2017/11/26 - 2017/11/26
163位(同エリア266件中)
旅人のくまさんさん
- 旅人のくまさんさんTOP
- 旅行記6398冊
- クチコミ0件
- Q&A回答0件
- 5,390,979アクセス
- フォロワー204人
楠木正成所縁のお城巡りです。『楠公産湯の井戸』の次に、『楠公誕生地』を見学しました。引き続いて、『上赤坂城址』も見学しました。(ウィキペディア、日本百名城公式ガイド)
- 交通手段
- 観光バス
-
左側は、既に紹介した『楠公産湯井』の石標です。右側の石標には上から三文字『建水分』らしい文字が読み取れました。『建水分神社(たけみくまりじんじゃ)』に関する標識のようでした。建水分神社は、南河内郡千早赤阪村大字水分(すいぶん)にある神社です。古より金剛山の鎮守として、また、楠木氏の氏神として崇敬されました。錦織神社(富田林市)、美具久留御魂神社(下水分社、富田林市)とともに『河内国の三水分(みくまり)社』と呼ばれています。(同上)
-
『楠公産湯井』の見学を終えて、次に歩いて向かったのは、『楠公誕生地』です。近くでしたが、その途中の田園光景です。稲の刈り入れなどは、既に済んでいました。周りに小山や林が見える、のどかな田園光景でした。(同上)
-
『楠公誕生地』は、くすのきホールの建設時(建設年不明)に発掘調査が行われています。その際、2重の堀を周囲にめぐらせる建物跡を検出、出土遺物も14世紀のものが認められいます。周囲の中世山城群と併せて考察すると、楠木氏との関連も推定することが可能、と紹介されていました。また付近には、楠公産湯の井戸の伝承地も残ります。(同上)
-
『楠公誕生地』の文字が刻まれた立派石標の光景です。『笹川良一謹書』の添え書きがありました。『笹川良一(1899~1995年)』は、大正・昭和時代の日本の政治家、社会奉仕活動家でした。A級戦犯であり、戦後CIA工作員となったともいわれます。石標の中央上部に記されたマークは、楠木家の菊水紋です。(同上)
-
三つ並んだ標識は、いずれも『楠公誕生地』に関するものでした。右端が、子供時代の正成公のイラスト入りの新しい立て看板、中央は『楠公誕生地』の文字以外は判読できなかった古い立て看板、左端が『楠公誕生地』の石標でした。(同上)
-
『楠公誕生地』の内部光景です。中央の大きな石碑に向かって、参道のような舗装道が伸びていました。大久保利通公の願いが込められたのか、かなり広い敷地でした。『大久保利通(1830~1878(明治11)』と『西郷隆盛(1827~1877(明治10)』は、共に明治維新で活躍した「維新の三傑」と呼ばれる薩摩出身の武士であり政治家です。征韓論で意見が分かれ、それぞれに無念の最後でした。(同上)
-
イチオシ
中央に置かれているのが『楠公誕生地』の石碑です。『「楠公誕生地」という碑文は、大久保利通が紀尾井坂の変で倒れたため、幕末勤王派の三剣豪の一人で、当時誉田八幡宮の祠宮だった桃井春蔵直正の揮毫によるものとなりました。(ちあかぽーたる)』との解説ブログがありました。『紀尾井坂の変(きおいざかのへん)』は、1878年(明治11年)5月14日に起きた暗殺事件です。(同上)
-
中央に左衛門尉正成公の騎馬像がレリーフされた石碑の光景です。像の右手に記された四文字が『至誠一貫』、縁起のいい日を選んだのか、平成8年(1996年)8月8日の日付けが末尾に記されていました。末尾には、石材店と寄贈者らしい名前もありました。その石碑の右横に、『皇太子殿下行啓御休憩所』の石標がありました。推測ですが、大正天皇か、昭和天皇の皇太子時代の行啓のようです。(同上)
-
『道の駅・ちはやあかさか』の表示があった二階建ての立て門光景です。立ち寄ってみることにしました。『「道の駅ちはやあかさか」のこだわりとして、オーガニックコーナーで農薬や肥料を使わずに育てた野菜や果物をつかった加工品や、村カフェでも使用している小麦粉、砂糖、塩などの量り売りコーナーもあります、と自己宣伝されていました。(同上)
-
見学を終わった後で、再度撮影した『道の駅・ちはやあかさか』の建物光景です。『千早赤阪村産の野菜にこだわっています。1つ1つ丁寧に育てた地元の新鮮な野菜を皆さんに毎日お届けします。金剛山からの水で育った野菜や米、果物はどれもとっても美味しくて、値段はとてもお手ごろ。毎日、村の農家さんが直接持ってきてくれます』、とも自己宣伝されていました。(同上)
-
出入口横に、立派な甲冑姿の武者人形が置かれていました。楠木正成公のお出迎えだったかも知れません。頭を下げてからでないと入場できない雰囲気でした。ほかの事に気を取られて、建物の名前が確認できませんでしたが、『千早赤阪村立郷土資料館』の玄関だったようです。(同上)
-
『千早赤阪村立郷土資料館』の紹介です。この資料館は、千早赤阪村を中心とした歴史、考古、民俗に関する収集、保管、展示するために、1986年(昭和61年)に開館しました。資料館の1階は、古代から近代にかけての出土物や歴史資料を、2階は民俗資料を展示しています。(同上)
-
この近くで観光バスを降りて、ここからは歩いて『上赤坂城』の見学に向かいました。前方に見える山の方面になるようです。上赤坂城は、南北朝時代に楠木正成がその本城として築いた城で、楠木七城の一つです。後醍醐天皇を中心とした勢力による鎌倉幕府討幕運動である「元弘の乱」の主要な舞台となった城ですが、現在、遺構はほとんど残っていません。(同上)
-
イチオシ
先ほど紹介した山の麓付近にやって来ました。登山道を少し上った先に『一の木戸(城戸)』があり、順次『四の木戸(城戸)』を経て、『本丸』に至ります。1333年3月の『上赤坂城の戦い』では、多勢に無勢で楠木党は敗北したとはいえ、鎌倉幕府の正規軍に対し大きな損害を与えることができました。(同上)
-
2枚並んだ、大きな説明パネルの紹介です。左側のパネルには『赤坂城塞群』、右のパネルには『国史跡・楠木城趾(上赤坂城跡)』のタイトルがありました。どちらのパネルにもカラー地図と、主要な場所が一覧にされていました。(同上)
-
『赤坂城塞群』の説明パネルのズームアップ光景です。現在地からの徒歩コース(片道時間)と、16箇所の見どころが一覧になっていました。
〇上赤坂城跡:0.2キロ:徒歩約20分。
〇下赤坂城跡:2.6キロ:徒歩約40分。
〇二河原辺城跡:0.6キロ:徒歩約15分。(同上) -
『国史跡・楠木城趾(上赤坂城跡)』の説明パネルです。主な場所の紹介です。
〇二の木戸:0.1キロ:徒歩約5分。(一の木戸付近を起点、以下も同じです)
〇三の木戸:0.3キロ:徒歩約10分。
〇四の木戸:0.4キロ:徒歩約12分。
〇本丸(千畳敷):0.8キロ:徒歩約20分。(同上) -
先に下山した方が置いて行かれたのでしょうか、古い案内石標に、不要になったらしい杖が立てかけてありました。写真の左前方に見える黄色の案内板は、『上赤坂城跡登山口』の文字が記された真新しい看板でした。先ほど紹介した『木戸』は、『城戸』とも表記されているようです。(同上)
-
登山道の周りの山林光景です。道の脇に斜めになった案内看板がありました。この後紹介する『二の木戸』の案内標識です。すでに紹介したように、『一の木戸』から100メートルほどに位置する標識です。しかし『一の木戸』の標識は見当たらなかったようです。(同上)
-
『二の木戸』のタイトルがあったパネルのズームアップ光景です。『一の木戸』からは、100メートル、徒歩約5分と表示されていた場所です。周りに上赤坂城の遺跡らしいものの姿は見当たりませんでした。(同上)
-
同じく、『三の木戸』のタイトルのパネルの光景です。説明文は次の通りです。
〇一の木戸から約250メートル、二の木戸を超えると、二の丸(東の城)の曲輪が見えてきます。
〇これから先、『そろばん橋』、『四の木戸』を経て、『茶碗原』に至ります。
*千早赤坂村名の看板でした。(同上) -
『そろばん橋』のプレートの紹介です。詳しいことは分かりませんでしたネット情報情報を参考にしますと、堀切と一体になった土橋のようでした。大きく屈曲する橋の手前の写真も目にしました。『そろばん橋』の名目の由来は分かりませんでした。(同上)
-
推測ですが、土橋の『そろばん橋』と関連する『堀切(ほりきり)』の光景になるようです。堀切は、主に山城に用いられる防御のための土木建築物で、英語ではNeck ditchと呼びます。城や城塞群において、外敵の侵入防止や遅延のために曲輪や集落の周囲や繋ぎの部分を、人工的に開削して溝(堀)するもので、空堀の一種です。(同上)
-
同じく「堀切」と思われる個所の光景です。2本の竪堀が確認できることから、かつての『そろばん橋』が、もともと土橋ではなく木橋であったとしたら、『2重堀切』の可能性があるとのネット情報もありました。(同上)
-
細かな氷雨が降ってきましたので、合羽を着たり、傘を差しての山道歩きです。私も、事前に旅行案内に注意書きがあった通り、手軽な合羽を用意していました。幸い雨は強くならず、足元もまだぬかるんではいません。(同上)
-
『上赤坂城址』に向かう登山道の光景が続きます。登山道は右端の少しばかりの幅の部分で、その左側は、植林の大きな根が露になって連なり、人の立ち入りを拒絶しているようにも見えました。(同上)
-
足元にあった『茶碗原』の標識です。『頂上まで200メートル』の表示も併記されていました。頂上を、上赤坂城の本丸と読み替えてよさそうでした。ネット情報によれば、上赤坂城の炊事場があった場所のため、『茶碗原』と呼ばれているようでした。石臼、土器などが出土したようです。(同上)
-
植林の樹木の幹に取り付けられた案内標識です。上から順に『登山道、左右の矢印で桐山・二川原辺道、金剛山千早赤阪』等の表記がありました。左右の矢印は、この辺が桐山・二川原辺道の一部か、もしくは近辺に道路があったことを示しているかもしれません。『赤坂城塞群』の地図にも、桐山と二川原辺の地名が記してありました。(同上)
-
本丸が近づいてきたようです。右向きの赤い矢印で『上赤坂城跡・本丸』の標識がありました。『上赤坂城』は、楠木城、小根田城、桐山城とも呼ばれています。『本丸』といっても、天守のような建物は資料にも残されていない『山城』だったようです。(同上)
-
『上赤坂城』の遺構は、横堀と曲輪跡が確認されていますが、これも戦国時代に改変を受けたもののようです。築城されたのは、鎌倉時代末期の元弘2年(1332年)もしくは元弘3年(1333年)とされ、廃城になったのは、延文5年/正平15年(1360年)とされます。(同上)
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
旅行記グループ
2017秋、楠木正成所縁の城巡り
-
前の旅行記
2017秋、楠木正成所縁の日本百名城(7/9):正成生誕の地:郷土資料館、紅葉、産湯の井戸
2017/11/26~
河内長野
-
次の旅行記
2017秋、楠木正成所縁の日本百名城(9/9):上赤坂城(2):本丸、城跡碑、道の駅、季節の花
2017/11/26~
河内長野
-
2017秋、楠木正成所縁の日本百名城(1/9):千早城(1):名古屋からバスで大阪へ、石段、鳥居
2017/11/26~
河内長野
-
2017秋、楠木正成所縁の日本百名城(2/9):千早城(2):千早城址碑、鳥居、狛犬、千早神社
2017/11/26~
河内長野
-
2017秋、楠木正成所縁の日本百名城(3/9):千早城(3):鳥居、狛犬、石灯篭、千早神社、拝殿
2017/11/26~
河内長野
-
2017秋、楠木正成所縁の日本百名城(4/9):千早城(4):麓の茶屋、紅葉、懸崖菊、大文字草
2017/11/26~
河内長野
-
2017秋、楠木正成所縁の日本百名城(5/9):下赤坂城(1):千早城から下赤坂城へ、下赤坂城址碑
2017/11/26~
河内長野
-
2017秋、楠木正成所縁の日本百名城(6/9):下赤坂城(2):下赤坂城跡、下赤坂城址碑、棚田
2017/11/26~
河内長野
-
2017秋、楠木正成所縁の日本百名城(7/9):正成生誕の地:郷土資料館、紅葉、産湯の井戸
2017/11/26~
河内長野
-
2017秋、楠木正成所縁の日本百名城(8/9):上赤坂城(1):資料館、二の木戸、三の木戸、算盤橋
2017/11/26~
河内長野
-
2017秋、楠木正成所縁の日本百名城(9/9):上赤坂城(2):本丸、城跡碑、道の駅、季節の花
2017/11/26~
河内長野
旅行記グループをもっと見る
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
河内長野(大阪) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
旅行記グループ 2017秋、楠木正成所縁の城巡り
0
30