2017/11/21 - 2017/11/21
2位(同エリア6663件中)
montsaintmichelさん
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- 旅行記366冊
- クチコミ0件
- Q&A回答0件
- 3,057,813アクセス
- フォロワー141人
今回は、流行語大賞2017にノミネートされた「インスタ映え」に絡め、インスタ映えする京都の景観にスポットを当ててみました。しかし、正直なところ、投稿を憚る思いが募り、悩みました。こうした情報をSNSで拡散させてよいものかどうか躊躇したためです。実は、アンチ「インスタ映え」の方も増えているのです。一般人が「インスタ映え」写真を投稿することに意味があるのか疑問だという声です。かつてのSNSは文字が中心でしたが、今はインスタグラムやツイッター、フェイスブックなど、言葉の比重が極端に少ないツールに代わり、受け手と正しい意思疎通ができるのか気がかりです。つまり、SNSの主流が従来の「日記型」から「アルバム型」へ移行したと言えば、判り易いかもしれません。説明が希薄な分、投稿の趣旨を受け手に委ねる仕組みです。
実際には内容次第だと思いますが、「思い出を奇麗なまま残したい」とか、「インパクトある情報を発信したい」とか、「自己顕示欲を満たしたい」とか、投稿者の心理には雑駁な意図が混在しています。しかし、本来投稿者が表現したいのは、ビジュアルなモノ自体ではなく、「こんな生活スタイル」や「こんなワクワク体験」というコトの共有にあるはずです。ですから、写真のためだけに食べ物を買って食べずに捨てたり、お金目当てに興味もないのにPRしたり、ビジュアルのインパクト狙いだけで奇抜なメニューを提供したり、絶景を撮るために危険を冒したりマナー違反を働いたり、商品を購入して即メルカリへ出品するなど、裏事情を知ればがっかりな投稿が一部に見られるのは哀しいことです。こうした、「自己満足や自己顕示欲を満たしたい」という心理こそが、アンチ「インスタ映え」を増殖する温床ではないかと思います。つまり、受け手の心理を慮らない身勝手な投稿が多く、自己満足・自己顕示欲としか映らないからです。
解決策として提案したいのは、インスタグラムに写真という形式情報を載せるだけでなく、その歴史や背景、経緯などを掘り下げた意味情報を手厚くし、受け手が誤解しないような解説を書き加えることです。しかし、最後は受け手の思考能力が験されます。情報の洪水の中から本物を選り分けるのは貴方ですから…。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 私鉄
PR
-
花見小路通
阪急「四条河原町」駅を出発し、四条大橋を渡って花見小路通を南に下ります。
石塀小路へのアプローチは、花見小路通の突き当りを左折するルートが1番判り易いと思います。
花見小路通は歩行者天国ではなく普通の道ですので、車やバイク、自転車に注意なさって観光をお愉しみください。 -
石塀小路(いしべこうじ)
四条河原町駅から徒歩15分弱で石塀小路に入る路地が見えてきます。
建仁寺の北東門前を東に直進し、東大路通の1本先の下河原通を北(左)に少し進んだ右手に路地があります。黒い木塀に挟まれていますのでお見逃しなく!
路地入口にあるガス燈に似せた街燈に、「石塀小路」と書かれているのが目印です。 -
石塀小路
まるで異界へと誘なうような不思議な空間です。
しかし、いきなりの「撮影禁止」(中央やや右)の貼り紙にドッキリさせられます。実は、ネットでは「石塀小路 撮影禁止」の件で話題沸騰しています。京都市役所に問い合わせたところ、「私的な撮影は自由」との回答をいただきました。しかし、ブライダルの前撮りなど、商用撮影は全面禁止だそうです。このように一部で個人の方が撮影禁止のステッカーを貼られていますが、私的撮影ならば気にせずともよく、少なくとも行政側は関知していないことが判りました。
しかし、観光地とは言え、旅館・居住エリア故、利用・生活されている方々のことを慮った撮影マナーは必要です。具体的には、住人さんを写さないとか、夜間のフラッシュ撮影を止める、静かに撮影するということでしょうか…。
周りには「静かに!」という貼り紙が目立ちましたので、元々閑静なエリア故、観光客などが大勢で騒ぐのをことさら嫌っているようです。旅館にしてみれば、「静寂さ」という商品価値が落ちることに繋がります。 -
石塀小路
地元の方は「いしべこじ」と呼び、道の曲がり具合や石塀の景観が絶妙な調和を魅せています。下河原通から「ねねの道」に通じる石畳の小路を指し、大正時代初期に誕生した京情緒漂う路地空間です。 因みに、下河原町辺りは「祇園廻り」と呼ばれていた地域で、祇園社の正面にある南楼門の門前に展開する街区で下河原・八坂と称される一帯です。江戸時代、祇園廻りは、祇園村同様に遊興地として発展していました。
狭い路地に入ると、路面には石畳が敷き詰められ、両側には石垣の上に町屋が建ち並び、京都らしい風情が味わえます。 -
石塀小路
下河原通に抜ける細い路地は、民家の屋根の下を潜り抜けていきます。通称「トンネル小路」と呼ばれる通りです。
京都でも屈指の風情ある路地として大正時代から粋人が逍遥し、独特の街並みと趣を残す場所です。 -
石塀小路
江戸時代初期には八坂を中心に茶屋が認可され、『京都覚書』によると、1693(元禄6)年には下河原通り沿いの町に52軒の茶屋が記されています。また、『京都府下遊郭由緒』によると、祇園廻りの遊里は下河原町・鷲屋町・上弁天町・月見町の4町からなり、遊女屋稼業が営まれていました。元々、下河原界隈は北政所ねねが創建した臨済宗高台寺を中心に栄え、徳川家康もねねの歓心をひくために財力を惜しまずに援助し、壮麗な堂宇が建立されました。また、現在の圓徳院の地に移住したねねを慰めるため、舞芸に達者な女たちが多く集められ、この地に住まわせたのが後に下河原遊郭になったと伝わります。下河原の芸者たちは、俗に「山ねこ」の別称で呼ばれ、歌に詠まれるまでになりました。
「蒲団着て寝たる姿や東山 裾よりねこが出入りする」。 -
石塀小路
小路に敷き詰められたモダンな石畳の一部は、昭和50年代に廃止された京都市電の敷石を移設しています。町屋の高石垣がまるで石塀のように見えることから「石塀小路」と呼ばれるそうです。他にも産寧坂や二寧坂、八坂の塔の前、哲学の道など多くの場所に市電の石畳が敷かれています。
何故、こんな場所に高石垣があるのか不思議に思いませんか?東山から流れる菊渓川は、高台寺の近くを流れ、雨季ともなれば鉄砲水を周辺に見舞いました。下河原の地名は暴れ川の名残だそうです。大正時代初期にこの一帯を宅地化するに当たり、鉄砲水に備えて石垣を積み、石塀で囲む防災対策が今日の風情ある景観を造ったそうです。 -
石塀小路
当方には高嶺の花、京料理「石塀小路 かみくら」です。
趣ある日本家屋を改装し、京都産を中心にした旬の食材・調味料をカウンター割烹で味わえます。
2種類のコースメニューがあり、契約農家の野菜や近海で獲れた魚介など地元食材を中心に、季節の食材を取り入れた繊細な料理は、京料理ベースの新感覚オリジナルです。
また、ワインセラーも完備され、ソムリエが選んだ和食に合う国産ワインが堪能できます。
尚、上階は旅館「龍吟」になっています。たった2室だけの特別なお宿です。 -
石塀小路
「石塀小路 かみくら」の前の路地を圓徳院方向(南)に歩を進めます。
この石塀小路は、多くの観光客が行き来する高台寺界隈のロケーションにある故、旅行雑誌等によく取り上げられるのですが、入口が見つけ難いのか人影も少なく閑静な雰囲気が味わえます。 -
石塀小路
赤煉瓦塀は、圓徳院の西側外壁になります。
往時、煉瓦は輸入品であり、とても珍しいものだったそうです。
和の雰囲気の中に突如現れる洋風の赤煉瓦塀はインパクトがあり、この辺りは大正ロマンが漂うノスタルジーな異空間です。
赤煉瓦塀の下段には、石塀小路の名の元になった石塀が綺麗に積まれています。 -
石塀小路
赤煉瓦塀の途中に「ご自由にお入りください」と書かれた立て札があります。
この先が「ねねの小径」と呼ばれる小路で、圓徳院の敷地を横断して「ねねの道」に通じるショートカットになっています。
あまり通る人がいないため躊躇されるかもしれませんが、圓徳院へ急ぎたい場合は、この小路を利用すれば近道です。当方も、圓徳院へは「ねねの小径」を通ってアクセスしました。 -
ねねの小径
圓徳院で紹介した、「霰零しの延段」です。
正面の白壁が圓徳院の渡り廊下になります。
突き当たり左手の階段を上がれば、三面大黒天の境内に出ます。右手に折れれば、「ねねの小径」を辿って「ねねの道」に合流します。 -
石塀小路
南端から今通ってきた小路を振り返った様子です。(「ねねの小径」ではありません)
風情ある路地に佇むのが老舗の宿 祇園石塀小路「田舎亭」です。NHK連続小説ドラマ「オードリー」の舞台となった場所でもあり、かつては有名映画監督や小説家がこぞって利用したと伝わります。予約を取るのは大変らしいですが、今でも映画関係者や芸能人たちがお忍びで訪れる隠れ家的な宿です。
元々は100年以上前に建てられた老舗料亭でした。先代までは「一見さんお断り」の宿でその名を馳せましたが、現在は気軽に利用できる「片泊まり(一泊朝食付)の宿」です。 -
石塀小路
旅館「玉半」は、石塀小路界隈に数ある旅館の中でも高級旅館に当たります。
路地の南端はT字路になっており、写真の道を進めば下河原通に至ります。
石塀小路には2箇所の袋小路がありますが、基本的には下河原通とねねの道をショートカットしている小路です。こうしたショートカットを京都では「辻子」あるいは「図子」(両者とも「ずし」と読みます)と言い、袋小路を路地(ろうじ)と呼びます。
京都独特の呼び名を覚えてから石塀小路を散策すると、またひとつ違ったものが見えてくるかもしれません。 -
石塀小路
石塀小路特有の折れ曲がった空間には、どことなく哀愁が漂います。また、高石垣の上に載せられた落ち着きのある佇まいは、大正時代にタイムスリップしたような不思議な感覚に包まれ、歩いていて安らぎが感じられる空間でもあります。
小路は右に左にと折れ曲がり、袋小路かなと思った途端に角から人が現れたりし、京情緒を愉しむには最適なスポットです。
1995年に「産寧坂伝統的建造物群保存地区」に加えられ、国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されています。 -
石塀小路
京都の魅力は、平安時代から現代までの時代のものが町並にしっくりと溶け込んでいる点にあります。江戸時代の町並みや町家の保存状態であれば、関東周辺の城下町や宿場町の方に軍配が上がるかもしれません。しかし、大正~昭和時代の雰囲気を今に留め、かつ人目を忍んで逢瀬する男女の息遣いを隠微でなく、からりと伝える町は、ここ以外寡聞にして知りません。 -
石塀小路
お茶屋Bar「よし本」は、和服姿のお母さんが接客するBarですが、紹介が無いと入れない「一見さんお断り」のお店で、お客さんのプライベートを守る祇園のシステムが今に生きています。
石塀小路界隈は、元々は圓徳院の敷地だったそうです。明治政府への税金を納めるために庭園の一部を切り崩して手放し、宅地にしたそうです。明治時代末期から大正時代初期にかけてお茶屋用の貸家として宅地開発された町並みが、ほぼそのままの形で現在に受け継がれています。石垣を高くし、石畳を敷き詰め、貸席を兼ねた高級貸家街として開発された町並です。現在も格子戸の料亭や旅館、庭園が美しい喫茶店などが軒を連ね、「祇園の奥座敷」の趣なのは明治時代に廃絶された下河原遊郭の名残と言えます。一時期、「お妾さん」の家が多かったことから、「お妾さん通り」などと呼ばれたこともあったそうです。 -
石塀小路
石塀小路のハイライトは、ねねの道から少し入った場所にある「S字カーブの路地」です。京都らしさを感じさせてくれる絵になる景観です。角を曲がると一瞬にして「静と動」が体感できる不思議な空間です。 -
石塀小路
木塀に覆われた京町家風の旅館や料亭と思しき建屋が軒を連ね、和の風情を湛えています。建物が旅館なのか料亭なのかは表玄関の表示をよく見ないと判らないところがあり、その辺の難しさも京都人特有の「いけず」ならではです。 -
石塀小路
旅館や料亭などの木塀の美しい家屋が軒を連ね、かつて多くの映画関係者がこよなく愛した場所です。
「祇園の奥座敷」という言葉がぴったりです。
右手(北側)は京料理の「竹中」、左手は旅館「中川」です。 -
石塀小路
「ねねの道」にある石塀小路への入口です。
ここもレトロな街燈が目印です。
石塀小路の入口角にあるショップ「波ぎ」は、手前が小物を扱う店で、奥がガラス工芸品のギャラリーになっています。洒落た小物が多く、中を覗くだけでも愉しいショップです。 -
ねねの道 「まねきねこのて」招喜屋
幸運を招き寄せる、縁起物のオリジナルキャラクターのグッズ店のショーウィンドウです。
食器やインテリア雑貨、日用品等、招き猫をモチーフにした雑貨が沢山並んでいます。ただ、京都特有のショップではなく、全国津々浦々の観光地にあるチェーン店です。宝塚にもあります。 -
春光院
ねねの道の南端に佇み、山門は茅葺屋根を載せています。
臨済宗高台寺の塔頭で、境内に勝利摩利支尊天堂が建てられ、武運の神として武士に信仰された勝利摩利支尊天を祀り、勝運のご利益があります。
山門の前には、イノシシに乗った摩利支尊天の「路傍の触れ仏」が置かれています。武運を上げるとされる摩利支天は、戦に臨む武将たちに篤く信仰されてきました。 護身・得財・勝負運を上げたい方は撫でてみてください。
1627年、木下勝俊(北政所ねねの兄 木下家定の長男)が、17歳で亡くなった娘 春光院万花紹三を弔うために創建しました。また、尊皇攘夷派の僧侶 月照は、西郷隆盛ら勤皇家とこの寺院で密議を重ねたと伝わります。
残念ながら、通常は非公開です。 -
一念坂
新渡戸博士と親交があった日本画の巨匠 竹内栖鳳が1929(昭和4)年に建てた旧邸宅「東山艸堂」の緩いカーブのある石塀です。栖鳳邸跡の門前から左手へ続く細い石畳の道が「一念坂」です。この道が整備されたのは1992年、「一念坂」の名もその時に付けられ、それ以前は名も無き道でした。坂と呼ぶには平坦に近い道ですが、京都らしい風情を湛えた小路です。
東山艸堂は、往時の文化人や政治家達のサロンとなり、時には皇族も訪れたそうです。以前は非公開でしたが、現在は昔の佇まいを残したモダンな結婚式場とレストラン「ダ・ソウドウ」になっています。今回のランチの候補に挙がりましたが、僅差でドロップしました。
竹内栖鳳は、御池通油小路の料亭「亀政」に生まれ、幸野楳嶺に師事した明治時代~昭和時代初期を代表する日本画家です。1900(明治33)年に日本画家として初めて洋行し、帰国後に栖鳳と号しました。「近代日本画の先駆者」とか「四条派の手法を近代化した」とか、「動物を描けば、その匂いまで描く」とか言われ、京都画壇の重鎮となり、横山大観と並び第1回文展審査委員や第1回文化勲章受章者となりました。 -
一念坂
石畳の両側には大正数奇屋風の変形町家が軒を連ね、「国の街並保存地域」や「京都市の伝統的建物保存地域」に指定されています。
この先で二寧坂と合流します。 -
一念坂
二寧坂から一念坂にかけては、大正時代に開発されたエリアです。
細身の木材や竹、杉皮などを巧みに用いて外観を整えた町屋は、一軒ごとに違った意匠が施され、他の京都の町並みとは一風変わった景観を魅せ、何とも粋で瀟洒な町並みを創りだしています。
松原通から始まる産寧坂、二寧坂、一念坂、そしてねねの道に繋がる町並みの整備は、ぎりぎりの所で商業化の大波を食い止めているようにも窺えます。 -
一本西へ下がった小径を八坂通方向へ進みます。
「別館東山艸堂」前の笹竹が目印です。 -
高台寺 松葉亭
大正元年に創業された料亭です。ランチ限定の「茶がゆ」は、ほのかに甘い発芽玄米を香ばしい宇治の番茶で炊いた、やさしい味わいの茶粥です。自家製のちりめん山椒やしいたけ昆布などをトッピングして自分好みに味わえます。
提灯に下げられた「くくり猿」です。 -
神田酒店
八坂庚申堂(やさかこうしんどう)前にある雰囲気のある酒屋です。 -
八坂庚申堂 山門
京都東山にある八坂庚申堂の正式名称は、「大黒山金剛寺庚申堂」と言います。
飛鳥時代に秦河勝が秦氏の守り本尊として招来した青面(しょうめん)金剛を本尊とし、この寺の開祖であり法観寺の住職、雲居寺の僧 浄蔵貴所(じょうぞうきしょ)が一般人も参詣できるようにと、960(天徳4)年に建立しました。一説には、聖徳太子の創建した法観寺の末寺とも言われています。
浄蔵貴所は、比叡山の山伏・呪術僧として知られ、学問、声明、文学にも秀で、霊験無双の修験者でもありました。庚申堂(金剛寺)に住んだとも伝わっています。以後、日本最初の庚申信仰として栄えるようになり、現在の堂宇は1679(延宝6)年の再建です。
中国の道教由来である庚申信仰を日本で最初に始めた霊場とされ、大阪の四天王寺庚申堂やすでに失われてしまった東京浅草の入谷庚申堂と並び日本三庚申堂の一つです。また、京洛三庚申(山ノ内庚申堂、粟田口庚申堂<尊勝院>)の一つでもあります。
地元では「八坂の庚申さん」の愛称で親しまれ、年に6回「庚申待ち」と呼ばれる行事が行われます。また、病気平癒のコンニャク封じが有名で、腰痛、頭痛、神経痛、小児カン虫、引きつけ等にご利益があるとされています。
山門の右には、「夢見坂」と「庚申堂」の石標があります。「夢見坂」の名は、八坂の塔のある法観寺の開基とされる聖徳太子が、「京都に都が遷る夢を見た」とか「仏法興隆を夢見た」との言い伝えが由来とされています。
山門の左には、上部に三猿が浮き彫りされた「日本最初 庚申尊」の大きな石塔が立っています。 -
八坂庚申堂 山門
山門の屋根では、可愛らしい三猿がお出迎えしてくれます。
三猿は、ここでは青面金剛の使いとされ、「耳は人の非を聞かず、目は人の非を見ず、口は人の過を言わず」という天台宗の止観の空、仮、中の教えに基づきます。
「西遊記」に登場する三蔵法師のお供の孫悟空は、往時、旅の安全の祈願として馬に吊した猿のお守りから発想されたとも伝わるように、中国では古くから猿は魔除けと考えられていたようです。 -
八坂庚申堂
庚申信仰は、諸説あり明確でないところもありますが、中国の道教という宗教の説く「三尸説(さんしせつ)」を基に、仏教、密教、神道、修験道などに日本の民間信仰や風習が交じり合った複合信仰とされています。平安時代には既に信仰が始まっており、仏教は極楽往生を説きますが道教は現世での利益が叶うことを説くことから、庶民に人気があったそうです。
道干支の庚申(かのえさる)の日の前夜、体中から三尸の虫が寝ている間に脱け出し、道教の最高神である天帝(閻魔大王)にその人の悪行を告げ口するとしています。天帝は寿命を司どり、罰として悪人の寿命を縮めます。ところが、三尸の虫は寝ている間にしか脱け出すことができないため、庚申の日には徹夜で過ごす「庚申待ち」の風習がありました。平安時代に貴族の間で広まり、夜通し酒宴を行うことが庶民にも広まっていったそうです。
しかし、青面金剛は三尸の虫を食べてしまうため、何時の頃からか「庚申待ち」には青面金剛をお参りする風習が確立されたようです。
今でも庚申日には「青面金剛」を参拝される方々が大勢訪れます。また、この日は、一晩一心に願い続ければどんな願いも叶うとされています。 -
八坂庚申堂 融通尊
本堂前の賓頭盧尊者像(びんずるそんじゃぞう)の堂宇には「融通尊」と記されています。このようなド派手な色合いに包まれた賓頭盧尊者を拝観するのは初めてです。吊るされているものは、一見お手玉風の可愛らしいものです。
賓頭盧尊者は、釈迦の弟子、十六羅漢の一人で、神通力が随一とされました。しかし、神通力を濫用したとして釈迦に叱責され、人々に直接接して救済するように命じられました。体が悪い時はその部分を、縁結びには手を撫でて拝むと願いが叶うそうです。 -
八坂庚申堂 融通尊
吊り下げられているカラフルな丸いアイテムの数々は、「くくり猿」と呼ばれています。
「くくり猿」は、手足をくくられて動けなくなった猿の姿をしたお守りです。何故猿がくくられているのかと言うと、欲望のままに行動する猿を動けない姿にすることで、欲に走らないよう人を戒めています。人は誰しも、夢や希望を持っています。しかし夢を叶えようとすると、余計な欲望まで湧いてきて、心が乱れてしまうことがあります。そんな時、心をコントロールしてくれるのが「くくり猿」です。
そして、願い事を叶える秘訣は、欲を一つ我慢することです。欲望が起こったら、合掌し、庚申さんを念じて真言を唱えます。
「おん でいば やきしゃ ばんた ばんた かかかか そわか」。 -
八坂庚申堂 融通尊
開祖 浄蔵貴所の法力が如何に凄まじいものだったかを示す逸話を紹介しておきます。
菅原道真の祟りにより病の床に伏せた藤原時平が、浄蔵に祈祷を頼みました。祈祷を行うと、時平の両方の耳から青龍が頭を出し、「無実の罪に陥し入れた者を懲らしめようとしましたが、貴方の法力で抑えられてしまいました。願わくば、時平を懲らしめるために協力してください」と頼まれました。それに同意した浄蔵が屋敷を立ち去ると、時平は忽ち死んでしまったと伝わります。
また、聖徳太子が如意輪観音の夢告により592年に建立した法観寺の「八坂の塔」が西に傾いた際、浄蔵の加持により元に戻したと伝わります。天皇の勅命を受けた浄蔵でしたが、すでに妻帯の身であり、法力があるか確かめるために大勢が見守る中で鴨川の流れを逆流させたと言います。因みに、現在の塔は室町時代の1440(永享12)年に足利義教の援助により再建されたものです。
八坂の塔に祈念する日は町中の人に知れ渡り、大勢の見物人が詰めかけました。浄蔵が自身の子ども2人を膝の上に乗せて塔に向かって祈ると、西の方から微風が吹き、大地が揺らぎ、吊された宝鉾が鳴り、忽ち傾いた塔は元に戻ったと伝わります。
更には、堀川一条橋では、父親 三善清行が亡くなり、紀州・熊野から急遽戻った貴所が橋の上で父の葬列に出会い、棺にすがって悲しみ、神仏に祈ったところ、死後5日の父親を一時蘇生させたとの故事があります。戻橋の名もこの逸話が由来とされます。
法観寺に強盗十余人が侵入したのを、護法善神を使って失神させ、その罪を諭したとの話も伝わります。護法善神とは、浄蔵が使役していた鬼神の守り神で、時に浄蔵はこの護法善神に鉢を持たせ、空を飛ばせて托鉢に行かせていたそうです。しかし善神は常人にはその姿が見えず、空中を鉢だけが飛んでいたことから、人々からは気味悪がられ恐れられてもいました。
安倍晴明のように昨今のブームとは縁の遠い浄蔵ですが、その霊力、法力は1200年の京都の歴史の中でも随一の人物です。祇園祭の山鉾「山伏山」の人形は浄蔵がモデルと言われています。 -
八坂庚申堂 融通尊
境内に吊るされた「くくり猿」には、一つ一つにお願い事がびっしり書かれています。
「くくり猿」の中には三尸を喰うという本尊 青面金剛のお札が納められているのですが、怖い顔をした青面金剛が欲という悪徳を喰ってくれるそうです。
体内に潜む虫には3種類あり、「道士の姿」、「獣の姿」、「牛の頭に人の足の姿」をした虫がいるそうです。 -
八坂庚申堂
八坂庚申堂は「くくり猿」を寺紋にしています。
これは、座禅中に猿が動き回るように心が乱れて集中できない時、「その乱れた心を猿を鎖で繋ぐようにイメージし、心をコントロールしなさい」という教えに由来する紋です。
また、天帝が遣わした鬼は猿が苦手でした。猿は、鬼の災いを避けるために身代わりになるとも言われています。 -
八坂庚申堂 本堂
本堂にある鬼瓦の三猿です。
八坂庚申堂は様々な病気や願い事を封じ込める「こんにゃく封じ」の寺としても知られ、1年に6回ある「庚申日」に八坂庚申堂で「コンニャク焚き」の接待が行われています。
開祖 浄蔵貴所が、父親の病気祈願でコンニャクを捧げたところ、無事に治ったことが由来です。曰く、 「コン (根) よくヤク (厄) をとる」 とか…。猿型にくり抜かれたコンニャクを3個、北を向いて無言で食べれば無病息災で過ごせると伝わっています。
また、ボケや寝たきりになって下の世話をしてもらうことのないように新品の下着を持参して願う「タレコ封じ祈祷」、家出人・行方不明・失くしてしまったものを引き寄せる「鉤召(こうちょう)祈祷」などもあります。 -
八坂庚申堂 本堂
蟇股にも「くくり猿」の寺紋をモチーフにした三猿のデザインが施されています。 -
八坂庚申堂 本堂
本堂は、江戸時代の1679(延宝6)年に再建されました。
本尊には「青面金剛」、脇壇に聖徳太子、大黒天等を安置しています。青面金剛は、飛鳥時代に中国大陸から渡来した秦河勝という人物が京都の豪族である秦氏の守り神として中国大陸から招来したとも、安土桃山時代の慶長年間に四天王寺から遷したとも伝わります。秦氏滅亡の後、この地へ安置されています。
末法の救済のために、釈迦、阿弥陀、薬師如来の相談により、人を喰らう夜叉の姿で現れ、悪人を食らうも善人を食わないと言われています。怖ろしい表情をし、眼は3つあり、口に牙があり、裸体に虎の皮の褌を締めています。秘仏であり、60年毎に開帳されています。
本堂内部にも三猿が祀られているそうです。 -
八坂庚申堂 本堂
本堂の前に鎮座するのが、庚申の使いとされる「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿です。庚申信仰において、猿(申)は神の使いと考えられ、自分たち人間の悪行を「見ざる、聞かざる、言わざる」と表現したものです。 -
八坂庚申堂 本堂
本堂前にある香炉を背負うのも三猿です。
小さな背中で健気に香炉を支える姿は、何となく微笑ましいものがあります。いずれの猿も表情が豊かで思わず頬が弛みます。よく観ると、このお猿さんには左耳がありません。
誰もを優しく受け入れてくれるこのお寺の雰囲気は、「去る(猿)」のが名残惜しくなるほどです。 お後がよろしいようで…。 -
八坂庚申堂
我が家にやって来た「くくり猿」たちです。
大きさは融通尊の堂宇に結ばれているものと同じです。 -
八坂庚申堂
手作り感がとてもGOODです。 -
神田酒店
石畳の道に30ほどの店が並ぶ「八坂の塔下商店街」では、街のシンボルとして奥様方が手作りの「くくり猿」を各家に配っています。
5匹の猿は、「ご縁(5猿)猿」と名付けられ、上から父母と子供たちを表し、「猿結び=縁むすび」のご利益を願っているそうです。また、観光客との触れ合いや良縁を願い、厄除け、ご多幸をお願いしています。 -
京料理 修伯
実は、京都の町では、寂光院への放火事件以降も放火事件が続いています。そんな中、放火から自分たちの町を、そして商店街を守ろうという取り組みの一環でもあります。 しかし、この「くくり猿」にも放火されるという悲しい事件が発生しました。そこで、「くくり猿」に例え火を付けられても燃えにくい防炎加工を取り入れるなど対策を施しています。新しく取り付けられたものは、50個余りです。また、紫外線で色褪せてしまうため、半年に一度は取り替えるそうです。
「5猿」たちは、石畳の坂道で気持ちよさそうに秋風に吹かれていました。 -
八坂の塔
臨済宗建仁寺派 霊応山 法観禅寺にある五重塔、通称「八坂の塔」が間近に迫ります。
この法観寺は592年、聖徳太子が如意輪観音の夢のお告げで五重塔を建てたのが始まりと伝わります。このことから、法観寺の五重塔は京都最古の塔とも言われています。
しかし、創建には諸説あり、奈良時代の678年に帰化系の豪族「八坂氏」が建立したとも、平安時代初期に公家「小野篁」によって創建されたとも伝わります。
往時は広大な敷地に寺院が広がっていたそうですが、衰退や焼失の後、現在は再建された五重塔の周りに少しだけ建物が残されています。 -
八坂の塔
このように、塔とその前に敷かれた石畳の坂道が一緒に映る写真を目にされたことがあると思います。
京都のシンボルとも称される八坂の塔は、高さ46mあります。五重塔では京都東寺、奈良興福寺に次ぐ三番目の高さを誇り、現在のものは室町時代の1440(永享12)年、足利6代将軍 義教が再建したもので、重文に指定されています。「応仁の乱」により伽藍の多くが灰燼に帰しましたが、この塔だけは奇跡的に消失を免れたそうです。
因みに、この八坂の塔は、重文の塔としては日本で唯一、内部が拝観でき、2層目まで登ることができます。しかし、拝観日は不定休なので入れないこともあります。塔内部に入ってみたい方は、事前に電話で法観寺へ確認されることをお勧めします。
TEL:075-551-2417 -
西花見小路
ランチは、ネットで予約した「ビストロ グレロ (Grelot)」でいただきます。
祇園花見小路から建仁寺の北端にある団栗(どんぐり)通を西に一本入った西花見小路の入口付近にあります。 -
西花見小路
お茶屋さんが左右に軒を連ねる京都情緒が漂う細い通りです。 -
ビストロ グレロ
路地裏にある隠れ家風フレンチといった趣ですが、肩肘張らずにカジュアルにフレンチ料理が愉しめるお店です。
「グレロ」とは、フランス語で「鈴」を意味します。初代グレロは現地とは別の祇園四条にありましたが、その前身は小料理屋「小鈴」だったそうです。その歴史ある店名を受け継ぎたいとの思いから、前田オーナーシェフが「グレロ」と命名されたそうです。何だか温かみのあるエピソードです。
そこから垣間見られるのは、シェフが「人の繋がりを大切にされる方」だということです。勿論、料理や応対にもそれが見て取れ、居心地満点です。
暖簾に描かれた「丸に点」は、鈴をモチーフにしたデザインなのでしょうか?
お店の外観は、提灯や和風の暖簾が掛けられており、一見和食のお店と錯覚しそうです。 -
ビストロ グレロ
暖簾を潜って引き戸を開けると、中は天井が高くて洋風な明るい雰囲気です。
外観の和風で落ち着いたイメージとは対照的です。
また、オープンキッチンになっているため、カウンター席ではライブ感が愉しめる趣向です。 -
ビストロ グレロ
以前のお店は6席のカウンター席だけだったそうですが、現在はテーブル席(3卓X4席)が増えて合計18席になっています。
いずれにしても、こじんまりとしたアットホームなレストランです。 -
ビストロ グレロ 「前菜」
メニューをチェックすると正統派フレンチが中心のようです。
ランチコースは、季節の前菜、有機野菜サラダ、スープ、パン、メイン料理(肉か魚)、デザート、コーヒーまたは紅茶の6点(2800円)になります。
前菜は、見た目の彩りも美しく、目でも魅了させられます。
手前左から時計回りに、
揚げたてカキフライ
長崎県産の鯖のマリネ風カルパッチョ(しめ鯖風)
フォアグラとポークのパテドカンパーニュ
自家製生ハムと洋梨のコンポート
ジャガイモのキッシュ
中央が、ホタテ貝のムースと雲丹。
一休.comで予約すると300円割引になります。
https://restaurant.ikyu.com/106569/ -
ビストロ グレロ 「パン」
京都では知る人ぞ知る名店「HANAKAGO(パン)」製のファイブランも最高です。
花籠オーナーブランジェーは、恵比寿の3つ星レストラン「ジョエル・ロブション」でパティシェとして修業された方です。ジョエル・ロブションといえば、「フレンチの皇帝」とまで称される有名シェフです。
ブランジェーは、その後渡仏し、帰国後、関西のレストランでも経験を積んだ後に京都で開店されました。現在では20軒ほどの京都の料理店に提供されています。
その一店舗が「グレロ」だったとは…。 -
ビストロ グレロ 「サラダ」
超大盛りのオーガニック野菜サラダです。これで一人分ですから、海外旅行で食すようなボリューム満点のサラダです。
こちらでは、体に優しい新鮮な低農薬と有機野菜を使われています。水菜や葉レタスをはじめとした葉物に、アクセントとしてバルサミコ酢でソテーしたキノコ類やドライいちじく、ローストした胡桃とかが入っておりとても美味しいです。ドレッシングは、至ってシンプルなヴィネグレットと塩コショウで和えてあります。
そして、何よりもピンクグレープフルーツの酸味のアクセントに吃驚ポンです。意外にサラダに合うため、やみつきになりそうです。 -
ビストロ グレロ 「スープ」
サツマイモとジンジャーのポタージュスープです。
まずサツマイモのまったりとした甘さが口いっぱいに広がり、その後時間差攻撃でジンジャーのピリッとしたアクセントが甘さを引き締め、さっぱりした味わいに変えます。 -
ビストロ グレロ 「メイン・ディッシュ」
肉料理は、仔羊のラムチョップ。
ラムフレンチラックを肋骨ごとにカットしたもので、臭みのない、絶妙な焼き具合の柔らかなお肉です。牛肉で言うなら、リブロースに相当します。
こちらも、多彩な野菜が添えられています。 -
ビストロ グレロ 「メイン・ディッシュ」
魚料理は、太刀魚のポワレ。
トッピングは、新鮮でぷりぷりしたムール貝です。
ここにもカボチャやレンコンなど多彩な野菜が添えられ、魚以外の味わいも愉しめます。 -
ビストロ グレロ 「デザート」
カラメル・プリンとフィナンシェに季節のフルーツ「富有柿」。
濃厚な卵とミルクの甘い味わいを、少し苦めのカラメルが大人の味に仕立てます。「とろふわ」ではない、しっかりしたプリンです! -
ビストロ グレロ
京都ビストロとしてはハイレベルで、その割には価格もリーズナブルで、コスパの高いお店です。
フランス料理の技法をベースとしながらも、和やアジアンなど他ジャンルの素材や調理技法、盛り付けを独自にアレンジした新感覚のフランス料理です。バターや生クリームをたっぷり使った伝統的なフレンチとは一味違い、旬の素材の持ち味を極限まで活かしたシンプルな味付けが魅力です。ですから、京風というか、現地のように味付けも塩辛くなく、日本人向けの味付けです。
シェフはフランス帰りではないそうですが、骨太のフランス料理を提供されています。特にどの料理もソースが秀逸で、バラエティーに富んでいると感じました。
是非、リピートしたいお店です。
この続きは、情緒纏綿 京都東山逍遥③建仁寺(前編)でお届けいたします。
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