2017/11/26 - 2017/11/26
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旅人のくまさんさん
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楠木正成所縁の日本百名城巡りです。名古屋駅前から出発のバスツアーに参加しました。私が楠木正成や足利尊氏を知るきっかけとなったのは、吉川英治さんの最晩年の歴史小説の『私本太平記』でした。(ウィキペディア、日本百名城公式ガイド)
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『吉川英治(1892~1962年)』さんの『私本太平記』は、室町時代に成立し、鎌倉幕府滅亡から南北朝時代を描く軍記物語で、近世以降の文学にも影響を与えた『太平記(たいへいき)』が題材とされます。太平記は、日本の古典文学作品の一つで、歴史文学に分類され、日本の歴史文学の中では最長の作品とされます。(同上)
*写真は、バスツアーの集合場所の名古屋駅西側の地下街の光景です。 -
『太平記』は全40巻です。南北朝時代の後醍醐天皇の即位から、鎌倉幕府の滅亡、建武の新政とその崩壊後の南北朝分裂、観応の擾乱、2代将軍足利義詮の死去と細川頼之の管領就任までの『1318年(文保2年)~1368年(貞治6年)』頃までの約50年間を記した軍記物語です。今川家本、古活字本、西源院本等があります。(同上)
*写真は、同じくバスツアーの集合場所の名古屋駅西側の地下街光景です。 -
太平記の表題の『太平』は、平和を祈願する意味で付けられていると考えられています。第二次世界大戦後、『太平記』を称する小説やテレビドラマが多く作られたため、混同を避けるために『古典太平記』と呼ばれることもあります。作者と成立時期は不詳ですが、今川貞世の『難太平記』に法勝寺の恵鎮上人(円観)が『足利直義(1306/07~1352年)』に三十余巻を見せたとの記事があるようです。(同上)
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太平記は、第96代天皇(南朝初代天皇)の『後醍醐天皇(1288~1339年)』の崩御が描かれる巻21あたりまでが、円観、玄慧など室町幕府との密接な関わりを持つ知識人を中心に編纂されたと考えられています。また、室町幕府3代将軍『足利義満(1358~1408年)』や管領『細川頼之(1329~1392年)』が修訂に関係したようです(同上)
*写真は、ツアーバスが分散して停車した、名古屋駅西付近の光景です。 -
『太平記は一人の手で短期間に出来上がったものではない』、とするのが主流の見解のようです。例えば、『難太平記』のほか『太平記評判秘伝理尽鈔』でも、10人を超える作者を列挙しています。また、玄恵作者説は、神宮徴古館本の弘治元年(1555年)の奥書に「独清(玄恵の号)再治之鴻書」との記述があります。(同上)
*写真は、ツアーバスの姿が見える名古屋駅西側の通りの光景です。 -
太平記は、小島法師などの手により増補改訂されていき、1370年頃までには現在の40巻からなる太平記が成立したと考えられています。同時代の史料で『太平記』の名が確認できる最古のものは、『洞院公定日記』の応安7年(1374年)5月3日条とされます。小島法師については、後述します。(同上)
*写真は、超高層ビルが立ち並ぶ名古屋駅付近の光景です。 -
『難太平記』を別にすれば、同時代、またはそれに近い時代の史料で作者に擬されているのはこの「小嶋法師」だけですが、この人物が何者であるかは「児島高徳」説(明治期から)ほか、備前児島に関係のある山伏説(和歌森太郎、角川源義)、近江外嶋の関係者(後藤丹治)など諸説あり、今も決着をしていないようです。(同上)
*写真は、名古屋駅西付近の公孫樹の黄葉光景です。褐葉に近い色でした。 -
続いて、この旅行ブログの主人公、『楠木正成(くすのき・まさしげ:1294~1336年)』紹介です。鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将で、自称は橘氏後裔です。息子に正行(まさつら)、正時(まさとき)、正儀(まさのり)がいました。後醍醐天皇を奉じ、大塔宮護良親王と連携して鎌倉幕府に対抗しました。(同上)
*観光バスで名古屋駅を出発し、大阪方面に向かいました。 -
正成は、『元弘の乱(1331~1333年)』で後醍醐天皇を奉じ、千早城の戦いで大規模な幕軍を千早城に引きつけて日本全土で反乱を誘発させることにより、鎌倉幕府打倒に貢献しました。今向かっているのは、その千早城です。大阪府南河内郡千早赤阪村千早に位置し、現在は、日本百名城の55番に選定されています。前年に落城した赤坂城に代わる城として、1332年に正成が築城した山城です。(同上)
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千早城は、鎌倉時代末期から南北朝時代に存在した楠木正成が築城した城です。四方を絶壁に囲まれ要塞堅固を誇ったとされる連郭式山城です。『金剛山城』の呼び名もあります。大和国五条と河内国大ケ塚・富田林を結ぶ最短ルートとして、昔から交通、軍事の要衝であったのが千早街道です。その街道から登り詰めた、金剛山より西にある一支脈の先端に築かれた山城です。(同上)
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千早城は、周囲が約4kmで千早川の渓谷を利用し、北には北谷、南東には妙見谷、東は風呂谷があり、四方の殆どが深い谷に囲まれ、城の背後のみが金剛山の山頂に連絡する要害の地です。金剛山の山頂は標高1125m、城の最高所の標高は673m、比高は175mとされます。北条軍を引き受け、楠木正成が奇策を用いた攻城戦の舞台となりました。その登山口に近づいてきたようです。ここでバスを降りました。(同上)
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楠木正成は、二つからなる城を持っていて、下赤坂城が前衛の城、本城が上赤坂城でした。下赤坂城は、急造の城だったため、鎌倉軍との長期戦は不可能と考えた正成は、下赤坂城に1331年(元弘元年、元徳3年)10月21日夜、自ら火を放ち鎌倉幕府軍に奪わせました。随分と思い切りのいい作戦のようです。(同上)
*写真は、前方左手に見えてきた金剛山の登り口です。 -
鎌倉幕府軍は、下赤坂城の大穴に見分けのつかない焼死体を20~30体発見し、これを楠木正成とその一族と思い込んで同年11月に関東へ帰陣しました。1332年(元弘2年、正慶元年)4月、正成は下赤坂城を奪い返し、鎌倉幕府方の『湯浅宗藤(ゆあさ・むねふじ:生没年不詳』を帰順させることに成功しました。湯浅氏は、紀伊国阿氐河荘(阿瀬川荘)を本領とした武士です。(同上)
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湯浅宗藤は、元弘元年(1331年)10月、鎌倉幕府の命により楠木正成の拠る下赤坂城を攻略し、その功により地頭職を与えられ、赤坂城の守備を命じられていました。翌元弘2年/正慶元年(1332年)4月、赤坂城の奪還に攻めてきた正成に敗れ、以降は正成に従い、摂津国、河内国方面で鎌倉幕府軍と戦いました。建武元年(1334年)9月、神護寺領紀伊国河上荘預所方雑掌職に補任されています。(同上)
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赤坂城の詰めの城として、千早城がその背後の山上に築かれました。正成は金剛山一帯に点々と要塞を築き、その総指揮所として千早城を活用し、下赤坂城、上赤坂城、千早城の3城で鎌倉幕府軍と対峙しました。上赤坂城には『平野将監(重吉:しげよし:生年不詳~元弘3年/正慶2年(1333年)』、楠木正季(まさすえ:正成の弟:生年不詳~1336年)』以下300兵を守備隊としました。(同上)
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1333年(元弘3年、正慶2年)2月2日、最初に上赤坂城で戦いが始まり、楠木勢は善戦しましたが、鎌倉幕府軍に水の手を切られました。平野将監が降伏の意を伝えた後も数日持ちこたえましたが、正季が千早城に退却すると、同年2月27日に落城しました。このような中、正成は上赤坂城での戦いの最中の2月23日に、金剛寺へ書状を送っていました。その書状は国の重要文化財として残されています。(同上)
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正成の書状の内容は、鎌倉幕府軍が寺内に乱入して、城郭を構えるという風評があるので、怠りなく防備し、団結して戦ってほしいとし、護良親王の令旨に従って関東調伏の祈禱に励む、つまり戦勝祈願するように丁重に依頼しています。金剛寺は千早城から西へ約10kmに位置し、正成とのかかわりが深く南北朝時代には南朝方の勅願寺として重要な拠点となっていました。(同上)
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『太平記』によれば、鎌倉幕府軍は千早城へ百万とされる軍を向け、これを攻撃した。籠城側・楠木軍は僅か千人足らずで守ったとあります。『城の四方ニ三里が間は見物相撲の場の如く、打井んで尺寸の地をも余さず充満せり』と記述され、実数より一桁誇張されたらしい大軍が、千早城に押し寄せました。(同上)
*写真は、『金剛登山口』の標識です。ここからは、ちょっとした登山でした。 -
上赤坂城で勝利した鎌倉幕府軍は、我先に千早城を攻城しました。千早城では櫓より大石を投げ落として応戦し、逃げ惑う兵に矢と飛礫が降り注ぎ、谷底に死体の山がうず高く重なりました。太平記では『長崎四郎左衛門尉、軍奉行にてありければ、手負死人の実検をなしけるに、執筆十二人昼夜三日が間筆をも置かず詿けり』と、その様子を伝えています。写真は、千早城の縄張り図です。(同上)
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『パワースポット・千早城(千早神社)』のタイトルがあった説明看板の光景です。『千早神社』についての説明です。千早神社は千早城の本丸址に位置し、もとは千早城の八幡大菩薩を祀って鎮守として創建したものです。時代が下って楠木正成、楠木正行、久子刀自(正成夫人)が合祀されました。1874年(明治7年)に社殿が再建され、1879年(明治12年)に祠を建て千早神社となりました。(同上)
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鎌倉幕府軍は、上赤坂城の例にならい水源を断ち持久戦に切り替えましたが、城内には大木をくり抜き300もの木船が水も湛えていて、食料も十分蓄えていました。長引く籠城戦で士気に緩みが見えてくると、正成はわら人形を20~30体作らせ、甲冑を着せ弓や槍を持たせました。その人形を夜のうちに城外の麓に並べ、後ろに兵500を潜ませ、夜明けになると鬨の声をあげさせました。鎌倉幕府軍は決死の攻撃と思いこみ攻め寄せたため、兵500は矢を放ちながら徐々に城内に引き上げました。鎌倉幕府軍がわら人形に到達した所を見計らい、大石を投げ落とし、300名が即死、500名が負傷しました(藁人形作戦)。(同上)
*写真は、後年に建てられた楠木正成公顕彰の石碑のようです。 -
1333年(元弘3年、正慶2年)の千早城攻めにおいて、鎌倉幕府軍の持久戦に対して、3月4日に鎌倉より厳しい下知が届き、将士を督励することになりました。このため鎌倉幕府軍は、近くの山より城壁ヘ橋を掛けて一気に攻め上ろうとしました。京都より大工衆500余人を呼び集め、巾15尺(4.5m)、長さ100尺(300m)の橋を造り、大縄をつけて城内へ殺到しました(長梯子の計と火計)。(同上)
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この攻めに対して正成は、かねてより用意していた水鉄砲の中に油を入れ橋に注ぎ、それに松明を投げました。城内にたどり着こうとしていた兵は後ろに下がろうとしても後陣が続いており、飛び降りようにも谷深く、もたもたしていると橋けたの中ほどより折れ、数千名が猛火に落ち重なって火地獄になった、と太平記に記載されています(長梯子の計と火計)。(同上)
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『護良親王(もりなが・しんのう)』の命を受けた吉野、十津川、宇陀、宇智郡(内郡)の野伏が楠木軍に味方し、鎌倉幕府軍の糧道を遮断しました。このため、包囲していた幕府軍の人馬が逆に飢えるようになり、毎日のように1~200騎が包囲軍から逃げるようになりました。しかし、地理に明るい野伏に襲われて討ち取られるか、馬や甲冑、衣服を剥ぎ取られてしまいました。(同上)
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『護良親王(もりなが/もりよし・しんのう:1308~1335年)』について補足説明しておきます。鎌倉時代末期から建武の新政期の皇族・僧侶・武将・天台座主・征夷大将軍でした。後醍醐天皇の第三皇子(第一皇子説も)です。通称は『大塔宮(おおとうのみや/だいとうのみや)』です。母は北畠師親の娘の資子という説と、勘解由小路経光の娘の経子という説があります。失脚して、20代で亡くなりました。(同上)
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千早城へ釘付けになっている鎌倉幕府軍の間隙を縫い、後醍醐天皇(先帝)が閏2月24日に隠岐国の配所を脱出し、船上山に入りました。天皇は討幕の綸旨を全国に発し、これに播磨国赤松則村、伊予国河野氏、肥後国菊池武時が蜂起すると、千早城を囲んでいた大名が相次いで帰国しました。そして、1333年5月7日に足利尊氏によって京の六波羅探題が陥落させられました。(同上)
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同年5月8日午の刻(午後12時頃)、尊氏により六波羅が陥落させられたという報せが千早城の籠城軍、そして包囲していた鎌倉幕府軍にも伝わりました。幕府軍の諸将は相談し、一日でも退却が遅れれば、野伏が多数集結して山中の道が危なくなる可能性があるとして、千早城からの撤退を決め、5月10日早朝、幕府軍の諸将は陣を撤収して、10万騎の軍勢は南都(奈良)へと引き上げました。(同上)
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しかし、大軍が退却する当たり大混乱が起き、岩場に突き当たって止む無く腹を切る者、谷底に落ちる者、他人に踏み殺される者、あるいは野伏に襲われる者が続出しましたが、ただの一戦も交えなかった、と『太平記』は記しています。結局、大勢の兵が退却にあたり死亡しましたが、包囲軍の主だった将は戦死せず、同日夜半に南都に到着しました。(同上)
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5月8日、関東において挙兵した『新田義貞(1301~1338年)』が、手薄となった鎌倉を攻め、5月22日に鎌倉幕府は滅亡しました。義貞の挙兵は、楠木正成討伐のために膨大な軍資金が必要になった鎌倉幕府が、新田荘に対して6万貫もの軍資金をわずか5日で納入するように迫り、その過酷な取り立てに耐え切れなくなって幕吏を殺害・投獄したことに端を発していました。(同上)
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鎌倉幕府が始まったのは、壇ノ浦の戦いで平家が滅亡した1185年(従来は源頼朝が征夷大将軍に就任した1192年説)、滅亡したのは、『1333年(元弘3年)』ことでした。千早城の戦いが終了した12日後とも言われます。(同上)
*写真は、右から読んで、『千早城趾』の標識ですが、『千早』の部分が読み難い字体ですから、右下に楷書で『千早城』の添え字がありました。
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