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楠木正成所縁の城巡りです。正成公は、明治以降は『大楠公(だいなんこう)』と称され、明治13年(1880年)には正一位を追贈されました。また、湊川神社の主祭神となりました。(ウィキペディア、日本百名城公式ガイド)

2017秋、楠木正成所縁の日本百名城(7/9):正成生誕の地:郷土資料館、紅葉、産湯の井戸

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2017/11/26 - 2017/11/26

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旅人のくまさん

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楠木正成所縁の城巡りです。正成公は、明治以降は『大楠公(だいなんこう)』と称され、明治13年(1880年)には正一位を追贈されました。また、湊川神社の主祭神となりました。(ウィキペディア、日本百名城公式ガイド)

交通手段
観光バス

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  • 名前:『カエデ(槭、槭樹、楓、鶏冠木、蛙手)』<br />分類:ムクロジ科(旧カエデ科)カエデ属<br />分布:世界におよそ130種が存在し、その多くはアジアに自生しています。<br />その他:なぜか、世界の三大紅葉樹には選ばれていませんが、日本では、間違いなく三指に入る紅葉樹です。(同上)

    名前:『カエデ(槭、槭樹、楓、鶏冠木、蛙手)』
    分類:ムクロジ科(旧カエデ科)カエデ属
    分布:世界におよそ130種が存在し、その多くはアジアに自生しています。
    その他:なぜか、世界の三大紅葉樹には選ばれていませんが、日本では、間違いなく三指に入る紅葉樹です。(同上)

  • 名前:『カエデ(槭、槭樹、楓、鶏冠木、蛙手)』<br />分類:ムクロジ科(旧カエデ科)カエデ属<br />分布:世界におよそ130種が存在し、その多くはアジアに自生しています。<br />その他:なぜか、世界の三大紅葉樹には選ばれていませんが、日本では、間違いなく屈指の少しズームアップズームアップしたカエデの紅葉光景です。(同上)

    イチオシ

    名前:『カエデ(槭、槭樹、楓、鶏冠木、蛙手)』
    分類:ムクロジ科(旧カエデ科)カエデ属
    分布:世界におよそ130種が存在し、その多くはアジアに自生しています。
    その他:なぜか、世界の三大紅葉樹には選ばれていませんが、日本では、間違いなく屈指の少しズームアップズームアップしたカエデの紅葉光景です。(同上)

  • 名前:『カエデ(槭、槭樹、楓、鶏冠木、蛙手)』<br />分類:ムクロジ科(旧カエデ科)カエデ属<br />分布:世界におよそ130種が存在し、その多くはアジアに自生しています。<br />その他:さらにズームアップしたカエデの紅葉光景です。オレンジ色を帯びた紅葉でした。(同上)

    名前:『カエデ(槭、槭樹、楓、鶏冠木、蛙手)』
    分類:ムクロジ科(旧カエデ科)カエデ属
    分布:世界におよそ130種が存在し、その多くはアジアに自生しています。
    その他:さらにズームアップしたカエデの紅葉光景です。オレンジ色を帯びた紅葉でした。(同上)

  • 今、バスで向かっているのは、『大楠公生誕の地』です。到着する前に『大楠公』こと、楠木正成公についての紹介です。これまでに紹介した部分と重複する部分もあります。正成公は、南北朝時代のヒーローとしてあまりにも有名です。正成公の誕生地は、豊臣秀吉の時代に小さな社が祀られましたが、明治時代になると、維新三傑の一人、大久保利通(1830~1878年)の奨めで石碑が建てられました。(同上)

    今、バスで向かっているのは、『大楠公生誕の地』です。到着する前に『大楠公』こと、楠木正成公についての紹介です。これまでに紹介した部分と重複する部分もあります。正成公は、南北朝時代のヒーローとしてあまりにも有名です。正成公の誕生地は、豊臣秀吉の時代に小さな社が祀られましたが、明治時代になると、維新三傑の一人、大久保利通(1830~1878年)の奨めで石碑が建てられました。(同上)

  • 正成公の紹介が続きます。正成公は、千早赤阪村郷土資料館のすぐ近く、現在の千早赤阪村水分山ノ井で誕生したと思われます。正成公の幼名は『多聞丸』、永仁2年(1294年)に誕生しました。幼少の8~15才までは、観心寺境内にある楠木家の菩提寺の「中院」で学問を習ったといわれます。(同上)

    正成公の紹介が続きます。正成公は、千早赤阪村郷土資料館のすぐ近く、現在の千早赤阪村水分山ノ井で誕生したと思われます。正成公の幼名は『多聞丸』、永仁2年(1294年)に誕生しました。幼少の8~15才までは、観心寺境内にある楠木家の菩提寺の「中院」で学問を習ったといわれます。(同上)

  • 当時は、140年あまり続いた鎌倉幕府が衰え、政治を武士から天皇の手に戻そうという一大転機の時代になりました。正成は、元弘元年(1331年)~元弘3年(1333年)まで幕府勢と戦い、勝利を収め、功労者として後醍醐天皇より従五位下検非違使に任命されましたが、建武3年(1336年)、天皇を中心とした政治に反旗をひるがえした足利尊氏に湊川の戦いで破れ、自害しました。(同上)

    当時は、140年あまり続いた鎌倉幕府が衰え、政治を武士から天皇の手に戻そうという一大転機の時代になりました。正成は、元弘元年(1331年)~元弘3年(1333年)まで幕府勢と戦い、勝利を収め、功労者として後醍醐天皇より従五位下検非違使に任命されましたが、建武3年(1336年)、天皇を中心とした政治に反旗をひるがえした足利尊氏に湊川の戦いで破れ、自害しました。(同上)

  • そのような正成の功績に鑑み、文禄年間(1592~1596年)、豊臣秀吉の命により、増田長盛がここを検地し土壇を築き、小さな社を祀ったのが、正成顕彰の始まりとされます。さらに明治8年(1874年)、薩摩藩出身の明治の元勲の一人、大久保利通の奨めによりここに碑が建てられました。毎年4月25日には「楠公祭」が行われているようです。(同上)

    そのような正成の功績に鑑み、文禄年間(1592~1596年)、豊臣秀吉の命により、増田長盛がここを検地し土壇を築き、小さな社を祀ったのが、正成顕彰の始まりとされます。さらに明治8年(1874年)、薩摩藩出身の明治の元勲の一人、大久保利通の奨めによりここに碑が建てられました。毎年4月25日には「楠公祭」が行われているようです。(同上)

  • 『正成のエピソード1』:『太平記』では奇想天外な策と智謀に長けた戦術家として描かれますが、それは正成の軍才のごく一面に過ぎず、史実では刀を振るえば電撃戦を得意とする六波羅探題を震撼させた猛将であり、築城・籠城技術を発展させ軽歩兵・ゲリラ戦・情報戦・心理戦を戦に導入した革新的な軍事思想家であり、そして日本列島の戦全体を俯瞰した不世出の戦略家とされます。(同上)

    『正成のエピソード1』:『太平記』では奇想天外な策と智謀に長けた戦術家として描かれますが、それは正成の軍才のごく一面に過ぎず、史実では刀を振るえば電撃戦を得意とする六波羅探題を震撼させた猛将であり、築城・籠城技術を発展させ軽歩兵・ゲリラ戦・情報戦・心理戦を戦に導入した革新的な軍事思想家であり、そして日本列島の戦全体を俯瞰した不世出の戦略家とされます。(同上)

  • 『正成のエピソード2』:延元元年/建武3年(1336年)5月25日午前8時頃、楠木・新田連合軍は足利軍と海を挟んで湊川で対峙しました(湊川の戦い)。義貞の失策、その機を突いて新田軍と楠木軍を分断させた足利兄弟の戦術的勝利という近年の分析もあります。戦いに敗れた正成は、弟の正季と刺し違えて最期を遂げました。足利尊氏は、残された家族を気遣い、正成の首を故郷である河内に送り返しました。(同上)

    『正成のエピソード2』:延元元年/建武3年(1336年)5月25日午前8時頃、楠木・新田連合軍は足利軍と海を挟んで湊川で対峙しました(湊川の戦い)。義貞の失策、その機を突いて新田軍と楠木軍を分断させた足利兄弟の戦術的勝利という近年の分析もあります。戦いに敗れた正成は、弟の正季と刺し違えて最期を遂げました。足利尊氏は、残された家族を気遣い、正成の首を故郷である河内に送り返しました。(同上)

  • 『楠公誕生地遺跡』の説明パネルの光景です。楠公 誕生地 楠木正成生誕の地という伝承が残る場所です。 国史跡・赤阪城跡(下赤坂城跡)から約500メートル、国史跡・楠木城跡(上赤坂城跡)から約2キロメートルと、山城とのセット関係を想定しうる場所に位置します。桐山遺跡とともに楠木氏館跡と考えられている候補地の一つです。看板の左にダチュラ(朝鮮朝顔)の花が咲いていました。(同上)

    『楠公誕生地遺跡』の説明パネルの光景です。楠公 誕生地 楠木正成生誕の地という伝承が残る場所です。 国史跡・赤阪城跡(下赤坂城跡)から約500メートル、国史跡・楠木城跡(上赤坂城跡)から約2キロメートルと、山城とのセット関係を想定しうる場所に位置します。桐山遺跡とともに楠木氏館跡と考えられている候補地の一つです。看板の左にダチュラ(朝鮮朝顔)の花が咲いていました。(同上)

  • 『河内ふるさとの道』のタイトルがあった地図入りの説明パネルの光景です。『楠公誕生地遺跡』の説明の続きです。 楠公誕生地遺跡は、平成2(1990)~4年(1992年)にかけて「くすのきホール」建設に伴って発掘調査が行われました。その時に、2重の堀に囲まれた建物跡を確認されました。(同上)

    『河内ふるさとの道』のタイトルがあった地図入りの説明パネルの光景です。『楠公誕生地遺跡』の説明の続きです。 楠公誕生地遺跡は、平成2(1990)~4年(1992年)にかけて「くすのきホール」建設に伴って発掘調査が行われました。その時に、2重の堀に囲まれた建物跡を確認されました。(同上)

  • 名前:『ドウダンツツジ(灯台躑躅、満天星)』<br />分類:ツツジ科ツツジ属<br />分布:日本の本州、四国、九州の温暖な岩山に生えるが、自生地は少ないようです。<br />その他:枝分かれしている様子が昔、夜間の明かりに用いた灯台(結び灯台)の脚部と似通っており、その「トウダイ」から転じた名前とされます。(同上)

    名前:『ドウダンツツジ(灯台躑躅、満天星)』
    分類:ツツジ科ツツジ属
    分布:日本の本州、四国、九州の温暖な岩山に生えるが、自生地は少ないようです。
    その他:枝分かれしている様子が昔、夜間の明かりに用いた灯台(結び灯台)の脚部と似通っており、その「トウダイ」から転じた名前とされます。(同上)

  • 名前:『ドウダンツツジ(灯台躑躅、満天星)』<br />分類:ツツジ科ドウダンツツジ属<br />分布:日本の本州、四国、九州の温暖な岩山に生えるが、自生地は少ないようです。<br />その他:花は釣り鐘状で、白色です。写真は、少しズームアップした紅葉の葉の光景です。(同上)

    名前:『ドウダンツツジ(灯台躑躅、満天星)』
    分類:ツツジ科ドウダンツツジ属
    分布:日本の本州、四国、九州の温暖な岩山に生えるが、自生地は少ないようです。
    その他:花は釣り鐘状で、白色です。写真は、少しズームアップした紅葉の葉の光景です。(同上)

  • 名前:『ドウダンツツジ(灯台躑躅、満天星)』<br />分類:ツツジ科ドウダンツツジ属<br />分布:日本の本州、四国、九州の温暖な岩山に生えるが、自生地は少ないようです。<br />その他:新緑、白い花の花期、真赤な紅葉と、見頃が多い植物で、生け垣などによく利用されます。(同上)

    名前:『ドウダンツツジ(灯台躑躅、満天星)』
    分類:ツツジ科ドウダンツツジ属
    分布:日本の本州、四国、九州の温暖な岩山に生えるが、自生地は少ないようです。
    その他:新緑、白い花の花期、真赤な紅葉と、見頃が多い植物で、生け垣などによく利用されます。(同上)

  • 名前:『ドウダンツツジ(灯台躑躅、満天星)』<br />分類:ツツジ科ドウダンツツジ属<br />分布:日本の本州、四国、九州の温暖な岩山に生えるが、自生地は少ないようです。<br />その他:ドウダンツツジが植栽された緑樹帯の光景です。その中間に『郷土資料館』の案内標識がありました。(同上)

    イチオシ

    名前:『ドウダンツツジ(灯台躑躅、満天星)』
    分類:ツツジ科ドウダンツツジ属
    分布:日本の本州、四国、九州の温暖な岩山に生えるが、自生地は少ないようです。
    その他:ドウダンツツジが植栽された緑樹帯の光景です。その中間に『郷土資料館』の案内標識がありました。(同上)

  • 石標が3本立ち並んでいましたが、その隣に矢印が付いたカラフルな標識がありました。その標識に記された文字は『楠公産湯の井戸』でした。今向かっている目的の場所です。ネット情報情報を引用しますと、石碑には『楠公産湯井まで北へ一丁(109m)』と刻まれているようです。(同上)

    石標が3本立ち並んでいましたが、その隣に矢印が付いたカラフルな標識がありました。その標識に記された文字は『楠公産湯の井戸』でした。今向かっている目的の場所です。ネット情報情報を引用しますと、石碑には『楠公産湯井まで北へ一丁(109m)』と刻まれているようです。(同上)

  • 右手に見えるのは、千早城で何度も目にした、藁人形を使った偽計の策の造り物、『武者人形』です。文字が詠みれませんでしたが、その横にあるのは、多分『楠公産湯の井戸』の石標です。すぐ近くに同じ文字の新しい標識がありました。(同上)

    右手に見えるのは、千早城で何度も目にした、藁人形を使った偽計の策の造り物、『武者人形』です。文字が詠みれませんでしたが、その横にあるのは、多分『楠公産湯の井戸』の石標です。すぐ近くに同じ文字の新しい標識がありました。(同上)

  • 『楠公産湯の井戸』の方面に向かう、百名城巡りのツアーに参加された皆さん方です。その先頭を歩かれる方達です。正成誕生の際、この井戸から湧き出る水で湯を沸かし、産湯に使用したと伝えられています。(同上)

    『楠公産湯の井戸』の方面に向かう、百名城巡りのツアーに参加された皆さん方です。その先頭を歩かれる方達です。正成誕生の際、この井戸から湧き出る水で湯を沸かし、産湯に使用したと伝えられています。(同上)

  • 『楠公産湯井』がある場所の建物光景です。楠木正成(まさしげ)公は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将で、永仁2年(1294年)にこの地で生まれたとされています。諸説ありますが、父は楠木正遠、母は橘盛仲の娘といわれています。弟に正季(まさすえ)、息子に正行(まさつら)、正時(まさとき)、正儀(まさのり)がいます。(同上)<br />

    『楠公産湯井』がある場所の建物光景です。楠木正成(まさしげ)公は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将で、永仁2年(1294年)にこの地で生まれたとされています。諸説ありますが、父は楠木正遠、母は橘盛仲の娘といわれています。弟に正季(まさすえ)、息子に正行(まさつら)、正時(まさとき)、正儀(まさのり)がいます。(同上)

  • 『正成死後の出来事(その1)』:湊川の戦で敗れて自害した、正成に関わるその後の出来事です。南北朝の争いが北朝側の勝利に終わると、南朝側に尽くして死んだ正成は朝敵とされてしまいました。しかし、永禄2年(1559年)11月20日、正成の子孫と称した『楠木正虎』が朝敵の赦免を嘆願し、正親町天皇の勅免を受けて正成と楠木氏は朝敵でなくなりました。ただし、この時点では、正成に非があるとする汚名の返上にまでは至りませんでした。(同上)<br />*写真は、『楠公産湯井』の文字が刻まれた石標の光景です。

    『正成死後の出来事(その1)』:湊川の戦で敗れて自害した、正成に関わるその後の出来事です。南北朝の争いが北朝側の勝利に終わると、南朝側に尽くして死んだ正成は朝敵とされてしまいました。しかし、永禄2年(1559年)11月20日、正成の子孫と称した『楠木正虎』が朝敵の赦免を嘆願し、正親町天皇の勅免を受けて正成と楠木氏は朝敵でなくなりました。ただし、この時点では、正成に非があるとする汚名の返上にまでは至りませんでした。(同上)
    *写真は、『楠公産湯井』の文字が刻まれた石標の光景です。

  • 『正成死後の出来事(その2)』:楠木氏嫡流と言われた伊勢楠木氏は、伊勢国の金場(亀山市関町金場)や楠城を根城とする北勢四十八家楠氏として土豪になりました。また第2代当主正重が千子村正の門下に入って刀工になるなど、細々と活動を行っていました。(同上)<br />*写真は、石標と『楠公産湯の井戸』の光景です。

    イチオシ

    『正成死後の出来事(その2)』:楠木氏嫡流と言われた伊勢楠木氏は、伊勢国の金場(亀山市関町金場)や楠城を根城とする北勢四十八家楠氏として土豪になりました。また第2代当主正重が千子村正の門下に入って刀工になるなど、細々と活動を行っていました。(同上)
    *写真は、石標と『楠公産湯の井戸』の光景です。

  • 『正成死後の出来事(その3)』:しかし、第7代当主楠木正具が1576年天王寺の戦いで戦死し、次いで第8代当主楠木正盛(盛信とも)が1584年、小牧・長久手の戦いで加賀野井城で戦死したことで絶えました。(同上)<br />*写真は、僅かな量ですが、今も水が湧き出ている『楠公産湯の井戸』の光景です。四方を石垣で積まれた方形の井戸です。

    『正成死後の出来事(その3)』:しかし、第7代当主楠木正具が1576年天王寺の戦いで戦死し、次いで第8代当主楠木正盛(盛信とも)が1584年、小牧・長久手の戦いで加賀野井城で戦死したことで絶えました。(同上)
    *写真は、僅かな量ですが、今も水が湧き出ている『楠公産湯の井戸』の光景です。四方を石垣で積まれた方形の井戸です。

  • 『正成死後の出来事(その4)』: 刀工としては正重のほか千子正真、坂倉正利、雲林院政盛など千子派の名工を輩出し、大いに栄えました。木俣氏(木俣守勝など。維新後は木俣男爵家)は、伊勢楠木氏の傍系です。ただし、守勝の後を養子が継いだため、血筋では繋がっていません。(同上)<br />*写真は、『楠公産湯の井戸』のタイトルがあった説明看板です。<br /><br />

    『正成死後の出来事(その4)』: 刀工としては正重のほか千子正真、坂倉正利、雲林院政盛など千子派の名工を輩出し、大いに栄えました。木俣氏(木俣守勝など。維新後は木俣男爵家)は、伊勢楠木氏の傍系です。ただし、守勝の後を養子が継いだため、血筋では繋がっていません。(同上)
    *写真は、『楠公産湯の井戸』のタイトルがあった説明看板です。

  • 『正成死後の出来事(その5)』:また、アラビア石油創業者の『山下太郎(1889~1967年)』や、伊勢高楠家(仏教学者・高楠順次郎(1886~1945年)が婿入りした家)が第7代当主正具の後裔を称しています。(同上)<br />*写真は、先程見学した産湯の井戸があった建物の屋根になりようです。欅で作られた階段を下りて見学しました。

    『正成死後の出来事(その5)』:また、アラビア石油創業者の『山下太郎(1889~1967年)』や、伊勢高楠家(仏教学者・高楠順次郎(1886~1945年)が婿入りした家)が第7代当主正具の後裔を称しています。(同上)
    *写真は、先程見学した産湯の井戸があった建物の屋根になりようです。欅で作られた階段を下りて見学しました。

  • 『正成死後の出来事(その6)』:明治政府は、南朝の功臣の子孫にも爵位を授けるため、正成の子孫を探しました。正成の末裔を自称する氏族は全国各地に数多く存在しましたが、直系の子孫であるかという確かな根拠は確認することができませんでした。このため、新田氏、菊池氏、名和氏の子孫等は男爵に叙せられましたが、楠木氏には爵位が与えられませんでした。(同上)

    『正成死後の出来事(その6)』:明治政府は、南朝の功臣の子孫にも爵位を授けるため、正成の子孫を探しました。正成の末裔を自称する氏族は全国各地に数多く存在しましたが、直系の子孫であるかという確かな根拠は確認することができませんでした。このため、新田氏、菊池氏、名和氏の子孫等は男爵に叙せられましたが、楠木氏には爵位が与えられませんでした。(同上)

  • 『正成死後の出来事(その7)』:その後、大楠公600年祭を前後して楠木氏の子孫が確認され、湊川神社内に楠木同族会が組織されて現在に至っています。初代会長は、伊勢楠木氏傍系子孫とされるアラビア石油創業者の山下太郎氏です(以上)。(同上)

    『正成死後の出来事(その7)』:その後、大楠公600年祭を前後して楠木氏の子孫が確認され、湊川神社内に楠木同族会が組織されて現在に至っています。初代会長は、伊勢楠木氏傍系子孫とされるアラビア石油創業者の山下太郎氏です(以上)。(同上)

  • 名前:『カキノキ(柿の木)』<br />分類:カキノキ科カキノキ属<br />分布:東アジア原産。<br />その他:日本では、果樹として北海道以外で広く栽培されています。学術上の植物名はカキノキ、果実はカキ、一般的に両方を含めてカキ(柿)と呼ばれます。(以上)

    名前:『カキノキ(柿の木)』
    分類:カキノキ科カキノキ属
    分布:東アジア原産。
    その他:日本では、果樹として北海道以外で広く栽培されています。学術上の植物名はカキノキ、果実はカキ、一般的に両方を含めてカキ(柿)と呼ばれます。(以上)

  • 名前:『サトイモ(里芋、青芋)』<br />分類:サトイモ科サトイモ属<br />分布:東南アジア原産。<br />その他:茎の地下部分が肥大化した芋(塊茎)と、芋茎(ズイキ)と呼ばれる葉柄が食用にされます。(同上)

    名前:『サトイモ(里芋、青芋)』
    分類:サトイモ科サトイモ属
    分布:東南アジア原産。
    その他:茎の地下部分が肥大化した芋(塊茎)と、芋茎(ズイキ)と呼ばれる葉柄が食用にされます。(同上)

  • 名前:『サトイモ(里芋、青芋)』<br />分類:サトイモ科サトイモ属<br />分布:東南アジア原産。<br />その他:サトイモの由来は、山地に自生していたヤマイモに対し、里で栽培されることから「里芋」という名が付いたとされます。(同上)

    名前:『サトイモ(里芋、青芋)』
    分類:サトイモ科サトイモ属
    分布:東南アジア原産。
    その他:サトイモの由来は、山地に自生していたヤマイモに対し、里で栽培されることから「里芋」という名が付いたとされます。(同上)

  • 名前:『サトイモ(里芋、青芋)』<br />分類:サトイモ科サトイモ属<br />分布:東南アジア原産。<br />その他:収穫で掘り上げられたサトイモです。日本では、一般的に畑で育てていますが、奄美諸島以南では水田のように水を張った湛水で育てています。(同上)

    名前:『サトイモ(里芋、青芋)』
    分類:サトイモ科サトイモ属
    分布:東南アジア原産。
    その他:収穫で掘り上げられたサトイモです。日本では、一般的に畑で育てていますが、奄美諸島以南では水田のように水を張った湛水で育てています。(同上)

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