2017/11/29 - 2017/11/29
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ドクターキムルさん
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永福寺跡を過ぎ、二階堂川に架かる亀ヶ渕橋を渡って行くと「二階堂親和会 天園二地区委員」の看板が掛けられたお宅がある。隣の家のご夫婦が犬の散歩に出かけるとこるを捕まえて、町内会名に「天園」が付いている由縁を聞いてみた。このご夫婦は50年前にここへ移り住んで、今ではこの辺りでは一番古くから住んでいる人たちということのようだ。移り住んだ時には下(亀ヶ渕橋側)も裏(西ヶ谷団地側)も上(二階堂川上流沿い)も田圃で棚田が広がっていたという。7、8年前になろうか、この辺りを散歩していた90過ぎのお婆さんにも、「この辺りの谷で家が建っている場所は戦後までは田圃だった。」ことを聞いている。
しかし、手持ちの1/10,000の地図では亀ヶ渕橋の北には「亀ヶ渕」、その北東の二階堂川沿いには「獅子舞」、獅子舞谷の少し南には「新立」と字名が記載されている。
「天園」の名が出てきたのは昭和に入ってからのことで、日露戦争でロシアのバルチック艦隊を撃破したあの日本海海戦を指揮した東郷平八郎(弘化4年12月22日(1848年1月27日)~ 昭和9年(1934年)5月30日))元帥が、昭和初期に、「天国の園に遊ぶ」ということを夢見て、六国峠の周辺を「天園」と呼んだ。
獅子舞谷やその裏の谷に銀杏の木や楓(かえで)の木、梅の木を植えたのは、当時、天園に茶屋を出していた小川氏たち数人である。獅子舞谷の半分は小川氏の地所であり、他の人たちもここ獅子舞谷の地主たちだったのだろう。そのために、平成になった頃から今日まで鎌倉で一番の紅葉の名所とされ、紅葉の時期になると平日でも大勢の人たちが紅葉狩りに訪れる。植えられた木々が生長して東郷が「天国の園に遊ぶ」ということを夢見たその光景が出来上がったのだ。勿論、天園峠は富士山のビュースポットでもある。
また、小川氏は茶屋の横に小屋を建てて貸別荘とした。この貸別荘は周知の間柄だった東郷平八郎に「日源荘」と命名してもらった。「日源荘 東郷元帥書」と揮毫してもらい、それを石に刻んで碑にした。それが今でも六国峠(天園峠)の竹林の道に残っている。命名してもらった「日源荘」の「日源」は日本の源という意味である。
その後はいつしか「六国峠」を「天園峠」と呼ぶようになった。建長寺から瑞泉寺までのハイキングコースは「鎌倉アルプス」から「天園ハイキングコース」と呼ばれるようになり、「天園」は良く知られた鎌倉の地名となっている。そんな山の上(鎌倉市と横浜市の最高峰であったかつての大平山)の中腹辺りの地名が山の下の新興住宅地の町内会名に付いているのであるから、誰もがそれを疑問に思うであろう。
どうやら、ここから1km以上も離れた場所で昭和になってから付けられた「天園」(日源荘のある場所)の地名の方が本来の古くからある字「亀ヶ渕」よりも響きが良いので「天園」を選んだような口振りだ。しかし、「亀ヶ渕」は「鶴岡(つるがおか)」に対する地名とも考えられ、源頼朝によって(鶴)岡には八幡宮寺、(亀)渕には永福寺が建立された。
また、頼朝は平家滅亡後は奥州を手中に収めることを画策し、ここ亀ヶ渕を通り、六国峠を抜けて奥州に向かう道路を軍事道路として整備した。それが「大手中路」であり、「獅子舞」の二階堂川沿いの谷に切通を通し、獅子舞谷の七叉の楓の木(獅子岩の少し下)から右に折れ、なだらかな山の斜面(現在は杉の人口林になっている)を上り尾根道に至り、六国峠に至った。そこからは「天園円海山ハイキングコース」として現存している尾根道を通ってみれば分かるように、山の尾根は切通にして平坦化して、馬が通れる街道に整備して奥州平泉を攻める準備を整えた。1万騎とも言われる頼朝の軍はこの整備された街道を通って奥州に遠征し、凱旋したのである。当時は滅ぼした者たちの怨霊は道を伝ってくると信じられていたので、その街道の鎌倉側にその怨霊を鎮めるために大寺(二階堂など三堂が建つ永福寺)を建立した。奥州合戦の敵味方が一緒に祀られた寺である。また、鎌倉時代後期には、北条時宗により、敵(蒙古軍)味方(幕府軍)が一緒に祀られる寺として北鎌倉に円覚寺が建立された。
「いざ、鎌倉」と言われたが、鎌倉時代に鎌倉で一大事という際には全国の御家人が鎌倉に駆け付けるということであるが、日本全国にも街道が整備され、勿論、鎌倉に出入する街道も整備されていて初めて可能となることである。
黄金の都・平泉がある奥州一帯を手中にした頼朝はこの軍事道路を利用して奥州からの財や産物を鎌倉に運んだことだろう。また、この軍事道路は新たな領土・奥州と鎌倉を行き来するための街道としての役割を十分に果たしたことであろう。
そうした鎌倉では一番の史跡である切通などが残る大手中路が鉄道開通後は次第に見向きもされなくなってしまっていたが、昭和になって「日源荘」が建てられ、その時に植えられた銀杏の木や楓の木が平成になってからは獅子舞谷の紅葉として愛でられ、今日になっても小川氏たちや東郷のおかげを甘受しているのである。そうした意味では亀ヶ渕の町内会も東郷の命名した「天園」をもらい、東郷のおかげを甘受していることになろうか。
(表紙写真は「二階堂親和会 天園二地区委員」の看板が掛かるお宅)
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永福寺跡の展望台下の紅葉。この尾根は天園ハイキングコース・今泉台6に至る。
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永福寺跡。
鶴岡八幡宮寺の山号は「鶴岡山」で仁王門に曼殊院良恕法親王筆の額が掛けられていたとされる。永福寺の山号は鎌倉廃寺事典にも記載がなく、調べてみたが不明である。しかし、「亀淵山」であったのでは?
「鶴は千年、亀は万年」と言われ、能の「鶴亀」は天下泰平、国家の長久を祈念し、祝福するという、おめでたい内容である。頼朝も天下泰平、国家の長久を祈念して、創建した寺に「鶴亀」の字を当てたことは十分に考えられる。
字「三堂」は永福寺の伽藍が悉く消滅した15世紀中頃以降にかつての栄華を偲んで付けられたものであるかも知れない。大字「二階堂」と字「三堂」と被っている。二階堂川にあった渕名を「亀ヶ淵」に変え、その場所に永福寺を建てて大字「二階堂」の名になったが、廃寺後に字「三堂」と呼ばれるようになったのではあるまいか。あるいは永福寺の池に「亀ヶ淵」の名で呼ばれた渕があった別の可能性も否定はできないが。
また、鎌倉廃寺事典に、「正和二年(1313年)五月一日、於相州鎌倉二階堂 亀淵房、」(京都高山寺「求聞持法」奥書)と記載があり、永福寺に「亀淵房」なる僧房があったようだ。僧房名が字名に由来するのか、あるいは字名が僧房名に由来するのか?
はたまた、山号なのか? -
亀ヶ渕の道標。
亀ヶ谷は室町時代になって扇ヶ谷と呼ばれるようになって名が変わった。また、亀ヶ谷坂切通には建長寺塔頭回春院にある大覚池の亀の物語もある。
亀ヶ谷には兄・鎌倉悪源太(源義平(みなもと の よしひら))の館、以前は父・源義朝が住んでいた館、があった。その「亀」に因み、八幡宮寺を建立した場所に「鶴」の名を付けたのだろう。
しかし、頼朝没後、亀ヶ谷のこの地に壽福寺を建立したのは尼御台所・平政子である。明らかに頼朝由来の地名ではないために、こちらの、亀ヶ渕が頼朝由来の地名だと考える。 -
「二階堂親和会 天園二地区委員」の看板が掛かるお宅。
この辺りまでが国史跡のようだ。
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