2017/11/29 - 2017/11/29
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ドクターキムルさん
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永福寺跡がある二階堂の奥の東電変電所を過ぎると石垣の上に石碑と五輪塔が見え、歴史ある場所であることを感じる。
今回出会った人の中には、円海山から天園までのハイキングコースには切通があって平坦になっていることや、谷にあるこの切通を不思議に感じているハイカーや、この切通が朝夷奈切通と良く似ているという山歩きの人や、天園からこの切通に下りる尾根道がとても広いというトレイルランナーの20代と思しき女性などがいた。毎年秋には信じられないほど多くの人たちが獅子舞谷の紅葉を見に訪れるが、ただ鎌倉を散策し、地図が載った鎌倉散策のパンフレットから店を選んで食事やお茶をするような人ばかりであったが、この10年間通い続けて、初めてここの切通とそのバイパス道である尾根道が他の鎌倉にあるそれとは異なっていること、あるいは全く類似していることを指摘してくれる人たちに初めて出会った。
この切通が源頼朝生前の壇ノ浦合戦から奥州合戦の間に整備された軍事道路であることを説明すると得心が行くものである。
この切通を真似た朝夷奈切通にもこの切通を真似たように、三郎の滝から少し切通に入ったところから熊野神社裏山の尾根を通る尾根道があるが、ここの尾根道ほどは広くはない。どこにでもある山道の広さである。
すなわち、朝夷奈切通よりも尾根道を広くすべき重要な街道、大手中路がここを通っていたのだ。大手中路は鎌倉と北を結ぶ軍事道路として整備された鎌倉のメインストリートだったのだ。
この切通をモデルにして60年後に朝夷奈切通が造られる。先に造られた小さなものをモデルにより大きなものが造られる。これは土木や建築では当たり前のことである。頼朝没後には巨福呂坂切通が整備され、平場に鎌倉道が整備され、大手中路は次第に利用されなくなって行ったのであろう。
すなわち、この切通は鎌倉殿の命で掘削され、それ故に切通の崖面にやぐらが1基も造られることもなく、最初の立派な切通、「The 切通」として地名を冠した名前もないまま、現在まで残っているのであろう。鎌倉では最初に国の史跡に指定されるべき切通であった。何もやってこなかった鎌倉市文化財課ではあるが、獅子舞谷の紅葉狩りに多くの鎌倉市民、あるいは近隣の市民・町人たちが通るようになったこの切通を保護する意味でも、早急に国史跡化の検討を始めるべきである。
(表紙写真は朝夷奈切通のモデルとなった切通)
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石垣の上に石碑と五輪塔。
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二階堂川の流れ。
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通行注意の看板。
この切通には「土砂崩壊の恐れあり」と「この先私道につき」の「通行注意」の看板が立てられている。いずれも通行を禁止するものではない。 -
落石注意。
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朝夷奈切通のモデルとなった切通。
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倒木。5日前にはなかった。
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二階堂川の川向こうに尾根道。橋も架かってはいない。天園峠の五差路の最後の5番目の道がこの尾根道の終点だ。
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「この先私道につき通行注意」の看板。
日本国内には「この先私道につき通行禁止」の看板は立てられるが、「この先私道につき通行注意」の看板はここ鎌倉市、鎌倉警察署管内でなければ見られないものだ。 -
獅子舞谷の入口。ここが大手中路で830年前に源頼朝が整備させた軍事道路だ。手前の看板には「私道」とあり、平成になってから迂回路がこの上の中腹に2本できた。1本は鎌倉市が設置したバイパスの山道であり、その上の1本はハイカーが踏み固めてできた更に最近の山道のようだ。
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獅子舞谷の入口に塞ぐように置かれた木。ここが大手中路だ。
この道を10回ほど通って2度ばかり転倒して泥だらけになったことがある。最近では鎌倉市が着けたバイパス道をもっぱら通行している。 -
バイパス道から見た大手中路。
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バイパス道から見た大手中路。
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バイパス道から見た大手中路。
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バイパス道が大手中路と合流する。
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