2018/04/13 - 2018/04/14
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montsaintmichelさん
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茶臼山中腹の杜に鎮まる下桑原の産土神で、古くから家庭円満や子育ての神として崇敬され、地元では「手長さま」と親しまれています。明治時代以前は諏訪大社上社の末社とされ、祭神には手摩乳命 (てなづちのみこと=『日本書紀』)あるいは手名椎命(てなづちのかみ=『古事記』)を祀ります。諏訪大社の祭神 建御名方神に随従して国土経営を手助けした神とされ、建御名方神が諏訪大社に祀られる以前からこの地で信仰されていた産土神です。
手摩乳命は、『日本書紀』では建御名方神の先祖の出雲神「奇稲田姫(=櫛名田比売)」の母神として登場します。八岐大蛇退治の神話では、手摩乳命は末娘 奇稲田姫神の危機を素盞嗚尊に救われた母神です。奇稲田姫神と素盞嗚尊の子(あるいは子孫)が大己貴命であり、上社祭神の建御名方命の曾祖母に当たります。興味深いことに、同じ諏訪市内には奇稲田姫の父神である足摩乳命(あしなづちのみこと)を祀る足長神社もあります。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 観光バス
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
- 利用旅行会社
- クラブツーリズム
-
一の鳥居
JR上諏訪駅から徒歩5分程の距離にあります。
手長神社の階段の麓にある諏訪市営「精進湯」は、江戸時代から続く歴史ある温泉でしたが2017年に惜しまれながら営業を終えました。ここで潔齋してから参拝するとの意味から「精進湯」と呼ばれたそうです。
一の鳥居から見上げる石段に、思わずため溜息が漏れます。しかし、ここから見える石段は序章に過ぎませんでした。 -
手水鉢
手水は、仄かに湯気が立っており、それほど熱くはありませんが「温泉」です!
それ故、これ見よがしに溶岩が置かれていたりします。冬場は温かいので重宝するかもしれません。 -
参道
手長神社へのアプローチの石段は全部で243 段あります。良く見ると途中で歪んでいる箇所があります。御柱を曳き上げる際にずれてしまったのでしょう。曳行の凄まじさを物語っています。
尚、近所の上諏訪中学校の運動部の生徒たちは、トレーニングに今も昔もこの石段を駆け登るそうです。
汗と泪にまみれた学生時代を思い出させます。寡黙に石段を登っていると、無意識に学生時代にタイムスリップし、暫しトランス状態に陥ります。これも旅の醍醐味です。 -
手長神社
「手長」とは奇妙な名前ですが、これは「手長足長」に因みます。
「手長足長」の文献の初見は、紀元前3世紀頃の中国の地理書『山海経(せんがいきょう)』にあり、長臂国(ちょうひこく)・長服国に住む里郷人とあります。その姿は手や足が異様に長い巨人とされ、天皇の長寿や朝廷の永続を願う不老長寿の神仙として扱われ、宮中の装飾画などに描かせたようです。今で言う、「UMA(
未確認動物 )」のようなものでした。
2代目立川和四郎富昌はこの手長足長を愛好しており、下教来石諏訪神社の脇障子に写真のような作品を残しています。(1844(天保15)年制作)
これらの写真は、次のサイトから借用させていただきました。
http://doumiya-cp.com/jiin.php?eid=00097 -
手長神社
『枕草子』の第21段には、「清涼殿の丑寅の隅の北の隔てなる御障子には荒海の絵、生きたる物どものおそろしげなる手長足長をぞかかれたる。うへの御局の戸押し開けたれば常に目に見ゆるとにくみなどして笑ふほどに…」とあります。
(清涼殿の東北の墨の廂(ひさし)の間にある「荒磯障子」には手長足長の怖ろしげな絵が描かれており、戸を押し開けるもその絵が目に入る「まぁ、いけずやわぁ~」と皆笑う。)
ゆったりとした時の流れに身を委ねる女御たちのざわめきが洩れ聞こえてきそうな描写です。古来、東北の角は鬼門とされ、災いを避けるために怖ろしい絵が描かれた障子を置き、魔除けとしたと伝わります。
また、『大鏡』第3巻「伊尹伝」には、「硯箱に蓬莱山や手長足長などを金蒔絵にして作らせた」と記され、花山院(10世紀末)の頃には、空想上の人物として手長足長が広く認知されていたことが窺えます。
因みに、江戸時代には、その異様な体型から歌川国芳や葛飾北斎、河鍋暁斎らが好んで妖怪や異民族として浮世絵に描いて紹介しています。
歌川国芳の浮世絵は次のサイトから借用させていただきました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/足長手長 -
二の鳥居
一息つく間もなく、二の鳥居が待ち構えています。
神社の由諸は不詳ですが、境内付近には旧石器・古墳時代の複合遺跡「手長丘遺跡」が、境内上方には「茶臼山古墳群」が控え、古代から人の営みがあったことが窺えます。古くは「手長宮」や「手長大明神」と称される諏訪大社上社の末社であり、元々は桑原郷の総鎮守として足摩乳命と共に祀られていました。鎌倉時代に桑原郷が上桑原と下桑原に分けられた際、下桑原に手摩乳命を祀る手長神社が造られ、上桑原の足長神社と共にそれぞれの鎮守に分かれたとされます。また、近世には、高島城の鬼門に位置することから諏訪藩家中の総鎮守とされました。 -
上諏訪中学校
毎日、こんな高台まで通学するとは大変なことですね!
満開の桜とシモクレンが出迎えてくれました。 -
三の鳥居
素木造の鳥居で、鄙びて素朴ながら風格を湛えています。右側にあるのは、手水舎です。
茶臼山の中腹に鎮まる手長神社は、鬱蒼とした木々に囲まれ、まさに鎮守の杜といった形相です。 -
大欅
鳥居の左手に巨大な欅が見守ります。 -
三の鳥居
神額には「手長神社」とあります。 -
能舞台
この能舞台は、当初から手長神社にあったものではありません。諏訪市角間町で呉服屋を営んでいた白木屋(後に白作呉服店)が、末広町に所有していた別荘の敷地内にあったものを移築したものです。
そこに能舞台が作られたのは大正時代初期のことです。往時は、個人で能舞台を所有するなど前代未聞のことでした。こうしたことから、如何に往時の諏訪地方が製糸業で潤っていたかが窺えます。
時は移り、1934(昭和9)年、白木屋の当主が手長神社に地域の皆さんのためにと寄進を申し出て、この場所に移築・奉納されました。 -
能舞台
現在は境内で行われるお祭りに使われています。
七夕のお祭り「乞巧奠(きっこうてん)」では技芸の上達を祈ってここで音楽や落語が奉納されます。 -
むすびの大欅
拝殿に向かって右側、能舞台の奥に2本の大木が寄り添っています。推定樹齢400年の大欅ですが、途中で梢が結ばれていることから「縁結びのパワースポット」として人気です。
共に苔生した幹が年輪を感じさせます。 -
むすびの大欅
しっかり連理しています。 -
一の御柱
このような立派な「御柱」は、諏訪大社だけの専売特許かと思っていましたが、先入観で物事を判断してはならないことを思い知らされました。
御柱とは、諏訪地方の風習で、神社のご神体の外側四隅に神域を結界するために立てられた柱であり、樅の木の枝を打ち払って樹皮を剥いた、長さの異なる4本の立柱のことです。
ここの御柱は、周りの木立に匹敵する18m程の高さがあります。流石に太さは周囲2.2m程と諏訪大社の御柱には敵いませんが、長さはさほど変わらないかもしれません。 -
二の御柱
こうした御柱が4本、社殿の周囲に立てられています。
この御柱は、諏訪郵便局の隣にある参道の石段243 段を氏子らが曳き上げたものです。手で触れてみると、氏子たちのエネルギーがこの御柱に宿り、その脈動が伝わってくるかのようです。
寡黙に見上げていると、曳行の氏子たちの掛け声が木霊のように響いてくるような気がします。 -
大欅の蘖(ひこばえ)
石段の右手にある玉垣には、か細い木が植えられています。この玉垣の由来は、「かつてご神木とされた大欅が枯れてしまった。ところが、蘖が生え出て、それがここまで成長した」ということのようです。 -
手長神社
諏訪神社上社の北6km程の距離にある神社ですが、社殿はそちらを向かず南西を向いています。下社は南、諏訪湖は北西になるため、どちらにも向いていないのは興味深いところです。高島藩高島城の北東に位置するため、その鬼門を鎮守する役であるが故に敢えてそちらに向けたのかもしれません。
正面には南アルプスの前衛となる守屋山が聳えています。守屋山は、聖なる山と称され、諏訪大社上社本宮の御神体でもあります。これが、諏訪大社上社の末社としての所以でしょうか? -
手水
侘び寂びの極みです。 -
拝殿
社殿は、正面の弊拝殿の両側に片拝殿を持つ諏訪大社に似た構造で、弊拝殿は一間毎の真四角に構成した方一間、入母屋造、向拝に流破風を載せています。 -
社殿
社伝によると、1782(天明2)年の創建とされます。社殿は、諏訪大社にも引けを取らない、凝った造りです。
神紋は諏訪大社上社と同じ「諏訪梶の葉」が使われ、ご利益は子育て、家内安全、良縁成就となっています。 -
社殿
拝殿は流破風造、銅板葺の立派なものですが、建築者にはライバル同士と思しき立川和四郎富棟と伊藤庄左衛門の名が連なっています。実は、手長神社の建築に当たり、往時の2大勢力の立川流と大隅流の間で一悶着あったそうです。
元々、手長神社の建築権は慣例的に大隅流にありましたが、立川流が慣例を破って請け負ったことでトラブルに発展しました。6年間の論争の末、近隣の貞松院の住職の仲裁で立川流が大隅流に詫びを入れて和解しました。故に、設計を大隅流、実際の建築を立川流が行うという歴史に残る贅沢なコラボが実現したのです。 -
拝殿
諏訪大社下社秋宮の幣拝殿を手がけた初代 立川和四郎富棟の作です。彫刻の美しさにおいて全国でその名を轟かせた、立川流の真骨頂が随所で見られます。
建物の解説に度々登場する2流派が「大隅流」と「立川流」です。この2流派は、江戸時代に端を発する大工集団です。大隅流は古くから藩お抱えの作事方(さくじがた)で城の修繕なども請け負う高島藩お墨付きの職人集団でした。
一方、初代 立川和四郎は、江戸の立川小兵衛富房に建築の技法を学び、和四郎冨棟と称しました。
和四郎富棟が修行を終えて諏訪で立川流を興した時、諏訪では大隅流が全盛時代を迎えており、両流派間に度々争いが起き、時の諏訪藩主が下社の社殿を同時に造らせて腕を競わせています。それ故に、秋宮を立川流、春宮を大隅流が請負い、同時期に同規模、同期間の条件でコンペが行なわれ、その結果、立川流が評判を得てそれ以後隆盛したと伝えられます。 -
拝殿
社号額には、手長神社の古称である「手長宮」と書かれています。古くは手長宮や手長大明神の名で呼ばれ、諏訪大社の三十九摂社のひとつでした。
神紋は、梶葉紋です。梶は、クワ科の落葉高木で布や紙の原料になり、また神事の際に幣帛として用いられる神聖な植物です。古くから諏訪社の神紋に定められ、梶は諏訪明神を表すものとされてきました。
上社は根が4本ある四本梶、下社は根が5本ある五本梶となっており、諏訪家はこの四本梶をさらに丸で囲んでいます。
京都 冷泉家に伝わる七夕の行事が「乞巧奠(きっこうてん)」です。乞巧奠は、七夕の起源とされる宮廷行事とされ、針仕事が上手になるようにと織女にお供え物をし、梶の葉に和歌を認め、五色の布に吊るします。因みに、七夕の時に短冊に願い事を書く風習は、乞巧奠が由来だそうです。梶の葉の裏側は小さな毛で覆われており、文字が書き易いそうです。「はがき」は「葉書き」という字を当てますが、そのルーツが梶の葉です。 -
拝殿
向拝には、羽を広げて今にも飛び立ちそうな鳳凰が君臨します。
細部まで丁寧に仕上げていることが遠目にも伝わってきます。 -
拝殿
虹梁蟇股には「唐獅子牡丹」が睨みを利かせます。 -
拝殿
立札には「昭和29年6月15 日、不慮の火災により損傷」とあり、何処が復元されたのかは定かではありません。ただ、彫刻のエッジの丸み加減でおよその想像は付くものですが…。 -
拝殿
木鼻にある阿形の獅子です。
右と左で色とエッジの丸みが異なるのが判りますか? -
拝殿 下り龍
全体的に色彩の乏しい素木でコーディネートされており、特に海老虹梁にある黒ずんだうねるような上り龍・下り龍が今にも動き出しそうな気配です。胴体をくねらせる龍の激しい動きを見事に切り取った雄渾な彫刻です。
この龍や向拝に設けられた鳳凰に見られる、年輪や木目、節を見極めて自然のままを生かした彫刻技法は、立川和四郎富棟の作風とされます。 -
拝殿 下り龍
黒く変色しているのは「昭和29年の不慮の火災」による焼跡のようですが、龍や木鼻の獅子の一部などが焦げはしたものの、奇跡的に焼けずに残ったようです。 -
拝殿 手挟(たばさみ)
向拝の手挟は菊をあしらっています。 -
拝殿 左側面
上段の欄間には瑞雲があしらわれ、下段には他の華やかな彫刻群とは対象的に波間に貝類を配しています。立川流は「波」を好んだそうですが、およそ海とは無縁の地でもあり、よく観ないとこれらが貝類だとは思いも寄りません。
海への憧憬の表現でしょうか…。
因みに、諏訪には、足長の上に手長が乗って諏訪湖の貝を採っていたという伝承もあるそうです。しかし、淡水ですのでサザエやアワビはあり得ません。 -
拝殿 左側面
蟇股は、「梅とつがいの山鳥」をあしらっています。 -
拝殿 正面
下から仰ぎ見ると、木目や節を計算した立川流独特の彫刻の凄みが圧巻です。これぞ立川流の真骨頂です。いい仕事をされています。 -
拝殿
木鼻にある吽形の獅子です。 -
拝殿
その奥に佇むのは、阿形の獅子です。
単調にならないように阿吽を使い分けています。 -
拝殿 上り龍
焼け方が軽かったのか、こちらは龍の表情を読み取ることができ、迫力があります。 -
拝殿 上り龍
瑞雲を貫いて天空へと駆け上ろうとする、躍動的でエネルギッシュな龍です。 -
拝殿 手挟(右側)
こちらも菊です。 -
拝殿 右側面
欄間は3面共に同じコンセプトで彫られています。 -
拝殿 右側面
波間には、意味深に渦巻きの状のホラ貝やサザエ、アワビなどの貝類が彫られています。陰になっていて少し暗いのですが、ここの彫刻であれば貝類と気付くと思います。 -
拝殿 右側面
蟇股は「松と鷹」をあしらっています。
いい仕事を見せていただけました!(合掌) -
延命杉
推定樹齢500年とされる延命杉は、拝殿に向かって左後方に聳えます。
梢を仰ぎ見ながら、3回深く息をすれば、憂いが晴れ、長寿になるそうです。 -
社殿
ここからも本殿の屋根が少しだけ拝めます。 -
社殿
長い回廊から片拝殿へ階段で上がり、その先にも階段が設けられ弊拝殿に繋がっています。 -
回廊
神社の静謐さ、神域の雰囲気をよく醸している回廊です。 -
回廊
天井に収められた綱は、御柱を曳き上げたり、御柱を立てる際に用いられるものだと思います。 -
社務所
回廊から左へ折れ、その奥に更に石の階段が続き、下段の社務所に繋がっています。 -
手長神社 境内
諏訪湖が見渡せる絶好のロケーションです。湖畔に建物などが立っていない時代は、さぞかし壮観な風景だったことでしょう。こうした立地から、映画『君の名は。』に登場する「糸守湖」を見下ろす神社「宮水神社」を彷彿とさせます。
因みに、近くにある高校が諏訪二葉高校です。「二葉」はヒロイン 宮水三葉の母親の名前でした。これは単なる偶然なのか??? -
手長神社 境内
保久良神社で紹介した「戦利兵器奉納」がこの神社にもありました。
日露戦争後、明治39年に陸軍が「戦利兵器奉納ノ記」という文書と共に23170箇所の神社などに砲弾を配付した記録があります。これに加え、海軍からも砲弾が下附されたそうです。しかし、現在はそのほとんどが姿を消しています。その理由の筆頭が太平洋戦争での金属類回収令です。更に、GHQの撤去命令や彼らの目から隠すため処分したものも多いそうです。ですから、現在残っている砲弾は、貴重な遺産と言えます。 -
弥栄神社(いやさかじんじゃ、手長神社旧本殿)
1709(宝永6)年、大隅流 伊藤庄左衛門によって建造された旧本殿です。
一間社流造、銅板葺屋根(元は杮葺)の社殿です。向拝柱は、几帳面取り角柱、頭貫の先の木鼻は象鼻、中備えは蟇股、母屋とは海老虹梁で繋いでいます。
何より目を引くのが諏訪大社上社と同じ神紋が掲げられていることです。勿論、ここにも御柱が4本立てられています。
現在の本殿が造営された際、弥栄神社として再出発しました。 -
弥栄神社
意匠は江戸時代後期、立川流と大隅流が彫刻を重視する前の過渡期のもので、虹梁の彫刻や扁平な木鼻、蟇股の薄肉彫りの彫刻はいずれも写実的なものではなく、しがみ彫りなど江戸時代前期のものを残しています。 -
末社
弥栄神社の左側、手長神社のすぐ隣に建てられた社です。小振りですが、千木や鰹木が設けられた威厳な造りです。
どなたを祀っているのかと訝しく思っていると、社の後ろの石碑に刻まれた文字に目が点になりました。なんと「天照皇大神宮」と刻まれているではありませんか…。それ故に、旧本殿よりも本殿に近いこの場所に祀られているのでしょう。千木は内削ぎですので女神を祀っているのは確実です。
手摩乳命と天照大神にどんな繫がりがあるのか、調べてみました。
大国主命が国を譲る際、天照大神は彼のもとに建御雷神を使者として送りました。しかし、大国主命は、自分だけでは判断できないので、2人の子供の意見も聞いて欲しいと頼みますが、そのうちの一人が建御名方神です。また、手摩乳命は、建御名方神の先祖の出雲神 奇稲田姫の母神です。これが由来とすれば、相当遠い縁のはずですが…。 -
本殿
拝殿と弥栄神社の隙間から本殿が覗けます。しかし、拝殿や囲いが邪魔して屋根しか拝めませんので、本殿よりも拝殿をじっくり見られることお勧めします。
諏訪では珍しい神明造ですが、背後の山に掘り割られた猫の額ほどの狭い場所に建てられています。祭神が女神の手摩乳命のためでしょうか、千木は内削ぎになっています。 -
境内末社
拝殿の横に並ぶかのように鎮座し、洩れなく御柱が立てられています。御柱の上端は、三角錐型に先を尖らせた「冠落し」になっています。逆に下端は、地面に穴を掘って突き立ててあります。
因みに、境内には70以上の祠と40以上もの末社があるそうですが、そのほとんどが近隣に家の祖霊社だそうです。御柱は各家が立てるため、御柱が立っていない祠は祭司が絶えた家と判るそうです。 -
聖徳神社
回廊の先に道が繋がり、別の神社へと誘います。その名は、全国津々浦々に存在する聖徳神社。手長神社の所管となりますが、否応なしに感じるこの違和感の元凶は拝殿前で睨みを利かす狛犬ならぬ「狛鯱」の存在です。恐らく他に類を見ない神社だと思います。
聖徳神社の由緒は、大工などの職に携わる上諏訪工匠組合が1938(昭和13)年の御柱祭に当たり、社を建立したと伝わります。
祭神:聖徳太子
ご利益:国家安寧、他。つまるところ、個人的なお願いができない、伊勢神宮のような存在の神社です。 -
聖徳神社
この鯱は、高島城の復興天守の頂点を飾るために制作されたものですが、結局、日の目を見ることはありませんでした。上諏訪町末広町の工匠 宮坂友右エ門等が工匠組合の手で鯱を復興したいと、上諏訪工匠組合(お太子講)を組織し、その募金で制作した作品なのですが…。
一対の鯱は、高さ1.94mある瓦製です。天守に燦然と輝くことが叶わなかったのは、不運にも昭和の大恐慌で天守再建計画自体が頓挫したためです。それ故、工匠組合繋がりでこの神社に止む無く奉納されたという訳です。当事者の無念と鯱の嘆きが如何ほどのものだったか、想像に難くありません。 -
聖徳神社 鳥居
素朴な木造の鳥居です。 -
諏訪湖まで戻ると斜陽が湖面を黄金色に輝かせていました。
このつづきは、芳葩爛漫 伊那・諏訪紀行⑤上諏訪 諏訪湖でお届けいたします。
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