2017/11/26 - 2017/11/26
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旅人のくまさんさん
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楠木正成所縁のお城巡りです。千早城の見学を終えて、次は『下赤坂城』に向かいました。最後には、『上赤坂城』の見学しましたが、お城だけでなく、楠木正成の生誕の地や産湯の井戸も見学しました。(ウィキペディア、日本百名城公式ガイド)
- 交通手段
- 観光バス
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名前:『薄:ススキ』
分類:イネ科ススキ属
特徴:尾花とも呼ばれ、秋の七草の一つです。
その他:カヤ(茅、萱)とも呼ばれます。子供の頃には、葉の横の部分で指を切り、痛い思いを何度もしました。(同上) -
イチオシ
名前:『カエデ(槭、槭樹、楓、鶏冠木、蛙手)』
分類:ムクロジ科(旧カエデ科)カエデ属
分布:世界におよそ130種が存在し、その多くはアジアに自生しています。
その他:葉の切れ込みが深いものを「モミジ」、葉の切れ込みが浅いものを「カエデ」と呼び分けるようです。(同上) -
名前:『カエデ(槭、槭樹、楓、鶏冠木、蛙手)』
分類:ムクロジ科(旧カエデ科)カエデ属
分布:世界におよそ130種が存在し、その多くはアジアに自生しています。
その他:少しズームアップした、楓の紅葉光景です。赤色に染まる前のオレンジ色の羽です。(同上) -
名前:『ウメモドキ(梅擬)』(推定)
分類:モチノキ科モチノキ属
分布:日本、中国原産。
その他:日本や中国の山林に分布している植物で、9月~12月にかけては「実の観賞期」として親しまれている植物です。(同上) -
名前:『ウメモドキ(梅擬)』(推定)
分類:モチノキ科モチノキ属
分布:日本、中国原産。
その他:ウメモドキは、葉の形や樹姿が「梅」に似ているため「梅擬(ウメモドキ)」と呼ばれている植物です。(同上) -
名前:『トクサ(砥草、木賊)』
分類:トクサ科トクサ属
分布:北半球の亜寒帯南部から温帯北部にかけての広範囲に分布。
その他:表皮細胞の細胞壁にプラントオパールと呼ばれるケイ酸が蓄積して硬化し、茎でものを研ぐことができることから、砥草と呼ばれます。(同上) -
昼食は、千早城から下赤坂城へ移動するバスの中で頂いた弁当でした。弁当の中身は、紹介を端折りましたが、この季節にぴったりの箱の絵の方を紹介しておきます。白ワイ丁度よいよい摘まみにもなりました。(同上)
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昼食用には、名古屋駅構内で白ワインの小瓶を買い求めておきました。白ワインの辛口のシャルドネです。個人的に飲む白ワインは、ほとんどがシャルドネです。和食系にはよく合います。(同上)
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『赤坂城の戦い』の紹介です。鎌倉時代末期元弘元年(1331年)9月11日に起こった戦いです。河内国・赤坂城(下赤坂城)において、楠木正成が笠置山を落ち延びた護良親王を擁し、寡兵をもって鎌倉幕府の正規軍全4軍とわたり合った籠城戦です。赤坂城は一ヶ月余りの後に陥落しましたが、護良親王と楠木正成は逃走に成功し、鎌倉幕府方は目的を果たすことができませんでした。(同上)
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『赤坂城の戦い』の紹介が続きます。『赤坂城の戦い』は、鎌倉時代末期の有力武将である楠木正成が、初めて歴史の表舞台に姿を現した戦いとされます。その伏線となったのが、鎌倉時代末期の 元亨4年(1324年)、後醍醐天皇は鎌倉幕府倒幕を計画しましたが、陰謀が発覚し失敗しました。これは『正中の変(しょうちゅうのへん』と呼ばれる出来事です。(同上)
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『正中の変』は、4箇月に及ぶ鎌倉幕府の調査の結果、後醍醐天皇と日野俊基は冤罪とされ、公式に無罪判決を受けました。しかし、日野資朝は曖昧な理由のまま佐渡国(新潟県佐渡市)へ遠流となりました。この事件の7年後の元徳3年(元弘元年):1331年に『元弘の乱』が勃発し、元弘3年(正慶2年):1333年まで続き、ついに鎌倉幕府が滅亡しました。(同上)
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鎌倉時代末期、皇統は『大覚寺統(後の南朝)』と『持明院統(後の北朝)』とに分裂していました(両統迭立)。大覚寺統の天皇である『後醍醐天皇(1288~1339年)』は、観念論的・独裁者的な性格の天皇とも評され、父の『後宇多上皇(1267~1324年)』とは対立していました。後醍醐天皇は、天皇親政の理想を志し、即位当初から幕府打倒を目指す、闘争心溢れる君主でした。(同上)
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後醍醐天皇は、関東申次(朝廷と幕府の交渉役)である前太政大臣西園寺実兼の娘の西園寺禧子を皇后としましたが、禧子を嫌悪し続けました。その代わりに、後醍醐天皇、は阿野廉子という側室を准三宮という中宮に准じる位に付け、禧子を差し置いて寵愛したため、国政は腐敗していきました。ただし、実際に廉子が准三宮になったのは、禧子の崩御後です。(同上) (注):ただし書きは近年の研究です。(以降も)
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元亨2年(1322年)春ごろ、後醍醐天皇は禧子の御産祈祷という名目で偽って、幕府打倒の呪詛を行いました。ただし、実際に御産祈祷が行われたのは、正中の変より後の嘉暦元年(1326年)以降です。さらに、後醍醐天皇と側近の日野資朝・日野俊基らは、無礼講という美姫を侍らせた酒宴を開き、倒幕の志士を集めました。ただし、実際の無礼講は、学芸に優れた才人が集まった茶会です。(同上)
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後醍醐天皇は、土岐氏嫡流の武将の土岐頼貞や、その親族の多治見国長を味方につけ、倒幕を図りました。ただし、実際に関与を疑われたのは、土岐氏嫡流の頼貞ではなく、傍系の土岐頼有です。しかし、土岐頼員が、妻の父で六波羅探題奉行人である斎藤利行に密告したことにより、倒幕計画は事前に発覚しました。元亨4年9月19日(1324年10月7日)朝、頼貞や国長は六波羅に攻められて自害しました。(同上)
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資朝と俊基は、証言者となる頼貞や国長が戦死したので、自分たちに累は及ぶまいと楽観視していましたが、半年以上に亘る捜査を進めた幕府により、正中2年(1325年)5月に捕縛されました。ただし、実際は「正中の変」当日に、資朝・俊基は幕府の取り調べ要請に応じて出頭しています。(同上)
*写真は、ワインを飲みながら眺めた下赤坂城に向かう途中の光景です。 -
弱気になった後醍醐天皇は、正中2年(1325年)7月7日、幕府に謝罪の書状を送りました。ただし、実際は謝罪文ではなく真犯人を探し出せという命令文でした。勅使の万里小路宣房の釈明等によって、幕府は弱腰姿勢になり、後醍醐天皇と俊基には無罪判決が下りましたが、資朝は流刑となりました。(同上)
*写真は、『下赤阪城址』近くの駐車場の光景です。 -
『下赤阪城址』の石標光景です。右手に『千早赤阪村立中学校』の標識もありました。『下赤坂(阪)城(しもあかさかじょう)』は、大阪府南河内郡千早赤阪村森屋に所在し、国の史跡に指定されています。鎌倉時代末期から南北朝時代に存在した楠木正成の城です。標高185.7メートル、比高61.4メートルに位置します。遺構はほとんど残っていません。(同上)
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『元弘の乱(げんこうのらん)』についての紹介です。鎌倉時代最末期、元徳3年4月29日(1331年6月5日)から元弘3年6月5日(1333年7月17日)にかけて、鎌倉幕府打倒を掲げる後醍醐天皇の勢力と、幕府及び北条高時を当主とする北条得宗家の勢力の間で行われた全国的内乱です。元弘3年/正慶2年(1333年)5~6月中のどの出来事をもって終期とするかは諸説あります。(同上)
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『元弘の乱』の紹介の続きです。戦いが起きた場所は、日本全国で、その主な場所は、笠置山・金剛山千早城・吉野城・京都・鎌倉・太宰府等です。戦いの結果は、後醍醐天皇勢力の決定的勝利でした。鎌倉幕府と北条得宗家の滅亡し、建武の新政の開始されました。この後ももう少し詳しく紹介します。(同上)
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名前:『カエデ(槭、槭樹、楓、鶏冠木、蛙手)』
分類:ムクロジ科(旧カエデ科)カエデ属
分布:世界におよそ130種が存在し、その多くはアジアに自生しています。
その他:赤色に綺麗に染まった楓でした。周りの黒い幹と枝が、紅葉の引き立て役になっていました。(同上) -
『太平記の村』の文字と、植物らしいイラストが描かれたマンホール蓋の光景です。大阪府で唯一の村とされる、『千早赤坂村です。2014年(平成26年)3月に 過疎地域に指定されました。大阪府にはそれまで過疎地域に指定されている市町村が一つもなく、この指定で千早赤阪村が府内初の過疎地域となりました。(同上)
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イチオシ
名前:『カエデ(槭、槭樹、楓、鶏冠木、蛙手)』
分類:ムクロジ科(旧カエデ科)カエデ属
分布:世界におよそ130種が存在し、その多くはアジアに自生しています。
その他:楓の紅葉の紹介が続きましたが、一年の中でも限られた時期の楽しみです。個人的には、黄葉はさて置き、紅葉は世界一と感じています。(同上) -
『国史跡・赤坂城址(下赤坂城址)』のタイトルがあった説明看板の光景です。元弘の乱の主要な舞台となりました。元弘元年(1331年)、倒幕計画が発覚した後醍醐天皇が笠置山で挙兵すると、楠木正成も呼応して当地で挙兵しました。熱湯や二重塀の活用、大木の投下等の奇策で鎌倉幕府軍を翻弄しましたが、下赤坂城は落城しました。このため正成は、一旦は金剛山に潜伏しました。(続く)(同上)
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翌元弘2年(1332年)になると、正成が下赤坂城を奪還して再挙兵したものの落城し、楠木軍は上赤坂城・千早城に後退して抗戦を続けました。この千早・赤坂地域の戦いで鎌倉幕府側を予想以上の苦戦に追い込んだことで、全国的に倒幕の気運が高まったとされます。(同上)
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下赤坂城は、南北朝期にも南朝方の拠点となりましたが、延文5年(正平15年、1360年)にも落城しました。周辺の金剛山の尾根上には上赤坂城とともに猫路山城・国見山城・枡形城等の出城が築かれていて、赤坂城塞群を形成していました。一連の戦いの模様は、誇張された部分もあるようですが、『太平記』に記述されています。(同上)
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現在、城としての遺構は残っていませんが、城のあった尾根を「甲取(かぶとり)山」と呼ぶ他、北の方には「矢場武(やばたけ)」といった城を連想させる地名が今も残っています。周辺には幕府軍と戦った城が多数ありますが、下赤坂城は楠木正成が築城した千早赤阪村、富田林市、河内長野市に点在する城砦群「楠木七城」の一つに数えられています。(同上)
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イチオシ
『史跡・赤坂城址』の文字が刻まれた石票の光景です。『千早赤坂村』に存在する楠木正成所縁の地は、次の通りです。
〇楠木七城
〇建水分神社
〇千早神社
〇千早城跡:国史跡
〇下赤坂城跡:国史跡
〇上赤坂城跡:国史跡 (同上) -
『千早赤阪村文化財位置図』のタイトルがあった案内看板の光景です。16箇所が記されていました。なお、『楠木七城』とは、〇千早城、〇下赤坂城、〇小根田城(上赤坂城の一部)、〇桐山城(上赤坂城の一部)、〇烏帽子形城、〇龍泉寺城(嶽山城)、〇金胎寺城の七城です。(同上)
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樹種が特定できませんでしたが、大樹の黄葉光景です。黄葉が進んでいましたが、まだ緑色を残していました。『村の木』は、大木になる『クスノキ(楠、樟)』ですが、この木は別種の可能性もあります。この写真では、判断付きませんでした。(同上)
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