東山・祇園・北白川旅行記(ブログ) 一覧に戻る
建仁寺は、華やかな祇園にある花見小路の突き当たりにある臨済宗建仁寺派の大本山であり、京都最古の禅寺です。山号を東山(とうざん)と称し、寺名には創建時の年号を宛て、本尊には釈迦如来を祀り、京都五山の序列の第三位の格式を誇り、京童の囃子言葉に「建仁寺の学者面、学問面」と詠われました。因みに日本最古の禅寺は、博多にある聖福寺(1195年栄西創建)になります。<br />1202(建仁2)年に鎌倉幕府2代将軍 源頼家が寺域を寄進し、伽藍は栄西により宋の「百丈山」を模して開山されました。創建時は、真言宗と天台宗、そして禅宗の3宗派が置かれました。これは、往時絶大な力を誇っていた真言・天台宗との衝突を回避するための妥協策でした。<br />本格的な禅寺になったのは、1259(正元元)年に宋の禅僧で建長寺を開山した蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が入寺してからです。やがて室町幕府により中国の制度に倣った京都五山が制定され、その第三位として厚い庇護を受け大いに栄えますが、応仁の乱やその後の戦乱で伽藍が焼失し荒廃しました。<br />その後、天正年間(1573~92年)に安国寺恵瓊(あんこくじえけい)が方丈や仏殿を移築するなど復興が始まり、徳川幕府の庇護の下に京都五山第三位に任ぜられて大いに栄えました。明治時代には政府の宗教政策等により臨済宗建仁寺派として分派独立し、その大本山となりました。また、廃仏毀釈、神仏分離により塔頭の統廃合が断行され、やむなく土地を政府に上納したことから、境内の面積は半分程に縮小され現在に至ります。<br />一方、日本仏教美術に多大な影響を与えた寺院としても知られ、建物と庭園、日本美術をまとめて観賞でき、しかも大らかな空気で参拝者を余白の美に誘ってくれるお寺です。また、通常のお寺は建物の内部や美術品の写真撮影はNGですが、ここはフリーです。京都の中心街 四条河原町からも徒歩圏内ですので、是非旅程に加えていただきたい禅刹です。<br />建仁寺のHPです。<br />http://www.kenninji.jp/

情緒纏綿 京都東山逍遥③建仁寺(前編)

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2017/11/21 - 2017/11/21

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montsaintmichel

montsaintmichelさん

建仁寺は、華やかな祇園にある花見小路の突き当たりにある臨済宗建仁寺派の大本山であり、京都最古の禅寺です。山号を東山(とうざん)と称し、寺名には創建時の年号を宛て、本尊には釈迦如来を祀り、京都五山の序列の第三位の格式を誇り、京童の囃子言葉に「建仁寺の学者面、学問面」と詠われました。因みに日本最古の禅寺は、博多にある聖福寺(1195年栄西創建)になります。
1202(建仁2)年に鎌倉幕府2代将軍 源頼家が寺域を寄進し、伽藍は栄西により宋の「百丈山」を模して開山されました。創建時は、真言宗と天台宗、そして禅宗の3宗派が置かれました。これは、往時絶大な力を誇っていた真言・天台宗との衝突を回避するための妥協策でした。
本格的な禅寺になったのは、1259(正元元)年に宋の禅僧で建長寺を開山した蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が入寺してからです。やがて室町幕府により中国の制度に倣った京都五山が制定され、その第三位として厚い庇護を受け大いに栄えますが、応仁の乱やその後の戦乱で伽藍が焼失し荒廃しました。
その後、天正年間(1573~92年)に安国寺恵瓊(あんこくじえけい)が方丈や仏殿を移築するなど復興が始まり、徳川幕府の庇護の下に京都五山第三位に任ぜられて大いに栄えました。明治時代には政府の宗教政策等により臨済宗建仁寺派として分派独立し、その大本山となりました。また、廃仏毀釈、神仏分離により塔頭の統廃合が断行され、やむなく土地を政府に上納したことから、境内の面積は半分程に縮小され現在に至ります。
一方、日本仏教美術に多大な影響を与えた寺院としても知られ、建物と庭園、日本美術をまとめて観賞でき、しかも大らかな空気で参拝者を余白の美に誘ってくれるお寺です。また、通常のお寺は建物の内部や美術品の写真撮影はNGですが、ここはフリーです。京都の中心街 四条河原町からも徒歩圏内ですので、是非旅程に加えていただきたい禅刹です。
建仁寺のHPです。
http://www.kenninji.jp/

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
同行者
カップル・夫婦
交通手段
私鉄

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  • 北門<br />格式の高い5本筋の入った築地塀と建仁寺垣が誘う、花見小路の南端にある建仁寺の北門です。<br />寺紋は、「二引の五七の桐」です。<br />

    北門
    格式の高い5本筋の入った築地塀と建仁寺垣が誘う、花見小路の南端にある建仁寺の北門です。
    寺紋は、「二引の五七の桐」です。

  • 本坊<br />本坊は、1818年に建立されました。<br />駐車場側から見ると全体像が把握できます。<br />

    本坊
    本坊は、1818年に建立されました。
    駐車場側から見ると全体像が把握できます。

  • 北門<br />江戸時代の寛永年間(1624~1645年)に建立された北西にある門です。<br />門の後方に控柱を立て、その上に小屋根を載せて扉を格納できる高麗門形式です。<br />京都府指定文化財になっています。

    北門
    江戸時代の寛永年間(1624~1645年)に建立された北西にある門です。
    門の後方に控柱を立て、その上に小屋根を載せて扉を格納できる高麗門形式です。
    京都府指定文化財になっています。

  • 本坊(庫裏)<重文><br />こちらが本坊・方丈への拝観入口になります。<br />本坊は、寺院で暮らす僧侶たちの生活の場です。建仁寺では本坊で拝観受付をしており、ここから拝観がスタートします。

    本坊(庫裏)<重文>
    こちらが本坊・方丈への拝観入口になります。
    本坊は、寺院で暮らす僧侶たちの生活の場です。建仁寺では本坊で拝観受付をしており、ここから拝観がスタートします。

  • 本坊<br />本坊への入口の左側にある本来の大玄関の式台には、京都初の禅寺の証である墨書された「最初禅窟(さいしょぜんくつ)」の衝立が飾られています。<br />栄西は日本で最初の禅道場「聖福寺」を建立し、後鳥羽上皇より「扶桑最初禅窟」の扁額を授かりました。「扶桑」は、古代中国では「東海の中の太陽の出る処にあるとされた神木」とされ、それが転じて中国から見て東方にある国、つまり「日本」の異称です。「日本で最初の禅寺」を意味し、その扁額は現在も聖福寺の三門に掲げられています。<br />学校の授業では栄西は「えいさい」と習った覚えがあるのですが、正確には「ようさい」と読むようです。

    本坊
    本坊への入口の左側にある本来の大玄関の式台には、京都初の禅寺の証である墨書された「最初禅窟(さいしょぜんくつ)」の衝立が飾られています。
    栄西は日本で最初の禅道場「聖福寺」を建立し、後鳥羽上皇より「扶桑最初禅窟」の扁額を授かりました。「扶桑」は、古代中国では「東海の中の太陽の出る処にあるとされた神木」とされ、それが転じて中国から見て東方にある国、つまり「日本」の異称です。「日本で最初の禅寺」を意味し、その扁額は現在も聖福寺の三門に掲げられています。
    学校の授業では栄西は「えいさい」と習った覚えがあるのですが、正確には「ようさい」と読むようです。

  • 本坊 衝立<br />玄関の真正面に飾られている「大哉心乎(大いなるかな、心や)」の額は、1198(建久9)年に栄西が著した『興禅護国論』の序文の最初の4文字です。<br />建仁寺では、この意味を「自分も、他人も、心なくしては生きていけない事の大切さを思うもの。心は、本来自由で大らかである」と説明されています。

    本坊 衝立
    玄関の真正面に飾られている「大哉心乎(大いなるかな、心や)」の額は、1198(建久9)年に栄西が著した『興禅護国論』の序文の最初の4文字です。
    建仁寺では、この意味を「自分も、他人も、心なくしては生きていけない事の大切さを思うもの。心は、本来自由で大らかである」と説明されています。

  • 本坊 韋駄天像<br />「大哉心乎」の衝立の右手の小部屋には韋駄天像が祀られています。<br />韋駄天は、謡曲『舎利』によると、足疾鬼(そくしっき)が泉涌寺の舎利殿の舎利を奪って空に飛び去ったところ、 この寺を守護する韋駄天がこれを追いつめ、仏舎利を取り返したとあります。これは『太平記』に記された説話に基づくものですが、泉涌寺の仏舎利が天下に2つとない霊宝として尊崇を集めてきたと古書にも記されています。その逸話から足の速いことを「韋駄天走り」と言います。<br />しかし、この故事と建仁寺は結び付きません。いきなり、禅寺にありがちな「難解な禅問答」です。一つの仮説は、かつてはこの玄関が「台所か食堂」だったのではないかということです。実際、韋駄天は禅宗寺院の台所や食堂に祀られていることがよくあります。それは、韋駄天が釈迦のために方々を駆け回って食材を集めたという説話に由来します。<br />確かに、食事が終わると「御馳走様」と言います。「馳せ走る」と書くのは、冷蔵庫などが無い昔は、「野菜はこっちの店に馳せ、魚はこの店へと走る」と文字通り、お店を走り回ってその日の食材を揃えたのです。すなわち、「御馳走様」とは、食事作りに関わる全ての人に感謝する言葉と言えます。

    本坊 韋駄天像
    「大哉心乎」の衝立の右手の小部屋には韋駄天像が祀られています。
    韋駄天は、謡曲『舎利』によると、足疾鬼(そくしっき)が泉涌寺の舎利殿の舎利を奪って空に飛び去ったところ、 この寺を守護する韋駄天がこれを追いつめ、仏舎利を取り返したとあります。これは『太平記』に記された説話に基づくものですが、泉涌寺の仏舎利が天下に2つとない霊宝として尊崇を集めてきたと古書にも記されています。その逸話から足の速いことを「韋駄天走り」と言います。
    しかし、この故事と建仁寺は結び付きません。いきなり、禅寺にありがちな「難解な禅問答」です。一つの仮説は、かつてはこの玄関が「台所か食堂」だったのではないかということです。実際、韋駄天は禅宗寺院の台所や食堂に祀られていることがよくあります。それは、韋駄天が釈迦のために方々を駆け回って食材を集めたという説話に由来します。
    確かに、食事が終わると「御馳走様」と言います。「馳せ走る」と書くのは、冷蔵庫などが無い昔は、「野菜はこっちの店に馳せ、魚はこの店へと走る」と文字通り、お店を走り回ってその日の食材を揃えたのです。すなわち、「御馳走様」とは、食事作りに関わる全ての人に感謝する言葉と言えます。

  • 本坊 『風神雷神図屏風』(国宝)<br />境内には、江戸時代を代表する絵師 俵屋宗達が描いた「琳派(りんぱ)」の象徴とも称される『風神雷神図屏風』や法堂の天井に小泉淳作画伯によって描かれた畳108枚分の大きさの『双龍図』、近年は展覧会が開かれるほどの人気を博している海北友松(かいほうゆうしょう)の襖絵『雲龍図』などの文化財が豊富です。こうした絵画を潤沢に所蔵しているのは、栄西禅師が持ち帰った教えが仏教界で新しく大きな旋風となり、往時の人気絵師たちがこぞって障壁画を描いたからです。<br />こちらは、大塚オーミ陶業の制作による陶板複製画です。『風神雷神図』は、建仁寺派妙光寺の再興記念として、京都の歌人 它公軌(うつだ きんのり)が当時無名だった扇絵師 俵屋宗達に注文して制作され、後に妙光寺から建仁寺に寄贈されました。<br />しかし、何故、風神と雷神を題材に選んだのかは謎です。興味深いのは、風神を釈迦三尊像の文殊菩薩、雷神を普賢菩薩だとする異説です。中央の釈迦如来については2説あり、本来あった釈迦如来のイメージが描かれた屏風が散逸したとの説と、風神と雷神の屏風の間を開けて置くことで自ずとそこに釈迦如来の存在がイメージできるとする説です。禅寺故に、こうした深い洞察も真実味があります。<br />いずれにせよ、千手観音の眷属(けんぞく:神の使者)とされる風神と雷神のみを描いたのは往時としては型破りであり、しかも意図的にその両神を屏風の両端に置き、中央に大胆な空間を設けることで広大な天空を想像させた描き方は、それまでの屏風画にはなかった空間表現です。

    本坊 『風神雷神図屏風』(国宝)
    境内には、江戸時代を代表する絵師 俵屋宗達が描いた「琳派(りんぱ)」の象徴とも称される『風神雷神図屏風』や法堂の天井に小泉淳作画伯によって描かれた畳108枚分の大きさの『双龍図』、近年は展覧会が開かれるほどの人気を博している海北友松(かいほうゆうしょう)の襖絵『雲龍図』などの文化財が豊富です。こうした絵画を潤沢に所蔵しているのは、栄西禅師が持ち帰った教えが仏教界で新しく大きな旋風となり、往時の人気絵師たちがこぞって障壁画を描いたからです。
    こちらは、大塚オーミ陶業の制作による陶板複製画です。『風神雷神図』は、建仁寺派妙光寺の再興記念として、京都の歌人 它公軌(うつだ きんのり)が当時無名だった扇絵師 俵屋宗達に注文して制作され、後に妙光寺から建仁寺に寄贈されました。
    しかし、何故、風神と雷神を題材に選んだのかは謎です。興味深いのは、風神を釈迦三尊像の文殊菩薩、雷神を普賢菩薩だとする異説です。中央の釈迦如来については2説あり、本来あった釈迦如来のイメージが描かれた屏風が散逸したとの説と、風神と雷神の屏風の間を開けて置くことで自ずとそこに釈迦如来の存在がイメージできるとする説です。禅寺故に、こうした深い洞察も真実味があります。
    いずれにせよ、千手観音の眷属(けんぞく:神の使者)とされる風神と雷神のみを描いたのは往時としては型破りであり、しかも意図的にその両神を屏風の両端に置き、中央に大胆な空間を設けることで広大な天空を想像させた描き方は、それまでの屏風画にはなかった空間表現です。

  • 本坊 『風神雷神図屏風』<br />俵屋宗達の生涯については不詳な点が多いのですが、町の絵師として扇面などに絵を描いて暮らしてしたそうです。やがて本阿弥光悦とコラボするなど徐々に頭角を現し、やがて京都を代表する寺院の襖絵なども手掛けるようになりました。茶会を開いたという記録があることから、町人としては比較的裕福だったと窺えます。<br />宗達は、決まり事に捉われないタイプであり、独創性に富んだ作品を手掛けています。『風神雷神図』は、六曲が一般的だった屏風を、異例の二曲一双に変えただけでなく、脇役でしかなかった風神と雷神を主役に抜擢するなど常識破りです。この絵が尾形光琳に衝撃を与え、琳派を代表する絵画と称されるまでに至ります。<br />通常、国宝級の絵画は博物館や美術館でしか見られないのですが、建仁寺では広い庭に面して開け放たれた空間で桃山時代のままの姿を鑑賞できます。これを可能としたのは、栄西禅師の入寂から800年の記念事業の一つとして重文などの絵画を高精細デジタル複製したことによります。味も素っ気もない無機質な博物館で観るより、何倍も素晴らしいものが観えてきます。

    本坊 『風神雷神図屏風』
    俵屋宗達の生涯については不詳な点が多いのですが、町の絵師として扇面などに絵を描いて暮らしてしたそうです。やがて本阿弥光悦とコラボするなど徐々に頭角を現し、やがて京都を代表する寺院の襖絵なども手掛けるようになりました。茶会を開いたという記録があることから、町人としては比較的裕福だったと窺えます。
    宗達は、決まり事に捉われないタイプであり、独創性に富んだ作品を手掛けています。『風神雷神図』は、六曲が一般的だった屏風を、異例の二曲一双に変えただけでなく、脇役でしかなかった風神と雷神を主役に抜擢するなど常識破りです。この絵が尾形光琳に衝撃を与え、琳派を代表する絵画と称されるまでに至ります。
    通常、国宝級の絵画は博物館や美術館でしか見られないのですが、建仁寺では広い庭に面して開け放たれた空間で桃山時代のままの姿を鑑賞できます。これを可能としたのは、栄西禅師の入寂から800年の記念事業の一つとして重文などの絵画を高精細デジタル複製したことによります。味も素っ気もない無機質な博物館で観るより、何倍も素晴らしいものが観えてきます。

  • 本坊 『風神雷神図屏風』<br />鎌倉時代中期の仏教説話集『沙石集』には、建仁寺建立の逸話が記されています。<br />当初は、禅僧の袖のむやみに大きい異国風の大袈裟が、都に異風を起こし、大風の自然災害もそれが原因と批判され、都からの禅僧追放が叫ばれました。実際に、朝廷から追放宣旨が出されたほどです。<br />しかし、栄西は少しも動じることなく、建仁寺建立の用材を買い求めるように指示し、朝廷に抗弁書を提出しました。世間の批判を逆手にとり、「栄西は風神ではないのに、風を吹かせる徳があるのならば、明王はこれを放っておかないだろう」と記しました。それを読んだ土御門天皇は感心し、栄西が禅寺の建立を願い出るとすぐに許可したといいます。<br />この説話が縁で栄西と風神を結び付け、国宝『風神雷神図屏風』を建仁寺が所蔵するに至ったと憶測するのも面白いかもしれません。

    本坊 『風神雷神図屏風』
    鎌倉時代中期の仏教説話集『沙石集』には、建仁寺建立の逸話が記されています。
    当初は、禅僧の袖のむやみに大きい異国風の大袈裟が、都に異風を起こし、大風の自然災害もそれが原因と批判され、都からの禅僧追放が叫ばれました。実際に、朝廷から追放宣旨が出されたほどです。
    しかし、栄西は少しも動じることなく、建仁寺建立の用材を買い求めるように指示し、朝廷に抗弁書を提出しました。世間の批判を逆手にとり、「栄西は風神ではないのに、風を吹かせる徳があるのならば、明王はこれを放っておかないだろう」と記しました。それを読んだ土御門天皇は感心し、栄西が禅寺の建立を願い出るとすぐに許可したといいます。
    この説話が縁で栄西と風神を結び付け、国宝『風神雷神図屏風』を建仁寺が所蔵するに至ったと憶測するのも面白いかもしれません。

  • 本坊 金澤翔子書『風神雷神』屏風<br />俵屋宗達の絵に負けないくらい力強い筆遣いです。また、その感性にも脱帽です。<br />金澤翔子さんは、1985年に生まれてすぐダウン症と診断されますが、5歳の時に書家である母 金澤泰子女史に師事し、書道を始めました。10歳の時に般若心経を書き、全日本学生書道連盟展に『花』を出品しています。その後も、16歳の時に『舎利礼』、17歳の時に『觀』で金賞を受賞。19歳で雅号「小蘭」を取得しています。2006年には鎌倉建長寺に額装『慈悲』を、2009年にこの屏風を奉納されています。

    本坊 金澤翔子書『風神雷神』屏風
    俵屋宗達の絵に負けないくらい力強い筆遣いです。また、その感性にも脱帽です。
    金澤翔子さんは、1985年に生まれてすぐダウン症と診断されますが、5歳の時に書家である母 金澤泰子女史に師事し、書道を始めました。10歳の時に般若心経を書き、全日本学生書道連盟展に『花』を出品しています。その後も、16歳の時に『舎利礼』、17歳の時に『觀』で金賞を受賞。19歳で雅号「小蘭」を取得しています。2006年には鎌倉建長寺に額装『慈悲』を、2009年にこの屏風を奉納されています。

  • 方丈 石庭「大雄苑(だいおうえん)」<br />方丈の南と西側に面するL字形をした枯山水庭園です。<br />リーフレットには、「ここにいるだけで、こころ静かに自らと向き合える」とあります。吉数の「七・五・三」の定石通りに15個の石が配され、広い空間に敷き詰められた白砂は眩しく、苔や植栽の緑とのコントラストが鮮やかです。<br />1940年に7代目小川治兵衛が作庭した、建仁寺で最も広い庭園です。通称「植治」の作品としては、枯山水は希少な存在です。<br />中国 江西省にある百丈山の眺めを模し、大雄の名も百丈山の別名「大雄山」に因みます。白砂に覆われた地面に緑苔や岩石を小島のように浮かべ、大河や大海原を眺めている心地にさせ、心を落ち着かせてくれます。左右の巨石の趣き、石組みの妙、なだらかに波打つ砂紋など、凛として優美、枯淡ながらも典雅な趣きの石庭です。そのため、石庭を臨む方丈の広い濡れ縁には人が絶えることがありません。

    方丈 石庭「大雄苑(だいおうえん)」
    方丈の南と西側に面するL字形をした枯山水庭園です。
    リーフレットには、「ここにいるだけで、こころ静かに自らと向き合える」とあります。吉数の「七・五・三」の定石通りに15個の石が配され、広い空間に敷き詰められた白砂は眩しく、苔や植栽の緑とのコントラストが鮮やかです。
    1940年に7代目小川治兵衛が作庭した、建仁寺で最も広い庭園です。通称「植治」の作品としては、枯山水は希少な存在です。
    中国 江西省にある百丈山の眺めを模し、大雄の名も百丈山の別名「大雄山」に因みます。白砂に覆われた地面に緑苔や岩石を小島のように浮かべ、大河や大海原を眺めている心地にさせ、心を落ち着かせてくれます。左右の巨石の趣き、石組みの妙、なだらかに波打つ砂紋など、凛として優美、枯淡ながらも典雅な趣きの石庭です。そのため、石庭を臨む方丈の広い濡れ縁には人が絶えることがありません。

  • 方丈 石庭「大雄苑」<br />臨済宗のお寺では、三門・法堂・勅使門・方丈の順に伽藍が南北に一直線で配置されます。この配列を踏まえ、大雄苑は正面中央に唐破風の向唐門、その背後に法堂が借景を担います。<br />かつて白砂には京都 白川上流で採取された上質の白川砂(比叡山産花崗岩)が用いられていましたが、近年は災害防除や風致の観点から、法令により一切採取が禁じられ、やむなく中国産のものも使われているそうです。<br />建仁寺には、大雄苑や○△□の庭、潮音庭という3つの高名な庭が配されています。各々個性豊かで異なる美しさを魅せ、見比べるのも愉しいものです。

    方丈 石庭「大雄苑」
    臨済宗のお寺では、三門・法堂・勅使門・方丈の順に伽藍が南北に一直線で配置されます。この配列を踏まえ、大雄苑は正面中央に唐破風の向唐門、その背後に法堂が借景を担います。
    かつて白砂には京都 白川上流で採取された上質の白川砂(比叡山産花崗岩)が用いられていましたが、近年は災害防除や風致の観点から、法令により一切採取が禁じられ、やむなく中国産のものも使われているそうです。
    建仁寺には、大雄苑や○△□の庭、潮音庭という3つの高名な庭が配されています。各々個性豊かで異なる美しさを魅せ、見比べるのも愉しいものです。

  • 方丈 石庭「大雄苑」<br />白砂に描かれた砂紋が一幅の絵画を連想させてくれます。<br />小川治兵衛は、江戸時代中期から続く作庭家です。7代目は特に名高く、歴史に名を刻む作庭家です。明治から昭和時代にかけて活躍し、平安神宮や円山公園、京都御苑、京都御所、無鄰菴、大寧軒等など、数多くの作庭や修景を手掛けています。

    方丈 石庭「大雄苑」
    白砂に描かれた砂紋が一幅の絵画を連想させてくれます。
    小川治兵衛は、江戸時代中期から続く作庭家です。7代目は特に名高く、歴史に名を刻む作庭家です。明治から昭和時代にかけて活躍し、平安神宮や円山公園、京都御苑、京都御所、無鄰菴、大寧軒等など、数多くの作庭や修景を手掛けています。

  • 方丈 石庭「大雄苑」<br />石庭内の南西角の茂みにある七重の石塔は、織田信長の供養塔です。1582年、弟 織田有楽斎が、本能寺の変で自害した織田信長の追善のために供養塔として立てたものです。かつては十三重塔だったそうですが、徳川時代には開山塔南の溝の底に隠されていたそうです。1898年に開山堂からここへ移されています。<br />また、禅における書画には「円相(えんそう)」というものがあります。これは目を閉じて筆で円を書くもので、迷いがあれば円がつながりません。禅宗において円の解釈は様々ですが、全てを満たしている状態が悟りの境地です。白砂に砂紋を描く際にも、迷いがあれば美しい砂紋を描くことはできないそうです。禅宗では美しい庭を造ること自体が仏道の修行だそうです。

    方丈 石庭「大雄苑」
    石庭内の南西角の茂みにある七重の石塔は、織田信長の供養塔です。1582年、弟 織田有楽斎が、本能寺の変で自害した織田信長の追善のために供養塔として立てたものです。かつては十三重塔だったそうですが、徳川時代には開山塔南の溝の底に隠されていたそうです。1898年に開山堂からここへ移されています。
    また、禅における書画には「円相(えんそう)」というものがあります。これは目を閉じて筆で円を書くもので、迷いがあれば円がつながりません。禅宗において円の解釈は様々ですが、全てを満たしている状態が悟りの境地です。白砂に砂紋を描く際にも、迷いがあれば美しい砂紋を描くことはできないそうです。禅宗では美しい庭を造ること自体が仏道の修行だそうです。

  • 方丈「室中の間」<br />方丈とは、住職の住まいです。1487(文明19)年に建造された柿葺、単層入母屋造の優美な室町時代を代表する禅宗方丈建築で、1599(慶長4)年に恵瓊が安芸の安国寺から移築したものです。優美な柿葺の屋根が印象的な禅宗方丈建築です。2013年に銅板葺きから建立時の柿葺に甦っています。<br />内部には往時の建築手法が見られますが、移建の際に手を加えたため、柱などは桃山風です。1934(昭和9)年の室戸台風によって全壊したため、現在のものは1940(昭和15)年に移築後の姿を復元したものです。<br />「室中の間」を飾るのは16面の襖絵、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての絵師 海北友松筆『竹林七賢図襖』(重文)のレプリカです。<br />竹林七賢とは、中国の魏晋の時代(3世紀半ば)国難を避け、竹林の中に入り、酒を飲み、楽を奏で、清談(俗世から超越した談論)に耽る七人の賢者を言います。往時の権力者 司馬一族による礼教政治(言論の自由が許されない)を批判したとされ、その自由奔放な言動が後世の人々から敬愛されたと伝わります。友松は、袋絵または袋人物と言われ、あたかも風を孕んだ袋のような衣を着けた人物画を得意とし、その代表作とされます。

    方丈「室中の間」
    方丈とは、住職の住まいです。1487(文明19)年に建造された柿葺、単層入母屋造の優美な室町時代を代表する禅宗方丈建築で、1599(慶長4)年に恵瓊が安芸の安国寺から移築したものです。優美な柿葺の屋根が印象的な禅宗方丈建築です。2013年に銅板葺きから建立時の柿葺に甦っています。
    内部には往時の建築手法が見られますが、移建の際に手を加えたため、柱などは桃山風です。1934(昭和9)年の室戸台風によって全壊したため、現在のものは1940(昭和15)年に移築後の姿を復元したものです。
    「室中の間」を飾るのは16面の襖絵、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての絵師 海北友松筆『竹林七賢図襖』(重文)のレプリカです。
    竹林七賢とは、中国の魏晋の時代(3世紀半ば)国難を避け、竹林の中に入り、酒を飲み、楽を奏で、清談(俗世から超越した談論)に耽る七人の賢者を言います。往時の権力者 司馬一族による礼教政治(言論の自由が許されない)を批判したとされ、その自由奔放な言動が後世の人々から敬愛されたと伝わります。友松は、袋絵または袋人物と言われ、あたかも風を孕んだ袋のような衣を着けた人物画を得意とし、その代表作とされます。

  • 方丈「室中の間」<br />中央右手に大きな栄西禅師の頂相が掛けられています。<br />開山千光祖師 明庵栄西(みんなんようさい)禅師は、1141(永治元)年に備中 吉備津宮の社家 賀陽(かや)氏に生まれました。 11歳で地元安養寺の静心(じょうしん)和尚に師事し、13歳で比叡山延暦寺に登り翌年得度、天台・密教を修学しました。 その後、宋で禅宗が盛んなことを知り、28歳と47歳の時に渡宋を果たしました。 <br />2度目の入宋ではインドへの巡蹟を目指すも叶わず、天台山に登って万年寺の住持 虚庵懐敞(きあんえじょう)の下で臨済宗黄龍派の禅を修行し、その法を受け継いで1191(建久2)に帰国しました。<br />都での禅宗の布教は困難を極めましたが、まず博多に日本初の禅寺 聖福寺を開山し、『興禅護国論』を著すなどでその教えの正統を説きました。また、鎌倉に出向き、将軍源頼家の庇護の下、寿福寺を建立し、住持に請ぜられます。その後、1202年に建仁寺を創建し、開山となりました。1215(建保3)年に75歳で建仁寺にて示寂しています。<br />また、中国から茶種を持ち帰り、日本で栽培することを奨励し、喫茶の法を普及した「茶祖」としても知られています。<br />方丈には、室中の他、礼の間、檀那の間、衣鉢の間、仏間、書院の間と6つの部屋があり、それぞれに襖絵が描かれています。

    方丈「室中の間」
    中央右手に大きな栄西禅師の頂相が掛けられています。
    開山千光祖師 明庵栄西(みんなんようさい)禅師は、1141(永治元)年に備中 吉備津宮の社家 賀陽(かや)氏に生まれました。 11歳で地元安養寺の静心(じょうしん)和尚に師事し、13歳で比叡山延暦寺に登り翌年得度、天台・密教を修学しました。 その後、宋で禅宗が盛んなことを知り、28歳と47歳の時に渡宋を果たしました。
    2度目の入宋ではインドへの巡蹟を目指すも叶わず、天台山に登って万年寺の住持 虚庵懐敞(きあんえじょう)の下で臨済宗黄龍派の禅を修行し、その法を受け継いで1191(建久2)に帰国しました。
    都での禅宗の布教は困難を極めましたが、まず博多に日本初の禅寺 聖福寺を開山し、『興禅護国論』を著すなどでその教えの正統を説きました。また、鎌倉に出向き、将軍源頼家の庇護の下、寿福寺を建立し、住持に請ぜられます。その後、1202年に建仁寺を創建し、開山となりました。1215(建保3)年に75歳で建仁寺にて示寂しています。
    また、中国から茶種を持ち帰り、日本で栽培することを奨励し、喫茶の法を普及した「茶祖」としても知られています。
    方丈には、室中の他、礼の間、檀那の間、衣鉢の間、仏間、書院の間と6つの部屋があり、それぞれに襖絵が描かれています。

  • 方丈「室中の間」<br />本尊は、東福門院から寄進された十一面観音菩薩像です。江戸時代の作品であり、結跏趺坐、右手は与願印、左手に水瓶を持ちます。<br />東福門院は、徳川秀忠の五女 和子で、1620(元和6)年に後水尾天皇の女御として入内しました。また、尾形光琳・乾山兄弟の実家「雁金屋」を支えていたのも東福門院でした。雁金屋の経営が悪化し、尾形光琳が画業に専念せざるを得なくなったのも、東福門院の死後、上得意を失ったためと考えられています。

    方丈「室中の間」
    本尊は、東福門院から寄進された十一面観音菩薩像です。江戸時代の作品であり、結跏趺坐、右手は与願印、左手に水瓶を持ちます。
    東福門院は、徳川秀忠の五女 和子で、1620(元和6)年に後水尾天皇の女御として入内しました。また、尾形光琳・乾山兄弟の実家「雁金屋」を支えていたのも東福門院でした。雁金屋の経営が悪化し、尾形光琳が画業に専念せざるを得なくなったのも、東福門院の死後、上得意を失ったためと考えられています。

  • 方丈「檀那の間」 海北友松筆『山水図襖』<br />建仁寺復興に際して海北友松が制作した日本を代表する水墨画群、重文「建仁寺方丈障壁画」50面があります。方丈は、兵火によって灰燼に帰しました。その後、1599(慶長4)年に安芸国の安国寺から方丈が移築される際、障壁画を一新しました。その制作責任者に抜擢されたのが67歳の海北友松でした。その結果、気宇壮大な水墨画の世界が襖に展開されました。建仁寺は「友松寺」と呼ばれることもあり、それほど山内には友松の作品が多く残されています。<br />「檀那の間」を飾る8面の襖絵は、海北友松筆『山水図襖』(重文)のレプリカです。<br />正面(東側)の4面は、水景と楼閣滝の景色。北側の4面は、楼閣・水景・滝の景色が描かれています。他の襖絵ははっきりした輪郭で描かれてますが、この襖絵だけは靄っとした独特の画風です。玉潤に学んだとされる溌墨草体(墨のにじみ、かすれで表現)で淡墨を基調に濃墨の巧みなアクセントを配し、大きな余白を効果的に用いています。<br />因みに海北友松は、近江 浅井家の家臣という武家出身の謎の画家です。現存する作品のほとんどは60歳代になってからのもので、その生涯も謎だらけだそうです。

    方丈「檀那の間」 海北友松筆『山水図襖』
    建仁寺復興に際して海北友松が制作した日本を代表する水墨画群、重文「建仁寺方丈障壁画」50面があります。方丈は、兵火によって灰燼に帰しました。その後、1599(慶長4)年に安芸国の安国寺から方丈が移築される際、障壁画を一新しました。その制作責任者に抜擢されたのが67歳の海北友松でした。その結果、気宇壮大な水墨画の世界が襖に展開されました。建仁寺は「友松寺」と呼ばれることもあり、それほど山内には友松の作品が多く残されています。
    「檀那の間」を飾る8面の襖絵は、海北友松筆『山水図襖』(重文)のレプリカです。
    正面(東側)の4面は、水景と楼閣滝の景色。北側の4面は、楼閣・水景・滝の景色が描かれています。他の襖絵ははっきりした輪郭で描かれてますが、この襖絵だけは靄っとした独特の画風です。玉潤に学んだとされる溌墨草体(墨のにじみ、かすれで表現)で淡墨を基調に濃墨の巧みなアクセントを配し、大きな余白を効果的に用いています。
    因みに海北友松は、近江 浅井家の家臣という武家出身の謎の画家です。現存する作品のほとんどは60歳代になってからのもので、その生涯も謎だらけだそうです。

  • 方丈「礼の間」 海北友松筆『雲龍図襖』<br />「礼の間」を飾る8面の襖絵は、海北友松筆『雲龍図襖』(重文)のレプリカです。<br />天界から瑞雲を抜けて現れた龍の姿を描いています。阿吽の形相をした2頭の龍が、コーナーを挟んで対峙する姿は圧巻です。オリジナルは京都国立博物館に寄託されています。<br />海北友松は、近江国の出身です。浅井氏の家臣の家に育ちましたが、主家滅亡の後、仏門に入ると共に、狩野派を学び、画家として大成しました。父の海北綱親は1573(天正元)年に小谷城落城の時に討ち死にしたと伝えられます(異説あり)。その頃、友松は東福寺で喝食をしていたそうです。喝食とは、禅林で食事時 (朝昼) に修行僧へ食事などを知らせる役です。

    方丈「礼の間」 海北友松筆『雲龍図襖』
    「礼の間」を飾る8面の襖絵は、海北友松筆『雲龍図襖』(重文)のレプリカです。
    天界から瑞雲を抜けて現れた龍の姿を描いています。阿吽の形相をした2頭の龍が、コーナーを挟んで対峙する姿は圧巻です。オリジナルは京都国立博物館に寄託されています。
    海北友松は、近江国の出身です。浅井氏の家臣の家に育ちましたが、主家滅亡の後、仏門に入ると共に、狩野派を学び、画家として大成しました。父の海北綱親は1573(天正元)年に小谷城落城の時に討ち死にしたと伝えられます(異説あり)。その頃、友松は東福寺で喝食をしていたそうです。喝食とは、禅林で食事時 (朝昼) に修行僧へ食事などを知らせる役です。

  • 方丈「礼の間」 海北友松筆『雲龍図襖』<br />西面には待ち構えるように睨みを利かす龍が、瑞雲を従えながら圧倒的な迫力で描かれています。<br />禅門に好まれた龍を画題とし、力量の試される大画面に余すことなく描きあげた本作品は、友松の得意とする水墨の龍の中でも随一の作品と称されています。

    方丈「礼の間」 海北友松筆『雲龍図襖』
    西面には待ち構えるように睨みを利かす龍が、瑞雲を従えながら圧倒的な迫力で描かれています。
    禅門に好まれた龍を画題とし、力量の試される大画面に余すことなく描きあげた本作品は、友松の得意とする水墨の龍の中でも随一の作品と称されています。

  • 方丈「礼の間」 海北友松筆『雲龍図襖』<br />北面には、轟くような咆哮を発しながら瑞雲の間から姿を現わす龍を描いています。<br />この墨の気迫は、だだものではありません。

    方丈「礼の間」 海北友松筆『雲龍図襖』
    北面には、轟くような咆哮を発しながら瑞雲の間から姿を現わす龍を描いています。
    この墨の気迫は、だだものではありません。

  • 方丈 北庭<br />方丈北側の庭奥に見えるのが、宝形屋根を持つ霊照堂(納骨堂)です。<br />

    方丈 北庭
    方丈北側の庭奥に見えるのが、宝形屋根を持つ霊照堂(納骨堂)です。

  • 方丈 北庭<br />楓の紅葉と白砂のコントラストがいいですね。

    方丈 北庭
    楓の紅葉と白砂のコントラストがいいですね。

  • 方丈 北庭<br />西端には手水鉢が置かれています。<br />水面に紅葉を映してみました.

    方丈 北庭
    西端には手水鉢が置かれています。
    水面に紅葉を映してみました.

  • 手水鉢のある所から、庭園にでられます。<br />ここからはサンダルに履き替え、庭園を散策します。<br />

    手水鉢のある所から、庭園にでられます。
    ここからはサンダルに履き替え、庭園を散策します。

  • 田村月樵遺愛の大硯 <br />丹波 園部出身の日本画家 田村月樵が生前愛用した、長さが三尺もある大きな硯です。大作の襖絵を描いていますので、硯のサイズも半端ではありません。方丈の襖絵は、この硯を使って描かれたそうです。<br />一疋の蛙が大海原に臨んで腹這って前進していく様子を月樵自身が硯に刻んでいます。また、台座には「月樵」と刻まれています。

    田村月樵遺愛の大硯 
    丹波 園部出身の日本画家 田村月樵が生前愛用した、長さが三尺もある大きな硯です。大作の襖絵を描いていますので、硯のサイズも半端ではありません。方丈の襖絵は、この硯を使って描かれたそうです。
    一疋の蛙が大海原に臨んで腹這って前進していく様子を月樵自身が硯に刻んでいます。また、台座には「月樵」と刻まれています。

  • 田村月樵遺愛の大硯 <br />とてもリアルな蛙です。<br />方丈の「唐子の間」には、月樵が67~69歳の時に描いた障壁画『唐子遊戯図』があります。月樵は、明治時代に入ると西洋画も描き、晩年は油絵から遠ざかり、再び仏画に没頭しました。

    田村月樵遺愛の大硯 
    とてもリアルな蛙です。
    方丈の「唐子の間」には、月樵が67~69歳の時に描いた障壁画『唐子遊戯図』があります。月樵は、明治時代に入ると西洋画も描き、晩年は油絵から遠ざかり、再び仏画に没頭しました。

  • 茶室「清涼軒」<br />利休の門人であった東陽坊長盛の茶徳を偲び、茶室「東陽坊」の保存を目的として懸けられる月釜「東陽坊」が行なわれるのは、茶室「東陽坊」の隣地にあるこの清涼軒になります。

    茶室「清涼軒」
    利休の門人であった東陽坊長盛の茶徳を偲び、茶室「東陽坊」の保存を目的として懸けられる月釜「東陽坊」が行なわれるのは、茶室「東陽坊」の隣地にあるこの清涼軒になります。

  • 庭園<br />周りは苔生しているため、趣のある飛び石と草の延段が散策をナビゲートしてくれます。

    庭園
    周りは苔生しているため、趣のある飛び石と草の延段が散策をナビゲートしてくれます。

  • 東陽坊<br />1587(天正15)年に豊臣秀吉が催した北野天満宮での大茶会で千利休の高弟 真如堂東陽坊長盛が好んだ副席と伝えられています。東陽坊長盛は、逸足(いっそく)として詫び数寄に名を連ね、また薄茶の先達とされ、秀吉の臣に初めて廻し飲みを行った茶人です。<br />この茶室は、元々は北野の高林寺にあったものですが、明治33年頃まで京都中京の安永家に移され、その後、安永萬次郎氏の寄贈により建仁寺開山堂の裏に移り、更に1582(天正10)年に現在地に移築されました。高林寺は東陽坊長盛が住職を務めた真如堂の塔頭東陽坊の末寺で、長盛が1587年の北野の大茶会の際、紙屋川の土手に造ったものがこの茶室です。<br />小径を挟んで茶室の南側には、豊臣秀吉遺愛の鳥帽子石が置かれています。

    東陽坊
    1587(天正15)年に豊臣秀吉が催した北野天満宮での大茶会で千利休の高弟 真如堂東陽坊長盛が好んだ副席と伝えられています。東陽坊長盛は、逸足(いっそく)として詫び数寄に名を連ね、また薄茶の先達とされ、秀吉の臣に初めて廻し飲みを行った茶人です。
    この茶室は、元々は北野の高林寺にあったものですが、明治33年頃まで京都中京の安永家に移され、その後、安永萬次郎氏の寄贈により建仁寺開山堂の裏に移り、更に1582(天正10)年に現在地に移築されました。高林寺は東陽坊長盛が住職を務めた真如堂の塔頭東陽坊の末寺で、長盛が1587年の北野の大茶会の際、紙屋川の土手に造ったものがこの茶室です。
    小径を挟んで茶室の南側には、豊臣秀吉遺愛の鳥帽子石が置かれています。

  • 東陽坊<br />裏側にあるにじり口は、支度室への入口になります。<br />草庵式2帖台目席とは、1帖の合いの間と2帖の台目向板の控室、そして板の間の水屋からなる茶室のことです。東陽坊は2帖台目席の模範とされ、これを手本とした茶室が後の時代に数多く造られました。<br />茶室の窓が比較的小さく少ないことや、床に墨蹟窓が見られないのは、利休風の作風が窺えます。一方、手前座勝手付の色紙窓、上棚の長い雲雀棚(ひばりだな)、袖壁の木の横木、また床前から手前座にかけて延びる平天井とにじり口前の化粧屋根裏などの構成は、織部風の作風が窺えます。再三の移転により、多少の改修を受けたものと思われます。

    東陽坊
    裏側にあるにじり口は、支度室への入口になります。
    草庵式2帖台目席とは、1帖の合いの間と2帖の台目向板の控室、そして板の間の水屋からなる茶室のことです。東陽坊は2帖台目席の模範とされ、これを手本とした茶室が後の時代に数多く造られました。
    茶室の窓が比較的小さく少ないことや、床に墨蹟窓が見られないのは、利休風の作風が窺えます。一方、手前座勝手付の色紙窓、上棚の長い雲雀棚(ひばりだな)、袖壁の木の横木、また床前から手前座にかけて延びる平天井とにじり口前の化粧屋根裏などの構成は、織部風の作風が窺えます。再三の移転により、多少の改修を受けたものと思われます。

  • 東陽坊<br />ここは、華やかな祇園 花見小路のすぐ傍とは思えないほど閑静な佇まいです。<br />茶室の西側には、名物「建仁寺垣」が設けられています。4割り竹の表を外に隙間なく縦に並べ、それに押縁と呼ばれる横竹を渡し、蕨縄で結んだ竹垣です。

    東陽坊
    ここは、華やかな祇園 花見小路のすぐ傍とは思えないほど閑静な佇まいです。
    茶室の西側には、名物「建仁寺垣」が設けられています。4割り竹の表を外に隙間なく縦に並べ、それに押縁と呼ばれる横竹を渡し、蕨縄で結んだ竹垣です。

  • 庭園<br />苔生した蹲には、散紅葉が儚さと彩りを添えています。

    庭園
    苔生した蹲には、散紅葉が儚さと彩りを添えています。

  • 散策路<br />花見小路界隈の喧噪とはうってかわって、静寂だけが流れます。

    散策路
    花見小路界隈の喧噪とはうってかわって、静寂だけが流れます。

  • 安国寺恵瓊の首塚<br />建仁寺を再興した安国寺恵瓊は、安芸国守護武田氏の一族に生まれ、武田氏滅亡後に安国寺に身を寄せ、仏教修行に精進し、京都東福寺に入り、その後安国寺の住職となり、毛利家の外交僧になったと伝わります。一説には戦国大名であったとも言われています。<br />関ヶ原の戦いで西軍に味方したために徳川家康によって六条河原で斬首され、晒された生首を建仁寺の僧侶が持ち帰ったと伝えられています。それを方丈裏手に葬り、建てた塚が恵瓊の首塚です。享年63歳でした。<br />西軍に味方した理由は、豊臣家への忠誠心や石田三成との親交など諸説ありますが、西軍が有利と判断したことが最大の理由とされています。恵瓊は南宮山の麓に陣を構え、その頂上には主家の毛利秀元と吉川広家が布陣しました。丁度東軍の総大将徳川家康の本陣と対峙する場所に陣取りましたが、戦が始まっても恵瓊は全く動きませんでした。毛利秀元が恵瓊に戦いの指示を出さなかったのです。元々、毛利家は吉川広家が家康と内通しており、攻撃するつもりはありませんでした。結局、恵瓊は戦わずして敗軍の将となり、上方に引き上げました。<br />因みに、恵瓊は、本能寺の変の9年前の織田信長が力を持ち始めた頃、彼があっけなく命を落とすことを予言し、その後、豊臣秀吉が天下人になることを言い当てた戦国時代最強の予言師でした。その彼が関ヶ原の戦いで東軍が勝つことを予言できなかったのは、何とも皮肉なことです。

    安国寺恵瓊の首塚
    建仁寺を再興した安国寺恵瓊は、安芸国守護武田氏の一族に生まれ、武田氏滅亡後に安国寺に身を寄せ、仏教修行に精進し、京都東福寺に入り、その後安国寺の住職となり、毛利家の外交僧になったと伝わります。一説には戦国大名であったとも言われています。
    関ヶ原の戦いで西軍に味方したために徳川家康によって六条河原で斬首され、晒された生首を建仁寺の僧侶が持ち帰ったと伝えられています。それを方丈裏手に葬り、建てた塚が恵瓊の首塚です。享年63歳でした。
    西軍に味方した理由は、豊臣家への忠誠心や石田三成との親交など諸説ありますが、西軍が有利と判断したことが最大の理由とされています。恵瓊は南宮山の麓に陣を構え、その頂上には主家の毛利秀元と吉川広家が布陣しました。丁度東軍の総大将徳川家康の本陣と対峙する場所に陣取りましたが、戦が始まっても恵瓊は全く動きませんでした。毛利秀元が恵瓊に戦いの指示を出さなかったのです。元々、毛利家は吉川広家が家康と内通しており、攻撃するつもりはありませんでした。結局、恵瓊は戦わずして敗軍の将となり、上方に引き上げました。
    因みに、恵瓊は、本能寺の変の9年前の織田信長が力を持ち始めた頃、彼があっけなく命を落とすことを予言し、その後、豊臣秀吉が天下人になることを言い当てた戦国時代最強の予言師でした。その彼が関ヶ原の戦いで東軍が勝つことを予言できなかったのは、何とも皮肉なことです。

  • 庭園<br />方丈の柿葺屋根を借景に紅葉が映えます。<br />霊照堂の西側にある楓です。

    庭園
    方丈の柿葺屋根を借景に紅葉が映えます。
    霊照堂の西側にある楓です。

  • 庭園<br />日に照らされて輝いています。

    庭園
    日に照らされて輝いています。

  • 方丈「衣鉢の間」 海北友松筆『琴棋書画図襖』<br />「衣鉢の間」を飾る10面の海北友松筆『琴棋書画図襖』(重文)のレプリカです。<br />この作品だけ着色されていますが、狩野派の真体着色画とは異なり、水墨画の雰囲気を湛えています。友松の画風は、狩野派の影響を受けた画風から、玉潤や梁楷の様式を導入し狩野派から脱しようとする画風、そして友松様式を確立した画風へと変遷します。この作品は、主題を中心部に集約し、両端に余白を設けています。従って、狩野派的構図からの脱皮を目論んだ挑戦的な作品と言えます。

    方丈「衣鉢の間」 海北友松筆『琴棋書画図襖』
    「衣鉢の間」を飾る10面の海北友松筆『琴棋書画図襖』(重文)のレプリカです。
    この作品だけ着色されていますが、狩野派の真体着色画とは異なり、水墨画の雰囲気を湛えています。友松の画風は、狩野派の影響を受けた画風から、玉潤や梁楷の様式を導入し狩野派から脱しようとする画風、そして友松様式を確立した画風へと変遷します。この作品は、主題を中心部に集約し、両端に余白を設けています。従って、狩野派的構図からの脱皮を目論んだ挑戦的な作品と言えます。

  • 方丈 対馬行列輿<br />1635(寛永12)年、徳川幕府は南禅寺を除いた五山寺院の天龍・相国・建仁・東福の四山の僧の中から朝鮮との外交文書作成担当者を選び、輪番制で対馬にあった寺「以酊庵(いていあん)」に駐在させていました。対馬藩の国書偽造・改ざん事件が発覚し、その再発を防ぐための措置だったそうです。その際の移動に使われていたのが、この輿です。<br />朝鮮修文職は1866(慶応2)年まで230年もの間続けられ、87師、累計126名の輪番僧が赴任しています。これらの僧は漢籍に造詣が深かった五山の代表的僧が選抜され、建仁寺からは18師が名を連ねました。 <br />朝鮮通信使の来日時には接待および往来における案内を行ったとのことですので、このたびの「朝鮮通信使」に関する資料のユネスコ世界記憶遺産への登録に貢献された方々が乗られた輿と言えます。

    方丈 対馬行列輿
    1635(寛永12)年、徳川幕府は南禅寺を除いた五山寺院の天龍・相国・建仁・東福の四山の僧の中から朝鮮との外交文書作成担当者を選び、輪番制で対馬にあった寺「以酊庵(いていあん)」に駐在させていました。対馬藩の国書偽造・改ざん事件が発覚し、その再発を防ぐための措置だったそうです。その際の移動に使われていたのが、この輿です。
    朝鮮修文職は1866(慶応2)年まで230年もの間続けられ、87師、累計126名の輪番僧が赴任しています。これらの僧は漢籍に造詣が深かった五山の代表的僧が選抜され、建仁寺からは18師が名を連ねました。
    朝鮮通信使の来日時には接待および往来における案内を行ったとのことですので、このたびの「朝鮮通信使」に関する資料のユネスコ世界記憶遺産への登録に貢献された方々が乗られた輿と言えます。

  • 方丈 北庭園<br />東側から眺めた様子です。

    方丈 北庭園
    東側から眺めた様子です。

  • 方丈 北庭園<br />紅葉をズームアップしました。

    方丈 北庭園
    紅葉をズームアップしました。

  • ○△□乃庭<br />本坊と方丈の間にある庭園です。<br />2006年に北山安夫氏が作庭しました。ユニークな名の庭ですが、江戸時代の臨済宗古月派の禅僧・画家 仙がい義梵(せんがい ぎぼん)の「○△ロ」の書を基にしています。密教禅宗の4大思想(地水火風)を表したもので、元々「○△□」の図形は禅宗では宇宙の根源を表現する形とされ、地はロ(井戸の四角)、水は○(白のヤブツバキと苔の円や砂紋、敢えて残されたひとつの景石)、火と風を表すという△(庭の隅の形状)で構成しています。ストイック過ぎる抽象造形のため、△が一番判り難く、ネット情報にも諸説見られます。<br />さて、どれが△なのか判りますか?

    ○△□乃庭
    本坊と方丈の間にある庭園です。
    2006年に北山安夫氏が作庭しました。ユニークな名の庭ですが、江戸時代の臨済宗古月派の禅僧・画家 仙がい義梵(せんがい ぎぼん)の「○△ロ」の書を基にしています。密教禅宗の4大思想(地水火風)を表したもので、元々「○△□」の図形は禅宗では宇宙の根源を表現する形とされ、地はロ(井戸の四角)、水は○(白のヤブツバキと苔の円や砂紋、敢えて残されたひとつの景石)、火と風を表すという△(庭の隅の形状)で構成しています。ストイック過ぎる抽象造形のため、△が一番判り難く、ネット情報にも諸説見られます。
    さて、どれが△なのか判りますか?

  • ○△□乃庭<br />説明書によると、この廊下の下に盛られた波紋のない白砂部が△(厳密には台形)とされています。何故台形になっているのかは、説明されていません。<br />当方が禅問答でひねりだしたのは、白砂の波紋の断面形状が三角形というものでしたが…。そこまで奥深くはなかったようです。

    ○△□乃庭
    説明書によると、この廊下の下に盛られた波紋のない白砂部が△(厳密には台形)とされています。何故台形になっているのかは、説明されていません。
    当方が禅問答でひねりだしたのは、白砂の波紋の断面形状が三角形というものでしたが…。そこまで奥深くはなかったようです。

  • 本坊「小書院」『○△□』の書<br />庭の隣の小書院には「○△□」と書かれた掛け軸があります。一見『おそ松くん』の「ちび太のおでん」を彷彿とさせます。悟りの境地は童心に近いともされ、子どもが書いたのかと思われる方もおられるかもしれません。子どもの書と異なるのは、迷いのない筆遣いと力強さです。邪心や迷いがあれば、必ず筆遣いに表れます。言葉の意味を自分のものにして墨と筆で遺憾なく表現した時、観る者に開放感を与えるような書ができるのだと思います。禅宗は庭園や書画などの芸術によって悟りの境地を表現できると考え、芸術を修行の一つに数えています。<br />仙がい和尚は、1750(寛延3)年に生まれ、88歳で他界した、美濃国武儀郡出身の臨済宗古月派の禅僧です。栄西が建立した日本最古の禅寺「聖福寺」の住職を20年間務め、多くの禅味溢れるユニークな書画を残しています。<br />元々は精密なタッチの絵を描きましたが、70歳の頃に「がい画無法(がいがむほう)」、つまり「自分の絵にはルールはない」と宣言し、以降、自由闊達、軽妙洒脱な筆さばきで森羅万象を描きました。決してユーモラスを意識した訳ではなく、自由奔放に禅画を描いた結果、その飾り気なく真っ直ぐな作風が人々の心を掴んだようです。「ゆるふわ」な名画は、現代人のストレス社会に対する癒しにもなっているそうです。<br />和尚の生涯は波乱万丈を極めますが、信念は絶対に曲げない気骨のある方でした。そのエピソードが狂歌です。美濃国において新任の家老が悪政を行ったことに対し、「よかろうと思う家老は悪かろう  もとの家老がやはりよかろう」と詠みました。後に美濃国を追放された際には、美濃国と蓑を掛詞とし「から傘を広げてみれば天が下 たとえ降るとも蓑は頼まじ」と詠いました。<br />一方、○は禅宗では「悟りの境地」を表しますが、『一円相画賛』ではそのシンボルを「お餅と思って食べちゃいなよ」と言っています。「悟り」なんてものは「さらに深い悟り」への入口に過ぎないという、ストイックな姿勢の表現です。また、絵を依頼に来る者が後を絶たないことについても、「うらめしや 我隠れ家は雪隠か  来る人ごとに 紙おいてゆく」という自虐的な句を残した程です。こうしてポジティブに「老い」を愉しんだ和尚の最期の言葉は、「死にとうない」だったそうです。<br />因みに、仙がい和尚の「がい」は、涯から部首の「さんずい」を抜いた漢字です。

    本坊「小書院」『○△□』の書
    庭の隣の小書院には「○△□」と書かれた掛け軸があります。一見『おそ松くん』の「ちび太のおでん」を彷彿とさせます。悟りの境地は童心に近いともされ、子どもが書いたのかと思われる方もおられるかもしれません。子どもの書と異なるのは、迷いのない筆遣いと力強さです。邪心や迷いがあれば、必ず筆遣いに表れます。言葉の意味を自分のものにして墨と筆で遺憾なく表現した時、観る者に開放感を与えるような書ができるのだと思います。禅宗は庭園や書画などの芸術によって悟りの境地を表現できると考え、芸術を修行の一つに数えています。
    仙がい和尚は、1750(寛延3)年に生まれ、88歳で他界した、美濃国武儀郡出身の臨済宗古月派の禅僧です。栄西が建立した日本最古の禅寺「聖福寺」の住職を20年間務め、多くの禅味溢れるユニークな書画を残しています。
    元々は精密なタッチの絵を描きましたが、70歳の頃に「がい画無法(がいがむほう)」、つまり「自分の絵にはルールはない」と宣言し、以降、自由闊達、軽妙洒脱な筆さばきで森羅万象を描きました。決してユーモラスを意識した訳ではなく、自由奔放に禅画を描いた結果、その飾り気なく真っ直ぐな作風が人々の心を掴んだようです。「ゆるふわ」な名画は、現代人のストレス社会に対する癒しにもなっているそうです。
    和尚の生涯は波乱万丈を極めますが、信念は絶対に曲げない気骨のある方でした。そのエピソードが狂歌です。美濃国において新任の家老が悪政を行ったことに対し、「よかろうと思う家老は悪かろう もとの家老がやはりよかろう」と詠みました。後に美濃国を追放された際には、美濃国と蓑を掛詞とし「から傘を広げてみれば天が下 たとえ降るとも蓑は頼まじ」と詠いました。
    一方、○は禅宗では「悟りの境地」を表しますが、『一円相画賛』ではそのシンボルを「お餅と思って食べちゃいなよ」と言っています。「悟り」なんてものは「さらに深い悟り」への入口に過ぎないという、ストイックな姿勢の表現です。また、絵を依頼に来る者が後を絶たないことについても、「うらめしや 我隠れ家は雪隠か 来る人ごとに 紙おいてゆく」という自虐的な句を残した程です。こうしてポジティブに「老い」を愉しんだ和尚の最期の言葉は、「死にとうない」だったそうです。
    因みに、仙がい和尚の「がい」は、涯から部首の「さんずい」を抜いた漢字です。

  • ○△□乃庭から眺める本坊です。

    ○△□乃庭から眺める本坊です。

  • 本坊「小書院」<br />4つの部屋からなり、床の間には菩提達磨尊者の軸が掛けられています。<br />新しい襖絵は現代の染色作家 鳥羽美花女史の作品で、2014年に制作された「舟出(Rowing away)」と「凪(The calm)」という作品です。<br />

    本坊「小書院」
    4つの部屋からなり、床の間には菩提達磨尊者の軸が掛けられています。
    新しい襖絵は現代の染色作家 鳥羽美花女史の作品で、2014年に制作された「舟出(Rowing away)」と「凪(The calm)」という作品です。

  • 本坊「小書院」<br />襖絵16面からなり、開祖栄西の800年大遠諱に合わせた奉納作品です。ベトナムの水辺の風景に着想を得たもので、モノトーンの「凪」と鮮やかな青を基調とした「舟出」が対照的です。

    本坊「小書院」
    襖絵16面からなり、開祖栄西の800年大遠諱に合わせた奉納作品です。ベトナムの水辺の風景に着想を得たもので、モノトーンの「凪」と鮮やかな青を基調とした「舟出」が対照的です。

  • 本坊「唐子の間」 田村月樵筆『唐子遊戯図』<br />愉しそうに戯れる唐子たちの生き生きとした表情を見て下さい。落書きのような素朴さと闊達さが溢れています。左端のとんがり帽子は、「クリスマス・パーティー」???<br />月樵は、幕末から明治・大正時代に掛けて活躍した日本画家です。丹波 園部近郊に生まれ、10歳で南画を、次年には真言宗の画僧 大願和尚の下で仏画を学びました。1872(明治5)年から油絵を学び、数々の展覧会に洋画を出品する傍ら文人画から洋画、そして日本画へと画風を変えたことで知られています。晩年は、再び仏画の世界に戻り、67歳の時から約2年の歳月をかけて『唐子遊戯図』を制作し、1918(大正7)年に没しています。享年72歳。<br />67歳の時から約2年の歳月をかけて制作された大作だそうです。

    本坊「唐子の間」 田村月樵筆『唐子遊戯図』
    愉しそうに戯れる唐子たちの生き生きとした表情を見て下さい。落書きのような素朴さと闊達さが溢れています。左端のとんがり帽子は、「クリスマス・パーティー」???
    月樵は、幕末から明治・大正時代に掛けて活躍した日本画家です。丹波 園部近郊に生まれ、10歳で南画を、次年には真言宗の画僧 大願和尚の下で仏画を学びました。1872(明治5)年から油絵を学び、数々の展覧会に洋画を出品する傍ら文人画から洋画、そして日本画へと画風を変えたことで知られています。晩年は、再び仏画の世界に戻り、67歳の時から約2年の歳月をかけて『唐子遊戯図』を制作し、1918(大正7)年に没しています。享年72歳。
    67歳の時から約2年の歳月をかけて制作された大作だそうです。

  • 本坊 「潮音庭」<br />南北の書院、東西の渡り廊下の四方から眺められることから「四方正面の庭」とも呼ばれる枯山水禅庭です。小堀泰巌老大師作庭、監修を現代の作庭家 北山安夫氏が担い、2005年に作庭されました。高雄山の景石を用い、法堂の三尊仏に見立てたという三尊石、その横にある座禅石などの岩石と紅葉などの植栽があるスギゴケの苔庭で島と海を表しています。時計回りの渦巻き状の作庭が試みられ、大小2つの島に見立てた岩石の周りを海流が巡る様子を表し、「潮音庭」の名の由来にもなっています。<br />三尊石組は通常一方向から観賞するように作庭されるのですが、ここでは四方から眺められるように石の大きさや配置などが緻密に計算されています。見る方向によって印象を違えるこの庭は、禅の教えとどこか繋がるもののように思えます。初夏は苔の緑が美しく、秋は苔の上に色付いたヤマモミジ、ドウダンツツジが映える庭です。紅葉には、少し早かったようです。

    本坊 「潮音庭」
    南北の書院、東西の渡り廊下の四方から眺められることから「四方正面の庭」とも呼ばれる枯山水禅庭です。小堀泰巌老大師作庭、監修を現代の作庭家 北山安夫氏が担い、2005年に作庭されました。高雄山の景石を用い、法堂の三尊仏に見立てたという三尊石、その横にある座禅石などの岩石と紅葉などの植栽があるスギゴケの苔庭で島と海を表しています。時計回りの渦巻き状の作庭が試みられ、大小2つの島に見立てた岩石の周りを海流が巡る様子を表し、「潮音庭」の名の由来にもなっています。
    三尊石組は通常一方向から観賞するように作庭されるのですが、ここでは四方から眺められるように石の大きさや配置などが緻密に計算されています。見る方向によって印象を違えるこの庭は、禅の教えとどこか繋がるもののように思えます。初夏は苔の緑が美しく、秋は苔の上に色付いたヤマモミジ、ドウダンツツジが映える庭です。紅葉には、少し早かったようです。

  • 本坊 「潮音庭」<br />一角には、一文字型の手水鉢が置かれています。<br />この庭園を眺めていると、日本庭園は観るものではなく感じるものだとの実感が湧いてきます。どっしりとした存在感に触れると腹が据わり、心が静かになり、平穏が宿ります。

    本坊 「潮音庭」
    一角には、一文字型の手水鉢が置かれています。
    この庭園を眺めていると、日本庭園は観るものではなく感じるものだとの実感が湧いてきます。どっしりとした存在感に触れると腹が据わり、心が静かになり、平穏が宿ります。

  • 本坊 渡り廊下<br />禅宗の寺院で良く見かけるこの丸い形の窓は、禅宗では「悟りの境地」を表現する円窓です。円窓は、悟りの究極の境地である「大宇宙」の象徴だということです。<br />因みに、四角形の窓は「四苦八苦=迷い」を表現します。また、角ばった様子は悟りを得る前の人の姿でもあり、迷いの克服を経て、やがて「悟りの窓」のように角が取れていくとされます。<br />2014年の「そうだ 京都、行こう」のポスターでお馴染みの京都の禅寺、源光庵にある「迷いの窓、悟りの窓」が有名です。

    本坊 渡り廊下
    禅宗の寺院で良く見かけるこの丸い形の窓は、禅宗では「悟りの境地」を表現する円窓です。円窓は、悟りの究極の境地である「大宇宙」の象徴だということです。
    因みに、四角形の窓は「四苦八苦=迷い」を表現します。また、角ばった様子は悟りを得る前の人の姿でもあり、迷いの克服を経て、やがて「悟りの窓」のように角が取れていくとされます。
    2014年の「そうだ 京都、行こう」のポスターでお馴染みの京都の禅寺、源光庵にある「迷いの窓、悟りの窓」が有名です。

  • 本坊 「潮音庭」<br />作庭のガイドブックは、平安時代に『作庭記』として発行されており、とても歴史あるものです。北山安夫氏は、NHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」でも紹介された現代を代表する庭師のひとりです。氏の作庭の流儀は、切捨ての美学、つまり禅にも通じる「無駄を削ぎ落とし、簡素化する」ことに尽きます。あるがままの石を組み上げ、凛とした空間を生み出されています。<br />氏の言葉で印象的だったのは、「困難があればあるほど、チャレンジ精神が出てくる。『あすなろ』と一緒です。明日こそ本物を造ろうと思って、死んでいくのかなと思います。それが、僕の中では滅びの美学というか。だからこそ、それを目にした人たちの愛によって育まれた庭が、200年先にひとつの感動を与えられればいいなと思っています」です。作家の故 安部公房氏も同様のことを語っておられましたが、現状に慢心せず、常に次に創造するものがベストと言う考え方は、新商品を開発する技術者にも共通する精神だと思います。

    本坊 「潮音庭」
    作庭のガイドブックは、平安時代に『作庭記』として発行されており、とても歴史あるものです。北山安夫氏は、NHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」でも紹介された現代を代表する庭師のひとりです。氏の作庭の流儀は、切捨ての美学、つまり禅にも通じる「無駄を削ぎ落とし、簡素化する」ことに尽きます。あるがままの石を組み上げ、凛とした空間を生み出されています。
    氏の言葉で印象的だったのは、「困難があればあるほど、チャレンジ精神が出てくる。『あすなろ』と一緒です。明日こそ本物を造ろうと思って、死んでいくのかなと思います。それが、僕の中では滅びの美学というか。だからこそ、それを目にした人たちの愛によって育まれた庭が、200年先にひとつの感動を与えられればいいなと思っています」です。作家の故 安部公房氏も同様のことを語っておられましたが、現状に慢心せず、常に次に創造するものがベストと言う考え方は、新商品を開発する技術者にも共通する精神だと思います。

  • 本坊 「潮音庭」<br />柄にもなく、「禅とは何か」を自問してみます。<br />漠とした憧憬…。真の人間形成への果てなき道ではあるが、いつしか地平線の彼方に消え失せるもの。簡素に生き、自己を見つめる…。<br />こうした単純なスキルでさえ、当方にはおよそ似つかわしくないように思えます。今までやりたい放題してきたのに、今さら禅的境地を問うのは虫のよすぎる話だったかもしれません。

    本坊 「潮音庭」
    柄にもなく、「禅とは何か」を自問してみます。
    漠とした憧憬…。真の人間形成への果てなき道ではあるが、いつしか地平線の彼方に消え失せるもの。簡素に生き、自己を見つめる…。
    こうした単純なスキルでさえ、当方にはおよそ似つかわしくないように思えます。今までやりたい放題してきたのに、今さら禅的境地を問うのは虫のよすぎる話だったかもしれません。

  • 本坊「大書院」<br />こちらは、ニューヨークでの展覧会への出展要請を機に、京都国際文化交流財団が最新デジタル技術とグラフィックデザイナーの色調補正により、特殊開発された和紙にプリントしたものです。金箔の再現だけは、西陣の伝統工芸師が協力されています。<br />近年の京都では、数多の寺院で大型スキャナーにより襖絵等をデジタルスキャンし、オリジナルに迫るほど精巧なレプリカを制作し、その文化財を保存する動きが進められています。

    本坊「大書院」
    こちらは、ニューヨークでの展覧会への出展要請を機に、京都国際文化交流財団が最新デジタル技術とグラフィックデザイナーの色調補正により、特殊開発された和紙にプリントしたものです。金箔の再現だけは、西陣の伝統工芸師が協力されています。
    近年の京都では、数多の寺院で大型スキャナーにより襖絵等をデジタルスキャンし、オリジナルに迫るほど精巧なレプリカを制作し、その文化財を保存する動きが進められています。

  • 本坊「大書院」<br />「潮音庭」に面して『風塵雷神図屏風』が展示されています。これは、日本画の巨匠たちの作品を宝石や金箔で表現する絵画の展覧会「ジャポニズム ジュエリーアート展」の展示品です。大阪市立大学と宝石商「ジュエリーカミネ」がコラボした作品20点が展示されています。<br />「ジュエリーカミネ」の方の説明によると、セットで1200万円相当の『風神雷神図屏風』を建仁寺へ贈呈されたそうで、今後も拝観者に公開される予定だそうです。1枚の幅は1mほどあり、金箔の背景にルビーやオパールなどの天然石を使った作品は思わずため息が洩れるほどです。

    本坊「大書院」
    「潮音庭」に面して『風塵雷神図屏風』が展示されています。これは、日本画の巨匠たちの作品を宝石や金箔で表現する絵画の展覧会「ジャポニズム ジュエリーアート展」の展示品です。大阪市立大学と宝石商「ジュエリーカミネ」がコラボした作品20点が展示されています。
    「ジュエリーカミネ」の方の説明によると、セットで1200万円相当の『風神雷神図屏風』を建仁寺へ贈呈されたそうで、今後も拝観者に公開される予定だそうです。1枚の幅は1mほどあり、金箔の背景にルビーやオパールなどの天然石を使った作品は思わずため息が洩れるほどです。

  • 本坊「大書院」狩野永徳『唐獅子図屏風』(ジュエリーアート展)<br />この屏風は、桃山文化を象徴する作品として歴史の教科書や資料に必ず登場するほど有名です。しかし、永徳の遺した『洛中洛外図』などは国宝指定ですが、代表作として特に有名な『唐獅子図屏風』は国宝に指定されていません。何故なのでしょうか?<br />その秘密は、所有者にありました。『唐獅子図屏風』は、皇室の私有物となっていてたため、国宝や重要文化財の保護対象ではなかったのです。

    本坊「大書院」狩野永徳『唐獅子図屏風』(ジュエリーアート展)
    この屏風は、桃山文化を象徴する作品として歴史の教科書や資料に必ず登場するほど有名です。しかし、永徳の遺した『洛中洛外図』などは国宝指定ですが、代表作として特に有名な『唐獅子図屏風』は国宝に指定されていません。何故なのでしょうか?
    その秘密は、所有者にありました。『唐獅子図屏風』は、皇室の私有物となっていてたため、国宝や重要文化財の保護対象ではなかったのです。

  • 本坊「大書院」葛飾北斎『神奈川沖浪裏』(ジュエリーアート展)<br />現在の横浜本牧沖から富士山を眺めた版図です。「浮世絵の定番!」と称されるほど『GREAT WAVE』の名で世界的に有名な作品です。<br />米国雑誌『LIFE』が1999年に企画した「この1千年間に偉大な業績をあげた世界の人物100人」に日本人として唯一選ばれたのが葛飾北斎です。荒れ狂う大波の一瞬を捉え、それと遥か彼方の富士山を対比した構図は、今やインターナショナルなものとなっています。北斎が長年に渡って描いてきた「波」の作品の中でもダイナミックな構図であり、大いなる自然とそれに立ち向かう小さな人間、動と静、遠と近の交錯、そこに描かれた無限に広がる空間は圧巻です。<br />この版図が西洋文化に与えたインパクトは計り知れず、画家ゴッホは弟テオに与えた手紙の中で激賞し、作曲家ドビッシーは交響曲『ラ・メール(海)』を作曲したことなどでも知られています。

    本坊「大書院」葛飾北斎『神奈川沖浪裏』(ジュエリーアート展)
    現在の横浜本牧沖から富士山を眺めた版図です。「浮世絵の定番!」と称されるほど『GREAT WAVE』の名で世界的に有名な作品です。
    米国雑誌『LIFE』が1999年に企画した「この1千年間に偉大な業績をあげた世界の人物100人」に日本人として唯一選ばれたのが葛飾北斎です。荒れ狂う大波の一瞬を捉え、それと遥か彼方の富士山を対比した構図は、今やインターナショナルなものとなっています。北斎が長年に渡って描いてきた「波」の作品の中でもダイナミックな構図であり、大いなる自然とそれに立ち向かう小さな人間、動と静、遠と近の交錯、そこに描かれた無限に広がる空間は圧巻です。
    この版図が西洋文化に与えたインパクトは計り知れず、画家ゴッホは弟テオに与えた手紙の中で激賞し、作曲家ドビッシーは交響曲『ラ・メール(海)』を作曲したことなどでも知られています。

  • 本坊「大書院」(ジュエリーアート展)<br />手塚治虫氏の作品もあります。<br />往年のヒーローが勢揃いです。

    本坊「大書院」(ジュエリーアート展)
    手塚治虫氏の作品もあります。
    往年のヒーローが勢揃いです。

  • 本坊「大書院」(ジュエリーアート展)<br />息を抜きすぎて、大書院にある十六羅漢像を鑑賞するのを失念してしまいました。<br />ここには、開山堂の楼門「宝陀閣」に収められていた陶製の十六羅漢像が展示されています。<br />清水五条の陶器職人たちが自分の最も得意とする技術で作り上げ、宗祖700年遠忌を迎えるに当たって寄進されたものだそうです。明治44年~大正元年にかけて16名の陶工たちが1体ずつ焼いた清水焼ですが、陶器とは思えないほど眼力があり、どの羅漢も表情豊かで一体一体の個性が際立っているそうです。

    本坊「大書院」(ジュエリーアート展)
    息を抜きすぎて、大書院にある十六羅漢像を鑑賞するのを失念してしまいました。
    ここには、開山堂の楼門「宝陀閣」に収められていた陶製の十六羅漢像が展示されています。
    清水五条の陶器職人たちが自分の最も得意とする技術で作り上げ、宗祖700年遠忌を迎えるに当たって寄進されたものだそうです。明治44年~大正元年にかけて16名の陶工たちが1体ずつ焼いた清水焼ですが、陶器とは思えないほど眼力があり、どの羅漢も表情豊かで一体一体の個性が際立っているそうです。

  • 本坊 渡り廊下<br />軒丸瓦には、「建仁」と記されています。<br />建仁寺には3つの庭や多くの文化財があるため、各場所に人が分散され、それほど混み合うこともなくゆっくり拝観することができます。

    本坊 渡り廊下
    軒丸瓦には、「建仁」と記されています。
    建仁寺には3つの庭や多くの文化財があるため、各場所に人が分散され、それほど混み合うこともなくゆっくり拝観することができます。

  • 本坊<br />「潮音庭」の西側にある石庭です。<br />ここは紅葉が進んでおり、苔と紅葉のコントラストが絶妙です。<br />

    本坊
    「潮音庭」の西側にある石庭です。
    ここは紅葉が進んでおり、苔と紅葉のコントラストが絶妙です。

  • 方丈「書院の間」 海北友松筆『花鳥図襖』<br />書院を飾る8面の襖絵、海北友松筆『花鳥図襖』(重文)のレプリカです。 <br />西側の大小の壁貼付絵2面と襖絵2面には2本の松を生やす盛り上がった地面から今まさに飛び立たんとするように体をよじる、躍動美を追求した孔雀を描いています。

    方丈「書院の間」 海北友松筆『花鳥図襖』
    書院を飾る8面の襖絵、海北友松筆『花鳥図襖』(重文)のレプリカです。
    西側の大小の壁貼付絵2面と襖絵2面には2本の松を生やす盛り上がった地面から今まさに飛び立たんとするように体をよじる、躍動美を追求した孔雀を描いています。

  • 方丈「書院の間」 海北友松筆『花鳥図襖』<br />南側の襖絵4面には、春の趣を伝える梅に留まる叭々鳥(ははちょう)のつがいと池に浮遊する3羽の水鳥を連続した構図で描いています。(ズームアップは、叭々鳥)<br />友松の筆遣いが華麗さと豪胆さでもって語りかける、建仁寺方丈障壁画の白眉と言えます。

    方丈「書院の間」 海北友松筆『花鳥図襖』
    南側の襖絵4面には、春の趣を伝える梅に留まる叭々鳥(ははちょう)のつがいと池に浮遊する3羽の水鳥を連続した構図で描いています。(ズームアップは、叭々鳥)
    友松の筆遣いが華麗さと豪胆さでもって語りかける、建仁寺方丈障壁画の白眉と言えます。

  • 坪庭<br />猫の額ほどの坪庭では、可愛らしい小僧さんが祈りを捧げています。

    坪庭
    猫の額ほどの坪庭では、可愛らしい小僧さんが祈りを捧げています。

  • 法堂へは、スリッパに履き替えて、方丈の石庭「大雄苑」の左脇を抜けて渡り廊下を通って行きます。<br />

    法堂へは、スリッパに履き替えて、方丈の石庭「大雄苑」の左脇を抜けて渡り廊下を通って行きます。

  • 法堂(はっとう)<br />住職が大法を演説するために使われる建物です。1765年に上棟された禅宗様の仏殿様式で、別名「拈華堂(ねんげどう)」と呼ばれています。「拈華微笑」という禅語が由来です。釈迦が霊鷲山で説法した際、優曇華の花1本を手折り、それを高くかざして大衆に示したところ、誰にもその意味を解せなかったが、摩訶迦葉(まかかしょう)だけが真意を知って微笑んだという故事です。<br />では、何故笑ったのでしょうか?実は釈迦の仕草には何の意味もなかったそうですが、迦葉の笑顔に大悟を得た者の姿を感じ取り、彼に正法眼蔵を伝えると決めたのです。この故事が意味するのは、仏法は、文字や言葉によらず、心から心に伝わるものだという「以心伝心」ということです。

    法堂(はっとう)
    住職が大法を演説するために使われる建物です。1765年に上棟された禅宗様の仏殿様式で、別名「拈華堂(ねんげどう)」と呼ばれています。「拈華微笑」という禅語が由来です。釈迦が霊鷲山で説法した際、優曇華の花1本を手折り、それを高くかざして大衆に示したところ、誰にもその意味を解せなかったが、摩訶迦葉(まかかしょう)だけが真意を知って微笑んだという故事です。
    では、何故笑ったのでしょうか?実は釈迦の仕草には何の意味もなかったそうですが、迦葉の笑顔に大悟を得た者の姿を感じ取り、彼に正法眼蔵を伝えると決めたのです。この故事が意味するのは、仏法は、文字や言葉によらず、心から心に伝わるものだという「以心伝心」ということです。

  • 法堂<br />臨済宗七本山の中では建仁寺だけが天井に「雲龍図」が描かれていなかったのですが、2002年に建仁寺創建800年を記念して鎌倉在住の日本画家 小泉淳作氏により法堂の天井に『大双龍図』が開眼しました。縦11.4m、横15.7m、畳108枚分に相当する大絵画です。通常の雲龍図は大宇宙を表す円相の中に龍が1頭だけ描かれることが多いのですが、ここは「阿吽」の双龍が描かれています。しかも2頭の龍が争う様子ではなく、共に協力し合いながら仏法を護る姿です。 天井の高さは12mあるのですが、それでも大迫力です。<br />この大きさのため、制作に当たっては廃校になった北海道の小学校の体育館が使用されたそうです。構想から1年10ヶ月かけて完成された大作です。立体感があるため、じっと見つめていると浮かび上がってくるような気がします。これを見るだけでもこのお寺に来た価値があると思います。<br />麻神(まし)という丈夫な和紙に、中国明代で最上級の墨房といわれる「程君房(ていくんぼう)」の墨を使用して描かれた水墨画で、迫力と美しさを兼備しています。一頭の龍は口を閉じ、もう一頭は口を開け、「阿吽」の形相を表わし、龍は水を司どることから建物を火災から守るというご利益がある縁起物です。

    法堂
    臨済宗七本山の中では建仁寺だけが天井に「雲龍図」が描かれていなかったのですが、2002年に建仁寺創建800年を記念して鎌倉在住の日本画家 小泉淳作氏により法堂の天井に『大双龍図』が開眼しました。縦11.4m、横15.7m、畳108枚分に相当する大絵画です。通常の雲龍図は大宇宙を表す円相の中に龍が1頭だけ描かれることが多いのですが、ここは「阿吽」の双龍が描かれています。しかも2頭の龍が争う様子ではなく、共に協力し合いながら仏法を護る姿です。 天井の高さは12mあるのですが、それでも大迫力です。
    この大きさのため、制作に当たっては廃校になった北海道の小学校の体育館が使用されたそうです。構想から1年10ヶ月かけて完成された大作です。立体感があるため、じっと見つめていると浮かび上がってくるような気がします。これを見るだけでもこのお寺に来た価値があると思います。
    麻神(まし)という丈夫な和紙に、中国明代で最上級の墨房といわれる「程君房(ていくんぼう)」の墨を使用して描かれた水墨画で、迫力と美しさを兼備しています。一頭の龍は口を閉じ、もう一頭は口を開け、「阿吽」の形相を表わし、龍は水を司どることから建物を火災から守るというご利益がある縁起物です。

  • 法堂<br />内部は床瓦敷の5間4間で、外観は2重の屋根を持つ禅宗様仏殿建築(一重裳階付)です。土間には甎瓦(せんが)が敷き詰められ、高い天井の下、正面の仄暗い須弥壇には、本尊 釈迦如来座像と脇侍の迦葉尊者と阿難尊者が佇んでいます。その前には、前卓(まえじょく)と呼ばれる羽目板に華麗な装飾彫刻が施された中国風の机が置かれています。

    法堂
    内部は床瓦敷の5間4間で、外観は2重の屋根を持つ禅宗様仏殿建築(一重裳階付)です。土間には甎瓦(せんが)が敷き詰められ、高い天井の下、正面の仄暗い須弥壇には、本尊 釈迦如来座像と脇侍の迦葉尊者と阿難尊者が佇んでいます。その前には、前卓(まえじょく)と呼ばれる羽目板に華麗な装飾彫刻が施された中国風の机が置かれています。

  • 法堂<br />寺院の天井画と言えば龍の絵が定番です。龍は天高く空に登り瑞雲を湧き起こして雨を降らせることから、仏教の教え「仏法」の雨をあまねく人々に降らせるようにという意味が込められています。また、水の使いである龍に火災から建物を守ってもらおうという願いもあるそうです。 実は、法堂の南側には、かつては本尊を祀る仏殿が建てられてたそうです。焼失後再建はされず、本尊は法堂に安置されています。<br />ところで、ここの龍には他の寺院と比べて異なる特徴があります。それは爪の本数です。通常、日本の龍の爪の数は3本です。龍の爪は中国から距離が遠くなるにつれて本数が少なくなり、日本では3本で描くのが不文律でした。最高位の龍は爪が5本ありますが、中国の皇帝しか使うことができないものでした。しかし、寺の格式の高さを表現するため、敢えて5本爪の龍を描いたそうです。

    法堂
    寺院の天井画と言えば龍の絵が定番です。龍は天高く空に登り瑞雲を湧き起こして雨を降らせることから、仏教の教え「仏法」の雨をあまねく人々に降らせるようにという意味が込められています。また、水の使いである龍に火災から建物を守ってもらおうという願いもあるそうです。 実は、法堂の南側には、かつては本尊を祀る仏殿が建てられてたそうです。焼失後再建はされず、本尊は法堂に安置されています。
    ところで、ここの龍には他の寺院と比べて異なる特徴があります。それは爪の本数です。通常、日本の龍の爪の数は3本です。龍の爪は中国から距離が遠くなるにつれて本数が少なくなり、日本では3本で描くのが不文律でした。最高位の龍は爪が5本ありますが、中国の皇帝しか使うことができないものでした。しかし、寺の格式の高さを表現するため、敢えて5本爪の龍を描いたそうです。

  • 法堂<br />典型的な禅宗様式と言ってよさそうですが、特に裳階柱と建物本体とを繋ぐ海老虹梁のカーブと火灯窓のシルエットがなんとも優美です。<br />

    法堂
    典型的な禅宗様式と言ってよさそうですが、特に裳階柱と建物本体とを繋ぐ海老虹梁のカーブと火灯窓のシルエットがなんとも優美です。

  • 渡り廊下から眺める唐破風の向唐門と方丈です。

    渡り廊下から眺める唐破風の向唐門と方丈です。

  • 渡り廊下にある火灯窓から眺める大雄苑

    渡り廊下にある火灯窓から眺める大雄苑

  • 方丈と大雄苑

    方丈と大雄苑

  • 西日による陰影が、枯山水の庭を妖艶に演出します。<br />この後は、広い境内を散策しました。<br /><br />この続きは、情緒纏綿 京都東山逍遥④建仁寺(後編)エピローグでお届けいたします。

    西日による陰影が、枯山水の庭を妖艶に演出します。
    この後は、広い境内を散策しました。

    この続きは、情緒纏綿 京都東山逍遥④建仁寺(後編)エピローグでお届けいたします。

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