2013/04/08 - 2013/04/09
111位(同エリア327件中)
カメちゃんさん
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昨年末、私たちの仲間だったDさんが、ご家族の深い御事情で舞鶴へお帰りになってしまわれたのです。
時々、以前ご活躍になった舞鶴でのこととか、引揚船のこととかのお話を伺っておりましたので、Dさんのお顔でも見に行きながら、舞鶴ってどんなところか知りたいという話で仲間の気持ちが一致して、出掛けて行くことになったのです。
出掛けるに当たって、ホテルの予約等もお願いしてしまったのです。また、見学先の下見から選定までしていただき、さらにタクシーの準備までお気遣い下さって、本当にお手間をお掛けしてしまいました。
お陰様で、仲間同士の初めての一泊旅行は、とても中身の濃い勉強となったのでした。
それでは、ことの顛末は本文にて。
【※】参考資料
☆「検証 シベリア抑留」白井久也著 平凡社
☆「シベリア抑留?未完の悲劇」栗原俊雄著 岩波新書
ほか、多数
★★ 次の旅行記 「舞鶴の友を訪ねて(その2・田辺城址ほか)」
は、↓をクリックされて下さい。
https://4travel.jp/travelogue/10770692
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 5.0
- 交通
- 5.0
- 同行者
- 友人
- 一人あたり費用
- 1万円 - 3万円
- 交通手段
- タクシー 新幹線 JR特急 私鉄
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
きょうも電車でお出掛けですか?
「左様で御座います」(^_^)v
アンタはホントに電車が好きだね〜。
「近場以外は、どこでも電車でいきますよ〜。なんせ、ジパングに入ってるからね〜。」(^-^) -
ンなことを言ってたら、もう名古屋駅に到着です。
ここは新幹線の大阪方面へのプラットホームです。
今日と明日、一緒に旅するお三方で、左からAさん、Bさん、Cさんですよ。 -
話はトントン拍子に進んで、ここは京都駅の山陰線プラットホームです。
発車ホームは31番ホーム。エエッ??31番まであるの??これを知った時にはビックリしましたね〜。あのミュンヘン駅に匹敵するかと思いましたよ。
この列車は特急列車の「まいづる5号」です。「はしだて5号」と併結していますので、綾部までは4両で行き(時には6両も)、そこで2両ずつに別れます。京都発車時の後ろ側の2両(自由席と指定席の車両が1両ずつです)が東舞鶴行きです。
昔のプラットホームはどうだったか忘れましたけど、京都駅の山陰線ホームに来たのは四十数年ぶりです。あの時は、友達と合計4人で夜行急行「白兎号」に乗って出雲大社を目指しましたよ。座席を取るのに必死だったことが、懐かしく想い起こされました。
★↓は36番ホームまであるミュンヘン駅です。
https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.000472837010d314f94db&msa=0&ll=48.140026,11.559103&spn=0.005199,0.005525&iwloc=000472fc8442e7c4303ca -
「まいづる5号」の正しい乗り方。
1.乗る前に、お弁当を用意する。←必須事項!!
2.お水を用意する。(ビールも可)
3.慌てずに乗車する。でも、自由席だから席取りのために頑張るね(~o~)
4.発車したら、おもむろにお弁当を頂く。
5.出来れば、お菓子も用意しておく。
6.常備薬も忘れずに。
さて、このお弁当はCさんのお弁当です(^^)
高級にして、健康にも良い内容ですね(~o~) -
これは、私のお弁当!(^^)!
これはね、「サバ寿司」ですよ!!
お酢と、塩の加減がとても良くて、美味しかったですよ!!
旅の楽しみは、やっぱり「食べること」ですからね。 -
なんせ特急列車ですから、もう東舞鶴に到着です。
これでもね、京都からの所要時間は1時間36分でした。
ここで、舞鶴市にお住まいのDさんと再会して握手させて頂きました。とってもお元気のようで、安心するとともに嬉しくなりました(^^)
駅前は写真のように、お花畑を中心にした駅前広場があったりして、いい感じのところでしたよ。
★東舞鶴駅の場所は↓にて
https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.000493975da6fc0b75017&msa=0&ll=35.468421,135.395111&spn=0.002243,0.002763&iwloc=0004d9fdc2a0e00d90c2a -
これよりDさんのご案内で、あの引揚船が来たという岸壁に向かいます。
話に聞き、歌でも聴いていた舞鶴の港・・
心引き締まる感じがしますね。 -
到着したところは、こんなところでした。
戦後13年も引揚事業が続けられ、無数の涙が流されたところにしてはあまりにも閑散としていることに、一抹の寂しさを感じました。
もっとも、このようなところが変に賑やかなのもおかしい。
これで良かったのですね。 -
「まぶたの桟橋舞鶴よ」の歌碑がありました。
遠い潮路のなつかしく
君を訪ねて来た港
あの日のふる里踏みしめた .
まぶたの桟橋舞鶴よ嗚呼
引揚船よ今いづこ .
あつい思いは波の背に
今もせつなく湧いてくる
六十余万のたどるみち
まぶたの桟橋舞鶴よ嗚呼
記念の丘よ何故かなし
積る涙を抱きしめて
せめて浜うた聞いてくれ
未だにはかないあの人も
まぶたの桟橋舞鶴よ嗚呼
五老ヶ岳よ白鳥もなけ
歌詞を読んでいますと、胸にジンと来て涙が出そうな詩ですね。
二葉百合子さんの「岸壁の母」は、とても有名で今でもたまに聞きますが、
「まぶたの桟橋舞鶴よ」という歌は、聴いたことがないような気がします。
私にとっては幻の詩になってしまったようです。 -
正面に見えるのは、平桟橋です。
シベリア・満州(当時の呼び名・中国東北部)、中国、朝鮮などから引き揚げて来た人々が、本船から小型船に乗り換えてこの桟橋に降ろされ、故郷の土を踏んだところです。
どんな思いで故郷の土を踏まれたのか。 大陸で苦労をされてきた人々の想いを想像することさえ、私にはおこがましいことに思えます。
★平桟橋の場所は↓にて
https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.000493975da6fc0b75017&msa=0&ll=35.511618,135.395342&spn=0.002242,0.002763&iwloc=0004d9fd859bfeacc0e05 -
現在ある桟橋は再建されたもので、幅4m、長さ15mの小さなものです。
1994年5月27日に復元されたそうです。
以前は長さが45mほどもあったそうです。 -
引揚当時の様子です。
現在復元されている桟橋は、根本の部分の15mだけです。
実は、舞鶴でも引揚船は岸壁に着岸しているものとばかり思っていたのです。それが、昨年になって舞鶴のお話を聞いたのを機会に調べましたところ、本船は桟橋の沖で停泊して、人々は小舟に乗り換えてこの写真のような「桟橋」に移動し、ここから上陸していたのですね。
とは言っても、アタマの中で分かっただけで確信まで持てなかったです。今回、この現場と引揚記念館を見学して、漸く納得したようなわけでした。
もちろん、引揚船を受け入れた港は博多・佐世保・名古屋や横浜など各地にありましたから、そこでは岸壁に接岸していたかも知れませんね。 -
正面の石垣の積んであるあるところは、「招霊の碑」です。
-
「招霊の碑」の説明です。
シベリアと満州で悲惨な運命を辿り、命を落とされた人々霊を慰めるためにつくられたのですね。
ところで、この碑文はちょっとおかしいですね。
別に旧ソ連を弁護する気などないのですが、「日ソ不可侵条約の一方的破棄による旧ソ連の参戦により・・」という記述です。
旧ソ連の参戦はヤルタ協定で米・英・ソ三国の約束になっていたのですね。もちろん、ソ連が三国の約束を守れば、戦後に樺太南部や千島列島などのソ連領有を認めるという「手土産付き」の約束です。
また、NHKアーカイブスによれば(1993-08-15放送)、ソ連はヤルタ協定の約束通り、ドイツ降伏後にソ連が兵力を極東に移動させていることを、日本のソ連駐在武官が察知していたのです。そして、その情報とソ連が早晩参戦する可能性を関東軍に連絡しているのに、関東軍は無視しました(関東軍もソ連参戦を予期いていましたが、それは「秋以降になる」と根拠のない観測をしていたようです)。
また、当時のモスクワ駐在日本大使館も、ソ連の行動に危険を感じて戦争の早期収拾を何度も打電しているのですよ。そればかりか、日本政府は日ソ不可侵条約の破棄を通告してきているソ連に、米・英との和平交渉の仲介を具体的な条件も示さずに依頼し、適当にあしらわれていたのです。
【※】この件は、「NHKアーカイブス 1993-08-15」で検索されて、ご覧下さい。
さらに、日ソ不可侵条約(日ソ中立条約)も、ソ連は1945年4月5日、日本側に「条約破棄」を通告してきているのですね。日本側は「条約を延長しない」と理解し、「まだ一年有効だ」という判断をしていたようですが、いずれにしても破棄を通告してきたソ連に警戒心を持つのは当たり前なのに、それも怠ってきているのですね。
結局、ソ連はヤルタ協定通り、ドイツ降伏の3ヶ月後の8月8日に宣戦布告をしてきたですね。日本のソ連駐在武官も駐ソ大使も、ソ連参戦の危険性を繰り返し指摘していたのですから、ソ連の「昭和二十年八月八日日ソ不可侵条約の一方的破棄と参戦」は突然のことではなかったですね。
それに、日本自身も秋にはソ連が日ソ不可侵条約を一方的に破棄して参戦してくると思っていたのですから、それが8月8日になったとしてもおかしくないですよね。
そういうことに対する警戒心のなかったことを棚に上げて、「ソ連の突然の一方的条約破棄と参戦」を声高に言うのは、関東軍と政府の油断・怠慢を覆い隠すものでしかないですね。
ちなみに、ソ連が日ソ不可侵条約の破棄を通告をしていること、ヤルタ協定を結んでいること等から、ソ連の対日参戦を国際法違反と見ない人も多いですね。
(この件では、多くの記事がこうした経緯を知らないか、また無視して、ソ連の条約違反と“不意打”ちを強調しています。)
当時の外務省も早期の戦争収拾を繰り返し主張していたのですが、軍部に押されて結局政府の方針になり得なかったのですね。
当時の日本は、政府も軍部も、制空権・制海権をほぼ完全に失い、1944年末からの大都市や工業都市への度重なる大空襲、沖縄戦の敗退、1943年以後のさらに増え続けた各地での玉砕に直面しながら、「一億玉砕」を叫ぶ事態になっていたのです。
それでもなお、軍の指導部は自らの権威と地位に固執し、こうした情報を軽視し、情勢を甘く見て、ソ連参戦を招いてしまったというのが実態なんですね。
そして、真っ先に逃げたのは関東軍司令部の将校連中という話があるくらいですから、「何をか言わんや」ですね。
自ら始めた戦争を、自らの手で収拾できない(決められない)日本人の体質は情けないです。 二度の原爆投下とソ連参戦を見て、漸く降伏決定を決めた政府と軍部。ホントに情けないです!!! けれども、その体質はそのまま今に引き継がれ、日々の社会生活のあらゆる場面で見られますね。もちろん、私自身にも(>_<)
この写真の説明文では、樺太や千島領有などの手土産まで付けてソ連に参戦を要求した米・英などの行為と、なにより日本政府の怠慢と軍部の無責任をこそ強調すべきではなかったでしょうか?
ちょっと燃えてしまいましたね(~o~)
★日ソ中立条約の詳しいことは↓にて
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E3%82%BD%E4%B8%AD%E7%AB%8B%E6%9D%A1%E7%B4%84
★ヤルタ会談の詳しいことは↓にて(4.極東密約《ヤルタ協定》をご覧下さい)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%AB%E3%82%BF%E4%BC%9A%E8%AB%87
★沖縄戦のことは↓にて
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E7%B8%84%E6%88%A6
★本土空襲のことは↓にて
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9C%AC%E5%9C%9F%E7%A9%BA%E8%A5%B2 -
それでは、ここで記念写真を撮りましょう。
あ〜〜。
記念写真を撮ると言うのに、居眠りしている人がいますね〜。
そう、きょうはちょっと暖かくなったからね。 -
引揚記念館へやってきました。
記念館の前にこのような「平和の誓い」が掲示してありました。
ハッキリ言って、歯の浮くような文章ですね。
何を噛みしめ、何を教訓として学び、どんな努力をするのか、全く分かりません(-_-)
全国からカンパを集めてこのような記念館を造った意気込みとはなんだったのか、問わざるを得ません。
これでは、舞鶴に引き揚げてきた66万余のご苦労と1万6千余の御霊に応えることは出来ませんね。
抽象的で情緒的な言葉で人々の心を捉えようとするのは、積極性に欠ける日本人の悪しき習慣です。戦争指導をしてきた政府・軍部も「輝ける帝国陸軍の伝統を高く掲げて・・」なんて、なんの具体性もない言葉を操って兵士の心を鼓舞し、戦場に送り込んできたのですよね。
そもそも「引揚記念館」である以上、引揚とはなんなのかを問い続けねばなりません。なぜ多くの軍隊や日本人が海外にいたのか?その理由はなんだったのか? そのそもそもの動機を追究し、その過ちを2度としないという具体的な指摘と決意がなければ、彼の地で命を落とした人々と引揚者たちの苦難に応えることは不可能ではないでしょうか?
その大元をたどれば、列強が植民地経営をしていた時代に、日本もその仲間入りをすべく軍事力を背景に東アジアに進出していったことに始まる、といったことに行き着くのですね。
そこに「あの悲惨な戦争」の原因があり、敗戦によって軍隊や海外に行った日本人が引き揚げてくることになったくらいのことを書き、再び自己中心の利権あさりをしないことと、諸国の権利尊重と積極対話の粘り強い平和外交に徹することくらいは書かないと、この記念館を造った意味がないですね。
ドイツのかつて大統領が言ったように、自ら歩んだ過去に目を閉ざしてはならないのです。
★↓もご参照下さい。
http://4travel.jp/traveler/2egatsrofsu/pict/15128551/
★引揚記念館の場所は↓にて
https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.000493975da6fc0b75017&msa=0&ll=35.509308,135.397082&spn=0.002242,0.002763&iwloc=0004d9fdb0ada296dbf84 -
戦争に突入前夜の社会状況について触れていますね。
なんか、これも分かりにくい文章ですね。
「中国不干渉など、協調外交路線・・」と書いてありますと、中国との関係を改善して対中協調を進めたかに理解されやすいですね。
この時期の中国国内は動きが激しかったのですが、日本ではあの「米騒動」が起こっていますし、シベリア出兵もありました。このような情勢のもとで、原内閣以後政党政治が一定の時期実現したこともあって、内政重視と欧米との協調を選んだのですね。
また、この時期にはベルサイユ条約やワシントン条約の成立、国際連盟の発足と日本の常任理事国就任もあって、中国への干渉に手を染めている時期ではなかったようですね。
とは言え、この期間中に日本は当時の中国に持っている租借地や租界を返還したわけでもなく、第一次大戦後にはドイツが持っていた青島の租借地を占領したりしているのですね。
中国の内政政策に直接手出ししなかったとは言え、租借地での日本の経済活動や軍隊の動きは、中国の政治にとって結構障害になっていたと言えるでしょう。
中国での抗日運動も、日本が中国(当時の中国は清帝国からの過渡期)という他国に租界や軍隊を置いているのですから、反発が生じるのは当然ですね。
日本でも、日本にある外国人居留地(租界地)を国家の体面からも快く思わず、日清戦争後の1899年にはすべて返還させています。それなのに、日本はこの頃から中国などに租界を持つようになったのですから、全く以て勝手なものですね。
不況を戦争の理由につなげるのも、どうかと思います。
この時代は、軍事大国が外国に資源や市場を求めた、いわゆる帝国主義の時代でした。
不況を国内対策と各国との協調で打開するのではなく、軍事力を背景にさらなる資源や市場を外国に求めたのですね。当時の列強はそうでしたし、日本もそうでしたね。
日本では、それに加えて欧米的国家体制を模倣しながらも軍部の政治介入を許し、政府の戦争不拡大方針を無視した軍部に引きずられてしまったことも重要だと思います。それらのことが戦争につながったのですね。これらのことを打開する努力と、経済運営の努力、外交の努力等々がなされれば、戦争は回避できたと思います。
「不況→戦争へ」ではないですね。
★↓は日中関係史です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E4%B8%AD%E9%96%A2%E4%BF%82%E5%8F%B2#.E8.BF.91.E4.BB.A3
★五四運動の詳しいことは↓にて
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E3%83%BB%E5%9B%9B%E9%81%8B%E5%8B%95
★日本の外国人の居留地(租借地)の詳しいことは↓にて
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%96%E5%9B%BD%E4%BA%BA%E5%B1%85%E7%95%99%E5%9C%B0 -
このような貴重な文書が展示してありました。
満州の位置づけがよく分かる文書ですね。満州国が自立した国ではないことがありありと分かります。
一部の文章を書き写しますと、
◇「満洲国の盛事は民主主義的議会政治の声に倣わず、専制政治の弊に陥らず、民族協和し正しき民意を反映せる官民一途の独創的王道政治を実現す」
◇「協和会は政府の従属的機関に非ず、対立機関に非ず、政府の精神的母体なり・・」、
◇「真の協和会員が政府に入りまたは野にあって政治、経済を指導し思想を善導し建国精神をもって全国民の動員を完成する時王道政治の実現は期待せらるべし」
なんて酷いモンでしょうか。
「民主主義的議会政治の声に倣わず・・独創的王道政治を実現」なんですからね〜(>_<)
「協和会は・・政府の精神的母体なり」なんて、満州国政府は関東軍主導の協和会に操られるんですね。
「協和会員が・・政治、経済を指導し思想を善導し・・王道政治の実現」を目指すというわけです。
ところで、協和会とはどういう組織なのか?となりますと、あの有名な「大政翼賛会」の満州版のようです。地域の隅々にまで組織して、官民一体化の名の下に人々を管理統合する組織のようですね、
★満州国の詳しいことは↓にて。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E5%B7%9E%E5%9B%BD#.E6.BA.80.E8.92.99.E9.96.8B.E6.8B.93.E7.A7.BB.E6.B0.91
★満州国協和会の詳しいことは↓にて。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E5%B7%9E%E5%9B%BD%E5%8D%94%E5%92%8C%E4%BC%9A -
これは、当時の新聞に掲載された「海外雄飛案内」です。
冒頭には、「南海の宝庫!海南島250万民衆は、皇軍の庇護下に『和平来』『新東亜建設』の歓喜の声、全島に溢れ、文明に取り残されていた謎の宝庫海南島も今や新興の生気も溌剌と新東亜建設、南方の一翼として躍動している」との記事があります。
記事を読みますと、農業・漁業はもちろん、コーヒー・ゴム・椰子の栽培から、鉱工業の経営まで、色々な夢が書かれています。
ところで、海南島は1939年2月10日に日本軍が奇襲上陸して占領し、日本の敗戦まで軍政下に置かれたところのようです。ですから、この記事もそれ以降に書かれたものでしょう。
そう言うことですから、「新東亜建設」というのは、現地政府と話し合い、相互の互恵と協力のもとで進められるものではないようです。 軍隊をもって現地を占領し、現地住民を支配し、そこに開拓民を送り込こんだということのようです。 -
不適切な言葉が含まれますが、資料通りに引用します。
「海外へ行ける境遇にある人は今のうちにどしどし行くべきだ あとは片目かチンバの人に譲ってやればよい。そして、大陸で働いてどしどし子供を産んで国のためにご奉公しなさい。 大陸開拓の戦士の花嫁として・・」 「新東亜建設」とは、お国のためだったんですね(>_<)
さて、「謎の宝庫海南島」と言いながら、日本は海南島の資源をちゃんと分かっているんですよ。↑の記事でも、金・銀・銅・鉄・錫・石炭・アンチモニー等々のあることが分かっているのです。
これが、南方に資源を求め、植民地経営をするってことですね。
その鉱山開発や輸送路や港湾整備で、現地住民の一部ほか、朝鮮・中国から囚人等を連行してきたり、戦争捕虜等を連行してきたりして酷使し、多くの犠牲者のでたことが指摘されています。 -
凡例の文字がボケてしまいましたが、満州(現在の中国東北部)への農業移民の行き先です。
満州への移民は、「開拓義勇軍」という形を取るようで、イザ!と言う時には国境警備に当たるという役割を担わされるようです。ですから、軍事教練が結構あるようです。
また、開拓に応募する人数を確保するために、地域や学校に割り当てるなんてことやって、高等小学校卒の若者を各校で数名程度送り出すなんてことが多かったようです(長男より次男・三男坊が多かったとのこと)。その壮行会では、大人たちが泣いたという話があります。
彼らは軍隊のように組織され、軍事教練を重ねたあげくに開拓団に配属されるうようです。
開拓と言ってもいろいろあり、満州の住民の農地を低価格で事実上取り上げて開拓団に配分することもあったようです。もちろん農地になっていないところを開拓することも。
当時の高等小学校卒の若い開拓少年たちは、数十人単位で小隊とか中隊とかに組織させられ、指導者が付くそうですが(大人の入植者も何らかの形で組織されます)、良い指導者に当たればよいけど、普通に考えれば苦労すると思いますよ。
広大な満州に夢を託してきても、現実はかなり厳しかったようです。そして、これが「大東亜共栄圏」の実態ですね。
↑にご紹介した「満州帝国協和会の根本精神」を読んでもそう思いますね。 -
これは入植者の旗や写真だと思います。
-
徴兵された若者ですね。
これを「万歳!!」と叫んで送り出したんですね。
そう言わなければ「非国民」と言われ、周囲からも白い目で見られた時代でしたね。こうした国民の感情そのものも、こうした時代の推進力となったことを無視してはならないと思います。
この文のなかには「日本の生命線−満州」というところがありますね。全くこの言葉こそが本音を語っています!! これがまた、帝国主義時代の日本が追い詰められた姿でもあったのですね。 -
そして、敗戦→武装解除の日がやってきます。
満州・朝鮮での問題は、日ソの軍隊同士の戦闘と勝敗の前に、開拓民の安全の確保がまず論ぜられるべきですね。ですから、武装解除される前の、開拓民を守れなかった関東軍と軍全体と政府の責任(様々な情報を聞き流していた責任、従って開拓民への早期の撤収指示を出せなかった責任)を強調すべきですね。武装解除はそのあとの問題です。
関東軍はソ連軍の攻撃に対して戦略的退却(長春あたりへ?)して対ソ戦を戦いますが、その戦略的退却をする前に開拓民に知らせて避難させることをしなかったようですね。
一部の関東軍が満州北部に残っていたとは言え、軍事作戦の秘密を優先し(そこには開拓民軽視の姿勢があると言えます)、結局開拓民は置き去りにしたというのです。それでも、家族と一緒だった高級軍人や高級官僚は、さっさと避難しているのです。
歴史に「もし、あの時・・」という悔やまれごとを言ってもはじまりませんが、そこから学ぶことは出来ます。特に軍の高官が権威や自分の地位に拘って、情報や研究を軽視し、届けられた情報さえも無視し、その場しのぎの妥協を重ねてきた結果がこの事態を招いたことはキチンと指摘すべきですね。
このことは、私たちが今生きているこの社会でも、絶えず起きていることなのです。 -
シベリア抑留と劣悪な生活条件と強制労働は非難されるべきですね。
当時のソ連がジュネーブ条約やハーグ陸戦条約を批准していなかったにしても、捕虜の扱い方についての国際的な常識はあったはずです。こうした現実に対して、政府はアメリカ占領下にあったとは言えどのような努力をしたのか? それを書いて欲しいですね(私が見落としていたら教えて下さい)。
それと、日本軍も捕虜や現地住民を、同様に扱ってきたことはないでしょうか?あの
クワイ川の泰緬鉄道の建設の話は有名ですね。そういう類の話はほかにもあるようですし、朝鮮の人々の酷使とかもありますね。
ソ連のシベリア抑留問題は重要ですが、日本軍のそうした行為も見逃してはなりませんね。もちろん、米軍も日本兵捕虜を大量処分している話があります。
何度も言うようですが、駐ソ大使や武官から警告とも言える情報を度々受け取りながら、それを軽視し握りつぶして、情勢に即した行動を決断できなかったことが、この惨劇を生み出した最大の原因であり責任なのだということを、キチンと指摘すべきだと思います。
日本の軍と政府が、降伏決定にあまりにも躊躇しすぎたことが悔やまれてなりませんね(>_<)
ソ連の非を告発し、抑留者の味わった悲惨さを何千回・何万回強調しても、それで根本的解決は出来ません。もちろん、ソ連側からこの問題を日本のせいすることは許されません。
私達は外国の政治や行動を変えることは、基本的には出来ません(条約や諸外国との共同等で影響を与えることは出来ますが)。
ですから、いかなる場合でも自らが(この時は軍や政府自身が)情報を重視し、的確・適切な判断を下し、自己の立場やメンツや利害に縛られることなく行動を決定する才能と決断力を持つしかないのです。
要は、行動を起こす時も、行動を変更する時も、行動を終わらせる時も自分で判断し、タイミングを失うことなく自分で決断しなければイケナイと言うことです。判断を曖昧にし、タイミングを失って、その結果の失態を他人のせいにしてもはじまらないと言うことです。
それは21世紀の今と今後に於いて、もっともっと重要になってくると思いますよ。これが曖昧になればなるほど、人々は苦難の道に追い込まれるのですからね。
これからも、外国のせいにして、国内的には他人のせいにして、外国や他人を責めることにうつつを抜かすようなら、別の問題・課題で過去と同じ道を行くことになると思います。
例えば食料自給問題・エネルギー問題、自由貿易問題、TPP問題、原発問題、国債・財政危機問題ほか一杯ありますね。
★↓はバターン死の行進です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%B3%E6%AD%BB%E3%81%AE%E8%A1%8C%E9%80%B2 -
シベリアでの抑留先です。この地図では75ヶ所ほどが表示してあります。
オレンジ色が2万人以上、赤色が1万人以上、ピンク色が1万人以下、青色が少数人員と言うことです。
少数とは言え(少数の程度が問題ですけど)、北極圏(北緯66度33分以北)内の街にまで送られていたとは驚きです。
シベリア抑留に関しては、スターリンが捕虜を労働に使役することを当初から狙っていたようです(捕虜の普通の労働使役は、国際法上正当とのことです)。ソ連はジュネーブ条約もハーグ陸戦条約も批准していませんから、捕虜に関する国際法上の義務はないのですが、人道的な扱いが国際的常識になっている中では、捕虜の扱いは慎重であるべきだと思いますね。もっとも、日本もジュネーブ条約の捕虜の待遇に関する条約(全97条)に加入しなかったのですから、人のことは言えませんね。
他方で、当時の日本政府も関東軍も、国体が護持されるならば(捕虜となる)日本人を労働力として提供してもよいという意志を、ソ連側に一度ならず伝えていたようですね。これはもう、公然とした情報です。
その日本人は、国際法も知らず教えられず、「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」という教えをかたくなに信じ、行動規範としていたのですね。
「生きて虜囚の辱を受けず」と教育され信じてきた日本人を、国体護持のために「虜囚」として送り込むというのですから、これほど酷い話はないですね。
正に守るべきは国民よりも「国体=事実上の天皇制」だったのです!!
なぜ国体(天皇を基本とした国家体制)を守らねばならないのか??当時は国家が天皇に依拠していましたから、天皇制が崩れたら国家の存在理由がなくなってしまうからだと思います。天皇の軍隊、天皇の国家でしたからね。
国民の軍隊、国民の国家ではなかったですから、国体が崩れれば陸軍大将も総理大臣もその地位の根拠がなくなるのです。ですから、彼らは必死になって「国体の維持」を降伏の条件にしたのですね。 酷いモンです。
★シベリア抑留の詳しいことは↓にて
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%99%E3%83%AA%E3%82%A2%E6%8A%91%E7%95%99
★国体の詳しいことは↓にて
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E4%BD%93
★この地図表示をもとに、Google map上にて48ヶ所ほど都市名で探してみました。
https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.0004da8f0fc747897e97b&msa=0&ll=49.21042,86.396484&spn=53.641676,85.869141 -
強制労働は本当にいやです!!
疲れていようと、少々の病気であろうと無理やり働かされる!!(>_<) 捕虜ともなれば、その酷さ・非道さは私達の想像を超えるでしょう!!(@_@) 抑留者の生活の酷さも同様です。
このシベリア抑留によって、死者は25万4千人、行方不明・推定死亡者は9万3千名にのぼり、事実上約34万人の日本人が死亡したと言われています。
当時のソ連はロシア帝国が調印していた「ハーグ陸戦条約(捕虜の待遇の取り決めがある)」の継続を拒否して、1955年まで調印していませんでした(ジュネーブ協定も1955年まで調印していませんでした)。そういう点では、時代に遅れていると言えます。
日本はハーグ条約は批准したものの、ジュネーブ条約「戦時国際法としての傷病者及び捕虜の待遇改善のための国際条約」は調印だけして批准をしていないのですね。
第二次世界大戦に於いて、捕虜の待遇の悪い国としてソ連と並んで日本を指摘する人が多いですね(こういう問題は、お互いに事例を挙げ出すと水掛け論になりやすいです)。
捕虜の問題ではありませんが、自国の兵隊の命を守るという点では、日本は最悪の国でしたね。玉砕などはいい例です。当時の政府やメディアが全滅を「玉砕」と言い換えて公然と発表し報道しているほどに、兵士の命を軽んじていましたね。
★捕虜についての詳しいことは↓にて。「日中戦争・第二次世界大戦初期」の項及び「太平洋戦争」の項をご覧下さい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8D%95%E8%99%9C#.E6.97.A5.E4.B8.AD.E6.88.A6.E4.BA.89.E3.83.BB.E7.AC.AC.E4.BA.8C.E6.AC.A1.E4.B8.96.E7.95.8C.E5.A4.A7.E6.88.A6.E5.88.9D.E6.9C.9F
★↓はサンダカン死の行進です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%80%E3%82%AB%E3%83%B3%E6%AD%BB%E3%81%AE%E8%A1%8C%E9%80%B2 -
収容所での生活ぶりです。
あまりにも厳しい収容所生活の様子です。
強制労働の続く酷寒のシベリアで、こんな生活をしていたのかと思いますと、胸が痛みます。
この場面は、食料を分け合う様子です。
食料を平等に分けるために、中央の人が秤で食べ物を計っています。皆の目線がそこに集中し、1gの違いも許せないというほど、心も身体も厳しかったのですね。
しかし、収容所の全体を見れば本当に平等に分けられたワケではなさそうです。収容所内で日本人同士が厳しい生活を余儀なくされているにも拘わらず、軍隊当時の「階級」がモノをいい、旧下士官や旧将校に食料や衣服が多く分けられたり、また彼らが旧兵卒(兵長以下の兵隊さん)から食料や衣服などを横取りしたという話があります。色々調べますと、そういう話がありますね。
このことは「社会実情データ図録」の中で、「シベリア抑留犠牲者の階級別構成」と言うデータにおいて、下士官と将校の犠牲者比率はその階級構成比に対して半分から1/3程度で、兵の犠牲者比率は階級構成率を超えていることを示していることでも分かります。
ここまで追い詰められても、「階級」がモノをいう日本軍の体質には戦慄を覚えます。
余計な話ですが、抑留地の強制労働ではノルマを課せられることがよくあるようです。
日本人抑留者は、一生懸命頑張ってそのノルマを超過達成することがよくあるというのです。この気持ちはよく分かりますよ。私もそうですから(>_<) それが、ノルマの引き上げとなって結局自分の首を絞めることになるんですけど、やっぱり頑張ってしまう。こうして、倒れる人も増えてしまうと言うのです。
ところが、ドイツ人抑留者は言われたノルマもマジメにやらないで、なるべくサボるというのです。また、ドイツ兵は末端の兵隊までが国際法をよく知っていて、細かなソ連側の指示に従わず、主張すべきは主張したと言うのです。 あのヒトラーの軍隊が??と驚いてしまうのですが、日本人とヨーロッパ人との違いは、あまりにも鮮明ですね。
また、あの当時のソ連軍でさえも、軍務に就いている時は上官の指示通り行動するけれども、一旦軍務から離れた時は階級差は意識されず、まるで友達みたいだというのです。ソ連もロシアもヨーロッパの一部であってみれば当然のことですね。
ソ連のシベリア抑留を軽視するのではありませんが、あの時代の日本軍の権威に染まりきった体質は、シベリア抑留先でも多くの死者を出す要因だったと言えます。あまりにも問題があると言えますね。
現在の日本でも、職場を離れても上司は上司で、街で奥様と一緒に買い物している部下を呼び捨にする上司たちの姿がありますね。また、就業規則や労働安全規則・規定とか快適職場指針も知らず・知らされずに働いている人が多いですから、シベリアの経験は決して過去のこととは言えません(>_<) -
そして、引揚です。
日清・日露戦争で「領土」を拡大し、満州を経営するようにもなり、第二次世界大戦の緒戦東南アジアに支配地を拡大したと言っても、それは長くて半世紀あまりで、短いところでは数年です。その間に日本は軍隊も国民(開拓団などと称して)も、「海を越えて」どんどん支配地に送り込みましたね。
その「領土」・支配地を全部チャラにされて、結局本国に戻ってくるわけで、文字通り「海を越えて」引揚てくるのですね。シベリアへ抑留された人々も、その点では同じです。
「海を越えて」引揚てくる・・。
↑↑これが、大陸(特にヨーロッパ)の戦後との大きな違いです。大陸での戦争は、地続きの国々との戦争ですね。
大陸では長い歴史の過程で、広い地域(大陸ですから)を様々な民族や文化が入り交じって暮らしています。国境はその時代の支配者の力関係で決められること多く、力に応じてどこかに線を引いてを決めています。特に欧州大陸では植民地経営と言うよりも、支配地域の拡大・縮小だったのですね。こうして、色々な民族が混じり合って暮らしている中で戦争でも始めると、戦争終了時に負けても勝っても新たな国境線と、人々の居住地とが合わなくなります。
もともと住んでいるところですから、「引き揚げる」ワケにはいかないですね。そこで「追い出される」のです。そこで、負けた国の国民・人種と見なされる人々は「追い出される」のです。 -
各地からの引揚の様子です。
日本が戦争で押し広げた支配地域が分かりますね。
NHKの放送によれば、アメリカとまともに戦争して勝てないことは、軍部でさえ誰でも知っていたんですね。日中戦争で既に多くの犠牲も出していたので、途中で止めるわけにも行かないムードもあったし、だいいち、アメリカとの戦争回避を天皇に上奏する役を誰も引き受けたがらない。
それなら、短期戦で資源のある南方を占領して、さっさと講話に持ち込もうと言うことで戦争に踏み切ったのです。
ところが陸・海軍共に現地資源の利権に目がくらんで、それが運の尽きとなって敗戦までやってしまいました(>_<) この地図は、占領地の利権に目のくらんだ地域を表しているわけです。
多くの国民はそんなことを知る由もなく、新天地への夢を胸に描いて海を渡って行ったのですね。
下の船は、高砂丸です。 -
舞鶴項への引き揚げ経路です。
舞鶴港が良港と言われることがよく分かる地形ですね。私たちが見学に行ったのは右上の方です。
ところで、↑の話の続きです。(^o^)
ドイツが戦争に負けた時、ドイツの人々も「引き揚げ」て来たのか?
日本とは違って、ドイツ国民とドイツ人と「みなされる人」は、「追放(強制移住)」されたのでした。その数は、1192万6000人と言われていますが、それはそれは悲惨なもののようでした。悲惨な逃避行の中で、50万人から200万人とも言われる犠牲者が出たのです。本当に地獄の様相ですね。
しかし、ドイツはその悲惨な様子を、声を上げて訴えることが出来なかったのです。あの、ユダヤ人虐殺という負の歴史を背負っていたからですね。
このような、戦後のドイツの苦しみは、私自身今の今まで全く知ることはなかったのです。
★この話の詳しいことは、↓にて
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E4%BA%BA%E8%BF%BD%E6%94%BE -
舞鶴項への引揚の様子です。
大型船が沖で停泊して、船内でチェックを受けたあと、小型の船に乗り換えて桟橋に向かって上陸します。
この模型では、引揚船が客船タイプの船ですが、引揚者の殆どは貨物船で来ているんですよ。貨物船ですから当然に食事やトイレの設備が少なく、しかも船足が遅いのでロコ島や大連からですと足かけ4〜5日、ナホトカからですと足かけ3日ほども船に揺られてきたと思います。 -
引揚者を乗せてきた船です。
引揚者を乗せてきた船と言えば、「興安丸」とか「高砂丸」が有名ですが、この写真のような貨物船も引揚事業に関わったのです。その数は数十隻(全体では数百隻?)もあったのです。
こうした日本船のほかには、アメリカで第二次世界大戦中に建造された戦時標準型船(リバティー型)を改造した船も多数使われました。
ここにあげる二隻の船はその一例です。
上は「恵山丸」です。船の大きさは、6891トンで長さ128m、幅18.2mです。速力は10ノット(時速18.5km)です。
下は「遠州丸」ですが、船のスペックは恵山丸と殆ど同じです。
7000トン位の船と聞きますと、大きな船のように思われる方が多いと思いますが、
そんなに大きいわけではありません。 ましてや、貨物船ですから旅客設備はありません。引揚者が乗れるところと言えば、貨物を載せる船倉しかないですね。
写真上の「恵山丸」は引揚者の輸送に19回従事し、4万1444人の人々を乗せてきました。最も多い時は一度に3206人も乗せてきたんですよ。
写真下の「遠州丸」は、引き揚げ事業に23回従事し、運んだ人々の数は4万8960人に及びます。多い時には一度に3028人も乗せてきたのです。
「恵山丸」のデッキにある8個の四角な箱は、説明によれば仮設トイレとのことです。排出口はもちろん外に向けられ、海へ落としていたそうです。でもね〜、こんな貨物船に3000人以上も乗せてきたんですからね。
この2隻と同じスペックの「辰日丸」は、一度に3549人も乗せてきました。こうして多くの船が、引揚業務に従事して引揚者の帰国を助けたのです。 -
約7000トン位の貨物船がどれほど大きいのか?
それをフェリーの北海道航路では標準サイズの太平洋フェリーの船と較べてみました。
引揚に従事した貨物船は、実際にはこんなに小さいのですよ(引揚船の中では、これでも大きい方です)。
このような船に2000人から3000人以上を乗せてきたのですから、食事やトイレはどうしたのか?寝るところがあったのかと、心配になります。
それでも一日も早く帰りたいという心情を思えば、乗る人も輸送する人も大変な航海だったと思います。 -
写真がちょっとボケましたが、↑の地図にもありましたような主な引揚港とその港別の引揚者数です。
全く恥ずかしいことですが、私は「引揚」って舞鶴だけで行われていたと思っていたのです。それがなんと!!こんなにたくさんの港に(*_*)
それも、博多と佐世保なんて、それぞれが舞鶴の倍以上の140万人もの引揚者を受け入れているんですね。浦賀でも56万5000人、私達に近い名古屋港でも26万人近い人々が到着しているんですね。
引揚記念館が、博多や佐世保、浦賀や名古屋にあってもおかしくないですね。あれだけの戦争をして、これほどの人々が引き揚げざるを得なくなった歴史の事実が、意外なほど知られていないんですね。
私達にも関心がなかったと言えば、確かにそうです(>_<)(*_*)
でも、知らなかったのは私だけではなかったのです。説明して下さった方もお話ししておられましたが、政府も自治体も関心がなさ過ぎます!!
そもそも舞鶴引揚記念館自体も、そのホームページを見れば、「舞鶴引揚記念館は、昭和63年(1988年)4月に舞鶴市民や引き揚げて来られた方々をはじめ、全国の皆様のご支援・ご協力によって開館し・・」とありますように、全国の人々の支援と協力でつくられており、政府や自治体はやっぱり関心が薄かったのですね。 -
舞鶴引揚援護局の説明です。
舞鶴では、海兵団の建物が帰国支援業務に使われたようですね。
↑でも触れましたが、東南アジア方面も含めて引揚者が到着した港は18港にものぼり、舞鶴では1958年11月15日まで続いたのです。
経済企画庁が1956年(昭和31年)7月17日の経済白書で「もはや戦後経済ではない」と書いた時も、引揚事業は継続中だったのです。
ところで、「引き揚げ」と「復員」とは違うのですね。
引き揚げは民間人が帰って来ること、復員は軍人が帰ってくることなんですね。復員してきてから除隊されてから、軍人ではなくなると言うことです。でも、45年11月には陸軍省・海軍省は解体されてしまっていますから、それ以後復員した人は除隊する主体がないですね。
それはさておき、その復員のために旧海軍の残存艦船が活用されたようです。
★引揚援護の詳しいことは↓にて
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%95%E6%8F%9A%E6%8F%B4%E8%AD%B7%E5%BA%81
★引揚の詳しいことは↓にて
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%95%E3%81%8D%E6%8F%9A%E3%81%92
★復員の詳しいことは↓にて
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A9%E5%93%A1 -
あの「岸壁の母」と言う歌は、身内の引き揚げを待つ母親の一般的な姿を謳ったのではなく、この方・「端野いせ」さんという実在の一人の母をモデルにつくられた歌だったのです。
詳しいことは、画面を拡大してご覧下さいね。
★「岸壁の母」の詳しいことは↓にて
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%B8%E5%A3%81%E3%81%AE%E6%AF%8D
★「岸壁の母」の歌は↓にて。
http://www.youtube.com/watch?v=ticHzihr8VM -
それでは、みんなで記念写真を!!(^^)
引揚記念館にきて初めて知ることも多かったのですが、展示と説明の内容についてはイマイチの感じがしました。
舞鶴への引き揚げが、満州とシベリアからの人々の受け入れが圧倒的に多かったことも関係すると思いますが、シベリア関係の展示が多かったです。そして、シベリア抑留と引き揚げの辛い話が中心になってしまっているような気がしました。
何となくですが、引揚記念館の展示を見ますと、この戦争の主たる動機が曖昧で、ソ連のシベリア抑留に大きな問題があるとは言え、ヤルタ会談を初めとする米・英の働きかけと、事前に知り得た駐ソ大使館や駐在武官からのソ連の参戦の情報も、この引揚記念館では無視されていますね。そういう雰囲気の中で、この戦争では日本人が一方的な被害者みたいに展示されている感じがしてくるんですね。
シベリアでの苦痛は忘れてはならないことであり、歴史のなかに深く刻まれるべきことです。
しかし、そもそもなぜこういう事態になったのかという視点が本当に曖昧です。
何度も言うようですが、あの帝国主義の時代に日本が欧米列強の中に割って入り、アジアを舞台に覇を競ったあげくに欧米列強の制裁にあい、負けると分かっている欧米との戦争に突入してしまったこと、また敗戦が決定的となる中でさえ人々に竹槍まで持たせて降伏を躊躇したことが、ソ連参戦とシベリア抑留及び原爆被爆へと繋がったのではないでしょうか。
国民を救おうとしなかった軍と、軍に引きずられた政府の姿。そこのところをちゃんと指摘してこそ、シベリアで命を落とした人々をはじめ、アジア全域で命を落とした軍人・民間人の霊に応えることが出来ると思います。そうしてこそ、この記念館を造った意味があると思うのですね。 -
次にやってきたところは、舞鶴の港です。
この港からは、小樽と結ぶフェリーの航路があるのですよ。
それこそ日本最大級のフェリーで、約1万6800トン(船全体では3万トンを遙かに超える大きさ)、全長約225m、速力30.5ノットという船が就航していますよ。この高速フェリーにいっぺん乗ってみたいのですけど、未だに実現していません(=_=)
フェリー埠頭とは反対側を見ましたら、自衛隊の護衛艦が停泊していました。ご説明によりますとこの艦は退役したそうで、そのうちスクラップになるとか。建造後30年以上も経過しているそうです。ですから艦首の部分にある艦N.Oが消してあるというお話でした。 そうですね。30年も過ぎればポンコツですからね。
自衛隊の護衛艦をまじまじと見たのは初めてでしたので、その大きさにはちょっとビックリでした。
自衛隊は国内では「軍隊ではない」ことになっていますが、外国からはレッキとした軍隊の扱いです。その装備・戦力は既に世界有数です。「軍隊ではない、自衛隊だ」という議論は国内だけで通用する、国民だましの議論と言ってよいでしょう。
戦争は(特に仕掛ける方は)国民を騙すことから始まります。これは、歴史の教訓です。
私達は、既に騙し・騙されることに慣れてしまってはいないでしょうか??
★新日本海フェリーの詳しいことは↓にて。
http://www.snf.jp/
★フェリー埠頭の場所は↓にて
https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.000493975da6fc0b75017&msa=0&ll=35.481586,135.39215&spn=0.002243,0.002763&iwloc=0004d9fdb7d8880bf65b8 -
遠くに見えたこの艦は、あの艦N.Oからして、「あたご」ですね。
2008年2月に千葉県沖で漁船と衝突したイージス艦と言えば、思い出しますね。
艦種はミサイル護衛艦に属するようで、艦のスペックは基準排水量7700トン 全長165m 幅21m 機関10万馬力 速力30ノット以上 乗組員300人です。
近いうちにアメリカから売却される最新のミサイル防衛システムを装備する予定のようです。多数の航空機を一度に迎撃するだけでなく、飛んでいるミサイルさえも迎撃するってんですから大変な能力ですね。このような装備・能力を見ても、一流の軍艦ですね。母港は舞鶴です。
「あたご」の建造費は1400億円と言われています。
11万トン級のクルーズ客船の建造費が約5億ドルと言われていますから、単純化して500億円くらいです。「あたご」一隻の建造費に100億円のせると、11万トン級のクルーズ客船が3隻出来ることになります。
ところで、日本はこのようなイージス艦を6隻保有しています。アメリカは85隻前後ほど保有しているそうです。日本の保有数はアメリカに次いで世界第2位とのことです。
★↓は11万トンのクルーズ客船です。
http://4travel.jp/traveler/2egatsrofsu/pict/12541976/src.html -
こっちにも軍艦が停泊していました。
艦N.Oで調べますと、多用途支援艦の「ひうち」のようです。
スペックを見ますと、基準排水量980トン、全長65m、5000馬力で速力は15ノット、機銃などの武装はしていないようです(放水銃があるようです)。
支援艦ですから、故障した船を曳航したり、災害支援をしたり、射撃訓練の標的物を曳航したりなど、色々な仕事があるようです。 -
富士山のような山がありましたけど、多分愛宕山だと思います。
富士山ににている山は、ちょっと目立ちますね。 -
向こうの山の麓の白いビルや薄い青色の屋根のあるところは、「海上自衛隊舞鶴教育隊」のあるところだそうです。
まぁ、自衛隊の学校のようなものですが、給料がつきます(^^) 全寮制のようで衣食住がついて、16万円/月くらいとか。
それが、朝6時に起きて、22時就寝までバッチリ訓練されますから、衣食住付きでいい給料がついても、やめていく人が多いとのことです。 -
移動途中に捉えた光景です。
向こうに見える双耳峰ですが、お話によれば、福井県の高浜町と舞鶴市にまたがる山で、青葉山とのことです。この山は東(693m)と西(692m)の2つの峰がある双耳峰ですが、福井県川から見ると綺麗な山容が見られるようです。
★青葉山の場所は↓にて。
https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.000493975da6fc0b75017&msa=0&ll=35.49422,135.506916&spn=0.071768,0.088406&iwloc=0004dacafd15c022b217f -
舞鶴には造船所もあります。
これは鉱石なども積む「バラ積み船」かも知れないですね。
大きさは、そんなに大きくないようで、3万〜4万トンくらいかな〜?って思いますけど、どうでしょうか。
大型客船などを見ていますと、こういう船がだんだん小さく見えてきてしまいます(^o^) -
こちらが造船所です。
ユニバーサル造船舞鶴事業所ですが、アイ・エイチ・アイ マリンユナイテッド社と経営統合し、今年の1月1日から「ジャパン マリンユナイテッド」社の舞鶴事業所になったようです。
日本の企業もカタカナ表示になってきたモンですね(-_-;)
こちらのドックには自衛艦が入っているようです。 -
向こうにも艦N.Oを消された自衛艦がいます。
退役艦ですかね。 -
こちらは掃海艇です。
艦N.Oからして「のとじま」かと思います。
掃海艇は機雷を取り除くことが主要な任務の船です。
機雷は鉄などの金属に触れると爆発することから、この船は木造となっているそうです。また、強化プラスチックなども使用されるようです。
掃海艇は戦争中もそうですが、あの地雷除去と同じように戦争が終わってからも、暫く任務が続く船です。 -
ここにも掃海艇が停泊していました。
艦N.Oによれば「のとじま」と同じ艦級で、「すがしま」です。 -
次にやってきたところは、レンガ館です。
舞鶴と言えば、貿易港と言うより軍港として栄えたところですね。
ですから、横浜レンガ街と違ってこれらの倉庫は貿易物資の保管に使用されたのではなく、海軍の使用する機器・兵器・弾薬・はては魚雷などを保管していたところです。
建設目的がそうであったことを知りますと、ただ単に歴史的建物と言うだけで見物するには何となく戸惑いを感じますね。そして、レンガ館の中でそうした歴史的事実をどう伝えているかを知りたくなりました。
この倉庫建設に使われたレンガはヨーロッパから輸入されたとのこと。かなり高価な建物になったことでしょう。しかし、この建設費には日清戦争の講和条約によって清国から支払われた賠償金が使われたそうです。 -
赤レンガ館の案内図です。
市役所や体育館なども含めて1から9までの建物がありますが、このうちレンガの建物は1から6までで、6のところには全部で4棟あります。
私達が訪れた時は内部の展示が出来なかったようで、建物を見るだけになってしまいました。
★舞鶴赤レンガパークの詳しいことは↓にて
http://akarenga-park.com/index.html
★舞鶴赤レンガ街の場所は↓にて
https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.000493975da6fc0b75017&msa=0&ll=35.474181,135.38572&spn=0.002243,0.002763&iwloc=0004d9fdc635d8efeca04 -
この建物は海上自衛隊の官舎です。会社で言えば社宅みたいなモンですね。
ここに旧海軍の何かがあったとお聞きしたのですが、忘れてしまいました(-_-)
ご存知の方、教えて下さいね。 -
舞鶴鎮守府の初代司令長官となった東郷平八郎の官舎となっていたところです。彼はおよそ2年ここで過ごしたとのことです。その後も歴代司令官が使い、現在は海上自衛隊が使っているそうです。
内部は一部洋館造りで、和洋折衷になっているとのこと。
今では一般に宣伝はしていないそうです。従って観光ルートにもなっていないようです。
舞鶴鎮守府は、1901年(明治34年)10月1日に開庁し、初代司令長官に当時海軍中将であった東郷平八郎が任命されたとのことです。
戦前の鎮守府は、現在の自衛隊では「地方隊」に相当し、その長が地方総監と言うことらしく、その自衛隊内の地位は「海将(旧海軍の中将に相当するとか)」とのことです。現在の舞鶴地方総監は井上海将とのことです。
舞鶴では引揚記念館などで悲惨な戦争の記録がある一方、旧海軍の施設がこのように残され、ある種の郷愁のまなざしで見られているのではないかという危惧を感じます。
★舞鶴鎮守府の詳しいことは↓にて
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%9E%E9%B6%B4%E9%8E%AE%E5%AE%88%E5%BA%9C
★鎮守府の詳しいことは↓にて
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%AE%E5%AE%88%E5%BA%9C_(%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%B5%B7%E8%BB%8D) -
舞鶴見学でお世話になった方です。
たくさんのご説明をして下さいました。
この方のお世話になって、本当によかったっと思っています。
感謝・感謝ですm(_ _)mm(_ _)m
なかなかの好男子ですね。 -
舞鶴には広い立派な道路があります。
地元の方々は、このような道路を海軍道路と呼んでいたそうです。
そればかりではなく、舞鶴市観光協会のパンフレットによれば、かつては舞鶴市内の東西に走る道路に、軍艦の名前を付いていたというのです。
戦艦や巡洋艦などの人気艦の名前が多いようです。市民にどの程度認知されたか分かりませんが、そんなことがあったとは驚きです。
現在ではどうなっているのか?
これまた、関心のあるところです。 -
舞鶴にはこのよう長い家があちこちにあります。
お話によれば、海軍時代の名残とのことです。海軍華やかなりし頃は仕事もたくさんあって働く人々で賑わったそうです。
そういう人々の下宿に、家賃稼ぎにこのような長家がたくさんできたとのことです。
そういう私も、八百屋の裏庭につくられた貸間で3年ほど暮らしたことがありますからね。長家に間借りした人々の気持ちは何となく分かります。(~o~) -
こちらにも富士山のような山がありますけど、ヒョッとして建部山(たてべやま)かも?と思いますけど、違っていたら教えて下さいね。
明治から昭和(戦前)にかけて砲台や高射砲陣地が建設されたというのですから、やっぱり目を付けられるんですね。現在も砲台の弾薬庫などが残っているそうです。
また、南北朝時代の建部年間から安土桃山時代にかけてのおよそ240年あまり、この山頂にお城があったというのです。やっぱり目を付けられたのですね。
★建部山城の詳しいことは↓にて
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%BA%E9%83%A8%E5%B1%B1%E5%9F%8E
★建部山の場所は↓にて
https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.000493975da6fc0b75017&msa=0&ll=35.454098,135.308604&spn=0.035902,0.044203&iwloc=0004dacae043364eb7cad -
ホテルに着きました。
ホテルは「舞鶴グランドホテル」です。
舞鶴のDさんにお願いして、予約していただきました。
Dさんには本当にお世話になりましたm(_ _)m
お部屋から眺めた西舞鶴の街です。
★舞鶴グランドホテルのことは↓にて。
http://www.mghotel.co.jp/annai.html
★舞鶴グランドホテルの場所は↓にて
https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.000493975da6fc0b75017&msa=0&ll=35.442122,135.330537&spn=0.002244,0.002763 -
こちらは「舞鶴城」とも言われる「田辺城」の方向です。
桜が散らずに残っていてくれたのが、幸いでした(^^) -
私のお部屋です。
「おかあさん、シングルのベッドがひとつしかないよ!」
と言ってしまうところでしたけど、カミさんは自宅なんですよ(-_-;)(T_T)
今夜は一人淋しく寝るしかないのです!!(*_*)(T_T) -
こちらは洗面とバスです。
普通のビジネスホテルのようなお部屋ですけど、カーテンの派手さだけは別格でした!!(^o^) -
ただいまよりディナータイムです。
このホテル最上階の9階にあるレストランですから、眺望も素晴らしいです。
それに負けないくらい、従業員の皆さんの対応もよかったですよ!!
食事のあと毎月定例の読書会を、ホテル側のご好意でを戴いてこの席でやらせて頂いたのですよ!(^^)!
出張定例会は初めてでした(~o~) -
お料理の数々をご覧下さいね。
最初からご飯が出てきました。 -
次はタケノコと卵焼き?です。
美味しかったですよ!! -
これは、ご覧の通りでして・・
これも美味しかったです!! -
天ぷらですよね〜(^^)
ま、ご覧の通りです(^^) -
お吸物。
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お味噌汁です。
純日本風の料理はよかったですよ。
洋風のもいいですけど、たまにはこういうのもいいですね。
きょうの見学は引き揚げ桟橋に始まり、引揚記念館や港に泊まる自衛艦群、そして赤レンガ館と町並み等でした。
「岸壁の母」は、実は「桟橋の母」だったなんていうことも、余計なことながら舞鶴に来て分かったことでした。やっぱり着てみないと分からないものですね。
引揚記念館については、違和感がつきまといました。
そう感じたのは、「こうなってしまったのは、なぜか??」という視点が、非常に弱く感じられたからです。
悲惨な経験を忘れさせないことも大事ですが、もう一段広い視野に立って、米・英・ソの動向と、幕末以来の日本の歴史と体質についても考察して欲しいと思いましたね。
問題は、日本の軍・政府・国民が、その時々の情勢をどう受け止め、どう考え、どう行動したか!!!ですからね。 軍・政府のレベルは、すなわち国民の資質(レベル)なのです。そこに気がつき、気のついたことを今後に活かすしか、私たちの道はないのですから・・。
戦争の惨禍は、誰でも避けたいものです。しかし、利害が絡む以上は気まずい関係は生じざるを得ません。 それを戦争という最悪の事態にいたる前に、如何に話し合い、どう調整するのか。その力量こそが問われるのだと思いますね。
それにしても、シベリア抑留などの問題を知れば知るほど、日本の世の中は変わってないな〜ということを、痛切に感じました。
特に、職場を離れても上司・部下であるとか、夜遅くまで手当も付かない超過残業をしなければやれない仕事(ノルマ)を与える企業(社会)と、それをただ働きでこなす労働者(国民性)とか、就業規則も教えない・知らせない・知らないという現実などなど・・(*_*)。
そうしたことが要因で過労死や精神異常が起き、家庭にも過大な負担を押しつけている現在の日本人社会の体質は、あのシベリア抑留生活の実態から何を学んだのか??と、問わずにはおれないのです。
「歴史から学ぶ」。改めて、そこに立ち返らねばと思ったのでした。
明日は、お城を見学する予定です。
(その2)に続きます。
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