2018/04/13 - 2018/04/14
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montsaintmichelさん
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- フォロワー169人
高島城は諏訪氏の居城として知られ、現在見られる天守は豊臣秀吉の家臣 日根野織部正高吉が7年の歳月をかけて1598(慶長3)年に築いた梯格式と連郭式併用の望楼型3重5階(3重4階の説もあり)を復興したものです。諏訪氏は、軍神を祀る諏訪大社の大祝も務め、「生き神」として特異な権威を誇った家柄です。
高島城は、かつては諏訪湖が城際まで迫り壕の役割を果たしたことから、難攻不落を誇る総石垣の水城( みずき)と称えられ、松江城や膳所城と並ぶ日本三大湖城のひとつに数えられ、「諏訪の浮城」や「島崎城」とも呼ばれました。また、「諏訪の殿様よい城持ちゃる、うしろ松山前は海」と謡われた名城でもあります。平城としては日本最高の標高760mの地に築かれ、「続日本100名城」の130番に挙げられています。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 観光バス
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
- 利用旅行会社
- クラブツーリズム
-
高島城
9:30に宿泊地出発でバスの旅2日目が始まりました。
ホテル紅やさんから15分程のドライブで高島城に到着です。
バス駐車場からは陸橋を渡って登城します。
濠に垂れさがる枝垂桜が見頃です。 -
高島城
滝のように勢いよく流れ下っています。
諏訪のお城の遷移を紹介しておきます。(少々複雑です。)
中世に諏訪湖畔に勢力を広げた諏訪氏は、上諏訪駅の東側にある茶臼山に城砦を築きました。それが高嶋城(茶臼山城)でした。その後、諏訪氏は現在の諏訪市中洲(諏訪大社上社本宮の北側)に新たな居城 金子城を築き居城としました。しかし、戦国時代末期に豊臣秀吉を盟主とする大名連合ができると諏訪氏は武蔵国に転封されました。その後、日根野氏が領主となり高嶋城を拠点とした後、諏訪湖畔の低湿原だった場所に新たに高島城を築きました。やがて日根野氏が転封すると信濃諏訪藩の初代藩主 諏訪頼水が高島城を居城に諏訪を治めました。 -
高島城 本丸
小田原征伐の功により入封した日根野織部正高吉により、1598(慶長3)年に総石垣造で8棟の櫓、6棟の門、天守などが建てられ、水城と称される近世城郭の体裁が整えられました。しかし、江戸時代初期に日根野氏は転封となり、その後、約270年もの間、諏訪氏がこの地を治めました。
諏訪頼水が城下町の拡張を図るために諏訪湖の干拓を行ったため、水城の面影は失われています。明治維新で廃城になって石垣と塀のみになり、1876年に「高島公園」として一般開放されました。その後、1970年、市民の熱望により天守や一部の櫓が復興されて現在に至ります。 -
高島城 旧三の丸御殿裏門(移築現存)
本丸の諏訪湖側に面した場所に設けられていた川渡門跡に建てられた門です。現在の門は、三の丸にあった御殿の裏門をこの場所へ移築したもので、往時の川渡門の面影はありません。江戸時代から残る高島城の唯一の建築遺物を何処に配するか、議論が伯仲したことでしょう。
門の奥に見える道路がある所はかつての諏訪湖であり、浮城の時代にはこの門の先に船着場があったそうです。 -
高島城
葛飾北斎筆『富嶽三十六景 信州諏訪湖』にはこのように描かれていることから、湖が城の間際まで迫っていたことが窺えます。(富士山の手前にあるのが高島城です。)現在、干拓や湖の面積の縮小により湖岸と城は800m程離れていますが、かつては諏訪湖の波が城の石垣に打ち寄せ、こうして対岸から見ればまさに湖面に浮かぶ水城だったはずです。
この浮世絵は、次のサイトから借用いたしました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:View_of_lake_Suwa.jpg -
高島城 本丸 藤棚
現在の本丸は、明治時代に新造された「心」の字の形をした心字池を中心に配した庭園となっており、市民憩いの場となっています。池の手前にある藤棚は、本丸が公園として開放された当初(明治9年頃)に植えられたもので、樹齢140年を誇り、市の天然記念物に指定されています。 -
高島城 本丸
青空に映えるソメイヨシノです。
見慣れた桜ですが、旅先で見ると何故か凛々しく感じられるから不思議です。 -
高島城 本丸 石集配湯枡
天守へ続く石段の左脇には、 沢山の穴が開いた奇妙な石が置かれています。
1803(享和3)年、7代藩主 忠粛(ただかた)の時代、城内「三の丸浴場」に引湯するために穴の部分に木樋を継ぎ、集湯や配湯を行なった石枡の痕跡です。
高島城は、藩主が温泉を愉しんでいた城でした。「三の丸浴場」は、高島藩作事方筆頭大工棟梁 伊藤儀左衛門光禄が下鶴沼(現 弁天町)に天然に湧出していた温泉を木管で220間引湯して浴室と汲み湯場を設けたものです。当初は藩主が使用していましたが、その後、城内居住の藩士たちに便宜を図ったそうです。 -
高島城 天守
天守へのプロムナードとなるのが、復興時に造られた大階段です。かつては天守に向かって左側に小天守が建てられており、そこから天守へ登城したようです。尚、階段の右側にあるのは立派な「復興碑」です。
戦国時代、諏訪氏は武田信玄の妹を諏訪頼重の正室に迎えて関係を強化するも、父 武田信虎を追放した信玄が1542(天文11)年に突如諏訪上原城に侵攻しました。頼重は信玄が企んだ偽りの和議で甲斐へ連行され、そこで切腹を科され、諏訪氏は滅亡し諏訪は武田領となりました。その後、武田勝頼が織田信長に敗れて武田氏が滅ぶと諏訪は織田領となりました。しかし、1582(天正10)年、信長が本能寺の変で討たれると、諏訪頼重の叔父の子 頼忠が旧臣と共に諏訪氏を復活させ、諏訪の地を取り戻して金子城を居城としました。 -
高島城 天守
諏訪を治めた諏訪頼忠は信濃支配を狙う徳川・北条両氏に挟まれるも、最終的には徳川家康に帰属し、領有を安堵されました。しかしそれも束の間、家康の関東国替えに伴い武蔵国奈良梨へ、更に上野国惣社へ転封させられました。諏訪氏に代わって領主となったのが、豊臣秀吉の家臣 日根野織部正高吉でした。高吉は諏訪湖畔の高島で築城に着手し、1598(慶長3)年に完成させました。
高吉は領内統治の仕組みを作るなど領主としての足固めを進めましたが、1600(慶長5)年の関ヶ原の戦い直前に死去します。子 吉明が後継するも、翌年に下野国壬生に転封し、その後、諏訪を治めたのが諏訪頼忠の子 頼水でした。以後、10代忠礼の治世に明治維新を迎えるまで高島城を居城に諏訪氏が治めました。 -
高島城 天守
石垣は幾度も積み直されていますが、天守から伸びる石垣は自然石を加工せずに積み上げた野面積みです。角石の稜線だけ加工した石を用い、しっかり算木積みしています。松本城と同様に元は湿地で地盤が軟弱なため、沈下しないように大木で組んだ筏の上に石垣を積んでいます。天明6年の大補修の際、その殆どが整備されたそうですが、現在も築城当時の石垣が見られる箇所もあります。 -
高島城 天守
天守南面の石垣は、結構小さめの丸い石が端正に積み上げられた野面積です。
築城当時のものかもしれません。 -
高島城 天守
壁は屋根直下の白い漆喰部以外は板張りに見えますが、実は全て鉄筋コンクリート造です。つまり、合理的と言うか、この板張りもペイントしたフェイクです。
現在の天守は、12mの石垣の上に建つ高さ20.2m(含、鯱)の復興天守です。また、古写真の通り、天守台の広さに比べ天守の方をやや縮小した造りで再建されています。こうした場合、石垣の天面が露出するため、そこから雨水が染みて石垣の膨張破損に繋がる恐れがあり、小さな屋根を設けて雨水が石垣内部に入るのを防ぐのが常套手段です。元々の天守はそうした構造だったそうですが、何故か昭和の再建ではそれが省かれ、露出部をこのようにコンクリートで塞ぐという荒っぽい改変がなされています。
技術者が設計の本質を理解せずに流用設計を行い、大失敗する事例と良く似ています。「他山の石」としてくださいね! -
高島城 天守
天守は、1970(昭和45)年に復元されています。
地盤が軟弱だったことから重量に配慮する必要があり、一般的な瓦葺ではなく柿葺屋根になっているのが特徴です。それ故、意匠に自由度が高まり、屋根が独特の流麗なカーブ感を魅せています。それを銅板で再現しているのが何とも優美です。
築城した日根野織部正高吉は信長や秀吉の下で安土城や大坂城の普請を経験していたことから、織豊系城郭の特長を色濃く反映した天守と言えます。初重を入母屋の大屋根とし、そこに2重の望楼を載せ、2重目には東西面に入母屋破風出窓、3重目には南北面に火灯窓を持つ切妻破風出窓と東西面に外高欄縁を設けた優美な天守です。
軟弱な地盤の上に建てられた天守は、さもありなんというスケールです。しかし、その分端正な優美さを備え、どこか女性的な美しさは無意識に武田勝頼の母親 由布(ゆぶ)姫の面影を重ねさせます。由布姫が自害しようと立て籠った舞台は、この高島城ではなく、高嶋城(茶臼山城)であったにも拘わらず…。 -
高島城 本丸 覗石松
天守への石段の右脇に植えられた背の低い盆栽風の松です。
右端にある「亀石を覗く松」という意でしょうか?
どんな由緒がある松なのか未詳ですが、亀石を見つけるための目印になることは間違いありません。 -
高島城 本丸 亀石
元々、城内の庭園に置かれていた亀の甲羅の形をした石でしたが、1875(明治8)年の廃藩置県の際に場外へ移されました。その後、所有が引き継がれ、河西謙吉氏の庭に安置されていたものを2007年に312年ぶりに高島城へ帰還させた由緒ある石です。
この石は、「亀の甲羅のように見える部分に水をかけると、まるで亀が生きているようになり、願いが叶う」と言われています。高さ0.5m、幅1.2m、厚さ0.7m、重量800kgあるそうです。 -
高島城 本丸 亀石
この亀石に関する情報は少ないのですが、興味深いものがヒットしました。
この亀石の由来を、古代における奇石信仰の一神体「諏訪の七石」のひとつとする説です。江戸時代以前の文献には「千野川に在り浮石・茅野・茅野村亀石に在・宮川内・茅野村内・ちの」と記されています。茅野市にある千野川社では今でも亀石明神を祀っていますが、御神体の亀石は傍を流れる宮川の氾濫により流されて行方不明のままだそうです。八方手を尽くしても発見できず、止む無く亀甲形の亀裂がある別の石を祀ったのが現在の千野川社の亀石だそうです。
一方、亀石を祀った千野氏の末裔 千野廣著『千野(茅野)氏概説』には、次のような記述があります。
「1482(文明14)年に行方不明となった亀石は、宮川の河床中に埋まっていることが発見され、それを掘り出すことができた。源地亀石の地に復帰せしむべきであると主張する者もあったが、川堀の役人の指図により、高島藩主のもとに提出することに決し、高島城内に搬入された。(中略)この亀石は、現在亀石大明神として祀られている亀石に比して、だいぶん大きく、かつ、その全体があたかも大亀がはっているような形をしている。この亀石が、果たして千野氏が、その古屋敷の邸内に亀石大明神として祀っていた亀石そのものであるかどうかはわからないが、もしそうだとすれば、この大きな石が、古屋敷から宮川の下流1500mもの川下、小町屋付近まで押し流されたものとすれば、宮川の大洪水もさぞかし驚くべきものであったろうと思われる」。 -
高島城 本丸 心字池
心字池には花筏が浮かんでいます。 -
高島城 冠木門
冠木門を本丸側から撮影したものです。門の先が二の丸です。
冠木門の詳しい形式は不明のようですが、礎石等の遺構から櫓門ではなく薬医門形式の高麗門とされ、左右の石垣の上には武者溜りが配されていたそうです。現在の門は、昭和の再建の際に改変されたもののようです。
壁に開けられた四角や三角のマークは「狭間」と言い、木橋を渡って侵入してくる敵兵に向かって内側から射撃などを行う攻撃のための穴です。
高島城は、背後にある本丸、門の先にあった二の丸や三の丸が梯型に連なった連郭式の配置になっています。 -
高島城 冠木門
二の丸跡からこの冠木橋を渡った先に、復元された楼門があります。
本来、冠木門の形式は、左右2本の柱と梁だけの質素な門です。しかし、高島城を描いた古絵図から、こうした楼門あるいは高麗門と思しき屋根付きの門が建てられていたのが判っています。恐らく、当初は冠木門であったものが、後に楼門に建て替えられ、以後はその名だけが残されたものと考えられています。 -
高島城
茶色をした独特の雰囲気が印象的な天守です。しかし、この角度からは、銅板屋根の緑青部分が見えてしまいます。復元に際し、柿葺に似た印象や色合いの銅板葺が選ばれたはずなのですが…。柿葺の時代には緑青色はなく、全体的に茶系モノトーンの美しい天守だったはずです。銅板が緑青になるまでの短期間は、往時の風情を湛えていたのでしょう。
石垣と水堀は現存、土塀や天守は復元です。また、窓が増設されたり(最上階の破風下等)、窓の大きさや位置、細部などがオリジナルと異なることから外観復元とは見做されず、正確には「復興天守」です。
「復興天守」とは、天守があった場所に再建された外観の異なる天守を言います。正確に復元するための資料があったはずですが、何故こんなことになってしまったのでしょうか? -
高島城
低湿地で軟弱な地盤に築城したため、木材を筏状に組み、その上に石垣を積むなど往時の最先端技術が駆使されています。それでも石垣が壊れ易く、度々補修工事がなされたそうです。また、7年間という短期間で築城したため無理をしており、地元では「過酷な労役に苦しんだ」とか「石材を確保するため、金子城の石材は全て持ち出された他、墓石、石仏も転用された」などの伝承が残されています。諏訪に古い墓石がないのは石垣に転用されたためとされ、老若男女を駆り出し、怠る者を石垣の中に生き埋めにしたとも伝わります。
転用石は、姫路城の旅行記でも紹介しましたが、戦国時代の城郭にありがちな、短期間に築城するための合理主義の発露と思われます。 -
高島城
定番のカメラアングルです。
高島城を紹介する旅行誌などでよく目にする一枚です。 -
高島城
手前の角櫓から伸びる東面の内濠の石垣には、「横矢掛け」が設けられています。
石垣を真っ直ぐ平坦に積むのではなく、出っ張らせることで死角を封じ、その出っ張りから石垣に張り付いた敵兵を側面から射ることができる「合横矢(あいよこや)」と言う仕組みです。
関ヶ原の戦い以前に築城されていますから、実践的な構えです。 -
高島城 冠木門
冠木橋を渡って本丸へ戻ってきました。
往時、冠木門の先には内桝形があり、その内側にある御殿は見通しが利かなかったはずですが、現在は庭園全体が見渡せてしまいます。 -
高島城 本丸 角櫓
冠木門を潜った左側の武者溜りには、「多門跡」との立札があります。
本丸には、天守と城主の御殿や書院、政務を執る御用部屋、能舞台、氷餅部屋などの建物が配されていたそうです。また、角櫓や持方月櫓、富士見櫓の3つの櫓がありましたが、そのうちの一つ、本丸正面に位置する角櫓だけが復元されています。残り2つの櫓は、跡地が残されているだけです。 -
高島城 本丸 庭園
本丸の中央部は心字池を中心に構えた回遊式庭園です。ただし往時の遺構ではなく、明治時代に新造された庭園です。庭園の脇には「本丸御殿跡」の説明板がありますが、造園により遺構は失われています。 -
高島城 本丸 ミヤマキハダ
角櫓の右脇には、推定樹齢130年と伝わるミカン科キハダ属「ミヤマキハダ」が聳えており、市の天然記念物に指定されています。5月末~7月初旬にかけて黄緑色の細かい花を円錐花序に付けます。樹皮内側にある黄色い色素が健胃整腸薬になると伝えられ、漢方の世界では黄檗(おうばく)の名で知られています。キハダの名は、樹皮を剥ぐと内側が黄色いことが由来です。
この大樹は、高島城時代に薬用として植えられたものが、城の取り壊しの際に切り倒され、その後、切り株から新芽(蘖)が生えて今の姿になったと伝わります。
因みに、キハダは諏訪市の市木でもあります。 -
高島城 本丸 天守
天守に置かれた鯱は、高さ1.7m、重量250kg、耐久耐震性に勝るブロンズ製になっています。 -
高島城 諏訪護国神社
神社から見た天守です。
軟弱な地盤ゆえ、天守の屋根は柿葺だったと記しましたが、もうひとつそうさせた決定的な理由があります。冬の寒さが厳しい諏訪では、寒暖差により瓦が割れてしまうからです。諏訪の寒冷に堪えられる瓦が調達できなかったのです。
手前にある時計台の時計は地元「SEIKO」製でした。諏訪は「東洋のスイス」と言われ、三協精機や諏訪精工舎、セイコーエプソン、チノンなど精密機械メーカが集まっています。 -
高島城 土戸門跡
南端にある本丸搦手に当たるこの門跡は、城の勝手口でした。
二の丸から続く冠木門を通る資格の無い商人や職人たちが、ここから出入りしたそうです。周囲には石垣や土塁が残されています。 -
高島城 土戸門跡
門跡のすぐ外に佇むのは、信州名物の「道祖神」です。
道祖神は安曇野が有名ですが、諏訪の特徴は四隅に立てられた御柱です。 -
高島城 南東の石垣
冒頭で紹介した枝垂桜の所まで回ってきました。 -
高島城 南東の石垣
歴史小説は、史実を尊重するものの、その大半はフィクションです。しかし、「事実は小説より奇なり」と言うように、由布姫の史実は小説以上のものをちらつかせます。由布姫の名は井上靖著『風林火山』の中で仮に名付けられたもので、正確な名は残されていません。執筆のために滞在した由布院に因むそうですが、一般的には諏訪御料人や諏訪御前と呼ばれます。法名「乾福院殿梅巌妙香大禅定尼」から「梅姫」との推測もありますが、これも定かではありません。
由布姫は武田信玄に敗れた諏訪頼重の娘で、上原城落城後、高嶋城(茶臼山城)に身を寄せ、そこで自刃しようとしていたところを武田氏の軍師 山本勘助に救い出され、後に信玄の側室になって勝頼を産みました。しかし、25歳の若さで病に倒れ命を落とした、薄幸のヒロインでもあります。因みに、『風林火山』では、信玄を差し置いて山本勘助と由布姫が主役の座を奪っていますが…。 -
高島城 南東の石垣
信玄は、はじめは頼重の遺児を擁立して諏訪を統治する計画でしたが、思い直して由布姫を側室に迎え、その男子に諏訪を継がせることにしました。由布姫が信玄の居城 躑躅ヶ崎館に輿入りしたのは14歳。『甲陽軍鑑』では「かくれなきびじん」と記し、その容貌を讃えています。何の因果か一族の仇敵 武田氏の側室となり、勝頼を生んだ由布姫の心のうちは如何ほどだったのでしょうか?
僅か2年程で諏訪に戻され、小坂観音院で勝頼を産み、そこで短い生涯を送りました。由布姫が亡くなったのは、勝頼が10歳の時でした。
浅田次郎著『武田信玄』では正室三条夫人の湖衣(こい)姫(由布姫)に対する陰湿ないじめが事細かに描かれていますが、全てフィクションであり、現在はそうした事実はなかったとするのが有力です。調べれば判ったことであり、話を面白くしたかったのでしょうが、このような人権を無視した脚色は三条夫人の名を貶め、後世にも波紋を及ぼします。勿論、大河ドラマでは時代考証を怠ったNHK側にもその非はあるのですが…。 -
高島城 南の丸 松平忠輝の祠
土戸門を出て県道50号を横断した諏訪市役所の駐車場奥、かつては南の丸だった諏訪市武道館の手前には、松平忠輝を祀る小さな祠が佇みます。
高島城は、見るからに美しい水辺に立つ水城ですが、実は江戸時代には意外な側面がありました。「流罪人の監禁場所」でもあったのです。陸地から隔離された南の丸は、悪人を捕らえておくのにも最適な場所でした。しかし、罪人と言っても藩主級の貴人の拘留地でした。 -
高島城 南の丸 松平忠輝の祠
この地に流罪となった有名人が松平忠輝と吉良義周(よしちか)です。忠輝は家康の6男です。越後高田藩主に就任し、伊達正宗の娘 五郎八(いろは)姫を正室に娶って出世街道を直走るのですが、素行が荒く家康に疎まれ、兄 秀忠の治世に改易になり高島藩が預かりました。伊達政宗や大久保長安等と組んで天下取りを企てたとも伝えられますが、進歩的な開国思想の持ち主でした。ここで57年間幽閉させられ、5代綱吉の治世に93歳で天寿を全うしています。
一方、義周は「忠臣蔵」で有名な吉良義央(上野介)の孫で、後に義央の養子になったのが運の尽きでした。世論に押されて言われなき罪の責任を負わされ、配流から3年後、悶々とする中で21歳という若い命を散らしました。養父を救えず、吉良家を守れず、家臣らを失い、肉親らの命を奪った浪士らが持て囃される一方、自らは民衆の嘲笑を浴びて生きる…。死ぬよりも辛い3年間だったことでしょう。
難攻不落の高島城ですが、「入る」のも「出る」のも決して容易ではない場所だったようです。 -
高島城 南の丸 松平忠輝の祠 諏訪鉄平石
祠への参道橋の欄干には「松平忠輝公館」とあります。この橋の特徴は、霧が峰周辺で採掘された諏訪鉄平石製であることです。諏訪に広く分布する輝石安山岩の板状節理がよく発達した岩石で、名の由来は鉄のように硬く平らなことに因みます。2500万年前の火山活動で形成され、板状に剥がれ易い物性を持ち、2~3cmの厚さに剥離されたものは建築用の内・外装用石材として利用されています。
江戸時代後期から明治時代にかけては、特に諏訪において民家の屋根材に活用されました。重い鉄平石は運搬や建築に労働力を要し、屋根材に鉄平石を用いることは一種のステータスシンボルだったそうです。諏訪で鉄平石の屋根が普及したのは、諏訪特有の強風でも飛ばされず、また瓦よりも寒さや積雪に強かったからです。 -
高島城 南の丸
西洋タンポポでなく、和タンポポでホッとする瞬間です。 -
SUWAガラスの里
高島城を後にして諏訪湖の南端までやってきました。
湖畔に佇む、三角屋根が印象的なアミューズメントパークです。
体験工房や国内最大級のガラスショップ、美術館と愉しみ方は多彩です。株式会社信州諏訪ガラスが運営しており、約2万点を展示する日本最大級のガラス工芸美術館として、観光客だけでなく、地元の人たちにも愛される美術館を目指されています。ネット情報によると、年間40万人が訪れるそうです。
1992年に三角屋根の個性的な建物と共に「ルネ・ラリック美術館」としてオープンし、その後「北澤美術館新館」と名称を変更し、2012年に「SUWAガラスの里の美術館」として新装オープンしました。
世界の著名なガラス工芸作家の作品が彩る美術館で、常設展示は季節毎に替わります。「プロが選ぶ観光・食事・土産物施設100選」には10年連続でベストテン入りしており、2016年は6位入賞されています。
美術館のHPです。
http://www.garasunosato.com/facility/index.html
100円割引のクーポンです。
http://tokutoku-coupon.jp/hokuriku/19267/ -
SUWAガラスの里
ここの見学は、当初の旅程表にはありませんでした。高遠城址公園の桜が期待できないとの旅行会社の判断により、高遠桜の鑑賞時間を削り、急遽、加えられたスポットです。
桜花などのいわば「生もの」を扱うツアーの場合、こうしたコンティンジェンシー・プランを準備しておくのは鉄則のようです。当方のようにダメ元で気楽に参加している者にとり、こうした旅行会社や添乗員さんの配慮や機転には頭が下がる思いです。 -
SUWAガラスの里
三角屋根の所にあるショップからの景色です。
光物が大好物の当方にとっては、美術館だけでなく、ガラス工芸品のショップを見て回るだけで相当の時間を要します。
館内は一部のガラス製品と外の景色以外は、ショップを含めて全面撮影禁止です。
ここからは、八ヶ岳だけでなく、その北側にある蓼科山を代表とする北八ヶ岳まで見渡せます。 -
SUWAガラスの里 クリスタルボール
株式会社オハラが製作した2億円のクリスタルボールです。
これは、無料エリアに展示されており、写真撮影もOKです。直径800mm、重量676kgの世界最大のガラス玉です。本体は無色透明ですが、傍にある照明のせいか、上からみると七色の輝きを放つ神秘的な光を放つオブジェです。ガラス玉の中で繰り広げられる不思議なアートに心を奪われます。クリスタルパワーが体内に染込んでくるような気がします。 -
SUWAガラスの里 クリスタルボール
ほぼ水平から見ると、何の変哲もない無色透明のクリスタルボールでしかありません。
粘度ルツボにホウ珪酸ガラスでできた原料を入れて溶解し、約半年かけて徐冷して直径1mのガラスの塊をつくり、そこから1年間かけて削りだして研磨したものだそうです。 -
SUWAガラスの里
美術館のお隣のレストランにあったクラシックカーのオブジェです。 -
SUWAガラスの里
諏訪湖SA(上り)です。
ここから見上げると、花桃に囲まれた桃源郷のようです。
このSAには全国の高速道路で唯一の温泉施設「ハイウェイ温泉諏訪湖」があり、知る人ぞ知る「車中泊の聖地」にもなっています。温泉は、上下線共にあります。また、レイクビューが売りの展望デッキからは、晴れた日には北アルプスの槍ヶ岳も一望できます。 -
SUWAガラスの里
ショップで一目惚れしたドリームライトです。ハンドメイドのため、同じものはありません。
ドリームライトは、ドイツ東部チューリンゲン地方のバード・ケストリッツの地で1999年に誕生しました。世界60カ国以上の国で親しまれるキャンドルホルダーのブランドです。マウスブロウで形成した薄いガラス器に彩り豊かな花々などのモチーフやビーズをジェルで封じ込めた瑞々しいデザインが特徴です。
ドイツ語で「TraumLicht」と書かれていますが、「Dream Light=夢の中の光」という意味です。リヒァルト・シュトラウスの「リュッケルトの詩による三つの男声合唱」にもありますね! -
SUWAガラスの里 ルノワール『春の花束』(1866年)
懐かしいアナログの3D写真ですが、見事な3Dでしたので思わず買い求めました。原画よりもブルーが強調されていますが、それはご愛敬です。
「花を描いたら右に出る画家はいない」と賞賛される印象派の巨匠ルノワールの青年期(25歳)の作品です。この時期の作品は、光を効果的に配した輝かしい色彩を潤沢に使い、明るく表現しています。これが、彼が「色彩画家」と呼ばれる所以です。
東洋の染付けの花瓶に、芍薬やライラック、 アイリス、サクラソウ、ゼラニウムなどの花々がこぼれるほどに生けられています。 -
SUWAガラスの里 諏訪湖ダックツアー
ガラスの里は「諏訪湖ダックツアー」の発着所にもなっています。
車高3.7mある面白い形のバスから街並を見下ろし、諏訪湖や高島城などの観光名所を所要時間約55分でクルージングします。水陸両用バスは、陸上で120km/h、水上で約8ノットの最高速度が出せ、ラッピングは諏訪市公認のご当地キャラ「諏訪姫」バージョンです。車両価格は1億円、外国製と思っていましたが製造はいすゞ自動車です。
このツアーの最大のお愉しみは、水陸両用車ならではの諏訪湖へのスリリングなスプラッシュ・イン!「バスが湖へ落ちた!?」と何度か通報されたこともあったそうです。諏訪湖には元々ヨットハーバーがあり、湖へ侵入するスロープも整備されています。それ故に、水陸両用車を運行するには良い条件が揃っていたということです。
諏訪湖ダックツアーのHPです。
http://www.japan-ducktour.com/suwa/
PASS-MEの200円割引チケットです。
https://pass-me.jp/facilities/KS001864 -
峠の釜めし おぎのや ドライブイン諏訪店
ここで予め注文しておいたお弁当をピックアップします。因みに、「峠の釜めし」は、2018年2月1日で創業60周年を迎えたそうです。
「峠の釜めし」は、昭和天皇が富山国体へ向かわれる際、横川駅で積み込みをご用命されたことで有名です。また、軽井沢を訪れる皇太子殿下ご一家が帰京される際には「特製・峠の釜めし」を召し上がることが恒例で、宮様方の御用達だったそうです。 -
峠の釜めし
HPに誕生秘話が載せられていましたので、要約して紹介いたします。
「何かご要望はありませんか?」。今から60年前、おぎのや会長 高見澤みねじさんは、ホームで旅行者に駅弁への要望を聞き回りました。そこで彼女は「温かく、家庭的なお弁当」との答えを得、これをきっかけに益子焼の土釜に入った駅弁「峠の釜めし」が誕生しました。
往時、温かいまま食せる「峠の釜めし」は、常識を覆す画期的な駅弁でした。その後、雑誌『文藝春秋』に掲載され、爆発的に売れるようになりました。更には、モータリゼーションの普及に乗ってドライブインを開設することで、旅の疲れを癒す安らぎと旅の思い出を提供するようになったのです。
峠越えのスリリングなドライブの中で腹ごしらえを終えた後、いよいよ今回の旅行の本丸「高遠城址公園」へ登城します。桜はどんな状態なのでしょう…。
この続きは、芳葩爛漫 伊那・諏訪紀行⑧高遠城址公園でお届けいたします。
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