2016/03/17 - 2016/03/17
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カメちゃんさん
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誕生日には、「カミさんと一緒に鹿児島の黒豚をいただく」
2016年3月、私達は愛知県から新幹線を乗り継いで、はるばる鹿児島までやってきたのであります。そして、念願の「鹿児島の黒豚」を頂いて、満足したのでした(^-^)
せっかく鹿児島まできたのですから、鹿児島市内ばかりではなく、知覧へも足を伸ばしてみました。
知覧と言えば「武家屋敷」。そしてもう一つは「知覧特攻平和会館」ですね。私達は先に武家屋敷を訪ね、それから知覧特攻平和会館を訪ねました。
知覧特攻平和会館のことは、何かの本か新聞、また何方かの旅行記等で、ほんの少しだけ知っていましたが、詳しいことは何にも知りませんでした。ただ今回の旅で鹿児島へ行くなら、特攻についてちょっと知りたいと思って、旅程に入れたようなわけでした。
実際に知覧特攻平和会館行ってみて、問題の大きさを感じました。特攻へ出撃されていった方たちの苦悩、出撃したものの機体不良で帰って罵倒された方たちの無念さを思いますと、軽々な旅行記は慎まねばと思い、手が付けられませんでした。
ようやく旅行記を書こうと決意したのが今年の夏でした。
いざ書き始めてみると、特攻への無知と野暮用とでなかなか書き進めず、特攻平和会館訪問から1年9ヶ月も過ぎてからようやくUP出来るようになりました。
特攻平和会館内部では写真撮影が出来なかったこと。そこで売っていた小冊子の写真をネットに載せることにも良い返事が頂けなかったので、内部の様子をご覧いただくことが出来ません。但し、名古屋市名東区よもぎ台にある「ピース愛知」で撮影させて頂いた写真は、何枚かをご覧頂けます。
「ピース愛知」様には、ご厚意に感謝申し上げます。
知覧特攻平和会館を訪れて、何を見て、どう感じたか?
その詳細は本文にてご覧下さいますようお願い申し上げます。
※追記
書いているうちに熱くなってしまって、コメントがどんどん長くなってしまいました(-_-;) とても読みにくいかと思いますが、お時間の許される限りお目をお通し下さいますようお願い致しますm(_ _)m
★こちらもご覧下さい。
https://4travel.jp/travelogue/10297853 ダッハウ強制収容所跡の見学とユダヤ人ゲットー
https://4travel.jp/travelogue/11254576 日本一周春色クルーズ・(その3)長崎原爆資料館
https://4travel.jp/travelogue/11072541 初めての熱海・下田の旅 <その1・熱海編>(写真35枚目からの碑文をご覧下さい。)
https://4travel.jp/travelogue/10770489 舞鶴の友を訪ねて(その1・舞鶴引揚記念館ほか)
★↓は知覧武家屋敷の旅行記です。
https://4travel.jp/travelogue/11126050
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 交通
- 4.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 高速・路線バス 新幹線 私鉄 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
JR指宿枕崎線の喜入駅で列車を降りて、駅から270mほど歩いて「喜入駅前」というバス停から路線バスに乗りました。30分程ほどバスに揺られて、知覧に近づいてきたようです。
そうしましたら、いつの間にか道路の両側に石灯籠が立ち並ぶようになりました。良く見ますと、人の姿が彫ってありました。
これは「知覧特攻平和会館」と関係あるのかも知れないと思いましたね。 -
この風景は、知覧武家屋敷へ向かう時に撮ったものです(再掲)
この付近の道路沿いにも石灯籠が並んでいます。この石灯籠は全国から寄せられた浄財で1,036基建立する計画だったようですが、目標を達した後もカンパが続いているとのことです。
マイカーで「知覧特攻平和会館」へ行く場合には、この交叉点を右に曲がるのです。但し、路線バスはこの県道にあるバス停に停車しますから、そこから徒歩で行くことになります(後に地図を掲載します)。 -
「特攻観音入り口」
武家屋敷の見学を終えた後、午後1時を過ぎてからここにやってきました。「武家屋敷入口」から道沿いに約2.7kmほどです(直線ですと、このバス停まで南西に約2.4km程です)。
知覧の街からバスを利用して知覧特攻平和会館へ行くには、このバス停で降ります。 -
バスを降りた交叉点近いところの、食堂・土産物店の駐車場側ウインドウに飾ってあった鎧・兜のの様子です。特攻隊員となって命を落とした若者たちの慰霊の場で、私の感じではちょっと場違いな思いがしました。
しかし、ここは九州・薩摩。九州男児と薩摩武士(^^) しかも、ここ知覧には武家屋敷もありました。さすれば、鎧兜をウインドウに飾ってもおかしくないか? なんて、心の中で呟いていました(^_^;)。
★知覧武家屋敷の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%AE%B6%E5%B1%8B%E6%95%B7%E9%80%9A%E3%82%8A_(%E5%8D%97%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E5%B8%82)
https://4travel.jp/travelogue/11126050 -
この石柱の左の道を奥の方へ行きますと、「知覧町護国神社」と「知覧特攻平和会館」へ行くことが出来ます。
「護国神社」って普段はあまり聞かないですが、全国に52社(北海道と岐阜県に各3社、広島県に2社、東京都と神奈川県は無しのほか、各県に1社)ほど置かれている神社のようです。鹿児島県では鹿児島市内に1ヶ所ありますが、この知覧町護国神社は「全国護国神社一覧」には掲載されていないのです。
知覧町護国神社は日中戦争時代に定められた「内務大臣指定護国神社(社格は“府県社”)」に該当せず、そこから外れた「村社」に格付けされたようです。まぁ、「小さい神社」と言うことでしょうか? そのせいで?「全国護国神社一覧」を見ても掲載されていないようです。
人でも何でも、「格」があるってイヤですね。私は社会の最下端に位置する人間ですから、「格」と聞くだけで寒気を感じ、身震いがしますよ(T_T)
★護国神社の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AD%B7%E5%9B%BD%E7%A5%9E%E7%A4%BE -
↑の写真の奥の方への道に行かず、その道を左手に横断しますと、交叉点の北東角(参道の北側)に「乙女の祈りの庭」と言われる庭園風のところがありました。
写真左端には、女性の像が見えていますよ。 -
↑の写真にあった女性像は、「乙女の祈り」を表しているようです。
もちろん、特攻で犠牲になった兵士の安らかな眠りを祈り、平和を祈念していると思います。
ただ、名付けが「平和への誓い」ではなかったですね。 -
「み霊のとこしえに 安らかならんことを祈る」
ライオンズ俱楽部が建立した碑です。
写真に撮り忘れたのですが、この裏面には「平和の尊さを語り継ぐ町 知覧」と表示されています。
あの戦争以来、「特攻の町」となってしまった知覧を通して、特攻に向かった兵士たちへの祈りが、全国から寄せられていることを感じられますね。 -
灯籠の説明です。
この説明は、道路沿いに立っていた特攻兵士の石灯籠のことだろうと、勝手に考えています。
全国各地からの寄付があったようですね。
あの戦争から41年余が経過していた昭和62年、若くして特攻で犠牲となった方々の霊を慰める会が、少年飛行兵出身者と遺族・教官によって全国各地に組織されていたようです。
例えば、「茨城陸軍少年飛行兵会」「全国少飛十九期生会」といったような、元少年飛行兵だった方々の組織が各地にあったようです。少年飛行兵の会(少飛会)は、戦時に軍隊生活を共有された方々のが戦後に結成された「戦友会」の一部だと思います。
一部の資料に寄れば、700前後の戦友会が結成されていたかと思います(戦後間もなくから戦友会の結成があったされたようです。1960~1970年代頃の結成が数の上では多かったようです)。ところが、1990年以降になって解散される戦友会が急速に増えています。
現在でも戦友会があるかも知れません。また、ご遺族がそれらの会を何らかの形で継続しておられるかも知れませんね。
★陸軍少年飛行兵の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%B0%91%E5%B9%B4%E9%A3%9B%E8%A1%8C%E5%85%B5 -
↑の写真の「知覧町護国神社」と彫られた碑の前を右に曲がりますと、このような一直線の道になります。
この道の突き当たりの左方向に知覧特攻平和会館が見えて来ます。 特攻平和会館の右隣(東側)に「知覧町護国神社(小さいです)」がありますよ。←写真はとったものの、護国神社とは気付かなかったのです。反省(=_=) -
知覧武家屋敷へ向かう途中、特攻兵士の姿を彫った石灯籠が道路沿いに長く続く様子を、車窓から見ました。 こちらの参道にも、たくさん石灯籠が建立されています。全国からの寄付によって、本当にたくさんの石灯籠が建立されたのですね。
道路沿いの石灯籠の兵士像は簡単な姿で彫ってありましたが、こちらの兵士像は少し丁寧に彫ってあります。
この石灯籠は「慰霊灯籠」と言われているようです。この慰霊灯籠は1036基の建立を目指したようですが、多くの方々の寄付が続いて1290基建立されているようです。
◆慰霊灯籠を1036基建立しようと目指した理由は、九州から台湾にかけての22の飛行場から飛びたち、戦死したといわれる兵士の数のようです。そのうちの439名が知覧から飛び立ったとのことです(現在時点での総数は、分かりません)。 -
慰霊灯籠の兵士像を大きく撮ってみました。
飛行帽(航空頭巾?)、航空マフラ一、航空服などで身体を包んだそのお顔は、子供のような優しい表情になっています。実際、彼らの年齢は、多くの場合18歳から25歳という若さのようでした。私達の職場経験でも、まだまだ「一人前」になれる年齢ではなく、おぼっこい感じが残っている年頃でしたね。この時代は、熟練するのに年数がかかりますから、そういう感じは否めません。 -
上記の道路を真っ直ぐ進んで 突きあたりを左に曲がると、右側に公園風のところがありました。
その中の一番手前の垣根に近いところに、この戦闘機が展示されていました。
この戦闘機は一式戦闘機「隼」と言われるもので、当時の陸軍の戦闘機としては最も多く生産された戦闘機です(生産機数・5751機)。
性能はまぁまぁで、最高速度は時速500kmほどで、中途加速の性能と運動性能が良かったようです。しかし、同時期のアメリカの戦闘機の性能に及ばなかったようです(性能比較には、一長一短はありますが)。
この太平洋戦争時の日本の陸・海軍の代表的な戦闘機6機種の生産機数は、およそ2万7500機余。一方アメリカの代表的な戦闘機6機種の生産機数は9万2600機余となっています。アメリカの戦闘機の大部分は日本の戦闘機の性能を上回っていたようです。 -
実は、ここに来て真っ先に向かったのは特攻平和会館でした。会館内部の展示を見学し、たまたま講演も聴くことが出来きました。しかし、残念なことに、特攻平和会館の屋内展示物は撮影禁止でした。館内で売っていた小冊子の写真も公開出来ないとのことでした。
そのため、内部の様子をここでご覧頂くことが出来ません。
ここからは、特攻平和会館内部を見た私の印象も含めて、屋外展示で撮影したものをご紹介しますね。
---------
「隼」の近くにあった説明板です。
↑の写真の戦闘機は、石原慎太郎が製作した映画「俺は、君のためにこそ死にに行く」の撮影にも使われたということです。
この映画の「俺は、君のためにこそ死にに行く」というタイトルには、ちょっと違和感をもちますね。 映画を見ていないのであんまり強く言えないのですが、この映画に於いての「君」とは、天皇のことのようです。石原慎太郎はこんな風に言ってしまうなんて!!ちょっと変だと思いませんか?
本心から「天皇のため」と思っていた人は、どれほどいたでしょうか?? 特攻兵が最後に叫んだのは、母や父、妻と子のことだと言われています。特攻があった時代から62年も過ぎたにも関わらず、石原慎太郎は「死」に向かって飛び立たざるを得なかった若者たちの気持ちを、察しようとしなかったのでしょうか!!!(>_<)(*_*) (-_-;)
確かに、あの時代にあっては、特攻平和会館で展示してあった遺書に見られるように、特攻に赴く若者たちも周囲の雰囲気を忖度して、遺書にさえ「家族のため、国のため 陛下のため」と書かざるを得なかったと思うのです。「書かざるを得なかった」とは、そうしなければ周囲や上官から罵倒され暴力を振るわれるからです。また、そういう「空気」が国中に充満していたと思います。
このような雰囲気は、現在でも姿を変えて厚く広く社会の隅々で感じられますからね。 -
このあたりで、地図をご覧に入れたいと思います。
鹿児島県は、海あり山あり温泉あり、それに加えてたくさんの島々がありますね。魚もお茶もお酒も美味しい上に、南西諸島文化も楽しめる観光地の多いところです。それですから、普通に観光旅行をを考えると知覧を見落としてしまいがちです。
この地図では、鹿児島からの知覧の位置をご覧頂けるかと思います。
知覧へは鹿児島からの直通バスも出ています。ところが、私はトイレが近いため、喜入までJRの列車で行き、そこからバスを利用しました。 -
バス停も含めた地図にしてみました。
↑の写真の特攻機「隼」は、この地図上では右側の下になります。
特攻隊員の休息・宿舎に使用された「三角兵舎」は、この地図では木の枝葉の陰になって見えません。その位置を小さい黄色の点で示しましたが、およそこのあたりの位置になります。
まだまだありますが、表示が混んでしまいますので、主なものだけ表示しました。
私達は、バスの時間のこともあって、特攻平和会館内部と屋外展示のみを見学しました。機会があれば、もう少し丁寧に見たいと思っています。
★この場所は、Google mapなどの地図ソフト上で、「南九州市知覧町郡17881」をコピーされて検索されますと、表示されます。 -
特攻兵の像です。台座には「とこしえに」と刻まれています。
突撃隊とか、決死隊ではなく、「特攻」という、”死”を前提とした攻撃に向かわねばならなかった若者の心の内は、どれほど苦しんだことか!!私には想像もつきません。
そうした若者たちの苦しみは、多くの著作の中で明らかにされています。 -
「特攻機は、遂に帰って来ませんでした。」
帰ってくるのを待ち望んでいたかのような書き方ですが、特攻機というのは帰って来てはイケナイのです!!だから、「特攻」なんです!! 天候不良やエンジン不調で帰ってきたこともありましたが、「帰ってきた」ことへの自責の念にさいなまれたようです。さらには、こうした理由があって帰ってきたにも拘わらず、「なぜ帰ってきた!!死んでこい!!」と上官から責められることもあったようです。
5月頃になると、天候や機体不具合で発進出来なかったり引き返したりした特攻兵を、「大誠館」や「振武寮」などに閉じ込めて、上官が暴力を振るうこともあったのです(振武寮はよく知られています)。
特攻隊のそんな事情を知ってか知らないでか、「特攻機は、遂に帰って来ませんでした。」と言ってしまうのは、何と言うことでしょうか。何よりも、特攻隊のことをよく調べないままに書いたとしか言えない言葉ですね。
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「国を思い、父母を思い、永遠の平和を願いながら、勇士は征ったにちがいありません」
このようなことを書いてしまう無神経さにも、呆れてしまいます。
上でもお話したことですが、多くの出版物やネット上の記事で、出撃命令が下された後の特攻兵たちの心の葛藤が語られています。
「特攻兵たちは強制されて特攻に参加したのではなく、上官から『特攻に行く者は一歩前に出よ』と言われて前に出た人たちで、だから自発的に特攻兵になった」
というネット上の話や本が散見されます。しかし、「一歩前に出た」若者たちも、あの時代、現場の雰囲気から、そうするしかなかったのです(ごくまれに、出なかった人もいたようです)。
あの時代は、子供の時から聞かされ教育されてきた大日本帝国憲法や教育勅語、軍人勅諭、戦陣訓等が心に浸透し、他方で治安維持法があり、出版法、新聞紙法、宗教法人法、大政翼賛会などの影響もあり、地域では国民義勇隊、国防婦人会、町内会、隣組等々があった時代です。国民の全てがそのように教育され、規制され、組織されて、意識的無意識的に天皇への忠誠と戦争体制に組み込まれ、人々は知らず知らず隣人を「相互に監視」しあっていたのです。
そんな中、万が一にも「あそこの息子は特攻を断った」と知れたら、忽ち世間の噂となり両親だけでなく家族・親族までが、世間から白い目で見られて「非国民」と言われかねない時代だったと思います。
そういう時代・社会を忖度すれば、特攻に応じざるを得なかったと思うのです。
社会や周囲を忖度して、人々も知らぬ間に「相互に監視」しあって、言いたいことが言えない状況は、今でもバッチリ存在していますね。地域で言えば白い目で見られ、職場で言えば人事考課に響きます。行政の中身が分かりづらく、社会は問題を引きづり続けています。 長時間・過密労働による命と健康、家庭破壊の問題が解決されないのは、まさにその結果であると言えますね!!
★振武寮の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8C%AF%E6%AD%A6%E5%AF%AE
★教育ニ関スル勅語の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%99%E8%82%B2%E3%83%8B%E9%96%A2%E3%82%B9%E3%83%AB%E5%8B%85%E8%AA%9E
★軍人勅諭の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E4%BA%BA%E5%8B%85%E8%AB%AD -
この飛行機を見て、
「あの時代に特攻機にしては、綺麗に復元されたものだ」
と思いました。
説明を見ましたら、航空自衛隊で使用されていた「T-3」型初等練習機でした。平成17年に用途廃止されたので、知覧町が借り受けているようです。
スペックは、全幅10m、全長8.04m、全高3.02m、 自重1.136kg、最大速度360km/h、上昇限度8,200、航続距離1,000kmとのことです。
重さを見ますと普通の乗用車並みで、トヨタ・カローラのハイブリッド車とほぼ同じですね。飛行機って、意外と軽いんですね。
で、なんでこんなところにあるの?って思いますけど、分かりません。先ほど見た特攻機「隼」と見比べるためかも知れませんね。 -
先ほどの「特攻兵士の像」に向かって右手方向に、特攻の「母の像」の像があります。
あの特攻「兵士の像」を見つめるような表情をしています。
20年前後も育て上げて、ようやく一人前の男になろうとしている我が子を、軍隊それも特攻に取られた母親の思いは、何にも例えられないほど辛かったことと思います。
さりとて、その辛さ・悲しさをどこにぶつけることも出来ず、一人胸の奥で泣いておられたかも知れません。新婚夫婦であれば夫を取られることもあるわけで、母の苦しみは、妻の苦しみでもあるのです。
戦争となれば、40歳頃までの成人男子全て兵役に狩り出されます(医師・教師・重要な技術者等々・・は対象外のようです)。それは、家族にとっては働き手である息子や夫を取られることと同じです。息子や夫を取られて、残された家族を妻・母親が女手一つで子供や老人の命を守らざるを得ないところに追い込まれたものです!!
私の父も昭和19年頃、私達4人の子供と病弱の妻(私の母)を置いて、徴兵検査に行きました。その時父も身体の具合が悪かったので、不合格となって帰ってきました。もし、合格となっていたら、病弱の母と私達4人の子供はどうなっていたことかと思いますと、本当に恐ろしく思います。 -
こちらが「母の像」の説明です。見えにくいので、書きだしておきます。
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安らかに
特攻隊の若い命は再び帰らず。
出撃の瞬間まで求めたであろう母の姿。
この晴れ姿をせめて母上に一目
最後の別れと、お礼を一言。
胸も張り裂けそうな、その心情は、
母もまた同じであったろう
今ここに立つ母の姿
とこしえに母と共に安らかに
母の暖かいみ胸で
御霊の安らかならんことを
世界・平和を祈念して。
昭和六一年三月三十日
熊本県芦北町 前田 将
------------------
特攻が終わって40年が経過してから、つくられた言葉ですね。
もちろん、当の本人が書いたものではありませんが、何か空々しい印象を感じざるをえません。
特攻に向かった息子も送り出した母も、(上でもお話しましたように)戦争一色に染まったあの時代の世間の流れに逆らえず、辛く悲しい思いを胸の奥に隠して従わざるを得なかったのではないでしょうか!!。
昭和19年(1944年)秋のレイテ沖海戦で、日本海軍は空母4隻と多数の艦載機・多くの艦船を失い、戦争遂行能力を大きく削がれてしまったのです(これ以後、空母が参加した海戦は無し)。
特攻作戦は、このレイテ沖海戦時に「戦局打開のためには敵艦船に対する体当り攻撃以外になし」として、例外的に臨時編成されて始まったと言われています。
その頃から、軍も政府も敗戦を予想・覚悟するようになり、戦争を終息させる動きを取り始めていたのです。しかし、その動きも陸軍・海軍・政府・天皇の間で纏まらず、時ばかりが過ぎてしまっていたようです。
レイテ沖海戦の1ヶ月後ほど過ぎた11月下旬から東京空襲が本格化し、軍需工場の多い名古屋も12月から空襲が本格化してきました。昭和20年(1945年)3月からは各地で「大空襲」が相次ぎ、人々の暮らしと工場群が破壊され、戦争遂行能力はかなり低下しました。出撃可能な空母もなく熟練飛行兵も少なく、軍部の作戦で最後に残った攻撃方法は、飛行兵の死を前提とした敵艦へ体当たりする特攻しかないと考えるようになったのです。残酷な特攻が通常作戦となったのは、恐らく世界の戦史上かってないことだと思います。
特攻というのは、レイテ沖海戦時に新たな作戦として実施した当の司令官でさえ、「統率の外道」と言っていた戦法です。各地で退却と玉砕が続き、日本本土でさえも制空権・制海権を失ってなお特攻を推し進め、「一億総玉砕」まで叫ぶとは、「統率の外道」どころか「戦争指導の外道」「政治の外道」と言えると思います。その時こそ、戦争を終わらせることに全力を注いで国民の命を守ることこそが、政府と軍部の最も重要にして緊急の課題だったのではないでしょうか。
このような重要な課題よりも軍部の面子と「国体護持」を優先し、最初は例外的・「統率の外道」と言いながら始まった残酷非道な特攻作戦を、11ヶ月(昭和19年〈1944年〉10月21日~昭和20年〈1945年〉8月15日)に亘って強制したところにこそ、明治以来の日本近代化の歪んだ本質が象徴されていると思うのです。
★レイテ沖海戦の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%86%E6%B2%96%E6%B5%B7%E6%88%A6#.E6.A9.9F.E5.8B.95.E9.83.A8.E9.9A.8A.E6.9C.AC.E9.9A.8A.E3.81.AE.E6.94.BB.E6.92.83
★神風特別攻撃隊の詳しいことは↓
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E9%A2%A8%E7%89%B9%E5%88%A5%E6%94%BB%E6%92%83%E9%9A%8A
★日本本土空襲の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9C%AC%E5%9C%9F%E7%A9%BA%E8%A5%B2#.E6.9D.B1.E4.BA.AC -
こちらには、若者たちが特攻に行った時代の、「大日本国防婦人会」の「白たすき」と「少年少女義勇団」の腕章と旗があります。左下には「大日本婦人会」の腕章が見えています。
「大日本婦人会」は、それまでに活動していた「大日本婦人連合会」「大日本国防婦人会」「愛国婦人会」が、昭和16年(1941年)6月10日の閣議によって統合されることになり、大日本国防婦人会(日婦)が結成された経緯があったのです。このような「婦人会」が、例え戦争に協力する姿勢を持っていようとも、「閣議」で統合を決めるとは!!(>_<) あまりにも異常な時代でしたね。
若い女性たちは「愛国子女団(愛国女子団とも)」に組織され、銃後のバックアップにあたっていたようです。
上にも述べましたが、特攻に向かう若者の母親自身も、このような国防婦人会の活動をしていたかも知れません。そうでなくても、地域には隣組、少年少女義勇団、青年会、銃後後援会、勤労報国隊等々・・何らかの組織が活動していたのですから、愛情を注いで育てた我が子が特攻攻撃に向かわされると分かっても、息子が軍の将校(または下士官)になっていた手前もあって、泣き言の一つも言えなかったともいます。
万一、泣き言を言おうものなら、それこそ「非国民」と言われかねない時代だったのです。
★国防婦人会の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%98%B2%E5%A9%A6%E4%BA%BA%E4%BC%9A 」
★愛国婦人会の詳しいことは↓にて(愛国子女団の記事もあります)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B%E5%9B%BD%E5%A9%A6%E4%BA%BA%E4%BC%9A
★「国防婦人会 画像」にても検索されて下さい。当時の様子が見られます。
★長崎原爆資料館の見学記は下にて
https://4travel.jp/travelogue/11254576
【※】写真は「ピース愛知」のご了承のもとに掲載しております。 -
こちらは↑でもお話しました、「隣組」です。
隣組は昭和15年(1940年)9月に、大政翼賛会の末端組織である町内会の内部に形成され、戦争総動員体制を具体化したものの一つでした。
大政翼賛会は、15年(1940年)9月に近衛文麿首相を中心につくられた軍と政府を支援する全国民的組織です。総裁は内閣総理大臣とし、各府県に支部か置かれ(支部長は知事)、全国民を組織・統制して戦争協力させた組織と言われています。その地域における末端の組織が、この隣組というのです。
隣組のことは、現在でも活発に?活動して(させられて)います。
私達の地域では、自治会は「自治区」にあたり、隣組はその末端組織で20~30軒程度でまとめられ、1組から30組とか40組ほどあります。日中戦争が泥沼にはまっている中、太平洋戦争突入寸前に組織された軍と政府への翼賛体制が、いまもシッカリのこって活動しているというのですから、驚きですね!!
都合が良いと言えば都合の良い面もあるのですが、地域の観音様とかお宮の維持・管理、お祭り時の役割分担、赤十字会費・募金、寄付金、市の公報配布等々、区費(自治会費)を払わないとゴミ出し出来ない等々のことがあります。一番イヤなのが、市町村会議員選挙時に保守系議員の選挙運動の基盤組織となり、選挙運動に狩り出されること(その時に隣組の組長ですと、選挙事務所の役員や代表者にさせられたり・・)ですね。
このように、行政には何一つ言えないにも拘わらず、やらされることは多いのです。保守系議員の選挙地盤になっていることも、「大政翼賛会」の時代を払拭し切れていないという点で重大な問題があると思います。
現代でもこれですから、「死んでお国に奉仕する」ことが半ば常識のあの時代では、隣組の活動が如何ほどのものか?、想像に難くないですね。
この時代には、これまでに上げた組織以外にも、日本文学報国会、大日本産業報国会、棋道報国会、大日本言論報国会、朝鮮文人報国会、日本野球報国会等々が遠くに近くに活動していたのですから、個人としての最低限の叫びさえ言える時代でなかったですね。
★隣組の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%A3%E7%B5%84
★「隣組 画像」にても検索してみて下さい。当時の様子が見られます。
★日本文学報国会の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%96%87%E5%AD%A6%E5%A0%B1%E5%9B%BD%E4%BC%9A
★大日本言論報国会の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%A8%80%E8%AB%96%E5%A0%B1%E5%9B%BD%E4%BC%9A
【※】写真は「ピース愛知」のご了承のもとに掲載しております。 -
夫や息子が戦争に行った。
男子は満20歳になると徴兵検査を受けさせられます。戦争状況が逼迫してきて兵員が不足してきた昭和18年頃になると、勅令によって徴兵年齢は満19歳に引き下げられ、同年中にさらに2歳引き下げられ17歳からとなり、17歳未満でも志願することが出来るようにしたのです。
一方、学生に対しても最高27歳まで召集免除されていたのに、昭和14年以降「赤紙」で召集されるようになり、昭和18年になると大学生や高等師範学校の学生までも、召集免除が廃止されてしまいました。
特攻にかり出された若者たちの大半は、大学生や高等師範学校の学生が多かったことは、よく知られていますね。
役場の職員がある日突然訪れて、「おめでとう御座います」と言って「赤紙」を手渡すというのも、よく知られた話です。 それにしても、18歳の若者たちまで戦場に送り出さねばならなかったほど兵隊が不足していたことも、戦争能力が限界に達していることを示すものです。
成人男子を戦場に取られて、地域に残るのは主婦と子供と年寄りだけ!! なんてことになった時代でもありましたね、女性たちにとっても、非常に大変な時代でした。
【※】写真は「ピース愛知」のご了承のもとに掲載しております。 -
一枚くらいは記念写真を撮ろうよ!(^^)
知覧特攻平和会館の正面をバックに、当家のカミさん撮りました(^^) -
こちらは特攻平和会館の近くに立っている「平和の母」像です。
兵庫県の方からの寄贈のようで、恐らく平和を祈って寄贈されたことでしょう。像の制作者も兵庫県の方です。1997年(平成9年)8月に設置されたようです。
しかし、「平和」を実現することは、「平和を祈る心」も大事ですが、如何にして平和を守るかということに一歩踏み込んで表現していくことも、大事だと思うのです。
「戦争は『政治の失敗』『外交の失敗』の結果にほかならない」と、よく言われます。
政治とは何か??難しい話です。それを議論し合えば、百人百様の意見・考え方が出てくるでしょう。しかし、1900年頃には尋常小学校の義務教育期間が6~8年となり、国民のすべてが文字が読めて計算も出来、社会の動きも理解できる基礎的な知識を持つ時代になって来ました。義務教育から上の高等教育も少ない比率とは言え、徐々に普及してきていたのです。
私の父も6年の義務教育を終えた学力で、仏教聖典や、アレクサンドル・デュマ・ペールの小説「巌窟王」、ジャン=ジャック・ルソーの「懺悔録」を読んだり、エスペラント語を学んだりしていました。
このように、人々が知識を得て、判断力を高める時代になってきたのです。ですから「力ある者が人々をまとめて国を治める」という政治感覚から、「国民の声を活かす」方向へ変わっていくことが可能な時代になってきたと思います。現に大正デモクラシーと言われる動きも現れてきて、普通選挙獲得運動も高まり、護憲運動もあり、そのほかさまざまな運動が起こるようになって来ました。こういう動きの中で軍部の動向もある程度は抑えられることもあったのです。
とは言え、政治・軍事システムの頂点には現人神としての天皇がいる時代。現役軍人が総理大臣になり政党も持つ時代で、政党政治が持続して民意を反映しやすく変化していく状況ではなかったですから、大正デモクラシーと言われた動向をどう発展させるかは、非常に難しい問題です。
それでも、政治の責任をどう問うかとなれば、この時期の政治の流れから見て、政権を担当した者たちがこういう時代において、言論統制を緩めることなく、昭和になって規制と統制を再び強めて日中戦争にのめり込んで行ったことを見れば、人々の願いを受け止めていなかったと思います。。
軍事力が安全保障の要という考え方もありますが、軍事力を発動することなく平和を長く保っている国々を良く研究してみることも、必要なことと思います。この点では、今の日本を見ても、未だに過去の歴史と高度経済成長時代の意識が心の底辺にあって、かなり良心的な人でさえ心の隅に「大国主義的」な思いがあるようで、一抹の不安を感じてしまうのです。
どちらにしても、資源の少ない島国の日本にあっては、何時の時代にあっても、人々が問題を共有し当事者間・国家間で粘り強く「対話」を進める確かな能力をもつことこそが、問題を打開して戦争のない「平和な日本」を築いていく保証だと思うのです。
とは言え、21世紀を迎えた現在でも、未だに縦割り組織や学歴・役職の上下に拘り、情報とか良識的な提案よりも幹部の指示に拘ること、知識の断片と「確かさ」に拘ってしまう日本では、対話能力の一層の向上を求めることは、思想信条の違いを超えて容易ではないと思います。
★政治の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%BF%E6%B2%BB#社会福祉 -
特攻平和会館の正面に向かって左側には、「ミュージアム知覧」があります。
ここでは、鹿児島地方の文化を紹介しているような感じです。
明治維新の立役者となった人たちを育てた土地柄を知りたいところです。それに、鹿児島は南に続く島々がありますから、琉球文化との繫がりも関心がありますね。
私達は時間のゆとりがなかったので、ここには入りませんでした。 -
これは特攻平和会館内に展示してあった零戦で、建物の外から撮影した写真です。
この戦闘機は「零式戦闘機52丙型(旧海軍)」で、鹿児島県薩摩群下甑村(しもこしきむら)手打港の沖合に戦闘機が不時着した情報をもとに引き揚げたとのことです。35年ぶりに引き揚げられたものですから、この通りボロボロになっていますね。
昭和20年(1945年)5月、沖縄作戦中にエンジントラブルで着水したようで、胴体部分がちぎれていたようです。着水の衝撃が大きかったのですね。
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この零戦の近くに下のような詩が額に入って展示してありました。
読み取りにくいため一部間違っているかも知れませんが、ご紹介しますね。
1.還らぬ戦友を想う
◆戦争が 終わってすでに 幾星霜
今も忘れじ 戦友の面影
【※】幾星霜=(苦労や努力を重ねた)長い年月
◆若き日を 海で過ごせし戦友の
想いは沈みし 軍艦の戦友(とも
2.◆国のため 志したる戦友の 今は九段のお社の中
3.◆特攻で 散りしゆえに さだかなる 忌はめぐれども 遺骨〈ほね)は 還らず
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詩の世界のことを知らない私から見ますと、涙の一つも感じられず、まるで美しくも可憐な野草の花を詠んでいるような気がしてきます。先には「慟哭」という想いが表現されていましたが、ここではそれもありません。
そもそも、この詩を書いた人自身はあの時代をどう生きたのか??或いは特攻をやめさせようとしたのか? それとも、あの時代の波に流されて特攻を賞賛し、結果として若者たちを「死の特攻」へ追い立ててしまっていたのか? 戦争が終わって長い年月を経ても、我が身を省みることなくこのような「美しい詩」書いて納得しているのでしょうか?
日本の歌人は、どうもこんな書き方をしてしまうんですね。欧州の詩人ならどのような書き方をしただろうかと、考えてしまいました。
俳句や詩のことは全く知らない私ですけど、恥を承知で勝手な詩をつくってみました。
1.◆ 特攻の 苦しみ知らず 囃し立て 悔やむは吾の 無知の罪
2.◆ 若き日に 敵に向かいし 戦友(とも)たちの
命の重さを今に知り 戦友(とも)の墓前に我れ跪く
3.◆ 国のため 我が心は鬼になり 罪も知らずに友あおり
若き命を 奈落に追う
4.◆ 特攻の 尊い命見捨てども 九段の社じゃ 忠義勇者と崇められ
5.◆ 今もなお 戦地に埋もれる お骨の叫び 忠義の真意 問いかける
(忠義・忠誠とは何だったのか? 遺骨収集面でも、日本は「後進国」なのです(T_T))
★下甑村(現在は、鹿児島県川内市下甑町で、鹿児島市の西方約80kmにある下甑島南部の町です)
★零戦五二型丙の詳しいことは↓にて。左欄から、“3.4零戦五二型丙(A6M5c)”をクリックされて下さい。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%B6%E5%BC%8F%E8%89%A6%E4%B8%8A%E6%88%A6%E9%97%98%E6%A9%9F%E3%81%AE%E6%B4%BE%E7%94%9F%E5%9E%8B#.E9.9B.B6.E6.88.A6.E4.BA.94.E4.BA.8C.E5.9E.8B.E4.B8.99.EF.BC.88A6M5c.EF.BC.89 -
後ろ側から見た零戦です。
操縦席の後ろに続く胴体部分が、切れてしまってありません。
何という悲惨な姿でしょうか。
この戦闘機はエンジンの不調で着水したとのことですが、実は特攻に使用される飛行機には、飛行機としての品質の悪いものが多かったのです。東海地方から九州南部へ特攻機を移動させる場合、途中で調子が悪くなってしまうことが頻繁にあるというのです。例えば10機を移動させる時に、途中で調子が悪くなり近くの飛行場に着陸するなどして、5機しか九州の移動先に行けなかったということもあるのです。関東~関西の基地から九州飛行場へ移動するのに、10機中2~3機が途中で不調になるなんて珍しくないようです。
さらに悪いことに、特攻に向かって飛び立ってから、エンジンの潤滑油が噴き出して操縦席の前のガラスに付着し、前方が見えにくくなってしまうこともあったようです。特攻の本を読みますと、移動中の故障、出撃後のエンジンその他の不良発生の話がよく出てきます。
なぜ故障や不調子が多いのか?
上でも特攻隊用の飛行機のところでご紹介しましたWikipediaの「日本本土空襲」でご覧になったように戦闘機製造関連工場や施設が、昭和19年(1944年)10月からの本土空襲で度々爆撃・破壊されたことと、航空機工場の男子作業員までも徴兵され、代わりに女子挺身隊員や学生学徒動員などの素人作業者が工場に投入されて、戦闘機生産能力や整備能力が落ちたことが指摘されています。
(特攻には、新鋭機や良好な機体のものも使われたということですが、沖縄戦に向けて特攻に行く頃には良好な機体や機種は少なくなり、程度の良い機体は本土守備の航空隊に優先的に配属されたのです。一度の攻撃で機体を失う特攻隊へは、良好で高性能な機体が配備されることがかなり減ってきたようです。)
戦闘機の部分を組み立てる時の、部品の合わせ具合、パッキンの当て具合や合わせ具合、ボルト・ナットの締め加減、リベットの打ち方やカシメ方、さらには、部品を作る時の工作機械の使い方などなど・・、一定の或いは豊富な経験が必要です。飛行中にエンジンが不調になったりオイルが漏れ出したりする問題は、こうした作業の不具合も影響していると思います。ましてや、それ以上の技能が求められる作業をしていたとすれば、さらなる経験と練度が必要ですが、急遽工場に送り込まれた女子挺身隊員や学生学徒動員ほかの人々が、知識・技能をどこまで高められるのか、疑問は多いですね。たとえ数人でも知識・技能の曖昧な人がいたら、機体に欠陥が発生しますからね。
それでも、軍部は「一撃講話(一度でも敵に戦意を失わせてから講和条件の話を持ちかける)」に拘り続け、戦争終結に踏み切れず、特攻を続けたのです。このことに強い疑問と怒りを感じます。
★学徒勤労動員の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%A6%E5%BE%92%E5%8B%A4%E5%8A%B4%E5%8B%95%E5%93%A1
★女子挺身隊の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B3%E5%AD%90%E6%8C%BA%E8%BA%AB%E9%9A%8A
★女子挺身勤労令の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B3%E5%AD%90%E6%8C%BA%E8%BA%AB%E5%8B%A4%E5%8A%B4%E4%BB%A4
★リベットの詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%99%E3%83%83%E3%83%88 -
学徒動員で働く学生たちです。
右上の縦長の写真は、女学校の教室でしょうか?
何を作っているのかは分かりませんが、学校の教室が工場に変わっていますね(-_-;)
左上は、戦闘機「飛燕」整備をしている様子です。
学生帽?のようなものを被っている青年もいます。
右下は、「立川航空機製作所」で、頭に「『神風』日の丸手ぬぐい」でハチマキして、部品を作っている様子です。
左下は、特殊な旋盤?とグラインダー?で、部品の研磨をしている様子かも知れません。
私は定年まで工場現場の末端労働者でした。その経験から言えば、社会に通用するだけのものを作れるようになるには、簡単なものなら数ヶ月、100分の1ミリ以下の精度を必要とするものや、凹凸や歪みがないピカピカ・ツルツルの曲面仕上げが出来る技能を身につけるには、2年から5~6年の時が必要でした。もちろん電気配線や冷却水・潤滑油などの配管作業もしました。
殆どが手作業で手順書もなかったあの時代のこと、戦闘機などの部品製作や組立には、製作時の細部の寸法とか面仕上げ、組立時の部品の合わせ方や締め方などの知識と技能・感覚がモノをいいます。学徒動員したからといって、短期間には知識や技能・感覚は身につきません。
しかし、時は待ってくれない!!取り敢えず出来るようになれば、指導員の指導もなくなり、熟練とはとても言えない知識・腕前で、部品製作や飛行機の組立・補修をやらされたと思います(-_-;)
飛行機が飛び立ったものの、エンジンオイルの漏れとか他の故障が発生して、墜落したり帰還する事態になることが多かったのも、このような「学徒動員」で飛行機が出来るという安易な考えを持った軍幹部たちの責任であると思うのです。
★学徒勤労動員(学徒動員)の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%A6%E5%BE%92%E5%8B%A4%E5%8A%B4%E5%8B%95%E5%93%A1
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名古屋の女学校で「風船爆弾」を作っていたと言う記事です。
今時でいえば「ミサイル」のような思いを込めて設計され、製作されたと思います。
取り付けられた爆弾は、15kg爆弾1発 と 5kg焼夷弾2発だったとのことです。
細菌を詰めた「細菌爆弾(生物兵器)」も開発したが、これは天皇が許可しなかったとのことです。
温度変化による気圧変動への調整装置など、多少の装置を付けたものの、飛ばしてしまったら後は風に任せるだけ。 それでも9300発を飛ばして、一割程度が届いて6人の死者が出たようです。
それでも、当時の工夫としては珍しいもので、これを作るのにちょっと興奮した子もいたようですね。
↑の写真でもそうですが、学校内までが兵器を生産する場になっていたとは!!
本当に驚きですね。
★風船爆弾の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E8%88%B9%E7%88%86%E5%BC%BE
【※】写真は「ピース愛知」のご了承のもとに掲載しております。 -
この角度で見ますと良くわかりますね。
上でも若干触れましたが、特攻に使われた機種と機体は新型機とか優秀な機体や機種ばかりではありませんでした。
中には最高速度が400km/hにも満たないような機種とか、速度の遅い練習機や爆撃機、酷い話では「赤とんぼ」とも言われた「二枚翼」の練習機までもが、特攻に回されたようです。
Wikipediaには、次のような記事があります。
「1945年の沖縄戦の時期には、数をそろえるために、陸軍の百式司令部偵察機、九八式直協機、海軍の零式水偵、零式水観、九四式水偵などの偵察機、陸軍の九九高練、二式高練、海軍の機上作業練習機「白菊」など練習機も、特攻用に爆弾装備可能に改修、実戦に投入された。新型機は、本土決戦用に温存されていたため、本来戦闘には適さないこれらの低性能の機体が特攻機に仕立てられた。練習機はガソリンでなくアルコール燃料で稼動させる事が出来たのも投入理由の一つである。」
これまでも見て来ましたように、特攻と言いますと「国を思い、父母を思い、永遠の平和を願いながら、勇士は征ったにちがいありません」というような言葉が多く聞かれます。
こうした文言に代表されるように、特攻にまつわる歴史的・具体的な問題に触れることなく、心情的・情緒的な言葉をもって特攻兵の置かれた状況と苦しみを軽視し、あまつさえその犠牲を美化してしまうことが多いのです。
しかし、現実は特攻出撃を辞退出来ず、悩み苦しむ中でWikipediaの記事のような機体を与えられ、特攻に飛び立つほかなかったのです。
★特攻兵器の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E6%94%BB%E5%85%B5%E5%99%A8
★「日米 パイロットの育成の違い」にても検索されて下さい。 -
これは愛知県への空襲データです。
名古屋への本格的な空襲は、レイテ沖海戦の敗北から約50日ほど経過した昭和19年12月13日頃から始まったようです。三菱重工ほかの軍需関係の工場が狙われていますね。また、市街地も爆撃されています。このような工場への爆撃はホンの一例で、航空機生産の工場とか軍関係の工場がまず狙われています。
こうした工場の破壊は、航空戦力の急速な低下を招いたことは間違いないですね。特攻はあってはならないことですが、昭和19年末頃からの工場爆撃によって、特攻に回される航空機も不足し、機体整備や性能面で不足する機体・機種が回されるようになってきたものと思いますね。
昭和19年初頭は軍需会社と化し、20年6月には「護国工場」の名称を用いるようになっていた三河のトヨタの工場(刈谷・挙母〈豊田市〉地区)へは、本社工場へのパンプキン爆弾(模擬原爆)の投下が知られていますが、機銃による攻撃のほかにはこのデータに載るほどの空襲はなかったようです。しかし、米軍はすでに愛知県の重要な工場地帯である挙母町と刈谷も爆撃する予定を持っていましたので、降伏決定が一週間~10日も遅れていたら猛爆を受けていたことでしょう。
トヨタ30年史によれば、昭和20年6月から、豊田の6工場【挙母・刈谷・芝浦・航空機工場(刈谷)・航空機愛知工場(中川)・航空機分工場(刈谷)】は護国20~24工場と護国1724工場という名称を用いるようになっていたのです。
★護国工場の詳しいことは、「軍需工場 護国工場」にて検索されてみて下さい。
【※】写真は「ピース愛知」のご了承のもとに掲載しております。 -
特攻平和会館のすぐ隣に再建された、三角兵舎です(復元)。
三角兵舎は特攻隊員の宿舎だったのです。
米軍機に見つからないよう、このように松林の中に隠すように建てられていたのです。
なんか、ちょっとお粗末な感じの宿舎です。
内部を見てみなければ、分かりませんね。 -
三角兵舎の説明です。
ここに集められた特攻隊員は、2~3日後には出撃することになっていた人たちで、そのために他の基地から知覧へ移動して来たのです。
出撃前夜には壮行会があったようですが、その壮行会が「頑張ろう!」というものではなくて、「明日、我が身もろとも敵艦に突っ込んで爆発する」という運明に直面した若者たちの、心の中の格闘と悲愴な叫びに包まれたようです。
お酒をがぶ飲みする人、大声を上げる人、泣き出す人、元気も出せずに声も出ない人・・(/_;)(T_T)。 されど「特攻や止めた!!」と言えないこの悲しみ・苦しさ(>_<)(T_T)
人々は「鬼畜米英」「天皇陛下の御為」「国体護持」「軍人精神」の掛け声がこだまする世間にあって、こうした若者たちの苦しみを知る機会も余裕もなかったのです。 -
三角兵舎の前に安置してあった「庄覧平和観音」です。
「庄覧」と言うのが、どういう意味なのか?ちょっと分からないですが、この観音様は石川県庄川町の方とかですから、その庄川の「庄」の字と関係あるかも??なんて、勝手な想像をしています。 -
三角兵舎の内部です。
このように「雑魚寝」という感じです。
畳くらいは敷いてくれても良いのにと思いますが、これじゃあ気持ちも落ち着きませんね。
特攻兵には、一般の兵よりも良い食事(魚や肉など取り入れた料理)が与えられ、買春にも便宜を図ったという話があります。
昭和30年代頃までの時代では(いや、売春禁止法成立後の昭和33年以後、40年代でも)、男たちは宴会などをやった後に売春宿(またはソープランド)などへ行くのは珍しくなかったですからね(私達の職場の忘年会でも、そういうことが時々ありました。8割くらいの同僚が行ったものです)。
ちょっと豪華な食事や買春などは、死に向かう特攻兵たちの心の緊張を解す狙いもあるようですが、買春などは心までをも崩しかねません。太平洋戦争中、軍が「慰安所」を東南アジア各地に展開したように、特攻に赴く若者たちにも同様な対応をしたように思います。さらにいえば、敗戦後駐留米軍向けにも、東京・熱海・箱根・名古屋・大阪などに「慰安所」を設置しました。
日本軍は天皇への忠誠・忠義を求めながら、兵士や人々への人権とかマナーに関する規律・態度はとは、そんな程度のものだったのかと思いますと、非常に残念なことです。
★三角兵舎の詳しいことは、「三角兵舎」にて検索されてみて下さい。 -
飛行機のタイヤ??と飯盒(はんごう)、スーツケース?などが、置いてありますね。
このタイヤは飛行機のもの?と思うほど小さいですね。
自衛隊の初等練習機が、自重1,136kgだったことを考えますと、燃料ほかを考えてもこの程度のタイヤで良かったんだなと、勝手に考えます。
飯盒は、彼らも持ち歩いたのでしょうか。ここは陸軍なので、基地内に食堂がなければ飯盒で自炊をしたのかも知れませんね。
中国大陸や東南アジアなどを移動した日本軍は、飯盒をリュックのような袋に入れて、それを背負って行軍したものかと想像をします。
飯盒は私もキャンプの時に使ったことがありますが、命を賭けた戦いと飢えの中で飯盒で食事を作っていた厳しさを想いますと、何とも言えない心苦しさを感じます。
この時代では、「行李(こうり)」といわれた衣裳ケースもよく使われたものですが、ここでもたまには行李で来た人いたことでしょう。私達は行李の方が時代を感じますね。 -
部屋の隅に置かれた戦闘機の部品のようです。
特攻平和会館内に展示してあった零戦を海底から引き揚げる際に見つかった、後方部分の部品かな?と思います。
三角形の大きな残骸は、垂直尾翼です。着水時の衝撃で機体が壊れたんですね。頑丈なはずの機体がこれほどに壊れたほどの衝撃があったなら、本当に無残なことです。機体の方も35年も海底に沈んでいるうちに、これほど腐食してきてしまったんですね。
操縦していた特攻兵は助かったのでしょうか。非常に案じられます。戦争の残酷さをヒシと感じますね。
特攻は志願制だったのか? 「特攻は強制ではなく、志願制だった」
こういうことは既にお話ししました。
しかし、上官の命令は天皇の命令と言われ、特攻が英雄視されていた時代に、上官から「前へ出よ」と言われて「出ない」という行動を取ることは、それ自体が命を投げ出す以上の勇気と決意がなけれが出来ないことだと思います。 なぜ、「命を投げ出す以上の勇気と決意」なのかと言いますと、上官の意志に従わなかったことが、万に一つも地元に伝われば親や兄弟・親族までもが、「非国民」呼ばわりされかねないからです。それこそ、我が身を切るよりも辛いことです!!
特攻に出撃してエンジン不調で帰ってきた特攻隊員は、戦争が終わって「戦後」の時代になっても周囲から「特攻崩れ」と冷笑されたという話は、生き残った(ご本人は“生き残ってしまった”と言っています)特攻隊員の証言によく出てきますね。それほど『世間』というものは、ある意味・ある問題では恐ろしいものなのです。「前へ出よ」と指示されて出なかったら、特攻が英雄のように思われていた時代に、世間から何と言われるでしょうか??
このことは、あの時代ならずとも、現在でも地域や集団・企業・役所等の方針・指示に対して、疑義を唱えたり、断ったり、反対の意思表示を出来る人が殆どいないことを見れば分かることです。例えば、自治区の方針や行動に問題を感じた時、どれほどの人が疑義や反対の意思を示しうるでしょうか。
それは農協や漁協、企業・労働組合に対しても同じです。雇われ先でそのような意思表示をしたならば、ほぼ間違いなく人事査定(ヨーロッパと違って非通知・非公開)に影響し、昇給、賞与、昇格に響くことは、皆さんもご存知のことでしょう。
個人よりも集団が重視されるという点では、あの時代も現在も変わっていないとさえ言えるのです。
★特攻の志願・強制については、「特攻の志願・強制」にて検索されて下さい。 -
隊員が出掛けている時は、このように布団を隅に寄せていたのですね。
松林の下の一日中陽の当たらないところにあった三角兵舎のことです。敵機に見つからないように気配りしている状況では、「布団干し」もままならなかったかも知れませんね。とすると・・、ノミやシラミがいたかも知れません(>_<)
さて、特攻隊に編入され、出撃を指示された人たちは、戦闘機などの操縦によく慣れていた人たちでしょうか。特攻は、機体そのものもそうですが、軍隊上層部や上官から見れば、特攻兵という「人間」までもが「使い捨て」のように指示され命令されたと言っていいでしょう。あの沖縄戦でも「本土防衛」の為の「時間稼ぎ」とか「捨て石」だったとか言われているのです。
特攻兵はなぜそのように扱われたのでしょうか。
上でもお話しましたが、一度出撃すれば機体もろとも帰ってこない兵士である、ということが大きな理由でもありますね。
通常の戦闘機・攻撃機操縦士なら、攻撃・爆撃・空中戦闘の出来る操縦技術を300~500時間またはそれ以上の訓練を通して習得します。個人差もありますが空中戦などを戦える技量を持った操縦士となると2000時間前後という話がありますね。熟練者と見られるには、1000時間ほどの訓練が必要なようです。それもベテラン飛行兵をどんどん失っていく中で、飛行兵を「速成」するようになり、600時間、500時間、250時間、挙げ句には100時間へと訓練時間が短縮されていったのです。
ですが、特攻機操縦士は普通の操縦士としての技量は必要なく、基本的には飛行機を飛ばして敵艦に突っ込める技能が求められるだけです。そのため、特攻兵の操縦訓練時間は70時間とか30時間ほどと言われていますが、それでも飛べたら「良し!!」とも言われ、まさに初級技能程度の操縦士を「速成」してきたと言われています。
特攻機は500キロもある重い爆弾を搭載するため、機体は重くなり速度も遅くなる一方で、機銃などの武装まで外されることが多いのです。爆弾を抱えて丸腰で飛んでいくんですね。護衛機で護衛されるとは言うものの、敵機と遭遇することもあるわけで、そんな丸腰では抵抗することも出来ないというのです。
その上、特攻機自体もまともな機体が与えられることは少なく、酷い時には「赤とんぼ」と言われる二枚翼の練習機までもが与えられこともあるのです。敵戦闘機に狙われたらお終いです(T_T)
特攻兵自身は、出撃したら「死」があるのみという悲愴な覚悟があるだけに、
「もっと良い機体をくれ!!」「武装を外さないで!!」
と心の中で叫んでいるのですが、現実は参謀や上官から日々「天皇陛下のため、お国のために、命を捨てよ」と、一方的な説教を叩き込まれて、兵士も機体も「使い捨て」同然に扱われたのです。
このような状況になったのも多々事情があるわけで、そのあたりについても、私達は知る必要があるのではないかと思いますね。
★三角兵舎の様子は「三角兵舎 画像」にて検索されてみて下さい。
★沖縄戦の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E7%B8%84%E6%88%A6 -
どのような人たちが、特攻兵となったのか?
それは、大学・師範学校等、高等教育機関で学んでいた若者たちが多かったようです。いわゆる「学徒出陣」ですが、それを可能にしたのは「在学徴集延期臨時特例公布(昭和18年10月1日、勅令第755号)」だったのです。20歳以上の文科系学生と一部の理系学生を中心に徴兵しました。勅令ですから議会の意志は無視です。さらに、「教育ニ関スル戦時非常措置方策」によって、徴兵年齢が20歳から19歳に引き下げられたのです。これらによって、若い学生が軍の任務に就いたのです。
特攻兵に学生だった若者が多かったのも、学生の徴兵免除を一部解除したことと、大学生だった若者たちは軍の教育と実地訓練の習得が他の一般徴集兵よりも早く、独身者ばかりかったという事情もあって、「特攻兵の短期速成に適していた」という話もありますね。確かに飛行機乗りを短期に育成・確保するには、アタマも良くて身体も若い19~22歳頃の大学生は、最適の存在でしたね。
だからこそ、軍上層部はむしろ意図的に学徒出陣者を特攻に行かせたとも言われてもいるのです。
このことは特攻兵だけには限らないことです。陸海軍の多くの部署で若い有能な兵士、指揮者を求めていたのです。
若い学生を徴兵して、戦場に次々に送り出す!!それと同時に「一億総特攻」「一億玉砕」が叫ばれる!!まさに、日本の将来を一顧だにしない上層部からの掛け声に、国中が全国民が巻き込まれていたのですね。
★学徒出陣の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%A6%E5%BE%92%E5%87%BA%E9%99%A3
「在学徴集延期臨時特例公布」をご覧下さい。 -
特攻はいつ頃から考えられていたのか?
有名なのはレイテ沖海戦時の1944年(昭和19年10月21日に、大西瀧治郎中将が「統率の外道」と言われる「航空機による体当たり攻撃」を決行したことです。
しかし、レイテ沖海戦の時に考え抜いて特攻作戦を思いつき、「統率の外道」と腹を決めてやむなく決行したのではなかったようです。
一番最初は真珠湾攻撃の際に「甲標的(こうひょうてき)」という特殊潜航艇が戦艦オクラホマに致命的なダメージを与えたとされているものです。しかし、これはそれ以後連続的な作戦にはならなかったようです。
特攻自体は欧米でも多少の個別的経験や実績があるのです。しかし、日本のように軍の中枢までが特攻に関わり、組織的且つ長期的に実施した国は他に例がないのです。その背景はなんだったのか?後ほど検討してみたいと思います。
太平洋戦争での特攻は、1943年6月末、侍従武官・城英一郎が「艦船に対する体当たり特攻」という、航空の特攻隊構想を立案しているのです。大西中将自身もその相談を受けているわけで、翌年10月21日の特攻決行の時には、特攻の知識を既に持っていたのです。
1943年(昭和18年)8月6日)に戦備考査部会議において必死必殺の戦を提案、戦闘機による衝突撃の戦法を例に挙げているのです。1944年2月以降、戦局の悪化に歯止めがかからなくなり、同月に特攻兵器となる「人間魚雷」の試作を決めているのです。
1944年4月、軍令部第二部長・黒島の提案した「作戦上急速実現を要望する兵力」の中には、「体当たり戦闘機」、「装甲爆破艇(震洋)」、人間魚雷「回天」などが含まれていたのです。同じ時期にモーターボート型の「装甲爆破艇(後にベニヤ製となった)」の開発が開始されているのです。
このように特攻は交戦地で止むにやまれず切羽詰まって、戦闘機に爆弾を積んで行ったのではなく、海軍軍令部(陸軍の“参謀本部”に相当)や天皇付きの侍従武官等々の上部機関において、作戦の一つとして工夫が重ねられていたのです。
特攻を考えること自体、敗色が濃くなっていることを認めている証拠と言えましょう。然らば、この時点で戦争の収拾を考え、そこに努力を集中すべきだったのです。現場を知らない幕僚たちが、自分たちの面子のために、特攻で戦局を挽回するが如きことを云々するのは、それこそ国民と国家を貶めることだったのではないでしょうか。
彼らの言う「天皇への忠義・忠誠」という点からみれば、最大の「不義・不忠」ではなかったでしょうか。
★特別攻撃隊の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E5%88%A5%E6%94%BB%E6%92%83%E9%9A%8A
★回天の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9E%E5%A4%A9#.E6.90.AD.E4.B9.97.E5.93.A1
★レイテ沖海戦の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%86%E6%B2%96%E6%B5%B7%E6%88%A6
【※】写真は「ピース愛知」のご了承のもとに掲載しております。 -
この桜は「陸軍少年飛行兵第二十期生会」の方々が、植樹されたのでしょうか。
少年飛行兵と聞きますと、中学生くらいの年齢かと思っていましたが、技術生徒は満15歳以上18歳未満で、操縦士になる生徒は17歳以降の年齢だったのです。この少年飛行兵も特攻に狩り出されたようです。
ところが、あちこち調べますと陸軍少年飛行兵学校を経て東京陸軍航空学校へ16歳で入校している例もあるようです。そうでなければ、17歳で特攻出撃していった少年たちの写真は、ありえないのですからね。
陸軍が「陸軍少年飛行兵学校」であれば、海軍は甲種飛行予科練習生(甲飛)をはじめ、乙種、丙種、乙種(特)、特別丙種の飛行予科練習生制度によって航空兵の養成が進められたのです。これらは15歳以上の応募者から選ばれ、教育機関は2~3年のようです。もっと短期のものもあったかも知れません。
レイテ沖海戦以後、海軍の戦力が大きく後退して以来、軍は特攻による攻撃に依存するようになっていきます。陸・海軍の飛行学校卒業者は、その特攻の中核的なメンバーとなって17歳前後で特攻に出撃させられていったのです(>_<)
この時代では国中が戦争!戦争!!の雰囲気に飲み込まれ、小学生の頃から愛国精神やら軍人精神が叩き込まれていましたから、軍人になってお国のためにという気持ちを持つのも不思議ではないですね。
世界を歴史的にみれば、12歳くらいの少年が軍に入隊させられていたことはありますが(それが家族の数合わせの為に8歳からの例もあったとか)、一般的な傾向ではなさそうですね。現在では幾つかのジュネーブ議定書とか条約によって、18歳未満の兵役を禁止していますね。
★少年飛行兵と特攻隊のことは、「少年飛行兵 特攻」または「少年飛行兵」にて検索して下さい。
★少年兵の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%91%E5%B9%B4%E5%85%B5
日本政府は、本土決戦が迫る1945年6月に戦時緊急措置法とともに「義勇兵役法」を制定し、15歳以上の男子、17歳以上の女子に対して義勇兵役の「臣民の義務」を課すこととし、日本全国で男女の少年兵を召集して戦闘に参加させることを可能とした。
★陸軍少年飛行兵の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%B0%91%E5%B9%B4%E9%A3%9B%E8%A1%8C%E5%85%B5
★海軍飛行予科練習生の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E9%A3%9B%E8%A1%8C%E4%BA%88%E7%A7%91%E7%B7%B4%E7%BF%92%E7%94%9F -
これは特攻に出撃する兵士の手紙ではありませんが、戦地に赴く若い兵士が出撃前に友人に送った最後の手紙かと思います。
「相変らず元気だろうと思ふ
だいぶ戦も苛烈となって来た。若い我々にとって
いよいよやりがいがある
『ちよろづの 戦なりとも ことあげせず
とりて来ぬべき 男子(をのこ)とぞ思ふ』
僕が出るとき送ってくれた此の歌、ぴったりと来る。
暖かくなって来た。東西離れて居ても嘗ての様に提携して
大いにやろう」
手紙に出てくる『』内の短歌は万葉集にある高橋虫麻呂の詩のようです。この詩を送ってきた友は出撃していく友人を励まそうと思って、万葉集の中の詩を思いを込めて届けたのですね。
あの時代は知識ある人ほど、このような情緒的な表現を使ったものです。また、「検閲済」の印鑑にみられるように、軍隊施設にいる人に対してはもちろん、一般世間でも本当の気持ちを書けない時代でもあったのです。
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自信はありませんが、ちょっと書きだしてみましょう。
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征衣上途に際し三子に告ぐ
此度の戦争は至高至貴なる八紘一宇の大理想実現に邁進する 皇国と天の選民と自惚れ他民族を禽獣視するユダヤ民族との 真に地球上に理想を実現するか 地球上より抹殺せられるか 二つに一つの開闢以来の大決戦であり 万物の霊長たる人類文化が神域に接近するか 鬼畜に転落するかの 未曾有の大国難であり 有史以来の世界の大危局である。
此の大聖戦に父は畏くも 天皇陛下のお召しにより 小林家最初の応召軍人として 出征する 教育者として 畢生を捧げる決心の自分は 一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ 悠久の大義に生きることを身を以て実践出来る機会を與へれる事を無上の(写真の文は、ここで切れています)
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この手紙の日付は、昭和19年6月10日です。
これが書かれた頃は日本の敗色が濃くなり、軍部内でも知識人でも敗戦を見通す様になって来た時期です。あの「玉砕」も各地で続くようになり、さらに増えていくという時期でもあったのです。
それだけに、この時期では戦争指導や外交、内政のあらゆる面で矛盾が吹き出してきていたと思います。そうであればあるほど、時局打開の可能性を具体的に保証したり提示することもないままに、抽象的な美辞麗句と精神性がさらに強調されるようになっていた時代です。
これを書いた方は、3人の子を持つ父親のようです。すると30歳を超している年齢かも知れません。恐らくは、この文面をこれを書かれたご当人も、この時期の情勢を大まかながら察しておられたかと思います。
あの時勢においてはやむを得ない文体といえども、3人の子を持つ親として、子供たちに広い視野と確かな判断力を持って欲しいと願いながら、誠意を込めて書いたことが良く分かる文面です。内容もキチンと書いているように、教育者らしい資質を感じます。
しかし、教育者らしい内容と確かさのある手紙といえども、この時代において様々な教育や報道を素直に受けとめている限りでは、知識のある人ほど、さらに教育勅語など教えてきた人であればあるほど、このような抽象的・情緒的な文言で使命感を強調する文面になるほかないし、ならざるを得なかったと言えるのではないでしょうか。
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どこかの国の防衛大臣だった人が、「教育勅語も良いことが書いてある」というようなことを、2017年という今の時代に言っていましたね。これがその教育勅語です(1948年〔昭和23年〕6月19日廃止されました)。
冒頭部分を書き出しますと・・
「朕?惟フニ我カ皇祖?皇宗國ヲ肇?ムルコト宏遠?ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精?華ニシテ敎育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス」
となります。
一つの抽象的価値観で、国民を統合していく・・。私は「ウーン」と考えてしまいます。
その次は・・
「爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦?相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博?愛衆ニ及?ホシ學ヲ修メ業ヲ習?ヒ以テ智能ヲ啓?發シ德器?ヲ成就シ進?テ公?益?ヲ廣メ世務ヲ開キ」
「教育勅語にも良いことが書いてある」と言うのは、この部分でしょうか。
「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦?相和シ朋友相信シ・・」
「夫婦仲良く、友達同士信頼しあって・・」なんて言われると、それ自体は何も悪くない。だから、なんとなく疑問を感じても、それを大きな声では言えなくなる。
どんな時代でも、生活困窮の中でおいてさえも、夫婦仲良くしている人々はおられます。どの夫婦も仲良くできればそんなに良いことはありません。友達同士でもそうです。
戦場に向かう兵士に対し、「不撓不屈の精神を持って」とか「必勝の信念を・・」と言われますが、それ自体に反対することは出来ません。
現在の時点でも、一般論的ながら言わせて頂きますと「夫婦仲良く、友達同士信頼して」と言うことは簡単です。もちろん、個人的には「夫婦仲良く、友達同士信頼」している方々はたくさんおられれます。しかし、少し視野を広げると、難しい面も多々あるのが現実です。
国民の多数が「夫婦仲良く、友達同士信頼して」いけるためには、そのための環境作りが不可欠です。先ずは、何よりも国民の一人一人を「個人」として認め、個人と個人との信頼関係が成立できる社会環境が必要です。そのためには、「個人」とは何か?自体を掘り下げて知る必要があります。そして、個人の自由と権利を認め、報道の自由を認め、教育、社会保障ほか、さまざまな社会制度の改革とか創設が求められます。
このことは義務教育が全国民に保証され、高等教育も拡大しつつあったあの時代でも、やろうと思えば実現に向けて一歩ずつでも踏み出すことが出来たのです。ところが、そういうことに一言も触れないで、「我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ」なんて言っていては、到底無理ですね。
続いて・・
「夫婦仲良く、友達同士信頼して」そして、「一旦緩?急?アレハ義勇?公?ニ奉シ以テ天壤無窮?ノ皇運?ヲ扶翼?スヘシ」と続くのです。
言葉によって、人々を誘導する(-_-;) 現場を良く見て問題を掘り起こし、それを解決して行く具体的な方策を講じるこそ求められるのに、精神論によって人々を鼓舞したあの時代。今日、この流れが復活しようとしていることを思いますと、このことが案じられてならないのです。
★教育勅語の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%99%E8%82%B2%E3%83%8B%E9%96%A2%E3%82%B9%E3%83%AB%E5%8B%85%E8%AA%9E
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いわゆる「戦死公報」です。
実際には、このように「死亡告知書」と言う形になっていたようです。
上記の、三人の子供に当てた手紙には、
「此の大聖戦に父は畏くも 天皇陛下のお召しにより 小林家最初の応召軍人として 出征する 教育者として 畢生を捧げる決心の自分は 一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ 悠久の大義に生きることを身を以て実践出来る機会を與へれる事を無上の・・」
と、決意を固めて戦地に赴いたのです。
戦場へ行けば、そこは戦いの場ですから、誰しも敵の銃や砲弾、爆弾を浴びて命を落とす可能性があるわけです。戦地に赴いた兵士の何割かの家族に、このような悲しい通知が来たとしても、兵士の宿命としか言いようがありません。これこそ戦争です!!
しかし、問題がないわけではありません。
↑でもお話しましたが、特に太平洋戦域では最初のうちは敵も準備出来ていなかった為、快進撃しました。それが、対米英開戦後一年も過ぎてくると、日本軍は各地で敗退を重ねるようになります。最初から勝てないと分かっていた戦争を、勝ち進んだ時点で講和に持ち込まずに、ズルズル続けていたからです。
苦戦の原因は多々ありますが、基本的には戦線の伸びに見合うだけの資源、工業生産力、技術力、科学的知識、兵站能力、情報収集能力、課題に即応した組織力、政府・軍部内の対話・検討・協力能力等々・・、明治維新以来「西洋知識」を取り込んで近代化を急いだとは言え、たかだか75年そこそこで、これらの知識・能力・力量を持ち、発揮することは難しすぎましたね。こうして、戦争遂行能力の限界が表面化してきたのです。そのいずれもが、アメリカとは桁違いでしたからね。
このようなワケで、戦場でも多数の戦死者を出し、兵站の不足による餓死・病死者を際限なく出し続けるようになっていったのです。
1945年8月15日に降伏するまでに、戦死者と言われる230万人(データによって違います)の内、6割余が餓死・病死者だったと言われているのですから。戦地での飢えについては、現地軍司令官の中将までが「軍紀も勅諭も戦陣訓も、百万遍の精神訓話も飢の前には全然無価値であった」と言っていたのですから、軍上層部の無責任さは、想像を絶するものと言わねばなりませんね。
この「死亡通告」された兵士は戦いの現場で戦いながら戦死したのか、食糧の欠乏する中で餓死したのか病死したのか、そのどちらなのかが分からないのです。
★例えば、機関銃一覧を↓にてご覧下さい。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%9F%E9%96%A2%E9%8A%83%E4%B8%80%E8%A6%A7
http://www.oc.jful.jp/~oc429s/newpage10.htm 機関銃生産数
★「太平洋戦争 日米戦力比較」「太平洋戦争 日米艦艇建造量」でも検索されてみて下さい。
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三角兵舎を出た後、直ぐ近くに白壁のお堂があるのです。
入り口の上の額には「特攻平和観音堂」と書かれていました。
平和を祈る観音様が安置されているのでしょうか。どういう観音様なのかと思ったとき、この観音堂の横に、このお堂の説明板のあるのを思い出しました。
ちょっと見にいきましょう。 -
こちらが、その表示板です。
最初の段落だけを書き出してみましょう。
「太平洋戦争末期の沖縄戦において一千三六名の特攻勇士が身を以て示された崇高至純の殉国精神を顕彰し、世界の恒久平和を祈念するため、旧知覧飛行場跡地に特攻平和観音堂を昭和三十年九月二十八日に建立し観音像を安置しています」
ということです。
なんか知らないですが、苦しみ悩んで仕方なく特攻に出撃していった若人たちの思いは全く無視されて、「特攻勇士が身を以て示された『崇高至純の殉国精神』を顕彰・・」とあるように、戦後10年が経過してなお教育勅語や軍人勅諭、戦陣訓の時代かと思うような文章には、驚いてしまいました。
特攻もそうですが「玉砕」も含めて、あの戦争での戦死者は230万だったとのことです。またその内の6割までも餓死・病死させたように、日本の軍幹部は敵弾に斃れた兵士の1.5倍もの自軍の兵士を、自らの無策と保身のために死に追いやってきたのです。
その軍幹部が好んで使っていたであろう「崇高至純の殉国精神」という言葉を以て、特攻犠牲者の霊を慰めようとは、何と言う不見識でしょうか!! 天国に行かれた特攻の人々がこの文を知ったなら、必ずや嘆き悲しむことでしょう。
私は、このような文章を書いたことがありませんけれど、私ならこう書きたいという気持ちを表したくて、下手を承知で書いてみます。
「太平洋戦争末期の沖縄戦において一千三六名の若者たちに特攻が強制され、地獄の苦しみの中に追いやられたのです。私達は今、断じてその過ちを繰り返さないことを御霊前に誓い、平和な国づくりに精進することを宣言します。ここに観音像を安置して、皆様が心安らかにお眠り下さいますようお祈り致します」
何方かに、より綺麗な文章になるようご指導頂ければ幸いです。 -
特攻英霊芳名の碑です。
特攻で命を落とされた方々のお名前です。
ザッと数えると、500名に満たないです。ヒョッとして、この裏側とか別の碑にお名前が刻まれているのかも知れません。これだけビッシリと刻み込まれたお名前を見るだけでも、胸が痛みます。
「十死零生」「必死零生」と言われた航空特攻全体で戦死された人数は、海軍で2431人、陸軍で1417人。合わせて3948人と言われています(ほかの説もあります)。
しかし特攻は航空機を使った特攻だけでなく、人間魚雷と言われる「回天」とか「甲標的」「蛟龍」、ベニヤ板製モーターボートによる体当たり、戦艦大和の海上特攻、さらに陸上では戦車使った「対戦車特攻」、歩兵による「対戦車特攻」ほか、多種類の特攻が実施されたのです。
そうした特攻を含めて、特攻全体としての犠牲者数はいろいろな説があります。その総数は、6000人以上とか7000人以上とか言われています。
さらには、特攻とは言われないが、「死」に向かって突進する「バンザイ突撃」もあります。
このような特攻攻撃によって、日本が勝利する見通しも保証も全く無いにも関わらず、特攻は続けられ、多くの犠牲を強いてきたのです。戦艦大和の出撃は、艦長自身が「作戦とは言えない」と拒否したにも関わらず、「特攻の魁となって頂きたい」という説得に折れて沖縄に向かったのです。まさに「特攻の魁」として「死ぬこと」こと(軍上層部にとっては「死なせる」こと)が、戦艦大和出撃だったのです。
日本軍は自軍の将兵に対して、なぜこれほどまでに「死」を求めたのか?? これについては無数の意見があることはモチロンであり、議論をしあっても収まることはないと思います。
戦後になって、戦史を書こうとした作家が元参謀に取材したところ、元参謀自身も纏まった知識を持っていなかったというのです(>_<)(T_T) 当時の士官学校も陸大・海大も、断片的な知識を教え・教わるだけで(今の日本の教育もそうですが)、「権威」という椅子を勝ち取って威張りちらしてきたと言えます。元参謀と言えども取材者も呆れるほど幼稚だったというのです。
それはともかく、『死』を求め、美化する指導と風潮が当時の日本にあったことは否めません。
その一つは「戦陣訓」です。
「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿れ」というのは有名ですね。 他にも、「死生を貫くものは崇高なる献身奉公の精神なり。」 「生死を超越し一意任務の完遂に邁進すべし。」「身心一切の力を尽くし、従容として悠久の大義に生くることを悦びとすべし」などなど。他にもありますが、精神訓話的な「戦陣訓」の全体で感じるものは、「天皇に対する絶対随順の精神」の強調であり、生死利害を超越した忠誠を求めていると言えます。
そのほか、武士道や葉隠など、「武士道と云ふは、死ぬ事と見付けたり」に見られるように、人に生き方の内に「死」を受容させていく江戸時代からの考え方が、明治になってさらに美化されたことも影響しているようです。
葉隠の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%89%E9%9A%A0
武士道の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%A3%AB%E9%81%93
戦陣訓の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E9%99%A3%E8%A8%93
バンザイ突撃の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%B3%E3%82%B6%E3%82%A4%E7%AA%81%E6%92%83 -
お堂の中央奥に安置してある立像は、先ほどの表示板に書いてあった「観音像」でしょうか。
観音様と言えば、「一切衆生の苦を取り除き、楽を与える広大無辺な慈悲」をもって、私達を困苦から救って下さる菩薩様ですね。有り難いこと、この上もないです。私達もお寺さんに行った折には、阿弥陀様や観音様に手を合わせているのです。
しかしここでは、↑でもお話しましたように、特攻兵の方々の「崇高至純の殉国精神を“顕彰”し、世界の恒久平和を祈念するため」に、この観音様が設置されているのです。
出撃前夜には「死」に向かう恐ろしさと苦しさで、多くの特攻隊員が酒をがぶ飲みしたり、のたうち回ったり、大声を上げたり、意気消沈してうずくまったりしていたと言われています。何かを言えば、上官からの暴力・暴言が日常の基地生活の中では、結局諦めて翌日には出撃していったとのです。そんな若者たちの苦しみを無視して、観音像設置の理由を「崇高至純の殉国精神を“顕彰”し、世界の恒久平和を祈念する」為としたのは、あまりに酷いと言わざるをえません。
戦争も終わって、日本は大きく変わりました。それから10年も経過したというにの、特攻隊員の苦しみを察すること、語ることになおも躊躇し、あまつさえ「崇高至純の殉国精神」讃え“顕彰”するとは!!!(-_-;)(>_<) そればかりではありません。戦後71年を過ぎた今でもこのような表示板が掲げられ、多くのと人々に読まれ信じられているのです。
言い過ぎかも知れませんが、特攻を「崇高至純の殉国精神」などと勝手に美化し顕彰することは、特攻的な考えを社会広く残すことに繫がりかねない!!と案じるのです。
実際、長時間・過密労働が蔓延し、過労死や精神異常が絶えないのです。
電通の過労自殺で長時間労働が大問題となった後でさえ、政労使で「年720時間、単月100時間」の残業を認めてしまう現実があるのです。現時点(2017年12月)でも36協定で80時間から90時間の残業を認めている企業がザラにあるのです。労基署に摘発される例は、その殆どが150時間前後を越えてからです。
さらには、従業員の精神教育のために、この特攻平和会館を利用する例が報道されています。特攻の遺族の方々もさすがに声を上げられましたね。企業側はあからさまに言っていませんが、「特攻精神」を教えようとしていると見られるのも当然です。
特攻を顕彰するのではなく、特攻を制度化し延べ11ヶ月も続けてしまったことの歴史的・政治的・社会的問題点を掘り下げて明確にし、その誤りを二度と繰り返さないことをハッキリ打ち出すことこそが求められていると思うのです。それこそが、最大の慰霊になるのではないでしょうか。 -
先ほども「特攻平和観音堂 観音の由来」という説明板がありましたけど、お堂の中にも同じタイトル名の説明板がありました。
でも、読んでみますと内容が違いますね。観音像の大きさは、背丈が54cmとのことです。
こちらの観音様は「夢ちがい観音」といわれる観音様で、初めて聞く観音様です。
さて、ここでも特攻に対する最大限の美化・賞賛の言葉が書かれています。前半の一部を書きだしてみましょう。
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「大東亜戦争中、祖国の守りのために、我が身を弾丸として散り逝きし国民忠誠の精華、陸軍特別攻撃隊の尊き不滅の英霊を大慈大悲の平和観音像に顕現して、其の冥福を祈り、又其の慈光を拝して世界平和の再建と・・」
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ここでも、「十死零生」の特攻を陸海軍の方針として組織的・継続に実施したという、世界の戦史に前例のない無慈悲・無残な特攻作戦と特攻兵の犠牲とを、最大限に美化しています。特攻で戦死した方の霊を慰めるために、あの時代の美辞麗句をもって表現するにしても、それは筋違いというモンです!!
問題なのは、こうした説明をあちこちで繰り返すことによって、あの戦争の実態と責任を覆い隠してしまうことです。あの戦争から、良かった面も悪かった面も見つめ直して、良い面を維持させ、悪い面を改善することが、日本の政治・社会を発展させる上で何より必要なことです。それなのに、あの戦争の実態と責任を覆い隠すことによって、日本の前進の芽まで隠してしまったと言えるのです。
例えば、あの戦争を際限なく続けてしまったことです。
あの戦争の当否は別としても、「なにを目指して、どこで止めるのか」ということが曖昧で、敗戦まで進めてしまったこと。また、朝鮮併合、満州占領、中国進出等々の時点で、立ち止まって検討する機会があったはずなのに、それが出来なかった。←←これと同じことを前後の日本はやって来ました。経済、経済、経済・・と言うばかりで、一度か二度は立ち止まって社会制度を整備すべきなのに、それをせず現在に来てしまいました。
東京オリンピック、大阪万博などの頃にでも一旦立ち止まって。経済発展とは何だったのか?国民の暮らしの為では?と問い直して、教育の無料化、社会福祉、企業や商業の営業時間や労働時間、人事査定のあり方、賃金制度のあり方・・を見直すと良かったのです(海外にはお手本がいっぱいありますからね)。経済は発展したけれど、社会制度は不十分極まりなく、国民の暮らしも経済の先行きも心配になってきました。こうなってからでは、問題解決は極めて難しいです。過労死が大問題になっても、残業時間を100時間まで認めてしまったのは、そういう歴史的な怠慢があったからなんです。あの戦争の進め方と同じですね。
こういう例は、他にもたくさんあります。 -
観音様をちょっと大きく写してみました。
この観音像を寄進されたのは誰か? 知覧特攻平和会館のHPには、「あの当時の航空総軍司令官河辺正三大将、第6航空軍司令官菅原道大中将」となっています。恐らく、この観音堂もその寄進を受けて建造されたと思います。
ところで、この二人はどういう方でしょうか。
河辺正三(かわべ まさかず)大将は、航空特攻に関わった記事はないようです。しかし、あの有名な「インパール作戦」を指揮した牟田口司令官の上官でもあり、牟田口司令官のインパール作戦を認可し、支えたという話があります。 また、特攻が本格的になっていた4月7日には航空総軍司令官に着任しているのですから、特攻を知っていたことになります。さらには、本土決戦を特攻攻撃によって最後まで戦い続けることを主張したようです。
本土決戦となれば、米軍は想像を絶する規模の爆撃を実行するでしょうし、爆撃と市民を巻き込んだ戦闘によって数百万の犠牲が伴うことを考えなかったでしょうか? 天皇への忠義・忠誠の時代にあっては、止まることのない犠牲に突進することこそが「忠義」の証だったのかも知れません。
菅原道大中将については有名な話があり、いろいろな記事や著作に出てきます。それは、「決しておまえたちだけを死なせない。最後の一機で必ず私はおまえたちの後を追う」と言って、多くの特攻兵を出撃させたという話です。
ところが、終戦時となると、「死ぬばかりが責任を果たすことにはならない。それより後始末をする」と言って、用意された特攻機に乗らず、戦後になってから38年も生き抜いたというのです(95歳没)
若者たちには容赦なく「死」を押しつけておきながら、自らはやはり「死」を恐れ、生きることに執着する!!何と言うことでしょうか!!! 特攻を推進した高級将校の中には、台湾に逃げた将官もいます。このような行動をとった者が他にも何名かいたようです。
「『死』を恐れ、生きることに執着する」のは、命ある者の当然の行動です。だからこそ、「死」前提とし、生きて帰ってくることを否定する作戦は、絶対にやってはならないことでなのす!!!
河辺正三と菅原道大の二人は、特攻で命を奪われた若者たちが天国で彷徨っていないかと案じて、「夢ちがい観音像」を寄進したのだと思います。それならば、現役の時にこそ、身体を張って特攻作戦を止めさせる行動をとるべきだったのです!!!
特攻で命を奪われた若者たちは、そういう行動をとる勇気のない者に強制されたかと思いますと、行き場のない苛立ちを感じます!!!
★河辺正三大将の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E8%BE%BA%E6%AD%A3%E4%B8%89
★インパール作戦の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%AB%E4%BD%9C%E6%88%A6
★菅原道大中将の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%85%E5%8E%9F%E9%81%93%E5%A4%A7特攻記事多い
★夢ちがい観音像のことは、「夢違観音」にて検索されてみて下さい。 -
お堂の中には、観音様?が何体も安置されていました。
特攻で命を奪われた兵士の、安らかな眠りをと祈りたいですね。
先ほどから感じていることですが、「祈る」気持ちも大切な事ながら、特攻隊の悲惨な犠牲を「祈る」ことで、あの特攻の何が解決出来るのか?と疑問に思うのです。このことは↑でも少し触れましたが、やはりあの時代を学び合うことが大切だと思います。
↑では、あの時代のことを不問にしてはならないことに触れました。
あの戦争の時代では、個人個人の能力よりも、地位を盾にした傲慢さが世にはびこったのも特徴的です(今でも、そうだと思います)。軍部では陸・海軍大学の上位成績者などが出世して、現場の実態把握が不十分な上に、彼我の兵力・装備の検証とか自軍の兵站(武器弾薬・食糧・医療の供給と保証)の保証が不明確な作戦指示を出していたと言われています。そのため戦場で敵状を初めて知り、自軍の劣勢を痛感する例も良くあったのです。
なぜなのか?
一つには、それまでの装備に劣る中国軍と戦っていた感覚で、対米戦を戦ったこともあると思います。参謀本部や軍令部(海軍の参謀部署)には 情報・作戦・後方・企画・通信ほかの部署があるのですが、それぞれの部署が対等の立場で情報を共有して戦略・戦術を検討し合うのではなく、部署間の優劣意識がそれを阻害し、情報部門や計画部門、とりわけ後方(補給)部門は軽視され、作戦部が威張っていたという話があります。
そのため、作戦部は食糧などの「現地調達」などという、作戦の基本をさえ踏まえない作戦指示を繰り返していたとのことです。情報についても同じことが言えます。敵軍の兵力・装備・展開状況を調べず、味方からの情報をも軽視したために、対米開戦後1年を経ずして負け戦に転じてしまったのです。
戦死者の6割余が餓死・病死だったという現実、特攻作戦も(当初の頃は別として)米軍のレーダー網で早期に察知され随分迎撃されていたという現実、原爆搭載機の接近情報やソ連参戦情報まで無視乃至は軽視されたことなどは、最も分かりやすい事例です。
戦死者の霊の安らかならんことを「祈る」ことは理解しますが、「祈る」ことを繰り返すことで当時のことを不問にすることは、あってはならないと思うのです。
余計なことまで言えば、兵站・情報を欠く作戦は自殺行為だということです。ですから、兵站能力を超えた戦線の拡大も自殺行為と言えます。
欧米の軍隊では兵站・情報も作戦と共に重視し、兵站担当の参謀に有能な人材を当てたとも言われているのです。 もう一言!!2000年前のローマ軍は軍の移動と兵站を重視した軍隊でした。だからこそ「ローマ街道」を建設したと言えるのです。
★参謀本部の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%82%E8%AC%80%E6%9C%AC%E9%83%A8#.E7.B5.84.E7.B9.94
★軍令部の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E4%BB%A4%E9%83%A8
★「日本軍 兵站」「日本軍 ロジスティクス」にても検索されてみて下さい。
★「日本軍 情報」「日本軍 インテリジェンス」にても検索されてみて下さい。
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観音様の近くにあった額です。
ここでも一定程度に特攻を美化していると言える内容になっています。
なぜ特攻が可能となったのか? 改めて問わなければならないようですね。
上でも触れましたけど、Wikipediaの記事でもご覧いただきましたように、特攻は欧米でも一部ながらあったことです。しかし、日本のように
「大本営陸軍部の関係幕僚による会議で「もはや航空特攻以外に戦局打開の道なし、航空本部は速やかに特攻隊を編成して特攻に踏み切るべし」との結論により、参謀本部から航空本部に航空特攻に関する大本営指示が発せられる(Wikipediaより)」
と言うような作戦の中核の一つとして、組織的・連続的に特攻を実施した国はないのです。このような組織的・連続的に実施する特攻が、欧米で通用するでしょうか?恐らく多くの兵たちによって拒否されるでしょう。
なぜ日本で特攻が実施出来たのでしょうか?
結論から言えば、あの時代では特攻をはじめとする様々な状況が生じる情勢とか、特攻そのものの評価を自分自身の問題として判断出来る、社会的な意味での「個人」が社会に形成されていなかったことによると思います。
別の表現をしますと、自分に与えられた環境や組織・課題・情報に左右されることなく、自分自身の良心に基づいて、自由に学び・行動し・発言し、人々と連携出来る「個人」が少なかったということです。このような個人がより多く社会の層を形成しておれば、「十死零生」と言うような特攻作戦は認められなかったと思うのです。
私も詳しく知っている訳でないですが、この時代においては、国民学校においては教育勅語を含む皇国民教育が実施されました。また、日々奉安殿(天皇の写真がある場所)に最敬礼させられたり、校長の軍事訓話があったり、「日本は神の国です。あなたたちは天皇の赤子です」などと教えられ、年齢を増すほどに教育訓練も厳しくなり、様々な法制や地域組織に組み込まれます。
メディアも翼賛報道一色になり、完全に心の救いであるはずの宗教も(キリスト教までが)戦争への協力を押しつけられ、京都学派のような哲学までもが皇国に命を捧げ「自らの意志によって死における生を遂行する」なんてことまで言い出す始末でした。、人々は救いを求めるところさえ失っていたのです。
生まれた時からこのような環境の中で育った人々には、教育勅語の冒頭にあるように天皇の臣民として「克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ」生きることを求められ、「個人」が成立する隙さえ与えられなかったと言って良いでしょう。
こうして、天皇への忠誠を求められながら戦争推進の流れに押し流され、参謀や軍司令官の人命を軽んじた無謀・無茶な犯罪的な作戦にも気付かず、「死んで忠義を尽くす」ほかないとの思いで、特攻を受容した面があったかも?と思うのです。
これも、すべて軍国教育と徹底した報道、宗教、思想などの管理と弾圧の結果ですね。
如何なる時代にあっても、一人一人の「個人」が知性と自覚を高め、時流に流されず人や組織に依存せず、自主的主体的に社会に参加していくことの大切さを感じますね。
個人の形成についてさらに言えば、先ほど「明治維新以来・・たかだか75年・・これらの知識・能力・力量を持ち、発揮することは難しすぎました」とお話しました。そうなったのは何故か?と言うことが大事だと思うのです。
西洋文化の根幹には「個人」の形成・発展があるのですが(もちろん、直線的・一律的ではありません)、そこを明治の指導者たちは見抜けず、天皇の政治利用によって国民を統合しようとしました。国民は天皇への「忠義・忠誠」を求められ、「個人」は事実上否定されました。
「個人」が否定された社会では、国や組織、企業などの方針に従う人や意見が重宝され、そうでない人の意見は反映されにくくなります。そう、社会の多様性は薄っぺらなものとなって、発展の速度は鈍くなります。これも、あの戦争のもう一つの要因であり、限界でもあったと思うのです。困ったモンですね~(-_-;) -
こちらは「雲中供養菩薩像」さんです。
2年前に奈良に行った帰り道、鳳凰堂に立ち寄った際に見たことがあります。
雲に乗って、そこから特攻兵の霊を慰めておられるのでしょうか。
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↑において、特攻がなぜ可能だったかについて、国民において「個人」の形成が遅れ、非道な作戦をも受け入れてしまう素地が国民の側にもあったことを、私なりに書いてみました。しかし、個人の形成がそう簡単にできるのかという問題もあると思うのです。
詳しいことは忘れましたが、独身時代に読んだ本でイギリスの哲学者は、「一般庶民の意識は急速には変わらない。幾世代もの時間の経過の中で徐々に変わっていく」という、漸進主義的なことを言っていました。そうですよね。一揆や争議・革命などによって、社会の制度や住民の意識が一部で変わったとしても、生活習慣や伝統、社会・政治意識はそんなに急に変わることはありません。それを急速に変えようとすると、専制政治に変わり易くなります。
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日本では明治になって江戸時代の封建社会から、より自由な社会に変わるのではなく、列強の力から日本を守ろうとして富国強兵の必要を強調した。そのためには、徳川政権下で各藩毎にバラツキのあった政治と民意を一つにまとめる必要があるのですが、もともと徳川時代の下級武士だった指導者たちの権威の不足を、天皇の権威を強調することで補ったといわれています。
西欧の近代的な政治社会制度と諸技術に学びながら、他方で武家支配時代より古い天皇を引き出し、人々に天皇への忠誠を求めたことで、一時期を除いて人々の自由と権利はむしろ圧迫されました。
一方、世界はまだ帝国主義が続いていた時代でした。ドイツの教官から、「ロシアの東洋進出から日本を守るには、朝鮮半島の安定が欠かせない」と教わった明治政府は、強引に朝鮮半島に進出し、さらにロシアの脅威を払拭しようと日露戦争を経て満州にも進出、さらに昭和6年になって満州事変を起こし、昭和15~16年に今のベトナム、ラオス、カンボジアまで軍を進めてしまい、対米戦争のキッカケをつくってしまいました。
ヨーロッパの文化に学びながら、国内的には天皇を利用して高圧的な政治体制を敷き、対外的には満州事変から軍の暴走を制御出来ないままに戦線を急速に拡大をし、人々の前に引っ込みが付かなくなって、負けると分かっていた対米戦に突入した日本の姿は、近代化とは何かを問いたくなりますね。
このような歴史的経験を積み重ねても、日本人の意識の内には未だに人の学歴や役職に拘り、組織や権威に従い、自らの意志の表明を控える様子が伺えますね。民主主義は物事を主体的に判断できる「個人」!!の存在がなくては成り立たないのですから、まだまだ時間がかかりそうです。
ある研究者は、このような日本の姿を見て、これが「日本の運命」だと言っています。近代になってヨーロッパの文明を取り入れたアジア諸国は、時期や形、進め方は違えども、そういう運命に翻弄されているようにも見えますね。 -
こちらの建物は何なのかも知らずに撮りました。
帰宅してからGoogle mapで調べてみましたら、地図でご案内しましたように「知覧護国神社」でした。護国神社は、私達の近くでは名古屋城の近くにあるのを地図で知っていますけど、行ったことはありません。
一般の護国神社では、戦争で戦死された人と自衛官・警察官・消防士等の公務殉職者が祀られるようですね。その意味では戦争と深い関わりのある神社です。どこかの護国神社で遺族の同意を一切求めずに合祀したことから、宗教的人格権の侵害という裁判沙汰になったことがありましたね。
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ところで、あの戦争が起きたのは、アメリカやイギリス、ソ連、中国からの様々な「策略があったからだ!」と言う人々がおられます。また、「日本はアジアに大東亜共栄圏を建設するために戦った」とか、「日中戦争は中国の侵略で始まった」とか、「日中戦争で日本は中国を救おうとした」なんて話もあります。 現に特攻平和会館内の講演では、「アメリカに石油を止められたから、日本はやむなく戦った」ということでした。さらに、鹿児島の「維新ふるさと館」での講演では、「ハル・ノートが開戦を決意させた」という話がありました。
ところで、「『大東亜共栄圏』の建設が、あの戦争の目標であった」という記事をネット上で見たことがあります。「大東亜共栄圏」を文字のままに解釈するなら、良いことかも知れませんね。
それなのに、どうして軍隊を差し向けたのか? 中国や朝鮮の人々をなぜ卑下したのか?どうして各国で食糧を徴用して人々を餓死させたのか?? また、各国で何故天皇の宮城に向かって遥拝させたのか? なぜ各地に日本の傀儡政権をたてたのか??・・などなど疑問は絶えません。
また国内的には、「東亜の人々と共に栄える」というのに、なぜ言論弾圧とも言える各種法制(宗教法人法、記事差止命令、出版法、新聞紙法、治安警察法、思想犯保護観察法、治安維持法等々・・)で、人々の言論・行動を制限する必要があったのか?こちらも疑問は絶えません。
ちょっと調べると、大東亜共栄圏の基になった基本国策要綱(1940年7月26日)には、こんなことが書いてありました。
「一、根本方針 皇国の国是は八紘を一宇とする肇国の大精神に基き世界平和の確立を招来することを以て根本とし、先づ皇国を核心とし日満支の強固なる結合を根幹とする大東亜の新秩序を建設するに在り」 「三、イ、日満支を一環とし大東亜を包容する皇国の自給自足経済政策の確立」
なんて書いてあって、どうやら「皇国の国是は八紘を一宇とする肇国の大精神」が根本にあるんですね。早い話が、大東亜共栄圏は日本の植民地圏というワケのようです。
★大東亜共栄圏の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9D%B1%E4%BA%9C%E5%85%B1%E6%A0%84%E5%9C%8F
★基本国策要綱
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9F%BA%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E7%AD%96%E8%A6%81%E7%B6%B1
★護国神社の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AD%B7%E5%9B%BD%E7%A5%9E%E7%A4%BE
★戦前・戦中期日本の言論弾圧 (年表)の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E5%89%8D%E3%83%BB%E6%88%A6%E4%B8%AD%E6%9C%9F%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E8%A8%80%E8%AB%96%E5%BC%BE%E5%9C%A7_(%E5%B9%B4%E8%A1%A8) -
この階段の上の赤い扉の中に、あの戦争で戦死された方と公務殉職者の霊が祀られているのかも知れません。護国神社というのは、三種の神器とかではなく、こういう風な祀り方をしているんですね。
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話の続きになりますが・・
大事なことは、あの戦争で日本がやってきたことを他国や他人のせいにしないことです。
例えば、他国から次々に繰り出される謀略やスパイの策謀のせいにしたとして・・(外国の策略が実に多く語られています)、日本はどうして謀略や策略に次々と嵌り続けたのでしょうか? また、外国の謀略のせいであれば、日本はそれらの謀略やスパイの策謀を、チームを組んでキチン情報を集めて研究し、さらに集団の会議でその対応を真剣に話し合ったでしょうか(このような真剣な取り組みは、日々の作戦決定時でも大事なのです)。
また、戦争が終わる時、軍や政府が大量の文書を廃棄または焼却したようです。裁判所までが裁判資料を焼却したようです。外国の謀略であるならば、その謀略の実際と、それ故に戦わざるを得なかった日本軍の戦いの全貌を残して、国民と世界に訴えるべきではなかったでしょうか?
アメリカの、日本への石油輸出停止や「ハル・ノート」がアメリカの策謀という説があります。石油の問題については、前年からの屑鉄禁輸に始まる日本の行動を牽制する動きが続いたのです。それにも関わらず、「石油までは直ぐには止めないだろう」と勝手に推測して、米英が最も警戒する南部仏印に進駐したのが、石油輸出停止の引き金となったようです。
もし、アメリカが日本に石油を供給し続けたら、アメリカ自身も世界から「日本の戦争拡大を支援しているのか」と疑われ、世界から孤立しかねません。いずれにしても、当時の日本は東南アジアへの支配を拡大し、「新東亜秩序」を打ち立てようとしていたのですから、石油禁輸がなければ日本は東南アジアへの支配拡大をしなかったのか?そんな話はないですね。
ハル・ノート(1941年《昭和16年》11月26日に提示)にしても「提案」なのです。当時の日本には厳しい提案ですが、陸軍はハルノートに拘らずに開戦を主張し、9月の御前会議では開戦の方向を決定しています。それでも海軍と近衛首相は外交による事態収拾を交渉したのです。しかし中国からの撤兵を拒否する陸軍への気遣いもあったりして、対米戦での緒戦勝利というような主戦派の動きに押されたようです。真剣に検討したか?に、疑問が残ります。それと、宣戦布告をしてないこの時点で、日本は対米戦を決意してハワイに向けて奇襲艦隊を移動させていたのですから、ハル・ノート如何に関わらず対米戦に突入していったと思います。この点では、ハル・ノートのせいにはできませんね。
このように参謀本部や軍令部の高級将校の甘い自己判断に等しい戦略・作戦が、あの戦争中に繰り返されたのです。だからこそ、対米開戦から半年過ぎた頃のミッドウェー海戦以後負け戦が増えてきたのです。参謀や司令官たちの情報の軽視、集団的な検討を軽んじた独断的な作戦の連続、死を当然視した「死は鴻毛より軽し、殉国、散華」の思想等々も、兵站も含んだ作戦の緻密さを欠く要因になり得たと思います。特に、各地で玉砕や餓死・病死が続き、「1億玉砕」まで叫んだことは、軍幹部たちが兵と国民の命を極限まで軽んじた証拠だと思います。そのような作戦とは言えない「作戦」が、8月15日まで続けられたのです。もし、戦争終結が半月、一ヶ月遅れたならと思いますと、体中が震えるほどの恐ろしさを感じます。
あの戦争を他人のせいにせず(例え他人のせいであったとしても)、政府や軍が進めた数々の政策・戦略・作戦が如何なる情報と検討に基づいて決められ、その決定の結果がどのようなものであったかを検証し、正すべきは正すことは戦後の日本に欠かせないことです!!
今の日本の状況を見ますと、あの時代あの戦争から学んでこなかったことを痛感します。
★ハル・ノートの詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88 -
ちょっと地図を見てみましょう。
これは日中戦争の地図です。
赤く塗ってある朝鮮(併合)と台湾(日本統治)そしてフィリピン(日本軍の統治、1942年1月)の地域です。
1931年に満州事変が発生し、1932年満州国が成立。それから1935年・冀東防共自治政府を樹立(傀儡政権)→1937年7月7日盧溝橋事件→1940年汪兆銘政権成立(南京傀儡政権)→1940年北部仏印(現・ベトナム)進駐→1941年南部仏印(現・ベトナム・カンボジア)進駐。 ここまでが日米戦争前の日本の東南アジア進出の様子です(一般には、日本の東南アジア侵略は満州事変以降を指して言われます(違う意見もあります)。
満州事変から10年余、盧溝橋事件から3年でベトナムまで戦線を広げています。「万里の長城を越えないように」という昭和天皇や政府の方針も無視して、万里の長城を越えて南下しています(天皇は結果として追認した)。これが、一部の人たちが主張する「中国解放」の様子です。
天皇は、満州占領にも万里の長城越えにも国際連盟脱退にも反対意志を持っていたようです。にもかかわらず、軍部や一部閣僚の説明・説得によって妥協したり事後承認を重ねることで、戦争の拡大ひいては対米戦の決定までも、自身の思いに反して陸軍の行動を許していったのです。
この背景には明治からの二面的な(立憲君主制と天皇大権《特に統帥権》)政治体制があると思います。また、天の自身の性格(様子を見て譲歩する)もあったと思います。そして、特に盧溝橋事件以後の戦勝ムードに乗った世論の勢い(教育・宗教・思想活動・報道などへの規制の影響が大きいと思います)に引っ込みが付かなくなった状況があったと思います。
天皇は、政治や軍事に対して判断を下す前に内閣・統帥部(陸軍参謀本部と海軍軍令部)の意見・報告を俟って(補弼)、天皇大権を行使するのが一般的です。ですが、天皇に意見・報告を上奏する際の内容も説明も軍部に都合良く書かれていることが多く、重大事の際でも「そうか、分かった」と言って認めることも多かったようです。 これが軍部の暴走を許したことに繫がったと言われています。
天皇大権とか天皇の神格化は、明治維新以降各藩ごとに違っていた人々の意志を一つにまとめること、軍部を天皇の名に於いてまとめていく上で、明治の指導層にとって都合の良いものでした。しかし、天皇と対話出来た明治の元勲亡きあとは、とりわけ軍部に於いて都合良く利用される道具になったという話もあります。昭和時代に天皇大権が発動されたのは、ホンの2度?程だったという話もあります。昭和天皇は戦争拡大には慎重だったので、「ダメッ!!」と強く言って欲しかったですね。
一般国民や戦う兵士たちには天皇の統帥権や万世一系の皇室の神性を強調しながら(特攻兵を鼓舞したのもこれですね)、軍部のトップたちはそれを「上手に」利用したのが、現実だったと言えます。
天皇大権の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E5%A4%A7%E6%A8%A9
【※】写真は「ピース愛知」のご了承のもとに掲載しております。 -
日中戦争と対米戦争が重なった、いわゆる15年戦争の様子を描いた地図です(15年戦争という表現には種々意見があります)。
繰り返しになりますが・・
1931年に満州事変が発生し、1932年満州国が成立。そして、関東軍は1935年・冀東防共自治政府を樹立(傀儡政権)→1937年7月7日盧溝橋事件→1940年汪兆銘政権成立(南京傀儡政権)、1940年北部仏印(現・ベトナム)進駐、1941年南部仏印(現・ベトナム・カンボジア)進駐へと展開していきます。
一般には、日本の中国から東南アジアへと進む東南アジア、太平洋へと進む侵略は、満州事変以降を指して言われることが多いと思います(違う意見もあります)。
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アメリカの数度の対日警告にも関わらず、「アメリカは石油までは止めないだろう」という甘い予想に基づいて南部仏印進駐に踏み切ったことが、アメリカをして対日石油禁輸に踏み出させることになったのです。と言うのは、日本軍が南部仏印まで来ると、フィリピンからぐるっと南に回ってマレー半島に至る国々を、日本軍の射程距離に収めることになるのです。アメリカはそれを非常に警戒したのです。そして、ハル・ノート提案となって、対米戦争となって行きます(ここまでは、「ハル・ノート〈Wikipedia〉」をご参照下さい)。
それにしても、インドネシアやニューギニアまでアッと言う間に戦線を広げてしまいました。勢いに乗ってしまったのでしょうか。戦線の拡張範囲(支配地の獲得範囲)をどの程度まで広げるのかと言う手堅い戦略はなかったでしょうか? このことが、アメリカが反攻に出た際の、日本軍の作戦と補給の守備の弱さが狙われることになり、ミッドウェー海戦以降の負け戦の要因になったのでははないかと思います。
太平洋地域では、個々の海戦・戦闘に於いても、日本軍の戦略・戦術・情報・兵站などの面で相当な未熟さが露呈されていたようです。その問題が各地での玉砕の始まりとなり、最終的には特攻作戦、各地の大空襲、原爆投下、ソ連参戦へと繫がっていったのでした。
【※】写真は「ピース愛知」のご了承のもとに掲載しております。 -
「オモニ(母親)ものとへ安らかに 11人の御霊へ捧ぐ」
太平洋に散るほかなかった特攻隊員の心は、オモニのもとへ駆け戻って、安らかに眠っておられるでしょう。私も、もし同じ運命にあったなら、母とカミさんのもとへ帰ります。
特攻隊には朝鮮や台湾の人もいたようです。
どちらの方も、日本に支配されていた地域の出身ですから、「天皇陛下の御為に命を捧げよ」と言われても、心の中では納得出来ない思いもあったかと思います。 本当に申し訳ない気持ちになります。
明治以来の日本は、アジアで初めて欧州文明を取り入れ、「富国強兵」を実現した実績もあったことで、アジアの諸国・諸民族を非常に蔑んできたように思います。そういった感覚は今現在、たった今!!でも、非常に多くに人々の胸の隠れていると思います。だからこそ、あの戦争がやれたのだと思います。
ある論説では「良心的な人々でさえも、心の底のどこかにアジアの人を(中東やアフリカ、中南米の人々も含めて)蔑む気持ちがホンの僅かながら残っている」ことを指摘していました。人種や文化による差別というものは、根深いものがありますからね。
私は年齢の離れた従兄弟から、中国戦線へ派遣された時の話を良く聞いたものです。彼は中国の人々の生活ぶりや捕虜のことを話す時、「チャンコロ、チャンコロ」と言って蔑んでいました。また、東条英機が遺書に「唯ただ、捕虜虐待 等など、人道上の犯罪に 就ついては、如何にしても残念」と書いたように、従兄弟からも、将校たちが中国人捕虜を数十人も溝の前に並べて座らせ、軍刀を抜いて首を次々に切って、「首切りの腕前」を競い合っていたという話も聞きました。
捕虜を工場や鉱山で使役す時でも、英米人捕虜よりも中国人捕虜や朝鮮人の方を手荒く使ったのです。捕虜の死亡率でも中国人捕虜や朝鮮人の方が圧倒的に多かったようです。
日本人自身が外国人に軽んじられると怒りを覚えるのに、アジアの人々を軽んじることは平気でやる。ペリー艦隊に沿岸を測量されてイヤな想いをしたのに、アジアの国の沿岸を勝手に測量する。それは「個人 対 個人」でもそうです。
国も民族も個人もお互いに尊重し合い、話し合える関係を持つことが大事ですね。このことが、平和を守る上でも最も求められることだと思います。
★人種差別の詳しいことは↓にて(「2.5 日本」の項をご覧下さい)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E7%A8%AE%E5%B7%AE%E5%88%A5#日本
↑この文字を含めたアドレスを「アドレスバー」にコピーして下さい。 -
「おかあさん、こんなところに鐘があるよ」
帰り際に気が付いたのです(^_^;)
鐘はお寺さんにある鐘と同じだね。この「平和の鐘」を気付かずに帰ってしまうところでした。
ガイドさんがおられない個人的な見物は、それが何のかをつゆ知らずに通り過ぎてしまうことがありますね。
特攻平和会館を訪れた方々は、展示されていた特攻隊員の「遺書」をご覧になって涙された方も多かったようです。私もたくさん拝見しました。月並みな言葉で言ってはイケナイのですが、ホントに胸を心を締め付けられる思いがしました。しかし、同時に腹が立って仕方がなかったのです!!
書かせられた遺書!! 検閲されると分かって書いた遺書!! 検閲に引っかかって家族にまで迷惑をかける遺書は書けない!! ですから、殆どの遺書が家族への思いと決意を綺麗な文に纏めており、本当の思いが読み取れないのです(>_<) このことは、遺族の方々も感じておられているです。
出撃を前にして「なぜ死ななきゃならんのだ!!」「本当は行きたくないんだ!!」と書きたかっただろうに、本音を書けなかった遺書!!!(>_<)(*_*) とは言え、男なら弱音は言えない書けない(T_T)
そんなことを思いますと、出撃された皆さんがますます可哀想になると同時に、特攻に行かせた軍幹部に言いようのない怒りを感じたのです。
展示するなら、いつか、どこかで、本音のことを書いた遺書や手紙を蒐集して欲しいのです。心からの叫びを書かれたものが、遺族または友人の皆さんがお持ちになってるかも知れません。
もう一つ感じたことは、日本が未だにあの戦争を未だに総括していないことです。そこが、ドイツ・イタリアと違うところです。中国戦線の泥沼にはまっている時に勝つ見込みのない対米戦に踏み切ったこと、戦線の異常な拡大(補給も困難なほどに)、軍隊内の横暴とも言える権威主義と主観的作戦、陸・海軍の共同構築の弱さ(対立)、食糧などを現地で調達という作戦の強行、捕虜になるより「死ね」という指導(戦陣訓)、玉砕と特攻、「一撃講和」という無責任論理、軍部大臣現役武官制の誤り・・書けばキリがないのですが、その根底にあるのは天皇の権威を盾に国民の命の軽視と、同じく天皇の権威を利用した軍と政府の縦割り無責任体制かも知れませんね。「神の国」どころではなかった!!
あの戦争時代を国として(国民サイドとしても)総括していないために、各地の自治体が設置した戦争や特攻関係施設で、戦争とか特攻の本当の問題点や厳しさを訴えようにも訴えられないのでは?と考えるのです。
★「特攻隊員 遺書 画像」にて検索してみて下さい。画像で見られます。 -
この「平和の鐘」は戦後50年を記念して建立されたようです。
実は、この鐘の向こう側には「慟哭、誓いの碑」という石碑がありました。そこには、
--------------
「この鎮魂慰霊、慟哭の中に、われら国を超え、
民族を越え、世界人類永遠の平和をここに誓う」
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とあります。何が言いたいのか?分かりません。
(この碑をご覧になるには、「慟哭、誓いの碑」にて検索されて下さい)
ここで言うべきは、「国を超え、民族を越え、世界人類永遠の平和を・・」なのでしょうか?。 特攻の非人間性と時流に流された人々の姿を直視し、そこを起点に自から平和を築いていく決意を表明することが求められていると思います。
隠したり飾ったりせず、誠実・実直な努力を重ねる姿こそが人々の共感を呼び、国を超え、民族を越えて、世界の平和に繫がっていくのではないでしょうか。
詩のことを全く知らない私です。詩らしくもない詩ですが、つくってみました。
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特攻の苦しみ知らず 戦果にバンザイ!! 忠君・勇士と謳いあげ・・
今こそ捨てよう 「命を捧ぐ」あの教え! 今こそ平和を目指すなり
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特攻で悲惨な運命を辿らされた隊員のご遺族には、「時代がそうさせた」と仰っている方もおられます。確かに仰る通りですね。私も全く同感です!!
日本の軍隊が日本兵を餓死や病死、玉砕させた無謀な作戦の連続。戦陣訓での「生きて虜囚の辱を受けず」という惨たらしさ。敗戦不可避となってなお若者を特攻に向かわせ、自らは逃げた軍幹部。さらに一億玉砕を叫ぶ軍幹部。 どれもこれも怒りを感じることばかり!!!(>_<)(*_*) 強く厳しい非難の声が聞かれるのも当然です。私も同じです!!!
しかし、強く激しく非難される彼らも、天皇の赤子・臣民と教えられながら成長し、出世してきたのです。そして、「良かれ」と願って精一杯生きた人であると思います。あのジョージ・ワシントンでさえ、原住民を殺すのは木を伐採するのと同じ程度に考えていたのです。兵士に惨たらしい特攻作戦を指示し押しつけた軍幹部も、きっと同じだと思います。違うのは「愛」よりも「お国のため」だったのです(>_<) でも、個人的には優しい心を持っているはずです!! 心の隅々まで「100%の鬼」という人はいないのです。
もし、「武士道」が過去のものになっていたら? もし、明治維新の形が違っていたなら? もし、天皇を政治に利用しなかったら? もしドイツでなくフランスに学んでいたなら、昭和の軍人たちは自軍の兵士の6割以上も(7割近い説も)餓死・病死・特攻で死なせることをしなかったかも・・?。そう思いますと、本当に悔しいです!! 過ぎた歴史や人生に「もし?」を問うても仕方ないかも知れませんが、その「もし?」によって、人も家族も国も振り回され、罪とは気ずかずに罪なことをしているのです。
でも、罪は罪。 その罪は、誰かがどこかで再び犯さないとは限りません。
その罪が、再び犯されないようにするには、その罪を振り返って原因を取り除き、罪を生まない仕組みを築いていくことが大事だと思います。
そのためには、
★政治的権威や社会的地位といった権威に頼らないこと。一人一人が「個人」として自分の意志をハッキリ持ってしっかりと伝えること。個人間でも集団でも相手の話を良く聞き、前向き・建設的に会話できる能力を身につけること。
★人を区別しないこと。所得、学歴、役職、思想、人種、宗教、身体や顔の印象等で、人を区別・差別しないいこと。
★隠しごとをしないこと
★家庭の所得に関わらず、教育の機会均等を徹底すること。試験得点重視から、知識の活用と対話重視に転換すること。
★個人を評価したなら必ず公開(又は通知)し、理由を説明して了解を得ること。
★貧困(生活較差)を根絶すること等等々・・。
★奥様を大事にする。
要は人々が「個人」として自立した人格を持ち、対等・平等であって、学びたい時に学び、権威には頼らず媚びず利用せず、誰もが建設的な対話ができたら・・と思うのです。そういう社会があったなら、「死」を忠義の最大の証しとするような教えや作戦はなかったと思うのです。
★戦陣訓の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E9%99%A3%E8%A8%93
★東条英機の詳しいことは↓にて(したのアドレスを)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%A2%9D%E8%8B%B1%E6%A9%9F#戦争指導者としての東條←この、文字を含めたアドレスを「アドレスバー」にコピーして下さい。 -
知覧特攻平和会館の見学を終えて、一息つきましょう。
カミさんも私も、アイスクリームをいただきました。
知覧特攻平和会館の内部を撮影出来なかったため、その様子をご覧頂けなかったことは残念でした。
特攻平和会館を見学して感じたことは、特攻兵を勇士として扱い、遺書などを展示して、見学者の涙を誘って、特攻兵の死を結果として美化していることです。だからこそ、企業の社員教育の場に利用されるようになったのだと思います。残念なことです。
上でも書きましたが、大事なことは(日本近代史も含めて)私達が歩み、やってきたことを真面目に振り返り、そこから学ぶことです。あの戦争を他国の謀略・策謀のせいにするにしても、兵站を軽視して戦死者の6割以上の兵を餓死・病死させたとか、数々の玉砕や特攻を押しつけたとか等々・・、それらの軍の行動までも他国の策略に騙されてやったわけでもあるまい。
であればこそ、日本の政府と軍部がやってきたことを総括し、戦後の日本で再び同じ轍を踏まないようにすることが大事なのではないでしょうか。そういう視点を「自虐史観」とか「東京裁判史観」などと言って非難することは、あの戦争で残酷な犠牲となった兵士たちの心をも無視することになりかねません。
日本は明治になって本格的に世界に打って出たものの、世界の舞台ではマッカーサーも言ったようにまだまだ未熟者で、「12歳」の少年のような行動をとりました。あのような戦争に日本を導いた軍幹部は、狭い日本の中では「優秀」であっても、広い世界にあっては、知識能力・情報能力・対話能力等々・・で決定的に遅れていたと思います。そんな条件の中で、日清・日露の戦争に勝って「大国」になったと思い込んだのが、運の尽きだったかと思ってしまいます。
日清・日露戦役のあと、「大正デモクラシー」と言われる時代もあったのですから、せめてこの時期にでも天皇・政府・軍ともに、国民の暮らしを見る才覚があったならと惜しまれてなりません。大国意識と軍備増強とアジア支配と・・。世界的には帝国主義が収束に向かい始める時代に、日本の目線はもっと強い帝国主義国になることに向いていた。そんな風に見えるのですが、それこそ遅れて帝国主義国になった日本の宿命かと思えてくるのです。
そういう日本の姿勢は、アジアの諸国や民族を小馬鹿にしました。山縣有朋が中国に対する過小評価を一貫して戒めてきたにもかかわらず!!です。誰しもそうですが、「調子にのる」ということは、過ちを犯す切っ掛けになりやすいですね。
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何を考えるにしても、一番大事なことは「人を愛すること」「誰もが幸せになること」です!!!そのことを一時たりとも疎かにしてはイケナイのです。ましてや、政治家、企業・組織の幹部においては肝に銘じて欲しいと思います。
一昨年、ヨーロッパでのツアーで道路工事現場を通りました。工事は昼間のみ実施され、夜とか土日は工事をしないとのこと、私は流石!!と思いました。スーパーのレジ係も、椅子に掛けて仕事していましたが、これも立派!! ある国では、失業したら生活を保障された上で職業訓練校に通って、新たな知識・技能を身につけて再就職していきます。 重要なことは人々が、国民が、一定の不便を承知して、そういう状況を受け入れていることです!! もちろん、人々は国の財政(税金の使い道)を良く知っています。それでいて、世界の競争力ランキングでは日本とほぼ同等か上位にランクされているのです。そうです!先ずは「人を大事にする」ことです。
24時間突貫工事で皆さんの役に立つとか、一日中立ちっぱなしで働くのが真面目な姿、失業は仕方ないという「日本的な価値観」では、働く人は大変です。「お国の為・天皇陛下の御為、会社発展の為、お客様のため、犠牲的精神を以て頑張る」のではないのです。
大国主義が未だに抜けない日本。経済!経済!!ばかりに目を奪われて、「経済大国」を目指して?過労死問題があるのに政労使で100時間残業を決めています(>_<)
ぼつぼつ、あの時代の「権威」「献身」「忠誠」に別れを告げようではありませんか!!
一度立ち止まって、個人を基礎とした国民本位のオープンな政治・社会システムを築き、みんなと共に安心して暮らせる幸せを築こうではありませんか!!
そのことをこそ、特攻で犠牲になった皆さんにご報告しようではありませんか!!!!
愛する人々の暮らしを守りながら、社会を維持・発展させていく・・。今の日本の力をもってすれば、可能なことばかりです。 「人を愛すること」「誰もが幸せになること」人々も政府もこの観点に立って、社会発展の道を共に進むことこそが何より大切だと思うのです。
ついつい熱が上がってしまいました!(^^)!
(おわり)
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この旅行記へのコメント (7)
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- ねもさん 2022/03/21 16:44:07
- 初めまして
- カメちゃん
熱いメッセージ、共感しながら読ませていただきました。この主張は知覧特攻平和会館の思想と正反対、絶対に彼らは了解しないでしょう(笑)
私はいい加減な人間なので、ここまではっきりは分かりませんでしたが、直感的に、ここは修学旅行や社会科見学で来るべきところではないと思いました。
私の違和感を具体的に書いてくださってありがとうございます。煮え切らない旅行記を書くのに1ヶ月半かかりました(><)
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- リリーさん 2018/03/04 13:15:01
- なんてひどい時代なんでしょう。
- こんな事が当然のように行われていたなんて、とても信じられません。人の子を何だと思っていたのでしょう。
いつだったか「永遠のゼロ」という特攻隊のドラマを娘たちと見たのですが、若い兵士たちの本当にひどい扱われ方にびっくりしてしまいました。特攻平和会館の中も紹介され、兵士さんたちの写真や遺書を見ることができましたが、残酷でした。
代わりたくても代わってやれない、我が子のために何もできなかった母たちのお気持ちを思うと、腹が立って仕方ありません。
「一歩前に出ろ、と言われて自発的にやったんだ」
なんてどの口が言うか!自己責任とでも言うのでしょうか。当時の大人たちのあまりの卑怯さにあきれるばかりです。
近くの国で人々がひどい人生を送らされているのを見て辛い思いをしていますが、ひとのことを言えないではありませんか。日本だってつい最近まで似たようなレベルだったのですから。
これから日本も自力で自分を守らなきゃいけない時代へと変わっていくと思うと、怖ろしい気持ちです。もちろん、あんな社会にまたなるとは思いませんが。
命を落とした兵士さんたちに申し訳ない気持ちでいっぱいです。
- カメちゃんさん からの返信 2018/03/04 21:54:59
- RE: 繰り返してはならない時代ですね。
- リリーさん こんばんは
きょうはお出掛けしていて、返信が遅くなってしまいました。
ご免なさいね。
本日は嬉しい御投稿を頂きありがとう御座いました。
知覧特攻平和会館を訪れて、「慰霊」だけが前面に出る様子に疑問を感じてしまって、このような旅行記を書いてしまいました。
旅行記の中に何度も書きましたように、特攻に行かざるを得なかった若者たちにたいして、(慰霊のつもりとは言え)余りにも無神経な言葉が多すぎると思いました。
「特攻機は、遂に帰って来ませんでした。」という言葉もそうですが、ハッキリ申し上げますと、そういう言葉や詩が沢山あることに言いようのない怒りを感じたのです。
本当に慰霊するのであれば、若者たちを特攻に行かせてしまったあの時代を直視し、特攻兵の苦悩を真剣に察することですよね!!そして、そのような時代の再来を絶対に許さない為に行動する!!ことを、彼らの墓前に誓うことですね!!
美辞麗句による慰霊は、結局は当時の政府・軍部の歪んだ姿と指示した者の責任に触れることがないのです。彼らを免罪して、犠牲となった特攻兵に涙を見せて終わらせてしまうのは、壮大な誤魔化しと言う他ないと思うのです。
日本は経済!経済!!と言いながら借金財政を続け(国民もそうして実利を追いかけた)、国民の平穏な暮らしを保証するための社会システムの構築を後回しにしてきました。その結果がこの日本をして、お話のように「自力で自分を守らなきゃいけない時代」へと向かわせているような気がしてならないのです。
過労死や過労自殺、過労による精神障害などの問題が減らないのも、その典型です!!そういう意味では、特攻問題の現代版でもあると思っています。特攻への美辞麗句による慰霊は、過労死された方にも向けられるのでしょうか?そう思いますとやり切れないですね。
またまた、熱くなってしまいました。
一人一人が大切にされる時代を!!また、そういう人間関係を築きたいですね!!!
ありがとう御座いました。
これからもよろしくお願いします。
カメちゃん
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- ガブリエラさん 2017/12/24 17:51:57
- 戦争ダメ!絶対ダメ!
- カメちゃん☆
こんばんは♪
4トラ、本当にご無沙汰しちゃってて(^_^;)
バタバタしていたのが、ひと段落して、ようやく年賀状も書き終えました♪
そうそう!
メリークリスマスです(*^_^*)
奥様にも、お伝え下さいね!!!
カメちゃんの旅行記を拝見していて、昨今のお隣の国の嫌な動向などを考えても、やっぱり何があっても「戦争はダメ」と、強く思います。
相手がいくら、話が通じないといっても、武力で解決しようとすると、絶対犠牲が出ますからね・・・。
平和第一!ですね。
来年も、また名古屋にお邪魔できたらな~と思っていますヽ(^o^)丿
奥様にも、くれぐれもよろしくお伝え下さいね!!!
明日は、今年最後の通院日で、CTとってきます♪
ガブ(^_^)v
- カメちゃんさん からの返信 2017/12/25 11:12:55
- RE: 日本はあの戦争にどう臨んだのか?そこが問われるよね。
- ガブちゃん
ガブちゃんも忙しかったようですね。
私も昨日になって、ようやく年賀状を印刷したようなことです。
夏以来、知覧特攻関連の勉強と野暮用に時間を取られたのが、本当に痛かったです(-_-;)
ガブちゃんのお話のように、戦争は絶対に「ダメ」ですね。
あの時代のことを思いますと、日本の指導層は本当に未熟だったな〜と思います。
胸には勲章をたくさん付けて、自分の地位・権威・名誉を見せつけていましたね〜(^O^) 今思いますと、子供のように感じます。 当時の人々もそういう人に憧れ、また畏れ慄いていましたね。←こういう思いは今でも人々の間に広く存在しますけど・・(=_=)
戦争をしないためには、まず前提として「人を愛する・大事にする」という観点に立ちきることが、まず求められると思います。
このような観点・立場にたてば、人の命を粗末に出来ないと思います。戦死者の6割以上が餓死・病死だったり(別の言い方をすれば、その方々は「戦死」ではなく、「日本軍に殺された」ことになります)、特攻を11ヶ月も続けたりしたのは、「人を愛する・大事にする」という観点が疎かになっていたとしか言いようがないと思います。
「人を愛する・大事にする」
私もそうですが、「言うは易く行いは難し」ですね(-_-) でも、常に心の中に持っていたい言葉ですよね。「戦争をしない国になる」為にもそう思います。
我が家で、ちょっとやってみたら、「カカア天下」になってしまいましたけど、これは問題がチョット違うんではないかな?と思いますけどね。
これからの時代は「人を愛する・大事にする」時代だと思います。
ホント、そういう方向で頑張りたいですね。
CTの結果は如何でしたか?
良い結果であることを願っていますよ〜(^_^)v
嬉しいお話を、ありがとう御座いました。
それでは、また・・
カメちゃん
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- 白い華さん 2017/12/19 17:01:38
- 「かめちゃん。の 詳しい!解説」は、『特攻の 鎮魂歌』と なっている。
- 今晩は。
私も、「知覧 特攻記念館」には 参りました。ので、
いろいろ、思いだしながら、 旅行記を 拝見しました。
「特攻隊」の 若き!飛行士達。
「天皇」と 言いながら。も 「死を迎える!と なれば、 肉親の名前・・・が 最後に 叫ぶ」って 解ります。
何か、「北朝鮮」って 雰囲気・・・デスヨネ。 (苦笑)
互い!に 監視している。 忖度・・・と
カメちゃんの おっしゃる!通り。 現在の 社会も 「白い 目!で 見られたくない。 仲間はずれ!に なりたくない」と
気を使って・・・生きていく。って ありますもんね。
でも、現在・・・は、「老夫婦で の~んびり!と ほぼ、社会に 触れること。も 少ない 私」
「夫には、気を使う・・・ 毎日」ですが、 「他は、 あまり、気を遣う。 忖度なんて 無いな~」 なんて。。。 (笑)
カメちゃん、「知覧」を 仕上げなければ・・・」って おっしゃってた。ので、
写真に 対して、 それぞれ、素晴らしい~!解説付き。で
「いろいろ、勉強に なりました」。
「戦争に 行ってしまい、男子は 居らず」で 「学徒動員。 女も 工場で 飛行機作り」なので、 素人!の 作業員・・・の 作る 「飛行機」は
「オイルもれ」など、性能が 悪かった。って 話。
「なるほどねぇ~」と 思いながら、「当時・・・の 娘達」を 想う!のでした。
これからもよろしくお願いします。
- カメちゃんさん からの返信 2017/12/19 21:58:07
- RE: 嬉しいコメントをありがとう御座います!!
- 白い華さん こんばんは(^^)
夕暮れの空には、北斗七星が見える頃となりました。
今年もあとわずか。月日の流れをヒシと感じているこの頃です。
知覧特攻平和会館の旅行記をご覧下さってありがとう御座いました。
特攻平和会館を訪れてから、私としては知覧で見て感じたことを書かなければと思いながら、随分時間が経過してしまいました(-_-;)
さまざまな展示の説明が、未だにあの時代の言い方で書かれていることには愕然としてしまいました。知覧だけでなく、多くの公立展示館が似たような感じの展示と説明をしているのではないかと、余計な心配をしてしまったものです。
実際、特攻平和会館の展示のあり方が特攻での犠牲を事実上美化しているために、社員教育の場になって来ているようです。これを知った時には、胸にショックを感じましたよ。
歴史上の経験は、それをキチンと総括して教訓を汲み取って自らの歩みに活かすなら、私達を助けてくれる最大の寄り処となると思うのです。それが、どうも曖昧なような気がして、ついつい長いコメントになってしまいました。
大事なことは、常に「人の命を大事にする、国民を大事にする観点」を忘れないことですよね。
その視点さえあれば、如何なる情勢にあろうとも、さまざまな事態に遭遇しようとも、最悪の事態だけは避けれらると思われてならないのです。
戦死者の6割以上が「餓死・病死」だったとか、特攻を軍の戦略・戦術として11ヶ月も続けた最悪の事態を招いたのも、その観点が抜けていたと思われて仕方がないのです。
「人を愛する、大事にする」「人の話を良く聞く」
日本の人々が、このような観点で特攻で犠牲となった若者たちの苦悩を察してあげられたら・・と、願わずにはいられません。そして、これからもこのような観点に立って社会制度を整備し、人々の命と暮らしを大事にして行って欲しいと心底から願っているのです。
なんか、写真のコメントで書いたことと同じことを繰り返してしまいました(-_-;)
いまでも、話し出すと想いがこみあげてきて、止まらなくなってしまうんです(^^;)
白い華さんには、新しい旅行記が上がっていますね。
また、お邪魔させて頂きます。
ありがとう御座いました。
それでは、また・・・(^_^)v
カメちゃん
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