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愛宕神社(あたごじんじゃ、埼玉県さいたま市岩槻区本町)は戦国時代末期に小田原北条氏から名跡を継いだ太田氏房(おおた・うじふさ、1565~1592)によって構築された大構(おおがまえ)の土塁の上に祀られた神社です。<br /><br />大構とは総構(惣構・そうがまえ)、総曲輪(惣曲輪・そうぐるわ)、総堀(惣堀・そうぼり)とも呼ばれ、城と城下町一帯も含めて外周を堀と土塁とで囲まれた城郭構造で、城の防衛力の強化と共に城下町の保護の役割を担うものです。<br /><br />天正年間(1580年頃)小田原北条氏が畿内統一を果たした豊臣政権との緊張が高まっている最中、直轄城ともいえる岩槻城についても本城である小田原城と共に本構の工事が施されたものと思われます。<br /><br /><br />愛宕神社石段の傍らには「岩槻城本構」と題する説明板が建てられ次のように書かれています。<br /><br /><br />「 岩槻市指定文化財<br />        岩 槻 城 大 構<br /><br />        指定年月日  昭和49年9月26日<br />        指定の種別  記念物(史跡)<br />        所有(管理者)岩槻市本町3丁目21番25号<br />               愛宕神社<br /><br />戦国時代の末から江戸時代の岩槻城下町は、その周囲を土塁と堀が囲んでいた。この土塁と堀を大構(外構・惣構・土居)という。城下町側に土塁、その外側に堀が巡り、長さ約8Kmに及んだという。<br /><br />この大構は、天正年間(1580年代頃)、小田原の後北条氏が豊臣政権との緊張が高まる中、岩槻城外の町場を城郭と一体化するために、築いたものとされ、城の防衛力の強化を図ったほか、城下の町場の保護にも大きな役割を果たした。<br /><br />廃城後は、次第にその姿を消し、現在は一部が残っているにすぎず、愛宕神社が鎮座するこの土塁は、大構の姿を今にとどめる貴重な遺構となっている。」

武蔵岩槻 豊臣政権との戦いを覚悟して防衛力強化のため本構とした小田原北条氏直轄の岩槻城土塁に建つ『愛宕神社』散歩

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2018/01/08 - 2018/01/08

66位(同エリア151件中)

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滝山氏照

滝山氏照さん

愛宕神社(あたごじんじゃ、埼玉県さいたま市岩槻区本町)は戦国時代末期に小田原北条氏から名跡を継いだ太田氏房(おおた・うじふさ、1565~1592)によって構築された大構(おおがまえ)の土塁の上に祀られた神社です。

大構とは総構(惣構・そうがまえ)、総曲輪(惣曲輪・そうぐるわ)、総堀(惣堀・そうぼり)とも呼ばれ、城と城下町一帯も含めて外周を堀と土塁とで囲まれた城郭構造で、城の防衛力の強化と共に城下町の保護の役割を担うものです。

天正年間(1580年頃)小田原北条氏が畿内統一を果たした豊臣政権との緊張が高まっている最中、直轄城ともいえる岩槻城についても本城である小田原城と共に本構の工事が施されたものと思われます。


愛宕神社石段の傍らには「岩槻城本構」と題する説明板が建てられ次のように書かれています。


「 岩槻市指定文化財
        岩 槻 城 大 構

        指定年月日  昭和49年9月26日
        指定の種別  記念物(史跡)
        所有(管理者)岩槻市本町3丁目21番25号
               愛宕神社

戦国時代の末から江戸時代の岩槻城下町は、その周囲を土塁と堀が囲んでいた。この土塁と堀を大構(外構・惣構・土居)という。城下町側に土塁、その外側に堀が巡り、長さ約8Kmに及んだという。

この大構は、天正年間(1580年代頃)、小田原の後北条氏が豊臣政権との緊張が高まる中、岩槻城外の町場を城郭と一体化するために、築いたものとされ、城の防衛力の強化を図ったほか、城下の町場の保護にも大きな役割を果たした。

廃城後は、次第にその姿を消し、現在は一部が残っているにすぎず、愛宕神社が鎮座するこの土塁は、大構の姿を今にとどめる貴重な遺構となっている。」

交通手段
JRローカル 私鉄

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  • 愛宕神社鳥居・参道

    愛宕神社鳥居・参道

  • 愛宕神社参道・石段

    イチオシ

    愛宕神社参道・石段

  • 愛宕神社・拝殿

    愛宕神社・拝殿

  • 愛宕神社・拝殿内部

    愛宕神社・拝殿内部

  • 愛宕神社・参道<br /><br />大構の最上に配された拝殿から参道方向を展望します。

    愛宕神社・参道

    大構の最上に配された拝殿から参道方向を展望します。

  • 愛宕神社・本殿

    愛宕神社・本殿

  • 東武ア-バンパ-クライン(野田線)<br /><br />愛宕神社本殿の北側から直ぐ脇を東武線電車が通過します。

    東武ア-バンパ-クライン(野田線)

    愛宕神社本殿の北側から直ぐ脇を東武線電車が通過します。

  • 愛宕神社・境内<br /><br />境内から愛宕神社が鎮座している大構を捉えます。

    愛宕神社・境内

    境内から愛宕神社が鎮座している大構を捉えます。

  • 愛宕神社・説明板

    愛宕神社・説明板

  • 岩槻城大構説明板

    岩槻城大構説明板

  • 岩槻城絵図<br /><br />岩槻城大構説明板には土塁上に鎮座している愛宕神社が掲載されている絵図が見えます。

    岩槻城絵図

    岩槻城大構説明板には土塁上に鎮座している愛宕神社が掲載されている絵図が見えます。

  • かつての岩槻城大構写真

    かつての岩槻城大構写真

  • 愛宕神社・本殿<br /><br />東武ア-バンパ-クラインの踏切を渡って反対側から愛宕神社を捉えます。神社が鎮座していた大構の土塁は東武線開通工事のため一部切削され、断面はコンクリ-トでむなしく覆われています。

    愛宕神社・本殿

    東武ア-バンパ-クラインの踏切を渡って反対側から愛宕神社を捉えます。神社が鎮座していた大構の土塁は東武線開通工事のため一部切削され、断面はコンクリ-トでむなしく覆われています。

  • 岩槻城大構跡の一部

    岩槻城大構跡の一部

  • 岩槻城大構跡の一部

    岩槻城大構跡の一部

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この旅行記へのコメント (2)

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  • arfaさん 2018/02/24 23:09:14
    こんばんは、arfaと申します。
    滝山氏照さん、こんばんは。
    岩槻神社の写真がありましたが昭和49年に文化財に指定される前には大構がほぼ完全に残っていたのでしょうか?
    私の故郷の姫路城も実は荒れるにまかせて崩れる寸前まで朽ちていました。ヨーロッパが古い町並みを保存することを
    意識しているのに比べてどうも日本では美しい町並みを守ろうとか、守るための支援とかに関心が薄いようで残念に
    思います。

    ではこれで、失礼しました。

    滝山氏照

    滝山氏照さん からの返信 2018/02/25 13:53:42
    岩槻愛宕神社本構え
    arfaさん、こんにちは

    訪問記にお立ち寄りくださりありがとうございます。

    さて、お尋ねの本構の残存程度についてですが、昭和30年頃の時点では約8Kmにわたる本構の土塁と空堀はまだあっちこっちに残っていて子供たちの格好の遊びの場であったようです。

    その後は都市化あるいは住宅化の開発伴って残存部分が徐々に取り壊されていたのではないかと推察され、今でも本構の一部が残っているのは愛宕神社が鎮座していたからこそではないかと思われます。

    ヨ-ロッパの城郭については知識はありませんが、平地に築かれた城を見れば城郭と街とが一体となっていてその外側に高い石壁で周囲を取り囲んでいる姿を見れば防御に関して岩槻城と共通の部分があるかと思います。

    とにかく岩槻は川越と並び歴史的史跡が多く、とりわけ太田道灌とその子孫に関係する都市でもあり歴史を巡るコ-スに恵まれています。機会がありましたらお訪ねください。

    滝山氏照












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