2017/04/24 - 2017/04/24
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カメちゃんさん
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観光バスで稲佐山と平和公園を楽しんだあと、長崎原爆資料館に向かいました。
原爆被災地で原爆資料館を見るのは初めてです。ですから、どんな展示が見られるのか?という想いを持ちながら館内に入りました。
原爆被災展示ではないですが、戦争に関する展示館としては、昨年(2016年)3月に、「知覧特攻平和会館」を見学しました(館内撮影できず(-_-;))。それを切っ掛けとして、昨年9月に「ピース愛知」を見学(お願いし、署名して撮影)し、今年2月に京都・立命館大学平和ミュージアムを見学(ここも館内撮影できず(T_T))、3月には靖国神社の「遊就館」を見学(チョットだけ撮影可)しました。
そういうわけで、戦争関連の展示館としては、4ヶ所目になります。被爆地での見学ですから、ある意味では期待していました。然し、ネットで広島の「広島平和記念資料館」を見た人の感想が「ガッカリした」と書いてありましたので、少しだけ気にしていました。
でも、被爆地で見る資料館。大いに関心を持って見学させて頂きました。
何よりも「人を愛し、大事にする」こと。恥ずかしながら、これが自信もなく揺らぎやすい私の信念ですが、そんな普段の思いで感じたことを書いてみたいと思います。
それでは、写真とコメントをご覧下さい。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- 交通
- 5.0
- 同行者
- 友人
- 交通手段
- 観光バス
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行なし)
-
長崎原爆資料館へやってきました。
過去2回の長崎訪問では平和公園へ来るだけで、長崎原爆資料館へ来たのは今回が初めてでした。広島平和記念資料館(“原爆資料館”と言われることも)へも行ったことがないので、私がこれまで見た来た被爆の様子はそれほど多くないです。
原爆被爆に関しての資料の展示がどんなものなのか? それをしっかり見たいと思いましたね。せめて、写真だけでもと思いますが、撮影させてもらえるか?が心配です。
(Kさんご提供のお写真です) -
どうやら、他の方も写真を撮っておられたので、写真が撮れそうです(^^)。
被爆前の長崎の航空写真です。
浦上川沿いには工場が多いように感じます。 -
↑と重なる地域での、被爆前の工場や公共施設の場所を表した地図です(川や海岸線などの地形や道路は、最近の状態に近いです)。
造船関係・鉄鋼・電気・兵器製造工場などが、随分ありますね。
この地図内の青色の同心円は、爆心地からの直線距離を表しています。
一番下に「三菱長崎造船所」がありますが、ここでは「戦艦・武蔵(1940年11月進水)」を建造していますよ。 -
ちょっと上流の、浦上駅付近から北の写真です。
爆心地は、長崎駅から直線でおよそ2.6Kmほど北の方向にあります。 -
↑の重なる地域の、被爆前の事業所・諸施設の地図です。
こちらでも、爆心地から1Km以上の北方向に、三菱の兵器工場や造船関係の工場がありますね。南の方向にも三菱の工場があります。
長崎が原爆攻撃の目標に加えられた理由の中に、長崎湾に面する三菱長崎造船所を始めとして、長崎市街の北部にまで展開する工場群(軍事関係の工場が多い)があることが指摘されています。二つの地図を見ますと確かにそうですね。
それを以て、原爆投下を正当化するものではありませんが、戦争中のことであれば狙われやすいですね。
敗戦間際の8月14日まで、模擬原爆と言われた「パンプキン爆弾」の投下地点も、工場の多いところが標的になっています。トヨタの本社工場がある「愛知県・挙母町(現在の“豊田市”)」には、3つのパンプキン爆弾が投下されています。当時としてもかなりの大工場であったトヨタは、事実上の「兵器生産工場」に変わっていましたから。 -
地形図と原爆投下地点です。
投下地点の当初の目標は、浦上川の河口付近(長崎湾の北端付近)の工場群・市街だったようですが、狙いがはずれてあの地点に投下されたという話が有力です。
当初目標通りの地点に投下されれば、被害はさらに大きかったことでしょう。 -
原爆を投下されて、長崎の町はどうなったのか?
これは、爆心地付近の状況で、長崎市街を北の方から南に向かって撮影しています。
市街地の殆どが、吹っ飛んでしまっています!!!(T_T)
写真中央の、太い道路と左右に走る細い道路の交わるところの、少し左の多角形の広場あたりが爆心地と思います。右上の黒い細長い三角形は、焼けた工場地帯かと思います。
そのすぐ左の3つの黒い三角屋根も工場かと思います。 -
こちらは、爆心地から北東へ300m付近(平和町あたり? 浦上天主堂に近いところ)の様子です。
ここではと爆風で建物が全て吹っ飛び、かつまた強烈な超高温熱線とで住宅は完全になくなっています。このあたりでは、家の中にいた人でさえ助からなかったのでは?と思います。 -
爆心から南へ約500mの浜口町あたりです。
写真下には、熱線で黒く焼けてしまった人が横たわっています。
あの当時、特に強烈な爆弾として1トン爆弾が恐れられたとのことですが、その爆弾でも人が爆風や破片で即死するのは、爆風で半径25m以内で、飛んでくる破片では150m以内とか。爆風では70m以上、破片では500m以上距離があれば安全とのこと。
家が倒壊するのは50m以内、半壊するするのは100m以内のようです。175m以上離れていたら、倒半壊しなくて「安全」というのです。
ところが、長崎の原爆では、500m離れていても、撮影範囲の全て(住宅さえも)が吹っ飛び、焼けています。 -
北へ1.3km離れた工場の様子です。
工場の壁や屋根(スレート張りか?)が吹っ飛んで、鉄骨がぐにゃぐにゃになっています。 -
同じく北へ1.3km離れた別の工場内部です。
全てのものが倒れて散乱し、強靱な柱までが傾いています。落下した天井クレーン(またはホイスト式天井クレーン)もあったと思います。 -
それどころか、爆心地から2.4kmも遠い長崎駅付近でも、この有様です。
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こちらは、南へ3.5km離れた西浜町です。今では、市電の西浜町停留所があり、「銀座町」「万屋町」という食堂やレストランの多い繁華街になっています。
この写真ですが、
右端の家は残っていますが、鉄筋コンクリートの建物までが、酷い状況になっています。
お時間がありましたら、地図とかGoogle mapをお開きになって、ご自宅から半径500m、1.3km、2.4km、3.5kmの円を描いてみて下さい、その範囲の広さと破壊力にビックリされますよ。 -
こんなに曲がってしまった、工場建屋の鉄骨です。
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こちらは、物干し竿が原爆の熱線を遮って、竿の形だけ焼け焦げなかった住宅の板壁です。
通常なら竿の陰は黒いのですが、熱線を遮ったためにそこだけ焼けずに、白く残ったのですね。
原爆の熱線の怖さを感じます。 -
これは、↑の写真の説明です。
-
これは爆心地から南に4.4Kmの要塞司令部の壁に残ったハシゴと人の陰です。
被爆前のこの壁の色は、黒色だったでしょうか(この時代の板壁は、一般にはコールタールなどを塗ることが多いので、黒色が多い)。数秒間の極短時間の熱線によって、黒い板壁の色が焼かれて白くなり、ハシゴと人の影になったところだけ黒い塗装が残ったのでしょうね。
爆心から4.4Km離れていても、これほどの熱線に晒されるとは!! 影の映った兵隊さんも火傷をされたと思います。 -
↑の写真の説明です。
-
こちらも熱線の説明です。
原爆の中心部で発生する光と温度は超高温の熱線となって、爆心地付近での地表温度は3000度から4000度にもなったとか。 1km離れた所で約1800度、1.5km離れても約600度と推定されています。4km離れた所でも、屋外にいた人は熱傷をしたほどだったようです。
体感温度ではなく、地面の表面でさえ瞬時にしてこの温度にまで焼かれてしまうのですから、人間の身体がどうなってしまうのかと思いますと、本当に恐ろしいですね。 -
熱線がどれほど強かったのか?
写真左は、溶けて泡だった鬼瓦です。鬼瓦の下の方の薄いところが溶けて泡だったのですね。
中央は、溶けた瓦です。ちょっと泡立っているようにも見えます。
右端は熱線によって焼けて岩のように固まってしまった赤土です。
この近くに住んでいた夫婦はたまたま出掛けていたのですが、4人の子供はこの瓦をも溶かす強烈な熱を浴びて、遺体も何もなくなっていたとのことです(恐らく、超高温によって炭化し、強い爆風で吹き飛ばされたと思います)。
夫婦は、この固まった土を子どもたちの形見として保存してきたけれど、原爆の恐ろしさを人々に知ってもらうため、原爆資料館に寄贈されたとのことです。
瓦が溶けて泡だったり、赤土が石のように固まってしまう(やはり、一時溶けた後に固まったかと思います)というのは、2000度~度くらいの超高温の熱線にさらされたからだと思いますね。
一般的に言われる瓦の溶ける温度1200~1300度(多分、炉の中で?)よりも、周囲の空気も熱せられている中ではあっても、戸外の露天において僅かな時間で溶けているのですから、やはり2000度以上はあったかと思いますね。
いずれにしても、恐ろしいことです。 -
これは溶けた瓶です。
左端の瓶は上向きに、4本の瓶は下面が上になっています。
普通のガラス(窓に使うガラスか?)の融解温度は700度くらいからと言われていますが、ガラス瓶が溶ける温度は、現在では1500度ほど(耐熱ガラスは1900度ほど)とのことです。
ガラス瓶製造技術の時代の違いはありますが、この温度を参考にしますと、爆心地から400mのところにあったこの瓶は2000度以上の高温にさらされたのだと思います。
屋根瓦やガラス瓶にしてこれですから、ガラスのお皿、コップ等が溶けたり割れたり変質したのも頷けます。
長崎原爆資料館の資料によれば、爆心地からの熱線温度の範囲は以下のようになります。ご参考までに・・。「長崎原爆資料館」で検索されて、さらに調べてみて下さい。
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↑の写真の説明に加えて・・
1.2Km 以内では熱線だけでも致命的で、爆心地付近では、あまりの高熱に一瞬のうちに身体が炭化し、内臓の水分さえ蒸発。 4Km 離れたところでも、屋外にいた人は熱傷を負うほどだったようです。 -
このような破壊をもたらし、広島・長崎で合計20万人もの犠牲を強いた原爆とは何か。
私は原爆のことなど、大変な爆弾という以外のことはあまり知りませんでした。
この図は、原爆が炸裂した時の図です。
爆発時の中心温度は250万度だとか。その猛烈な火球が地上から僅か503mの高さで爆発と同時に発生し、瞬時に拡大したのですからたまりませんね。
ガンマ線は高いエネルギーの電磁波と言われ、紙や木などを燃え上がらせるほどのエネルギーがあるとのことです。もちろん、中性子線と共に、生き物の組織・遺伝子を壊してしまいます。
強烈な光と熱風がガンマ線と中性子線と共に、人々の暮らす街を瞬時に襲うのです。どんな爆弾でも人を殺し街を焼くものですが、原爆はその数千倍・数万倍の破壊力があるのです。
熱風、ガンマ線、中性子線のことなど、上手く言えませんが、被害の実相を見たら到底許されるものではないです。 -
これが、「長崎型原爆」の実物大模型です。
「ファットマン」と言われたそうですが、この形から「パンプキン(かぼちゃ)爆弾」とも言われた爆弾です。 -
↑の原爆の説明です。
-
これが原爆の内部構造です。
中は楕円の形なんですね。 -
原爆の仕組みの説明です。
4トン積みトラックで約5200台分のTNT火薬の爆発力に相当するというのですけど、私のようなボンクラな頭では想像も出来ません。
よろしかったら「ナガサキ型原爆(プルトニウム原爆)」とか、「長崎型原爆 構造」で検索されてみて下さいね。 -
残酷な写真ですが、これ一枚だけ掲載しますm(_ _)m(-_-;)
超高温の熱線と爆風によって、身体の形さえ残らなかった人、内蔵が飛び出してしまった人、胸を破られてしまった人、顔や身体が歪んでしまった人、その残酷さや苦しみは到底言い表せません。
なぜ、こんな目に会わなければならなかったのか?
私たちはあの時から70年以上が過ぎた今、あの時代あの戦争を、利害や憎しみ、周囲への気遣い、断片的な決めつけ情報から離れて、冷静に客観的に捉えることが出来るようになったのではないでしょうか。 -
少し、文章掲示をご覧に入れます。
【※】日本文の下又は左右に英文の説明文もありますが、見やすくするために日本文を残し英文をカットした写真もあります。また、照明がスポットライトだったので写真に明暗が生じ、ライトの当たらないところが暗くなったたため、明るさの部分修正もしています。
これは長崎駅から北西約700m余のところにあった「福岡俘虜収容所第14分所」での、被災状況を書いたものです。
「青空に飛ぶ一機の飛行機に気づいた。次いで太陽よりもな強烈な一閃の光が、火のような激しさを伴ってひらめき、そのあと猛烈な爆風がおこった。そのあとは、暗黒一夜よりも濃い暗黒。 息がつけなくなった。建物の倒壊するものすごいひびきや、はり(梁)の裂ける音があたりにこだました。そして沈黙、死の沈黙が。・・・ 」と。
このあとも文章は続きますが、オランダ人俘虜の一人が生々しい状況を話してくれています。お時間があれば、是非読んでみて下さいね。 -
こちらには、外国人被爆者として最も多かった朝鮮半島からの人々のことも記述してあります。
朝鮮は当時日本に併合されていて、日本で働いている人や強制連行されて軍需工場で働かされていた人も多かったようでした。中国や台湾の方々も多かったようです。そして、上でも触れた欧州・豪州の人々・・
こうした不遇の人たちの被爆者の数は、今も推定の域を出ていないというのです。なんと言う無責任な・・と思います。 -
上で被災前の長崎市内地図をご覧頂きましたが、そこに爆心地からの同心円が書き込まれていました。それは同時に熱線と爆風の強さの範囲を示していると言えるでしょう。
ですが、ここでは「死の同心円、魔の同心円」となっています。
「長崎市の地図を頭に描きながら、私は思わずそうつぶやかずにはいられなかった。まさに死の同心円が毎日少しずつ広がってゆく。きょうはあの線までの人が死んだ。翌日はその家より百メートル上の人が死ぬだろうと思っていると、果たして的中する。爆心地から広がり始めた魔の波紋は・・」
あの地図上の同心円は、被爆して亡くなっていく人々が同心円のように広がっていくというのです。このことは、被爆後に現地に入った医師や専門家の調査でも、確認されていたようです。
普通の爆弾1発での死者の数と範囲は、同心円などと言うほど多くも広くもなかったと思います(だから絨毯爆撃をしたのかも知れません)。
長崎平和研究所のHPによればし、たった1発の原爆で、1.5Km以内で88%、2Km以内で51%、2.5Km以内で6.4%の人が亡くなられたそうです。まさに、「死の同心円」ですね。 -
「二歳の妹が倒れた梁の下敷きになって泣き狂っていた・・」
そんな家族の悲惨な姿が、書かれています。
是非、お読みになって下さいね。 -
「のどが乾いてたまらず、油の浮いた水を飲んでしまった」
水・水・水!・・と、水を求めてさまよう被爆者の姿を描写した絵は、私も見たことがあります。これも、実に悲惨で悲しい出来事でしたね(-_-;) -
手当を待つ母子(左)と、手当を受ける幼児(右)です。
自らも負傷したお母さんの、放心したような表情が印象的です。
初めての原爆被害に直面して、手当や治療にあたる人たちもさぞかし戸惑ったことでしょう。
そして、原爆症となった人々の生きる道は、この時以来、身体的にも社会的にも非常に苦しいものになったことは言を俟ちません。
また私たちには、原爆症と言われた人々が如何なる治療を受けたのか、どのような生活・食事指導をされていたのか、如何なる保証を受けたのかということなどについて、原爆被災者の裁判があったということ以外には知るよしもなかったです
ところが広島の原爆投下の2日後に、医師と科学者からなる1300人ほどの調査団が広島に入ったのです(長崎にも調査に入ったようです)。そして、原爆が人体に与える影響を2万人以上を対象に徹底して調べたというのです。軍部は調査中にも拘わらず、その報告書が纏まったら英訳してアメリカに渡すことを決めたのです(アメリカに、731部隊ほかの日本の不都合なことを不問にして欲しいという期待があったようです)。
軍部の不都合を隠すためにアメリカに渡したか??と思いますが、それよりなにより、日本が独自にやり、当初は日本語で書いたはずの人体調査の結果(英文で181冊、総計1万ページ)を秘匿して、治療に活かさなかったというのですから、軍と政府はここでも国民の命と健康をないがしろにしたのです。 このことが分かったのは戦後65年も過ぎてからで、それもアメリカ国立公文書館で映像資料のあることを突き止めたからです。
このことを知っていた人はいたはずなのに、告発すれば「知人に迷惑を掛ける」「罰せられる」ことを恐れて、誰も言わなかったのですね。
戦争と原爆被害でこれといった治療も出来ないなかで、日本人の独自調査の結果をすぐにでも被爆者のために役立てるべきではなかったでしょうか。そうすれば、早い段階の治療に役立つことがあったかも知れませんし、裁判でも有力な資料になったはずです。
この件については、つい先日の6月19日に、日米共同研究機関「放射線影響研究所(ABCC)」の丹羽理事長が被爆者を招いて、日米の研究機関が「調査すれども治療せず」の態度を取ったことで謝罪しています(メディアで報道されています)。残念極まりないです!!
★この件は、↓の原爆傷害調査委員会にてご覧下さい。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E7%88%86%E5%82%B7%E5%AE%B3%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A
★↓もご覧下さい(日本への原子爆弾投下、「4.1被爆者を使った人体実験」をご覧下さい)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%B8%E3%81%AE%E5%8E%9F%E5%AD%90%E7%88%86%E5%BC%BE%E6%8A%95%E4%B8%8B#.E8.A2.AB.E7.88.86.E8.80.85.E3.82.92.E4.BD.BF.E3.81.A3.E3.81.9F.E4.BA.BA.E4.BD.93.E5.AE.9F.E9.A8.93 -
これはミサイルですね。
でも、ここで展示してあるからには、普通のミサイルではなさそうだね。多分、超小型核ミサイルかと思います。 現在では核弾頭が非常に小型化されています。例えば、W54型核弾頭は、直径28cmほどで長さ70cm強、重さ約28kgのサイズにまで小型化されているようです。それでいて、その破壊力はTNT火薬で約250トンもの能力を持っているようです。
ですから、小型の核弾頭をこのようなミサイルに装着して、「戦術核」として使えるようにしていると言うわけです。でも、破壊力はとてつもなく大きく、絶対に使ってはならないものなんです。
こういう技術の発展は、本当に困ったモンです!!!当家のカミさんだったら、絶対に許さないと思います!!!!
★W54核弾頭の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/W54_(%E6%A0%B8%E5%BC%BE%E9%A0%AD) -
「原爆はドイツを対象に開発されたが、後に目標を日本に変更・・(中略)原爆投下の理由として、早期終戦のためと言われているが、20億ドルを投じたマンハッタン計画の成果を誇示する目的もあった。またソ連との冷たい戦争の最初の作戦という性格も持っていた。」
なるほど!と思います。確かに、原爆投下の直接の理由として、このようなことも言えるでしょう。
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しかし、戦争は各国の利害が激突する最大の戦いです。その上、この説明にある通り、戦後を展望して世界は激動していたのです。 問われるべきは、激動する世界の中で軍と政府がいかに日本を、国民を、守ろうとしたか!!!!ではないでしょうか。
制空権や制海権も失い(だから特攻をした)、大規模で広範囲な爆撃で工場も国民生活も輸送手段も破壊され、沖縄戦以後には大陸にいる陸軍も戦争継続は無理と判断したように、幹部の誰もが胸の中で敗戦を確信するようになったのです(然し、会議では誰も戦争終結を言い出さなかったようです)。
そんな時に、ヤルタ会談とソ連参戦情報、原爆開発成功とテニアン島へのB-29の小規模部隊(特殊部隊)配備・訓練、広島・小倉(長崎)方向へB-29が向かっていること等々、ますます切迫した状況が現地や通信部隊から打電されてきていたのです。
それなのに、そうした情報を軽視乃至は無視して、「一億玉砕」「本土決戦」を叫んで主婦にまで竹槍を持たせて訓練させてきたのが、原爆投下前の日本の実態です(ソ連参戦情報を軽視した背景には、「ソ連に終戦工作を依頼していたから」との説明がありますが、日本側の戦争終結条件の提示が曖昧で相手にされませんでした)。
戦争能力も、産業・経済力も、国民生活も全てが逼迫した中で、御前会議で戦争終結を言い出せないままに戦争をズルズルと引き延ばしていた時にソ連参戦の時期が迫り、戦後のソ連との覇権を考えたアメリカが焦ったと言うことも、考えられます。
その時、その場に出会わなければ自ら決断出来ない日本の体質が、焦りを感じたアメリカに7月20からの模擬爆弾での「投下練習」の猶予と、原爆投下の「場」を与えたとさえ言えるのではないでしょうか。
ネット記事を見ていますと、「原爆投下とソ連参戦で、日本人はようやく『戦争を終わらせよう』と言えるようになった」との記事を散見します。さらには、「原爆投下とソ連参戦がなかったら、「一億玉砕」のもと米ソの猛攻撃の中でどれほどの犠牲が出たかと思うと、原爆投下とソ連参戦はむしろ「不幸中の幸い」だったという記事までありました。 戦争と原爆の犠牲になった方々には失礼ですが、あの当時の日本の政治・組織・社会の体質を考えますと(この体質は、現在も!!)、そう考える人がいるのも頷けないわけではありません。
相手のせいにするのではなく、その時々の情勢と情報を自分たちがどのように受け止め、如何に行動してきたかを問い返すべきだと思います。特に『身内』である海外駐在武官や大使館からの情報さえ軽視・無視したことは、極めて重大な問題だと思います。
激動する情勢を判断する基準は、「人を大事にする・愛する」ことだと思います!!。
だいぶ、カッカ!!としてしまいました(>_<)
★ヤルタ会談の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%AB%E3%82%BF%E4%BC%9A%E8%AB%87
★ソ連対日参戦の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E9%80%A3%E5%AF%BE%E6%97%A5%E5%8F%82%E6%88%A6
★「ソ連参戦情報」にても検索されてみて下さい。 -
ここでも、文面の一部を少し書き出します。
「・・東西冷戦の中で、核兵器の開発競争がエスカレートし、核兵器によって戦争を抑止しようとする考えが生まれた。(中略)1990年代に入って、米ソの対立が変化する中で、表面化する各地の民族紛争や内戦を背景に、核兵器などの拡散や地域紛争での核兵器使用の危険性が心配されている」
とのことです。
核兵器使用を抑止する運動はとっても大事ですね。
朝鮮戦争、ベトナム戦争、イラク戦争などで、核兵器使用の議論があったようですが、市民運動を含む世界の世論の力で思いとどまったようです。
戦争を体験した世代が高齢化と共に減少し、その子供で親の世代の戦争体験話を聞いて育った私たちの世代まで高齢化してしまって(-_-;) 今の若い世代には、戦争が「昔の出来事」のようになって来た感があります。それだけに、戦争や核兵器の話も切り出しにくい時代になってしまいました。メディアも大いに変わり、ニュースまでもが話題と興味とを重視する流れに変容してきました(>_<)。
時代の変化と共に、再び「やり手」の指導者が登場するようになってきて、真面目な議論を軽視し、相手を責めたり話を逸らしたりする政治手法・議会運営が目立ち始めてきました。それこそ「核兵器使用の危険性」を心の隅っこに感じるようになってきました。
核兵器の時代には、日本の三原則「核兵器をもたず、つくらず、もちこませず」加えて、「使わせない」を、世界の世論にしていく必要があるのです。そのためにも、真面目な政治運営に努めると共に、「平等・互恵・相互不干渉」の国際関係を強めていくとが大事だと思います。 -
↑のミサイルの下にあった説明板です。
文面の途中からですが・・
「現代の核兵器は、広島・長崎に投下された原爆に較べ、破壊力も命中精度も格段に進み、人類は今もその恐怖のもとにさらされており、1日も早い核兵器の廃絶が、私たちの大きな課題となっています」
と、訴えています。
私たちは、核兵器の怖さを知るだけでなく、忖度し合う社会の雰囲気に負けることなく、お互いがそのことを話し合って、理解を深め合う輪を広げていくことが重要だと思います。
真面目なことを言っても「証拠は何よ?」「そんなことないよ」と言い返されます(T_T)。そうではなく、「そうなの、こんな事も聞いたよ」「これは、どう?」というように、話題をより良い方向に盛り上げていく議論が出来る社会になると、みんなの力で核兵器の危険を抑えられるようになるのではないでしょうか。 -
1935年は1931年の満州事件から4年ほど、満州国スタートから3年ほど、1937年の盧溝橋事件まで3年の時期に当たります。
この時期に天皇機関説が攻撃されたんですね。
満州にも関東軍が駐留しており、現実的には戦争状態になっていた時代かと思います。そうした中で政党政治が力を失い、天皇主権説を唱える勢力が強まり、ついに30年来ほぼ通説とされてきた天皇機関説が攻撃されるようになったのです。
天皇機関説でも天皇主権説でも、国民主権でも、情報を隠さずに共有して、メンバーや国民が情報を活かし得るような議論を積み重ねる力量を持ち、より良い国と地域を建設していくことが出来なければ、何の役にもたちませんね。
時代や組織が違えども、権威を中心に構成される組織は、情報や人々の能力を有効に活かせないことが多く、いずれは様々な停滞や失敗を生みだし、それを隠すようになっていきやすいですね。
1936年には、ロンドン軍縮会議から脱退するなど、世界から孤立していく方向を強めていったようですね。
★天皇機関説の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E6%A9%9F%E9%96%A2%E8%AA%AC -
1937年と言えば、
「大本営発表!全日本帝国陸海軍は、カリブ海において敵戦艦3隻、空母5隻、巡洋艦4隻、駆逐6隻を撃沈・撃破せり!!我が軍の損害は軽微なり」
そんな戦果発表を繰り返した「大本営」が、設置された年だったんですね。 この時期、宣戦布告のない「日支事変(日中戦争)」の本格化で、日清戦争、日露戦争以来3回目の設置となり1945年に敗戦するまで続いたのです。
大本営は「陸海軍の最高統帥機関」ですが、もう一つ「最高戦争指導会議」もあるんですね。どっちが「最高!」なんでしょうか??
「最高」なのもカッコ良いですが、そこ集まる人たちが下部からの情報をキチンと受け止めて、国民を守る立場から責任ある判断を下し、会議の場で誰にも忖度せず、曖昧なことを言わず、自分の身体を張って堂々と自分の意見を言えたがどうかが、問われますね。
その資質と能力があってこそ、あの当時の国民を守り、天皇を守ることにもなるんだけど、さぁ、どうだったでしょうか??
そして、国家総動員法ですね。戦時体制が着々と形成されていく時代でした。
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右の写真は、主婦?と察せられる多数の女性たちが拳銃の射撃訓練をしています。
「女性兵士」という言葉は知っていますが、一見して主婦かと思う女性が拳銃を構えているなんて、どういうことでしょうか。
写真の服装ですと、昭和7年に結成され活動していた国防婦人会(大日本国防婦人会)の訓練かも知れませんね。この婦人会は陸・海軍系の組織でしたから、このような訓練があったのかも知れません。昭和17年には大日本婦人会に、昭和20年3月には国民義勇隊に統合されていきました。女性を含む国民の全てが、戦争遂行に結集され強化されていったようです。
この時代に様々な形で人々を組織した団体について、現在もネット上で「悪く言う人もいるけれど、楽しい行事もあり、助け合いもあったし、良い面を見て欲しい」と、主張される方もおられます。確かに楽しいこともあると思います。
問題は、国防婦人会、地域の隣組、青年会、銃後後援会、勤労報国隊等々・・に組織化されることによって、楽しいこともあると同時に、人々は周りに気を使い組織の隠然たる権威を恐れて、社会的・政治的なことについて自由にものが言えなくなる社会になっていくことです。
夫や息子が招集されて戦場に行くことになっても、娘が女子挺身隊員で各地に派遣されても、政府や軍が何を提起しても、「イヤ」とも「ダメ」とも言えなくなる社会になることです。 社会的意味では、人としての「個」が抹殺され、集団に取り込んでいくことです。このことは、2017年のこの時点でも、社会の隅々にありますし、その傾向が強まりつつあると思っています。
★国防婦人会の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%98%B2%E5%A9%A6%E4%BA%BA%E4%BC%9A
★大本営の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9C%AC%E5%96%B6 -
1939年のハチマキをした女性の姿は、竹槍訓練か銃剣術訓練をしているのでしょうか。それとも消火訓練でしょうか。 どちらにしても大変なことです。
竹槍訓練をして、それが米軍に対して実際にどの程度有効かと考えると、あの時代を前提に考えても私は疑問に思います。
米軍と戦って生き残った兵隊さんの話を読みますと、
「こちらは小銃で狙い定めてパン・パンと撃つのだが、向こう(米軍)からは機銃の弾をダーッと川の流れのように撃ちながら向かってくる。4、5挺の機銃どころではない。身を伏せるしかないのだ」
と言うことでした。
そんなことは上層部も知っているのに、精神論で押し通してしまう・・(-_-;) もし、米軍が日本に上陸してきたらと思いますと、竹槍がどれほど有効か?などと言っておれないと思います。
何をやるにしても、金も物も人もドンと投入してコトにあたるアメリカのこと、猛烈な銃爆撃で計り知れない犠牲者が出ることでしょう。
消火訓練にしても、火の周りの早い日本の木造家屋の火災を相手に、バケツで水を掛けて消火するなんて現実的ではないですね。防火水槽と言っても3辺が60cmから1m程度のものが多かったとか。空襲ですから、周囲の家が燃えていることが多く、自分の家を消火しようと水を掛けているうちに、火と煙に巻かれて倒れる人も少なくなかったとか。
当時の消火訓練のときでも、バケツによる消火に疑問を持った良心的な消防署員が、
「消すよりも、逃げてくれ」
と、指導した事例もあるそうです。
竹槍訓練・銃剣術訓練・消火訓練は、効果的な戦闘方法とか消火方法と言うよりも、人々に「敵に立ち向かう」という気概を持たせるための、精神論の一つだという人もおられますね。国民の命を守ることよりも、本土決戦、戦意高揚に向かってさらなる犠牲を強いる訓練のように思います。 -
1941年12月に真珠湾を攻撃してから、僅か4ヶ月でラングーン(ミャンマー・ヤンゴン)、スマトラ島、ジャワ島占領まで行ってしまったんですからね。ちょっとやり過ぎだけど、勝利に次ぐ勝利で国民も沸き返ったと思います。しかし、これまででしたね。
何しろ、軍幹部の誰もが最初から勝てないと分かって始めた対米戦争ですからね。
欧米の技術を取り入れて物は作るけど、参謀や軍令部幹部の主観的・願望的意志に基ずく上意下達の日本では、部隊と兵器の運用(作戦)が下手だし、部下や現地からの知識や情報を軽視するし、石油や鉄をはじめ資源もない。食糧も少ない。アメリカとやれば早晩負ける。
アメリカとはどんな国か? 資源に富み、産業と経済力、教育・研究、技術と運用についての人と知識と予算の集約度、米国国民の高い生活の質(鉄道と航空路線とが競争していた、自動車が普及し高速道路も結構あった、対話の出来る国民性等々・・)など、日本とは比べものにならない国です(もちろん、問題はありますが、基礎的な比較です)。
ですから、アメリカを知っている軍幹部(山本五十六ほか・・)は、負けることを承知で、戦争開始に従ったんですね。
そんな米国を相手に、ジャワ島・スマトラ島占領の3ヶ月後にはミッドウェー海戦で敗北を喫し、そこから負け戦が続きますね。
それにしても、北部仏印(ベトナム北部)進駐でやめておけば良かったのに、フランスがナチスドイツに降伏した弱みにつけ込んで、南部仏印(ベトナム南部・カンボジア)進駐までやってしまったことは、欲張りすぎでしたね。
仏印進駐の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E5%8D%B0%E9%80%B2%E9%A7%90 -
↑の写真の続き(下)です。
対米開戦から翌年・翌々年となって来ますと厳しい状況になってきますね。
ビックリしたのは、対米英開戦の2ヶ月前に、大学・専門学校の修業年限の3ヶ月短縮を決めていることです。開戦の12月に臨時徴兵検査を実施し、合格者を2ヶ月後の2月に入隊させていることです(その後、修業年限はさらに短縮されましたが)。
兵力の不足が現実感を増している中で、学生にまで目をつけたことに本当にビックリしました。そんな時に対米英宣戦布告をするなんて、真面目にやる気があったの?と問いたくなります。
そして、玉砕(全滅)が始まっていることです。
開戦の2ヶ月後には、ルソン島のバターン半島から玉砕の電文が届き、42年12月にはパプアニューギニア島南部の「ゴナ」で玉砕。以後パプアニューギニア島南部の「ブナ」で日本軍が玉砕(43年1月)、以後ガダルカナル(43年1月)、アッツ島(43年5月)と玉砕が続きます。
玉砕というのは、敗色が濃厚になっても投降せず、全員が「戦死」すること、させることですね。
これ以上闘っても負けると判断した時には、投降するのが当時の世界の流れでしたが、「生きて虜囚の辱を受けず」と言う戦陣訓などの指導の下、敵軍の前面に身を晒してまで「玉砕(全滅)」させたことは、あまりにも残酷非情なことですね。
教育勅語や軍人勅諭・戦陣訓など、個人の命や人格の尊厳よりも天皇と国への忠誠が強調され続けてきました。明治以来さらに美化された武士道の考え方とも相俟って、教育の場でも人々の間でも「死んでお国に奉公」という言葉が当たり前になっていた中では、全滅の実態を知らないまま「玉砕」と美化される中で、親族さえも声を上げず、一般大衆にも「玉砕」が受け入れられてきたのですね(批判出来なかった面もある)。それどころか、今もなお教育勅語が一部の語句を捉えて美化されているのですからね~(>_<)。孫子の代はどうなるのか?心配です。
ドイツやイタリアでは抵抗運動もありましたが、個人の意志形成が未発達な日本では、明治以来の徹底した教育と組織化、監視・摘発などと重なって、そういう抵抗運動は成長しなかったですね(「個人的」という形での批判・抵抗はありましたが)。
「全滅させられた」にも関わらず、「玉砕」「壮烈なる戦死」とされた戦いとしては、一般的には15件あります(これに加えられない事例は、ゴナ・ブナほか何件かあると思います)。
★学徒出陣の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%A6%E5%BE%92%E5%87%BA%E9%99%A3
★玉砕の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%89%E7%A0%95 -
この頃になって来ますと、日本はいよいよ追い詰められます。
ここでは、あの有名な「インパール作戦」が1944年3月に開始されています。それに沖縄戦敗退、原爆投下、ソ連参戦、降伏、シベリア抑留などの重大事が続きますね。
インパール作戦は、無茶な作戦と悲惨な結末であまりにも有名です。
沖縄戦も酷いですね。それに加えて九州からの特攻機による米国艦隊への特攻攻撃、戦艦大和による特攻出撃等々・・。悲惨な話が多いです。戦艦大和出撃の話や九州各地からの特攻攻撃の話も、悲惨ですね。
そして、ソ連参戦とシベリア抑留。
ソ連参戦では、1945年5月から7月に掛けて、スイスのベルンやポルトガルのリスボン駐在武官らから、ヤルタ会談でソ連が対日参戦を約束したことを打電してきているんですね。またソ連駐在武官やモスクワの日本大使館からシベリア鉄道で武器・戦車・兵員が東へ送られていること、危険が迫っていることを打電してきているのに、そうした情報を軽視したんです。日ソ不可侵条約の不延長を通告してきたソ連の動向を、細心の注意を以て警戒すべき時に、この有様です。
日ソ不可侵条約の不延長の通告、ヤルタ会談で米英と対日参戦の約束があったことから、ソ連の対日参戦を一概に「国際法違反とは言えない」という人もいるのです。
何よりも、情報を軽視して、適切な対処をしなかった日本の軍部の責任を問わず、「ソ連の突然の参戦」だけを声高に言うのはおかしいです。
そればかりか、ソ連に対して「降伏する際に『国体護持』を約束してくれるなら、満州にいる兵士・居留民を捕虜として差し出す」とまで言っていたのです。兵隊さんや国民を生け贄にしてまで「国体」を守る。ここに「国体」の本質が露わにされていると言って良いと思います。この件では、裁判まで起こされています。
★シベリア抑留では、下の旅行記も参照されて下さい
http://4travel.jp/travelogue/10770489
こうした一連の流れは、日本の近代化が如何に歪なものであったかを示すものに他なりません。そうした体質は、今この時点の日本にしっかりと受け継がれているのです。
もっと言いたいですけど、この辺でやめておきますね(^^;)
★インパール作戦の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%AB%E4%BD%9C%E6%88%A6
★シベリア抑留は、「国体護持と捕虜抑留」にて、検索されてみて下さい。 -
↑の写真の続き(下)です。
右下には、東京大空襲、悲惨な沖縄戦、原爆投下とあります。
東京大空襲は、B-29が325機も飛来し、38万1300発、1783トンもの爆弾を投下して、一夜にして東京を焼け野原にし、8~10万人の命を奪ったとのことです。まさに「大空襲」です。住宅地まで無差別に爆撃したことは、ハーグ陸戦条約に定める「軍事目的主義」に明白に違反するもので、大いに非難されて然るべきです(しかし、日本も含めてどの国もやりました(-_-;))このような爆撃が日本各地の都市を壊滅し、多くの命を奪いました。
爆撃による死者を増やしたもう一つの要因に、「防空法」があると言われています。 それは、内務大臣通牒の「空襲時ニ於ケル退去及事前避難ニ関スル件」で、「退去ハ一般ニ行ハシメザルコト」と定め、「応急消火義務(第8条ノ7)」も定めているのです。その際、焼夷弾の火災誘発と延焼能力の説明はなかったというのです。
人々は国民は空襲時の退去(避難)を禁止され、空襲の火に海の中で懸命な消火にあたったと言うのです。このために自らも火に巻き込まれて、命を落とした人多かったと言うことです。
原爆投下については、アメリカで原爆が完成していたこと、B29の小部隊がテニアン島に配備されたこと、7月20日から多数の模擬原爆(パンプキン爆弾)が投下されていたことなど、事前に警戒する情報はあったのに、十分な分析と警戒をしていなかったようです。
原爆投下当日も、テニアン島から広島・長崎(小倉から転進)へ発進したB29からの電波を受信したことを参謀本部に知らせたのに無視され、戦闘機の迎撃とか空襲警報を出すとかの手立てを講じなかったことが分かってきています。せめて、空襲警報でも出しておれば人々は避難をすることが出来たはず!!犠牲者を1割でも2割でも減らせかも知れないのです(T_T)
沖縄戦と大和特攻出撃のことはよく知られていますので省略します。
ですが、兵力が消耗していた日本軍は、沖縄守備で配備の師団を台湾その他に分散せざるを得ず、結果として住民を守ることが出来ず、米軍の本土攻撃までの「時間稼ぎ」として、住民をも巻き込んでの「持久戦」を考えていたようです。戦争の経験が遠い過去になるに従って、今では沖縄の人々の苦しみを理解していない人が少なくないですね。
大和特攻は、作戦としては艦長が拒否した代物です。その艦長を「ウン!」と言わせたのは「一億総特攻の魁(さきがけ)となって頂きたい」という説得で、それを聞いた伊藤艦長は「そうか、それならわかった」と即座に応えたというのです。
一億玉砕が叫ばれている時に、建造が公にされていない「戦艦大和」を残すわけにはいかないと言うことらしいです。ここでも、大本営と海軍軍令部のメンツが優先され、海軍兵士と大和という船が犠牲にされているのです。空母などの航空戦力の護衛も既になく、まさに作戦とは言えない「死」の為の特攻だったのです。
言い出すと、キリがないですね(-_-;)
★沖縄戦の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E7%B8%84%E6%88%A6
★大和特攻出撃の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%8A%E3%83%8E%E5%B2%AC%E6%B2%96%E6%B5%B7%E6%88%A6
★日本への空襲の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9C%AC%E5%9C%9F%E7%A9%BA%E8%A5%B2
★原子爆弾投下の詳しいことは「原爆投下 活かされなかった極秘情報」も、検索されてみて下さい。
★防空法の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%B2%E7%A9%BA%E6%B3%95 -
広島・長崎への原爆投下以来、核兵器はいろいろに発達してきました。こういうものは発達させなくても良いのに、馬鹿な政治家やヒマな科学者がいるもんですね。
現在では、原子爆弾、水素爆弾、中性子爆弾、コバルト爆弾、ダーティー・ボムと言われる「核爆弾」があるようです。 使い道に応じて、大型、中型、小型、超小型と、大きさや形も多種多様になって来ています。戦車砲から撃てるものもあるようです。 そのうち、機関銃から撃てる物が出てくるかも??
ロボット戦車やロボット兵士に、超小型核兵器を装備して攻撃するなんてことも、「技術」という面からだけで考えれば、出来ないことではない・・(-_-;)
科学者は核兵器開発なんかに協力してはイケナイ!!
1957年にアインシュタインやバートランドラッセル、湯川秀樹らが結集して、「原水爆実験を禁止せよ」という声明を出したのです。その後、日本からは朝永振一郎、小川岩雄、坂田昌一などの科学者が結集しています。
第1回会議がカナダのパグウォッシュで開かれたことから、「パグウォッシュ会議」と呼ばれています。2015年には長崎で第61回世界大会が開かれました。
★パグウォッシュ会議の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%82%B0%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5%E4%BC%9A%E8%AD%B0 -
核攻撃の方法。
今では飛行機を使わなくても、ミサイルでどこへでも撃ち込める(>_<)(*_*)
衛星システムを使えば、5~6mの精度で狙われると言うのですから、たまったモンではないですね。
バナナに桃にリンゴとアボガド、海鮮丼にサーロインステーキ、そしてニンニク・トマトに、仙台の牛タンでもソッと届けてくれる「人情ミサイル」でもつくるなら、話は分かるけど、殺人ミサイルはお断りだね。 -
NPT(核不拡散条約)。
核兵器を持つ国を今以上に増やさない。もちろん、現在核兵器を持っている国は核兵器を削減しなければならない。1970年から発効した条約です。これ本当に大事です。
しかし、この条約に参加しない国がある。この条約に参加していても、核兵器の開発や実験をしたり、先制攻撃もあるかも?と言ったりする。これは困ったことですね。
それなら、いっそのこと核兵器を禁止しようとなって、「核兵器禁止条約」が提案されました。そうです!!「造らず、持たず、蓄えず」。これですね!!
ところが、NPTの会議で、核兵器は非人道的なものだから、いかなる状況でも使用してはイケナイとする共同声明に、日本は署名しなかったのです!!(-_-;) 唯一の被爆国なのにどうして??NGOなどから批判の声が上がったのは当然ですね。
核兵器を単にただ「不拡散」と言うだけなら、持ってる国はどうなの??と言いたくなりますが、核兵器を持ってる国に対して「使っちゃダメ!!」と言うのは良いことだと思いますけど、被爆国の日本はアメリカの核の傘に忖度したのか、協力しなかったのです。
そういう日本の姿勢は、核兵器禁止条約に不参加表明となって現れています。被爆国としての立場もある日本政府は、拘束力の弱い「核兵器廃絶決議案」を提出しているのですね。
核兵器をこの世界からなくしていくためには様々な努力が必要ですが、日本は核兵器禁止条約も含めてそうした努力に加わり、共に頑張るべきだと思います。
長崎市では、長崎市長が国連本部での核兵器禁止条約第2回交渉会議に、日赤長崎原爆病院名誉院長で被爆者の朝長万左男さんを特使として派遣するようです。しっかり頑張ると共に、政府にも働きかけて欲しいと思います。
★核拡散防止条約の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%B8%E6%8B%A1%E6%95%A3%E9%98%B2%E6%AD%A2%E6%9D%A1%E7%B4%84#.E6.9C.AA.E5.8A.A0.E7.9B.9F.E5.9B.BD
★核兵器禁止条約の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%B8%E5%85%B5%E5%99%A8%E7%A6%81%E6%AD%A2%E6%9D%A1%E7%B4%84 -
核技術に拘わらず先端技術とか最新情報というものは、常に注目されていますからね。軍事技術なんてのは、特にそうだと思います。
パキスタン、インド、イスラエル、北朝鮮、イランなどが、どのようにして核技術を手に入れたのか?いろいろな問題があると思います。 同時に現在の科学技術からすれば、それだけの情報は溢れていますから、その気になって取り組めば核兵器開発は不可能ではないと言う人もいます。
他方では、核兵器を持ちたくなる環境も大きいと思います。パキスタン、インドは一時期軍事的にも緊張していましたからね。イスラエルはパレスチナ問題で常に緊張していますし、イランも似たような環境にあります。北朝鮮も絶えず緊張を感じているし、自らも緊張を作り出している国です。
そういう点では、平和な国際環境を築くことも大事なことかと思います。 -
核兵器の解体って、難しい話なんですね。
車でも住宅でも、造るのは良いけど、上手に解体するとなると難しいですからね。それと同じですね。
実は、私は当家のカカア天下を解体して、本格的な「亭主関白」をドーン!と打ち立てたいのです!!それが、考えてみるとなかなか出来そうにないね(-_-;)
食事を作るのは簡単!!なんでも鍋に放り込んでしまえば煮えますからね(^o^)
でも、魚や肉を焼いたりご飯を炊くのは難しい。ウッカリすると真っ黒こげになるからね。
それに、洗濯機の操作が分からないし、スーパーやガソリンスタンドのメール会員の使い方も分からない。電子レンジや冷蔵庫の設定も分からない(-_-;) 何より銀行の通帳がどこにあって、カードはどこにあるかも分からない。自動支払機でお金を下ろすやり方も分からない。スーパーでの値切り方も自信がないし、レジでお金を払うのも恥ずかしい(^^;)
カカア天下を解体するなんて、大変なことなんですよ!! 亭主関白実現を指導出来る専門家はいるのかな??
そんなことで苦労するより、カミさんの足腰でもマッサージして、三度のお茶碗洗いでゴマでも摺っていた方が、気持ちがラク!!ってモンですよ!!
亭主の皆さんは如何ですか? -
広島の原爆ドームです。
爆心地からおよそ200m弱ほどの至近距離にあったのですね。
頑丈な建物だったことから、超高温と440mもの爆風に耐えて、建物の形がこれだけ残ったにも拘わらず、この建物内にいた人は全員が即死したとのことです。
この建物を、よく残し保存してくれたものと思います。
戦争をさせない、許さない!!平和の大切さを私たちに伝えてくれていると思います。 -
原爆資料館からの帰りに近くを通りましたので、皆さんで記念写真を撮りました。
長崎原爆資料館で見た被爆状況の写真は、本当に悲惨なものばかりでした。爆心地の地表面温度が3000度から4000度もあり、1.5km離れた所でも600度にもなることは初めて知りました。爆風も調べてみますと中心部付近で300~400mの風速だったとか。
原爆こそは、まさに広大な範囲をたった一発で「焼き尽くし、殺し尽くす」兵器だったのですね。
戦争というものは、人が国家単位で殺し合うもの。
現代の核爆弾とミサイルを考えれば、一旦戦争となれば、あの長崎の5倍~10倍、20倍もの人々が、たった一発の核爆弾で焼き尽くされるのです。それがどれほど使われるのか?と思いますと、戦争は絶対に避けなければなりません。
長崎の被爆実態は、戦争をしてはイケナイことを私たちに教えてくれているのだと思いました。
そして、改めて感じたことは、あの戦争の時代の困難を他国や他人のせいにすることなく、当時の内外情勢のもとで日本人自身(政府・軍部、地方行政担当者、教育者、宗教者、報道機関、国民)が情勢をどう受け止め、知らせ合い、理解し、話し合って、何をどう決めてきたかを知ることの重要性です。
そういう行動と段階を軽視し、権威を盾に現場からの情報を軽んじ、兵士・国民を守るよりも精神論でその場しのぎの指導をし、重大な問題を他国・他人のせいにしてきたことはなかったか?
戦後70年を過ぎた今でも、日本はあの戦争を総括出来ていないと、自民党の重鎮を含めて非常に多くの人が考えています。戦争指導の責任だけではないのです。ソ連参戦情報や原爆投下機の発進情報を軽視してしまったように、あの時代の意識や組織・行動のあり方を総括することが避けて通れない課題なのです。それが出来ない結果、日本はあの時代の悪習を、この時代になっても引きずっていると思うのです。
長崎被爆の悲劇は、核兵器による災難を再びこの世界に起こさないために、我々が何を学ぶべきかを教えてくれているのです。学ぶことの基礎にあるべきことは「人々への愛」「人々の幸せを願う心」「譲り合う心」だと思うのです。人々を愛し守るために、私たちは長崎の教訓から学ばねばと思うのです。
書いているうちに、燃えてきてしまいました(^_^;)。
明日は、釜山寄港です。
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この旅行記へのコメント (4)
-
- 白い華さん 2017/07/11 19:04:05
- カメちゃん。 いずれ・・・「広島 原爆資料館」にも 行くなくては〜っ ?
- 今晩は。
「日本各地!で 戦争・・・の 悲惨さ。を 伝える 記念館など」を こまめ・・・に 歩かれている カメちゃん。なので、
この先、「広島」にも お出掛け!されるのでは〜 ?と 思いました。
そして、 やっぱり・・・「極めつけ!は 広島」でしょうから、 是非、お出掛け!して、
「その 感想!を 再び、聞かせてもらいたい」と 思いました。
こうゆう 「戦争関連! 原爆関連・・・の 記念館」って
「中国。 韓国。 台湾。 香港など・・・の アジア人!観光客。って あまり、訪れないみたい」に 見えるンデスヨネ〜。
「広島」は、 「白人。 イスラム系!アジア人。など、すごく、興味深く、 記念館を 拝見していた」って 記憶が あります。
皆さん、「宮島」も 見たくて、「広島入り!するんでしょうが、 本命は、原爆資料館」で ひとりひとり!が 「平和。 戦争の 原爆とは・・・ ?」を 問うているんでしょう。と 感じました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
『 日本一周! クルーズ旅行 』 で 立ち寄った・・・「長崎」でも
とっても、深い!心情・・・を 抱きつつ、「じっくり!と 原爆。戦争・・・に 向き合う カメちゃん」。
ほんと、「優しい! ジェントルマン」って しみじみ、感じます。
長崎は、「三菱の 軍・・・の 一大!工場地帯」で 「原爆投下」と なったんですね〜。
グニャリ!と 熱線・・で 折れ曲がった 「工場の 鉄柱」と その 威力!には、
人間なんで 「どうにも、ならない」って 思いますヨネ〜。
ほんと、「改めて、 爆心地!から 1.5km 88%の 犠牲者」を 肝に銘じて、
これから・・・未来。で 「そんな 核兵器が 使われない!世界を 作ること」を 願いますよね。
いやぁ〜、「北朝鮮が 心配だわ〜」 (汗)
「長崎」では、 いろいろ 勉強させてもらい
改めて、「8月の 終戦記念日。 長崎・原爆投下日」を 迎えたい!と 思いました。
これからもよろしくお願いします
- カメちゃんさん からの返信 2017/07/12 12:00:57
- RE: せめて、空襲警報でも出ていたなら・・
- 白い華さん
長崎原爆資料館編を見て下さって、嬉しく思っています!!
人々のこのような悲惨な様子を見ますと、どうしてこんな目に遭わなければならなかったのか!!という思いに駆られてしまうのです。
原爆や戦争で亡くなられた方々に、その死を悼み、涙を流して慰霊するだけでよいのか?? 知覧特攻平和会館を訪ねた時には、そのことをとても強く感じました。
原爆投下自体はアメリカによってなされたことですが、その原爆投下を防ぎ得なかったのかという点では、当時の日本のありようが大きな問題ではなかったかと考えられてならないのです。被害の大きさと、あまりに歪んだ日本の姿とを知りますと、居ても立ってもおれないような気持ちになってしまうのです。
戦争関連施設をつくるなら、せめて世界史的にも例がないと言われる非人間的な玉砕や特攻、「戦死者」の半数以上が「餓死・病死」だったこと、原爆情報を軽視・無視したことなどに触れて欲しいですね。
ドイツが、あの時代の問題点を公にしていますが、このあたりが日本とは大違いですね(背景には、戦争に明け暮れたヨーロッパの歴史があると思います)。海外ではどのような戦争記念施設を造っているのか?いないのか?知りたいところです。
そんなわけで、旅行記の文面もついつい長くなってしまいました(-_-)
会社は従業員の成績査定はするけれど、中身は公開しないし、不服申し立ての制度もない。非正規社員や長時間労働は減らず、何かを言えば、色眼鏡で見たり否定したり、査定で落とす「世間」「団体」「企業」が未だに健在で、会話が続かない(-_-;) 個人の資質を見ず、顔の良し悪しとかバックの権威、血族で人を見る(-_-;) 個人で市議会傍聴などに行けば、いつの間にか世間に知られ、色目で見られる(=_=) 公開を建前とする行政も、実質は隠しごとも多く闇の世界と言えるでしょう。
こんなことが思想や政治信条の左右を問わず広く存在しており、人々は「腐った権威と世間に気を使いながら」意見を控えて暮らしているのが、今の日本のような気がします。まさに、あの戦争の時代の陰を引きずっていると言えますね。
あの戦争とその時代を総括することは、当時の政府・軍部の責任を問うだけでなく、私たち自身が引きずっている負の遺産を振り払うことにつながると思うのです。「人を大切にする社会」を建設するためにも!!!
広島原爆資料館もあちらの方へ行く機会があれば、立ち寄りたいと思っています。
北朝鮮について言えば、一定の批判はやむを得ないと思いますが、力による脅しに走るのではなく、各国と協力して「対話」に向けての環境づくりと場づくりに力を注ぐべきだと思います。対話能力の欠如も、あの戦争の教訓だと思うのです。
知覧特攻平和会館の旅行記についても、秋口までには仕上げたいと思っています。
書いているうちに、固い話になってしまいました。
ごめんなさいね。
カメちゃん
-
- ガブリエラさん 2017/06/24 20:02:03
- 平和のありがたさ(*^_^*)
- カメちゃん☆
こんばんは♪
今回は、長崎原爆資料館編ですね。
私は、広島の方は、小学校の修学旅行と、大人になってから1度、2回行きました。
小学校の時は、とにかく恐ろしくて、宿でなかなか寝付けなかったのを覚えています。
帰ってきてからの作文が、すごく具体的でいい!と、先生に褒められました。
きっと、子供の頃の純粋な恐怖が、表れていたのでしょうね・・・。
大人になってから行った時には、少し冷静に見ることができましたが、やはり恐ろしく、悲しく、平和について、ものすごく考えさせられました。
その時に、館内で見学しながら大声で笑ってるアメリカ人(かなりの、アメリカ英語だったので、おそらくアメリカ人)が2人いたので、思わず「笑うんだったら、外に出てからにして下さい!」って注意しました。
すぐに、はっとした顔で、「ごめんなさい」って言ってましたが・・・。
他のことで笑ってたかもしれませんが、非常識な人たちだな・・って思ってしまいました。
私は、アウシュビッツに行きましたが、あそこで笑うなんて、考えられないことです。
戦争というものは、悲しみ、傷みしか生まないものだと思います。
本当に、平和な世界になるのは、夢物語なのでしょうか・・・。
でも、信じて祈り続けるしかないですね!
長崎も、いつか行って、資料館にも行かなくっちゃ、と思います。
ガブ(^_^)v
- カメちゃんさん からの返信 2017/06/25 21:25:55
- RE: 平和への歩み
- ガブちゃん
返信が遅くなってごめんなさいね。
原爆資料館編をさっそく見て下さってありがとう御座います。
原爆資料館編は書こうかどうしようか考えましたが、被爆者の筆舌に言えぬご苦難を思えば、やっぱり書かなくてはと思いました。
資料館の展示を見ていますと、本当に酷い!!残酷!!非情!!!だと思いましたね。たった1発で7万〜10万以上の人々の命を奪ってしまうなんて!!
それでも物足りなくて、長崎原爆の1000倍から2000倍以上の水爆まで造るなんて、ホントに酷い!!人を愛おしく思わないの??と言いたいよ!!
戦争は絶対にダメ!!! 平和が一番!!!!
そう思いますよね〜。
そう思い、平和を願うことはとっても大事なことですね〜(^_^)v
そして、みんなが自由に意見を言えない中で、戦争に向かっていったあの時代をちゃんと総括して、二度と同じ轍を踏まない社会をつくることだね。
被爆者の声に応えるには、一人一人のそういう努力も必要だなと思いました。
きょうは難しいことをお話してしまいました。m(_ _)m
ガブちゃん、ありがとう!!
カメちゃん
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