東山・祇園・北白川旅行記(ブログ) 一覧に戻る
建仁寺(後編)は、境内の建物群や塔頭を紹介いたします。<br />境内は広大で、伽藍は壮大ですが、度々戦火に見舞われたため、創建当初の建物はひとつも残されていません。しかし、戦国時代末期から明治時代にかけ、再建や他の寺院からの移築によって現在見られる姿の伽藍が整備されました。建物群は重要文化財に指定されているものも多く、一見の価値があります。<br />また、建仁寺は境内や境外に数々の塔頭を侍らせています。今回は、その中でも臨済宗建仁寺派とは異質とも思える不思議な雰囲気を醸す塔頭 興雲庵の陀枳尼尊天堂と禅居庵の摩利支天堂にスポットを当ててみました。奇しくも、建仁寺境内の北と南端に位置する塔頭です。<br />建仁寺の見取図です。<br />http://www.kenninji.jp/grounds/index.html

情緒纏綿 京都東山逍遥④建仁寺(後編)エピローグ

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2017/11/21 - 2017/11/21

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montsaintmichel

montsaintmichelさん

建仁寺(後編)は、境内の建物群や塔頭を紹介いたします。
境内は広大で、伽藍は壮大ですが、度々戦火に見舞われたため、創建当初の建物はひとつも残されていません。しかし、戦国時代末期から明治時代にかけ、再建や他の寺院からの移築によって現在見られる姿の伽藍が整備されました。建物群は重要文化財に指定されているものも多く、一見の価値があります。
また、建仁寺は境内や境外に数々の塔頭を侍らせています。今回は、その中でも臨済宗建仁寺派とは異質とも思える不思議な雰囲気を醸す塔頭 興雲庵の陀枳尼尊天堂と禅居庵の摩利支天堂にスポットを当ててみました。奇しくも、建仁寺境内の北と南端に位置する塔頭です。
建仁寺の見取図です。
http://www.kenninji.jp/grounds/index.html

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
同行者
カップル・夫婦
交通手段
私鉄

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  • 勅使門(重文)<br />境内の南端、八坂通りに面して立つ、鎌倉時代末期の遺構を今に伝える門です。<br />勅使門とは天皇の使者だけが潜ることのできる特別な門です。勅使受け入れの格を有する神社仏閣には、こうした勅使門が設けられています。<br />三門の前に位置しますが、現在は閉ざされたままです。一間一戸、銅板葺、切妻屋根の四脚門で、応仁の乱後に平重盛(清盛の嫡男)の六波羅邸の門、あるいは平教盛(清盛の異母弟)の館門を移築したもの、または六波羅探題北方の門を移築したものだとか諸説あります。<br />柱や門に戦乱の際に付けられた矢傷が残っていることから、「矢立門」や「矢の根門」との別名もあります。<br />平重盛らの屋敷門だとすれば源平合戦の名残りとも言えますが、門の構造が鎌倉時代末期の様式であり、応仁の乱などの傷痕との考え方が一般的です。尚、屋根は、元々は桟瓦葺でしたが、火災防止のため、後世に銅板葺に替えられています。

    勅使門(重文)
    境内の南端、八坂通りに面して立つ、鎌倉時代末期の遺構を今に伝える門です。
    勅使門とは天皇の使者だけが潜ることのできる特別な門です。勅使受け入れの格を有する神社仏閣には、こうした勅使門が設けられています。
    三門の前に位置しますが、現在は閉ざされたままです。一間一戸、銅板葺、切妻屋根の四脚門で、応仁の乱後に平重盛(清盛の嫡男)の六波羅邸の門、あるいは平教盛(清盛の異母弟)の館門を移築したもの、または六波羅探題北方の門を移築したものだとか諸説あります。
    柱や門に戦乱の際に付けられた矢傷が残っていることから、「矢立門」や「矢の根門」との別名もあります。
    平重盛らの屋敷門だとすれば源平合戦の名残りとも言えますが、門の構造が鎌倉時代末期の様式であり、応仁の乱などの傷痕との考え方が一般的です。尚、屋根は、元々は桟瓦葺でしたが、火災防止のため、後世に銅板葺に替えられています。

  • 勅使門<br />ズームアップして矢傷らしきものを探してみましたが、よく判りませんね!<br /><br />臨済宗の寺院は伽藍配置に決まりがあり、南から順に勅使門、三門、仏殿、法堂、方丈と一直線に並び、その東に浴室、西には東司(とうす)があります。また方丈の隣には、お寺の台所である庫裏が建てられています。<br />残念ながら、京都の寺院には全て揃っているところはないそうです。ここも「仏殿」が焼失したままです。

    勅使門
    ズームアップして矢傷らしきものを探してみましたが、よく判りませんね!

    臨済宗の寺院は伽藍配置に決まりがあり、南から順に勅使門、三門、仏殿、法堂、方丈と一直線に並び、その東に浴室、西には東司(とうす)があります。また方丈の隣には、お寺の台所である庫裏が建てられています。
    残念ながら、京都の寺院には全て揃っているところはないそうです。ここも「仏殿」が焼失したままです。

  • 放生池<br />はん(さんずいに半)池と呼ばれる左右対称の放生池に、反りのある桁行形式の石橋が架けられています。俗世から聖地に入る結界を意味する橋だそうです。仏教には不殺生の思想があり、その不殺生戒の精神から天台大師 智ぎ禅師が始めたと伝えられるのが「放生会」です。捕らえられた魚鳥を放って法を修する法会です。この魚や貝を放す池が放生池です。

    放生池
    はん(さんずいに半)池と呼ばれる左右対称の放生池に、反りのある桁行形式の石橋が架けられています。俗世から聖地に入る結界を意味する橋だそうです。仏教には不殺生の思想があり、その不殺生戒の精神から天台大師 智ぎ禅師が始めたと伝えられるのが「放生会」です。捕らえられた魚鳥を放って法を修する法会です。この魚や貝を放す池が放生池です。

  • 三門<br />江戸時代末期の建築物と伝えられ、大正時代に静岡県浜名郡の安寧寺から移築された、三間三戸、重層、入母屋造、本瓦葺の楼門です。左右には、階上に昇るための山廊が設けられた建屋が付属しています。白壁に火灯窓が雰囲気を醸します。<br />三門は、『摩訶般若波羅蜜経』で記されるように禅寺に多く見られ、空門・無相門・無作門の3境地を経て仏国土に至る門という意味で、正式には「三解脱門」と呼びます。空は「物事に拘らない」、無相は「見かけで判断しない」、無作は「欲望のまま求めない」ことです。三門を潜ることで煩悩が落とされ、仏の境地に入ることができる仕組みです。

    三門
    江戸時代末期の建築物と伝えられ、大正時代に静岡県浜名郡の安寧寺から移築された、三間三戸、重層、入母屋造、本瓦葺の楼門です。左右には、階上に昇るための山廊が設けられた建屋が付属しています。白壁に火灯窓が雰囲気を醸します。
    三門は、『摩訶般若波羅蜜経』で記されるように禅寺に多く見られ、空門・無相門・無作門の3境地を経て仏国土に至る門という意味で、正式には「三解脱門」と呼びます。空は「物事に拘らない」、無相は「見かけで判断しない」、無作は「欲望のまま求めない」ことです。三門を潜ることで煩悩が落とされ、仏の境地に入ることができる仕組みです。

  • 三門<br />御所を望む楼閣という意味の「望闕楼(ぼうげつろう)」との別名もあります。「闕」は宮城との意です。室町時代の瑞巌龍惺の詩『春眺』にある「望闕楼高くして帝城に対す」からの引用です。<br />「望闕楼」の扁額は、第4世 竹田黙雷(宗淵)筆です。黒田藩の儒学者 亀井南冥から漢字を学び、秋月藩の儒学者近藤木軒に儒学を学び、その後、20年に亘り大徳寺や建仁寺をはじめ福岡や長崎にある寺院で重要な役割を担いました。39歳で管長に任命され、仏教の発展のため僧侶の教育と育成に全力を注ぎ、以後40年に亘る管長職の間に4000人の弟子を教えました。弟子には、伊藤博文をはじめ政治家、芸術家、仏教学者など様々な分野の有名人が含まれています。

    三門
    御所を望む楼閣という意味の「望闕楼(ぼうげつろう)」との別名もあります。「闕」は宮城との意です。室町時代の瑞巌龍惺の詩『春眺』にある「望闕楼高くして帝城に対す」からの引用です。
    「望闕楼」の扁額は、第4世 竹田黙雷(宗淵)筆です。黒田藩の儒学者 亀井南冥から漢字を学び、秋月藩の儒学者近藤木軒に儒学を学び、その後、20年に亘り大徳寺や建仁寺をはじめ福岡や長崎にある寺院で重要な役割を担いました。39歳で管長に任命され、仏教の発展のため僧侶の教育と育成に全力を注ぎ、以後40年に亘る管長職の間に4000人の弟子を教えました。弟子には、伊藤博文をはじめ政治家、芸術家、仏教学者など様々な分野の有名人が含まれています。

  • 三門<br />楼上には釈迦如来・迦葉(かしょう)・阿難両尊者(あなんりょうそんじゃ)・十六羅漢が祀られています。

    三門
    楼上には釈迦如来・迦葉(かしょう)・阿難両尊者(あなんりょうそんじゃ)・十六羅漢が祀られています。

  • 久昌院<br />建仁寺 塔頭の久昌院前にある大きな楓です。 <br />久昌院は、1608(慶長13)年に奥平信昌と松平忠明の寄進により、三江紹益(さんこうじょうえき)禅師を開基として創建されました。

    久昌院
    建仁寺 塔頭の久昌院前にある大きな楓です。
    久昌院は、1608(慶長13)年に奥平信昌と松平忠明の寄進により、三江紹益(さんこうじょうえき)禅師を開基として創建されました。

  • 法堂(はっとう)<br />住職が大法を演説するために使われる建物です。1765年に上棟された禅宗様の仏殿様式で、別名「拈華堂(ねんげどう)」と呼ばれています。「拈華微笑」という禅語が由来です。釈迦が霊鷲山で説法した際、優曇華の花1本を手折り、それを高くかざして大衆に示したところ、誰にもその意味を解せなかったが、摩訶迦葉(まかかしょう)だけが真意を知って微笑んだという故事です。では何故笑ったのでしょうか?実は釈迦の仕草には何の意味もなかったそうですが、迦葉の笑顔に大悟を得た者の姿を感じ取り、彼に正法眼蔵を伝えると決めたのです。この故事が意味するのは、仏法は、文字や言葉によらず、心から心に伝わるものだという「以心伝心」です。

    法堂(はっとう)
    住職が大法を演説するために使われる建物です。1765年に上棟された禅宗様の仏殿様式で、別名「拈華堂(ねんげどう)」と呼ばれています。「拈華微笑」という禅語が由来です。釈迦が霊鷲山で説法した際、優曇華の花1本を手折り、それを高くかざして大衆に示したところ、誰にもその意味を解せなかったが、摩訶迦葉(まかかしょう)だけが真意を知って微笑んだという故事です。では何故笑ったのでしょうか?実は釈迦の仕草には何の意味もなかったそうですが、迦葉の笑顔に大悟を得た者の姿を感じ取り、彼に正法眼蔵を伝えると決めたのです。この故事が意味するのは、仏法は、文字や言葉によらず、心から心に伝わるものだという「以心伝心」です。

  • 建仁寺 方丈 向唐門<br />石庭「大雄苑(だいおうえん)」の中央に鎮座する唐破風の向唐門です。<br />一間向唐門、銅板葺で、江戸時代の寛文年間(1661~73年)の造営と伝わります。造営当初の屋根は柿葺でしたが、後年に瓦葺に改修されました。しかし、瓦の重量を支えきれず桁が折れ、更に経年劣化による木材の腐食が進んだため、2009年に木材修理と屋根の葺き替えが行われ、銅板葺になっています。京都府指定文化財です。

    建仁寺 方丈 向唐門
    石庭「大雄苑(だいおうえん)」の中央に鎮座する唐破風の向唐門です。
    一間向唐門、銅板葺で、江戸時代の寛文年間(1661~73年)の造営と伝わります。造営当初の屋根は柿葺でしたが、後年に瓦葺に改修されました。しかし、瓦の重量を支えきれず桁が折れ、更に経年劣化による木材の腐食が進んだため、2009年に木材修理と屋根の葺き替えが行われ、銅板葺になっています。京都府指定文化財です。

  • 建仁寺 塔頭の西来院への参道脇にある楓です。<br /><br />晩年の新島八重は、禅にも興味を示し、建仁寺に参禅したそうです。武田黙雷和尚は指導を仰ぎたいとする八重に対し、「あなたはキリスト教で固まっているから教えることは何もない。ただ、『遊び』にいらっしゃい」とだけ応えたそうです。<br />和尚が八重に袈裟を贈ったことから、世間では仏教に帰依したとの噂が流布されましたが、八重は「ひとつの宗教に籍を置いているからといって、他の宗教の方のお話を聞いてはいけない、ということはないでしょう」とさらりと応えたそうです。<br />自分にとって良いと思ったことは積極的に取り入れ、そして意思を貫く、八重らしいエピソードです。

    建仁寺 塔頭の西来院への参道脇にある楓です。

    晩年の新島八重は、禅にも興味を示し、建仁寺に参禅したそうです。武田黙雷和尚は指導を仰ぎたいとする八重に対し、「あなたはキリスト教で固まっているから教えることは何もない。ただ、『遊び』にいらっしゃい」とだけ応えたそうです。
    和尚が八重に袈裟を贈ったことから、世間では仏教に帰依したとの噂が流布されましたが、八重は「ひとつの宗教に籍を置いているからといって、他の宗教の方のお話を聞いてはいけない、ということはないでしょう」とさらりと応えたそうです。
    自分にとって良いと思ったことは積極的に取り入れ、そして意思を貫く、八重らしいエピソードです。

  • 陀羅尼(あらに)の鐘<br />東の大鐘楼白壁の建物です。 桁行二間、梁行一間、一重、切妻造、本瓦葺で、江戸時代の1622(元和8)年に建立され、京都府指定文化財になっています。<br />ここの梵鐘は、鎌倉時代に鋳造されたもので、 京都第3位の大鐘です。修行僧が就寝する亥の刻過ぎに「観音慈救陀羅尼」という念仏を1万回唱えながらこの梵鐘を撞いたことからこの名があります。<br />この鐘楼は、「深夜の迎え鐘」で知られています。東福寺開山の円爾(聖一国師)は、建仁寺の住持でもあったことから、東福寺で勤めが終わると建仁寺へ移動したそうです。この時、東福寺では「送り鐘」で送り出し、建仁寺では「迎え鐘」で迎えたそうです。この「深夜の鐘」は、それ以来750年も連綿と続けられています。

    陀羅尼(あらに)の鐘
    東の大鐘楼白壁の建物です。 桁行二間、梁行一間、一重、切妻造、本瓦葺で、江戸時代の1622(元和8)年に建立され、京都府指定文化財になっています。
    ここの梵鐘は、鎌倉時代に鋳造されたもので、 京都第3位の大鐘です。修行僧が就寝する亥の刻過ぎに「観音慈救陀羅尼」という念仏を1万回唱えながらこの梵鐘を撞いたことからこの名があります。
    この鐘楼は、「深夜の迎え鐘」で知られています。東福寺開山の円爾(聖一国師)は、建仁寺の住持でもあったことから、東福寺で勤めが終わると建仁寺へ移動したそうです。この時、東福寺では「送り鐘」で送り出し、建仁寺では「迎え鐘」で迎えたそうです。この「深夜の鐘」は、それ以来750年も連綿と続けられています。

  • 陀羅尼の鐘<br />梵鐘の由来についての伝説があります。栄西が在世の頃、洪水によって鴨川七条の鐘ヶ淵に沈んでいた源融(源氏物語の光源氏のモデル)の住居「六条河原院」にあった梵鐘を、「えいさい」「ようさい」と開山の名を呼びながら引き上げ、開山がここに吊るしたと伝わります。

    陀羅尼の鐘
    梵鐘の由来についての伝説があります。栄西が在世の頃、洪水によって鴨川七条の鐘ヶ淵に沈んでいた源融(源氏物語の光源氏のモデル)の住居「六条河原院」にあった梵鐘を、「えいさい」「ようさい」と開山の名を呼びながら引き上げ、開山がここに吊るしたと伝わります。

  • 西来院<br />鎌倉時代の応永年間(1392~1427年)に、日本に禅宗を広めるために南宋から訪れた蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)により創建された建仁寺の塔頭です。<br />蘭溪道隆は泉涌寺の来迎院や鎌倉にある寿福寺等に寓居(仮住まい)し、鎌倉幕府第5代執権 北条時頼の帰依を受けて臨済宗の寺院を格付けをする鎌倉五山の第1<br />位となった建長寺を開山した人物でもあります。<br />元寇の際には元のスパイとの嫌疑をかけられ、伊豆国に逃れたそうですが、その後、後嵯峨天皇の詔により、建仁寺に住し、その時に住持した寺院が西来院だったそうです。ですから、通称「蘭渓道隆のお寺」とも呼ばれています。

    西来院
    鎌倉時代の応永年間(1392~1427年)に、日本に禅宗を広めるために南宋から訪れた蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)により創建された建仁寺の塔頭です。
    蘭溪道隆は泉涌寺の来迎院や鎌倉にある寿福寺等に寓居(仮住まい)し、鎌倉幕府第5代執権 北条時頼の帰依を受けて臨済宗の寺院を格付けをする鎌倉五山の第1
    位となった建長寺を開山した人物でもあります。
    元寇の際には元のスパイとの嫌疑をかけられ、伊豆国に逃れたそうですが、その後、後嵯峨天皇の詔により、建仁寺に住し、その時に住持した寺院が西来院だったそうです。ですから、通称「蘭渓道隆のお寺」とも呼ばれています。

  • 小鐘楼<br />大鐘楼(陀羅尼の鐘)よりやや遅れ、江戸時代の1672(寛文12)年に建立されました。<br />桁行一間、梁行一間、一重、切妻造、本瓦葺で、京都府指定文化財です。

    小鐘楼
    大鐘楼(陀羅尼の鐘)よりやや遅れ、江戸時代の1672(寛文12)年に建立されました。
    桁行一間、梁行一間、一重、切妻造、本瓦葺で、京都府指定文化財です。

  • 桑の碑<br />栄西は、『喫茶養生記』下巻で、飲水、中風、不食、瘡病、脚気の五種の病には諸仏菩薩の樹である桑の妙薬が効くと説きました。<br />「桑の碑」と共に「三尊石」なるものがあり、中央が栄西、右が寄進された人達、左がこの碑を守る僧侶を表わすそうです。

    桑の碑
    栄西は、『喫茶養生記』下巻で、飲水、中風、不食、瘡病、脚気の五種の病には諸仏菩薩の樹である桑の妙薬が効くと説きました。
    「桑の碑」と共に「三尊石」なるものがあり、中央が栄西、右が寄進された人達、左がこの碑を守る僧侶を表わすそうです。

  • 茶碑<br />栄西は、在宋中、茶を喫してその効用と作法を研究しました。茶種を持ち帰って筑前の背振山で栽培し、 これが「岩上茶」の起源と伝えられます。また、栄西が栂尾の明恵上人に茶種を贈ったことが「栂尾茶」の始まりと言われています。更には、「宇治茶」は栂尾から移されたものであり、円爾弁円の「静岡茶」も同じルーツです。 更に、日本最古の茶書『喫茶養生記』を著し、その巻頭には「茶は養生の仙薬・延齢の妙術である」と記して茶は良薬であると茶徳を讃えてその普及と奨励に勤め、日本の茶祖としても崇敬されています。上下2巻に亘り、喫茶の法、茶樹の栽培、薬効等茶に関する総合的著述になっています。<br />元々、喫茶の法の普及と禅宗の伝来とは深い関係がありました。禅宗僧侶の集団修道生活の規則は、「清規」と呼ばれ、清浄なる衆僧の規則と解され、その「清規」の中に茶礼・点茶・煎茶の儀式がありました。特に座禅の際に行う茶礼は、眠気覚ましの特効薬として珍重され、修道に不可欠の行事でした。

    茶碑
    栄西は、在宋中、茶を喫してその効用と作法を研究しました。茶種を持ち帰って筑前の背振山で栽培し、 これが「岩上茶」の起源と伝えられます。また、栄西が栂尾の明恵上人に茶種を贈ったことが「栂尾茶」の始まりと言われています。更には、「宇治茶」は栂尾から移されたものであり、円爾弁円の「静岡茶」も同じルーツです。 更に、日本最古の茶書『喫茶養生記』を著し、その巻頭には「茶は養生の仙薬・延齢の妙術である」と記して茶は良薬であると茶徳を讃えてその普及と奨励に勤め、日本の茶祖としても崇敬されています。上下2巻に亘り、喫茶の法、茶樹の栽培、薬効等茶に関する総合的著述になっています。
    元々、喫茶の法の普及と禅宗の伝来とは深い関係がありました。禅宗僧侶の集団修道生活の規則は、「清規」と呼ばれ、清浄なる衆僧の規則と解され、その「清規」の中に茶礼・点茶・煎茶の儀式がありました。特に座禅の際に行う茶礼は、眠気覚ましの特効薬として珍重され、修道に不可欠の行事でした。

  • 洗鉢池<br />茶碑と「平成の茶苑」のある区画の南隣には、この長方形の「洗鉢池」があります。<br />茶碑の近くにあるせいか、抹茶色をした神秘的な池です。

    洗鉢池
    茶碑と「平成の茶苑」のある区画の南隣には、この長方形の「洗鉢池」があります。
    茶碑の近くにあるせいか、抹茶色をした神秘的な池です。

  • 開山堂 楼門「宝陀閣」<br />開山堂は、旧名「護国院」、古くは「興禅護国院」とも言われ、栄西禅師の入定塔(墓所)です。禅師は、仏門に帰依しながらも日本古来の神を信仰し、建仁寺建立に当たっては守護神として恵比須神社を建立しました。故に、禅師は自らの墓所を恵比須神社の真正面に向かって西向きに建てるよう遺言しました。 <br />堂宇の他に楼門や客殿や塔所も含めて開山堂と呼んでいます。2013年に修復工事が完了していますが、非公開です。江戸時代中期のものと伝わる楼門「宝陀閣」は、江戸時代中期に建立された左京区鳴滝にあった妙光寺から1885(明治18)年に移築され、2011~13年に半解体修理が行われました。3間1戸、2重門、入母屋、本瓦葺で、両側に山廊が設けられています。<br />苔生した庭には、栄西お手植えの菩提樹2本が今も茂っているそうです。

    開山堂 楼門「宝陀閣」
    開山堂は、旧名「護国院」、古くは「興禅護国院」とも言われ、栄西禅師の入定塔(墓所)です。禅師は、仏門に帰依しながらも日本古来の神を信仰し、建仁寺建立に当たっては守護神として恵比須神社を建立しました。故に、禅師は自らの墓所を恵比須神社の真正面に向かって西向きに建てるよう遺言しました。
    堂宇の他に楼門や客殿や塔所も含めて開山堂と呼んでいます。2013年に修復工事が完了していますが、非公開です。江戸時代中期のものと伝わる楼門「宝陀閣」は、江戸時代中期に建立された左京区鳴滝にあった妙光寺から1885(明治18)年に移築され、2011~13年に半解体修理が行われました。3間1戸、2重門、入母屋、本瓦葺で、両側に山廊が設けられています。
    苔生した庭には、栄西お手植えの菩提樹2本が今も茂っているそうです。

  • 楽神廟(らくじんびょう)京都府指定文化財 <br />栄西禅師の母親が岡山吉備津神社の末社「楽の杜」に参詣され、夢に明星を見て栄西を身ごもったという逸話を基にこの地に祀られています。<br />楽大明神の本地仏は虚空蔵菩薩で、知慧明瞭・学徳増進・記憶力増進の功徳があるとされ、受験合格や天変怨敵退散、安産、罪障消滅、無病息災、福徳授与の功徳があり、建仁寺が優れた学僧を輩出してきた由縁とされます。また、丑年と寅年生まれの守り本尊ともされています。

    楽神廟(らくじんびょう)京都府指定文化財 
    栄西禅師の母親が岡山吉備津神社の末社「楽の杜」に参詣され、夢に明星を見て栄西を身ごもったという逸話を基にこの地に祀られています。
    楽大明神の本地仏は虚空蔵菩薩で、知慧明瞭・学徳増進・記憶力増進の功徳があるとされ、受験合格や天変怨敵退散、安産、罪障消滅、無病息災、福徳授与の功徳があり、建仁寺が優れた学僧を輩出してきた由縁とされます。また、丑年と寅年生まれの守り本尊ともされています。

  • 楽神廟<br />江戸時代前期に建立された建仁寺の鎮守であり、明星尊(楽大明神)を祀ります。<br />桟瓦葺、紅殻色の一間社流見世棚造です。<br />

    楽神廟
    江戸時代前期に建立された建仁寺の鎮守であり、明星尊(楽大明神)を祀ります。
    桟瓦葺、紅殻色の一間社流見世棚造です。

  • 楽神廟<br />合格祈願を託した風神の絵馬が沢山かけられています。<br />

    楽神廟
    合格祈願を託した風神の絵馬が沢山かけられています。

  • 道元禅師 修行の遺蹟<br />道元を顕彰する碑です。<br />曹洞宗の開祖 道元禅師は、比叡山で出家後、建仁寺にて栄西禅師の高弟 明全和尚に師事しました。その後、明全と共に渡宋し、天台教学や黄檗派の禅や戒律を学んだ後、彼の地で病没した明全の遺骨を抱いて再び建仁寺に戻り、曹洞宗を開山したという系譜になります。<br />道元は栄西をとても尊敬していたとされていますが、孫弟子の関係ではあっても、実は一面識もないとも言われています。道元は1200年に生まれ、建仁寺に移ったのが1217年でした。そして、栄西が示寂したのが1213年ですから、ふたりは出会うことはなかったのです。

    道元禅師 修行の遺蹟
    道元を顕彰する碑です。
    曹洞宗の開祖 道元禅師は、比叡山で出家後、建仁寺にて栄西禅師の高弟 明全和尚に師事しました。その後、明全と共に渡宋し、天台教学や黄檗派の禅や戒律を学んだ後、彼の地で病没した明全の遺骨を抱いて再び建仁寺に戻り、曹洞宗を開山したという系譜になります。
    道元は栄西をとても尊敬していたとされていますが、孫弟子の関係ではあっても、実は一面識もないとも言われています。道元は1200年に生まれ、建仁寺に移ったのが1217年でした。そして、栄西が示寂したのが1213年ですから、ふたりは出会うことはなかったのです。

  • 浴室<br />1628(寛永5)年に三江和尚(諱紹益)によって建てられた浴室で、七堂伽藍の一つに数えられます。また、禅堂、食堂と共に「三黙堂」のひとつとされています。2002年に法堂東からこの地へ移築されています。禅寺では入浴も修行の大切な部分であり、入浴中は終始無言とされ、厳しい作法が細かく定められています。内部は待合・浴室・土間(火炊場)に3分され、基本的には湯気で体を温めるサウナ風呂です。

    浴室
    1628(寛永5)年に三江和尚(諱紹益)によって建てられた浴室で、七堂伽藍の一つに数えられます。また、禅堂、食堂と共に「三黙堂」のひとつとされています。2002年に法堂東からこの地へ移築されています。禅寺では入浴も修行の大切な部分であり、入浴中は終始無言とされ、厳しい作法が細かく定められています。内部は待合・浴室・土間(火炊場)に3分され、基本的には湯気で体を温めるサウナ風呂です。

  • 勅使門の北側にある楓です。

    勅使門の北側にある楓です。

  • 建仁寺で授与していただいた御朱印帳です。<br />以前から「風神雷神」の御朱印帳が気になっていました。

    建仁寺で授与していただいた御朱印帳です。
    以前から「風神雷神」の御朱印帳が気になっていました。

  • 御朱印には、法堂の別名「拈華堂」と記されています。<br />また、1198(建久9)年に栄西が著した『興禅護国論』の序文の最初の4文字「大哉心乎(大いなるかな、心や)」も記されています。「自分も、他人も、心なくしては生きていけない事の大切さを思うもの。心は、本来自由で大らかである」。<br />この4文字を心に刻んで精進してまいりたいと思います。

    御朱印には、法堂の別名「拈華堂」と記されています。
    また、1198(建久9)年に栄西が著した『興禅護国論』の序文の最初の4文字「大哉心乎(大いなるかな、心や)」も記されています。「自分も、他人も、心なくしては生きていけない事の大切さを思うもの。心は、本来自由で大らかである」。
    この4文字を心に刻んで精進してまいりたいと思います。

  • 禅居庵<br />鎌倉時代後期の1333(元弘3)年、元国からの来朝僧であり建仁寺第23世の大鑑清拙正澄禅師が開山して晩年退隠され、その後、小笠原貞宗が元弘年中に創建した臨済宗建仁寺派の塔頭寺院です。<br />通常は非公開のため、お庭だけ拝見させていただきます。左半分を白砂、右半分を苔と植樹とし、白と緑のコントラストが絶妙です。白砂が水面、苔が陸を表わし、複数の飛び石が舟や橋を表しています。

    禅居庵
    鎌倉時代後期の1333(元弘3)年、元国からの来朝僧であり建仁寺第23世の大鑑清拙正澄禅師が開山して晩年退隠され、その後、小笠原貞宗が元弘年中に創建した臨済宗建仁寺派の塔頭寺院です。
    通常は非公開のため、お庭だけ拝見させていただきます。左半分を白砂、右半分を苔と植樹とし、白と緑のコントラストが絶妙です。白砂が水面、苔が陸を表わし、複数の飛び石が舟や橋を表しています。

  • 禅居庵 <br />唐門は至ってシンプルな造形です。<br />大瓶束は円柱ではなく、角柱に縦縞の装飾彫刻を施しています。

    禅居庵
    唐門は至ってシンプルな造形です。
    大瓶束は円柱ではなく、角柱に縦縞の装飾彫刻を施しています。

  • 禅居庵 ゆずりあいの小道<br />唐門を潜り抜けると、趣のある建仁寺垣にナビゲートされて「摩利支天堂」へと誘われます。ここの参道は道幅が狭く、お互いに譲り合いの精神で気持ちよく歩くという意味合いで、「ゆずりあいの小道」と呼ばれています。

    禅居庵 ゆずりあいの小道
    唐門を潜り抜けると、趣のある建仁寺垣にナビゲートされて「摩利支天堂」へと誘われます。ここの参道は道幅が狭く、お互いに譲り合いの精神で気持ちよく歩くという意味合いで、「ゆずりあいの小道」と呼ばれています。

  • 禅居庵 摩利支天堂 南門<br />摩利支天堂は建仁寺の広大な境内の南側に位置する禅居庵の境内にあり、南門は八坂通りに面しています。平入りの平唐門に唐破風を付けています。<br />南と西の2ヶ所に門を開いていますが、幕末の史料『新撰花洛名勝図会』には、西側の大和大路沿いは石垣が築かれ、南側だけに門が設けられていたようです。南門も、四脚門のような簡素な門でした。<br />この南側の門が改築されたのも明治時代初期で、大和大路に門が開かれたのも同時代のようです。

    禅居庵 摩利支天堂 南門
    摩利支天堂は建仁寺の広大な境内の南側に位置する禅居庵の境内にあり、南門は八坂通りに面しています。平入りの平唐門に唐破風を付けています。
    南と西の2ヶ所に門を開いていますが、幕末の史料『新撰花洛名勝図会』には、西側の大和大路沿いは石垣が築かれ、南側だけに門が設けられていたようです。南門も、四脚門のような簡素な門でした。
    この南側の門が改築されたのも明治時代初期で、大和大路に門が開かれたのも同時代のようです。

  • 禅居庵 摩利支天堂 南門<br />蟇股はシンプルですが、上部の笈形は逆に精巧な透かし彫りが施されています。<br />その上には輪宝のような6角形の意匠の寺紋が見られます。軒丸瓦の意匠もこの輪宝です。<br />摩利支天堂は、開山 大鑑清拙正澄禅師が1326(嘉暦元)年に北条高時の詔により、中国から日本へ渡る際、清浄の泥土で「摩利支天像」を作りこれを当地に祀ったのが始まりです。建立は1333(元弘3)年です。

    禅居庵 摩利支天堂 南門
    蟇股はシンプルですが、上部の笈形は逆に精巧な透かし彫りが施されています。
    その上には輪宝のような6角形の意匠の寺紋が見られます。軒丸瓦の意匠もこの輪宝です。
    摩利支天堂は、開山 大鑑清拙正澄禅師が1326(嘉暦元)年に北条高時の詔により、中国から日本へ渡る際、清浄の泥土で「摩利支天像」を作りこれを当地に祀ったのが始まりです。建立は1333(元弘3)年です。

  • 禅居庵 摩利支天堂<br />堂宇の正面中央には向唐破風の向拝があります。<br />京都の人達に篤く信仰されていたため、参拝するスペースを確保するために堂宇の前に突き出した拝所を設けています。ここで、お線香やお蝋燭をあげたり、参拝したりできます。この部分は、幕末の1856(安政3)年に増設されたものです。堂宇は、京都府指定文化財です。<br />境内には、山茶花の花が咲いていました。

    禅居庵 摩利支天堂
    堂宇の正面中央には向唐破風の向拝があります。
    京都の人達に篤く信仰されていたため、参拝するスペースを確保するために堂宇の前に突き出した拝所を設けています。ここで、お線香やお蝋燭をあげたり、参拝したりできます。この部分は、幕末の1856(安政3)年に増設されたものです。堂宇は、京都府指定文化財です。
    境内には、山茶花の花が咲いていました。

  • 禅居庵 摩利支天堂<br />方三間、単層で裳階の付いた唐様仏殿であり、外観はその分大振りに見えます。京都には数少ない中世の禅宗様仏殿として、貴重な遺構となっています。<br />応仁の乱等による2度の焼失の後、1547年に現存する本堂を再々建したのは、織田信長の父 信秀です。本尊の摩利支天像は、大鑑禅師が自ら刻んだものと伝わります。摩利支天は古代インドの開運と勝利の女神とされる秘仏で、金沢 宝泉寺、東京 徳大寺と並ぶ「日本三大摩利支天」の一体に数えられます。摩利支天は、陽炎を神格化した女神であり、本来人の目には見えない存在とされ、仏典でも「できるだけ小さく造形するように」と指示されているそうです。

    禅居庵 摩利支天堂
    方三間、単層で裳階の付いた唐様仏殿であり、外観はその分大振りに見えます。京都には数少ない中世の禅宗様仏殿として、貴重な遺構となっています。
    応仁の乱等による2度の焼失の後、1547年に現存する本堂を再々建したのは、織田信長の父 信秀です。本尊の摩利支天像は、大鑑禅師が自ら刻んだものと伝わります。摩利支天は古代インドの開運と勝利の女神とされる秘仏で、金沢 宝泉寺、東京 徳大寺と並ぶ「日本三大摩利支天」の一体に数えられます。摩利支天は、陽炎を神格化した女神であり、本来人の目には見えない存在とされ、仏典でも「できるだけ小さく造形するように」と指示されているそうです。

  • 禅居庵 摩利支天堂 手水舎<br />水盤への水の注ぎ口はブロンズ製「イノシシ」です。<br />立派なたてがみを持つ逞しそうなイノシシです。

    禅居庵 摩利支天堂 手水舎
    水盤への水の注ぎ口はブロンズ製「イノシシ」です。
    立派なたてがみを持つ逞しそうなイノシシです。

  • 禅居庵 摩利支天堂<br />向拝の頭貫の上には、透かし彫りで松と玉眼のイノシシが彫刻されています。<br />リアルとも滑稽ともとれる幕末の造形の妙が感じられます。<br />

    禅居庵 摩利支天堂
    向拝の頭貫の上には、透かし彫りで松と玉眼のイノシシが彫刻されています。
    リアルとも滑稽ともとれる幕末の造形の妙が感じられます。

  • 禅居庵 摩利支天堂<br />頭貫の木鼻は正面が獅子、側面が象で玉眼入りの彫刻です。<br />摩利支天の語源は、サンスクリット語で「陽炎」を意味する「Marici(マリーチ)」の音を漢字に写したものです。また、そのルーツは「威光」「陽炎」が神格化した古代インドの女神マーリーチで、創造神プラフマー(梵天)の子と言われています。<br />陽炎には実体が無く、姿は見えません。捕らえられて傷つけられることも、害を加えられることも無いところから、戦国武将の間で摩利支天信仰が広がったそうです。楠木正成や前田利家は、兜の中に摩利支天の小像を入れて出陣したと言われています。

    禅居庵 摩利支天堂
    頭貫の木鼻は正面が獅子、側面が象で玉眼入りの彫刻です。
    摩利支天の語源は、サンスクリット語で「陽炎」を意味する「Marici(マリーチ)」の音を漢字に写したものです。また、そのルーツは「威光」「陽炎」が神格化した古代インドの女神マーリーチで、創造神プラフマー(梵天)の子と言われています。
    陽炎には実体が無く、姿は見えません。捕らえられて傷つけられることも、害を加えられることも無いところから、戦国武将の間で摩利支天信仰が広がったそうです。楠木正成や前田利家は、兜の中に摩利支天の小像を入れて出陣したと言われています。

  • 禅居庵 摩利支天堂<br />仏教の中でも密教系・禅宗系の宗派では、外来の神や他宗教では魔神や鬼神などと卑下された異形の神が、尊天や護法神などとして組み込まれている場合もあります。<br />摩利支天堂は、「元 異形の神」を祀る寺院の代表格です。

    禅居庵 摩利支天堂
    仏教の中でも密教系・禅宗系の宗派では、外来の神や他宗教では魔神や鬼神などと卑下された異形の神が、尊天や護法神などとして組み込まれている場合もあります。
    摩利支天堂は、「元 異形の神」を祀る寺院の代表格です。

  • 禅居庵 摩利支天堂<br />摩利支尊天堂にも天井画『雲龍図』が描かれ、目を凝らすと龍の姿が見てとれます。この天井画は幕末の日本画家 鈴木百年・松年父子により、明治12年に制作されたものです。当初は息子 松年に依頼されたのですが、途中で父 百年に変更されました。しかし、松年がこれを譲らず、龍を百年が、雲を松年が描き、父子合作となったというエピソードがあります。<br />毎年10月20日には摩利支天の御開帳が行われますので、それに合わせて参詣されるのもお勧めです。また、聖護院門跡の修験宗による「採燈護摩供(さいとうごまく)」が行われ、国家安泰、万民平和、五穀豊穣、寺門の繁栄などを祈願します。

    禅居庵 摩利支天堂
    摩利支尊天堂にも天井画『雲龍図』が描かれ、目を凝らすと龍の姿が見てとれます。この天井画は幕末の日本画家 鈴木百年・松年父子により、明治12年に制作されたものです。当初は息子 松年に依頼されたのですが、途中で父 百年に変更されました。しかし、松年がこれを譲らず、龍を百年が、雲を松年が描き、父子合作となったというエピソードがあります。
    毎年10月20日には摩利支天の御開帳が行われますので、それに合わせて参詣されるのもお勧めです。また、聖護院門跡の修験宗による「採燈護摩供(さいとうごまく)」が行われ、国家安泰、万民平和、五穀豊穣、寺門の繁栄などを祈願します。

  • 禅居庵 摩利支天堂<br />ここの摩利支天像は三面六臂の憤怒相で、一面は菩薩の相、もう一面は童女の相をしています。6本の手を持ち、弓矢剣は悪魔を降服し怨賊を滅し、絲針は女人の手技を助けて陰口の唇を縫い閉じ、無憂樹(ムユウジュ:釈迦の母 摩耶夫人が無憂樹の木から花を一枝折ろうとした時、左脇腹から釈迦が生まれた)は五穀を稔り豊かにして万民の飢餓を救うと言われます。また、猪を眷族(けんぞく)として従えて猪車に乗り、7頭の猪の上に座している姿から、イノシシの像が境内の至る所に置かれています。<br /><br />この御前立の写真は、禅居庵のHPから借用させていただきました。<br />http://zenkyoan.jp/about_marishiten/

    禅居庵 摩利支天堂
    ここの摩利支天像は三面六臂の憤怒相で、一面は菩薩の相、もう一面は童女の相をしています。6本の手を持ち、弓矢剣は悪魔を降服し怨賊を滅し、絲針は女人の手技を助けて陰口の唇を縫い閉じ、無憂樹(ムユウジュ:釈迦の母 摩耶夫人が無憂樹の木から花を一枝折ろうとした時、左脇腹から釈迦が生まれた)は五穀を稔り豊かにして万民の飢餓を救うと言われます。また、猪を眷族(けんぞく)として従えて猪車に乗り、7頭の猪の上に座している姿から、イノシシの像が境内の至る所に置かれています。

    この御前立の写真は、禅居庵のHPから借用させていただきました。
    http://zenkyoan.jp/about_marishiten/

  • 禅居庵 摩利支天堂<br />燈籠の底です。こんな所にもイノシシがあしらわれています。

    禅居庵 摩利支天堂
    燈籠の底です。こんな所にもイノシシがあしらわれています。

  • 禅居庵 摩利支天堂<br />巨大な猪像です。

    禅居庵 摩利支天堂
    巨大な猪像です。

  • 禅居庵 摩利支天堂<br />猪像がお腹の下に守っているのは、「ウリ坊」姿の「イノシシみくじ」の入れ物です。

    禅居庵 摩利支天堂
    猪像がお腹の下に守っているのは、「ウリ坊」姿の「イノシシみくじ」の入れ物です。

  • 禅居庵 摩利支天堂<br />堂宇の屋根の降棟先端の鬼瓦です。<br />角があるのでてっきり鬼だと思ったら、とぐろを巻いた龍でした。

    禅居庵 摩利支天堂
    堂宇の屋根の降棟先端の鬼瓦です。
    角があるのでてっきり鬼だと思ったら、とぐろを巻いた龍でした。

  • 禅居庵 摩利支天堂<br />向拝にある奉納額です。<br />

    禅居庵 摩利支天堂
    向拝にある奉納額です。

  • 禅居庵 摩利支天堂<br />ズームアップすると、イノシシの群がダイナミックに描かれています。<br />数百匹のイノシシが「猪突猛進」している様が描かれています。<br />

    禅居庵 摩利支天堂
    ズームアップすると、イノシシの群がダイナミックに描かれています。
    数百匹のイノシシが「猪突猛進」している様が描かれています。

  • 禅居庵 摩利支天堂 絵馬堂<br />絵馬の絵は、建仁寺法 堂の天井画『大双龍図』を描いた小泉淳作画伯の手になるそうです。<br />摩利支尊天堂では、堂宇の周りを回りながら願いを唱えると、その願いが必ず叶うと伝えられています。回る数を決め、その数の竹の棒を手に取ります。そして、堂宇を時計回りに回り、一周回るたびに木の棒を箱に戻していきます。<br />特に、亥年生まれの人にはご利益があるそうなので、亥年生まれの人は外せません。

    禅居庵 摩利支天堂 絵馬堂
    絵馬の絵は、建仁寺法 堂の天井画『大双龍図』を描いた小泉淳作画伯の手になるそうです。
    摩利支尊天堂では、堂宇の周りを回りながら願いを唱えると、その願いが必ず叶うと伝えられています。回る数を決め、その数の竹の棒を手に取ります。そして、堂宇を時計回りに回り、一周回るたびに木の棒を箱に戻していきます。
    特に、亥年生まれの人にはご利益があるそうなので、亥年生まれの人は外せません。

  • 久昌院前の大楓です。

    久昌院前の大楓です。

  • 興雲庵 陀枳尼尊天堂<br />建仁寺境内の北西に塔頭 興雲庵があります。境内には興雲庵の鎮守稲荷社の陀枳尼尊天(だきにそんてん、豊川稲荷)が祀られており、宮川町など花柳界の参詣者が多いそうです。<br />興雲庵の中興の祖であり北政所ねねを帰依させるなど江戸時代初期に活躍した三江紹益禅師の両親が深く崇神したことが縁で勧請されたそうです。<br />別称「おいなりさんの寺」とも呼ばれています。 

    興雲庵 陀枳尼尊天堂
    建仁寺境内の北西に塔頭 興雲庵があります。境内には興雲庵の鎮守稲荷社の陀枳尼尊天(だきにそんてん、豊川稲荷)が祀られており、宮川町など花柳界の参詣者が多いそうです。
    興雲庵の中興の祖であり北政所ねねを帰依させるなど江戸時代初期に活躍した三江紹益禅師の両親が深く崇神したことが縁で勧請されたそうです。
    別称「おいなりさんの寺」とも呼ばれています。 

  • 興雲庵 陀枳尼尊天堂<br />興雲庵は、建仁寺の住職にもなった石梁仁恭(せきりょうにんきょう)により、1536(天文5)年に開基されました。<br />当初は「臥雲庵」と号していたそうです。<br />建仁寺境内の紅葉は疎らなのですが、興雲庵の境内では密集しています。

    興雲庵 陀枳尼尊天堂
    興雲庵は、建仁寺の住職にもなった石梁仁恭(せきりょうにんきょう)により、1536(天文5)年に開基されました。
    当初は「臥雲庵」と号していたそうです。
    建仁寺境内の紅葉は疎らなのですが、興雲庵の境内では密集しています。

  • 興雲庵 陀枳尼尊天堂<br />中興の祖 三江紹益禅師の両親には子供がなかなか授からず、この寺の本尊 陀枳尼天に子を授けてもらえるように祈願しました。その満願の日、母親が「金輪の玉」が飛来して口の中に入る夢を見て懐妊します。その後、「玉の如き男子」が生まれ、不思議なことにその手にはありがたい経文の一句が記された紙片が握られていました。父母は感涙し、陀枳尼天を一層深く信仰するようになったといいます。<br />こうした因縁から、三江は「堅固な信心あらば一切の願望悉く成就する」という陀枳尼天を生涯信仰し、諸願成就の善神としてこの地に勧請し、長く鎮守として祀るようになったと伝えられています。

    興雲庵 陀枳尼尊天堂
    中興の祖 三江紹益禅師の両親には子供がなかなか授からず、この寺の本尊 陀枳尼天に子を授けてもらえるように祈願しました。その満願の日、母親が「金輪の玉」が飛来して口の中に入る夢を見て懐妊します。その後、「玉の如き男子」が生まれ、不思議なことにその手にはありがたい経文の一句が記された紙片が握られていました。父母は感涙し、陀枳尼天を一層深く信仰するようになったといいます。
    こうした因縁から、三江は「堅固な信心あらば一切の願望悉く成就する」という陀枳尼天を生涯信仰し、諸願成就の善神としてこの地に勧請し、長く鎮守として祀るようになったと伝えられています。

  • 興雲庵 陀枳尼尊天堂<br />豊川稲荷を伏見稲荷と同じと思われている方も多いかも知れませんが、伏見稲荷は神々の食べ物や衣食住を司る宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ、この神のお使いが狐)を祀っているのに対し、ここは陀枳尼天を祀っています。いずれも女神ですが、陀枳尼天の方が遙かに怖い女神です。<br />陀枳尼天は、現在では仏教を守護する天部という女神の一柱で、ご利益をもたらす善神として祀られていますが、実は怖ろしい別の顔があります。<br />元々はヒンズー教の女神「ダーキニー」で、白い狐(インドではジャッカル)に乗った「女鬼」とされ、いつしか狐が縁で稲荷信仰と習合したと考えられています。つまり、破壊・殺戮を好む戦いの女神カーリーの眷属で、敵を殺してその血肉を喰らう恐ろしい「鬼女」「羅刹女」でした。現代では狐にまたがる美しい天女の姿で表現されていますが、平安時代初期の密教では、半裸で血器や短刀、屍肉を手にする姿で伝えられたそうです。

    興雲庵 陀枳尼尊天堂
    豊川稲荷を伏見稲荷と同じと思われている方も多いかも知れませんが、伏見稲荷は神々の食べ物や衣食住を司る宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ、この神のお使いが狐)を祀っているのに対し、ここは陀枳尼天を祀っています。いずれも女神ですが、陀枳尼天の方が遙かに怖い女神です。
    陀枳尼天は、現在では仏教を守護する天部という女神の一柱で、ご利益をもたらす善神として祀られていますが、実は怖ろしい別の顔があります。
    元々はヒンズー教の女神「ダーキニー」で、白い狐(インドではジャッカル)に乗った「女鬼」とされ、いつしか狐が縁で稲荷信仰と習合したと考えられています。つまり、破壊・殺戮を好む戦いの女神カーリーの眷属で、敵を殺してその血肉を喰らう恐ろしい「鬼女」「羅刹女」でした。現代では狐にまたがる美しい天女の姿で表現されていますが、平安時代初期の密教では、半裸で血器や短刀、屍肉を手にする姿で伝えられたそうです。

  • 興雲庵 陀枳尼尊天堂<br />陀枳尼天を祀る「京都の豊川稲荷」こと、陀枳尼尊天堂です。<br />陀枳尼天は「外法(げほう)」と呼ばれる禁断の呪術で本尊とされた、とも伝わります。それは、「陀枳尼天を崇めることで現世では富や権力などを思いのままにできるが、その代償として死後は自分の肝を陀枳尼天に喰われなければならい」という怖ろしいものです。つまり、「外法」とは、魂を神や魔物に喰わせて死後の往生・成仏を諦める代わりに、現世でのご利益や栄華を得るという、まさに「悪魔の契約」でした。更に、「才槌頭」と言われる、特定の特徴を持った髑髏を本尊とするという、まるで黒魔術のようなことも行われていたそうです。<br />こうした「外法」が何度も行われた形跡があり、髑髏を得るために墓所や葬儀の場から死体の頭が盗まれる事件もあったそうです。この「外法」に手を染めた人たちには、平清盛や後醍醐天皇、徳川家康の名が挙げられているそうです。<br />ただし、豊川稲荷は、願いが叶ったら念入りに御礼をしないといけません。また、他の神仏に浮気をしてもいけません。不動明王同様に、そんなことをしたらとんでもない目に遇う怖い存在です。<br />「触らぬ神に祟りなし」、くわばらくわばら。

    興雲庵 陀枳尼尊天堂
    陀枳尼天を祀る「京都の豊川稲荷」こと、陀枳尼尊天堂です。
    陀枳尼天は「外法(げほう)」と呼ばれる禁断の呪術で本尊とされた、とも伝わります。それは、「陀枳尼天を崇めることで現世では富や権力などを思いのままにできるが、その代償として死後は自分の肝を陀枳尼天に喰われなければならい」という怖ろしいものです。つまり、「外法」とは、魂を神や魔物に喰わせて死後の往生・成仏を諦める代わりに、現世でのご利益や栄華を得るという、まさに「悪魔の契約」でした。更に、「才槌頭」と言われる、特定の特徴を持った髑髏を本尊とするという、まるで黒魔術のようなことも行われていたそうです。
    こうした「外法」が何度も行われた形跡があり、髑髏を得るために墓所や葬儀の場から死体の頭が盗まれる事件もあったそうです。この「外法」に手を染めた人たちには、平清盛や後醍醐天皇、徳川家康の名が挙げられているそうです。
    ただし、豊川稲荷は、願いが叶ったら念入りに御礼をしないといけません。また、他の神仏に浮気をしてもいけません。不動明王同様に、そんなことをしたらとんでもない目に遇う怖い存在です。
    「触らぬ神に祟りなし」、くわばらくわばら。

  • 興雲庵 陀枳尼尊天堂<br />陀枳尼天が真言立川流の本尊として祀られていたことは、オカルトマニアには有名です。真言立川流は鎌倉時代から南北朝時代にかけて流行した密教の一流派ですが、その内容は「陀枳尼天を祀り、髑髏を本尊とし、その前で性交の儀式を行う」というゾッとさせるものです。ヒンズー教の派生であるインドの神秘主義宗教タントラ派の秘儀に近いものであるが故、真言立川流は邪教と見做されて弾圧され、江戸時代に途絶えたと伝わります。<br />因みに、タントラ派は、ヒンズー教のシヴァ神の妃パールヴァティを崇拝する宗派で、パールヴァティの聖典を重視し、マイトフナと呼ばれる「性交の儀式」を経て解脱することを目指す宗教です。

    興雲庵 陀枳尼尊天堂
    陀枳尼天が真言立川流の本尊として祀られていたことは、オカルトマニアには有名です。真言立川流は鎌倉時代から南北朝時代にかけて流行した密教の一流派ですが、その内容は「陀枳尼天を祀り、髑髏を本尊とし、その前で性交の儀式を行う」というゾッとさせるものです。ヒンズー教の派生であるインドの神秘主義宗教タントラ派の秘儀に近いものであるが故、真言立川流は邪教と見做されて弾圧され、江戸時代に途絶えたと伝わります。
    因みに、タントラ派は、ヒンズー教のシヴァ神の妃パールヴァティを崇拝する宗派で、パールヴァティの聖典を重視し、マイトフナと呼ばれる「性交の儀式」を経て解脱することを目指す宗教です。

  • 興雲庵 陀枳尼尊天堂<br />陀枳尼尊天堂と対峙する小振りの堂宇もあります。<br />陀枳尼尊天堂の本尊 陀枳尼尊天像(茶吉尼天像)は、白狐に跨り、手に剣、玉を持っています。脇には、伏見人形の西行坐像、布袋像、神棚下にも布袋像が複数奉納されています。寺鎮守稲荷、福神稲荷という位置付けのようで、商売繁盛や火防、盗難除け、家内安全、福徳開運の信仰があります。明日、11月22日に秋の大祭を控えています。境内では、護摩焚きの準備も整えられていました。

    興雲庵 陀枳尼尊天堂
    陀枳尼尊天堂と対峙する小振りの堂宇もあります。
    陀枳尼尊天堂の本尊 陀枳尼尊天像(茶吉尼天像)は、白狐に跨り、手に剣、玉を持っています。脇には、伏見人形の西行坐像、布袋像、神棚下にも布袋像が複数奉納されています。寺鎮守稲荷、福神稲荷という位置付けのようで、商売繁盛や火防、盗難除け、家内安全、福徳開運の信仰があります。明日、11月22日に秋の大祭を控えています。境内では、護摩焚きの準備も整えられていました。

  • 興雲庵 陀枳尼尊天堂<br />深紅に染まった目に鮮やかな紅葉です。

    興雲庵 陀枳尼尊天堂
    深紅に染まった目に鮮やかな紅葉です。

  • 興雲庵 陀枳尼尊天堂<br />例年通りの紅葉狩りであれば、これほどじっくりと個々の紅葉を愛でることはなかったと思います。<br />こうした紅葉狩りもいいかもしれません。

    興雲庵 陀枳尼尊天堂
    例年通りの紅葉狩りであれば、これほどじっくりと個々の紅葉を愛でることはなかったと思います。
    こうした紅葉狩りもいいかもしれません。

  • 興雲庵 陀枳尼尊天堂<br />近年、「紅葉が昔ほどきれいでなくなった」と言われることが多くなったような気がします。<br />地球温暖化というか、特に熱帯雨林並みのスコールのような雨の降り方が紅葉に影響を及ぼしていることは明白だそうです。また、秋になっても最低気温が順調に下がらなくなってきており、最低気温の上下変動により、早く色付いたり、遅く色付いたりし、毎年紅葉の見頃も移り変わります。更に、日照時間が少ないと紅葉は遅くなり、日当たりの良い木から色付き、紅葉が一斉に始まりません。<br />一番心配なのは、紅葉の時期が年々遅くなってきていることです。未来にも「紅葉狩り」を秋の風物詩として残したいものです。

    興雲庵 陀枳尼尊天堂
    近年、「紅葉が昔ほどきれいでなくなった」と言われることが多くなったような気がします。
    地球温暖化というか、特に熱帯雨林並みのスコールのような雨の降り方が紅葉に影響を及ぼしていることは明白だそうです。また、秋になっても最低気温が順調に下がらなくなってきており、最低気温の上下変動により、早く色付いたり、遅く色付いたりし、毎年紅葉の見頃も移り変わります。更に、日照時間が少ないと紅葉は遅くなり、日当たりの良い木から色付き、紅葉が一斉に始まりません。
    一番心配なのは、紅葉の時期が年々遅くなってきていることです。未来にも「紅葉狩り」を秋の風物詩として残したいものです。

  • 興雲庵 陀枳尼尊天堂<br />京都の紅葉がことさら美しいのには、理由があります。紅葉を美しく魅せるため、1年を通して樹木の手入を欠かすことがありません。特に京都の夏は蒸し暑く、庭にスプリンクラーを設置し、樹木が乾燥しないように水まきを欠かしません。また、保水力を高めるため、苔を生やす寺院もあります。その恩恵で、緑の中の深紅というコントラストを愛でることができます。これは、茶室などに一輪挿しを生ける美意識にも通じるものです。こうした繊細な美意識が、京都の紅葉をより魅力的なものに昇華しているのだと思います。更に、冬の間に機械を使って地中に圧縮空気を送り込む寺院もあるほどです。土を柔らかくすることで、雨水を浸透し易くして根が腐ることを回避する工夫です。<br />「自然をありのままに見せておしまい」という訳ではなく、美しく魅せるために目に見えない愛情が注がれているのです。人知れず樹木の手入れをされた結果、このように色鮮やかに紅葉が映えることを知ればこそ、素直に感謝の気持ちで愛でることができます。こうした感謝の気持ちがあれば、近年話題になっている心ない行為、例えば紅葉の葉をちぎるとか、枝葉を折る、写真撮影のために苔を踏むといったマナー違反もなくなるのではないでしょうか?

    興雲庵 陀枳尼尊天堂
    京都の紅葉がことさら美しいのには、理由があります。紅葉を美しく魅せるため、1年を通して樹木の手入を欠かすことがありません。特に京都の夏は蒸し暑く、庭にスプリンクラーを設置し、樹木が乾燥しないように水まきを欠かしません。また、保水力を高めるため、苔を生やす寺院もあります。その恩恵で、緑の中の深紅というコントラストを愛でることができます。これは、茶室などに一輪挿しを生ける美意識にも通じるものです。こうした繊細な美意識が、京都の紅葉をより魅力的なものに昇華しているのだと思います。更に、冬の間に機械を使って地中に圧縮空気を送り込む寺院もあるほどです。土を柔らかくすることで、雨水を浸透し易くして根が腐ることを回避する工夫です。
    「自然をありのままに見せておしまい」という訳ではなく、美しく魅せるために目に見えない愛情が注がれているのです。人知れず樹木の手入れをされた結果、このように色鮮やかに紅葉が映えることを知ればこそ、素直に感謝の気持ちで愛でることができます。こうした感謝の気持ちがあれば、近年話題になっている心ない行為、例えば紅葉の葉をちぎるとか、枝葉を折る、写真撮影のために苔を踏むといったマナー違反もなくなるのではないでしょうか?

  • 大中院<br />建仁寺境内の北西に境外塔頭です。<br />1342(康永元)年に東海竺源(とうかいじくげん)が創建しました。応仁の乱やその後の戦火で荒廃し、江戸時代の1655(承応4)年)に雪窓霊玉(せっそうれいぎょく)が中興し、文化年間(1804~18年)に景和竺応(けいわじくおう)・全室慈保(ぜんしつ じほ)が堂宇を再建しています。

    大中院
    建仁寺境内の北西に境外塔頭です。
    1342(康永元)年に東海竺源(とうかいじくげん)が創建しました。応仁の乱やその後の戦火で荒廃し、江戸時代の1655(承応4)年)に雪窓霊玉(せっそうれいぎょく)が中興し、文化年間(1804~18年)に景和竺応(けいわじくおう)・全室慈保(ぜんしつ じほ)が堂宇を再建しています。

  • 大中院<br />一幅の絵画を見ているような、多様な色彩で癒されるお庭です。<br />通常は非公開ですが、門からお庭が覗けます。

    大中院
    一幅の絵画を見ているような、多様な色彩で癒されるお庭です。
    通常は非公開ですが、門からお庭が覗けます。

  • 四条大橋と北山の景色です。<br />間もなく、北山も雪化粧することでしょう。<br /><br />最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。恥も外聞もなく、備忘録も兼ねて徒然に旅行記を認めてしまいました。当方の経験や情報が皆さんの旅行の参考になれば幸甚です。どこか見知らぬ旅先で、見知らぬ貴方とすれ違えることに心ときめかせております。

    四条大橋と北山の景色です。
    間もなく、北山も雪化粧することでしょう。

    最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。恥も外聞もなく、備忘録も兼ねて徒然に旅行記を認めてしまいました。当方の経験や情報が皆さんの旅行の参考になれば幸甚です。どこか見知らぬ旅先で、見知らぬ貴方とすれ違えることに心ときめかせております。

  • おまけ1<br />新大阪からの道中はほとんど曇り空、関ヶ原周辺は降雪寸前でしたが、新富士駅を過ぎた辺りから晴れ上がり、雪を冠した雄大な富士山の姿を見ることができました。最近は見られないことが続いていたため、喜びもひとしおです。<br />何故か条件反射的にやってしまうことのひとつが、新幹線の車窓から富士山が見えると写真を撮ることです。しかし、実際には車窓から富士山を綺麗に撮影するのは至難の業です。それは、手前にある電線や鉄塔などが写り込んでしまうためです。こうした時にはデジイチの出番なのですが、出張で持ち出すのは大げさです。<br />新富士駅を通過してすぐに富士川橋梁を渡ります。ここも富士山のビュースポットとして定番ですが、車窓から写真を撮ると橋のトラスが邪魔をします。特にコンデジではシャッターの反応が遅いので、これぞという写真はなかなか撮れません。しかし、確率の問題ですので、連写などで何枚も撮るしかありません。コンデジの場合は、シャッタースピードを速くするためにISO感度を1000程に上げるのがお勧めです。富士川の雄大な流れの向こうに聳える孤高の富士の姿は、やはり格別です。<br />新幹線と並行する富士川水管橋は、10連アーチの優美な姿が印象的です。

    おまけ1
    新大阪からの道中はほとんど曇り空、関ヶ原周辺は降雪寸前でしたが、新富士駅を過ぎた辺りから晴れ上がり、雪を冠した雄大な富士山の姿を見ることができました。最近は見られないことが続いていたため、喜びもひとしおです。
    何故か条件反射的にやってしまうことのひとつが、新幹線の車窓から富士山が見えると写真を撮ることです。しかし、実際には車窓から富士山を綺麗に撮影するのは至難の業です。それは、手前にある電線や鉄塔などが写り込んでしまうためです。こうした時にはデジイチの出番なのですが、出張で持ち出すのは大げさです。
    新富士駅を通過してすぐに富士川橋梁を渡ります。ここも富士山のビュースポットとして定番ですが、車窓から写真を撮ると橋のトラスが邪魔をします。特にコンデジではシャッターの反応が遅いので、これぞという写真はなかなか撮れません。しかし、確率の問題ですので、連写などで何枚も撮るしかありません。コンデジの場合は、シャッタースピードを速くするためにISO感度を1000程に上げるのがお勧めです。富士川の雄大な流れの向こうに聳える孤高の富士の姿は、やはり格別です。
    新幹線と並行する富士川水管橋は、10連アーチの優美な姿が印象的です。

  • おまけ2<br />東海道新幹線のハイライトとも言うべき、富士市江尾付近から眺める富士山です。<br />

    おまけ2
    東海道新幹線のハイライトとも言うべき、富士市江尾付近から眺める富士山です。

  • おまけ3<br />この付近は有数の撮影スポットでもあり、富士山と愛鷹連山を背景に新幹線が疾走する写真を一度は見られたことがあると思います。視界に遮るものがなく、麓から頂上まで見渡すことができます。<br />

    おまけ3
    この付近は有数の撮影スポットでもあり、富士山と愛鷹連山を背景に新幹線が疾走する写真を一度は見られたことがあると思います。視界に遮るものがなく、麓から頂上まで見渡すことができます。

  • おまけ4<br />冬季の富士登山の難易度は、エベレスト級に豹変します。「7大陸最高峰(マッキンリー、キリマンジャロなど)」に挑戦するような登山家が、高地順応も兼ねてトレーニングする場が冬富士です。特に1、2月の富士登山は、7大大陸最高峰の夏場の安定した時期よりも難しいとされます。山頂近くでは傾斜45度近いアイスバーンが行く手を阻み、耐風姿勢を確保しても足場が氷に覆われているためにアイゼンやピッケルが刺さらず、体が宙に浮くこともあります。?また、「氷の滑り台」と同じですので、足を滑らせれば一気に1000m程滑落することもあり、助かれば奇跡です!プロ登山家 片山右京さんも冬富士で遭難経験があり、サポートとして同伴した2名を亡くされています。<br />冬富士は、登るものではなく、見上げて愛でるのが一番です!!

    おまけ4
    冬季の富士登山の難易度は、エベレスト級に豹変します。「7大陸最高峰(マッキンリー、キリマンジャロなど)」に挑戦するような登山家が、高地順応も兼ねてトレーニングする場が冬富士です。特に1、2月の富士登山は、7大大陸最高峰の夏場の安定した時期よりも難しいとされます。山頂近くでは傾斜45度近いアイスバーンが行く手を阻み、耐風姿勢を確保しても足場が氷に覆われているためにアイゼンやピッケルが刺さらず、体が宙に浮くこともあります。?また、「氷の滑り台」と同じですので、足を滑らせれば一気に1000m程滑落することもあり、助かれば奇跡です!プロ登山家 片山右京さんも冬富士で遭難経験があり、サポートとして同伴した2名を亡くされています。
    冬富士は、登るものではなく、見上げて愛でるのが一番です!!

  • おまけ5<br />構造美として名高い東京タワーは、設計指導を「塔博士」や「耐震構造の父」と呼ばれた建築構造家 内藤多仲(たちゅう)博士が担い、トラス構造の自立式鉄塔として建造されました。同時期に、博士は「タワー6兄弟」(名古屋テレビ塔、2代目通天閣、別府タワー、札幌テレビ塔、博多ポートタワー)の設計を手がけられています。因みに、4000m塔の構想もあり、図面が残されています。東京帝国大学で最初は造船学を専攻しましたが、日露戦争後の造船不況を考慮して建築学に転向し、佐野利器に師事した異色の技術者です。<br />造形について博士は、「東京タワーの美しさについて、別に作為はしませんでした。ムダのない、安定したものを追求していった結果できたものです。いわば、数字のつくった美しさとでもいえましょう」(『東京タワーの50年』)と語られています。アンテナと展望台を設置するという、電波塔の機能を満たした上で、耐震や安全を重視したら必然的にムダのない構造美が生まれたということです。

    おまけ5
    構造美として名高い東京タワーは、設計指導を「塔博士」や「耐震構造の父」と呼ばれた建築構造家 内藤多仲(たちゅう)博士が担い、トラス構造の自立式鉄塔として建造されました。同時期に、博士は「タワー6兄弟」(名古屋テレビ塔、2代目通天閣、別府タワー、札幌テレビ塔、博多ポートタワー)の設計を手がけられています。因みに、4000m塔の構想もあり、図面が残されています。東京帝国大学で最初は造船学を専攻しましたが、日露戦争後の造船不況を考慮して建築学に転向し、佐野利器に師事した異色の技術者です。
    造形について博士は、「東京タワーの美しさについて、別に作為はしませんでした。ムダのない、安定したものを追求していった結果できたものです。いわば、数字のつくった美しさとでもいえましょう」(『東京タワーの50年』)と語られています。アンテナと展望台を設置するという、電波塔の機能を満たした上で、耐震や安全を重視したら必然的にムダのない構造美が生まれたということです。

  • おまけ6<br />東京の冬の風物詩の代名詞になった「東京タワー・クリスマスイルミネーション」は、今年で19回目を迎え、「東京タワー ウィンターファンタジー ~オレンジ・イルミネーション~」と銘打ち、シンボルカラーのオレンジ色を基本コンセプトに6万個のLED電球で冬の夜を彩る光のファンタジー空間を織りなしています。<br />オレンジ色は東京タワーのシンボルカラーであり、実はカラーの正式名称は「インターナショナルオレンジ」と言います。そして、ライトアップ用の「ランドマークライト」もオレンジ色でコーディネートされています。<br />冬の夜に恋しくなる暖かな光が回りにたゆたい、温もりのある優しさで包んでくれます。実は、東京タワーはライトアップやイルミネーションの元祖とも言うべき存在でもあります。<br />イルミネーションは2月28日まで開催されていますので、観光のついでに立ち寄っていただきたいスポットです。

    おまけ6
    東京の冬の風物詩の代名詞になった「東京タワー・クリスマスイルミネーション」は、今年で19回目を迎え、「東京タワー ウィンターファンタジー ~オレンジ・イルミネーション~」と銘打ち、シンボルカラーのオレンジ色を基本コンセプトに6万個のLED電球で冬の夜を彩る光のファンタジー空間を織りなしています。
    オレンジ色は東京タワーのシンボルカラーであり、実はカラーの正式名称は「インターナショナルオレンジ」と言います。そして、ライトアップ用の「ランドマークライト」もオレンジ色でコーディネートされています。
    冬の夜に恋しくなる暖かな光が回りにたゆたい、温もりのある優しさで包んでくれます。実は、東京タワーはライトアップやイルミネーションの元祖とも言うべき存在でもあります。
    イルミネーションは2月28日まで開催されていますので、観光のついでに立ち寄っていただきたいスポットです。

  • おまけ7<br />東京タワーは、2018年に開業60周年を迎えます。それに合わせて樹齢60年のモミの生木がメインツリーに抜擢されました。<br />群馬県嬬恋村から陸送された都内最大級の高さ12mのツリーには、シンボルカラーの「オレンジ色」と還暦に因んだ「赤色」のLED電球1万6000個が飾られ、高さ333mの東京タワーとの光のページェントが愉しめます。<br />

    おまけ7
    東京タワーは、2018年に開業60周年を迎えます。それに合わせて樹齢60年のモミの生木がメインツリーに抜擢されました。
    群馬県嬬恋村から陸送された都内最大級の高さ12mのツリーには、シンボルカラーの「オレンジ色」と還暦に因んだ「赤色」のLED電球1万6000個が飾られ、高さ333mの東京タワーとの光のページェントが愉しめます。

  • おまけ8<br />ライトアップでは、180個のライトで東京タワーを照らし、定番の「ランドマークライト」(冬はオレンジ(高圧ナトリウムランプ)、夏は白(メタルハライドランプ))と7色に変化する「ダイヤモンドヴェール」、イベントやプロモーションで色を変えたりメッセージを表示させる「特別ライトアップ」の3種類があります。<br />建造30周年を迎えた際、照明デザイナーに石井幹子さんを抜擢しました。彼女の「ライトアップ」は東京タワー自体を照らして浮かび上がらせる奇抜なもので、これによって東京の夜景が変わったと言われました。確かに、ロウソクの灯火のような、ゆらめくようなやわらかさと妖艶さが同居しています。<br />彼女は東京タワーを「貴婦人」と呼び、50周年記念に2008年12月23日にスタートした「ダイヤモンドヴェール」は「50歳の女性にダイヤモンドを贈る」気持ちでデザインされたそうです。塔体に散り嵌められた276灯がこれを形成しています。<br />因みに、ライトアップの電気代は日当たり21000円程だそうです。エレベータで上に昇ると900円ですから、1日23人のお客があれば賄える勘定です。

    おまけ8
    ライトアップでは、180個のライトで東京タワーを照らし、定番の「ランドマークライト」(冬はオレンジ(高圧ナトリウムランプ)、夏は白(メタルハライドランプ))と7色に変化する「ダイヤモンドヴェール」、イベントやプロモーションで色を変えたりメッセージを表示させる「特別ライトアップ」の3種類があります。
    建造30周年を迎えた際、照明デザイナーに石井幹子さんを抜擢しました。彼女の「ライトアップ」は東京タワー自体を照らして浮かび上がらせる奇抜なもので、これによって東京の夜景が変わったと言われました。確かに、ロウソクの灯火のような、ゆらめくようなやわらかさと妖艶さが同居しています。
    彼女は東京タワーを「貴婦人」と呼び、50周年記念に2008年12月23日にスタートした「ダイヤモンドヴェール」は「50歳の女性にダイヤモンドを贈る」気持ちでデザインされたそうです。塔体に散り嵌められた276灯がこれを形成しています。
    因みに、ライトアップの電気代は日当たり21000円程だそうです。エレベータで上に昇ると900円ですから、1日23人のお客があれば賄える勘定です。

  • おまけ9<br />昭和33年開業と高さ333mには、何か因果関係があるのでしょうか?<br />東京タワー創業者 前田久吉は、1889年に建造されたエッフェル塔の高さ320mを凌ぐものにしたいとの構想を持ち、初期計画では380mだったそうです。<br />この鉄塔を建設する際、東京地区でVHFとUHFテレビ放送が開局するのを前提に、関東一円(半径100km)に電波を送るためには、鉄塔の高さが最小限333m必要だと電波科学の権威により算出されたのです。高さ380mでは風が強くてアンテナが揺れるとテレビの画像も揺れる可能性があり、放送業界からもう少し低くしてくれと頼まれたようです。ですから、開業年との「3」繋がりは偶然の賜物のようです。<br />因みに、工期が一年半ほどしかなく、全国から優秀な鳶職人を大勢集めたそうです。<br />東京タワーの配色は、紅白のツートンだと思われているかもしれませんが、厳密には「黄赤(インターナショナルオレンジ)」と「白」の2色です。航空宇宙産業では赤と黄色の中間色で赤に近く鮮やかな朱色をインターナショナルオレンジと呼び、航空法と航空法施行規則により、地上60m以上の高層物は「最上部から黄赤と白の順に交互に帯状に塗色すること」と定めています。このような交互に帯状になる塗装は、「昼間障害標識」と呼ばれます。<br />現在の東京タワーは、大展望台よりも更に上の部分が7等分に分けられていますが、建設当初から昭和61年までは、11等分でした。見た目の変化で言えば、昔はもっとスッキリしていましたね。地デジの共用アンテナや、中継用のパラボラアンテナなどが取り付けられ、少々雰囲気が変わりました。

    おまけ9
    昭和33年開業と高さ333mには、何か因果関係があるのでしょうか?
    東京タワー創業者 前田久吉は、1889年に建造されたエッフェル塔の高さ320mを凌ぐものにしたいとの構想を持ち、初期計画では380mだったそうです。
    この鉄塔を建設する際、東京地区でVHFとUHFテレビ放送が開局するのを前提に、関東一円(半径100km)に電波を送るためには、鉄塔の高さが最小限333m必要だと電波科学の権威により算出されたのです。高さ380mでは風が強くてアンテナが揺れるとテレビの画像も揺れる可能性があり、放送業界からもう少し低くしてくれと頼まれたようです。ですから、開業年との「3」繋がりは偶然の賜物のようです。
    因みに、工期が一年半ほどしかなく、全国から優秀な鳶職人を大勢集めたそうです。
    東京タワーの配色は、紅白のツートンだと思われているかもしれませんが、厳密には「黄赤(インターナショナルオレンジ)」と「白」の2色です。航空宇宙産業では赤と黄色の中間色で赤に近く鮮やかな朱色をインターナショナルオレンジと呼び、航空法と航空法施行規則により、地上60m以上の高層物は「最上部から黄赤と白の順に交互に帯状に塗色すること」と定めています。このような交互に帯状になる塗装は、「昼間障害標識」と呼ばれます。
    現在の東京タワーは、大展望台よりも更に上の部分が7等分に分けられていますが、建設当初から昭和61年までは、11等分でした。見た目の変化で言えば、昔はもっとスッキリしていましたね。地デジの共用アンテナや、中継用のパラボラアンテナなどが取り付けられ、少々雰囲気が変わりました。

  • おまけ10<br />東京タワー前の32芝公園ビルの前庭にも可愛らしいイルミネーションがなされています。<br />

    おまけ10
    東京タワー前の32芝公園ビルの前庭にも可愛らしいイルミネーションがなされています。

  • おまけ11<br />小ぶりながらもセンスが光る優れものです。

    おまけ11
    小ぶりながらもセンスが光る優れものです。

  • おまけ12<br />テレビがデジタル放送に移行した際、世間では「電波塔としての役割は、東京タワーから東京スカイツリーに引き継がれた」というイメージが広まりました。つまり、東京タワーは「無用の長物」という訳です。しかし、実際には完全に移行した訳ではないそうです。<br />東京タワーは現在も電波塔として現役で働き続けています。『TOKYO FM』や『Inter FM897』などのFM放送や、マルチメディア放送の発信の他、無線中継基地局の役割なども担っています。また、万が一、地上デジタル放送の電波が停波してしまった場合などは、それをバックアップするための機能も有しているそうです。<br /><br />前田久吉が日本電波塔株式会社を設立してから、代々前田家が社長を次いでいますが、実は東京タワーは借金のカタに取られています。3代目社長が子会社を作り、ゴルフ場開発に乗り出し、見事に百数十億円の赤字を作ったのです。裁判沙汰になり、親会社の日本電波塔株式会社に借金返済の判決が下りました。しかし、預貯金では払えず、東京タワーを担保にして百億円を銀行団から借り入れ、子会社の借金を清算しました。現在も一生懸命借金を返しており、別名「借金タワー」と呼ばれています。<br />3年後に迫った「東京オリンピック・パラリンピック」では、「東京のシンボル」としてさらにパワーアップして世界中の注目を浴びるに違いありません。その時、どんなサプライズを魅せてくれるのか、愉しみです。

    おまけ12
    テレビがデジタル放送に移行した際、世間では「電波塔としての役割は、東京タワーから東京スカイツリーに引き継がれた」というイメージが広まりました。つまり、東京タワーは「無用の長物」という訳です。しかし、実際には完全に移行した訳ではないそうです。
    東京タワーは現在も電波塔として現役で働き続けています。『TOKYO FM』や『Inter FM897』などのFM放送や、マルチメディア放送の発信の他、無線中継基地局の役割なども担っています。また、万が一、地上デジタル放送の電波が停波してしまった場合などは、それをバックアップするための機能も有しているそうです。

    前田久吉が日本電波塔株式会社を設立してから、代々前田家が社長を次いでいますが、実は東京タワーは借金のカタに取られています。3代目社長が子会社を作り、ゴルフ場開発に乗り出し、見事に百数十億円の赤字を作ったのです。 裁判沙汰になり、親会社の日本電波塔株式会社に借金返済の判決が下りました。しかし、預貯金では払えず、東京タワーを担保にして百億円を銀行団から借り入れ、子会社の借金を清算しました。現在も一生懸命借金を返しており、別名「借金タワー」と呼ばれています。
    3年後に迫った「東京オリンピック・パラリンピック」では、「東京のシンボル」としてさらにパワーアップして世界中の注目を浴びるに違いありません。その時、どんなサプライズを魅せてくれるのか、愉しみです。

  • おまけ13<br />Wishing you and your family a very Merry Christmas &amp; a happy new year !!

    おまけ13
    Wishing you and your family a very Merry Christmas & a happy new year !!

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