2018/02/13 - 2018/03/07
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m205-88さん
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4月からようやく社会人デビューとなる春休み、働き出したら出来ないような体験…ヨーロッパを長期間ぐるぐる回ることを計画しました。物価の安い中東欧も考えたのですが、いかんせんこの時期だと極寒なので中止、「暖かい」場所を中心に周るよう日程を組みました。全て個人手配です。下記におおまかな日程を示しますので、今後旅をされる方の参考になれば幸いです。
☆本記事の旅程
2018/3/5
午前 朝食後、ミュンヘン郊外のダッハウ強制収容所跡を訪問
☆ミュンヘンでの宿泊先
2018/3/5~6(1泊)
Euro Youth Hotel:シングルルーム朝食つき
45ユーロ/泊(払戻不可)、1階のバーで使えるクーポン券1枚(ビールまたはソフトドリンク)付きでした
☆今回の旅程
2018/2/13 羽田空港発 HND~CDG
2018/2/14 CDG乗継でLHRへ、ロンドン観光
2018/2/15 ロンドン→パリ(ユーロスター)、パリ観光
2018/2/16 パリ→トゥールーズ(TGV)、トゥールーズ観光
2018/2/17 トゥールーズ→ニーム→アヴィニョン(Intercités, TER)
2018/2/18 アヴィニョン観光
2018/2/19 アヴィニョン→マルセイユ→ニース マルセイユ観光
2018/2/20 ニースとモナコ、ニースのカーニバル
2018/2/21 ニース→ジェノヴァ(TER, Intercity)
2018/2/22 ジェノヴァ→ミラノ→ヴェネチア(Intercity, FrecciaRossa) ミラノ観光
2018/2/23 ヴェネチア観光、ヴェネチア→ミラノ→パレルモ(FrecciaRossa, IntercityNotte)
2018/2/24 パレルモ到着
2018/2/25 パレルモ観光、パレルモ→カターニア(Regionale)
2018/2/26 カターニア観光
2018/2/27 カターニア観光、カターニア→シラクーサ
2018/2/28 シラクーサ観光、シラクーサ→ローマ(IntercityNotte)
2018/3/01 ローマ到着、観光
2018/3/02 ローマ観光(バチカン美術館とシスティーナ礼拝堂)
2018/3/03 ローマからナポリへ日帰り
2018/3/04 ローマ観光、ローマ→ミュンヘン(EuroNight)
2018/3/05 ミュンヘン観光
2018/3/06 ミュンヘン観光、MUC~CDG~HND
2018/3/07 羽田空港着
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- 交通
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- 鉄道 高速・路線バス 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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朝からビールを飲む不謹慎なスタートですが、トイレを済ませてSバーンに乗ります。
ミュンヘン中央駅 (ハウプトバーンホフ) 駅
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系統番号が付いているので分かりやすいです。
ミュンヘンの公共交通はエリアが細かく分かれていて、自分の行動に合う1日乗車券を初心者が自動券売機で買うのは至難の業です。窓口に行って「今日はここまで行きたい」と伝えて買いましょう。ミュンヘン中央駅 (ハウプトバーンホフ) 駅
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Dachau
S2に乗って30分ほど、ダッハウ駅で下車します。ナチスドイツの収容所といえばアウシュヴィッツがあまりにも有名ですが、収容所は他にもかなりの数が建設されていて、そのモデルとなったのがダッハウ強制収容所です。せっかくミュンヘンに行くのであれば訪問しなければと思い、旅程を練っていました。ダッハウ駅 駅
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この駅でS2は2方面に分かれるので、列車も分割されます。
ダッハウ駅 駅
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駅前のバスロータリーに分かりやすい案内板が立っています。
ダッハウ駅 駅
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赤と白の連接バスが来ました。1日乗車券はバスでも有効です。運転手さんに見せましょう。
ダッハウ駅 駅
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KZ-Gedenkstatte Dachau
下車します。ダッハウ強制収容所 史跡・遺跡
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到着です。着いてびっくり、日本人団体さんが居ました。。
入館は無料です。ダッハウ強制収容所 史跡・遺跡
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当時の空撮写真です。囚人を詰め込んでいた収容所の周囲に、SS隊員の住居や薬用ハーブのプランテーションなどがあり、全部合わせるとかなりの面積になりそうです。
ダッハウ強制収容所 史跡・遺跡
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"Arrival at the camp"
収容所行きとなった人達は、主に列車でここまで運ばれました。ダッハウ強制収容所 史跡・遺跡
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収容所入口です。当日も多くの高校生たちが社会科の授業で訪れていました。
ダッハウ強制収容所 史跡・遺跡
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「働けば自由になれる」
自由になれると思っていた人は、どれくらいいたのでしょうか。ダッハウ強制収容所 史跡・遺跡
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1945年4月29日、アメリカ軍の第7軍第42歩兵師団(虹部隊)によって解放されたことを示す碑。
ダッハウ強制収容所 史跡・遺跡
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門を入って左方向、復元されたバラック2棟。
ダッハウ強制収容所 史跡・遺跡
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右方向、復元された管理棟。
ダッハウ強制収容所 史跡・遺跡
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ここからナチスの親衛隊員が目を光らせていたと思うと、背筋がゾクッとします。
ダッハウ強制収容所 史跡・遺跡
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管理棟は、1937~1938年にかけて囚人達自身が建設したもので、キッチンや風呂、洗濯部屋などがありました。
ダッハウ強制収容所 史跡・遺跡
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ドイツが第一次大戦後、いかにして第二次大戦に向かっていったか、詳細に解説されています。
第一次大戦の賠償金と1924~1929年の世界恐慌により、ドイツ経済は大打撃を受け、多くの国民が失業し飢えに苦しみました。そこに登場したのがNSADP(国家社会主義ドイツ労働者党)の党首Adolf Hitler(アドルフ・ヒトラー)。国政選挙で徐々に議席を増やし、ついにヒトラーはドイツ国首相に、そして独裁体制を築いていきました。ダッハウ強制収容所 史跡・遺跡
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今朝見てきた、ミュンヘンで一番有名であろう新市庁舎にもナチスのシンボルが掲げられていたことがありました。ミュンヘンはナチス結党の地なのです。
ダッハウ強制収容所 史跡・遺跡
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"Schubraum"
Schurb=prisoner transportの意。1938年に建設されたこの建物では、収容所に到着したばかりの人から、衣服をはじめ彼らが持っているものを全て没収するといった行為が行われていました。裸にされた"囚人"達は隣の風呂場へ送られました。二度とこの収容所から出られないと知っている人は居なかったでしょう。ダッハウ強制収容所 史跡・遺跡
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"Haftlingsbad"
風呂場です。裸にされた"囚人"達は、ここで髪の毛を剃られ、囚人服に着替えさせられました。風呂には1週間に一度、あるいはそれ以下の頻度でしか入れず、囚人への体罰もここで行われました。ダッハウ強制収容所 史跡・遺跡
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囚人の毛を剃るのに使われた道具。ありとあらゆる毛を剃られたようです。
ダッハウ強制収容所 史跡・遺跡
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「制裁」に使われた台を復元したもの。1941~1942年頃、反抗した囚人への制裁はこの風呂場で行われました。
台に乗せられた囚人はSS親衛隊員によるムチ打ちを受け、その数を大きな声で言わなければならなかったとか。その声は収容所に響き渡り、恫喝・恐怖・そして命の危険を象徴していました。ダッハウ強制収容所 史跡・遺跡
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収容所内の生活がどのようなものであったか、いくつものパネルで細かく解説されています。
ナチスドイツは囚人を使って人体実験を行いました。ダッハウでの実験は主に空軍関係の実験で、気圧を低くしたらどうなるか、冷たい海水に不時着したときどうなるか/パイロットは救出できるのか、といったテーマで残虐な実験が繰り返されました。ダッハウ強制収容所 史跡・遺跡
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「働けば自由になれる」の門の実物。外のはレプリカなんですね。
収容所解放時の映像をアメリカ軍が記録しています。折り重なるように積み上げられた遺体の映像はむごく、目をそむけたくなるものです。当時ナチスの収容所の実態はほとんど知られておらずアメリカ軍兵士も驚いたそうですが、これは現実に起こったことで、決して目を背けてはいけない事実です。ダッハウ強制収容所 史跡・遺跡
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囚人を収容していたバラックは、復元された2棟のみ。
ダッハウ強制収容所 史跡・遺跡
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haftslingsunterkunft 1937-1938
ベッドも復元されたものです。1937~1938年に作られたもの、収容所の初期のものです。ダッハウ強制収容所 史跡・遺跡
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当時の写真です。詰め込まれていますが、人間1人がなんとか寝転ぶくらいのスペースはあります。
ダッハウ強制収容所 史跡・遺跡
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Schlafraum 1938
1938年に建設された、「新しい」タイプのバラックでは、間に仕切りのある構造になっています。ダッハウ強制収容所 史跡・遺跡
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当時の写真です。
ダッハウ強制収容所 史跡・遺跡
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haftslingsunterkunft 1944-1945
1944~1945年頃の内部の再現。最初は政治犯などを収容していたダッハウも、戦争が進むにつれたくさんのユダヤ人が送り込まれることになります。多い時には30000人以上が詰め込まれていたようで、チフスの流行も相まって収容所は「死の場所」と化していました。ダッハウ強制収容所 史跡・遺跡
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当時の写真です。寝る場所もないほど詰め込まれています。
ダッハウ強制収容所 史跡・遺跡
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トイレの手洗い場でしょうか。
ダッハウ強制収容所 史跡・遺跡
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トイレですね。囚人達は自由にトイレにも行かせてもらえず、与えられたとしても僅かな時間で用を足さなければなりませんでした。
ダッハウ強制収容所 史跡・遺跡
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木の高さが、建設当時からの時間の経過を物語ります。
ダッハウ強制収容所 史跡・遺跡
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復元された2棟以外は更地になっています。
ダッハウ強制収容所 史跡・遺跡
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当時の写真と設計図。バラックが34棟ずらりと並びます。
ダッハウ強制収容所 史跡・遺跡
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親衛隊員の見張り塔と、高圧電流が流れていた有刺鉄線。苦しさのあまりわざと電流に触れて自殺を図る人も居たようです。
ダッハウ強制収容所 史跡・遺跡
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焼却施設です。
ダッハウ強制収容所 史跡・遺跡
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ガス室。ダッハウのガス室が使われたという証拠は無いようですが、「人間が人間を効率よく殺すシステム」が確立されており、言葉を失います。
ダッハウ強制収容所 史跡・遺跡
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焼却炉は2棟あったようです。
ダッハウ強制収容所 史跡・遺跡
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以上で見学を終わりました。当日は非常に寒く、溶けた雪で足元がとてもぬかるんでいました。春休みに訪問される方は十分ご注意を。
ダッハウ強制収容所 史跡・遺跡
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私自身、ポーランドに行ったことが無く、強制収容所の訪問は初めてでした。間違いなく人間が人間に対して行った行為であり、決して忘れたり目を背けたりしてはいけない事実です。
いつも思うのは、人間は同じ人間に対してここまで残酷になれるのか、ということです。ナチスの親衛隊員は選ばれし者であり、思想も身体も非常によく訓練されていたでしょう。しかし、彼らもまた人間であり、家庭では旦那であり父親であったわけです。ごくごく一般的な人間の家庭と、とても人間の世界とは思えないような収容所を行き来し、時に囚人に対して残酷な行為を働いた彼ら。今となっては知る由もありませんが、心の中で何を思い、考えていたのでしょうか。戦争が終わり収容所が解放された時、彼らは何を感じていたのでしょうか。
さて、ミュンヘン市内に戻りましょう。ダッハウ強制収容所 史跡・遺跡
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