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楠木正成所縁の名城巡りです。その中でも有名なのが、日本百名城(第55番)に選定されている「千早城」です。1332年(元弘2年)、正成公によって築城されました。四方を絶壁に囲まれ、要塞堅固を誇った連郭式山城です。(ウィキペディア、日本百名城公式ガイド)

2017秋、楠木正成所縁の日本百名城(2/9):千早城(2):千早城址碑、鳥居、狛犬、千早神社

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2017/11/26 - 2017/11/26

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旅人のくまさん

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楠木正成所縁の名城巡りです。その中でも有名なのが、日本百名城(第55番)に選定されている「千早城」です。1332年(元弘2年)、正成公によって築城されました。四方を絶壁に囲まれ、要塞堅固を誇った連郭式山城です。(ウィキペディア、日本百名城公式ガイド)

交通手段
観光バス
  • 楠木正成が、少数の兵力で鎌倉幕府の大軍を翻弄し、鎌倉時代を終焉に導いた『千早城の戦い』を先に紹介しましたので、この後は、その舞台となった「千早城」の紹介です。記述が一部重複する場面もありますので、あらかじめお断りしておきます。この辺りは、「千早城」の「四の丸」になるようです。「第4郭」とも呼ばれている曲輪です。(同上)

    イチオシ

    楠木正成が、少数の兵力で鎌倉幕府の大軍を翻弄し、鎌倉時代を終焉に導いた『千早城の戦い』を先に紹介しましたので、この後は、その舞台となった「千早城」の紹介です。記述が一部重複する場面もありますので、あらかじめお断りしておきます。この辺りは、「千早城」の「四の丸」になるようです。「第4郭」とも呼ばれている曲輪です。(同上)

  • 廃品利用のような、武者人形の光景です。足元に『千早城趾』の標識がありました。鎧に洗濯板や、波型スレートが使われていました。ネット情報の一つには、『千早城籠城戦の際、楠木正成が寡兵で大軍に向かうための奇策としてワラ人形に鎧を着せ近づいた敵兵に矢を射掛けたという囮作戦に由来するものと思われる』、との解説もありました。また、千早城の『千早』は、「千剣破」「千波屋」とも表記されていて、「勢い激しい風に由来する」とされます。(同上)

    廃品利用のような、武者人形の光景です。足元に『千早城趾』の標識がありました。鎧に洗濯板や、波型スレートが使われていました。ネット情報の一つには、『千早城籠城戦の際、楠木正成が寡兵で大軍に向かうための奇策としてワラ人形に鎧を着せ近づいた敵兵に矢を射掛けたという囮作戦に由来するものと思われる』、との解説もありました。また、千早城の『千早』は、「千剣破」「千波屋」とも表記されていて、「勢い激しい風に由来する」とされます。(同上)

  • 「千早城」は、金剛山を背後にした山城で、楠木氏の『詰の城(つめのしろ)』とも呼ばれます。 守護や戦国大名が、領国内に設けた戦時における最後の拠点となる山城のことです。(同上)<br />*写真は、「四の丸」と「三の丸」の境付近に位置する銅製の鳥居の光景です。鳥居の先の「三の丸」の更に先の『二の丸』が、「千早神社」の場所になります。

    「千早城」は、金剛山を背後にした山城で、楠木氏の『詰の城(つめのしろ)』とも呼ばれます。 守護や戦国大名が、領国内に設けた戦時における最後の拠点となる山城のことです。(同上)
    *写真は、「四の丸」と「三の丸」の境付近に位置する銅製の鳥居の光景です。鳥居の先の「三の丸」の更に先の『二の丸』が、「千早神社」の場所になります。

  • 南北朝時代の軍事物語の『太平記』によれば、楠木正成は千早城で味方の数十倍もの幕府軍の攻撃に対して、急峻な地形を生かして石や大木を投げ落としたり、わら人形に甲冑を着せて兵力を多く見せたりといった戦術で応戦したといいます。後醍醐天皇に対する忠臣としても歴史に名を残しました。(同上)<br />*写真は、広場のような「四の丸」の光景です。紅葉が散り敷いていました。

    イチオシ

    南北朝時代の軍事物語の『太平記』によれば、楠木正成は千早城で味方の数十倍もの幕府軍の攻撃に対して、急峻な地形を生かして石や大木を投げ落としたり、わら人形に甲冑を着せて兵力を多く見せたりといった戦術で応戦したといいます。後醍醐天皇に対する忠臣としても歴史に名を残しました。(同上)
    *写真は、広場のような「四の丸」の光景です。紅葉が散り敷いていました。

  • 鎌倉幕府の滅亡は、約100日間続いた千早城の籠城戦により、本拠地である鎌倉の防御が手薄になったことも要因の一つと言われています。千早城の近くには、正成が同じ時期に造った楠木城、赤坂城の跡もあります。いずれも建物などは残っていませんが、急峻な地形等に難攻不落の城の面影を見ることができます。(同上)<br />*写真は、施設名は不明ですが、千早城の遺物が展示されているようです。

    鎌倉幕府の滅亡は、約100日間続いた千早城の籠城戦により、本拠地である鎌倉の防御が手薄になったことも要因の一つと言われています。千早城の近くには、正成が同じ時期に造った楠木城、赤坂城の跡もあります。いずれも建物などは残っていませんが、急峻な地形等に難攻不落の城の面影を見ることができます。(同上)
    *写真は、施設名は不明ですが、千早城の遺物が展示されているようです。

  • 纏めて紹介しますと、千早神社を祀る場所が「二ノ丸」で、社務所一帯が「三の丸」と呼ばれています。「四の丸」は長さ約100m、幅30mの平坦地で城内で一番広い場所となっています。「三の丸」と「四の丸」の間の鞍部には、かつて空堀があったと言われていますが、参道のため埋まってしまったようです。(同上)<br />*写真は、広場の脇の藪の光景です。通り抜けはなかなか難しそうです。

    纏めて紹介しますと、千早神社を祀る場所が「二ノ丸」で、社務所一帯が「三の丸」と呼ばれています。「四の丸」は長さ約100m、幅30mの平坦地で城内で一番広い場所となっています。「三の丸」と「四の丸」の間の鞍部には、かつて空堀があったと言われていますが、参道のため埋まってしまったようです。(同上)
    *写真は、広場の脇の藪の光景です。通り抜けはなかなか難しそうです。

  • 台座に『奉納』の文字が刻まれた、一対になっていた狛犬の紹介です。口を開けた阿形の獅子ですから、雄獅子の方になるようです。ある程度の年代を経ているようでしたが、勝手な推測では、明治期以降程度の年代の像のに見えました。全身に苔が生じていましたが、造作は、目立った欠損や風化も少なく、原型を保っているようでした。(同上)

    台座に『奉納』の文字が刻まれた、一対になっていた狛犬の紹介です。口を開けた阿形の獅子ですから、雄獅子の方になるようです。ある程度の年代を経ているようでしたが、勝手な推測では、明治期以降程度の年代の像のに見えました。全身に苔が生じていましたが、造作は、目立った欠損や風化も少なく、原型を保っているようでした。(同上)

  • 同じく、台座に『奉納』の文字が刻まれた、対になった狛犬のもう一方の像の紹介です。口を閉じた吽形の獅子ですから、雌獅子です。千早神社に奉納された対の獅子像のようです。千早神社は、南北朝時代初期の元弘二年/正慶元年(1332年)、千早城が築城された際、その本丸に城の鎮守として八幡大菩薩を祀って創建されたとされています。後に楠木正成、楠木正行を合祀しています。(同上)

    同じく、台座に『奉納』の文字が刻まれた、対になった狛犬のもう一方の像の紹介です。口を閉じた吽形の獅子ですから、雌獅子です。千早神社に奉納された対の獅子像のようです。千早神社は、南北朝時代初期の元弘二年/正慶元年(1332年)、千早城が築城された際、その本丸に城の鎮守として八幡大菩薩を祀って創建されたとされています。後に楠木正成、楠木正行を合祀しています。(同上)

  • 参道脇に置かれた立派な石灯篭の光景です。三段か、四段の台座の上に置かれたシャープな造りの石灯篭です。この石灯篭も参道を挟んで一対で置かれていました。台座や灯篭部分に文字が刻まれていました。こちらも推測ですが、昭和の戦前当りの年代に見えました。狛犬よりは、かなり新しい造りのようですが、格式の高さを感じさせらせました。(同上)

    参道脇に置かれた立派な石灯篭の光景です。三段か、四段の台座の上に置かれたシャープな造りの石灯篭です。この石灯篭も参道を挟んで一対で置かれていました。台座や灯篭部分に文字が刻まれていました。こちらも推測ですが、昭和の戦前当りの年代に見えました。狛犬よりは、かなり新しい造りのようですが、格式の高さを感じさせらせました。(同上)

  • 同じく、参道脇に置かれた一対の石灯篭の、もう片方の灯篭の光景です。台座部分が三段か、四段かで先程迷いましたが、台座部分は三段で、その上の部分は、灯篭本体の造りのようでした。石灯篭は、苔が生えて情緒溢れる姿になって価値を増しますので、石灯篭屋さんは、出来上がった状態のきれいな石灯篭に半年ぐらい水を毎日掛け、いい塩梅に風化させるようです。(石材店の解説文)『あんばい(塩梅)』は、話し言葉ではよく使われるようですが、普段は文字表示を見ることが少なくなりました。私にとっては、小学生の頃に父母から教わった記憶が残っている、懐かしい言葉です。若い頃に薬局を開いていた父は、薬の『匙加減』の意味も教えてくれました。(同上)

    同じく、参道脇に置かれた一対の石灯篭の、もう片方の灯篭の光景です。台座部分が三段か、四段かで先程迷いましたが、台座部分は三段で、その上の部分は、灯篭本体の造りのようでした。石灯篭は、苔が生えて情緒溢れる姿になって価値を増しますので、石灯篭屋さんは、出来上がった状態のきれいな石灯篭に半年ぐらい水を毎日掛け、いい塩梅に風化させるようです。(石材店の解説文)『あんばい(塩梅)』は、話し言葉ではよく使われるようですが、普段は文字表示を見ることが少なくなりました。私にとっては、小学生の頃に父母から教わった記憶が残っている、懐かしい言葉です。若い頃に薬局を開いていた父は、薬の『匙加減』の意味も教えてくれました。(同上)

  • 説明が脇道に逸れますが、『塩梅』についての説明の続です。その昔、塩と梅酢だけを使って料理の味付けをしていた時代、僅かでも配分が違うと、味の善し悪しが変わってしまいました。料理の味付けの加減がいいときに「塩梅がいい」といっていたことが、「塩梅」の語源とされます。「塩梅」は方言ではなく共通語であり、全国各地で広く使われています。推測になりますが、料理の世界では今でも大切に使われている言葉かも知れません。(同上)<br />*写真は、「四の丸」から「三の丸」に向かう途中の参道のような光景です。

    説明が脇道に逸れますが、『塩梅』についての説明の続です。その昔、塩と梅酢だけを使って料理の味付けをしていた時代、僅かでも配分が違うと、味の善し悪しが変わってしまいました。料理の味付けの加減がいいときに「塩梅がいい」といっていたことが、「塩梅」の語源とされます。「塩梅」は方言ではなく共通語であり、全国各地で広く使われています。推測になりますが、料理の世界では今でも大切に使われている言葉かも知れません。(同上)
    *写真は、「四の丸」から「三の丸」に向かう途中の参道のような光景です。

  • 千早城は、周囲が約4kmで千早川の渓谷は、北には北谷、南東には妙見谷、東は風呂谷があります。四方の殆どを深い谷に囲まれ、城の背後のみが金剛山の山頂に連絡する要害の地です。金剛山の山頂は標高1125m、城の最高所の標高は673m、比高は175mとされます。鎌倉幕府との戦いでは、北条軍を引き受け、楠木正成が奇策を用いた攻城戦の舞台となりました。この辺りは平坦地です。(同上)

    千早城は、周囲が約4kmで千早川の渓谷は、北には北谷、南東には妙見谷、東は風呂谷があります。四方の殆どを深い谷に囲まれ、城の背後のみが金剛山の山頂に連絡する要害の地です。金剛山の山頂は標高1125m、城の最高所の標高は673m、比高は175mとされます。鎌倉幕府との戦いでは、北条軍を引き受け、楠木正成が奇策を用いた攻城戦の舞台となりました。この辺りは平坦地です。(同上)

  • 千早城は、1333年7月4日(元弘3年/正慶2年5月22日)からの後醍醐天皇による『建武の新政(中興)』以後、南朝方の楠木氏の居城となり、城主は楠木正行、楠木正儀そして楠木正勝と続いていました。しかし、南北朝時代末年となる1392年(明徳3年)正月、楠木正勝の時に北朝方の畠山基国に攻められ千早城は落城し、61年に及ぶ歴史に幕を閉じました。再び、緩い石段も現れた参道光景です。(同上)

    千早城は、1333年7月4日(元弘3年/正慶2年5月22日)からの後醍醐天皇による『建武の新政(中興)』以後、南朝方の楠木氏の居城となり、城主は楠木正行、楠木正儀そして楠木正勝と続いていました。しかし、南北朝時代末年となる1392年(明徳3年)正月、楠木正勝の時に北朝方の畠山基国に攻められ千早城は落城し、61年に及ぶ歴史に幕を閉じました。再び、緩い石段も現れた参道光景です。(同上)

  • 先ほど紹介した『楠木正行(くすのき・まさつら:生年不詳~1348年)』は、 正成(まさしげ)の嫡男で、楠木氏の棟梁でした。南北朝時代、南朝の後村上天皇に仕えた武将です。父の正成や末弟の正儀と並ぶ、南北朝期の代表的名将とされます。『大楠公(だいなんこう)』と呼ばれる正成に対し、『小楠公(しょうなんこう)』と尊称されます。南朝左衛門尉・河内守・河内国守護を務めました。(同上)

    先ほど紹介した『楠木正行(くすのき・まさつら:生年不詳~1348年)』は、 正成(まさしげ)の嫡男で、楠木氏の棟梁でした。南北朝時代、南朝の後村上天皇に仕えた武将です。父の正成や末弟の正儀と並ぶ、南北朝期の代表的名将とされます。『大楠公(だいなんこう)』と呼ばれる正成に対し、『小楠公(しょうなんこう)』と尊称されます。南朝左衛門尉・河内守・河内国守護を務めました。(同上)

  • 『楠木正行』の紹介の続きです。生年や幼少期の実態は不明ですが、第97代の『後村上天皇(1328年:嘉暦3年~1368年:正平23年)』が即位した翌年の延元5年/暦応3年(1340年)に史上に現れました。河内守となって7年間は、戦いを一切行いませんでした。その理由は、和戦派や、戦力温存(太平記)の説があります。(同上)<br />*写真は、常緑樹の林の中に交じった黄葉の木々の光景です。

    『楠木正行』の紹介の続きです。生年や幼少期の実態は不明ですが、第97代の『後村上天皇(1328年:嘉暦3年~1368年:正平23年)』が即位した翌年の延元5年/暦応3年(1340年)に史上に現れました。河内守となって7年間は、戦いを一切行いませんでした。その理由は、和戦派や、戦力温存(太平記)の説があります。(同上)
    *写真は、常緑樹の林の中に交じった黄葉の木々の光景です。

  • 「千早城」のお守りの小さな社の紹介です。「千早神社」の施設の一部でした。小さな社ながら格式のある造りで、ゆったりとした石積みの基壇の上に据えられていました。この後に、千早神社名の『御守り』も紹介しますが、後醍醐天皇に尽した楠木正成公の功績などの紹介でした。(同上)<br />

    「千早城」のお守りの小さな社の紹介です。「千早神社」の施設の一部でした。小さな社ながら格式のある造りで、ゆったりとした石積みの基壇の上に据えられていました。この後に、千早神社名の『御守り』も紹介しますが、後醍醐天皇に尽した楠木正成公の功績などの紹介でした。(同上)

  • 「千早城」のお守りの小さな社のズームアップ光景です。正式名は分かりませんでしたが、『楠木正成公顕彰』を目的とする社のようでした。正成公は、明治13年(1880年)には正一位を追贈され、また、湊川神社の主祭神となりました。正成は、戦前までは、忠臣としての側面のみが過剰に評価されていました。しかし、近年では、武将・官僚・商人など、多面的な再評価が行われています。(同上)

    「千早城」のお守りの小さな社のズームアップ光景です。正式名は分かりませんでしたが、『楠木正成公顕彰』を目的とする社のようでした。正成公は、明治13年(1880年)には正一位を追贈され、また、湊川神社の主祭神となりました。正成は、戦前までは、忠臣としての側面のみが過剰に評価されていました。しかし、近年では、武将・官僚・商人など、多面的な再評価が行われています。(同上)

  • 『千早城「御守り」由緒』のタイトルがあった、説明パネルの紹介です。千早城址を所有する『千早神社』名の立て看板でした。内容は千早神社が発行している「御守り」の宣伝でしたが、その要点を箇条書きで紹介しておきます。<br />〇鎌倉時代末期の出来事の紹介です。<br />〇楠木正成は、後醍醐天皇から反幕(反鎌倉政府)蜂起の命を受けました。<br />〇正成は、この千早城で幕府軍を迎え撃ちました。<br />〇正成は、千人余りの小勢で十数万の幕府軍を相手にしました。<br />〇正成は、百日間に及ぶ攻城戦を、落城することなく戦い抜きました。<br />*この故事に因む『御守り』を『千早神社』で作成した宣伝でした。(同上)

    『千早城「御守り」由緒』のタイトルがあった、説明パネルの紹介です。千早城址を所有する『千早神社』名の立て看板でした。内容は千早神社が発行している「御守り」の宣伝でしたが、その要点を箇条書きで紹介しておきます。
    〇鎌倉時代末期の出来事の紹介です。
    〇楠木正成は、後醍醐天皇から反幕(反鎌倉政府)蜂起の命を受けました。
    〇正成は、この千早城で幕府軍を迎え撃ちました。
    〇正成は、千人余りの小勢で十数万の幕府軍を相手にしました。
    〇正成は、百日間に及ぶ攻城戦を、落城することなく戦い抜きました。
    *この故事に因む『御守り』を『千早神社』で作成した宣伝でした。(同上)

  • 『楠木正行』の紹介に戻ります。正平2年/貞和3年8月10日(1347年9月15日)、兵を起こした正行は、寡兵でもって北朝・室町幕府の勇将細川顕氏(生年不詳~1352年)や山名時氏(1298/1303~1371年)らの大軍を立て続けに破り、北朝から「不可思議の事なり」(智を超越した事象である)と畏怖されました。北畠親房が、幕府の実質的指導者足利直義(将軍尊氏の弟)と執事高師直の不和を知っていた史証があることから、正行が寡兵にもかかわらず挙兵したのは、幕府の内部瓦解を狙った親房の作戦との説もあります。(同上)<br />*写真は、参道脇の石灯篭の紹介です。また違った形状の灯篭でした。

    『楠木正行』の紹介に戻ります。正平2年/貞和3年8月10日(1347年9月15日)、兵を起こした正行は、寡兵でもって北朝・室町幕府の勇将細川顕氏(生年不詳~1352年)や山名時氏(1298/1303~1371年)らの大軍を立て続けに破り、北朝から「不可思議の事なり」(智を超越した事象である)と畏怖されました。北畠親房が、幕府の実質的指導者足利直義(将軍尊氏の弟)と執事高師直の不和を知っていた史証があることから、正行が寡兵にもかかわらず挙兵したのは、幕府の内部瓦解を狙った親房の作戦との説もあります。(同上)
    *写真は、参道脇の石灯篭の紹介です。また違った形状の灯篭でした。

  • 正行の戦闘経路は、元弘の乱(1331~1333年)での父・正成をほぼ踏襲しています。このため、初陣での紀伊国(和歌山県)攻略は、父と同様に兵站・情報網の要地を狙った戦略とも言われます。正成の再来であるかのような正行の軍事行動は、北朝・幕府に恐れを抱かせたとも推測されています。正行は、年内の戦いでは無敗であり、二度の大合戦から細々とした局地戦まで全てを完勝しました。南朝の各地方の方面軍もまた、正行の中央での活躍に合わせて、味方への鼓舞と敵への調略を活発化させました。(同上)<br />*写真は、同じく屋根型の傘を持った、一対の石灯篭の光景です。

    正行の戦闘経路は、元弘の乱(1331~1333年)での父・正成をほぼ踏襲しています。このため、初陣での紀伊国(和歌山県)攻略は、父と同様に兵站・情報網の要地を狙った戦略とも言われます。正成の再来であるかのような正行の軍事行動は、北朝・幕府に恐れを抱かせたとも推測されています。正行は、年内の戦いでは無敗であり、二度の大合戦から細々とした局地戦まで全てを完勝しました。南朝の各地方の方面軍もまた、正行の中央での活躍に合わせて、味方への鼓舞と敵への調略を活発化させました。(同上)
    *写真は、同じく屋根型の傘を持った、一対の石灯篭の光景です。

  • 不敗だった正行も、正平3年/貞和4年1月5日(1348年2月4日)、河内国讃良郡野崎(大阪府大東市野崎)から北四条(同市北条)で発生した『四條畷の戦い』において、幕府の総力に近い兵を動員した『高師直(こう・の・もろなお:生年不詳~1351年)』と戦い、一時は師直を本陣である野崎から後退させるなど優位に立ちましたが、追った先の北四条で力尽き、弟の正時や従兄弟の和田新発を含めた26人の将校と共に戦死しました。(同上)<br />*写真は、これも正成が試みた、偽計の藁人形の模型のようです。

    不敗だった正行も、正平3年/貞和4年1月5日(1348年2月4日)、河内国讃良郡野崎(大阪府大東市野崎)から北四条(同市北条)で発生した『四條畷の戦い』において、幕府の総力に近い兵を動員した『高師直(こう・の・もろなお:生年不詳~1351年)』と戦い、一時は師直を本陣である野崎から後退させるなど優位に立ちましたが、追った先の北四条で力尽き、弟の正時や従兄弟の和田新発を含めた26人の将校と共に戦死しました。(同上)
    *写真は、これも正成が試みた、偽計の藁人形の模型のようです。

  • 『史跡・千早城趾』の石標の光景です。側面には『昭和14年3月』の建立月が刻まれていました。『千早城址』は、1934年(昭和9年)3月に『国の史跡』に指定されました。廃城になったのが、明徳3年(1392年)でしたから、540年ほど経った後でした。遺跡は、曲輪と空堀です。かつての城郭は、連郭式山城で、天守は望楼櫓2重と伝わります。『河内千破城図(湊川神社蔵)』等が残されています。再建された建造物はありません。(同上)<br />

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    『史跡・千早城趾』の石標の光景です。側面には『昭和14年3月』の建立月が刻まれていました。『千早城址』は、1934年(昭和9年)3月に『国の史跡』に指定されました。廃城になったのが、明徳3年(1392年)でしたから、540年ほど経った後でした。遺跡は、曲輪と空堀です。かつての城郭は、連郭式山城で、天守は望楼櫓2重と伝わります。『河内千破城図(湊川神社蔵)』等が残されています。再建された建造物はありません。(同上)

  • 次は、『楠木正儀(まさのり:1330/1333~1388/89)』の紹介です。楠木正成の三男として誕生しました。南北朝時代の武将で公卿、楠木氏棟梁でもありました。南朝総大将として、北朝から京を4度奪還しました。また、槍を用いた戦術を初めて普及させ、兵站・調略・後詰等の戦略を重視し、日本軍事史に大きな影響を与えました。一方、後村上天皇の治世下、和平交渉の南朝代表を担当しました。(同上)

    次は、『楠木正儀(まさのり:1330/1333~1388/89)』の紹介です。楠木正成の三男として誕生しました。南北朝時代の武将で公卿、楠木氏棟梁でもありました。南朝総大将として、北朝から京を4度奪還しました。また、槍を用いた戦術を初めて普及させ、兵站・調略・後詰等の戦略を重視し、日本軍事史に大きな影響を与えました。一方、後村上天皇の治世下、和平交渉の南朝代表を担当しました。(同上)

  • 『楠木正儀』の紹介の続きです。後村上天皇とは初め反目しますが、のち武士でありながら綸旨の奉者を務める等、無二の寵臣となりました。次代の主戦派の長慶天皇との不和から、室町幕府管領細川頼之を介し北朝側に離反しました。外様にもかかわらず左兵衛督・中務大輔等の足利将軍家や御一家に匹敵する官位を歴任しました。のちに南朝に帰参し、議政官である参議に任官しました。(同上)

    『楠木正儀』の紹介の続きです。後村上天皇とは初め反目しますが、のち武士でありながら綸旨の奉者を務める等、無二の寵臣となりました。次代の主戦派の長慶天皇との不和から、室町幕府管領細川頼之を介し北朝側に離反しました。外様にもかかわらず左兵衛督・中務大輔等の足利将軍家や御一家に匹敵する官位を歴任しました。のちに南朝に帰参し、議政官である参議に任官しました。(同上)

  • 楠木氏最後の人物紹介は、『楠木正勝(まさかつ:1351~1400年)』です。楠木正儀の嫡男で、楠木正成の孫に当たります。父正儀の没後、斜陽の南朝を支え、軍記物『後太平記』でその戦術が、紀元前11世紀ごろの古代中国・周の軍師・太公望・呂尚にも喩えられるほどでしたが、大局は覆せず、元中5年/嘉慶2年(1388年)に平尾合戦で敗北し、さらに元中9年/明徳3年(1392年)、千早城を喪失しました。(同上)

    楠木氏最後の人物紹介は、『楠木正勝(まさかつ:1351~1400年)』です。楠木正儀の嫡男で、楠木正成の孫に当たります。父正儀の没後、斜陽の南朝を支え、軍記物『後太平記』でその戦術が、紀元前11世紀ごろの古代中国・周の軍師・太公望・呂尚にも喩えられるほどでしたが、大局は覆せず、元中5年/嘉慶2年(1388年)に平尾合戦で敗北し、さらに元中9年/明徳3年(1392年)、千早城を喪失しました。(同上)

  • 『楠木正勝』の紹介の続きです。正勝は、応永6年(1399年)、応永の乱の敗走中に負った創傷により、翌応永7年(1400年)に死亡しました。正勝は江戸時代の小説でも取り上げられ、北朝に帰順した正儀との父子対決が描かれました。明治維新後の大日本帝国下では、皇国史観に基づき、正勝の忠臣としての側面が強調されました。先ほどから紹介している建物は、『千早神社』になるようです。(同上)

    『楠木正勝』の紹介の続きです。正勝は、応永6年(1399年)、応永の乱の敗走中に負った創傷により、翌応永7年(1400年)に死亡しました。正勝は江戸時代の小説でも取り上げられ、北朝に帰順した正儀との父子対決が描かれました。明治維新後の大日本帝国下では、皇国史観に基づき、正勝の忠臣としての側面が強調されました。先ほどから紹介している建物は、『千早神社』になるようです。(同上)

  • 『一金壹萬円・大阪市・住友吉左衛門』の名前が刻まれた石標の光景です。『住友吉左衛門(すみとも・きちざえもん)』は、住友財閥の創業家・住友家が3代目から代々、襲名した名前です。名乗り始めた3代目以降、14代目と当代(17代目)以外は名前に「友」の字を持つ者が襲名しています。例えば、15代目・友純(1865~1926年)は、野村徳七、小林一三とならぶ大茶人であり、益田孝、団琢磨、原富太郎、根津嘉一郎に匹敵する風流人でした。(同上)

    『一金壹萬円・大阪市・住友吉左衛門』の名前が刻まれた石標の光景です。『住友吉左衛門(すみとも・きちざえもん)』は、住友財閥の創業家・住友家が3代目から代々、襲名した名前です。名乗り始めた3代目以降、14代目と当代(17代目)以外は名前に「友」の字を持つ者が襲名しています。例えば、15代目・友純(1865~1926年)は、野村徳七、小林一三とならぶ大茶人であり、益田孝、団琢磨、原富太郎、根津嘉一郎に匹敵する風流人でした。(同上)

  • 住友15代目・友純の紹介の続きです。1895年に住友銀行を創設した人です。住友家茶臼山本邸(慶沢園)を大阪市に寄付し、大阪市立美術館となりました。また、大阪府立中之島図書館の建物と図書基金を寄付したほか、京都法政学校(現在の立命館大学)にも財政的援助を行っています。(同上)<br />*写真は、先に紹介した参道脇の石灯篭と同じ造りの石灯篭のようです。転倒防止目的か、あるいは石灯篭の嵩上げが目的でしょうか、最下段の基壇は、コンクリートを巻いて一回り大きくされていました。

    住友15代目・友純の紹介の続きです。1895年に住友銀行を創設した人です。住友家茶臼山本邸(慶沢園)を大阪市に寄付し、大阪市立美術館となりました。また、大阪府立中之島図書館の建物と図書基金を寄付したほか、京都法政学校(現在の立命館大学)にも財政的援助を行っています。(同上)
    *写真は、先に紹介した参道脇の石灯篭と同じ造りの石灯篭のようです。転倒防止目的か、あるいは石灯篭の嵩上げが目的でしょうか、最下段の基壇は、コンクリートを巻いて一回り大きくされていました。

  • 一対になった石灯篭の、もう片方のズームアップ光景です。背の高い石灯篭は、『春日灯篭』を多く見かけますが、その春日灯篭とは別系統の様式になる石灯篭のようです。標準的な『春日灯篭』の特徴は、『竿(さお)が円形、笠・火袋(ひぶくろ)・中台(ちゅうだい)・地輪(じりん)が六角平面で、背の高い標準的な石灯籠』とされますので、大きく異なります。(同上)

    一対になった石灯篭の、もう片方のズームアップ光景です。背の高い石灯篭は、『春日灯篭』を多く見かけますが、その春日灯篭とは別系統の様式になる石灯篭のようです。標準的な『春日灯篭』の特徴は、『竿(さお)が円形、笠・火袋(ひぶくろ)・中台(ちゅうだい)・地輪(じりん)が六角平面で、背の高い標準的な石灯籠』とされますので、大きく異なります。(同上)

  • 『宮内庁御下賜金参壱百円』の文字が刻まれた石票の光景です。仮に昭和10年頃と仮定しますと、1円が2~3千円ほどになるようですから、当時の300円は、60~90万円程になりそうです。同じレートで換算すれば、住友寄贈の1万円は、2~3千万円程になりそうです。(あまり当てにならない換算ですが)、また、明治初期頃の1円は、2万円程とされますから、1桁上の金額になるようです。(同上)

    『宮内庁御下賜金参壱百円』の文字が刻まれた石票の光景です。仮に昭和10年頃と仮定しますと、1円が2~3千円ほどになるようですから、当時の300円は、60~90万円程になりそうです。同じレートで換算すれば、住友寄贈の1万円は、2~3千万円程になりそうです。(あまり当てにならない換算ですが)、また、明治初期頃の1円は、2万円程とされますから、1桁上の金額になるようです。(同上)

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