2017/08/03 - 2017/08/12
25位(同エリア2520件中)
わきさん
2017年8月3日
アエロフロート、ロシア航空
モスクワ・シェレメチェヴォ空港経由にて
ワルシャワ・フレデリック・ショパン空港入り、
ワルシャワにて3泊
その後8月6日午前
EC(ユーロシティ特急列車)で、
ポーランドからドイツへ
国境越えし
ベルリン入り、
ワルシャワ中央駅ー終点ベルリン・ゲズントブルネン駅
約6時間40分(600キロ)
ベルリンにてやはり3泊
そしてベルリンから
チェコプラハへ、8月9日
同じくEC(ユーロシティ特急列車)で、国境越えし
ベルリン中央駅ープラハ本駅間(450キロ)
約4時間半
プラハでは2泊、
その後プラハ、
ヴァーツラフ・ハヴェル空港から
モスクワ・シェレメチェヴォ経由で
8月12日
成田へ帰国という旅程です。
即ち
本年は、
ワルシャワーベルリン間
ベルリンープラハ間、この3都市を
EC特急列車を利用して訪問してみました。
ワルシャワ編全部は、以下の通り
公開させて頂きました。
https://4travel.jp/travelogue/11275148
(上記ワルシャワ編、
283枚という画像が多かったので、
自分ながら、辟易してしまい
分割して作成することが肝要ではないかと
自省し、今回からはやや分割して
作成することと致しました。)
表題の写真は、
壁で東西に分断されていたころは、
東ベルリンに属していた
ブランデンブルグ門である。
ベルリンのシンボルとされている門で、
当初は税金取り立ての門だったようだ。
建立されたのは、
1791年8月6日、
門の上には、
4頭立て馬車に乗った
勝利の女神像
クワドリーガが設置されている。
クワドリーガは、一時
ナポレオンによって、パリに持ち去られていた。
記念すべきは
1989年12月22日である。
この日東西のドイツの両首相により、
ブランデンブルグ門は開かれたが、
興奮した若者たちは
門の上によじ登りクワドリーガを
破損したりした。
建立二百年記念の1991年8月6日
再び、クワドリーガは修復されて、設置され
門の上からベルリン市民を見守っていくことになる。
勝利のしるしとして、
右手にかかげる月桂冠とその冠の中には
それぞれ、プロイセンのアードラーと鉄十字が
やはり取りつけられている。
ベルリン発祥は、1307年頃といわれる。
シュプレー川右岸と川の中州が所謂旧市街を形成した。
現在の街並みの基礎ができるのは、
18世紀フリードリッヒ大王のときである。
その後、
19世紀前半には
建築家シンケルによって、
数々の歴史的建造物が立っていく。
1871年、
ドイツ帝国誕生。
1918年
ワイマール共和国成立、
1933年
ヒットラー政権
1945年
第二次大戦終結
1961年
ベルリンの壁が、
飛び地ベルリンを、
更に西ベルリンと東ベルリンに分断。
1989年
ベルリンの壁崩壊
1990年
東西ドイツ再統一で
現在に至る、
というのが大体のベルリン概略である。
以下8月6日から9日までの、
ベルリン街歩きですが、
たった3日では、人口350万の
大都市を回ることなどできるはずもなかったが、
ベルリンの香りだけは、
嗅いだように思う。
とりあえず、ベルリンその1
は、1日目夕方からの街歩き
2日目1日中の街歩きである。
因みに
ベルリン、当方は2度目
かみさんは、3度目の訪問である。
また、
写真では
門柱の間は、向こう側が開けているが、
1961年から89年の28年間は、
門のすぐ向こう側は、壁が立ちはだかり
壁の向こう側は西ベルリンだった。
つまり、ベルリンの壁があったところでもある。
動画ウンター・デン・リンデン通りと
ブランデンブルグ門の様子、パリ広場から撮影した。
大変な世界中からのツーリストである。
https://www.youtube.com/watch?v=xJ9c7Jx5rpM&feature=youtu.be
向こう側に見える塔は、
往時も今も一つのベルリンを象徴するテレビ塔
通りは、ウンター・デン・リンデン
ブランデンブルグ門から、東へ一直線に伸びている。
「菩提樹の下」を意味しているが、
17世紀半ばより、ベルリンが西へ西へ延びて行く
過程で造られていった。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 鉄道 徒歩
- 航空会社
- アエロフロート・ロシア航空
-
EC(ユーロシティ特急列車)
われらが乗車したTrain44の
267号車オープンスタイルが、
終点駅ゲズント・ブルネン駅に
到着したのは、16時35分だった。
通常は、終点はベルリン中央駅であるが、
8月6日は終点駅はゲズント・ブルネン駅だった。
まずは、駅構内(といっても、改札概念はないので駅そのもの?)
にて、写真のベルリン・ウエルカムカードを購入した。 -
ベルリン・ウエルカムカードは、
この写真のチケットで、
ベルリン交通機関
すべて乗れる共通券である。
即ち
Sバーン(東京でいえば、地上を走るJRや私鉄線)
Uバーン(東京でいえば、地下鉄線すべて)
路線市内バスを含んでいた。
駅には、改札がないので、
備え付けの刻印機に、チケットを入れて、
自分で刻印する。
刻印するのは、
検札がしばしばあり、刻印していないと
行政罰過料(あやまちりょう)の対象だからである。
しかし、全く検札には来なかった。
当方が購入したのは、
2日券、刻印日時から48時間
大丈夫ということになる。
1枚19,9ユーロ位だったと思う。
(博物館や観光施設の割引がついていた) -
この写真、
ベルリン市の詳細路線図である。
どこからどう、SバーンUバーン乗り継ぐのかが
一目瞭然で、いつも持ち歩いていた。
ところで、
皆さんは、この路線図を見て
何か気がつくのではないだろうか。
特に、東京在住の方なら、
あれっ、東京の路線図にかなり似ているな
と思われるかもしれない。
これは、実は偶然ではない。
東京首都圏の鉄道網現在の路線は、
明治期の二人のドイツ人お雇い外国人の
ヘルマン・ルムシュッテルと
フランツ・ヴァルツアーの構想による。
二人とも、ベルリンの市街鉄道線の
工事に携わった鉄道技術者だった。
このふたりは、
東京の高架鉄道を立案実行、
更には、ベルリンの環状線リングバーグ
を基本において、後の山手線の環状線化を
提言している。
つまりは、東京の都市形成は、極端にいえば
二人のドイツ人鉄道技師による
ベルリンのコピーとまで言えるかも知れない。 -
上記の路線図参考にして、
ゲズント・ブルネン駅から、
Sバーンにて、S1線に乗り、
6番目の
ポツダム広場駅にて更に乗り換え、
今度はU2線に乗って
5つ目がウイッテンベルグ駅だった。
この駅がホテル、クラウンプラザの
最寄駅、
駅前には、老舗デパート、
カーデーヴェーKaufhaus des Westensがあった。
(店名は西のデパートの頭文字K DWをとったもの)
この駅から、ホテルまで徒歩約5分で
ホテルに到着。
写真は、1987年に作られたタウエンツィエン通りのオブジェ。
当初は、東西ベルリン分断の証だったが、
今は統一の象徴になった。 -
こちらは、歩いてきた道
タウエンツィエン通り
正面に小さくUバーン地下鉄線
のウイッテンベルグ駅が見えている。
このあと、ホテルにチェックイン、
現地時間17時半ころだった。
少し休んで、
SバーンUバーン乗り継いで、
真っ先に訪問したのは
ブランデンブルグ門だった。 -
ブランデンブルグ門である。
ベルリンのシンボルとされている門で、
当初は税金取り立ての門だったようだ。
建立されたのは、
1791年8月6日、
門の上には、
4頭立て馬車に乗った
勝利の女神像
クワドリーガが設置されている。
前の広場は、パリ広場。
建設以来230年の
ベルリンの幾多の悲喜こもごもの
歴史を見てきた門でもある。 -
4頭立て馬車に乗った
勝利の女神像
クワドリーガが
うまくおさまっていない。 -
同上
-
門を左部分から少し拡大して
-
今度は門の右部分を
-
正面から拡大して
-
門柱の1本の
模様を撮影 -
違う門柱の模様である。
-
1本1本模様を
柱ごとに撮影した。 -
同上
-
今度は違うように
柱と模様の一部を -
同じく、
違うように
柱と模様の一部を -
夕日が沈みかけていたが、
1961年から89年までは、
壁が遮って見えなかった風景である。 -
全体を
1枚 -
同上
-
この門を過ぎて、
すぐ左方向奥に
ホロコースト記念碑が
広がっている。
即ち、
この写真は、パリ広場真東から
撮影しているので、
門の南南東にホロコースト記念碑が
広がっているということになる。
この記念碑、
高さの異なる2711基の石碑がおかれている。
翌日訪問した。
この写真撮影後
20時50分くらいだったので、
ウンター・デン・リンデン通りの
レストランで夕食をとった。 -
翌朝の
Uバーン地下鉄
車内の様子である。
かなりすいている。
これから、
テレビ塔
マリエン教会
ベルリン大聖堂
などのある
ミッテ地区街歩きである。 -
アレクサンダー広場駅(Uバーン、地下鉄線)
に到着した。 -
テレビ塔が印象的。
-
テレビ塔の展望台へ上がり、
ベルリンを俯瞰してみることにした。 -
テレビ塔が近づいてくる。
-
テレビ塔の
展望台に上がってみた。
展望台からの景観1。
約200メートルの高さから
360度のパノラマを見ていたが、
ここでは、一部を撮影した。 -
テレビ塔の
展望台に上がってみた。
展望台からの景観2。 -
展望台からの景観3。
シュプレー川が見えている -
展望台からの景観4。
手前には13世紀建造の
ニコライ教会が見えている。
特徴は、2本の尖塔。 -
展望台からの景観5。
手前は、19世紀建造の
赤の市庁舎 -
展望台からの景観6。
また、ニコライ教会
その向こう側は
社会主義時代の高層アパート。 -
展望台からの景観7。
社会主義時代の
高層アパート群 -
展望台からの景観8。
手前に見えるのは、
マリーエン教会である。
創建13世紀、
1790年に
現在のネオゴシック様式となった。 -
展望台からの景観9。
あのドームは不明である。
何だろうか? -
展望台からの景観10。
シュプレー川中州にある
ベルリン大聖堂が見えている。
ベルリン最大の教会である。
ここに、このあと行くつもり -
展望台からの景観11。
向こう側は、2本の尖塔があるので、
ニコライ教会だと思われる。
手前は、赤の市庁舎 -
展望台からの景観12。
シュプレー川 -
展望台からの景観13。
-
展望台からの景観14。
-
再び
テレビ塔を
大きく撮影してみた。 -
同上である。
-
中世の面影残す
マリーエン教会を
また撮影 -
ベルリン大聖堂が
見えてきた。 -
中世の面影残す
マリーエン教会を
大きく -
マリーエン教会を背景に
1枚写す -
再びテレビ塔
-
このあと、
歩いて
マリーエン教会の方へ行ってみた -
マリーエン教会尖塔部分
-
同上
-
マリーエン教会
中へ入ってみた。 -
マリーエン教会の中
-
同じく
-
同上
-
教会入り口には、
フレスコ画があった。
「死の舞踏」である。
欧州中世は、気温が低く
何度となくペストに襲われた。 -
教会入り口には、
フレスコ画があった。
「死の舞踏」である。
欧州中世は、気温が低く
何度となくペストに襲われた。
フレスコ画を拡大してみたが、
上手くきれいには写っていない。
左が骸骨である。
右はそれにさいなまれる人。
写真は、ペスト流行の
1484年に製作されたというフレスコ画。
500年以上前の製作で、
ところどころ、
傷み方が激しいのは止むをえない。
高さ2メートル
幅22メートルだったので、
分割撮影した。 -
骸骨と様々な身分の人々の
ペストへの恐れの図である。
そこで、以下少し長くなるが、
そもそも、ペスト菌はどのように
世界中を襲ったのか検討してみたい。
ペストの歴史を概略すれば、
2010年ネイチャー・ジェネティクス論文が詳しい。
それによれば、
世界各地から採集した17株のペスト菌の
遺伝子配列から、
1、ペスト菌共通祖先は中国に起源をもつ
可能性が極めて高いこと、
2、そのペスト細菌が、シルクロードをとおして
ユーラシア大陸の西側にも達した可能性が高いこと
3、更に中国明の時代の鄭和の大航海が、
ペスト拡大に寄与した可能性があること
などが記載報告されている。
*鄭和は、本名馬、
周知のごとく、明代永楽帝時代の宦官で
雲南省出身のイスラム教徒だった。
祖先は、元時代にチンギスハーン遠征時、
中央アジアあたりで帰順したイスラム教徒であるから、
どちらかと言えば、風貌は現在のイラン人に
近かったのではないだろうか。
鄭和の航海は7度に及んで、アフリカケニアまで行っている。 -
中国発のペスト、
ユーラシア大陸を横断する交易路の整備
により、相互交流が可能となり
各地に広がっていく。
シルクロード絹の道の呼び名は、19世紀
ドイツの地理学者リヒトフォーヘンの命名による。
シルクロードの成立が、
ユーラシア大陸の各文明の原始的疾病の
交換を促した。
ペストが、欧州に持ち込まれたのも
そうした交換と軌を一にすると考えたい。
ペストは、
グラム嫌気性桿菌(かんきん)たるペスト菌
によって引き起こされる感染症であり、
二つの型に分かれる。
(ペストは、元々クマネズミに流行をもたらす疾病
だったが、ケオプスネズミノミが、ネズミの血液を吸い、
このケオプスネズミノミが、ついで人間の血液を吸うときに
発症する。)
1は、腺ペスト
致死率は抗生物質が発見される前は、50%をこえた。
ペスト菌が全身に運ばれ敗血症を起こすと
全身皮膚に紫斑が出る。
この紫斑のため、黒死病と恐れられた。
2は、肺ペスト
血痰や喀血症状で、飛沫感染する。
治療をしないままだと、致死率はほぼ100%。 -
このペストが、
14世紀の欧州全体を襲うことになる。
死者の数、2500万とも3000万ともいわれる。
当時の全ヨーロッパ人口の3分の1~4分の1が
犠牲となった。
当時の欧州が、いかにこの病気を恐れたか、
ジョバンニ・ボッカチオの10日物語デカメロンに
詳しいことは皆さんご存じのとおりである。
1347年には、ペスト流行は
コンスタンティノープルをはじめとする
地中海全域に達し、
翌1348年には
アヴィ二ョンを皮切りに、
フィレンツェ ロンドンと北上、
1349年
スウエーデン、ポーランド
1351年にはロシアまで広がった。 -
ペストは、その後も
繰り返しヨーロッパを
襲っている。
17世紀1665年から翌年にかけて
イギリスを襲ったペストは
各地で甚大な被害をもたらしている。
ロンドンでは、この時約10万人死者がでた。
この流行は、「ロンドンの大ペスト」と後年呼ばれる。
ペストに罹患しているかどうかの捜査を
文字を読めぬ老婦人たちがおこない、
病人を見つけ出すと、ドアに赤い×印をつけたことは
有名である。
教会は悲痛に満ちた者で溢れ
共同墓地は遺体で折り重なっていたという。 -
この時期に、ケンブリッジ大学の
トリニテイ・カレッジで、
卒業まじかの一人の青年がいた。
ペストの流行で、青年が通う大学も
休校をくりかえした。
休校中、青年は故郷の町ウールスソープに帰った。
ひがなぼんやり暮らすうちに、
青年の頭に、微積分・万有引力の基礎概念が
ひらめいた。
青年の名前をアイザック・ニュートンと言った。
主要な業績を後年残すことtなるこの時期は、のちに
ニュートンの「創造的休暇」と呼ばれるようになる。 -
中世欧州を襲った腺ペスト
黒死病。
この黒死病がもたらしたのは、
なんであったろうか。
一概には言えないが
黒死病は、中世の暗黒社会を打倒し、
人材の総入れ替えをおこない、
やがて封建社会を倒す要因となり、
次の資本主義社会を準備したと
言えると考えたい。 -
教会を出ると、
テレビ塔が
写真の角度で
現れた。 -
ネプチューンの泉が
噴水を上げていた -
同じく拡大して
-
こちらは、赤の市庁舎
-
ベルリン大聖堂がある橋のたもとまで
歩く。
ベルリン大聖堂は、
16世紀以来
ホーエンツォレルン家の菩提寺である。
1905年に
現在の壮大な姿となる。 -
ベルリン大聖堂がある橋のたもとまで
歩く。
大聖堂は、シュプレー川中州に建てられている。 -
ちょっと違う角度より写す
-
内部に入ってみた。
荘厳な雰囲気だった。
天井のドームから
光が差し込んでいる。 -
パイプオルガンが見えている。
正面。 -
ちょっと、荘厳で美しい
-
同上
-
この地下の霊廟は、
プロイセン初代のフリードリヒ1世
その妻
ホーエンツォレルン家400年の
歴代の棺があるそうだ。 -
モザイクや
ステンドグラスは
やはり荘厳である。
パイプオルガンの
音楽も聞こえていた。 -
同上
-
天井部分を再度
-
パイプオルガンを
大きく -
いろんな角度より内部を
撮影した -
2階に上がると
ミュージアムだった。 -
ドーム縮小版などが
-
これは、掘り出されたものか?
それとも、保存している間に
頭部分が欠落したのか? -
同上
-
同じく
-
ドームそのものの
ミニチュア -
こちらは、絵画で
-
再びミニチュア
-
上の階から
1階内部正面を -
天井ドームに登ってみた。
270段の階段を登った。
そこから、みた景観 -
同じく
-
同上
-
同上である
-
同上である
-
同上である
小さく旧博物館が見えている -
違う角度から横部分を
-
上から、
270段の
螺旋階段を撮影してみた。 -
外に出た。
ベルリン大聖堂を
博物館側から撮影 -
同じくベルリン大聖堂を
博物館側から撮影 -
アルテスミュージアム
旧博物館である。
その全景
建築家シンケル設計
18の円柱が整然と並んでいる。 -
アルテスミュージアム左側から
撮影 -
中央部分を
-
右部分を
-
アルテスミュージアム
の前では、
地元中学生たちの
ブラスバンドの演奏
真っ最中だった。 -
再びドームを
違うように -
アルテスミュージアム
プロイセン王家の芸術コレクション
が中にはつまっているそうである。 -
アルテスミュージアム
プロイセン王家の芸術コレクション
が中にはつまっているそうである。 -
同上、
世界遺産でもある。 -
もう一度
ドーム全景を -
マルクスエンゲルス広場にて。
-
マルクス・エンゲルス広場であるが、
この画像には
当方
セカンドバッグを抱えているが、
このあと、数時間後には、
自分の不注意で、セカンドバッグを
紛失することとなる。
このため、
過失責任自己責任のため、
当方は、己を罰することになる。 -
これは、市庁舎かな。
-
ベルリン中央駅にやってきた。
3日後、この駅からプラハへ行くので、
予めの偵察であった。
周りは、シュプレー川が、
半円形でカーブして流れている。
そこで、シュプレーホーゲン(シュプレー川のカーブ)
と呼ばれ、ドイツ再統一後
新たな再開発地域となって、
2006年
ベルリン中央駅が誕生した。 -
ここは、南口広場である。
-
中に入ってみると
ターミナル駅にふさわしい構造だった。 -
ベルリンが、
中央駅を持つことは、
長年の願いだった。
東西分断時代
当然ながら
インフラ整備はなかなか
進まなかった。
それまでは、
西側の中央駅機能は、
ツォー駅(動物園駅)
東側の中央駅機能は、
ベルリン東駅をターミナル駅としていた。 -
2006年
この駅開業により、
それまでの不便性は
一挙に解決をみる。
東西線は、地上10メートル
南北線は、地下15メートル
その高低差は25メートル。
駅構内には、
カフェ・スーパー・レストラン
あらゆる店が揃うショッピングセンター
でもある。 -
8月9日
この駅からプラハまで
ECユーロシティに乗るので、
どの番線から乗るか
確認。
1番線がそのホームだと判明した。 -
1番線ホームを確認し、
もう一枚
ベルリン中央駅を
撮影した。 -
ベルリン中央駅から、
壁の道を歩いてみた。
この、石畳になっている道
が1961年から28年間
東西ベルリンを隔てる壁そのものが
あったところである。 -
北側横には、美術館があった。
-
インヴァルリー デン通りの
橋のたもとで、
かつての検問所があった印を
発見した。
この場所で、
1961年8月24日
24歳の若者ギュンター・リトフィン
は、境界線シュプレー川を越えようとして
東ドイツ警察官に射殺される事件が起こった。
ベルリンの壁最初の犠牲者が出たところでもある。 -
その近くからの
中央駅北口を望む -
中央駅まで
来てみたので、
一旦ホテルまで帰って
休憩をしようということになった。
路線図を見て、
Sバーンに乗って、
ツオー駅まで行き、
Uバーンに乗り換え
ヴィッテンベルグ駅まで
行くこととした。
ところが、
この乗り継ぎの間で
知らぬ間に自分のセカンドバッグが
なくなっていることを知らず、
ヴィッテンベルグ駅まで来てしまった。
ヴィッテンベルグ駅で降りて、
何か軽いなと思い、
次の瞬間
セカンドバッグが手にないことに
気づき、頭が真っ白になった。
どこでどう、紛失したのかさえ
不明朗で、
自分で自分を責めた。
バッグの中は何が入っていたかさえ、
瞬間思い出せない。
まいった。
徐々に、それでも
冷静に判断した。
バッグ、コンテンツは、
重要なもの
クレジットカード1枚
ホテルキーカード
それに、現金
なによりも、
ドイツ製のゴールドファイル
(GOLD PFEIL)セカンドバッグそのもの
だった。
(このGOLD PFEIL、10年ほど前、
フランフルト国際空港免税店で、
購入したものだった)
すぐにホテルフロントで、
新しいキーカード発行してもらい、
部屋に入り、カードを止める措置を
講じるため日本のカード会社へ電話した。
7日までの使用内容を確認し、
すぐに、停止措置をかけた。
落ち着いてから、
自己の落ち度と記憶力の低下?
注意散漫ではないかと
責めても何も事態は好転しない。
とりあえず、自分を罰しないとと
考え、
飯抜きだ
とひらめいた。
かみさんに言うと
何をバカなことを
かんがえているの
命取られるわけでもわけでもなし
と一蹴されてしまった。
この際、「ドイツのものはドイツへ返還した」
ことにして、
すべて心の奥底にしまい、
今後の教訓にすることとした。
以下後篇へ続きます。
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この旅行記へのコメント (7)
-
- Rolleiguyさん 2017/10/24 11:57:54
- 欧州の大都市
- わきさん
フォローして頂き有難うございます。
わきさんの詳細な旅行記を楽しく拝見しています。
ベルリンには数度行きましたが、まだDDR時代に見たベルリンと、現在のベルリンとの変化の大きさは何だろうと考えたことがあります。チェックポイント・チャーリーを通って東ベルリンに初めて入ったのは1968年でしたが、ウンター・デン・リンデンの大通りの重厚な建物を見て、これが欧州の大都市だと思ったものです。19世紀までの欧州が残っているように思えました。
欧州の歴史を感じる大都市とは、ロンドン、パリ、ローマではなく、ベルリンとマドリードだと言われることがありますが、私も賛成です。今のベルリンは様変わりしてしまったのだろうとも思いますが、DDR時代にかろうじて残っていた、昔を感じることが出来る部分を残していってほしいものです。
Rolleiguy
- わきさん からの返信 2017/10/24 12:41:50
- RE: 欧州の大都市
- Rolleiguyさん
こちらこそ、ありがたく存じます。
スイスの山並みは何とも言えぬ
美しさを感じます。
当方、レマン湖のほとりジュネーブから
足をのばして
言語学者のソシュールの曾祖父だったか
その人が道をつけたというモンブランの
シャモニ氷河などを
3年ほど前に見に行ったことが
ありました。
1年に数センチづつ動いているとか。
欧州国連本部のあるジュネーブでは
本部の前に、10メートル以上ある三本足の大きな壊れた椅子
があったことなど思い出しております。
物価が何とも高すぎて
ちょっとどうかなと思ったことも思い出しました。
続けて拝読させて頂きますので、
宜しくお願い致します。
ベルリンは見るところが多すぎて
3日の旅程ではとても回れませんでしたが
今後いつかまた訪問したいと奥深さを感じました。
わき
-
- jijidarumaさん 2017/10/04 14:58:42
- 「ドイツのものはドイツへ返還した」
- わきさん、
こんにちは。
天気に恵まれたベルリン、何よりの旅です。
死の舞踏・・・北ドイツのSchleswigシュレースヴィヒSchloss Gottorf (Gottorp)ゴットルフ(ゴットルプ)城の博物館で複製を見ました。
リューベックのBernt Notkeベルント・ノトケ(15世紀ドイツの画家)の描いた『死の舞踏』:リューベックの聖マリア教会にあったものは連合軍の爆撃によって破壊されてしまったが、ここの展示は複製で長さ十数メートルもあるという。
尚、ラヴァル(現エストニア、タリン)の聖ニコラス教会にあった『死の舞踏』作品は無事だったと聞きます。
作品の背景になったペストの詳細なる説明、また勉強になりました。
さて、何時の間に無くなっていたゴールドファイル、愛用品の紛失は
残念でした。カードの後始末など慌てますね。
「ドイツのものはドイツへ返還した」・・・言いえて妙な・・・
さすが大人です。
jijidaruma
- わきさん からの返信 2017/10/04 15:53:11
- Re: 「ドイツのものはドイツへ返還した」
- darumaさん、
しばらくです。
日本の旅行解説書で{マリーエン教会入り口部に
「死の舞踏」というのがあります}
とのことでしたので、
これは、中世のペストを描いたものに違いない
とまず思って訪問しましたが、
フレスコ画自体は、ちょっと迫力にかけるかな
というのが、偽らざる最初の印象でした。
darumaさんご紹介の
ゴットルフ(ゴットルプ)城の博物館の複製
は、すごい迫力だったでしょうね。
ヨーロッパでのペスト爆発的流行は、
18世紀1722年のマルセイユでの
流行を最後に、終わりを告げるそうです。
都市環境の整備や、宿主くまねずみのペストに
対する抵抗力の獲得、気候変動などが、
可能性がありますが、真の原因は
謎みたいです。
セカンドバッグ紛失には、いささか
自分の無意識のうちの注意散漫さに、
自戒させられました。
大変嬉しいメッセージを賜りまして、
誠にありがとうございました。
わき
-
- わきさん 2017/10/03 00:45:39
- 旅行記の投票メールを頂きましたが、サイト不具合か不明です。
- 各 位 様
以下のように、
何ゆえか、いいねマークが反映されずに
困っております。
これまで、多数の方々より、
本件ベルリン旅行記の投票メールを頂きましたが
ご覧の通りです。
https://4travel.jp/travelogue/11286081
上記の不具合齟齬につきまして、
10月2日午前中から、何度か
運営サイトに問い合わせいたしておりますので、
しばし、お待ちくださいますよう
ここに、お願い申し上げます。
- わきさん からの返信 2017/10/03 02:08:11
- 本件旅行記をお読み頂き、有難うございます。サイト不具合か不明です。
- 各 位 様
以下のように、
何ゆえか、いいねマークが反映されずに
困っております。
これまで、多数の方々より、
本件ベルリン旅行記の投票メールを頂きましたが
ご覧の通りです。
https://4travel.jp/travelogue/11286081
上記の不具合齟齬につきまして、
10月2日午前中から、何度か
運営サイトに問い合わせいたしておりますので、
しばし、お待ちくださいますよう
ここに、お願い申し上げます。
わき
- わきさん からの返信 2017/10/03 10:35:31
- 本日、朝早く回復復旧致しました。
- 本日、朝早く
或る方からの、連絡メールを
頂き、完全に復旧されていたことに
気付きました。
誠にありがとうございました。
ここに、この場にて、御礼申し上げます。
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