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待望の紅葉シーズンが到来しました。今年は10月後半の台風21号の直撃や22号の影響で楓の枝が折れたり葉が落ちたりしたところもあったようですが、その後の急激な冷え込みと適度な日照により、全国的に例年より1~2週間程紅葉の見頃が早まっているようです。<br />そんな中、悩ましいのが「何処へ行く?」です。昨年の京都は、紅葉が遅く、また11月22日の大雨で潔く散ったという「紅葉不況の年」でした。その反動もあり、「京都へGO!」まではすんなり決まったのですが、その先を絞り込むのが大変でした。季節が一足飛びに冬に移行し、一気に見頃を迎えたため、できれば人混みを避けたいとの気持ちが働いたためです。難産の末、今年は、「紅葉狩り」としては少しマイナーなスポットを訪ねてみました。

情緒纏綿 京都東山逍遥①圓徳院

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2017/11/21 - 2017/11/21

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montsaintmichel

montsaintmichelさん

待望の紅葉シーズンが到来しました。今年は10月後半の台風21号の直撃や22号の影響で楓の枝が折れたり葉が落ちたりしたところもあったようですが、その後の急激な冷え込みと適度な日照により、全国的に例年より1~2週間程紅葉の見頃が早まっているようです。
そんな中、悩ましいのが「何処へ行く?」です。昨年の京都は、紅葉が遅く、また11月22日の大雨で潔く散ったという「紅葉不況の年」でした。その反動もあり、「京都へGO!」まではすんなり決まったのですが、その先を絞り込むのが大変でした。季節が一足飛びに冬に移行し、一気に見頃を迎えたため、できれば人混みを避けたいとの気持ちが働いたためです。難産の末、今年は、「紅葉狩り」としては少しマイナーなスポットを訪ねてみました。

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
同行者
カップル・夫婦
交通手段
私鉄

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  • 圓徳院は、京都市東山区にある臨済宗建仁寺派鷲峰山高台寺の塔頭のひとつで、高台寺の三江紹益和尚により開山され、本尊に釈迦如来を祀ります。豊臣秀吉の正室 北政所(高台院)ねねが晩年の19年間を暮らしたことで知られる他、一説には終焉の地とも伝わります。<br />秀吉とねねの思い出が詰まった伏見城の化粧御殿及びその前庭を移築し、愛する秀吉の魂を弔うため、ここから毎日高台寺に赴いたそうです。ですから、高台寺と圓徳院を結ぶ道は「ねねの道」と呼ばれています。秀吉のことを片時も忘れなかったねねの愛情の成せる業です。こには、ねねの秀吉への愛の足跡が残されています。<br />化粧御殿は幕末の動乱の折に焼失しましたが、前庭は北庭として今に残されています。元々禅寺の庭ではなかったことから、ここには異質の空気が漂っています。小堀遠州が移築時に整備したと伝わり、表情豊かな数多の石組に松や楓などの樹木を配したダイナミックな枯山水庭園です。元々の伏見城の化粧御殿の前庭は、石組の名手であり醍醐寺三宝院の作庭に関わった遠州の片腕「賢庭」の作とも伝わります。<br />北庭は「旧圓徳院庭園」として国の名勝に指定されている他、方丈にある長谷川等伯筆による襖絵32面の墨画は重文に指定されています。<br />このマップは、次のサイトから借用させていただきました。<br />https://plaza.rakuten.co.jp/laurier/diary/201705110000/<br />圓徳院のHPです。<br />http://www.kodaiji.com/entoku-in/idx.shtml

    圓徳院は、京都市東山区にある臨済宗建仁寺派鷲峰山高台寺の塔頭のひとつで、高台寺の三江紹益和尚により開山され、本尊に釈迦如来を祀ります。豊臣秀吉の正室 北政所(高台院)ねねが晩年の19年間を暮らしたことで知られる他、一説には終焉の地とも伝わります。
    秀吉とねねの思い出が詰まった伏見城の化粧御殿及びその前庭を移築し、愛する秀吉の魂を弔うため、ここから毎日高台寺に赴いたそうです。ですから、高台寺と圓徳院を結ぶ道は「ねねの道」と呼ばれています。秀吉のことを片時も忘れなかったねねの愛情の成せる業です。こには、ねねの秀吉への愛の足跡が残されています。
    化粧御殿は幕末の動乱の折に焼失しましたが、前庭は北庭として今に残されています。元々禅寺の庭ではなかったことから、ここには異質の空気が漂っています。小堀遠州が移築時に整備したと伝わり、表情豊かな数多の石組に松や楓などの樹木を配したダイナミックな枯山水庭園です。元々の伏見城の化粧御殿の前庭は、石組の名手であり醍醐寺三宝院の作庭に関わった遠州の片腕「賢庭」の作とも伝わります。
    北庭は「旧圓徳院庭園」として国の名勝に指定されている他、方丈にある長谷川等伯筆による襖絵32面の墨画は重文に指定されています。
    このマップは、次のサイトから借用させていただきました。
    https://plaza.rakuten.co.jp/laurier/diary/201705110000/
    圓徳院のHPです。
    http://www.kodaiji.com/entoku-in/idx.shtml

  • ねねが77歳で亡くなるまでの19年間の余生を過ごした終焉の地に建つのが圓徳院です。秀吉の没後、ねねは、秀頼と千姫の婚儀を見届けた後、髪を剃って仏門に入り、 朝廷から「高台院」の号を賜りました。それを機に秀吉の菩提寺「高台寺」の建立を発願し、1605(慶長10)年に秀吉との思い出深い伏見城の化粧御殿とその前庭を山内に移築し、新たに客殿(現 方丈)を建立して住居としたことに始まり、ここから高台寺へ日参しました。それ以来、多くの大名やその夫人、禅僧、文化人等がねねを慕って集まり、「超セレブ・サロン」的な一面も備えていました。大名夫人たちは、それぞれに花を持ち寄って植えたとの伝承もあります。<br />このマップは、次のサイトから借用しています。<br />http://www.kodaiji.com/entoku-in/see/index.html

    ねねが77歳で亡くなるまでの19年間の余生を過ごした終焉の地に建つのが圓徳院です。秀吉の没後、ねねは、秀頼と千姫の婚儀を見届けた後、髪を剃って仏門に入り、 朝廷から「高台院」の号を賜りました。それを機に秀吉の菩提寺「高台寺」の建立を発願し、1605(慶長10)年に秀吉との思い出深い伏見城の化粧御殿とその前庭を山内に移築し、新たに客殿(現 方丈)を建立して住居としたことに始まり、ここから高台寺へ日参しました。それ以来、多くの大名やその夫人、禅僧、文化人等がねねを慕って集まり、「超セレブ・サロン」的な一面も備えていました。大名夫人たちは、それぞれに花を持ち寄って植えたとの伝承もあります。
    このマップは、次のサイトから借用しています。
    http://www.kodaiji.com/entoku-in/see/index.html

  • 長屋門<br />正門は武家屋敷様式の長屋門となり、他のお寺とは雰囲気が異なります。<br />長屋門とは、敵が攻めて来た時、直ちに応戦できるように武士の詰め所(長屋)が付属している門です。本来、寺院にはこうした邸宅の入口といった趣の門が使われることはありませんが、ねねの住居だった頃の名残だそうです。<br />右端には、舊跡石標が立っています。

    長屋門
    正門は武家屋敷様式の長屋門となり、他のお寺とは雰囲気が異なります。
    長屋門とは、敵が攻めて来た時、直ちに応戦できるように武士の詰め所(長屋)が付属している門です。本来、寺院にはこうした邸宅の入口といった趣の門が使われることはありませんが、ねねの住居だった頃の名残だそうです。
    右端には、舊跡石標が立っています。

  • 唐門<br />長屋門を潜った先にある、方丈・庭園への入口の役割を担う、唐破風を付けた門です。周囲はウマスギゴケの深い緑に囲まれています。唐破風は、造るのに相当な技術が必要とされるため、往時、設けられる場所は限られていました。このことから、このお寺の格式が窺えます。<br />圓徳院は、初秋に黄色い花を咲かせる「岩蕗(いわぶき)の寺」としても知られています。イワブキはユキノシタやツワブキ(石蕗)の別名です。葉が「フキ」に似ており、渓流で水飛沫のかかるような岩場にへばりつくように生えている様子から、イワブキと呼ばれています。このようにイワブキと紅葉のコラボが見られるのは、珍しいことだそうです。 因みに、例年11月初旬がイワブキの見頃だそうです。<br />ねねは、可愛らしい黄色の花を咲かせるイワブキなどの花を愛でて余生を愉しんだと伝えられています。

    唐門
    長屋門を潜った先にある、方丈・庭園への入口の役割を担う、唐破風を付けた門です。周囲はウマスギゴケの深い緑に囲まれています。唐破風は、造るのに相当な技術が必要とされるため、往時、設けられる場所は限られていました。このことから、このお寺の格式が窺えます。
    圓徳院は、初秋に黄色い花を咲かせる「岩蕗(いわぶき)の寺」としても知られています。イワブキはユキノシタやツワブキ(石蕗)の別名です。葉が「フキ」に似ており、渓流で水飛沫のかかるような岩場にへばりつくように生えている様子から、イワブキと呼ばれています。このようにイワブキと紅葉のコラボが見られるのは、珍しいことだそうです。 因みに、例年11月初旬がイワブキの見頃だそうです。
    ねねは、可愛らしい黄色の花を咲かせるイワブキなどの花を愛でて余生を愉しんだと伝えられています。

  • 庫裏とその前庭<br />東山に移り住んだねねを支えたのが、兄の木下家定とその次男 利房(備中国足守藩主)でした。ねねの没後9年目、圓徳院が利房の手により高台寺の三江和尚を開基に木下家の菩提寺として開山され、高台寺の塔頭となりました。その後、利房の死後、1624(寛永元)年に寺格を持ちました。<br />圓徳院には京都らしい雅さと女性所縁の寺らしい艶やかさが同居し、その雰囲気は高台寺とどこか似るものがあります。高台寺の塔頭故のことでもありますが、 桃山時代の様式が共通していることもあります。今でもねねが眺めた景色と変わらぬ美しい庭園を留め、年間を通じて拝観者が絶えません。

    庫裏とその前庭
    東山に移り住んだねねを支えたのが、兄の木下家定とその次男 利房(備中国足守藩主)でした。ねねの没後9年目、圓徳院が利房の手により高台寺の三江和尚を開基に木下家の菩提寺として開山され、高台寺の塔頭となりました。その後、利房の死後、1624(寛永元)年に寺格を持ちました。
    圓徳院には京都らしい雅さと女性所縁の寺らしい艶やかさが同居し、その雰囲気は高台寺とどこか似るものがあります。高台寺の塔頭故のことでもありますが、 桃山時代の様式が共通していることもあります。今でもねねが眺めた景色と変わらぬ美しい庭園を留め、年間を通じて拝観者が絶えません。

  • 唐門<br />意図的なのか、扁額の「圓徳」の文字はとても女性的です。<br />木下利房は、歴史マニアでなければ聞いたこともない、マイナーな武将です。利房は、関ヶ原の戦いでは西軍に属し、敗北の責任を取らされて処刑が決まっていたそうです。しかしラッキーなことに、叔母が「ねね」でした。秀吉の正室だったねねは東軍の大将 徳川家康に対しても絶大な影響力を及ぼし、ねねが家康に懇願することで晴れて無罪放免になったのです。こうした、背景があり、利房はねねにただならね恩義を感じ、こうした寺院を建てたのです。「情けは人のためならず」を実証するようなエピソードです。因みに、このお寺の名は、利房の戒名の院号「圓徳院」を寺号としています。

    唐門
    意図的なのか、扁額の「圓徳」の文字はとても女性的です。
    木下利房は、歴史マニアでなければ聞いたこともない、マイナーな武将です。利房は、関ヶ原の戦いでは西軍に属し、敗北の責任を取らされて処刑が決まっていたそうです。しかしラッキーなことに、叔母が「ねね」でした。秀吉の正室だったねねは東軍の大将 徳川家康に対しても絶大な影響力を及ぼし、ねねが家康に懇願することで晴れて無罪放免になったのです。こうした、背景があり、利房はねねにただならね恩義を感じ、こうした寺院を建てたのです。「情けは人のためならず」を実証するようなエピソードです。 因みに、このお寺の名は、利房の戒名の院号「圓徳院」を寺号としています。

  • 秀吉公好みの手水鉢<br />唐門を潜ったすぐ右手にあります。<br />豊臣秀吉が選んで、今川義元の親戚に当たる西尾家に世話になったお礼として贈った手水鉢です。その後、西尾家から当院に寄贈され、現在は圓徳院の玄関先の庭で水を湛えて参観者を迎え入れています。<br />秀吉には審美眼があったのか、率直に言えば現在の「洋式トイレ」を彷彿とさせる手水鉢です。「先見の明」と言うべきか、流石です!

    秀吉公好みの手水鉢
    唐門を潜ったすぐ右手にあります。
    豊臣秀吉が選んで、今川義元の親戚に当たる西尾家に世話になったお礼として贈った手水鉢です。その後、西尾家から当院に寄贈され、現在は圓徳院の玄関先の庭で水を湛えて参観者を迎え入れています。
    秀吉には審美眼があったのか、率直に言えば現在の「洋式トイレ」を彷彿とさせる手水鉢です。「先見の明」と言うべきか、流石です!

  • 方丈<br />江戸時代初期の1605年に建てられた方丈は、1994年、後藤佐雅夫氏の指導の下、山本長宏氏により解体修理されました。<br />写真撮影を失念したため、wikipediaから借用いたしました。<br />https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%93%E5%BE%B3%E9%99%A2

    方丈
    江戸時代初期の1605年に建てられた方丈は、1994年、後藤佐雅夫氏の指導の下、山本長宏氏により解体修理されました。
    写真撮影を失念したため、wikipediaから借用いたしました。
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%93%E5%BE%B3%E9%99%A2

  • 南庭<br />平成の解体修理の際に作庭された枯山水式庭園です。<br />現代の作庭家 森蘊(おさむ)氏の指導、北山安夫氏の監修により、奥村宗悦氏が新たに造られたものです。<br />

    南庭
    平成の解体修理の際に作庭された枯山水式庭園です。
    現代の作庭家 森蘊(おさむ)氏の指導、北山安夫氏の監修により、奥村宗悦氏が新たに造られたものです。

  • 南庭<br />方丈に南面する庭に相応しく、コテコテした意匠は極力控え、方丈から眺めるための簡素な造りです。白砂の線引きが映える枯山水の向うには木々の緑とウマスギゴケの深い緑が重畳し、深山から流れ出ずる河川が大海原へと注ぐ様を彷彿とさせ、ゆったりとした広がりを湛えています。<br />「秀吉好み」のダイナミックな北庭に対し、ここは「ねね好み」を意識した造りと言えます。

    南庭
    方丈に南面する庭に相応しく、コテコテした意匠は極力控え、方丈から眺めるための簡素な造りです。白砂の線引きが映える枯山水の向うには木々の緑とウマスギゴケの深い緑が重畳し、深山から流れ出ずる河川が大海原へと注ぐ様を彷彿とさせ、ゆったりとした広がりを湛えています。
    「秀吉好み」のダイナミックな北庭に対し、ここは「ねね好み」を意識した造りと言えます。

  • 南庭<br />茶道の世界では、庭に花を植えるのではなく、部屋に一輪だけ活けるのが良いとされています。しかし、この庭園は花が大好きだったねねを慮り、とても花の多い庭にしています。そして秋には、このように鮮やかな紅葉がまた一味違った風情を漂わせます。

    南庭
    茶道の世界では、庭に花を植えるのではなく、部屋に一輪だけ活けるのが良いとされています。しかし、この庭園は花が大好きだったねねを慮り、とても花の多い庭にしています。そして秋には、このように鮮やかな紅葉がまた一味違った風情を漂わせます。

  • 室中の間 赤松燎画伯筆『白龍の図』(一部)<br />室内の撮影の可否がネット情報ではよく判らなかったため、案内の方に確認すると、本尊が祀られている「室中の間」だけは撮影禁止だそうです。この白龍の頭の背後に本尊 釈迦如来像が安置されています。勿論、襖は開けられています。<br />平成の解体修理の際に描かれた『白龍の図』は、3部屋、襖16枚に亘る大作です。岡山県出身の日本画家 赤松燎画伯の遺作であり、制作中に逝去されています。襖全体に荒れ狂う白波、中央に白龍を描いています。戦国という乱世の荒波から天下統一を果たした秀吉を白龍で表し、襖の両端上部にある虹は極楽浄土を象徴しています。つまり、秀吉によって平和な世が訪れることを表しています。また、ねねの終焉の地であることを踏まえると、虹は慈悲深いねねを表しているようにも思えます。本尊の釈迦如来は、この白龍の奥に安置され、襖越しに手を合わせることができます。<br />因みに赤松燎画伯は、『雪月花図』を描いた志村正画伯と『松竹梅図』を描いた木下育應画伯の師匠に当たります。<br />この画像は次のサイトから借用させていただきました。<br />http://www.kodaiji.com/entoku-in/see/hojo.html

    室中の間 赤松燎画伯筆『白龍の図』(一部)
    室内の撮影の可否がネット情報ではよく判らなかったため、案内の方に確認すると、本尊が祀られている「室中の間」だけは撮影禁止だそうです。この白龍の頭の背後に本尊 釈迦如来像が安置されています。勿論、襖は開けられています。
    平成の解体修理の際に描かれた『白龍の図』は、3部屋、襖16枚に亘る大作です。岡山県出身の日本画家 赤松燎画伯の遺作であり、制作中に逝去されています。襖全体に荒れ狂う白波、中央に白龍を描いています。戦国という乱世の荒波から天下統一を果たした秀吉を白龍で表し、襖の両端上部にある虹は極楽浄土を象徴しています。つまり、秀吉によって平和な世が訪れることを表しています。また、ねねの終焉の地であることを踏まえると、虹は慈悲深いねねを表しているようにも思えます。本尊の釈迦如来は、この白龍の奥に安置され、襖越しに手を合わせることができます。
    因みに赤松燎画伯は、『雪月花図』を描いた志村正画伯と『松竹梅図』を描いた木下育應画伯の師匠に当たります。
    この画像は次のサイトから借用させていただきました。
    http://www.kodaiji.com/entoku-in/see/hojo.html

  • 方丈<br />本尊と襖絵『白龍の図』が写らないこのアングルなら撮影OKです。

    方丈
    本尊と襖絵『白龍の図』が写らないこのアングルなら撮影OKです。

  • 方丈<br />圓徳院の歴史が複雑なのは、元々は2つの塔頭だったからです。<br />重森三玲・完途共著『日本庭園史大系 9 桃山の庭二』によると、圓徳院創建前、すでにこの地には曹洞宗 永興寺が存在していたとあります。1253(建長5)年に曹洞宗の宗祖 道元は俗弟子の覚念の高辻西洞院の屋敷で亡くなりました。東山赤辻で荼毘に付され、やがて遺骨は懐奘が永平寺に持ち帰っています。詮慧は、道元荼毘の跡地に永興庵を建立し、道元の等身大木像を安置したとしています。その庵号は、越前の永平寺と深草の興聖寺の2寺から永興庵としたとされています。<br />永興庵のあった場所が、化粧御殿と前庭を移築してねねが移り住んだ場所であり、ねねの没後に永興院という塔頭となった処です。尚、碓井小三郎監修『京都坊目誌』によると、高台寺を建てる際、永興寺を筑紫に移し、高台院の居館として、伏見城中の化粧殿を移築したとしています。<br />一方、ねねの兄 木下家定は警護のため、ねねの住居に隣接して居館を建て、後に家定の次男 利房が木下家の菩提寺としてこの居館を圓徳院に改めました。その後、永興院は圓徳院の所管となって現在に至っています。

    方丈
    圓徳院の歴史が複雑なのは、元々は2つの塔頭だったからです。
    重森三玲・完途共著『日本庭園史大系 9 桃山の庭二』によると、圓徳院創建前、すでにこの地には曹洞宗 永興寺が存在していたとあります。1253(建長5)年に曹洞宗の宗祖 道元は俗弟子の覚念の高辻西洞院の屋敷で亡くなりました。東山赤辻で荼毘に付され、やがて遺骨は懐奘が永平寺に持ち帰っています。詮慧は、道元荼毘の跡地に永興庵を建立し、道元の等身大木像を安置したとしています。その庵号は、越前の永平寺と深草の興聖寺の2寺から永興庵としたとされています。
    永興庵のあった場所が、化粧御殿と前庭を移築してねねが移り住んだ場所であり、ねねの没後に永興院という塔頭となった処です。尚、碓井小三郎監修『京都坊目誌』によると、高台寺を建てる際、永興寺を筑紫に移し、高台院の居館として、伏見城中の化粧殿を移築したとしています。
    一方、ねねの兄 木下家定は警護のため、ねねの住居に隣接して居館を建て、後に家定の次男 利房が木下家の菩提寺としてこの居館を圓徳院に改めました。その後、永興院は圓徳院の所管となって現在に至っています。

  • 方丈 志村正画伯筆『雪月花』<br />「上間の間」にある美しい金碧障壁画です。<br />大正時代から現代にかけて活躍した画家たちによって描かれた数々の襖絵はどれも華やかで、飽きることがありません。<br />日本文化のアイデンティティを凝縮したような美しい言葉「雪月花」の由来を調べてみました。白居易の詩 『寄殷協律』 の「琴詩酒友皆抛我 雪月花時最憶君」にあるようです。「雪月花の時、最も君を憶う」(琴詩酒の友はみな去った。いま雪月花に親しむとき、君を懐かしく思い出す。因みに、この歌の花は桜ではなく梅です。<br />また、『万葉集』では、大伴家持が「雪の上に照れる月夜に梅の花折りて送らむはしき子もがも 」と詠んでいます。これは、日本で初めて雪月花(雪月梅)を題材としたものとされています。<br />もうひとつ、仏教用語からの由来もあります。<br />釈迦が悟りを開かれた12月8日の鶏鳴の刻(午前2時頃)、断食修行明けの僧が暖をとるため、「雪月花」仕立ての「うずみ豆腐粥」(簡単な点心)を食したことに由来する仏教用語が語源だそうです。<br />因みに「雪月花」仕立てとは、雪を豆腐、月を丸く抜いた大根、花を人参で表現しています。

    方丈 志村正画伯筆『雪月花』
    「上間の間」にある美しい金碧障壁画です。
    大正時代から現代にかけて活躍した画家たちによって描かれた数々の襖絵はどれも華やかで、飽きることがありません。
    日本文化のアイデンティティを凝縮したような美しい言葉「雪月花」の由来を調べてみました。白居易の詩 『寄殷協律』 の「琴詩酒友皆抛我 雪月花時最憶君」にあるようです。「雪月花の時、最も君を憶う」(琴詩酒の友はみな去った。いま雪月花に親しむとき、君を懐かしく思い出す。因みに、この歌の花は桜ではなく梅です。
    また、『万葉集』では、大伴家持が「雪の上に照れる月夜に梅の花折りて送らむはしき子もがも 」と詠んでいます。これは、日本で初めて雪月花(雪月梅)を題材としたものとされています。
    もうひとつ、仏教用語からの由来もあります。
    釈迦が悟りを開かれた12月8日の鶏鳴の刻(午前2時頃)、断食修行明けの僧が暖をとるため、「雪月花」仕立ての「うずみ豆腐粥」(簡単な点心)を食したことに由来する仏教用語が語源だそうです。
    因みに「雪月花」仕立てとは、雪を豆腐、月を丸く抜いた大根、花を人参で表現しています。

  • 方丈 長谷川等伯筆『山水図襖絵(冬の絵)』<br />長谷川等伯が安土桃山時代に描いた、重文『山水図襖絵(冬の絵)』のレプリカです。等伯の傑作であり、彼の人生のターニングポイントとなった作品です。等伯の障壁画は、秀吉の家紋「五七の桐紋」を一面にあしらった唐紙に描かれており、じっくり観ないと何が描かれているのかよく判りません。眺めているうちに、繊細な線で描かれた松などの植物が浮かび上がってきます。<br />この絵には、千利休の紹介により大徳寺塔頭三玄院に襖絵の制作を願いながら中々許可されなかった等伯が、しびれを切らして「禅寺の襖に絵など不要!」と一蹴した住職 春屋宗園の留守中に無断で上がり込んで唐紙に描いたという逸話が残されています。本来は描いてはならない金箔に浮かび上がらせた白い桐紋の上に、切腹覚悟で等伯が一気に描き上げたと伝わる気迫の障壁画です。無名時代の等伯の情熱の一端が窺える作品です。住職は怒り心頭に達したものの、等伯の見事な力量に感心し、襖として用いたそうです。廃仏毀釈を機に、圓徳院が全36面のうち32面を三玄院から買い取ったものです。<br />等伯は、白い桐紋だけが描かれた襖を見て「これを雪に見立てれば良い」と考え、襖の柄を活かして絵を描いたと伝わります。咄嗟にそうした発想ができるのは、等伯の美的センスを窺わせます。また、この絵は京都の風景ではなく、故郷の七尾の風景だとされています。出世のラストチャンスと捉え、得意なモチーフを描いたことが窺えます。

    方丈 長谷川等伯筆『山水図襖絵(冬の絵)』
    長谷川等伯が安土桃山時代に描いた、重文『山水図襖絵(冬の絵)』のレプリカです。等伯の傑作であり、彼の人生のターニングポイントとなった作品です。等伯の障壁画は、秀吉の家紋「五七の桐紋」を一面にあしらった唐紙に描かれており、じっくり観ないと何が描かれているのかよく判りません。眺めているうちに、繊細な線で描かれた松などの植物が浮かび上がってきます。
    この絵には、千利休の紹介により大徳寺塔頭三玄院に襖絵の制作を願いながら中々許可されなかった等伯が、しびれを切らして「禅寺の襖に絵など不要!」と一蹴した住職 春屋宗園の留守中に無断で上がり込んで唐紙に描いたという逸話が残されています。本来は描いてはならない金箔に浮かび上がらせた白い桐紋の上に、切腹覚悟で等伯が一気に描き上げたと伝わる気迫の障壁画です。無名時代の等伯の情熱の一端が窺える作品です。住職は怒り心頭に達したものの、等伯の見事な力量に感心し、襖として用いたそうです。廃仏毀釈を機に、圓徳院が全36面のうち32面を三玄院から買い取ったものです。
    等伯は、白い桐紋だけが描かれた襖を見て「これを雪に見立てれば良い」と考え、襖の柄を活かして絵を描いたと伝わります。咄嗟にそうした発想ができるのは、等伯の美的センスを窺わせます。また、この絵は京都の風景ではなく、故郷の七尾の風景だとされています。出世のラストチャンスと捉え、得意なモチーフを描いたことが窺えます。

  • 方丈 木下育應画伯筆『松竹梅』<br />下間の間の金碧障壁画です。<br />桃山文化が薫る圓徳院で、ねねの人柄に思いを馳せてみましょう。ねねと秀吉は恋愛結婚でした。実は、桃山時代、恋愛結婚は珍しくなく、自分の人生に関して桃山時代の女性は「自己責任」が徹底していたそうです。自からの意志で結婚する故、その先は自己責任という潔さが桃山女性の特徴であり、ねねも桃山の強い女性を代表するひとりでした。ねねは、美しく聡明で、とてもモテたそうです。 数多の男性が求愛するも、安易にOKしませんでした。そんなねねが14歳の時に伴侶として選んだのが、こともあろうに幼馴染の秀吉でした。秀吉は百姓出身で、信長の足軽でした。武家の娘のねねとは身分の違いがあり過ぎ、ねねの両親は結婚に大反対でした。恋愛結婚の時代とは言え、娘の幸せを願う親にしてみれば分不相応な相手でした。また、秀吉と言えば、信長から「さる」という愛称で呼ばれていたほどですから、その容姿を想像するに難くありません。

    方丈 木下育應画伯筆『松竹梅』
    下間の間の金碧障壁画です。
    桃山文化が薫る圓徳院で、ねねの人柄に思いを馳せてみましょう。 ねねと秀吉は恋愛結婚でした。実は、桃山時代、恋愛結婚は珍しくなく、自分の人生に関して桃山時代の女性は「自己責任」が徹底していたそうです。自からの意志で結婚する故、その先は自己責任という潔さが桃山女性の特徴であり、ねねも桃山の強い女性を代表するひとりでした。 ねねは、美しく聡明で、とてもモテたそうです。 数多の男性が求愛するも、安易にOKしませんでした。そんなねねが14歳の時に伴侶として選んだのが、こともあろうに幼馴染の秀吉でした。秀吉は百姓出身で、信長の足軽でした。武家の娘のねねとは身分の違いがあり過ぎ、ねねの両親は結婚に大反対でした。恋愛結婚の時代とは言え、娘の幸せを願う親にしてみれば分不相応な相手でした。また、秀吉と言えば、信長から「さる」という愛称で呼ばれていたほどですから、その容姿を想像するに難くありません。

  • 方丈裏の坪庭と蹲<br />ねねを代表する桃山女性は、明確な自己を持っていました。その精神は江戸時代にも受け継がれたのですが、現代になって女性の強さの傾向が一変しました。かつて日本人には、特別な強さがあり、それは相手に対する強さではなく、内に秘めた強さでした。最近は相手に対する自己主張だけが目立ちます。しかし、相手を責めるだけでは自らは強くなりません。桃山の女性は、自己を通しながら、一方では自己主張しない強さも持ち合わせていました。 相手を責める前に、「自分の問題を振り返り」、「相手に責任転嫁しない」、それが自己責任の原点です。言うは易し、行なうのは難しですが、バランスよく自己を持ち、もっと女性が輝く時代にできたらいいですね!<br />太平洋戦争の敗戦色が次第に濃くなった1943年、駐日フランス大使であり詩人だったポール・クローデルは、パリの夜会で、「日本はどうしても滅びて欲しくない民族だ。あれほど古くからの歴史があり、そのまま今に伝えている国はない。日本には急激に発展するだけの資格がある」、そして最後に「彼らは貧しい、しかし、高貴である」とスピーチしました。翻って、もしクローデルが今の日本人を見たら何と言うでしょうか?日本人は貧しいと言われることはなくなりましたが、気高いと言われることもなくなりました。戦後70年、日本人は多くのものを得ましたが、失ったものも多かった。かつて品格が魅力であった日本人。 今もそう言われるようであって欲しいですね!品格を失ってはならないし、それを持ち続けるという国民の努力、意思が問われていると思います。ねねに少しでも近づけるよう、自分をもっと磨かねば…。

    方丈裏の坪庭と蹲
    ねねを代表する桃山女性は、明確な自己を持っていました。その精神は江戸時代にも受け継がれたのですが、現代になって女性の強さの傾向が一変しました。かつて日本人には、特別な強さがあり、それは相手に対する強さではなく、内に秘めた強さでした。最近は相手に対する自己主張だけが目立ちます。しかし、相手を責めるだけでは自らは強くなりません。桃山の女性は、自己を通しながら、一方では自己主張しない強さも持ち合わせていました。 相手を責める前に、「自分の問題を振り返り」、「相手に責任転嫁しない」、それが自己責任の原点です。言うは易し、行なうのは難しですが、バランスよく自己を持ち、もっと女性が輝く時代にできたらいいですね!
    太平洋戦争の敗戦色が次第に濃くなった1943年、駐日フランス大使であり詩人だったポール・クローデルは、パリの夜会で、「日本はどうしても滅びて欲しくない民族だ。あれほど古くからの歴史があり、そのまま今に伝えている国はない。日本には急激に発展するだけの資格がある」、そして最後に「彼らは貧しい、しかし、高貴である」とスピーチしました。翻って、もしクローデルが今の日本人を見たら何と言うでしょうか?日本人は貧しいと言われることはなくなりましたが、気高いと言われることもなくなりました。戦後70年、日本人は多くのものを得ましたが、失ったものも多かった。かつて品格が魅力であった日本人。 今もそう言われるようであって欲しいですね!品格を失ってはならないし、それを持ち続けるという国民の努力、意思が問われていると思います。 ねねに少しでも近づけるよう、自分をもっと磨かねば…。

  • 方丈の廊下<br />引く手あまただったねねが、何故、貧乏で不細工な秀吉を選んだのでしょうか?<br />それは、秀吉の心の温かさと優しさに惹かれたからだと言われています。ルックスや身分を凌駕する、内面の魅力に心を奪われたのです。これは、秀吉が「人たらし」と言われたことからも窺えます。また、後に「天下とり」になる資質を見抜いていたのかもしれません。<br />秀吉の類稀な優しさを物語る手紙が発見されています。小田原での激しい戦いの最中、戦地からねねに宛てた手紙は、秀吉の深い愛情に満ちています。出陣前に体調が悪かったねねを気遣い、「この戦争よりも何よりもねねの体調が一番気になっている。早く帰るから一日でも早くよくなるよう、健康には留意のこと」と綴っています。 ねねは、そんな優しさに惚れ込んだのですね!ただし秀吉の場合は、そうした手紙があちらこちらから出てきたようですが…。<br />両親の反対を押し切って結ばれた2人ですが、あれよあれよという間に出世し天下をとりました。これほど出世した人物はいないと言われますが、それを支えたのがねねです。富と栄誉を掴んだ2人は、今で言うセレブ・カップルを彷彿とさせます。 往時、天皇の子どもたちは皆、秀吉とねねの養子になるのが夢だったと言われたほどです。

    方丈の廊下
    引く手あまただったねねが、何故、貧乏で不細工な秀吉を選んだのでしょうか?
    それは、秀吉の心の温かさと優しさに惹かれたからだと言われています。ルックスや身分を凌駕する、内面の魅力に心を奪われたのです。これは、秀吉が「人たらし」と言われたことからも窺えます。また、後に「天下とり」になる資質を見抜いていたのかもしれません。
    秀吉の類稀な優しさを物語る手紙が発見されています。小田原での激しい戦いの最中、戦地からねねに宛てた手紙は、秀吉の深い愛情に満ちています。出陣前に体調が悪かったねねを気遣い、「この戦争よりも何よりもねねの体調が一番気になっている。早く帰るから一日でも早くよくなるよう、健康には留意のこと」と綴っています。 ねねは、そんな優しさに惚れ込んだのですね!ただし秀吉の場合は、そうした手紙があちらこちらから出てきたようですが…。
    両親の反対を押し切って結ばれた2人ですが、あれよあれよという間に出世し天下をとりました。これほど出世した人物はいないと言われますが、それを支えたのがねねです。富と栄誉を掴んだ2人は、今で言うセレブ・カップルを彷彿とさせます。 往時、天皇の子どもたちは皆、秀吉とねねの養子になるのが夢だったと言われたほどです。

  • 渡り廊下<br />ねねは、最大の権力者であり、また最大の母でした。従一位を叙任し、女性としては最高の地位を得ますが、その権力の座にあぐらをかくことなく、生涯を通して「母の心」で人々と繋がっていました。自身の子は授からなかったのですが、心は母親の如く慈愛に満ちていました。 <br />「母の心」とは、自己を犠牲にして黙って愛を注ぐこと、つまり慈悲の心です。ねねは、伊達政宗の正室 愛姫を危険を承知で匿いました。ねねにはこうした自己犠牲の精神があり、またその考え方は秀吉にも共通します。秀吉は、仲間が困っていると一生懸命に解決を試みたそうです。自分のことより、まず他人を優先しました。家柄や身分による差別が厳しい時代にあって、大名の心も鷲掴みした秀吉の魔力はそこにあります。見返りを求めないということ以上に、黙って愛し、黙って尽くすという「忍ぶ心」は、ねねの教えであり、圓徳院の仏教的な教えでもあります。 これから察すれば、ねねは秀吉の「自己犠牲、慈悲の心」に最も惹かれたのかもしれません。<br />年間100万人もの人が訪れる圓徳院は、秋の頃には境内の楓が美しく色付きます。ねね所縁の庭園を眺めながら、心静かに時を過ごしてみませんか?

    渡り廊下
    ねねは、最大の権力者であり、また最大の母でした。従一位を叙任し、女性としては最高の地位を得ますが、その権力の座にあぐらをかくことなく、生涯を通して「母の心」で人々と繋がっていました。自身の子は授からなかったのですが、心は母親の如く慈愛に満ちていました。
    「母の心」とは、自己を犠牲にして黙って愛を注ぐこと、つまり慈悲の心です。ねねは、伊達政宗の正室 愛姫を危険を承知で匿いました。ねねにはこうした自己犠牲の精神があり、またその考え方は秀吉にも共通します。秀吉は、仲間が困っていると一生懸命に解決を試みたそうです。自分のことより、まず他人を優先しました。家柄や身分による差別が厳しい時代にあって、大名の心も鷲掴みした秀吉の魔力はそこにあります。 見返りを求めないということ以上に、黙って愛し、黙って尽くすという「忍ぶ心」は、ねねの教えであり、圓徳院の仏教的な教えでもあります。 これから察すれば、ねねは秀吉の「自己犠牲、慈悲の心」に最も惹かれたのかもしれません。
    年間100万人もの人が訪れる圓徳院は、秋の頃には境内の楓が美しく色付きます。ねね所縁の庭園を眺めながら、心静かに時を過ごしてみませんか?

  • 渡り廊下<br />方丈と北書院を繋ぐ渡り廊下です。ねねの道から人気の石塀小路に通じる、小洒落れた「ねねの小径」の上を通って移動します。「ねねの小径」は圓徳院の境内を横切っているのですが、無料で通れます。最初のマップにある、ピンク色の小径です。<br />こうして見ると「 霰零し の延段」が見事です。<br />右手にある建屋は、「政所窯」になります。

    渡り廊下
    方丈と北書院を繋ぐ渡り廊下です。ねねの道から人気の石塀小路に通じる、小洒落れた「ねねの小径」の上を通って移動します。「ねねの小径」は圓徳院の境内を横切っているのですが、無料で通れます。最初のマップにある、ピンク色の小径です。
    こうして見ると「 霰零し の延段」が見事です。
    右手にある建屋は、「政所窯」になります。

  • 無盡蔵<br />渡り廊下の突き当りには「無盡蔵」と書かれた土蔵があり、重厚な扉の奥が展示室になっています。<br />「無盡蔵」とは、尽きることのない蔵(倉庫)という意味で、いくら取ってもなくならないことの比喩です。由来は、中国北宋の詩人蘇軾(蘇東坡)が「前赤壁賦」の中で「長江(揚子江)の上を流れる清風と山間の明月とは、耳で聞き目で見て自分のものとし、いくら詩のモチーフとして使ってもなくなることはない無盡蔵のものだから、遠慮はいらない」と詠ったことから。

    無盡蔵
    渡り廊下の突き当りには「無盡蔵」と書かれた土蔵があり、重厚な扉の奥が展示室になっています。
    「無盡蔵」とは、尽きることのない蔵(倉庫)という意味で、いくら取ってもなくならないことの比喩です。由来は、中国北宋の詩人蘇軾(蘇東坡)が「前赤壁賦」の中で「長江(揚子江)の上を流れる清風と山間の明月とは、耳で聞き目で見て自分のものとし、いくら詩のモチーフとして使ってもなくなることはない無盡蔵のものだから、遠慮はいらない」と詠ったことから。

  • 無盡蔵 三面大黒天像<br />ガラスケースの中には、本尊のレプリカと思われる三面大黒天像があります。<br />かつては秀吉の「念持仏」、「守り本尊」とされ、福徳信仰により今日も多くの信仰を集める大黒天です。<br />三面大黒天は、福の神「大黒天」、勝利や子宝の神「毘沙門天」、学問や教養の神「弁財天」の三天の神が「阿修羅」の如く三天合体した珍しい尊像で、福徳信仰の象徴として秀吉が篤く信仰していました。秀吉は、1度のお参りで3つのご利益があるのが合理的と気に入ったそうです。<br />以来、トントン拍子に出世した秀吉とその秀吉にあやかろうと戦国武将たちがこぞって信仰し、一大ブームになったそうです。なるほど、デキる男は実に合理的です。斬新性や合理性を重んじる秀吉の先見の明が表れています。

    無盡蔵 三面大黒天像
    ガラスケースの中には、本尊のレプリカと思われる三面大黒天像があります。
    かつては秀吉の「念持仏」、「守り本尊」とされ、福徳信仰により今日も多くの信仰を集める大黒天です。
    三面大黒天は、福の神「大黒天」、勝利や子宝の神「毘沙門天」、学問や教養の神「弁財天」の三天の神が「阿修羅」の如く三天合体した珍しい尊像で、福徳信仰の象徴として秀吉が篤く信仰していました。秀吉は、1度のお参りで3つのご利益があるのが合理的と気に入ったそうです。
    以来、トントン拍子に出世した秀吉とその秀吉にあやかろうと戦国武将たちがこぞって信仰し、一大ブームになったそうです。なるほど、デキる男は実に合理的です。斬新性や合理性を重んじる秀吉の先見の明が表れています。

  • 無盡蔵 三面大黒天像<br />勝利や子宝の神「毘沙門天」の厳しい表情に気を引き締められる思いです。<br />邪鬼を踏みつけた勇ましい姿から勝運、必勝祈願や財産を守る財運の神とされ、また子宝にもご利益があることから聖徳太子、坂上田村麻呂、楠木正成などが篤く信仰しました。毘沙門天と言えば上杉謙信が有名ですが、実は武田信玄もまた金色の毘沙門天像を兜の中に入れて出陣したそうです。

    無盡蔵 三面大黒天像
    勝利や子宝の神「毘沙門天」の厳しい表情に気を引き締められる思いです。
    邪鬼を踏みつけた勇ましい姿から勝運、必勝祈願や財産を守る財運の神とされ、また子宝にもご利益があることから聖徳太子、坂上田村麻呂、楠木正成などが篤く信仰しました。毘沙門天と言えば上杉謙信が有名ですが、実は武田信玄もまた金色の毘沙門天像を兜の中に入れて出陣したそうです。

  • 渡り廊下<br />長い渡り廊下の先にある北書院は、ねねが晩年の19年間を過ごした場所でもあります。<br />

    渡り廊下
    長い渡り廊下の先にある北書院は、ねねが晩年の19年間を過ごした場所でもあります。

  • 北書院 宗旦狐の置物<br />渡り廊下を渡りきると書院に出ます。<br />書院入口では僧侶の姿をした「宗旦狐」がお出迎えです。因みに、圓徳院との関係は不明ですが、茶室との関係でしょうか?<br />宗旦狐で有名なのが相国寺です。その境内の一隅には、「宗旦稲荷」が佇んでいます。そこに祀られているのは、江戸時代に御所周辺に出没したと伝わる白狐です。因みに千利休の孫の名を宗旦と言い、利休の侘び茶を推進し、千家を再興した茶人です。<br />相国寺での茶会後、宗旦の弟子や茶人たちは控えの間で宗旦のお手前を褒め称えていました。すると、そこに宗旦が慌てて入ってきました。「遅れまして…さぁ、お茶室の方へ」。弟子たちは、いぶかりながらも、再び茶会に臨みました。すると、お手前は先程よりも素晴らしいものでした。<br />その後も同様のことが起こり、「もしかすると、宗匠はふたりいるのでは?」と疑った弟子たちは、宗旦を茶会に招き、その間に自宅に宗旦が居るか確かめることにしました。茶会の日、宗旦は定刻にやって来ました。そこで弟子が宗旦の自宅に行くと、宗旦がそこに居るではありませんか!弟子たちはニセ宗旦を囲み、「お前は何者だ!?」と詰問しました。<br />「申し訳ない。私は相国寺に古来住む白狐でございます。宗匠のお手前を拝見し、その美しさに自分でもやってみたいと思ったのです。それで宗匠に化けて…。どうか、お許しを」。白狐は、素直に謝罪し、また宗旦に劣らぬお手前だったことから、許されることになりました。その後、この白狐を「宗旦狐」と呼ぶようになりました。<br />その後も、宗旦狐は宗旦に化け、相国寺の雲水たちと托鉢をしたとか、近隣の寺の和尚さんと碁を打ったとか、門前のお店が破産しかけた時は神通力で助けるなどしたことから、次第に慕われるようになりました。<br />ある日、門前の豆腐屋が油揚げを作っていた鍋に天井からネズミが落ちました。油揚されたネズミは店の外に捨てられたのですが、その油の匂いに誘われ、宗旦狐は死んだネズミを食べてしまいました。すると、その途端、神通力が効かなくなり、狐の正体に気付いた犬が追いかけてきました。狐は必死に逃げ回り、ねぐらにしている相国寺の藪の中に飛び込んだのですが、誤って古井戸に落ちて溺死してしまいました。<br />そんな宗旦狐の最期を哀れに思った相国寺の雲水たちが、その供養のために建てた祠が宗旦稲荷です。

    北書院 宗旦狐の置物
    渡り廊下を渡りきると書院に出ます。
    書院入口では僧侶の姿をした「宗旦狐」がお出迎えです。因みに、圓徳院との関係は不明ですが、茶室との関係でしょうか?
    宗旦狐で有名なのが相国寺です。その境内の一隅には、「宗旦稲荷」が佇んでいます。そこに祀られているのは、江戸時代に御所周辺に出没したと伝わる白狐です。因みに千利休の孫の名を宗旦と言い、利休の侘び茶を推進し、千家を再興した茶人です。
    相国寺での茶会後、宗旦の弟子や茶人たちは控えの間で宗旦のお手前を褒め称えていました。すると、そこに宗旦が慌てて入ってきました。「遅れまして…さぁ、お茶室の方へ」。弟子たちは、いぶかりながらも、再び茶会に臨みました。すると、お手前は先程よりも素晴らしいものでした。
    その後も同様のことが起こり、「もしかすると、宗匠はふたりいるのでは?」と疑った弟子たちは、宗旦を茶会に招き、その間に自宅に宗旦が居るか確かめることにしました。茶会の日、宗旦は定刻にやって来ました。そこで弟子が宗旦の自宅に行くと、宗旦がそこに居るではありませんか!弟子たちはニセ宗旦を囲み、「お前は何者だ!?」と詰問しました。
    「申し訳ない。私は相国寺に古来住む白狐でございます。宗匠のお手前を拝見し、その美しさに自分でもやってみたいと思ったのです。それで宗匠に化けて…。どうか、お許しを」。白狐は、素直に謝罪し、また宗旦に劣らぬお手前だったことから、許されることになりました。その後、この白狐を「宗旦狐」と呼ぶようになりました。
    その後も、宗旦狐は宗旦に化け、相国寺の雲水たちと托鉢をしたとか、近隣の寺の和尚さんと碁を打ったとか、門前のお店が破産しかけた時は神通力で助けるなどしたことから、次第に慕われるようになりました。
    ある日、門前の豆腐屋が油揚げを作っていた鍋に天井からネズミが落ちました。油揚されたネズミは店の外に捨てられたのですが、その油の匂いに誘われ、宗旦狐は死んだネズミを食べてしまいました。すると、その途端、神通力が効かなくなり、狐の正体に気付いた犬が追いかけてきました。狐は必死に逃げ回り、ねぐらにしている相国寺の藪の中に飛び込んだのですが、誤って古井戸に落ちて溺死してしまいました。
    そんな宗旦狐の最期を哀れに思った相国寺の雲水たちが、その供養のために建てた祠が宗旦稲荷です。

  • 北庭<br />この角度から見るのがベストだそうです。手前に敷かれた玉砂利が見えないため、庭の奥行きを感じさせるからです。<br />この庭園は、1605年に、伏見城の化粧御殿前の庭園を移築したものです。北書院の東に位置し、元々は桃山時代を代表する神仙思想を反映した池泉回遊式庭園でしたが、移築の際、敷地面積が縮小したことから枯池泉座視式に改造されています。しかし、ほぼ創建当時の姿が残されており、「旧圓徳院庭園」の名で1975年に国の名勝に指定されています。<br />桃山期の豪壮華麗な意匠を代表し、配された大小300~400個の石は各々産地も異なり、秀吉が各地の大名に集めさせた名石と伝わります。石の裏には、持ち込んだ大名の銘が刻まれているとも伝えられ、各大名の悲喜こもごもが反映されていると思うと石庭もまた違って見えてきます。

    北庭
    この角度から見るのがベストだそうです。手前に敷かれた玉砂利が見えないため、庭の奥行きを感じさせるからです。
    この庭園は、1605年に、伏見城の化粧御殿前の庭園を移築したものです。北書院の東に位置し、元々は桃山時代を代表する神仙思想を反映した池泉回遊式庭園でしたが、移築の際、敷地面積が縮小したことから枯池泉座視式に改造されています。しかし、ほぼ創建当時の姿が残されており、「旧圓徳院庭園」の名で1975年に国の名勝に指定されています。
    桃山期の豪壮華麗な意匠を代表し、配された大小300~400個の石は各々産地も異なり、秀吉が各地の大名に集めさせた名石と伝わります。石の裏には、持ち込んだ大名の銘が刻まれているとも伝えられ、各大名の悲喜こもごもが反映されていると思うと石庭もまた違って見えてきます。

  • 北庭<br />元々の伏見城の前庭の作庭は、小堀遠州の片腕で「天下一の名手」と謳われた弟子 賢庭が担いました。この地へ移築して石庭から緑豊かな庭に改修したのが小堀遠州であり、それが今日に伝わる姿です。賢庭は、醍醐寺三宝院や伏見城庭園、京都御所の作庭にも関わった「与四郎」と同一人物とも言われています。<br />豪壮さで比較すれば、醍醐寺や西本願寺の庭園に軍配が挙がると思いますが、これらの庭園の石は立派すぎて違和感がありますが、この北庭の石は植栽によって存在感が緩和され、圧迫感がなく、優雅に魅せます。

    北庭
    元々の伏見城の前庭の作庭は、小堀遠州の片腕で「天下一の名手」と謳われた弟子 賢庭が担いました。この地へ移築して石庭から緑豊かな庭に改修したのが小堀遠州であり、それが今日に伝わる姿です。賢庭は、醍醐寺三宝院や伏見城庭園、京都御所の作庭にも関わった「与四郎」と同一人物とも言われています。
    豪壮さで比較すれば、醍醐寺や西本願寺の庭園に軍配が挙がると思いますが、これらの庭園の石は立派すぎて違和感がありますが、この北庭の石は植栽によって存在感が緩和され、圧迫感がなく、優雅に魅せます。

  • 北庭<br />現在の姿は、1978年以来10年の歳月をかけて整備されたものです。特に植栽は年毎に成長するので厄介な代物です。北庭を修復して蘇らせた「平成の小堀遠州」と称される北山安夫氏は、「俺の言う通りにすれば、いい顔にさせてやる。 文句があるならかかってこい」という気迫で石と格闘されたそうです。また、腐心されたのは「この庭を見ていた人が、どんな思いでいたかを伝えていくこと」だったと語られています。日本庭園は作庭が4分、維持・管理が6分ですから、その時代の庭師の感性に委ねなければなりません。因みに石組の指導は、庭園研究家 森蘊氏です。<br />ねねは、この北庭を眺めながら、愛する秀吉と共に生きた日々を追慕していたことでしょう。

    北庭
    現在の姿は、1978年以来10年の歳月をかけて整備されたものです。特に植栽は年毎に成長するので厄介な代物です。北庭を修復して蘇らせた「平成の小堀遠州」と称される北山安夫氏は、「俺の言う通りにすれば、いい顔にさせてやる。 文句があるならかかってこい」という気迫で石と格闘されたそうです。また、腐心されたのは「この庭を見ていた人が、どんな思いでいたかを伝えていくこと」だったと語られています。日本庭園は作庭が4分、維持・管理が6分ですから、その時代の庭師の感性に委ねなければなりません。因みに石組の指導は、庭園研究家 森蘊氏です。
    ねねは、この北庭を眺めながら、愛する秀吉と共に生きた日々を追慕していたことでしょう。

  • 北庭<br />「己を出さず、自分を出す」、これが北山氏の修復ポリシーです。難しい言葉ですが、個人的には「我を捨て、往時の作庭師の思いを尊重した独自の表現」と解釈しています。「能」を育て上げた観阿弥が説いた「守破離」の奥義の「破」に当たると思います。すなわち、師に教えられた流儀を身に付けた後、一歩進めて自らの特性に合うよう修行し、他流をも研究し、その良い点も取り入れていくことです。これをしていかないと、深化することはありませんから…。<br />決して広い敷地の庭園ではないのですが、一見すると広くも感じます。これは、庭を眺める人が居る北書院へ向かって扇状に広がる形に作庭されているため、目の錯覚で奥行きが感じられるようになっています。まさに空間の芸術と言えます。

    北庭
    「己を出さず、自分を出す」、これが北山氏の修復ポリシーです。難しい言葉ですが、個人的には「我を捨て、往時の作庭師の思いを尊重した独自の表現」と解釈しています。「能」を育て上げた観阿弥が説いた「守破離」の奥義の「破」に当たると思います。すなわち、師に教えられた流儀を身に付けた後、一歩進めて自らの特性に合うよう修行し、他流をも研究し、その良い点も取り入れていくことです。これをしていかないと、深化することはありませんから…。
    決して広い敷地の庭園ではないのですが、一見すると広くも感じます。これは、庭を眺める人が居る北書院へ向かって扇状に広がる形に作庭されているため、目の錯覚で奥行きが感じられるようになっています。まさに空間の芸術と言えます。

  • 北庭<br />この庭園の特徴は、巨大な岩を「縦置き」に配置していることです。もし千利休がこの庭を造ったとしたら、横置きにして安定感を持たせたはずです。しかし、ここでは敢えて不安定な縦置きにし、個々の岩に自己主張をさせています。そこが「秀吉好み」らしいところかもしれません。<br />庭東北の築山から、深山幽谷の雰囲気を感じさせる枯滝を枯池泉に落とし、その手前に神仙・蓬莱思想が由来の長寿延年を祈願する亀島(左)と鶴島(右)を配しています。島の間には重厚な切石橋を3本を架けた、桃山時代の典型的な枯山水の書院庭園の趣です。また、亀島には右端に亀頭石、左端に亀尾石が据えられ、鶴島に架かる切石橋は鶴首石も兼ねています。(鶴島、亀島をこの逆とする説もあります。)更には、築山を中心に、その左右に数多の石組みを左右非対称の不等辺三角形にまとめて数群展開させ、滝口の右手に蓬莱石組(須弥山石組)、三尊石組を配しています。<br />このように巨岩を多数配置した珍しい庭園としても知られ、また巨岩を囲むように植えられた楓は、晩春から晩秋にかけて美しい青葉や紅葉で拝観者の目を愉しませるシナジー効果を発揮しています。

    北庭
    この庭園の特徴は、巨大な岩を「縦置き」に配置していることです。もし千利休がこの庭を造ったとしたら、横置きにして安定感を持たせたはずです。しかし、ここでは敢えて不安定な縦置きにし、個々の岩に自己主張をさせています。そこが「秀吉好み」らしいところかもしれません。
    庭東北の築山から、深山幽谷の雰囲気を感じさせる枯滝を枯池泉に落とし、その手前に神仙・蓬莱思想が由来の長寿延年を祈願する亀島(左)と鶴島(右)を配しています。島の間には重厚な切石橋を3本を架けた、桃山時代の典型的な枯山水の書院庭園の趣です。また、亀島には右端に亀頭石、左端に亀尾石が据えられ、鶴島に架かる切石橋は鶴首石も兼ねています。(鶴島、亀島をこの逆とする説もあります。) 更には、築山を中心に、その左右に数多の石組みを左右非対称の不等辺三角形にまとめて数群展開させ、滝口の右手に蓬莱石組(須弥山石組)、三尊石組を配しています。
    このように巨岩を多数配置した珍しい庭園としても知られ、また巨岩を囲むように植えられた楓は、晩春から晩秋にかけて美しい青葉や紅葉で拝観者の目を愉しませるシナジー効果を発揮しています。

  • 北庭<br />石橋(右)の奥に位置する二股の楓の右に三尊石組が見られます。真ん中の一番背の高い石(中尊石)は少し傾いて見えますが、それを支えるように両脇に背の低い添石(脇侍石)を置き、全体で大きな三角形の山を形成しています。このように、石を組むことで、大地に根を張るような力強さを感じさせます。<br />庭全体を三角形のパーツを複数組合わせて構成にした日本庭園には、幾何学の美という趣があります。

    北庭
    石橋(右)の奥に位置する二股の楓の右に三尊石組が見られます。真ん中の一番背の高い石(中尊石)は少し傾いて見えますが、それを支えるように両脇に背の低い添石(脇侍石)を置き、全体で大きな三角形の山を形成しています。このように、石を組むことで、大地に根を張るような力強さを感じさせます。
    庭全体を三角形のパーツを複数組合わせて構成にした日本庭園には、幾何学の美という趣があります。

  • 北庭<br />中央が枯滝石組です。<br />水は無くとも、岩の間を勢いよく水が滑り、岩に砕け、水飛沫をあげる…。<br />そんな情景が見えてくるようです。 <br />

    北庭
    中央が枯滝石組です。
    水は無くとも、岩の間を勢いよく水が滑り、岩に砕け、水飛沫をあげる…。
    そんな情景が見えてくるようです。

  • 北庭<br />石橋(左)と亀島です。<br />亀島には、右端に亀頭石、左端に亀尾石が据えられています。<br />ここの上に架かる楓は、すでに葉を散らしています。

    北庭
    石橋(左)と亀島です。
    亀島には、右端に亀頭石、左端に亀尾石が据えられています。
    ここの上に架かる楓は、すでに葉を散らしています。

  • 茶室<br />勇壮な巨石の連なる北庭の西端には趣深い江戸時代から残る茶室が佇み、手水鉢と共に東北部の情景とのコントラストが味わえます。楓の落ち葉が風情を醸し、東北部の枯山水の風景とは対照的な雰囲気です。<br />飛び石の路地を抜け、狭いにじり口から入る小間(三畳台目)のお茶室です。<br />ここでは「へうげもの」古田織部考案の武家茶点前でお抹茶がいただけます。利休の侘び茶に満足しなかった秀吉が、古田織部に命じて考案させた武士の茶道で、武士の心構えを表現しながら、秀吉公が大事にした、ユーモアや機転、即興を織り交ぜ、エンターテイメント性を取り入れたものです。

    茶室
    勇壮な巨石の連なる北庭の西端には趣深い江戸時代から残る茶室が佇み、手水鉢と共に東北部の情景とのコントラストが味わえます。楓の落ち葉が風情を醸し、東北部の枯山水の風景とは対照的な雰囲気です。
    飛び石の路地を抜け、狭いにじり口から入る小間(三畳台目)のお茶室です。
    ここでは「へうげもの」古田織部考案の武家茶点前でお抹茶がいただけます。利休の侘び茶に満足しなかった秀吉が、古田織部に命じて考案させた武士の茶道で、武士の心構えを表現しながら、秀吉公が大事にした、ユーモアや機転、即興を織り交ぜ、エンターテイメント性を取り入れたものです。

  • 桧垣の手水鉢<br />茶室の傍には、ねねも使った桧垣の手水鉢が置かれています。宝塔の笠石を横にし、その面を凹字形に切り取ったものです。宝塔は室町時代の作と考えられていますが、手水鉢に仕立てられたのは作庭時かそれ以降だと思われます。これもまた、他に類を見ない感性のものと言えます。

    桧垣の手水鉢
    茶室の傍には、ねねも使った桧垣の手水鉢が置かれています。宝塔の笠石を横にし、その面を凹字形に切り取ったものです。宝塔は室町時代の作と考えられていますが、手水鉢に仕立てられたのは作庭時かそれ以降だと思われます。 これもまた、他に類を見ない感性のものと言えます。

  • 北書院<br />豊臣秀吉の掛け軸です。

    北書院
    豊臣秀吉の掛け軸です。

  • 北書院<br />秀吉の掛け軸に比べ、質素に描かれたねねの掛け軸もあります。<br />片膝を立て、背景には何も描かれていないことから、秀吉が主君であり、ねねが臣下であることを表すそうです。<br /><br />

    北書院
    秀吉の掛け軸に比べ、質素に描かれたねねの掛け軸もあります。
    片膝を立て、背景には何も描かれていないことから、秀吉が主君であり、ねねが臣下であることを表すそうです。

  • 北書院<br />円を描いている様子でしょうか?

    北書院
    円を描いている様子でしょうか?

  • 北書院 歌仙の間<br />小さな部屋ですが、三十六歌仙の絵が掛けられています。<br />この間で目を瞠るのが、この桐笹文様唐織です。模様の配色を観察すると、一定のパターンで繰り返されていないことが判ります。これは、往時の職人が気のむくままに色を違えていたことの証だそうです。草木染で染めた糸を文様が刺繍のように浮き立つように手織した様は艶やかで、往時の天下人の力を改めて感じさせられました。

    北書院 歌仙の間
    小さな部屋ですが、三十六歌仙の絵が掛けられています。
    この間で目を瞠るのが、この桐笹文様唐織です。模様の配色を観察すると、一定のパターンで繰り返されていないことが判ります。これは、往時の職人が気のむくままに色を違えていたことの証だそうです。草木染で染めた糸を文様が刺繍のように浮き立つように手織した様は艶やかで、往時の天下人の力を改めて感じさせられました。

  • 北書院<br />風情ある丸格子です。<br />円窓は、禅の教えで「悟り」を表し、調和のとれた世界を意味します。つまり、円窓を通して見る世界は、理想郷の世界とされます。<br />また、「円の景色を楽しみ、円に真理を求める窓」と言う深い意味もあります。始まりも終わりもなく、余ることも足りないこともない円は、禅の世界では無限の宇宙であり、人々に悟りの心を宿す、絶対的なものだと言われています。

    北書院
    風情ある丸格子です。
    円窓は、禅の教えで「悟り」を表し、調和のとれた世界を意味します。つまり、円窓を通して見る世界は、理想郷の世界とされます。
    また、「円の景色を楽しみ、円に真理を求める窓」と言う深い意味もあります。始まりも終わりもなく、余ることも足りないこともない円は、禅の世界では無限の宇宙であり、人々に悟りの心を宿す、絶対的なものだと言われています。

  • 北書院<br />北庭の右端(出口付近)から眺めた風景です。この後方が我々の住む下界・俗界になります。<br /><br />ねねは、徳川家との関係も良好でした。少年期に人質として預かった家康の息子 秀忠を手厚く世話して育てたこともあり、家康は高台寺建立に肝入りで財政支援したほどでした。また、徳川と豊臣の対立に際しては、ねねは調停を試みるも、終生沈黙し、中庸の立場を守りました。1615年、大坂城落城の際、ねねは高台寺にある2階建ての茶室「時雨亭」にて赤く染まる大坂の夜空を寡黙に見つめていたと伝わります。実は、ねねの親戚筋の木下家が保存する史料の分析から、「ねねは、秀頼や淀殿と一緒に大坂城に籠城して戦う覚悟だった。しかし大坂への道中で家康に阻まれ、京に引き戻された」ことが判かったそうです。家康に翻弄され、さぞ悔しい思いだったことでしょう。<br />徳川の世が定まったその9年後、ねねは、圓徳院の住房(北書院)で息を引き取り、翌夕、高台寺霊屋内に葬られたと伝えられています。

    北書院
    北庭の右端(出口付近)から眺めた風景です。この後方が我々の住む下界・俗界になります。

    ねねは、徳川家との関係も良好でした。少年期に人質として預かった家康の息子 秀忠を手厚く世話して育てたこともあり、家康は高台寺建立に肝入りで財政支援したほどでした。また、徳川と豊臣の対立に際しては、ねねは調停を試みるも、終生沈黙し、中庸の立場を守りました。 1615年、大坂城落城の際、ねねは高台寺にある2階建ての茶室「時雨亭」にて赤く染まる大坂の夜空を寡黙に見つめていたと伝わります。実は、ねねの親戚筋の木下家が保存する史料の分析から、「ねねは、秀頼や淀殿と一緒に大坂城に籠城して戦う覚悟だった。しかし大坂への道中で家康に阻まれ、京に引き戻された」ことが判かったそうです。家康に翻弄され、さぞ悔しい思いだったことでしょう。
    徳川の世が定まったその9年後、ねねは、圓徳院の住房(北書院)で息を引き取り、翌夕、高台寺霊屋内に葬られたと伝えられています。

  • 圓徳院 出口<br />ねねは、徳川家康ですら一目置いたほどの女性としての魅力と人心掌握の術、高度な政治力を身につけた当時としては傑出した女性でした。そんなねねは、僅か2代で儚くも滅んだ豊臣家の滅びの美学をどのように受け止めていたのでしょうか…。<br />ねねの生き方には賛否両論があるようですが、豊臣秀吉と北政所ねねの夫婦の垣根を越えたコンビネーションは、今の時代、賞賛こそあれ、非難めいたことはあまり聞きません。しかし史実としては果たしてどうなのか、興味深いところです。

    圓徳院 出口
    ねねは、徳川家康ですら一目置いたほどの女性としての魅力と人心掌握の術、高度な政治力を身につけた当時としては傑出した女性でした。そんなねねは、僅か2代で儚くも滅んだ豊臣家の滅びの美学をどのように受け止めていたのでしょうか…。
    ねねの生き方には賛否両論があるようですが、豊臣秀吉と北政所ねねの夫婦の垣根を越えたコンビネーションは、今の時代、賞賛こそあれ、非難めいたことはあまり聞きません。しかし史実としては果たしてどうなのか、興味深いところです。

  • 三面大黒天<br />京都御苑から移築された堂宇には三面大黒天が祀られ、出世、勝利、学問、芸術、幸福、安全、無病息災、子授け、芸能上達、家運隆盛などに霊験あらたかだそうです。<br />こちらは、圓徳院の拝観前に撮影したものです。<br />

    三面大黒天
    京都御苑から移築された堂宇には三面大黒天が祀られ、出世、勝利、学問、芸術、幸福、安全、無病息災、子授け、芸能上達、家運隆盛などに霊験あらたかだそうです。
    こちらは、圓徳院の拝観前に撮影したものです。

  • 三面大黒天<br />毎月3日は、この三面大黒天の縁日で賑わいます。<br />歌仙堂の前には、瓢箪の形に彫られた手水鉢が置かれています。<br />秀吉の馬印は「千成瓢箪」でした。願いが叶う度に瓢箪を集め、「千成瓢箪」とした史実に因みます。<br />毎月3日の縁日には、瓢箪の形をしたお札に願い文を書く祈願法要が行なわれます。願い文を箪の形をした手水鉢の水面に浮かべると、お札は瓢箪に抱きとられるように溶けて沈み、「三面大黒天」の文字だけが水面を漂います。そこで「夢が叶いますように」と祈ります。願い文は住職の手で集められ、瓢箪の型に流し込まれ祈願法要されます。そして型から取り出され、願い文の瓢箪となり、三面大黒天と共に奉られます。

    三面大黒天
    毎月3日は、この三面大黒天の縁日で賑わいます。
    歌仙堂の前には、瓢箪の形に彫られた手水鉢が置かれています。
    秀吉の馬印は「千成瓢箪」でした。願いが叶う度に瓢箪を集め、「千成瓢箪」とした史実に因みます。
    毎月3日の縁日には、瓢箪の形をしたお札に願い文を書く祈願法要が行なわれます。願い文を箪の形をした手水鉢の水面に浮かべると、お札は瓢箪に抱きとられるように溶けて沈み、「三面大黒天」の文字だけが水面を漂います。そこで「夢が叶いますように」と祈ります。願い文は住職の手で集められ、瓢箪の型に流し込まれ祈願法要されます。そして型から取り出され、願い文の瓢箪となり、三面大黒天と共に奉られます。

  • 三面大黒天<br />ここの三面大黒天は、圓徳院で拝んだものとは少し形が異なるように窺えます。<br />圓徳院に伝わる『三面大黒天縁起』には次のような記述があります。<br />豊臣秀吉公が若い頃、三面大黒天の塑像を見て、請うて心に念じて言った。「私が、もし立身出世して、名声を天下に伝えられることができるなら微塵になれ。そうでなければ形を全うせよ」と言って投げたところ、微塵となった。そこで秀吉公は、大いに喜び仏工に命じて尊像を彫刻させて、常に崇拝し、天下を掌握するに至る。<br />若かりし秀吉は三面大黒天に己の命運をかけて願掛けを行い、その結果に従い自身の尊像として三面大黒天を彫らせ、力の糧としたのです。実際この出会いの後、秀吉の人生に4つの大きな奇跡が起こっています。<br />最初の転機は出世栄達の足掛かりとなった「信長の草履取り」の逸話です。2つ目は「天下の良妻ねねとの結婚」。3つ目は朝倉義景討伐の際の浅井軍の裏切り=金ヶ崎崩れの「命懸けの殿(しんがり)志願」。4つ目は本能寺の変の後、備中高松から山城山崎まで200kmの行程を僅か10日で踏破した「中国大返し」による明智光秀の討伐です。

    三面大黒天
    ここの三面大黒天は、圓徳院で拝んだものとは少し形が異なるように窺えます。
    圓徳院に伝わる『三面大黒天縁起』には次のような記述があります。
    豊臣秀吉公が若い頃、三面大黒天の塑像を見て、請うて心に念じて言った。「私が、もし立身出世して、名声を天下に伝えられることができるなら微塵になれ。そうでなければ形を全うせよ」と言って投げたところ、微塵となった。そこで秀吉公は、大いに喜び仏工に命じて尊像を彫刻させて、常に崇拝し、天下を掌握するに至る。
    若かりし秀吉は三面大黒天に己の命運をかけて願掛けを行い、その結果に従い自身の尊像として三面大黒天を彫らせ、力の糧としたのです。実際この出会いの後、秀吉の人生に4つの大きな奇跡が起こっています。
    最初の転機は出世栄達の足掛かりとなった「信長の草履取り」の逸話です。2つ目は「天下の良妻ねねとの結婚」。3つ目は朝倉義景討伐の際の浅井軍の裏切り=金ヶ崎崩れの「命懸けの殿(しんがり)志願」。4つ目は本能寺の変の後、備中高松から山城山崎まで200kmの行程を僅か10日で踏破した「中国大返し」による明智光秀の討伐です。

  • 歌仙堂<br />三面大黒天の境内にある堂宇は、「歌人の聖地」とされる歌仙堂です。1787(天明7)年刊行の『拾遺都名所図会』によると、「木下勝俊が霊山に建立した旧歌仙堂の柱礎などを双林寺境内門前の北に移し、建てられた」としています。圓徳院を創建した木下利房の異母兄である勝俊は、和歌の天才と謳われた歌聖でした。勝俊は、26歳の時に若狭小浜藩主として立身したのですが、関ヶ原の戦いでは東軍に属して鳥居元忠と共に伏見城の護りに就くも、元忠に退去を迫られ従った結果、敵前逃亡と責められ除封処分になりました。その後出家してこの地に隠棲し、林羅山ら文化人と親交を持つと共に「長嘯子」と号して細川幽斎に師事し、近世を代表する歌人となりました。

    歌仙堂
    三面大黒天の境内にある堂宇は、「歌人の聖地」とされる歌仙堂です。1787(天明7)年刊行の『拾遺都名所図会』によると、「木下勝俊が霊山に建立した旧歌仙堂の柱礎などを双林寺境内門前の北に移し、建てられた」としています。 圓徳院を創建した木下利房の異母兄である勝俊は、和歌の天才と謳われた歌聖でした。勝俊は、26歳の時に若狭小浜藩主として立身したのですが、関ヶ原の戦いでは東軍に属して鳥居元忠と共に伏見城の護りに就くも、元忠に退去を迫られ従った結果、敵前逃亡と責められ除封処分になりました。その後出家してこの地に隠棲し、林羅山ら文化人と親交を持つと共に「長嘯子」と号して細川幽斎に師事し、近世を代表する歌人となりました。

  • 歌仙堂<br />木下勝俊は、一時はキリシタンでもあり、洗礼名は「ペテロ」と伝わります。高台寺を訪れた際、秀吉に仕えていた頃を懐かしんで詠んだ「亡き影に また袖ぬれて 仕えけん 昔を今の しづのをだ巻」という和歌を残しています。作風は、芭蕉にも影響を及ぼしたそうです。そこそこの名を残して90歳の天寿を全うした勝俊は、他の秀吉一族の不幸な結末を思えば幸せな人生だったのではないかと思います。<br />歌仙堂は、その勝俊を祀る堂宇です。学問や詩歌の神として信仰を集め、参拝者が絶えません。またこの建物は、石川丈山の詩仙堂・洛翠庭園にある雅仙堂と併せて京都三大堂と言われています。丈山は、武を捨て文の世界に入った長嘯子に自分の姿を重ねたのではないでしょうか?

    歌仙堂
    木下勝俊は、一時はキリシタンでもあり、洗礼名は「ペテロ」と伝わります。高台寺を訪れた際、秀吉に仕えていた頃を懐かしんで詠んだ「亡き影に また袖ぬれて 仕えけん 昔を今の しづのをだ巻」という和歌を残しています。作風は、芭蕉にも影響を及ぼしたそうです。そこそこの名を残して90歳の天寿を全うした勝俊は、他の秀吉一族の不幸な結末を思えば幸せな人生だったのではないかと思います。
    歌仙堂は、その勝俊を祀る堂宇です。学問や詩歌の神として信仰を集め、参拝者が絶えません。またこの建物は、石川丈山の詩仙堂・洛翠庭園にある雅仙堂と併せて京都三大堂と言われています。丈山は、武を捨て文の世界に入った長嘯子に自分の姿を重ねたのではないでしょうか?

  • 三面大黒天の境内の様子です。

    三面大黒天の境内の様子です。

  • 大黒門<br />三面大黒天は、圓徳院を拝観しなくても「ねねの道」沿いにあるこの門から自由にお参りできます。

    大黒門
    三面大黒天は、圓徳院を拝観しなくても「ねねの道」沿いにあるこの門から自由にお参りできます。

  • 大黒天<br />大黒門を潜ると壁に大きな窪みが設けられ、「触れ仏」の大黒天が祀られています。<br />大黒天は、元々はインドの神ですが、日本では福の神として信仰されています。「金運」を上げたい方は、右手もしくは両手でやさしく撫でてください。<br /><br />この続きは、情緒纏綿 京都東山逍遥②石塀小路・八坂庚申堂でお届けいたします。

    大黒天
    大黒門を潜ると壁に大きな窪みが設けられ、「触れ仏」の大黒天が祀られています。
    大黒天は、元々はインドの神ですが、日本では福の神として信仰されています。「金運」を上げたい方は、右手もしくは両手でやさしく撫でてください。

    この続きは、情緒纏綿 京都東山逍遥②石塀小路・八坂庚申堂でお届けいたします。

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