2017/12/31 - 2017/12/31
20位(同エリア1500件中)
こあひるさん
今日はまず、宇治の平等院へ・・・。
ここに行きたい!と思った目的は雲中供養菩薩で、鳳凰堂が一番ってわけではないのだけれど・・・行くからには、しっかり内部拝観もしないとね。
平等院の後、市街地の南東部エリアの美仏めぐりを予定しているが、拝観入場時間が16時前後まで・・・と早いので、20分毎に50名ずつしか入れない鳳凰堂の入場時間がカギになる。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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平等院の開門は8時半、鳳凰堂内部拝観受付は9:10から(内部拝観開始は9時半から)。
前もって問い合わせてみたところ、8時半の開門と同時に、内部拝観受付の列に並んだ方がいい・・・ということだったので、朝が苦手なわが家も、なるべくそれに間に合うようにしよう(←8時半までに着いていよう!とならないあたり・・・)と、頑張って起きました。
昨日買った100円パンを食べて出かけます。 -
JR宇治駅に着いたのは8時半頃。
開門は始まっちゃったよね・・・内部拝観、何時のチケットが取れるかな~~。
雲中供養菩薩を間近で見れる鳳翔館(ミュージアム)の見学も含めて、正午くらいまでにすべて見終えることができればベストなんだけれどなぁ~~。 -
駅から平等院までは900mくらい。やや焦る気持ちが、道のりを遠く感じさせます。
鳥居をくぐると、いよいよ参道らしい商店街。宇治茶の老舗も軒を並べていますが、朝早めなのでまだ閉まっているお店が多いし・・・年末年始だから、どの程度のお店が営業するのかはわからない。 -
8:40頃、平等院に着きました。・・・あぁ、拝観受付まで、まだ歩くのね・・・。
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先ず表門のところで、通常拝観のチケットを買います。
そのあと、鳳凰堂内部の拝観希望者は、門を入って少し進むと、右手に受付があるので、並んでお待ちくださいと言われました。 -
境内はこんな感じです。
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内部拝観受付開始の9:10まで、まだ20分以上あるので、連れ合いを行列に並ばせて、早速、鳳凰堂の撮影へ・・・。
雨がポツポツし出したので、池の映り込みが乱れないうちに・・・ね。平等院 寺・神社・教会
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お天気が悪く、青空に映える朱色・・・でないのが残念だけれど・・・。
ここはもともと、光源氏のモデルだと言われる源融(みなもとのとおる)の別荘だった土地で、のちに藤原道長の別荘となっていた場所。
道長の没後、関白・藤原頼通が、父・道長から譲り受けていたこの地を、永承7年(1052=末法元年)に仏寺に改めたのが平等院の始まりです。
この頃は末法思想が広がり、極楽往生を願う浄土信仰が、社会の各層に広く流行していました。
翌年の天喜元年(1053)に、阿弥陀堂(鳳凰堂)が落慶し、堂内には、平安時代を代表する仏師・定朝によって制作された丈六の阿弥陀如来坐像が安置されました。
奇跡的に現存するのは阿弥陀堂(鳳凰堂)のみですが、創建時には、敷地の北側に、大日如来がご本尊の本堂があったそうです。ほかにも多くの堂塔がありましたが、長い歴史の中ですべて失われています。 -
とりあえず、急いで正面側をぐるっと周ります。どこから見ても絵になりますね。
平泉にも、こんな建物がいくつもあったのかぁ~~とちょっと切なく思いながら・・・。 -
行列している北側と真反対まで来ました。
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さて・・・行列の方へ戻ろう~。
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列にいる連れ合いのところに戻ると、1巡目だと告げられたとのこと。これはいいスタートが切れました!
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9時半の入場5分前に、橋の手前で集合・・・ということなので、今度は連れ合いと一緒に、2ショットを撮りながら、鳳凰堂周囲を歩きます。
鳳凰堂は、中堂、左右の翼廊、背後の尾廊からなっています。 -
中堂には、国宝の阿弥陀如来さまがいらっしゃいます。
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池越しなのでちょっと距離があるけれど・・・外からお姿を見ることができます。午前中なら東から日が射すので、阿弥陀さまの正面が見やすいと思います。
平安時代の仏像では、定朝様という言葉をよく聞きますが、確実に定朝の作と判明している現存仏は、この阿弥陀如来坐像だけなんだそうです。あ~ぁ・・・そう言われてみればそうかもしれない・・・すごく意外でした~。 -
9:25になったので、橋のところに戻ってきました。
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鳳凰堂内部は撮影禁止。説明を聞きながら10分ほどの見学です(とはいえ、中堂の外陣だけなので、50人でいっぱいになるくらい狭いのですが)。
中堂内の壁や扉には、かつて描かれていた来迎図などが残っていますが、明かりが正面にひとつ(阿弥陀如来が見える部分)だけなので暗い上、11世紀に描かれた彩色はかなり剥げていて、判別しづらかったです。
でも鳳翔館に、当時の色彩を再現したものがあり、当時の鳳凰堂の中は、こんなに華やかな荘厳だったのだな~と実感することができます。 -
平等院の鳳凰に雌雄の区別はありません。11世紀のオリジナル一対は、鳳翔館に展示されています。
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さて・・・境内を時計回りに歩いてみます。ポツポツ降り始めた雨も、幸い止んだようです。
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敷地の南側の小高いところを上がると梵鐘(模造)。
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平等院の鐘は、「姿(形)の平等院」として、日本三銘鐘のひとつにあげられます。
鐘身には、唐草や天人などの文様が隈なく刻まれ、装飾が美しいことで有名だそうです。
この鐘楼にある鐘は、昭和47年に、寸分違わぬ姿で復原された2代目で、11~12世紀のオリジナルの梵鐘は、鳳翔館に展示されています。 -
間近で雲中供養菩薩を見ることができる鳳翔館を見学します。わたしにとって、ここが平等院のメインポイント!
鳳翔館では、平等院と塔頭に伝来する、定朝以前から江戸時代までの仏像を見ることができますし、絵画や工芸品などたくさんの貴重な品々が展示されています。 -
(鳳凰堂の図録より写しました)
鳳凰堂内部を再現したものです。
壁や扉には、大和絵風の九品来迎図などが描かれ、極彩色に荘厳された柱なども華美だったことがわかります。 -
(鳳凰堂の図録より写しました)
実際の鳳凰堂内部は暗いし、格子が張り巡らされていて、壁画はあまりよく見えませんが・・・こちらの展示が、実際の扉絵のひとつです。 -
(鳳凰堂の図録より写しました)
鳳凰堂の西側にある扉絵の想定復元図です。
観無量寿経で説かれる、十六観の初観にあたる日想観を描いています。
光芒を放ちながら大海に沈もうとする日輪を、ひとりの女性が拝しています。
右扉には、簡素な堂舎があり、その内部には金色の阿弥陀像が安置されています。背後の山崖には、四条の滝が流れ、前庭には4基の笠塔婆が見えます。美しい風景画に描き込まれた、藤原頼通の浄土への希求が感じ取れるものとなっています。
オリジナルの扉絵はほとんど剥げているのに、想定とはいえ、ここまで復元してみせるってスゴイ! -
雲中供養菩薩は、鳳凰堂内の北側と南側の壁面、長押上に26体ずつ懸けられています。当時は、供養飛天と呼ばれていたようです。
そのうち半分を、こちらの鳳翔館でじっくり見ることができるので、とてもありがたいです。鳳凰堂の中は暗く、長押上まで距離があるので、あまりはっきり見えませんでしたので。
各像は、いずれも頭光(輪光)を負い、飛雲上に乗って、さまざまな変化に富む姿勢をとっています。5躯は比丘形(僧形)で、他は菩薩形です。いろいろな楽器を演奏したり舞を舞ったり、あるいは持物を持ったり、合掌したりしています。
当初は、一部に切金をまじえて彩色が施されていたようです。また、持物はほとんど後補のもので、頭部も修理で補われたものがあります。
壁に懸けられている仏像なので、平面に懸けやすいように、板に近いような形かと思っていましたが、どこから眺めても、普通の立体的な彫像で、高さも60cm前後あり、どうやって壁に懸けてるんだろう?と思わせる仏像に、とても驚き感動しました。
いくつかは、360度どこからでも見れるように展示されているので、とても見ごたえがありました。雲中供養菩薩たちは、わたしがイメージしていたものと、実際とでかなり違いがあったので、見に来てよかった~と思いました。
雲中供養菩薩の写真集まで買っちゃいました。(この写真は、写真集から写しました) -
(鳳凰堂の図録より写したもの)
雲中供養菩薩の想定復元復刻。
鳳凰堂内部の壁や扉の絢爛豪華な極彩色文様と、金色に輝く本尊・阿弥陀如来坐像、そして阿弥陀如来の周りを飛ぶ色鮮やかな雲中供養菩薩たち・・・現在わたしたちが見ている鳳凰堂とはまったく別世界の極楽浄土がそこにありました。 -
鐘楼と鳳翔館のある小高いところから、下方にある鳳凰堂を眺めながら下ります。上ってきた道とは別の道です。
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池を挟んで見る正面(東側)とは反対・・・後ろ側(西側)になります。
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尾廊はけっこう長いです。
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尾廊の後方あたりに浄土院があります。
浄土院は平等院の塔頭で、15世紀後半、平等院修復のために開創されたお寺です。江戸時代には、鳳凰堂の西南を中心に、浄土院の子院が多数ありました。 -
浄土院子院のひとつ、観音堂がありました。本尊は、波型の台座に、船に乗る「船乗観音」でした。
しかし戦後まもなく盗難に遭い、それ以降、厨子と台座と守護札が残るだけとなっていました。今いらっしゃる船乗観音は、平等院開創950年記念事業の一環として復元されたものです。 -
寛永17年(1640)に、茶師・星野道斎とその息子によって、宇治茶興隆を願って建立された浄土院羅漢堂。
和様が主流の平等院内の建物群にあって、禅宗様を主体としたものとなっています。 -
(鳳凰堂の図録より写しました)
羅漢堂は閉まっていて、内部の様子を覗くことはかないませんでした、
鏡天井には龍の彩色画が描かれ、ご本尊の宝冠釈迦如来坐像や十六羅漢像が安置されているそうです。
写真を見ると、かなりいい状態で保存されています(まぁ、江戸時代で新しめなので・・・)。内部、見てみたいです。 -
浄土院前あたりから眺める鳳凰堂。
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だんだん降りてきました。
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翼廊は装飾のためだけで・・・実際に歩くことはできないものだけれど、尾廊は歩ける廊下になってるのかな。
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鳳凰堂への出入口である北側の橋が見えてきました。内部拝観者の列も見えます。
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翼廊は、装飾のためだけのものなのでスカスカ。
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浄土院の隣には、塔頭の最勝院。
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現在の平等院は、この最勝院(天台宗)と浄土院(浄土宗)とで、交代で管理を行っています。
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玄関上部には、藤の花の透し彫りが施された欄間があり、伏見城から移されたものと伝えられています。
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不動堂。
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ご本尊の不動明王。
鎌倉期に造られて、ずっと祀られてきたご本尊の不動明王は、鳳翔館にいらっしゃいます。 -
源頼政のお墓。
源頼政と言えば、近衛天皇を悩ませた鵺(ぬえ)を退治した・・・というエピソードがあります。
1180(治承4)年、頼政は、後白河法皇の第三皇子・以仁王(もちひとおう)を奉じて、平氏に対して挙兵しようと目論みます。
しかし、計画がばれて追われる立場になります。以仁王と頼政は奈良の興福寺へ逃れようとしますが、平家軍に追いつかれ、宇治橋で応戦します。
宇治橋を壊して抵抗したものの、平家軍に攻め入られてしまいます。
頼政は、宇治橋から近い平等院に逃げ込み、もはやこれまで・・・と、辞世の歌「埋もれ木の 花咲くことも なかりしに 身のなる果てぞ 悲しなりける」を詠んで自刃しました。77歳でした。
自刃したと伝えれらる場所は、扇の芝と呼ばれ、平等院境内にあるのですが、すっかり見損なってしまいました(←ありがち・・・)。
でも、その5年後に平家は壇ノ浦で滅亡することになる・・・兵どもが夢のあとの無常さを感じます。 -
鳳凰堂の周りを一周したかな。
表門と鳳凰堂との間あたりに、観音堂があります。鎌倉時代前期に、創建当時の本堂跡に再建された建造物とされています。
藤棚の藤は、樹齢200年以上の古木だそう。 -
観音堂はなかなか美しい建物で、表門から入ってくると、先ず気になります。
建物は非公開ですが、ご本尊の十一面観音菩薩立像(11世紀)は、鳳翔館にて見ることができます。 -
気づいていなかったので途切れちゃっていますが、左手前が、源頼政が自害した場所と伝わる扇の芝だと思われます。
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鳳凰堂と阿弥陀如来のご朱印。
浄土院と最勝院ではきちんと参拝もしなかったので(写しただけ)、御朱印は頂きませんでした(塔頭を含めていちいち頂いていると、ご朱印だけでかなりの出費になりますしねぇ)。
平等院
http://www.byodoin.or.jp/ -
平等院を出ます。
まもなく11時。参道のお茶店なども開き、人も増えていました。
行列に並んでまでの時間はないけれど(どこも行列は無かったように見えましたが)、老舗お茶店で、抹茶パフェを食べてみたいと兼々思っていますが、お腹が弱いわたしは、寒い時期にパフェなどの冷たいものを食べる気にはなれません。 -
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源氏物語全54帖のうち、最後の10帖は宇治が舞台となり、宇治十帖とも呼ばれます。なので、宇治橋のたもとに紫式部像がありました。
この後向かうエリアに行くには、JRでなく京阪を使うので、宇治橋を渡ります。 -
宇治橋と言えば、源氏物語よりも、橋姫伝説が興味深いです。
ある貴族の娘(橋姫)が、浮気をした夫と後妻を呪い殺すために鬼になりたいと、貴船神社に丑の刻参りをすると、宇治川に21日間浸かれとの神託を受けます。
橋姫は、髪を5つに分けて5本の角をつくり、頭に乗せた鉄輪(五徳)に火を灯し、火をつけた松明をくわえ、顔に朱、身体には丹を塗り、全身を朱く染め、宇治川に21日間浸かりました。
すると、生きながら鬼となり、復讐を果たしますが、その後も、誰かれかまわず殺す鬼女になったため、都の人々は怯え、夕刻を過ぎると誰もが外出を控えた・・・というお話です。
現在の橋姫神社は参道近くにありますが(もともとは、宇治橋の守り神として、橋の中央あたりに祀られていた瀬織津姫が発祥)、次の予定をこなしていかなければならないので、今回の宇治訪問では、平等院以外を訪れる余裕がありませんでした。 -
今朝、(わが家にしては)早めに出ることができ、9時半一番の拝観ができたため、予定よりも早め・・・順調に進むことができそうです。
連れ合いには気の毒ですが、ここから後は、押せ押せギリギリの予定になっていて、ランチを食べる時間はなさそうなので、ここらでおやつを食べて休んでおくことにします。
橋のたもとにある通圓で、茶だんごを頂きま~す!見かけは地味でちっちゃな茶だんごですが、意外と美味しかったです。通圓 宇治本店 グルメ・レストラン
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連れ合いは、抹茶あんぱん・・・だっけな?
宇治には、平安時代に建立された、現存する日本最古の本殿を持つ宇治上神社や、人形などを駆使し、平安時代の暮らしをビジュアルに展示した宇治市源氏物語ミュージアムなど、寄ってみたいスポットはまだまだありましたが、今回は、残念ながらパスせざるを得ません。
通圓
http://www.tsuentea.com/ -
11時半頃・・・京阪宇治駅にきました。
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すごくモダンでカッコいい駅にビックリ~~!
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京阪宇治線から本線へ乗り換えて・・・七条駅で降り、蓮華王院 三十三間堂にやってきました。12:15くらいです。
現在の境内図・・・本堂とあるのが三十三間堂。三十三間堂(蓮華王院) 寺・神社・教会
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法住寺殿(ほうじゅうじどの)は、保元3年(1158)、皇子・二条天皇に譲位して上皇となった後白河院が、約30年にわたって院政(上皇が天皇に代わって政権運営をする特異な政治形態)を行った政庁です。
上皇になると、天皇の住まう御所とは別のところに、専用の院御所(いんのごしょ)を造営するのが通例で、先例の白河・鳥羽の両帝に続き、そのたびに大規模な土木工事が行われました。
後白河院は、譲位直後に御所の造営に着手、東山の麓から西は鴨川河岸まで、南北は八条坊門小路(現・東海道線南の大谷高校あたり)から六条大路(現・六条通り)に及ぶ広大な地域で、その地名を取り「法住寺殿」と名付けたのでした。
構内は、政治的な施設の「北殿」と、常の御所と呼ぶ住居に、三十三間堂を始めとする宗教的堂塔が集中した「南殿」に分かれ、東山を背にする丘陵に、地中から湧き出たような大建築が甍を並べたと言います。
永暦2年(1161)、上皇はここに移り、以後20年住まいとしました。しかし、賑わいを見せた院の御所も、寿永2年(1183)11月、対立するようになった木曽義仲の夜襲にあい、焼失しました。
三十三間堂は、長寛2年(1164)、法住寺殿の一画に、平清盛が造進したものです。建長元年(1249)、市中よりの火災で焼失しましたが、すぐに復興に着手し、文永3年(1266)に再建されました。その後、室町・桃山・江戸そして昭和と4度の大修理により、700余年、保存されています。 -
平安時代、このあたりは鳥辺野と呼ばれる葬送地の入口であり、多数のお寺が建立されました。
法住寺も、そもそもは永延2年(988)に、に右大臣・藤原為光が七条から八条末に建立した寺院でしたが。長元5年(1032)に焼失してしまいました。
その後平安時代後期に、藤原信西(藤原通憲)が、この地域に邸宅を造営しており、久寿3年(1156)に、後白河上皇が行幸しています。
平治元年(1159)の平治の乱により、藤原信西邸が焼亡。ほどなく、東山一帯に法住寺殿や六波羅邸など、当時の政治的拠点となる諸施設が相次いで造営されたのです。
この時代になると、都の東にある葬送地エリアにまで、上皇の御所や平家一門の邸宅群(六波羅)の造営が進出していたのですね~。平安京の中心が東寄りに変化していったのを感じます。
しかし、後白河院の没後は、政治的拠点としての機能は徐々に喪失し、正安3年(1301)に最勝光院が焼失してしまうと、平安時代後期に造営された法住寺殿の建造物群は、蓮華王院の一画を残すだけとなってしまいました。
その後、元弘3年(1333)に、六波羅政庁が足利尊氏(高氏)の攻撃により焼亡するなど、周辺は戦火に見舞われましたが、蓮華王院の本堂(三十三間堂)だけは兵火を免れました。 -
北門と回廊。
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北門。
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北門側から・・・池泉を挟んで三十三間堂。
南北に約120m・・・やはりかなりの長さだなと実感します。 -
回廊。
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さて・・・いよいよ観音さま群にお会いしにいきますか~ぁ。
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長~い広縁!わ~ぁ!圧巻~!と感じさせる寺院建築は、なかなかないものだと思います。
桁行35間(南北118・2m)、梁間5間(幅16・4m)、内陣の柱の間数が観音ゆかりの33であることから、巷では三十三間堂と呼ばれてきました。
13世紀から、この建物だけが奇跡的に残って維持保存されてきたことを思うと感慨深いです。 -
(パンフレットを写しました)
寺院仏閣や仏像にまったく興味がなかった子ども時代に、スゴイ!!というインパクトを残した1001体の十一面千手観音さまの行列。
十一面+千手・・・だから、装飾的な華麗さと優美さが増幅されているのでしょうね~。
テレビなどで何度も見ることはありましたが・・・実際に目の前に立つと、同じスタイルの十一面千手観音さまなのに、同じものはひとつとしてなく・・・壇上に整然と並んでいる中にいると、観音さまに取り囲まれているような・・・異空間に迷い込んだような不思議な気分になってきます。
それにしてもキレイに並べてあるもんだな~という俗っぽい感嘆もありましたが・・・。 -
(パンフレットを写しました)
本堂の中央には、左右500体ずつに挟まれて、湛慶作の丈六・千手観音坐像(像高335m)が安置されています。
その他、風神・雷神像や二十八部衆像も、国宝であり、美しい仏像たちなので見逃せません。見どころ多すぎです!
鎌倉時代の仏像は・・・やっぱりオシャレだわ~~!とつくづく。
創建時の観音さまたちは、どんな様相だったのか・・・失われてしまったのでどうしようもありませんが、そちらも見てみたかったですね。 -
いつまで見ていても、飽きることはありませんが・・・外に出ました。本堂中央の向拝の向こうに、中尊・千手観音坐像がおられます。
創建当時の三十三間堂は、色鮮やかな丹塗りでした。内陣の柱や長押、木鼻などの各所にも、宝相華唐草などの文様が極彩色で描かれていました。 -
1266年まで、16年を費やして再建された三十三間堂。
再興像には、作者の記銘があるものが504体あるそうです。慶派、円派、院派の在京仏師集団三派が総動員されていたことが分かります。
その後も、足利義教、豊臣秀吉、徳川家光らにより、千体仏は大修理を経て、今日まで護持されてきたのが・・・スゴイことだよな~としみじみ。 -
冬の桜が咲いていました。
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鐘楼は、平成になってから再建新築されたものです。
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横長すぎて収まり切らず、何枚撮ってもいまいちだ・・・(苦笑)。
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境内の南側には太閤塀が巡り、塀の向こうには南大門が見えます。南大門は、境内からだと、塀越しにしか見ることができません。
天正期に、豊臣秀吉が東大寺を模して発願した大仏殿方広寺。7年の歳月をかけて、文禄4年(1595)に竣工しました。この門は、その大仏殿の南門として置かれたものです。 -
木造土造の築地塀は、高さ5・3m、桁行92m(29間)の堂々たる建造物で、蓮華王院も方広寺に取り込み、その南限を区画する目的で造られたものです。
軒平瓦に、太閤桐の文様が用いられていることから、太閤塀と呼ばれています。 -
三十三間堂の南側。
三十三間堂を造らせた後白河上皇は、ひどい頭痛持ちでした。そこで、上皇が祈願したところ、僧侶だった前世の因縁だとお告げがあったそうです。前世では、熊野参詣から帰る途中に倒れて亡くなってしまいました。そして、その頭蓋骨を貫く形で、柳の木が生えて風に揺れるため、現世で頭痛に悩まされているのだと・・・。
その柳の木が、やがて大きく成長し、巡り巡って三十三間堂の天井を支える巨大な棟木に使われた(三十三間堂の千手観音に納めたという話も)・・・という因縁話が語り継がれるようになりました。後白河上皇の頭痛は、その後平癒したと言います。 -
三十三間堂の西側(後ろ側)にまわってきました。
江戸期には、この長い広縁において行われる、尾張・紀州両藩による通し矢のイベントが、民衆の評判となりました。
縁側の柱や軒に残る鉄板は、雨あられと飛び来る矢から、お堂を守るために、徳川家光が付加したものです。
この西縁の南端から北端へ・・・昼夜24時間、矢を射続けるという「大矢数」は、身命をかけた壮絶な競技で、江戸時代を通じて、約800人がこれに挑み、放たれた矢数も延べ100万本に達すると伝えられています。
現在も、毎年1月半ばに、この古儀に因む弓道大会が行われているそうです。もちろん、お堂の縁側でななくお庭で行われ、60mほど先の的に当てるといったものになっているそうですが・・・。 -
江戸時代に描かれた通し矢の様子。
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まぁ、武士たちの気持ちがわからないでもないですが・・・(~_~)・・・。せいぜい走ってみたくはなります。
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この向こうに、観音様たちが並んでいるのですね。
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西門。
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蓮華王院三十三間堂のご朱印。
蓮華王院 三十三間堂
http://sanjusangendo.jp/ -
蓮華王院の北側にある出入口から出て、秀吉ゆかりの南大門に向かいます。
現在の蓮華王院の東側は、後白河上皇の南殿があったあたりですが、今でも、後白河天皇法住寺陵があるなど、面白そうなエリアです。時代は違いますが、血天井で有名な養源院もありますが、養源院はお休みでした。
南大門は、慶長5年(1600)の建造と推測されています。 -
ここらは、葬送地への入口だったエリアで、また、平家一門が居を構えたエリア(やや北の六波羅あたり)でもあり、興味深いのですが、それらを偲んで歩く時間はありません。
13時半をまわりました。南大門をくぐり、次の目的地へ向かいます。 -
次の目的地までは徒歩で1・3km。
もともと路線バスを使いこなすことに不慣れだし、バスだと時間が読めないので、基本的に地下鉄か電車、徒歩で移動することを主に計画しました。
お腹が空いたな~と感じる時刻だけれど、16時までに入らないといけないお寺が控えているので・・・我慢して歩きますよ~。
東大路通をてくてく南下します。 -
泉涌寺道に入り、2~300mほど歩くと、泉涌寺の総門が見えてきました。ゆる~い上り坂道なので・・・距離のわりには疲れます。
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・・・と、忘れちゃいけない!総門の手前左手に、目的のひとつである即成院があるんです。
門の上に鳳凰が鎮座しています。平等院の鳳凰と向き合う形だとか・・・。即成院 寺・神社・教会
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入るとすぐに地蔵堂。
即成院は真言宗泉涌寺派の寺院で、平安時代(992年)に、恵心僧都が伏見に建立した光明院を始まりとしているそうです。
関白・藤原頼通は、宇治に平等院を建てて極楽浄土を願いましたが、その子、橘俊綱も、寛治元年(1087)に、伏見桃山に広大な山荘を造り、光明院を阿弥陀堂として、移設しました。
以後、即成院はさまざまな変遷を経て、明治時代に現在の地に移りました。 -
奥にあるのが本堂。
京都というよりも・・・どこにでもあるような、こじんまりとしたお寺です。 -
でも・・・仏像はなかなかの美仏揃いなんです~!
ここに訪れた目的は、阿弥陀如来と二十五菩薩。臨終に際して、阿弥陀如来は二十五菩薩とともに迎えに来て、極楽浄土に導いてくれるというもの。
(購入した写真を写したものです)
拝観料を払えば、内陣に入って、仏さまのオーケストラと呼ばれる菩薩たちを近くから拝観することができるんです。
中央の阿弥陀如来は5・5m、二十五菩薩もそれぞれ1・5mほどの高さです。
堂内は暗い(←ありがちすぎる・・・)のと、内陣とはいえ仕切りがあって、仏さまたちからやや距離があるため、細かいところは見づらかったです。
仏像たちは、寛治8年(1094)に造られたと言われています。 -
特別ご朱印もあるみたいですが、普通のご朱印を頂きました。
即成院
http://www.negaigamatoe.com/ -
今度こそ・・・泉涌寺の総門をくぐって・・・鬱蒼と木々が茂る上り坂をダラダラと進みます。左右には、泉涌寺の山内塔頭寺院が多くあります。
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上り坂だし・・・総門を入ってからだいぶ歩いたような気がするけれど・・・泉涌寺までけっこう距離があるように感じます。
疲れるわ~・・・まだなのかしら~?と思いながらダラダラ歩いていると、途中にある塔頭の戒光寺に、重文(鎌倉時代)運・湛慶父子作の10mの釈迦如来・・・との看板がありました。ここはノーチェックだったけれど、これは入らなくては~~と、寄ってみることにしました。戒光寺 寺・神社・教会
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戒光寺は、鎌倉時代(1228)、後堀河天皇の勅願所として、猪熊八条の地に、広大な伽藍を持つ戒律復興の道場とし建立されました。
応仁元年(1467)に、応仁の乱により堂宇を焼失しましたが、本尊・釈迦如来は兵火を逃れ、仮に一條戻橋付近に移りました。
さらに、三条河西に移築された後、正保2年(1645)、後水尾天皇の発願により、泉涌寺の塔頭とされ現在に至ります。 -
(パンフレットを写しました)
丈六釈迦如来は、台座から光背部をいれると約10mになります。
顎から首のあたりに、何かが流れているように見えるのは、血の跡だと言われています。
後水尾天皇が皇太子であった頃、皇位争いに巻き込まれ、暗殺者に寝首を掻かれました。しかし、その時にこの釈迦如来が皇太子の身代わりとなり、命を救いました。その時に流れた血の跡だと言われています。
このことから、身代わりのお釈迦さまと呼ばれるようになり、悪しきことの身代わりになってくださる・・・または、首から上の病気、のどの病気を治してくださる・・・と崇められています。
この釈迦如来とそのエピソードは、テレビで見聞きしたことがあるのを思い出しました。 -
戒光寺のご朱印。
戒光寺
http://www.kaikouji.com/ -
あ~~!やっと・・・やっと、泉涌寺にたどり着きました。さすが御寺・・・広大だわ~ぁ・・・。
時刻は14:40過ぎ・・・ここは16時まで(閉門16時半)なので、なんとかちょうど良い感じでたどり着くことができました。
境内に入る大門は、もとは京都御所の内裏の門でした。慶長時代、徳川家康が、後水尾天皇の即位と共に、御所を再建しましたが、その時に、旧門の部材を拝領して移築した門と考えられ、桃山時代の建築です。 -
朝と同様・・・また雨がポツポツしてきました。あ~~お願い!もうちょっと持ってほしい~~!
まずは、ここを訪れたメイン目的・・・楊貴妃観音さまを拝観しにいきます。
大門を入り、左手に楊貴妃観音堂があります。 -
(ポストカードを写しました)
楊貴妃観音堂も内部が暗く、厨子に入っているため、思った以上によく見えませんでした。写真で見たほうがキレイです。
唐の玄宗皇帝の妃・・・絶世の美女として知られる楊貴妃。寺伝では、玄宗は、亡き楊貴妃を偲んで、等身坐像にかたどった聖観音菩薩像を彫らせた・・・との伝承があります。この像は、寛喜2年(1230)、中国に渡った湛海律師(月輪大師の弟子)によって、泉涌寺に持ち帰られ、泉涌寺に安置されたと言われます。
以来、100年ごとに開扉されてきた秘仏でしたが、昭和31年(1956)から一般公開されるようになりました。
彩色された宝相華唐草の透し彫りの宝冠がとっても優雅です(でも現地では、周りが薄暗くなってきていたせいもあり、よく見えなかったんですけれど・・・)。 -
あまりよく見えず、ちょっとガッカリしちゃいましたが・・・。
泉涌寺の創建年代や由来は、はっきりと分かっていないようですが、平安時代に左大臣・藤原緒嗣(ふじわらのをつぐ)が自分の山荘を改築し、神修上人(しんしゅうしょうにん)に帰依して寺院を建立したという説や、空海が建立した草庵が起源という説などがあるようです。
創建当時は法輪寺という名前でした。後に仙遊寺と改められましたが、やがて荒廃していきます。
1218年、荒廃していた仙遊寺を、月輪大師(がちりんだいし)が、時の宋の方式を取り入れて、この地に大伽藍を営むことを志し、寺地の一角から清泉が湧き出ていた祥瑞により、寺号を泉涌寺と改め、嘉禄2年(1226)には、主要な伽藍が完成しました。この泉は、今も湧き続けています。
復興された泉涌寺は、律を基本に天台・真言・禅・浄土の四宗兼学の道場として大いに栄えたと伝えられています。公家と武家の両方から篤い信仰を集め、1224年には、後堀河天皇から皇室の祈願所として定められました。
その後、後堀河天皇と次代の四条天皇の陵墓が敷地内に造られたため、寺院は皇室の菩提寺となり、御寺(みてら)と呼ばれるようになります。室町時代から幕末にかけての歴代天皇も、泉涌寺の敷地内に陵墓を造営して、大いに栄えました。 -
大門からまっすぐ・・・やや下り坂の先に、仏殿が見えます。本堂まで下り坂なのは珍しく、行ったことはないけれど、延暦寺がそういうスタイルのようです。
やや高い位置から見下ろす仏殿は、遠近感があり、広々とした印象を受けます。 -
ちょうど、お坊さんたちがぞろぞろとやってきて・・・仏殿の前でお経をあげているところに遭遇。
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まもなく傘を広げて、ぞろぞろと奥の方へ行ってしまいました。
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仏殿まで行く途中に浴室があります。内部は非公開。
現在の浴室は、泉涌水の西側に北を向いて建っていますが、寛文の再建時には、仏殿の北側に、南向きに建てられていました。さらに、泉涌寺の創建時には、東北の山裾にありました。
浴室内部は、高く張られた床上部と入口土間からなり、板を張った床の一角に屋根を冠した仕切りがあります。床下にあるかまどの鉄釜で湯を沸かし、蒸気を床上に入れる古式の蒸し風呂でした。
浴室は、仏前に使える僧侶が身を清めるための施設でした。また古代、中世の風呂は、病に悩む民衆の治療に用いられたこともありました。
本格的な建物で、切妻屋根の破風に、蕪形の懸魚をつけています。蟇股には牡丹の彫刻があり、浴室額と唐戸の間は、縦の波模様の透かしのある欄間となっていて、優美な造りとなっています。 -
こちらが泉涌水屋形です。
泉涌寺の名の由来となった清泉を覆う屋形で、寛文8年(1668)に再建されたものです。
内部の鏡天井には、蟠龍図が描かれているそうです。 -
仏殿です。
寛文8年(1668)に、四代将軍・徳川家綱により再建されたものです。2階建てではなく、一重もこし付き入母屋造り、本瓦葺きの唐様建築となっています。
泉涌寺創建当初の伽藍は、応仁の乱でほとんどが焼失し、現在の伽藍は、江戸時代に整備されたものです。 -
(ポストカードを写しました)
仏殿には、三世仏がいらっしゃいます。伝・運慶作。
左から阿弥陀、釈迦、弥勒が並び、現在、過去、未来の三世を表しています。南宋の諸寺に倣ったものです。
三尊仏背後の壁には、狩野探幽による飛天が描かれています。
明日1月1日には、お寺の参拝はできるけれど、仏像を見ることはできなくなります・・・と伺ったので、このエリアめぐりを今日にしたわけです。 -
大門から見て、仏殿、舎利殿、本坊の主要建物が直線的に並んでいます。宋の寺院を手本とした、創建時の堂宇の配置だそうです。
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舎利殿。
寛永年間に、御所にあった御殿を移築し改装再建したもので、天井には、狩野山雪による鳴き龍(赤龍)が描かれているそうです。
泉涌寺の仏舎利は、月輪大師の弟子・湛海律師が、1228年に宋より持ち帰りました。釈迦の歯にあたるもので、(説法をされる口に有するため)特に尊い舎利だと言われているそうです。
牙舎利は、舎利塔という建物の形をした容器に納められ、左右には月蓋長者と韋駄天の像を従え安置されているそうです。 -
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本坊へ・・・。
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本坊の隣には、御座所。
現在の御座所は、霊明殿再建時に、明治天皇により、御所内にあった御里御殿(1818上棟)が移築されたものです。御寺泉涌寺 寺・神社・教会
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御座所。御座所には、別途料金で入ることができます。
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塀の向こうも御座所・・・かな。
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御座所内も撮影禁止ですが、お庭だけは撮ってもいいと許可を得たので・・・冬なので、地味な色彩ですけれど・・・。
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6つのお部屋に分かれています(撮影できないもんで、すでに記憶があまりないですが・・・)。
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御座所の車寄せ。
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本坊から出て・・・
塀に沿って歩くと・・・勅使門。皇族や天皇の勅使が寺を訪れた時に開けられる門。
修理の際、鬼瓦に弘化2年(1845)御再建という銘文が見つかったということで、天保12年(1841)の本坊火災の後、再建がなされた年にあたるそうです。 -
御座所の南隣には霊明殿があります。
現在の霊明殿は、明治17年(1884)に明治天皇により再建されたもの。 -
霊明殿は、歴代天皇の尊牌(位牌)や木像を祀っている建物です。
門から中へは入れないようなので、柵のところから撮影。 -
宸殿風な造りになっていて、内部は、内陣・中陣・外陣に分かれており、内陣は5室の宮殿となっているそうです。
天智天皇以来の歴代天皇の御尊牌が奉祀されており、皇室とのご縁が深く、内部の荘厳具は明治天皇以降の皇族から贈進されたものだそうです。 -
霊明殿の右手からさらに奥へ行くと、月輪陵(つきのわのみさぎ)があります。
歴代天皇が眠る陵墓(お墓)です。内部には25陵、5灰塚、9墓があり、陵墓はすべて仏式の石塔になっているそうです。
さらに、月輪陵の背後にある山腹には、後の月輪陵と呼ばれる孝明天皇陵と英照皇太后陵が築かれているそうです。
しかし、唐破風のついた屋根を持つ門と塀で囲まれており、門外からの参拝となり、もちろん陵墓の敷地内には入れません。
・・・と偉そうに説明しましたけれど、わが家は、いつもながらすっかり見損ねました(苦笑)。
写真は、大門近くの小高いところにある経蔵です。 -
泉涌寺のご朱印。
ただ今16時少し前です。
閉門が16時半(入場は16時まで)なのですが、平等院拝観を早めに終えられたので、予定していた仏像めぐり・・・なんとかすべて周りきることができました。
仏像にばかり注目するので、つい見損ねた大事なものも多々ありますが・・・(いつもながら・・・苦笑)。
泉涌寺
http://www.mitera.org/ -
帰りの泉涌寺道は、下り坂なので楽ちんでした。JR東福寺駅まで歩き、いったんホテルまで戻りました。
今日は大晦日なので、早めに閉まる飲食店もあるし(場所によりますが)、夕食は、京都駅近くにあるホテルのレストランにしました。
夕食後に、八坂の塔や産寧坂や二年坂あたりの・・・ザ・京都の夜景(日中には訪れることができないので)を撮りたい~と計画していました。
そのエリアには、バスでのアクセスになるので、京都駅から行くのが一番わかりやすいかな~ぁと思いまして・・・。
しかし結局・・・あまりの疲労感と気力喪失・・・バスで行き来しなくてはならない面倒くささ・・・しっかり雨降り・・・のせいで、この日の夜景撮りをすっぱり諦め・・・ゆっくりと、飲み食いすることに徹しました。OCTAVAR グルメ・レストラン
-
ホテル経営のレストランなので・・・特に期待していたわけではありません。
それにしても、かなり手際が悪く(混んでたってこともありますが)、だいぶ待たされているテーブルもけっこうあるように見えまして・・・ホテルのレストランなのになぁ・・・と連れ合いにボヤいたら、どこのホテルなの?と聞かれたので、京阪ホテル・・・と答えると、京阪じゃしょうがないよ~~!と笑い飛ばされました。あ~ぁ、そうなんだぁ~~!
まぁ、この後予定はないので、わが家はいいのですが・・・。
さぁ、早めに寝て、元気を回復しないとね~~!!
オクターヴァ
https://www.hotelkeihan.co.jp/kyoto/restaurant/
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この旅行記へのコメント (6)
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- ムロろ~んさん 2018/03/25 20:39:52
- 宇治の平等院!
- こあひるさん
こんばんは、引き続き京都へ行かれた旅行記を拝見しました。
今回の旅、朝早起きかなり頑張ったようで「お疲れさまです」と言われるくらい疲れたのではないかなぁって(;^_^A。
早起き大変ですよね。
宇治の平等院の中に入る際に、早く行けば中に入れるなんて知りませんでした。
あの歴史的遺産の所ですよね。旅行記読んでいてびっくりしたんです。
私も子供のころに宇治へ家族旅行で行ったのですけれど、外で見るだけ(;^_^A。
実は曹洞宗の重要寺院があるので、そこと合わせて旅してみたいって思っているんです。
京都ってパンが食べられる率が高いと聞いたことがあります。
私もパンが好きなので魅力に感じます(^_-)-☆。
で、にしんそばを連れ合いさんに頼んで食べてもらったのはウケました(´艸`*)(笑)。
確かにちょっと独特な味がしますよね(^_^;)。
そばは好きですけれど、にしんそばのチョイスは…(;^_^A(笑)。
ムロろ~ん(-人-;)←にしんそばよりも食べたいものがあるので(笑)
- こあひるさん からの返信 2018/04/01 17:49:20
- RE: 宇治の平等院!
- ムロたん、こんにちは!
引き続き書き込みありがとうございます!
お寺めぐりは、どうしても朝早く始まり、夕方早めに終わるので・・・わが家にしては頑張らないとなりません。ムロたんは早起きには慣れていらっしゃるので、不思議に思うかもしれませんが・・・ほんとに起きれません。朝のお勤め参加があるので(参加しなくてもいいところもありますが)、宿坊にも泊まりたくないわが家です。
平等院の内部は、朝一番に行かなくても見学はできると思います。ただ、一度に入れる人数が決まっているので、遅めに行くと、かなり後の時間帯に割り振られてしまいます。朝一番に行けば、時間が読めるし、その後も寺巡りするのに差支えがないので・・・頑張りました。
宇治の曹洞宗の重要寺院って、興聖寺ですかね〜?宇治のあたりも歴史あるエリアなので、ほんとはもっと色々歩き周ってみたかったです。
わたしは魚介類は好きなのですが、臭いを感じてしまうと苦手なのですよねぇ・・・なので、きっとにしんそばは魚臭いだろうと思って・・・でも名物なので見たいと思い、連れ合いに押し付けて食べてもらっちゃいました。
年末年始のため、狙ったお店がお休みだったこともあるし、食事にお金をかけるほど余裕はなかったので、今回は食事やスイーツにはあまり重きを置きませんでしたが、ほんとに、にしんそばよりも食べたいものがたくさんありますね!
こあひる
-
- るなさん 2018/02/02 00:50:23
- 歴女こあひる(笑)
- あひる殿、こんばんは☆
またまた雪の首都圏である。寒いっぺ
平等院鳳凰堂って10円玉の絵のとこよね?
お姉ちゃま、何だか歴女になってきたわねぇ~(笑)
水辺越しの建物って映り込みが好きなんだよね私♪
でも、仏様にはあんまり興味がないので(ごめん^^;)よーわからんけど、觔斗雲(漢字がわからないからググった 笑)みたいなのに乗ってる像は綺麗ね。
幼稚なコメントしか書けなくてごめんなさい(>_<)だってわからんもんよぉ。
ある程度歴史背景なんか調べておけば、その土地への見方も全然違うのにっていつも思うのだけど、ほんまに億劫でねぇ(苦笑)でも、海外なら初訪問の際には一応何冊か本は読んで行くのだけどね。
京都へ行く時にはお勉強しなくちゃだわ((+_+))
るなっちょ
- こあひるさん からの返信 2018/02/05 10:04:44
- RE: 歴女こあひる(笑)
- るなっちょ、こんちは〜〜!
今年は、西の方・・・そして関東エリアも、雪が多いよね〜。交通手段に影響しちゃったり、雪国の人には悪いな〜と思いつつも、毎度、雪、いいな〜ぁって思ってるよ、わたし。どこどこエリアが大雪!なんてニュースで言っていると、雪の多いところに行かなきゃもったいないような気持ちになります・・・(笑)。
ところで・・・ぜんぜん歴女じゃないですから〜〜(爆)!
旅行記作る時になってから、さて、どんなところだったんかいな?とじっくり調べたりして・・・知ったようなふりして、実際にはその場限り・・・。あ〜でも、京都の魔界話や伝説がらみの本は読んだけどね〜。そういうのだけは好き。
旅行前に、ガイドブックなどを見て、自分的にフォトジェニックだな〜って基準でスポットを選ぶことが多い軽薄さですので〜。
さらに美仏が基準だと(造られた時代はとても重要だけれど・・・)楽だよね。
海外旅行の時、何冊か本を読んでから行くるなっちょの方がわたしよりずっと偉いよ〜ぉ。
こあひる
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- aoitomoさん 2018/01/30 19:07:48
- こあひるさんの美仏さまリサーチも凄い!
- こあひるさん こんばんは~
『平等院』
鳳凰堂の撮影は池への映り込みがほしいですが、無事に撮影できましたね。
雨と風が大敵ですから。
確かに平泉にも、当時はこれとそっくりの建物があって極楽浄土を描いていたのでしょうね。
この極楽浄土を望んでいた時代結構好きです。
『鳳翔館』
ここは、様々な仏像が見やすく展示されているのがいいですね。
ここだけでもだいぶ見学時間がかかりそうです。
『雲中供養菩薩』
雲に乗って移動しているイメージで躍動感があるんですよね。
ひとつひとつ隅々まで見てしまいます。
『扉絵の想定復元図』
このような復元図があると分かりやすいです。
無いと想像力が乏しいもので。
視覚的に分かりやすいと、とっつきやすくなります。
『三十三間堂』
学生の頃からインパクトのある観音さまとしても唯一記憶に残っているのが三十三間堂の千手観音です。
湛慶作の丈六・千手観音坐像は流石に記憶に無いですが、今なら見てみたいです。
『後白河上皇』
現生において34回もの熊野御幸をして、前世・現世・来世の穢れを落としたはずなのに、前世の因縁を拭えなかったのですね~(笑)
繰り返し熊野御幸をしたのは頭痛を治す意味合いもあったのかとかと、想像を広げてしまいます。(笑)
『即成院』
本堂の阿弥陀如来と二十五菩薩。
拝観して手を合わすことに意味があるのでしょうが、
暗い・見づらいのあるあるはどこでも多いですね。
美仏揃いというのに見えにくいのは辛いところです。
極楽浄土に行くことを懇願していた時代、
この阿弥陀如来と二十五菩薩は多くの人々を救ったのでしょうね。
アニメ映画『かぐや姫の物語 』月に帰るのシーンを思い出してしまいました。
『戒光寺』
大きな『丈六釈迦如来』があることに驚きます。
何も知らないと顎の下の汚れが気になりますが、
説明を聞くと納得です。
『泉涌寺』
『楊貴妃観音像』なかなか渋い顔です。彩色された宝冠も大きくて一度見たら忘れないお顔です。
顔立ちも日本の観音像と違う感じです。
髭が生えていると思ったら、口の動きを表現しているんですね。
仏殿の三世仏もセーフで見れたのですね。
それにしても、こあひるさんの美仏リサーチの凄いこと。
また、京都だからか?立派な仏像も多いですね。
私ものめり込んで旅行記楽しませていただきました~
aoitomo
- こあひるさん からの返信 2018/02/03 00:33:53
- RE: こあひるさんの美仏さまリサーチも凄い!
- aoitomoさん、こんばんは!
平等院訪問時には、お天気がいまいちで・・・あいにく朱色がキレイに映えませんでしたが、美しい建物を愛でることができてよかったです。
平等院の建物そのものよりも、鳳翔館での見学がとっても楽しみでした。雲中供養菩薩は、思い描いていたものよりも立体的で大きく、これが壁に懸けられているのかと思うとビックリでした。
写真集も買ってしまったので、ひとつひとつじっくり細部を見ることができるのが嬉しいです。
実際の壁や扉絵は、暗いし剥げかかっているしで、よく見えないのですが(説明されると、それらしき絵があるな〜って感じ)、当時の復元があると、自分の想像力の貧しさを改めて思い知らされながらも、あるとないとでは違いますね。人形や復元などを駆使して、往時の姿や様子をビジュアルで見るのは、とても勉強になりますよね。
わたしも唯一、三十三間堂は凄かった・・・というインパクトだけがありました。大人になって、テレビなどで時々見ているので、どんな様子なのかは知っていましたが、実際に1001体の菩薩の行列の前に立つと、圧倒されますね。あんなにキレイに並べてあることがスゴイとも・・・(笑)。
後白河上皇は、なかなか興味深い人物ですね〜。そうそう、34回も熊野に行ったんですよね〜。その分、信心深いのかというと、人一倍欲が強く、しぶとく何度も政治の舞台に戻ったりして・・・神仏を詣でれば詣でるだけ、死後の安泰を確約できる・・・なんて俗な理由なのかな〜。
お寺での仏像拝観は、雰囲気があるし、やはりその場全体の調和・・・というものもあるのですが、仏像マニアとしては(笑)、博物館のように、ある程度明るく、近くでじろじろ見ることができるほうが嬉しいですねぇ・・・。
戒光寺の丈六釈迦如来は、以前、テレビで見た、天皇の身代わりになった血の跡のある仏像がここだったのかぁ〜〜とビックリしました。予定にはなかったお寺ですが、呼ばれたのでしょうか〜ぁ?
泉涌寺の楊貴妃観音は、ほんとに暗くて見えませんでしたよ〜。天気が悪く、夕方だったせいかもしれません。日の光の入り方によっては、もうちょっとよく見える時間帯があるんだろうな〜と思いました。あの華やかな宝冠が見たかったのですけれどね〜。宋から持ち帰った仏像なので、日本の仏像とは雰囲気が異なるのでしょうかね。
京都も奈良も、美仏が多すぎて・・・なかなか楽しいですが、一度見ても、すぐに忘れちゃうので、再訪したいな・・・と思うお寺も出てきたり・・・悩ましいところです。
3年くらいでいいので、大阪あたりに住みたいです。
こあひる
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