岩槻旅行記(ブログ) 一覧に戻る
太平山・芳林寺(ほうりんじ、埼玉県さいたま市岩槻区本町)は戦国時代において対峙する古河公方足利成氏(あしかが・しげうじ、1438~1497)に備えるため相模・武蔵南部を支配していた主家扇谷上杉氏の命により父道真(どうしん、1411~1488)共に江戸城・河越城そして岩槻城を修改築した文武両道に優れた太田道灌(おおた・どうかん、1432~1486)を祀る曹洞宗の寺院です。<br /><br /><br />当寺は比企郡松山にあった地蔵寺でしたが道灌が文明18年(1486)主家の扇谷上杉定正(うえすぎ・さだまさ、1443~1494)によって誅殺された際、遺骨や遺髪が当寺に納められるも永正17年(1520)に火災に遭います。<br /><br />道灌の孫にあたる太田資高(おおた・すけたか、1498~1547)が居城の岩槻へ同寺を移転、太田資正の嫡男氏資(うじすけ、1543~1567)の母が永禄10年(1567)に逝去したのを機に法名である陽高光院殿芳林妙春大姉にちなんで芳林寺と寺号を改め現在に至っています。<br /><br /><br /><br />「岩槻城・太田道灌・芳林寺<br /><br />岩槻城は、室町時代に古河公方足利成氏の執事扇谷(上杉氏)持朝の命を受け、長禄元年(1457)太田道真(おおたどうしん)・道灌(どうかん)父子が築城したと伝えられる。<br /><br />文明18年(1486)、太田道灌が神奈川県伊勢原にあった主君・上杉定正の館で暗殺された時、父の道真と道灌の養子・太田資家(おおたすけいえ・岩槻城主)が伊勢原に行き、道灌の遺骨や遺髪をもらい受けてきたと言われている。<br /><br />そして、それらは埼玉県越生町の龍念寺と芳林寺に分けられて丁重に葬られ、今日まで供養されている。<br /><br />また、芳林寺は太田三楽斎資正(おおたさんらくさいすけまさ)が、東松山城(埼玉県東松山市)の城代難波田正直の娘婿として活躍していた頃に、同地ゆかりの地蔵堂を岩槻に移したと伝えられ、資正の嫡男・太田氏資(おおたうじすけ・岩槻城主)の時代に名前を地蔵堂から「芳林寺」と改めて、母・芳林妙春尼の御霊をはじめ、多くの合戦で亡くなった将兵や町内外の檀家の方々の御先祖の御霊を供養して、現代まで続いている由緒ある禅寺である。」<br />

武蔵岩槻 道灌ゆかりの地を訪ねる 文武両道の優れた智将で江戸城・河越城と共に岩槻城を手掛けた築城の名手である太田道灌らを祀った『芳林寺』散歩

8いいね!

2018/01/08 - 2018/01/08

85位(同エリア159件中)

0

50

滝山氏照

滝山氏照さん

太平山・芳林寺(ほうりんじ、埼玉県さいたま市岩槻区本町)は戦国時代において対峙する古河公方足利成氏(あしかが・しげうじ、1438~1497)に備えるため相模・武蔵南部を支配していた主家扇谷上杉氏の命により父道真(どうしん、1411~1488)共に江戸城・河越城そして岩槻城を修改築した文武両道に優れた太田道灌(おおた・どうかん、1432~1486)を祀る曹洞宗の寺院です。


当寺は比企郡松山にあった地蔵寺でしたが道灌が文明18年(1486)主家の扇谷上杉定正(うえすぎ・さだまさ、1443~1494)によって誅殺された際、遺骨や遺髪が当寺に納められるも永正17年(1520)に火災に遭います。

道灌の孫にあたる太田資高(おおた・すけたか、1498~1547)が居城の岩槻へ同寺を移転、太田資正の嫡男氏資(うじすけ、1543~1567)の母が永禄10年(1567)に逝去したのを機に法名である陽高光院殿芳林妙春大姉にちなんで芳林寺と寺号を改め現在に至っています。



「岩槻城・太田道灌・芳林寺

岩槻城は、室町時代に古河公方足利成氏の執事扇谷(上杉氏)持朝の命を受け、長禄元年(1457)太田道真(おおたどうしん)・道灌(どうかん)父子が築城したと伝えられる。

文明18年(1486)、太田道灌が神奈川県伊勢原にあった主君・上杉定正の館で暗殺された時、父の道真と道灌の養子・太田資家(おおたすけいえ・岩槻城主)が伊勢原に行き、道灌の遺骨や遺髪をもらい受けてきたと言われている。

そして、それらは埼玉県越生町の龍念寺と芳林寺に分けられて丁重に葬られ、今日まで供養されている。

また、芳林寺は太田三楽斎資正(おおたさんらくさいすけまさ)が、東松山城(埼玉県東松山市)の城代難波田正直の娘婿として活躍していた頃に、同地ゆかりの地蔵堂を岩槻に移したと伝えられ、資正の嫡男・太田氏資(おおたうじすけ・岩槻城主)の時代に名前を地蔵堂から「芳林寺」と改めて、母・芳林妙春尼の御霊をはじめ、多くの合戦で亡くなった将兵や町内外の檀家の方々の御先祖の御霊を供養して、現代まで続いている由緒ある禅寺である。」

交通手段
JRローカル 私鉄
  • 岩槻駅周辺地図<br /><br />東武鉄道ア-バンパ-クライン(野田線)岩槻駅前に周辺地図が掲示され、これから訪問する芳林寺は大宮方向に線路に沿った近い所にあります。

    岩槻駅周辺地図

    東武鉄道ア-バンパ-クライン(野田線)岩槻駅前に周辺地図が掲示され、これから訪問する芳林寺は大宮方向に線路に沿った近い所にあります。

  • 岩槻駅周辺地図(拡大)

    岩槻駅周辺地図(拡大)

  • 芳林寺・寺域<br /><br />岩槻駅から徒歩約10分で芳林寺に到着、南側から入ると広い寺域が現れ、長い参道を進みます。

    芳林寺・寺域

    岩槻駅から徒歩約10分で芳林寺に到着、南側から入ると広い寺域が現れ、長い参道を進みます。

  • 芳林寺・山門<br /><br />山門の傍らには狛犬が左右に配され面白いことにそれぞれ向き合っています。

    芳林寺・山門

    山門の傍らには狛犬が左右に配され面白いことにそれぞれ向き合っています。

  • 芳林寺・長い参道<br /><br />山門を過ぎると更に参道が続き、寺門に至ります。

    芳林寺・長い参道

    山門を過ぎると更に参道が続き、寺門に至ります。

  • 芳林寺・寺門<br /><br />門扉は閉じられていますが右側の通用門は可能なのでここから入ります。

    芳林寺・寺門

    門扉は閉じられていますが右側の通用門は可能なのでここから入ります。

  • 太田氏家紋<br /><br />門扉には太田氏の家紋である「桔梗」が付されています。太田氏は清和源氏の末流といわれ、伝承では源頼政の後裔である資国が丹波国太田郷に本拠を持ったことから太田氏と名乗ったとされます。尚主家である上杉氏も丹波国何鹿郡上杉荘を本貫地としていることから譜代の家臣であったようです。

    太田氏家紋

    門扉には太田氏の家紋である「桔梗」が付されています。太田氏は清和源氏の末流といわれ、伝承では源頼政の後裔である資国が丹波国太田郷に本拠を持ったことから太田氏と名乗ったとされます。尚主家である上杉氏も丹波国何鹿郡上杉荘を本貫地としていることから譜代の家臣であったようです。

  • 芳林寺・本堂<br /><br />

    芳林寺・本堂

  • 芳林寺本堂扁額<br /><br />本堂正面上部には「太平山」と書かれた山号が掲載されています。

    芳林寺本堂扁額

    本堂正面上部には「太平山」と書かれた山号が掲載されています。

  • 芳林寺・境内<br /><br />本堂から振り返って門扉方向を一望します。

    芳林寺・境内

    本堂から振り返って門扉方向を一望します。

  • 太田道灌像・案内板<br /><br />芳林寺境内の一角には太田道灌公の像が配されるエリアが在ります。

    太田道灌像・案内板

    芳林寺境内の一角には太田道灌公の像が配されるエリアが在ります。

  • 太田道灌・立像

    太田道灌・立像

  • 太田道灌・乗馬像

    太田道灌・乗馬像

  • 太田道灌乗馬像

    イチオシ

    太田道灌乗馬像

  • 太田道灌・説明板

    太田道灌・説明板

  • 太田道灌公尊像建立浄財志納者芳名石板

    太田道灌公尊像建立浄財志納者芳名石板

  • 太田道灌乗馬像<br /><br />一旦寺の外に出て改めて鉄柵越しに道灌の乗馬像を捉えます。

    太田道灌乗馬像

    一旦寺の外に出て改めて鉄柵越しに道灌の乗馬像を捉えます。

  • 芳林寺境内・石標

    芳林寺境内・石標

  • 芳林寺領・石柱

    芳林寺領・石柱

  • 太田道灌騎馬像制作者説明<br /><br />説明文によれば世界的に著名な彫刻家の冨田憲二・山本明良の両名の作品とのことです。

    太田道灌騎馬像制作者説明

    説明文によれば世界的に著名な彫刻家の冨田憲二・山本明良の両名の作品とのことです。

  • 岩槻城・太田道灌説・芳林寺説明板

    岩槻城・太田道灌説・芳林寺説明板

  • 岩槻城復元図<br /><br />太田道灌公築城550年記念として往時の岩槻城絵図が掲示されています。当該地は地勢的には元荒川の水運と鎌倉街道による交通の要所で、築城に際しては広い沼沢地が城郭を囲み、元荒川の流れとともに天然の要害となっています。

    岩槻城復元図

    太田道灌公築城550年記念として往時の岩槻城絵図が掲示されています。当該地は地勢的には元荒川の水運と鎌倉街道による交通の要所で、築城に際しては広い沼沢地が城郭を囲み、元荒川の流れとともに天然の要害となっています。

  • 近世岩槻城絵図<br /><br />併せて江戸時代における岩槻城の絵図があります。

    近世岩槻城絵図

    併せて江戸時代における岩槻城の絵図があります。

  • 芳林寺・参道<br /><br />門扉より山門方向を一望します。

    芳林寺・参道

    門扉より山門方向を一望します。

  • 墓地入口

    墓地入口

  • 太田家墓所案内板<br /><br />入口右側には墓所案内板が設置されています。

    太田家墓所案内板

    入口右側には墓所案内板が設置されています。

  • 太田家霊廟(全景)<br /><br />正面には太田氏資を祀る宝篋印塔、右側には霊廟石標そして左側には太田道灌に関する説明板が設置されています。

    太田家霊廟(全景)

    正面には太田氏資を祀る宝篋印塔、右側には霊廟石標そして左側には太田道灌に関する説明板が設置されています。

  • 霊廟石標                                                                        芳林妙春尼、太田道灌、太田氏資の霊廟であることを示す石標が建てられています。

    霊廟石標                                                                        芳林妙春尼、太田道灌、太田氏資の霊廟であることを示す石標が建てられています。

  • 太田道灌霊廟の石標

    太田道灌霊廟の石標

  • 太田道灌事績<br /><br />石標の傍には太田道灌の事績が刻されています。<br /><br />「太田道灌公事績<br /><br />太田資清入道道真の嫡男、源六郎資長、従五位下、左衛門大夫、備中守、のちに剃髪して道灌と号した。<br /><br />扇谷上杉定正の家宰として仕え、長禄元年(1457)、父道真とともに江戸城・岩槻城・川越城を築き、各地の乱を平定するなど、主家や関東の安寧のためその知略の才をいかんなく発揮した。<br /><br />また、つねに古今の兵書を読んでは軍法の道に達し、和歌や漢籍にも通じるなど文武兼備の名将として名高い。<br /><br />しかし、道灌の威徳を恐れた山内・扇谷の両上杉氏により、「謀反の企てあり」として、文明18年(1486)7月26日、相州槽屋の上杉定正の館において謀殺される。享年55才。<br /><br />亡骸は荼毘に付したのち、分骨をゆかりの地である岩槻の當寺にも埋葬したと伝えられる。<br /><br />大正7年11月18日 追贈従三位<br />法名 香月院殿春苑道灌大居士<br />                    當寺三十二世誌 」<br />

    太田道灌事績

    石標の傍には太田道灌の事績が刻されています。

    「太田道灌公事績

    太田資清入道道真の嫡男、源六郎資長、従五位下、左衛門大夫、備中守、のちに剃髪して道灌と号した。

    扇谷上杉定正の家宰として仕え、長禄元年(1457)、父道真とともに江戸城・岩槻城・川越城を築き、各地の乱を平定するなど、主家や関東の安寧のためその知略の才をいかんなく発揮した。

    また、つねに古今の兵書を読んでは軍法の道に達し、和歌や漢籍にも通じるなど文武兼備の名将として名高い。

    しかし、道灌の威徳を恐れた山内・扇谷の両上杉氏により、「謀反の企てあり」として、文明18年(1486)7月26日、相州槽屋の上杉定正の館において謀殺される。享年55才。

    亡骸は荼毘に付したのち、分骨をゆかりの地である岩槻の當寺にも埋葬したと伝えられる。

    大正7年11月18日 追贈従三位
    法名 香月院殿春苑道灌大居士
                        當寺三十二世誌 」

  • 太田道灌説明板<br /><br />更に太田道灌に関する説明板が設置されています。<br /><br />「太田道灌公は、武略に秀でるとともに、岩槻城・江戸城・川越城を築くなど、築城の才能も充分に発揮した。<br /><br />さらに、漢詩や和歌の道にも優れた文人武将であった。<br /><br />そのため、古くよりその徳を慕う建築や土木の仕事に携わる人々の信仰を集め、また、学問成就の願いにも霊験をあらわしたと伝えられている。 合掌 」

    太田道灌説明板

    更に太田道灌に関する説明板が設置されています。

    「太田道灌公は、武略に秀でるとともに、岩槻城・江戸城・川越城を築くなど、築城の才能も充分に発揮した。

    さらに、漢詩や和歌の道にも優れた文人武将であった。

    そのため、古くよりその徳を慕う建築や土木の仕事に携わる人々の信仰を集め、また、学問成就の願いにも霊験をあらわしたと伝えられている。 合掌 」

  • 太田氏資霊廟<br /><br />霊廟の中には氏資の宝篋印塔が安置されています。

    太田氏資霊廟

    霊廟の中には氏資の宝篋印塔が安置されています。

  • 太田氏資宝篋印塔(近景)

    太田氏資宝篋印塔(近景)

  • 太田氏資に関する説明板

    太田氏資に関する説明板

  • 太田氏資宝篋印塔説明板<br /><br />詳細は下記の通りに記載されています。<br /><br />「 市指定文化財(史跡)<br />太田氏資宝篋印塔<br /><br />この宝篋印塔は、上総三船台で討死した岩付城主太田氏資の供養のため建立された供養塔である。材質は砂岩、総高1.14メ-トル、塔幅32センチメ-トル、正面に次の銘文が刻まれている。<br />             当寺      神祇<br />          梵字(阿字) 昌安道也<br />             開基      居士                          永禄十一年八月二十五日<br /><br />氏資は、関東戦国期の勇将太田三楽斎資正の嫡男で、父資正が関東管領上杉氏側に属し、武蔵の国に勢力をのばしてきた北条氏康・氏政父子と対峙し援軍要請もため留守の間に、氏資は北条氏の勢いに屈し、これと和したため、永禄7年(1564)資正と弟政景は常陸の国に逃れ氏資は北条氏の娘婿となり父資正の跡を継いで岩付城主となった。以後氏資は北条氏麾下の守将として領国支配に当たり、同10年8月、上総三船台において里見氏と戦い討死した。<br /><br />この後一時期北条氏の直接支配を経て、岩付城は氏資の娘小少将に配された氏政の子氏房によって継承された。<br />              昭和53年3月29日指定<br />                   岩槻市教育委員会 」<br />   <br />

    太田氏資宝篋印塔説明板

    詳細は下記の通りに記載されています。

    「 市指定文化財(史跡)
    太田氏資宝篋印塔

    この宝篋印塔は、上総三船台で討死した岩付城主太田氏資の供養のため建立された供養塔である。材質は砂岩、総高1.14メ-トル、塔幅32センチメ-トル、正面に次の銘文が刻まれている。
                 当寺      神祇
              梵字(阿字) 昌安道也
                 開基      居士                          永禄十一年八月二十五日

    氏資は、関東戦国期の勇将太田三楽斎資正の嫡男で、父資正が関東管領上杉氏側に属し、武蔵の国に勢力をのばしてきた北条氏康・氏政父子と対峙し援軍要請もため留守の間に、氏資は北条氏の勢いに屈し、これと和したため、永禄7年(1564)資正と弟政景は常陸の国に逃れ氏資は北条氏の娘婿となり父資正の跡を継いで岩付城主となった。以後氏資は北条氏麾下の守将として領国支配に当たり、同10年8月、上総三船台において里見氏と戦い討死した。

    この後一時期北条氏の直接支配を経て、岩付城は氏資の娘小少将に配された氏政の子氏房によって継承された。
                  昭和53年3月29日指定
                       岩槻市教育委員会 」
       

  • 太田氏資事績<br /><br />石碑には下記の内容が記されています。<br /><br />「 太田氏資公事績<br /><br />天文12年(1543)岩槻城主太田三楽斎資正の嫡男として誕生。      <br />初名源五郎資房。<br /><br />武勇に優れた若武者であったが、関東における情勢の変化により父資正と政治的に対立。家臣たちに推戴され永禄7年(1564)岩槻城主となり、領地の経営に力を尽くした。<br /><br />小田原北条氏に属し、北條氏政の妹を妻に迎え、名を資房から氏資と改める。<br /><br />永禄10年(1567)8月23日、里見氏との上総三船台の合戦で、北条軍の殿軍を努め、家臣53騎と供に討死。 享年25才。従五位下大善大夫。<br /><br />芳林寺開基。<br />法名 當寺開基大崇院殿昌安道也大居士<br />                   當寺三十二世誌 」

    太田氏資事績

    石碑には下記の内容が記されています。

    「 太田氏資公事績

    天文12年(1543)岩槻城主太田三楽斎資正の嫡男として誕生。      
    初名源五郎資房。

    武勇に優れた若武者であったが、関東における情勢の変化により父資正と政治的に対立。家臣たちに推戴され永禄7年(1564)岩槻城主となり、領地の経営に力を尽くした。

    小田原北条氏に属し、北條氏政の妹を妻に迎え、名を資房から氏資と改める。

    永禄10年(1567)8月23日、里見氏との上総三船台の合戦で、北条軍の殿軍を努め、家臣53騎と供に討死。 享年25才。従五位下大善大夫。

    芳林寺開基。
    法名 當寺開基大崇院殿昌安道也大居士
                       當寺三十二世誌 」

  • 芳林寺墓地出土の応永・享徳年間の墓石

    芳林寺墓地出土の応永・享徳年間の墓石

  • 芳林寺墓地出土の応永・享徳年間の墓石(近景)

    芳林寺墓地出土の応永・享徳年間の墓石(近景)

  • 芳林妙春禅尼石碑

    芳林妙春禅尼石碑

  • 芳林妙春禅尼の事説明碑<br /><br />「 芳林妙春禅尼の事<br /><br />南畑城主の難波田弾正左衛門尉正直入道善銀の娘と伝えられており、岩槻城主の太田三楽斎資正の正室である。<br /><br />資正の嫡男である太田資房(後の氏資)の母公。<br /><br />後に資正と離縁、永禄10年(1567)3月8日没。 芳林寺開基。<br />法名 當寺開基陽光院殿芳林妙春大姉         當寺三十二世誌 」

    芳林妙春禅尼の事説明碑

    「 芳林妙春禅尼の事

    南畑城主の難波田弾正左衛門尉正直入道善銀の娘と伝えられており、岩槻城主の太田三楽斎資正の正室である。

    資正の嫡男である太田資房(後の氏資)の母公。

    後に資正と離縁、永禄10年(1567)3月8日没。 芳林寺開基。
    法名 當寺開基陽光院殿芳林妙春大姉         當寺三十二世誌 」

  • 埼玉県庁設置碑<br /><br />明治4年(1871)、埼玉県・入間県の設置が発せられた際、埼玉県の県庁の地は岩槻とされこの芳林寺にその庁舎が設置されたそうです。

    埼玉県庁設置碑

    明治4年(1871)、埼玉県・入間県の設置が発せられた際、埼玉県の県庁の地は岩槻とされこの芳林寺にその庁舎が設置されたそうです。

  • 芳林寺弁天堂

    芳林寺弁天堂

  • 太平山芳林寺由緒碑

    太平山芳林寺由緒碑

  • 芳林寺地蔵堂

    芳林寺地蔵堂

  • 太田氏資座像

    太田氏資座像

  • 太田氏資座像(近景)

    太田氏資座像(近景)

  • 太田氏資座像(裏面)

    太田氏資座像(裏面)

  • 芳林妙春禅尼座像

    芳林妙春禅尼座像

この旅行記のタグ

8いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

岩槻の人気ホテルランキング

価格.com旅行・トラベルホテル・旅館を比較

PAGE TOP