2017/11/26 - 2017/11/26
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楠木正成所縁の城巡りの締め括りになる、上赤坂城の紹介です。元弘3年/正慶2年2月22日(1333年3月8日)に発生した上赤坂城の戦いでは、平野将監入道と楠木正季(楠木正成の弟)が、鎌倉幕府の阿蘇治時・長崎高貞・結城親光らと戦った山城です。(ウィキペディア、日本百名城公式ガイド)
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今目指している『上赤坂城(かみあかさかじょう)』は、その所在地は大阪府南河内郡千早赤阪村上です。『上赤阪城』とも表記されます。別名は『楠木城』、『小根田城』、『桐山城』とも言います。楠木七城の一つで、『楠木城跡(上赤阪城跡)』として国の史跡に指定されています。赤い矢印で、直進が『本丸』と記されていました。(同上)
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紹介した標識のズームアップ光景です。右向きの矢印の『本丸』の案内の上に、左方面が『奉建塔』、右方面が『楠木城趾(上赤坂城跡)の表示がありました。『奉建塔』は、徳島県の画家の方が発起人となり、昭和15年に楠公600年祭記念として建てられたものです。塔の高さ43尺は湊川で戦死した時の楠木正成の年齢である43才を表わしています。(同上)
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『上赤坂城址』に到着しました。その城跡からの眺望です。『上赤坂城』の紹介です。鎌倉時代末期より南北朝時代に存在した楠木正成の本城です。 昭和9年(1934年)3月13日、国の史跡に指定されました。現在、遺構として、等高線に沿った横堀と曲輪が認められます。これは、戦国期に改修を受けたものと考えられています。(同上)
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『上赤坂城』の歴史の紹介です。元弘の乱の主要な舞台となりました。元弘2年(1332年)の正成再挙兵後、新たに築いた当城が楠木氏の城の一つとなり、鎌倉幕府軍に対抗しました。元弘3年/正慶2年2月22日(1333年3月8日)に発生した上赤坂城の戦いでは、平野将監入道と楠木正季(楠木正成の弟)が、鎌倉幕府の阿蘇治時・長崎高貞・結城親光らと戦いました。(同上)
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イチオシ
旧暦の閏2月1日(3月17日)に上赤坂城は落城したものの、鎌倉幕府軍を苦しめ、千早城の戦いと合わせて、元弘の乱での後醍醐天皇勝利に大きく貢献しました。周辺の金剛山の尾根上には下赤坂城とともに猫路山城・国見山城・枡形城等の出城が築かれて、赤坂城塞群を形成していました。南北朝期にも南朝方の拠点となりましたが、延文5年/正平15年(1360年)に北朝方の手に落ちました。(同上)
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『上赤坂城址』の文字が刻まれた石標の光景です。柵で囲われた本丸跡の北側に建てられていました。ネット情報によれば、北側からの見晴らしは、富田林市などになるようです。(同上)
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先ほど紹介した石標より、一段大きな別の石標の紹介です。逆光での撮影で、文字が読み難くなりましたが、こちらの石標には『史跡・楠木城址(上赤坂城址)』の文字がありました。この標識も本丸の北側に位置するようでした。(同上)
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イチオシ
少し離れた場所から撮影した、同じ方面の光景です。少しモヤがかかっているようでしたから、富田林市の見晴らしは利きませんでした。富田林市は、高校野球で有名だったPL教団の本部があります。数多くのプロ野球選手を排出しましたが、2017年3月29日、PL学園側から大阪府高等学校野球連盟に対して脱退届が提出され、大阪府連盟は同日これを受理しました。(同上)
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紅葉や褐葉が散り敷いた本丸の光景です。ネット情報によれば、本丸跡には建物基礎の遺跡などが見つかっているようでしたが、詳しいことは分かりませんでした。PL高校野球部廃止の補足説明です。PL学園野球部では、上級生による下級生いじめ、校内暴力が日常化しており、野球部監督の人材も払拭して、廃部となったようです。野球部だけでなく、応援団の統制の取れた演技も全国人気でした。(同上)
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上赤坂城の見学を終えて、下山になりました。ここで、河内国を中心に南北朝時代に活躍した南朝方の武家の『楠木氏(くすのきし)』の家系についての紹介です。『楠氏』と表記されることもあります。本姓は橘氏ですが、正確な出自は不明とされ、諸説があります。『系図纂要』などでは伊予橘氏(越智氏の分家)の橘遠保の末裔とされます。(同上)
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『楠木氏』の家系の紹介が続きます。『尊卑分脈』(橘氏系図)や『太平記』では、楠木正成の出自を橘氏嫡流系統の為政の後裔としています。鎌倉時代の歴史書の『吾妻鏡』に登場する楠木氏は、元は関東にいた御家人で、玉井氏・忍氏・岡部氏・滝瀬氏ら武蔵七党の横山党や猪俣党と並ぶ家柄であるように記されますが、河内の楠木氏との関係は不明です。(同上)
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『吾妻鏡』には、1190年(建久1年)の源頼朝入洛の際の随兵として、楠木四郎の名前が見えます。御家人の一人と思われますが、正成流との関係は不詳とされます。他には、熊野新宮神職楠氏の系統とする説(『熊野年代記』)もあります。楠木正成以降には、河内国の金剛山の麓に本拠を持つようになり、和泉国まで一族が広がりました。(世界大百科事典・楠木氏)(同上)
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史料上はっきり記されているのは、鎌倉時代後期に楠木正成が後醍醐天皇が鎌倉幕府に対して挙兵した元弘の乱において宮方に従い、幕府滅亡後に成立した建武政権に加わり、南北朝時代に南朝(吉野朝廷)方として活躍した以降です。その後正成の子の正行、正時や、正成の弟の正季などは北朝の足利尊氏との戦いで戦死し、生き残った正成の子の正儀は南朝零落後にも有力武将として活躍しました。(同上)
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また、楠木氏は、北朝との和睦を仲介しました。『園太暦』文和元年5月18日条によれば、足利義詮が北朝の光厳・光明・崇光の3上皇の返還を求めて南朝方に派遣した總持寺僧・祖曇は、楠木氏の縁者とされます。楠木氏の一族は、ほとんどが南朝方につきました。そのため、南朝の衰退と共に一族も没落しました(以上)。(同上)
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往きにも目にした、上赤坂城址の『三の木戸』のタイトルがあった説明看板の光景です。鎌倉幕府側の一次資料には、『本間又太郎とその弟の与三が先陣を為し、最初の三つの城戸を打ち破り、四の城戸口に近寄って太刀を振るっていたまさにその時、又太郎は弓手肩(左肩)を射たれ、与三も高股(腿の上部)を射たれたため、後退した。(楠木合戦注文)』、との記述があります。(同上)
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登山道の脇に並んだ、石の地蔵さんのような石仏の光景です。この範囲では、四つ並んでいました。この後、ズームアップして紹介します。推測ですが、後年になって『上赤坂城の戦い』の慰霊のために祀られたのかも知れません。関連するネット情報が見つかりませんでしたから、根拠のない勝手な推測です。(同上)
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将棋の駒のように上部が尖った石碑です。削り取って縁取りをした中に仏像があるのかも知れませんが、苔が覆い初めて、判別することが出来ませんでした。曲線を持った優雅な形の縁取りですから、文字ではなく、レリーフ像の方が似合いそうです。(同上)
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こちらも将棋の駒のように上部が尖った石碑ですが、あまり尖っていない頭部でした。その外観に沿って同じ幅の枠がありました。ふうかなどのえいきょうで、文字やレリーフは判読できませんでしたが、部分的には、レリーフの痕跡が見えました。(同上)
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文字だけが刻まれた石碑のようです。全体の文字は読み解けませんでしたが、部分的に、右から読んで、音あるいは昔(1行目)、霊・道または遺(2行目)、奉(3行目)らしい文字がありました。(かなり推測が入っています)(同上)
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細長い将棋の駒のような、上部が尖った外観を持った石材に刻まれた石仏です。朧げにしか姿は分かりませんでしたが、数珠を手にした仏座像のようにも見えました。座像の下部には、細かな文様が刻まれているようですが、風化して、詳細は分かりませんでした。(同上)
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『一の木戸』付近にあった表示板です。往きには見落としていたようですこの後後、その要旨を紹介します。また、情報によれば、本丸に向かって『一の木戸』を過ぎると『両端がせり上がった細い山道が続きます。切通しと呼ばれる道で、大軍が攻めにくいように狭い道幅となっています』、と紹介されていました。(同上)
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『一の木戸』付近にあった表示板のズームアップ光景です。『国史跡・楠木城跡(上赤坂城跡)』のタイトルがありました。『標高349.7メートル、比高150、険しい地を利用した中世山城』から説明が始まっていました。続いて、楠木正成によって築城されたことと、上赤坂城の戦いでは、平野将監と楠木正孝らが善戦したことが紹介されていました。(同上)
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『上赤坂城』の見学を終えて、ふりかえってながめた『一の木戸(城戸)』方面の光景です。常緑樹の中の褐葉の木が目印です。『上赤坂城』の現役時代は30年弱でしたが、目立った遺跡はないものの、かつての山城時代の雰囲気を十分に残した城址でした。(同上)
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イチオシ
名前:『ピラカンサ』
分類:バラ科トキワサンザシ属
分布:ヨーロッパ南部からアジア南西部に自生します。
その他:和名は、トキワサンザシ、タチバナモドキです。 -
名前:『シクラメン』
分類:サクラソウ科シクラメン属
分布:地中海地域が原産です。
その他:日本では、カガリビバナ(篝火花)や、ブタノマンジュウ(豚の饅頭)の呼び名もあるよ鵜です。(同上) -
名前:『シクラメン』
分類:サクラソウ科シクラメン属
分布:地中海地域が原産です。
その他:日本では、布施明さんの「シクラメンの香り」の歌で一気に知名度が上がりました。1975年に発表された小椋佳佳さん作詞作曲の歌曲です。(同上) -
名前:『ハボタン(葉牡丹)』
分類:アブラナ科アブラナ属
分布:結球しない古い品種のキャベツ、またはケールが品種改良されたようです。
その他:花キャベツの呼び名もあります。名前の由来は、葉を牡丹の花に見立てたものです。(同上) -
名前:『ハボタン(葉牡丹)』
分類:アブラナ科アブラナ属
分布:結球しない古い品種のキャベツ、またはケールが品種改良されたようです。
その他:園芸植物として鮮やかな葉が鑑賞対象にされます。ケールの渡来時期は鎌倉時代中期または江戸時代前期とされます。(同上) -
名前:『ハボタン(葉牡丹)』
分類:アブラナ科アブラナ属
分布:結球しない古い品種のキャベツ、またはケールが品種改良されたようです。
その他:現在見られるハボタンの作出時期は、草本植物の斑入りなど葉変わりが珍重された江戸中期以降のようです。(同上) -
楠木氏関連の主要な城址の学を終えて、観光バスに向かう途中での撮影です。植木や草花を主体に販売されていたマーケット近くの光景です。『かなん(河南)』の文字と、イラストの人物が描かれた赤色と黄色の幟(のぼり)でした。(同上)
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