能舞台そのものです。
内陣の天井は吹き抜けとなっており、屋根組が剥き出しになっています。本尊には、釈迦如来を祀ります。 -
温泉寺 本堂
木鼻には、愛嬌のある獅子と象(耳が垂れているため)の彫刻が施されています。 -
温泉寺 枝垂桜「忠恒櫻」
山門を潜ると目に飛び込んでくるのが、巨大な古桜「忠恒櫻」です。この老木は 諏訪忠恒が大坂夏の陣(1615年)に出陣し、戦勝凱旋の際に持ち帰り、高島藩歴代藩主墓所の参道に桜大門として記念植樹された5本のうちの名残の1木です。
5本の苗はアズマヒガンの変種とされ、その内の3本が温泉寺に植樹されたと伝わります。
温泉寺に植えられた他の2本は、高島藩歴代藩主墓所近くの桜大門に佇みます。古図によると、参道の両側は枝垂桜の並木となっていたようです。桜大門の2本は市指定天然記念物でもあり、推定樹齢320年以上とされます。 -
温泉寺 枝垂桜「忠恒櫻」
明治3年の火災で熱の影響を受けて損傷し、その後空洞化が進んで一時期樹勢が衰えていたそうですが、諏訪地方事務所林務課と樹木研究会「緑の輪」などの尽力により、現在は樹勢の回復が図られています。
しかし、根への負担を考えると、通路脇にあるのは辛いかもしれませんね! -
温泉寺 石庭
結構広い石庭があり、枯山水の砂紋も見事な出来栄えです。 -
温泉寺 鐘楼
見晴らしが利き、梵鐘の借景に諏訪湖が臨めます。
正面だけ控柱が設けられた4脚付き鐘楼です。奥側の柱が黒く焦げているような気もするため、火災の際に全焼は免れたのかもしれません。 -
温泉寺 鐘楼
元々あった梵鐘(1430年鋳造)は、県指定文化財ですが、現在は社務所に保管されています。
1582(天正10)年、織田信忠の大軍が伊那郡市田村の安養寺から略奪し、上乃諏訪(神宮寺)まで引きずり、そこに放置されていたものを温泉寺の創立に当たって流用した梵鐘と伝わります。鐘銘は約85mの道程を引きずってきたために摩減しているそうですが、「永享二年竜集庚成霜月二十八日住持比丘寿 勤銘檀那美濃守源清 大工大和国藤原朝次」と読めるそうです。つまり、室町時代に近畿地方で造られたと言うことです。 -
温泉寺 社務所
鐘楼の対面にあるのは、「達磨」と「火灯窓」です。
京都花園にある日本最大の禅寺 臨済宗正法山妙心寺の末社ですから納得です。
寺務所のガラス越しに名物の梵鐘が見られるはずなのですが、参拝時間が早過ぎたのかカーテンが閉められたままです。 -
温泉寺 経蔵
この経蔵には、通称「諏訪の和四郎」と称された立川流の初代 立川和四郎富棟が1780(安永9)年に建立した八角八面の輪蔵があり、その中に黄檗板毘盧大経蔵1928冊が納められています。その昔、文字を読めない人が心を込めてこれを一回転すれば、経文を読んだのと同じ功徳があるとされたものです。
因みに、立川和四郎富棟は、手長神社編で紹介したように諏訪下社秋宮幣拝殿(重文)や善光寺大歓進、静岡県浅間神社(再建)などを手掛けた人物です。その彫刻の巧みさは、日光の外に比べるものがないと称えられたほどです。 -
温泉寺 きゃ羅陀山地蔵大菩薩
経蔵の左側面、本堂に対峙している地蔵菩薩です。大きな仏像は見上げるものとの認識の下で彫られています。金属の錫杖は後世に付けられたものと思われます。
一説には、この仏像が貞治の変化点とも言われています。これ以後の作品は、表情の硬さがとれ、やわらかさや優しさが増したと評されています。
基台正面には「三界萬霊」とあり、側面には「奉納 千野忠」と刻まれています。千野忠とは、二の丸騒動が収まった頃の高島藩の家老の名です。千野忠の願主による造立は、貞治59歳、まさに円熟期の作品と言えます。
因みに、「三界萬霊」とは、3つの世界の精霊に対して供養することの大切さを示すものです。三界とは、無色界、色界、欲界の3つを指します。 -
温泉寺
参道脇の枝垂桜と瓦塀とのコラボです。 -
温泉寺 地蔵尊金佛
多宝塔の手前には、200年程前に安置された地蔵が佇みます。
この地蔵は、1821(文政4)年に温泉寺10代住職 願王和尚が京都妙心寺での受戒説教時に関白九条家から下賜された地蔵尊像です。
手前には「地蔵尊」と書かれた香炉が置かれています。 -
温泉寺 多宝塔
多宝塔は1978(昭和53)年の建立で近代建造の塔ですが、一辺4.47m、高さ14mの純和様木造大型塔で、古塔と言われても納得してしまうほど良くできています。 -
温泉寺 多宝塔 鉄塔
塔の中には、1632(寛永8)年に高島藩主 忠恒が再造した高さ2mの「鉄塔」が奉納されています。オリジナルの鉄製の塔は弘法大師の建立と伝えられ、それが腐朽したため源頼朝が再興し、それを忠恒が石造で再造したものです。
元々は諏訪神社上社の御神体「石之御座多法塔」であり、明治時代の神仏分離で撤去放置された際、湯の脇天神山に移され、一社を設けて祀る計画が国学者の反対で頓挫したという代物です。多宝塔が建立され、そこに納められたのは1979年のことです。鉄塔は御開帳の時のみ拝観することができます。
鉄塔の写真は、次のサイトから借用いたしました。
http://yatsu-genjin.jp/suwataisya/sanpo/onsenji.htm -
温泉寺 多宝塔 御柱
不思議なことに、温泉寺は寺院にも拘らず諏訪神社所以の御柱が立っています。多宝塔の四隅にあるのがそれです。
かつての諏訪神社上社の御神体がこの寺院に納められた縁から、寺院なのに御柱が立てられるようになったそうです。諏訪大社の御柱祭に合わせ、この温泉寺でも氏子に代わって檀徒や住民らがカラマツでできた長さ6mある御柱を曳行するそうです。 -
温泉寺 庭園
本堂の裏側には池を中心にした庭園があります。
秋には紅葉の名所になるそうです。 -
温泉寺 蔵
本殿右脇から階段を上り、多宝塔の脇を北側へ辿ると小さな蔵があります。 -
温泉寺 蔵
蔵の正面に施されているのは、茅野市の左官職人 矢澤將利氏が制作した鏝絵(こてえ)です。鏝絵は漆喰でできたレリーフで、2012年に寄進されたものです。温泉寺が、諏訪湖七福神として布袋尊を祀るのが縁です。
上にある紋は、諏訪家の家紋です。外側の丸を外せば、諏訪大社上社の神紋「諏訪梶」になります。 -
温泉寺
本堂の裏手にある広大な山墓地です。 -
温泉寺 延命地蔵尊
山墓地の頂上には高島藩主の墓所、中腹には歴代雲水の墓域が鎮まります。
歴代雲水の墓の先に立つ地蔵は、早世した願王和尚の弟子 曹谷曽省の墓碑として建立された、守屋貞治50代の作品です。曹谷素省は30代で願王和尚に弟子入りし、やがて監守(かんす)まで登り詰めました。つまり、願王和尚の薫陶を授かった後継者だったのです。愛弟子の死を嘆き悲しむ和尚を思い、高島藩の家老家 千野氏が願主となり、1823(文政6)年に彫り上げたものです。
曽省を良く知る貞治は、地蔵の形で首座曹谷を蘇えらせています。故に、仏というよりも生身の人間のような顔をなされた地蔵です。
台石には「蔵六首座」とあります。「蔵六」とは亀を意味し、頭や尻尾、手足四本を甲羅の中に隠すことから六根を清浄に納めた徳の高い僧を称える用語です。「首座(しゅそ)」とは、住職に代わって雲水たちと問答をするリーダーを指します。改めて願王和尚の曽省への信頼の厚さが窺えます。
因みに、温泉寺には、雲水数10余名を減じたことがないとの記録があるそうです。 -
温泉寺 延命地蔵尊
この延命地蔵大菩薩をはじめ境内や山墓地にある仏は、いずれも貞治の円熟期から晩年にかけての石仏群とされ、貞治独自の造形哲学を窺い知ることができます。
貞治は詳細な『石仏菩薩細工』を残していますが、何故かこの地蔵は記録に残されていないそうです。
それでも貞治の傑作と見做されるのは、卓越した技術と気品が感得できるからです。 -
温泉寺 延命地蔵尊
貞治の石仏をじっと見つめていると、未知なる次元へトランスしてしまうような気がします。仏を形にする上で願王和尚から教えられたこと、辛い修行を通して自ら悟ったもの、それら全てをこの一体の仏に具現化しようと魂を込めたからでしょう。 -
温泉寺
山墓地から見下ろす多宝塔と諏訪湖です。
正面の建物が、「ホテル紅や」です。 -
温泉寺 願王地蔵大菩薩
歴代住職の墓域にひっそりと佇みます。
願王和尚の墓標として守屋貞治が全身全霊を傾けて彫った最高傑作と称され、願王和尚の慈悲に満ちた姿を偲ばせる記念碑的な地蔵です。
これは、1829(文政12)年、貞治65歳の時の作品です。 -
温泉寺 願王地蔵大菩薩
何とも穏やかな微笑を浮かべた地蔵ではありませんか…。
禅宗では、仏像崇拝よりも「只管打坐(しかんたざ)」と言う「無所得・無所悟・不可得」の坐禅を重んじます。また、禅宗では師が仏そのものですから、仏像を必要としません(例外としては釈迦如来像を祀ります)。開祖や高僧の像は頂相(ちんそう)と呼ばれ、仏像よりも重んじられて信仰の対象とされてきました。
生涯の師と仰いだ願王和尚の姿を石の中に追い求めた貞治は、願王和尚が亡くなった3年後の1832(天保3)年に68歳の生涯を閉じています。 -
温泉寺 諏訪高島藩主墓所
かつては、この場所に「諏訪忠恒御霊屋」が鎮座していたそうですが、老朽化が進んだために取り壊され、新しい御霊屋が建てられています。内部は非公開ですが、戒名と家紋が施された彩色鮮やかな墓碑が保存されているそうです。
2017年に「高島藩主諏訪家墓所」が国の史跡に指定されており、この温泉寺にある「高島藩主諏訪家墓所」と茅野市頼岳寺にある「諏訪氏頼岳寺廟所」が一括で指定されています。 -
温泉寺 諏訪高島藩主墓所
この先が霊廟なのですが、自由に立ち入ることができます。
初代諏訪頼水の墓地は茅野市 少林山頼岳寺にありますが、2代忠恒~8代忠恕までの墓地はこの温泉寺に、9代忠誠と10代忠礼の墓は文京区本駒込の吉祥寺にあります。 -
温泉寺 諏訪高島藩主墓所
墓所は2段の平場で構成され、上段には3~8代まで6基の藩主墓標が忠恒の霊廟を挟んで横一列に並んでいます。藩主の墓標は、共通の様式で統一された石造りの大きなものです。方形をした3段の基壇上に舟形(無縫塔半裁形)の墓標を載せる特殊舟形様式と言われ、高さ2.7m程、幅3.2m程あります。基壇には諏訪家の家紋「梶の葉」紋が彫られています。
燈籠に貼られた紙は、毎年8月に行なわれる「燈籠まつり」の残骸と思われます。 -
温泉寺 諏訪高島藩主墓所
下段には側室や子らの墓標が造営されています。また、家臣らが奉納した116基もの石燈籠が所狭しと居並ぶ様は圧巻です。最古の燈籠は、1651(慶安4)年のものになり、笠に装飾のないシンプルなものがそれに当たります。
因みに、諏訪家は、江戸時代270年の間、1度も百姓一揆などの問題を起こさなかった、庶民派タイプのお殿様の家系だったと伝わります。
こうした統一感のある墓標や石燈籠の景観を眺めるだけでも一見の価値があります。徳川幕府治世の長さにも匹敵する諏訪藩の歴史に思いを馳せられる歴史スポットです。 -
温泉寺 諏訪高島藩主墓所
山門の左側にあった「忠恒櫻」は 、諏訪忠恒が大坂夏の陣での戦勝凱旋の際に持ち帰って高島藩歴代藩主墓所の参道に桜大門として記念植樹したうちの名残の一木と先に記しました。
このような幻想的な枝垂桜の参道は、古図を基に参道の両脇に枝垂桜を植樹して往時の「桜大門」の雰囲気に近づけようとした努力の結晶です。 -
温泉寺 諏訪高島藩主墓所
高島藩歴代藩主墓所の手前には巨大な枝垂桜が佇みます。こちらは開花も早く既に葉桜になり始めていますが、古木の風格を感じさせます。
忠恒が大坂夏の陣で戦勝凱旋した際に持ち帰った苗木の1木です。天然記念物に指定されている推定樹齢320年の桜で、「シダラザクラA樹」との表記があります。恐らく、この近辺に「シダラザクラB樹」があるはずですが…。
これらの枝垂桜は、別称「温泉寺のイトザクラ」とも呼ばれています。 -
温泉寺 和泉式部の墓
諏訪高島藩主墓所へ向かう参道の途中に平安時代の歌人 和泉式部の墓の案内標識があります(写真の左奥に標識が見えます。但し、裏は白紙のため墓所から参道を下る場合は要注意)。この標識から墓地を10m程進んだ、少し判り難い所にあります。山墓地エリアにあるため、本堂の右脇にある階段を上り、その右手にある諏訪高島藩主墓所への参道からアプローチされることをお勧めします。
小さな石を積み上げただけの質素な五輪塔風で、古の女流歌人の儚さを物語るに相応しい雰囲気です。 -
温泉寺 和泉式部の墓
和泉式部は、「銕焼(かなやき)地蔵伝説」では下諏訪中金子村の出身とされています。来迎寺には彼女所縁の地蔵が祀られ、寺隣には銭湯「遊泉ハウス児湯」があります。その児湯こそ、伝説にまつわる銕焼地蔵のご利益で湧き出した湯と伝わり、地蔵を背負って運んできた北条時頼も延寿の湯として浸かったと伝わります。
下諏訪の湯屋別当に、幼くして両親を失った娘「かね」が奉公していました。畑仕事の時は、いつも道端の地蔵にお弁当をお裾分けする心のやさしい娘でした。ある時、「かね」を嫉む者の告げ口から別当の妻の怒りを買い、焼け火箸で額を打たれました。痛さに耐え兼ねた「かね」は、地蔵のもとに走り、跪いて泣きながら祈りました。すると地蔵の額から血が流れ、額の痛みは消え、いつしか美しい顔に戻っていました。これが巷の噂となり、「銕焼地蔵」へお参りする人で賑わいました。偶然都から下諏訪を訪れていた越前守 大江雅致の耳に入り、「かね」を是非にと都に伴い養女にしました。大江夫妻の下で書道や歌道などを学んだ「かね」は、歌人として群を抜き、やがて和泉守橘道貞と結婚して和泉式部となりました。
その300年後、各地を見回っていた北条時頼が、京都嵯峨野の草むらで「下諏訪に連れて行ってくれ」と悲しげに訴える声を耳にしました。発したのは、「かね」が連れて来た地蔵でした。その地蔵は、下諏訪に無事に戻されて来迎寺に祀られ、「銕焼地蔵」として慕われました。
一般的には和泉式部は大江雅致の娘とされていますが、それを否定する説もあり、さもありなんの伝承です。 -
温泉寺 和泉式部の墓
和泉式部のお墓の周辺から諏訪湖を見下ろします。桜の右横にある縦長の看板がお墓への案内標識です。このように裏面には何も記されていません。
和泉式部の有名な歌と言えば、百人一首にある次の歌です。
「あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな」。
(私の命はもう尽きてしまう。あの世への思い出に、せめてもう一度、あなたに会うことはできないでしょうか。)
平安時代のプレイガールらしい、熱い恋歌です。紫式部は『紫式部日記』で、「和泉式部といふ人こそ、おもしろう書きかはしける。されど、和泉はけしからぬかたこそあれ」となじっています。
銕焼地蔵伝説では彼女は下諏訪の出身とされ、来迎寺には彼女所縁の史跡もあります。しかし、彼女の墓は全国に15か所あるとされ、北限は岩手県、南は宮崎県です。
「和泉式部の墓」なるものの正体を調べてみると、彼女は出生と晩年が不詳なのですが、柳田國男氏は「式部の伝説を語り物にして歩く京都誓願寺に所属する尼僧たちが、中世に諸国をくまなくめぐった」と記しています。果たして温泉寺の墓はどうなのでしょうか? -
温泉寺 桜大門
恋多き女として有名な和泉式部の辞世の句は、「生くべくも思ほえぬかな別れにし 人の心ぞ命なりける」です。実は、辞世の句で残されているのはほとんどが男性のもので、女性のものは希少だそうです。
「私は間もなくこの世を去るでしょう。別れてしまった人の心が、私の命そのものでした」と言った感じでしょうか? -
温泉寺 桜大門
この瓦塀の途中から多宝塔エリアへ進むことができます。 -
温泉寺 桜大門
坂を下りながら高島藩主墓所を振り返ると、そこは枝垂桜のトンネルです。
諏訪の地に枝垂桜の巨木が多いのは、大坂夏の陣で忠恒が持ち帰った5本の苗木の子孫ということなのかもしれません。 -
温泉寺 桜大門
枝垂桜を仰ぎ見れば、薄桃色の清楚な花弁が透けるかの如くです。 -
児玉石神社
温泉寺から道1本隔てた児玉石神社も訪ねてみました。いわゆるアミニズムというか、巨石信仰の神社です。
祭神は児玉彦命と玉屋命の2柱を祀り、児玉彦命は建御名方命の孫に相当します。社の創建年代は不詳ですが、古書『根元記捜』には「下桑原鎮守大矢小玉石湯之権現」として原住民の崇敬を集めていたとあります。また、明治10年には諏訪大社の摂社に加列されています。弐年寅年申年の7年目には八剱神社の旧社殿を移して当神社の神殿としたり、千木を剰与されることが慣例だったそうです。 -
児玉石神社
鳥居と本殿の間には巨大な磐座がゴロゴロしており、古代アニミズムを彷彿とさせる神秘的かつ特異な景観を持つ社です。
背後に迫る山は茶臼山と言い、旧石器時代の遺跡群で知られています。また、ここから南方へ連なる地は先住民系の古社とも言われる手長神社が鎮座する「手長丘」で、縄文遺跡をはじめ古墳時代の遺跡が多数発見されています。つまり、この周辺は諏訪でも有数の古地と考えられています。 -
児玉石神社
鎌倉時代末期の文献『諏訪上社物忌令(ぶつきれい)之事』には、7つの石と7つの木の伝説があります。石や木を依代としてミシャグジ神を降ろす神事に使われていたようです。境内には5個の大石があり「諏訪の七石」のひとつの「児玉石」とされています。特に拝殿前にある2つの大石は、「いぼ石」と呼ばれて神格化されています。因みに、「諏訪の七石」とは、「硯石・沓石・蛙石・小袋石・亀石・児玉石・御座石」を言います。
鳥居横には樹齢250年の大杉が聳え、ご神木となっています。 -
児玉石神社 拝殿
見ることは叶いませんが、ご神体は「石棒(=巨根?)」です。本殿の中には、石棒をはじめ石皿、丸石の類が大量に集められているそうです。
祭神の1柱が玉屋命というのは、『神社明細帳』に記されています。天孫降臨に同行した神の中の一柱、つまり最古級の天津神であり、三種の神器のひとつの「八坂瓊勾玉」を作った神です。玉屋命は、勾玉を通じて「天照大神と素戔男尊の誓約」や「天の岩戸隠れ」など、『古事記』の要所に登場します。玉作部の祖神とされることからも、「玉造りの神」という神格を持つ神と思われます。
しかし、諏訪の古社に天津神が祀られているのは不自然であり、謎のひとつと言えます。「諏訪の七石」のひとつの「小袋石」が祀られている磯並社の祭神は玉依姫です。こうしたことから、諏訪には「玉」信仰が浸透していたものと考えられ、名に「玉」の付く女神を引っ張って来たとも考えられます。もうひとつ可能性があるのは、児玉彦命の妃神「美都多麻比売命」からの転化と言うことです。 -
児玉石神社 いぼ石
長野県文化財保護協会『復刻版 長野県史跡文化財天然記念物調査報告書』には、「児玉石は、上部の崖にあった石が長年の雨水によって崩れ、この場所に止まった」とあります。
写真は、児玉石神社で最大の石です。注連縄が掛けられていますから「神石」という位置付けですが、名前は「いぼ石」です。見た感じ、ジャストミートのネーミングです。 -
児玉石神社 いぼ岩
『上諏訪宮神徳記抄』には、「神が諏訪湖より大石を取り上げたが袖は濡らさなかった。中に二個の大石があり、児玉石大明神と称した」とあります。それ故、児玉石大明神(大石)は祭神の御霊代とされています。こうした大石を持ち上げるなど、手長足長やダイダラボッチなど巨人神に馴染みのある諏訪地方特有の解釈と言えなくもありませんが、「児玉石=小玉石=勾玉」と考える方が素直かもしれません。
因みに、この大石には沢山の凹部があって常に水を湛えて乾くことがなく、この溜まり水で「いぼ」を洗うと必ず治癒すると言い伝えられています。 これは、神社によくある伝承の類と思われます。 -
児玉石神社 拝殿と本殿
見ての通り、ここにも御柱が4本立っています。
この続きは、芳葩爛漫 伊那・諏訪紀行⑦高島城・SUWAガラスの里でお届けいたします。
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