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2017年8月3日<br />アエロフロート、ロシア航空<br />モスクワ・シェレメチェヴォ空港経由にて<br />ワルシャワ・フレデリック・ショパン空港入り、<br />ワルシャワにて3泊<br /><br />その後8月6日午前<br />EC(ユーロシティ特急列車)で、<br />ポーランドからドイツへ<br />国境越えし<br />ベルリン入り、<br />ワルシャワ中央駅ー終点ベルリン・ゲズントブルネン駅<br />約6時間40分(約600キロ)<br />ベルリンにてやはり3泊<br /><br />そしてベルリンから<br />チェコプラハへ、8月9日<br />同じくEC(ユーロシティ特急列車)で、国境越えし<br />ベルリン中央駅ープラハ本駅間(約450キロ)<br />約4時間半<br />プラハでは2泊、<br /><br />その後プラハ、<br />ヴァーツラフ・ハヴェル空港から<br />モスクワ・シェレメチェヴォ経由で<br />8月12日<br />成田へ帰国という旅程です。<br />即ち<br />本年は、<br />ワルシャワーベルリン間<br />ベルリンープラハ間、この3都市を<br />EC特急列車を利用して訪問してみました。<br /><br />ポーランドワルシャワフレデリック・ショパン空港<br />に降り立った時、<br />その昔の落合直文の次のような長編詩の<br />1節が頭をよぎった。<br /><br />「独逸(ドイツ)の国もゆきすぎて/<br />露西亜(ロシア)の境に入りにしが/<br />さむさはいよよまさりつつ/<br />ふらぬ日もなし雪あられ/<br /><br />さびしき里にいでたれば/<br />ここはいずことたずねしに/<br />聞くもあわれやそのむかし/<br />ほろぼされたる波蘭(ポーランド)」<br /><br />上記は、帝国主義が世界を<br />席捲していた明治期1892年、<br />福島安正がベルリンからウラジオストックまで<br />単騎にて横断したときの<br />福島の心境をつづった「騎馬旅行」<br />落合の長編詩「波蘭(ポーランド)懐古」<br />の1節である。<br /><br />今はもう21世紀で、<br />そのような哀切さは全くなく、<br />ワルシャワは、<br />華やかでそれでいて落ち着いた街<br />に変貌していた。<br />2004年には、EU加盟を果たしたポーランド。<br />しかし、<br />18世紀の後半からほぼ200年<br />大国ロシアと<br />プロイセン・オーストリアハンガリー帝国との<br />狭間にて、<br />国として消滅を余儀なくされた歴史を持っていた。<br /><br />特に第二次世界大戦では、ドイツ・ロシアに<br />辛酸をなめされらるという経験までし、<br />ポーランドという言葉<br />を聞くとどうしても<br /><br />「蜂起」と「挫折」と「敗北」<br /><br />という想念ばかりが頭をかすめる。<br />また、「ユダヤ人絶滅収容所」の<br />途方もない暗い響きもある。<br /><br />ユダヤ人、<br />大きく分けると2種類のユダヤ人に分けられよう。<br />一つは、アシュケナジーといわれる。<br /><br />アシュケナジーの人々は、<br />キリスト教圏内<br />のみを行き来し、生活したユダヤ人である。<br />(創世記10の3に、ノアの曾孫、ヤぺテの孫、ゴメルの子<br />として掲げられたアシュケナズの名に由来を持ち、<br />後々ドイツ・東欧に住むユダヤ人を指す言葉となる)<br /><br />今一つは、セファラデである。<br />セファラデとは、<br />キリスト教圏とイスラム教圏を<br />交互に行き来したユダヤ人の総称である。<br />(オバデヤ書20に登場する地名セファラド<br />{後のイベリア半島}に由来し、スペインから<br />西欧・アフリカ・バルカン半島・新大陸アメリカなどに<br />移り住んだユダヤ人の総称である)<br /><br />この上記アシュケナジーの一人に、<br />第二次世界大戦後の戦後処理<br />ニュルンベルグ軍事法廷の表舞台で、<br />数奇な運命と偶然性から<br />フランス代表団専属の鑑定人として立ち会った<br />一人のユダヤ人<br />レオン・ポリアコフがいる。<br /><br />周知のように、<br />彼は、ロシア帝政時代1910年<br />サンクトペテルブルグにて生まれ、<br />1997年没した歴史家であるが、<br />後年、彼はその大著「反ユダヤ主義の歴史」<br />を著す。<br />その著述のきっかけは、<br />ナチスドイツの占領下の<br />パリ南郊外に、<br />ユダヤ系ロシア移民として<br />生命の危険を冒しながら、<br />「ユダヤ人集団」<br />のための救済組織に携わる実体験の中<br />「なにゆえ彼らはわれわれを殺そうとするのか」<br />という単純な問いかけからだったという。<br /><br />彼の大著「反ユダヤ主義の歴史」こそは、<br />2000年にわたる欧州での反ユダヤ主義、<br />ユダヤ人迫害の歴史を正に第1次資料、<br />特にその時々の無名の年代記作家にまで<br />遡って論を展開している<br />数少ない貴重な労作である。<br /><br />二千数百年の時間軸から「反ユダヤ主義」の主題を<br />解き明かして完成するのに二十数年間の歳月を要した<br />ポリアコフの畢生の代表作となっている。<br /><br />表題の写真は、<br />8月3日夜、午後8時45分ごろ<br />ホテル・ポロニア・パレスの外<br />から撮影した周りの景観である。<br />チェックイン後<br />外に出て見ると<br />ちょうど日の入り時間、<br />右側の高層建築物は、<br />文化科学宮殿である。<br />その左ふたつめの建物の前が<br />ワルシャワ中央駅である。<br />文化科学宮殿は、<br />旧ソビエト時代、1950年代に<br />スターリンからの贈り物として<br />プレゼントされたらしいが、<br />現在のワルシャワっ子には<br />極めて評判がよろしくない、ようである。<br /><br />(それでは、<br />本年の旅行を、この<br />ポーランドワルシャワ、<br />ドイツベルリン、<br />チェコプラハ<br />にした準備編から順次記載していきます)<br /><br />今年3月、<br />今年はどこに行こうかと<br />かみさんと相談し、<br />ワルシャワとベルリンは<br />すぐに一致したが、<br />それに加えてチェコ・プラハも<br />追加した。<br /><br />今回の訪問地、<br />ベルリンを中心に置くならば、<br /><br />キーワードは<br />東西ドイツ統一<br />飛び地としてのベルリンの壁崩壊<br />東欧革命<br />EU<br />そして70年遡るが<br />どうしてもやはり<br />第二次世界大戦、<br />ナチズム<br />ポーランド侵攻<br />ホロコースト<br />ハイドリヒ暗殺(プラハ)<br />欧州反ユダヤ主義<br />などだった。<br /><br />加えて日本からワルシャワへ<br />飛ぶ航空会社は、<br />ポーランド<br />ドイツ<br />チェコ<br />この3国と因縁の深いロシア・旧ソヴィエト、<br />に深く関わりのある航空会社でないと面白くない。<br /><br />そこで、<br />この旧ソヴィエト時代悪名高かった<br />アエロフロート・ロシア航空とした。<br />(アエロフロート選択では<br />そのソヴィエト時代、かみさんの言によれば<br />シートは破けてておんぼろだった、<br />いつ飛ぶのか定刻通りということは全然ない、<br />というので、<br />ちょっと勇気を要したが・・・・、)。<br />また、<br />復路プラハ・ハヴェル空港から成田間も<br />同じくアエロフロートとした。<br /><br />そこで、事前準備として、順次<br />次のように考えて行った。<br />1、モスクワ・シェレメチェヴォ空港の詳細図入手、<br /> 乗り換えターミナルは、ターミナルDからDで、間違いないか。<br />2、ワルシャワ・フレデリック・ショパン空港では<br /> 専用の車でホテルまで運んでもらうこと。<br />3、ホテルからワルシャワ中央駅までの距離、(徒歩で何分か)<br /> そしてワルシャワ中央駅の構内詳細図、トラム・地下鉄路線図入手<br />4、ベルリン中央駅の詳細図入手<br /> ベルリンの交通網ー特にUバーン、Sバーンの路線図入手<br />5、ホテルへは、Sバーン、Uバーン乗り継いで<br />どの駅で降りて、そこから<br /> 徒歩で何分か<br />6、プラハ、本駅からホテルまで歩くと、<br /> どの路地を行ったら最短距離か<br />(プラハは過去2回訪問しているので、大体の市街図は頭の中OK)<br />7、ワルシャワーベルリン間のEC特急列車ユーロシティ<br /> 8月6日午前10時前後のものに、乗り<br /> 必ずオープンスタイル形式の横2名 2列形式の<br /> 車両を予約すること、乗車時間6時間半<br />(コンパートメントスタイルの6名がけだと、<br /> スーツケース置く場所<br /> に難があり、狭い閉鎖空間は避けたいと考えた)<br />8、ベルリンープラハ間のEC特急列車ユーロシティ<br /> 8月9日これも、午前中の<br /> 必ずオープンスタイル形式の横2名 2列形式の<br /> 車両を予約すること、乗車時間約4時間45分<br />9、ホテルは、いずれも4つ星以上で<br /> ワルシャワは、市街地ど真ん中 <br /> ベルリンは、往時の西ベルリン中心地クーダム地区から<br /> プラハは、旧市街地で少し静かな方が良い<br /> と考えた。<br />10、プラハホテルから、空港まではやはり<br /> 専用車で、送ってもらうこととした。<br />11、復路ハヴェル空港からの成田までの乗り継ぎ空港<br />シェレメチェヴォ空港ターミナルは、EからDで間違いないか<br />EからDまでどれくらい時間かかるか。<br />などである。<br /><br />4月には、<br />ホテル全て予約完了、<br />成田からモスクワ経由ワルシャワへ(往路)<br />プラハからモスクワ経由成田まで(復路)の航空券<br />Eチケットも入手<br />7月上旬には、<br />上記1から11までも全てクリアして、<br />あとは出発するだけとなった。<br /><br />出発当日、少し早めに成田について、<br />自動チェックイン機械で座席も往路便すべて特定<br />即ちアイルシート通路側から横並び2席。<br />預ける荷物も、ワルシャワになっていること確認し、<br />あとは、GOLDラウンジで、ゆっくりとビールを飲んだ。<br /><br />成田、定刻より、やや遅れて離陸、<br />昔の悪名高きアエロフロートロシア航空と違い<br />この20数年間でアエロフロートロシア航空は、<br />普通の航空会社に生まれ変わっていた。<br />因みに、モスクワとの時差は、<br />-6時間、<br />定刻通りシェレメチェヴォ空港到着、<br />ターミナルDからDへの乗り継ぎには<br />かなり時間かかったが、<br />(パスポートチェック、セキュリティチェック行列長い)<br />無事、ワルシャワ向けて飛び、<br />午後7時過ぎ(日本時間AM2時の深夜)<br />ワルシャワ・ショパン空港へ到着した。<br />迎えたのは、50代の中年男性ドライバーだった。<br />約30分で、ワルシャワ中心街ど真ん中、<br />ポロニアパレスに到着した。<br />ワルシャワ、人口170万強。<br />本日から3日間の街歩きである。<br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br />

ワルシャワ・ベルリン・プラハ旅行記(ワルシャワ編全部、特に1989年からの東欧革命でポーランドは、如何に国内改革を行いEUに復帰したかなどを中心に、古代のユダヤ民族と古代ローマとの関係などを検証する。)

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2017/08/03 - 2017/08/12

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わき

わきさん

2017年8月3日
アエロフロート、ロシア航空
モスクワ・シェレメチェヴォ空港経由にて
ワルシャワ・フレデリック・ショパン空港入り、
ワルシャワにて3泊

その後8月6日午前
EC(ユーロシティ特急列車)で、
ポーランドからドイツへ
国境越えし
ベルリン入り、
ワルシャワ中央駅ー終点ベルリン・ゲズントブルネン駅
約6時間40分(約600キロ)
ベルリンにてやはり3泊

そしてベルリンから
チェコプラハへ、8月9日
同じくEC(ユーロシティ特急列車)で、国境越えし
ベルリン中央駅ープラハ本駅間(約450キロ)
約4時間半
プラハでは2泊、

その後プラハ、
ヴァーツラフ・ハヴェル空港から
モスクワ・シェレメチェヴォ経由で
8月12日
成田へ帰国という旅程です。
即ち
本年は、
ワルシャワーベルリン間
ベルリンープラハ間、この3都市を
EC特急列車を利用して訪問してみました。

ポーランドワルシャワフレデリック・ショパン空港
に降り立った時、
その昔の落合直文の次のような長編詩の
1節が頭をよぎった。

「独逸(ドイツ)の国もゆきすぎて/
露西亜(ロシア)の境に入りにしが/
さむさはいよよまさりつつ/
ふらぬ日もなし雪あられ/

さびしき里にいでたれば/
ここはいずことたずねしに/
聞くもあわれやそのむかし/
ほろぼされたる波蘭(ポーランド)」

上記は、帝国主義が世界を
席捲していた明治期1892年、
福島安正がベルリンからウラジオストックまで
単騎にて横断したときの
福島の心境をつづった「騎馬旅行」
落合の長編詩「波蘭(ポーランド)懐古」
の1節である。

今はもう21世紀で、
そのような哀切さは全くなく、
ワルシャワは、
華やかでそれでいて落ち着いた街
に変貌していた。
2004年には、EU加盟を果たしたポーランド。
しかし、
18世紀の後半からほぼ200年
大国ロシアと
プロイセン・オーストリアハンガリー帝国との
狭間にて、
国として消滅を余儀なくされた歴史を持っていた。

特に第二次世界大戦では、ドイツ・ロシアに
辛酸をなめされらるという経験までし、
ポーランドという言葉
を聞くとどうしても

「蜂起」と「挫折」と「敗北」

という想念ばかりが頭をかすめる。
また、「ユダヤ人絶滅収容所」の
途方もない暗い響きもある。

ユダヤ人、
大きく分けると2種類のユダヤ人に分けられよう。
一つは、アシュケナジーといわれる。

アシュケナジーの人々は、
キリスト教圏内
のみを行き来し、生活したユダヤ人である。
(創世記10の3に、ノアの曾孫、ヤぺテの孫、ゴメルの子
として掲げられたアシュケナズの名に由来を持ち、
後々ドイツ・東欧に住むユダヤ人を指す言葉となる)

今一つは、セファラデである。
セファラデとは、
キリスト教圏とイスラム教圏を
交互に行き来したユダヤ人の総称である。
(オバデヤ書20に登場する地名セファラド
{後のイベリア半島}に由来し、スペインから
西欧・アフリカ・バルカン半島・新大陸アメリカなどに
移り住んだユダヤ人の総称である)

この上記アシュケナジーの一人に、
第二次世界大戦後の戦後処理
ニュルンベルグ軍事法廷の表舞台で、
数奇な運命と偶然性から
フランス代表団専属の鑑定人として立ち会った
一人のユダヤ人
レオン・ポリアコフがいる。

周知のように、
彼は、ロシア帝政時代1910年
サンクトペテルブルグにて生まれ、
1997年没した歴史家であるが、
後年、彼はその大著「反ユダヤ主義の歴史」
を著す。
その著述のきっかけは、
ナチスドイツの占領下の
パリ南郊外に、
ユダヤ系ロシア移民として
生命の危険を冒しながら、
「ユダヤ人集団」
のための救済組織に携わる実体験の中
「なにゆえ彼らはわれわれを殺そうとするのか」
という単純な問いかけからだったという。

彼の大著「反ユダヤ主義の歴史」こそは、
2000年にわたる欧州での反ユダヤ主義、
ユダヤ人迫害の歴史を正に第1次資料、
特にその時々の無名の年代記作家にまで
遡って論を展開している
数少ない貴重な労作である。

二千数百年の時間軸から「反ユダヤ主義」の主題を
解き明かして完成するのに二十数年間の歳月を要した
ポリアコフの畢生の代表作となっている。

表題の写真は、
8月3日夜、午後8時45分ごろ
ホテル・ポロニア・パレスの外
から撮影した周りの景観である。
チェックイン後
外に出て見ると
ちょうど日の入り時間、
右側の高層建築物は、
文化科学宮殿である。
その左ふたつめの建物の前が
ワルシャワ中央駅である。
文化科学宮殿は、
旧ソビエト時代、1950年代に
スターリンからの贈り物として
プレゼントされたらしいが、
現在のワルシャワっ子には
極めて評判がよろしくない、ようである。

(それでは、
本年の旅行を、この
ポーランドワルシャワ、
ドイツベルリン、
チェコプラハ
にした準備編から順次記載していきます)

今年3月、
今年はどこに行こうかと
かみさんと相談し、
ワルシャワとベルリンは
すぐに一致したが、
それに加えてチェコ・プラハも
追加した。

今回の訪問地、
ベルリンを中心に置くならば、

キーワードは
東西ドイツ統一
飛び地としてのベルリンの壁崩壊
東欧革命
EU
そして70年遡るが
どうしてもやはり
第二次世界大戦、
ナチズム
ポーランド侵攻
ホロコースト
ハイドリヒ暗殺(プラハ)
欧州反ユダヤ主義
などだった。

加えて日本からワルシャワへ
飛ぶ航空会社は、
ポーランド
ドイツ
チェコ
この3国と因縁の深いロシア・旧ソヴィエト、
に深く関わりのある航空会社でないと面白くない。

そこで、
この旧ソヴィエト時代悪名高かった
アエロフロート・ロシア航空とした。
(アエロフロート選択では
そのソヴィエト時代、かみさんの言によれば
シートは破けてておんぼろだった、
いつ飛ぶのか定刻通りということは全然ない、
というので、
ちょっと勇気を要したが・・・・、)。
また、
復路プラハ・ハヴェル空港から成田間も
同じくアエロフロートとした。

そこで、事前準備として、順次
次のように考えて行った。
1、モスクワ・シェレメチェヴォ空港の詳細図入手、
 乗り換えターミナルは、ターミナルDからDで、間違いないか。
2、ワルシャワ・フレデリック・ショパン空港では
 専用の車でホテルまで運んでもらうこと。
3、ホテルからワルシャワ中央駅までの距離、(徒歩で何分か)
 そしてワルシャワ中央駅の構内詳細図、トラム・地下鉄路線図入手
4、ベルリン中央駅の詳細図入手
 ベルリンの交通網ー特にUバーン、Sバーンの路線図入手
5、ホテルへは、Sバーン、Uバーン乗り継いで
どの駅で降りて、そこから
 徒歩で何分か
6、プラハ、本駅からホテルまで歩くと、
 どの路地を行ったら最短距離か
(プラハは過去2回訪問しているので、大体の市街図は頭の中OK)
7、ワルシャワーベルリン間のEC特急列車ユーロシティ
 8月6日午前10時前後のものに、乗り
 必ずオープンスタイル形式の横2名 2列形式の
 車両を予約すること、乗車時間6時間半
(コンパートメントスタイルの6名がけだと、
 スーツケース置く場所
 に難があり、狭い閉鎖空間は避けたいと考えた)
8、ベルリンープラハ間のEC特急列車ユーロシティ
 8月9日これも、午前中の
 必ずオープンスタイル形式の横2名 2列形式の
 車両を予約すること、乗車時間約4時間45分
9、ホテルは、いずれも4つ星以上で
 ワルシャワは、市街地ど真ん中 
 ベルリンは、往時の西ベルリン中心地クーダム地区から
 プラハは、旧市街地で少し静かな方が良い
 と考えた。
10、プラハホテルから、空港まではやはり
 専用車で、送ってもらうこととした。
11、復路ハヴェル空港からの成田までの乗り継ぎ空港
シェレメチェヴォ空港ターミナルは、EからDで間違いないか
EからDまでどれくらい時間かかるか。
などである。

4月には、
ホテル全て予約完了、
成田からモスクワ経由ワルシャワへ(往路)
プラハからモスクワ経由成田まで(復路)の航空券
Eチケットも入手
7月上旬には、
上記1から11までも全てクリアして、
あとは出発するだけとなった。

出発当日、少し早めに成田について、
自動チェックイン機械で座席も往路便すべて特定
即ちアイルシート通路側から横並び2席。
預ける荷物も、ワルシャワになっていること確認し、
あとは、GOLDラウンジで、ゆっくりとビールを飲んだ。

成田、定刻より、やや遅れて離陸、
昔の悪名高きアエロフロートロシア航空と違い
この20数年間でアエロフロートロシア航空は、
普通の航空会社に生まれ変わっていた。
因みに、モスクワとの時差は、
-6時間、
定刻通りシェレメチェヴォ空港到着、
ターミナルDからDへの乗り継ぎには
かなり時間かかったが、
(パスポートチェック、セキュリティチェック行列長い)
無事、ワルシャワ向けて飛び、
午後7時過ぎ(日本時間AM2時の深夜)
ワルシャワ・ショパン空港へ到着した。
迎えたのは、50代の中年男性ドライバーだった。
約30分で、ワルシャワ中心街ど真ん中、
ポロニアパレスに到着した。
ワルシャワ、人口170万強。
本日から3日間の街歩きである。








旅行の満足度
4.5
同行者
カップル・夫婦
交通手段
高速・路線バス 徒歩
航空会社
アエロフロート・ロシア航空

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  • ホテルにチェックインしたのは、<br />現地時間午後8時30分くらいだったが、<br />あたりは、いまだ薄暮だった。<br />写真は、ホテル正面である。<br />チェックイン後<br />少し休憩して<br />早速近隣を偵察に出た。<br />前面の道路は、<br />ワルシャワで一番繁華な<br />ィエロゾリムスキェ通り<br />(ポーランドの地名・人名ともに<br />日本人からすると、舌をかみそうな<br />ものばかりである)だった。<br /><br />このホテル、<br />第二次世界大戦で破壊されることなく、<br />戦後<br />米英などの各国大使館もおかれた。<br />戦後は、<br />ポーランドは、ご存じのごとく<br />ソヴィエトの衛星国となっていくが、<br /><br />1989年のベルリンの壁崩壊を経て<br />東欧革命はどうなって行ったのかを少しばかり<br />ポーランドを例に挙げて<br />ここでは検証してみたい。<br /><br />ポーランドの政治的転機は、<br />1989年6月4日であった。<br />この日、東アジアの中国では同じ日に<br />天安門事件が起こった。<br />ポーランドでは、6・4の同じ日<br />約半世紀ぶりに、自由選挙が行われている。<br /><br />結果は、連帯の地滑り的圧勝だった。<br />このことは、正にポーランド国民が<br />「共産主義政権とは、おさらばだ!」<br />と言ったことと等しい。<br />ここから、ポーランドの改革は始まって行くのである。<br /><br />しかしながら、その道のりは険しいものだった。<br />ポーランドは共産圏の中では<br />最も開放的と言われてきたが、<br />1980年に所謂「連帯」が<br />台頭すると翌年これを軍事的に弾圧、<br />ソ連傘下では81年から89年まで<br />軍事政権が続いていた。<br />89年4月には、所謂ワルシャワ円卓会議<br />の席上で、「連帯」組織の合法化が決定される。<br />そして、選挙では「連帯」の圧勝となった。<br /><br />このときに、ソ連の出方が憂慮されたが、<br />当時のソ連書記長ゴルバチョフは、<br />「連帯」が政治の表舞台に登場するのを<br />助け仲介したのである。<br />即ち「連帯」の圧勝は、<br />ソ連リーダーが{既成事実}として<br />やむなく認めたのではなく、<br />平和のためにゴルバチョフが選択した結果だった。<br /><br /><br />

    ホテルにチェックインしたのは、
    現地時間午後8時30分くらいだったが、
    あたりは、いまだ薄暮だった。
    写真は、ホテル正面である。
    チェックイン後
    少し休憩して
    早速近隣を偵察に出た。
    前面の道路は、
    ワルシャワで一番繁華な
    ィエロゾリムスキェ通り
    (ポーランドの地名・人名ともに
    日本人からすると、舌をかみそうな
    ものばかりである)だった。

    このホテル、
    第二次世界大戦で破壊されることなく、
    戦後
    米英などの各国大使館もおかれた。
    戦後は、
    ポーランドは、ご存じのごとく
    ソヴィエトの衛星国となっていくが、

    1989年のベルリンの壁崩壊を経て
    東欧革命はどうなって行ったのかを少しばかり
    ポーランドを例に挙げて
    ここでは検証してみたい。

    ポーランドの政治的転機は、
    1989年6月4日であった。
    この日、東アジアの中国では同じ日に
    天安門事件が起こった。
    ポーランドでは、6・4の同じ日
    約半世紀ぶりに、自由選挙が行われている。

    結果は、連帯の地滑り的圧勝だった。
    このことは、正にポーランド国民が
    「共産主義政権とは、おさらばだ!」
    と言ったことと等しい。
    ここから、ポーランドの改革は始まって行くのである。

    しかしながら、その道のりは険しいものだった。
    ポーランドは共産圏の中では
    最も開放的と言われてきたが、
    1980年に所謂「連帯」が
    台頭すると翌年これを軍事的に弾圧、
    ソ連傘下では81年から89年まで
    軍事政権が続いていた。
    89年4月には、所謂ワルシャワ円卓会議
    の席上で、「連帯」組織の合法化が決定される。
    そして、選挙では「連帯」の圧勝となった。

    このときに、ソ連の出方が憂慮されたが、
    当時のソ連書記長ゴルバチョフは、
    「連帯」が政治の表舞台に登場するのを
    助け仲介したのである。
    即ち「連帯」の圧勝は、
    ソ連リーダーが{既成事実}として
    やむなく認めたのではなく、
    平和のためにゴルバチョフが選択した結果だった。


  • では、「連帯」が勝ったのだが、<br />その後はどういうルートで<br />改革は進んだのか?<br /><br />当時のポーランドの対外債務は、<br />実に400億ドルという途方もないものだった。<br />経済的には急速なインフレのさなかであり、<br />問題は山積されていた。<br />当時のポーランドのワシントン大使館員<br />クルジストフ・クロワツキは、ここでアメリカ臨床実践経済学の大家<br />ジェフリー・サックスなどに相談したという。<br /><br /><br /><br /><br />(ワルシャワ、<br />ポロニア パレスホテルを<br />大写しで撮影してみた。<br />このあと、ちょっと歩いて<br />ワルシャワ中央駅まで行ってみた。<br />なにしろ、三日後には、<br />EC特急に乗るので、予めの駅概略を<br />知るためだった。<br />ホテルから、徒歩4分前後である。)

    では、「連帯」が勝ったのだが、
    その後はどういうルートで
    改革は進んだのか?

    当時のポーランドの対外債務は、
    実に400億ドルという途方もないものだった。
    経済的には急速なインフレのさなかであり、
    問題は山積されていた。
    当時のポーランドのワシントン大使館員
    クルジストフ・クロワツキは、ここでアメリカ臨床実践経済学の大家
    ジェフリー・サックスなどに相談したという。




    (ワルシャワ、
    ポロニア パレスホテルを
    大写しで撮影してみた。
    このあと、ちょっと歩いて
    ワルシャワ中央駅まで行ってみた。
    なにしろ、三日後には、
    EC特急に乗るので、予めの駅概略を
    知るためだった。
    ホテルから、徒歩4分前後である。)

  • ポーランド「連帯」が合法化され、<br />選挙で圧勝したときから、<br />既にポーランド改革に関与した人物たちの頭には、<br />シナリオは出来つつあったようではある。<br />即ち、ポーランドを市場経済へ移行させる<br />計画と立案などは、上述のジェフリー・サックス<br />などが担当した。<br />それには、<br />1、ハイパーインフレ終結と通貨ズウォティの安定化<br />2、個人の経済活動から市場安定化を図り、価格統制の打ち切り<br />による自由化<br />3、国有資産の民営化<br />4、最低限度の社会生活を保障する社会福祉セーフティネットの確立<br />5、西ヨーロッパ経済に関する法制の段階的な取り入れと、<br />いずれはEU入り(当時のEC)して、欧州の一員となること。<br />だった。<br />西側欧州復帰モデルとされたのは、スペインである。<br />スペイン・ポーランドとも、カトリックで、人口約4千万弱。<br />1955年の経済規模も似たり寄ったりで、<br />国内総生産額GDPも、一人当たり520ドルから750ドルで、<br />これが1989年には、<br />スペインの一人当たりGDPは、ポーランドの4倍になっていた。<br /><br /><br />また、東欧民主化に対して<br />財政援助して側面から<br />ポーランドの西側入り<br />具体的にはEU入り(当時はECだった)<br />を助けた人物に<br />ブタペスト出身でユダヤ系投資家<br />ジョージ・ソロスがいた。<br />具体的には、ソロスは、自己の持つ基金にて、<br />FAXやコピー機などの膨大な通信機械を<br />寄贈し、かなりの財政援助で改革を手助けしていたことも、<br />忘れてはいけないことの要因だと考える。<br /><br />(写真は<br />ホテルの前の<br />ワルシャワ街路の<br />標識があったので、<br />撮影したもの。)

    ポーランド「連帯」が合法化され、
    選挙で圧勝したときから、
    既にポーランド改革に関与した人物たちの頭には、
    シナリオは出来つつあったようではある。
    即ち、ポーランドを市場経済へ移行させる
    計画と立案などは、上述のジェフリー・サックス
    などが担当した。
    それには、
    1、ハイパーインフレ終結と通貨ズウォティの安定化
    2、個人の経済活動から市場安定化を図り、価格統制の打ち切り
    による自由化
    3、国有資産の民営化
    4、最低限度の社会生活を保障する社会福祉セーフティネットの確立
    5、西ヨーロッパ経済に関する法制の段階的な取り入れと、
    いずれはEU入り(当時のEC)して、欧州の一員となること。
    だった。
    西側欧州復帰モデルとされたのは、スペインである。
    スペイン・ポーランドとも、カトリックで、人口約4千万弱。
    1955年の経済規模も似たり寄ったりで、
    国内総生産額GDPも、一人当たり520ドルから750ドルで、
    これが1989年には、
    スペインの一人当たりGDPは、ポーランドの4倍になっていた。


    また、東欧民主化に対して
    財政援助して側面から
    ポーランドの西側入り
    具体的にはEU入り(当時はECだった)
    を助けた人物に
    ブタペスト出身でユダヤ系投資家
    ジョージ・ソロスがいた。
    具体的には、ソロスは、自己の持つ基金にて、
    FAXやコピー機などの膨大な通信機械を
    寄贈し、かなりの財政援助で改革を手助けしていたことも、
    忘れてはいけないことの要因だと考える。

    (写真は
    ホテルの前の
    ワルシャワ街路の
    標識があったので、
    撮影したもの。)

  • 他方ポーランド民主化の国内担い手としては、<br />ゲメリク、クーロン、ミフニク、<br />そして、ワレサ、マゾヴィエツキ、<br />バルツエロヴィッチなどがあげられよう。<br />1989年当時のポーランド経済状態は、<br />悲惨だった。<br />ハイパーインフレ、<br />対外債務は400億ドル。<br />社会主義システムは崩壊寸前だったのである。<br /><br />バルツエロヴィッチ(ポーランド財務大臣)は、<br />89年IMF総会で、上述した改革案を提示。<br />西側もこれに乗ることになっていく。<br />最初は、通貨ズウォティの安定化が必要なため<br />10億ドルの安定化基金が創設される。<br />2億ドルは、アメリカが拠出、他の<br />8億ドルは、先進国(日本も入る)が出した。<br />そして、1990年元旦から<br />ポーランド民主化改革が始まるのである。<br /><br />写真は<br />ワルシャワで一番繁華な<br />ィエロゾリムスキェ通り<br />の一枚

    他方ポーランド民主化の国内担い手としては、
    ゲメリク、クーロン、ミフニク、
    そして、ワレサ、マゾヴィエツキ、
    バルツエロヴィッチなどがあげられよう。
    1989年当時のポーランド経済状態は、
    悲惨だった。
    ハイパーインフレ、
    対外債務は400億ドル。
    社会主義システムは崩壊寸前だったのである。

    バルツエロヴィッチ(ポーランド財務大臣)は、
    89年IMF総会で、上述した改革案を提示。
    西側もこれに乗ることになっていく。
    最初は、通貨ズウォティの安定化が必要なため
    10億ドルの安定化基金が創設される。
    2億ドルは、アメリカが拠出、他の
    8億ドルは、先進国(日本も入る)が出した。
    そして、1990年元旦から
    ポーランド民主化改革が始まるのである。

    写真は
    ワルシャワで一番繁華な
    ィエロゾリムスキェ通り
    の一枚

  • 1990年通貨ズウォティは、<br />下落していったが、1ドル=9500ズウォティ<br />で、下げ止まりこれが新しい為替レートとなった。<br />この間、最大の試練は<br />やはり国内重工業だったが、<br />1989年以降<br />西側欧州の会社は、東欧へ投資し、<br />ポーランドに、製造拠点の工場を設けることになってゆく。<br />労働力の安さが一番だった。<br />そして、2年も経過することなく<br />ポーランドはどん底から脱し、成長の過程に入っていく。<br />しかしながら、<br />最大級の難問は、やはり対外西側債務400億ドルを<br />どう解決するかの問題だった。<br /><br />(写真は、同じくワルシャワで一番繁華な<br />ィエロゾリムスキェ通り。<br />トラムが走る抜けるところを<br />。)<br />翌8月4日朝のィエロゾリムスキェ通り。<br />動画<br />https://www.youtube.com/watch?v=ItjM4By6FDQ

    1990年通貨ズウォティは、
    下落していったが、1ドル=9500ズウォティ
    で、下げ止まりこれが新しい為替レートとなった。
    この間、最大の試練は
    やはり国内重工業だったが、
    1989年以降
    西側欧州の会社は、東欧へ投資し、
    ポーランドに、製造拠点の工場を設けることになってゆく。
    労働力の安さが一番だった。
    そして、2年も経過することなく
    ポーランドはどん底から脱し、成長の過程に入っていく。
    しかしながら、
    最大級の難問は、やはり対外西側債務400億ドルを
    どう解決するかの問題だった。

    (写真は、同じくワルシャワで一番繁華な
    ィエロゾリムスキェ通り。
    トラムが走る抜けるところを
    。)
    翌8月4日朝のィエロゾリムスキェ通り。
    動画
    https://www.youtube.com/watch?v=ItjM4By6FDQ

  • では、400億ドルもの<br />対外債務はどうなったか。<br />財政赤字が膨らむ一方だと<br />如何に改革で、利益が出ても<br />債務の利息に回ってしまい、<br />ひとつも経済成長を国民は<br />実感できぬであろう。<br />極めつけの正念場がやってきた。<br /><br />当時の財務相ヴァルツエロビッチは、<br />債務負担の帳消しを求める交渉にのりだすこととなるが、<br />一筋縄ではいかないことは当然だった。<br />借財は、借りたら、返すことが当然で、<br />それが潰えることになれば<br />倫理もくそもないであろうからである。<br />当時のG7財務官僚は、完全否定な反応だった。<br />当然である。<br />それが、2年続く。<br />ところが、<br />大きく動く時がやって来た。<br /><br />(写真は、<br />ちょっと、中央駅寄りから、<br />文化科学宮殿を撮影)

    では、400億ドルもの
    対外債務はどうなったか。
    財政赤字が膨らむ一方だと
    如何に改革で、利益が出ても
    債務の利息に回ってしまい、
    ひとつも経済成長を国民は
    実感できぬであろう。
    極めつけの正念場がやってきた。

    当時の財務相ヴァルツエロビッチは、
    債務負担の帳消しを求める交渉にのりだすこととなるが、
    一筋縄ではいかないことは当然だった。
    借財は、借りたら、返すことが当然で、
    それが潰えることになれば
    倫理もくそもないであろうからである。
    当時のG7財務官僚は、完全否定な反応だった。
    当然である。
    それが、2年続く。
    ところが、
    大きく動く時がやって来た。

    (写真は、
    ちょっと、中央駅寄りから、
    文化科学宮殿を撮影)

  • 突破口は、<br />ドイツのヘルムート・コールとの<br />ヴァルツエロビッチの会談だった。<br />ヴァルツエロビッチは、この会談で<br />事前に誰かに入れ智恵されていたのかも知れないが、<br />1953年の第二次世界大戦後のロンドン合意の<br />顛末をコールに話すのである。<br /><br />ロンドン合意は、<br />戦前からのベルサイユ体制でできた<br />ドイツの空前の債務を帳消しにするという<br />連合国側の民主化したドイツ連邦への<br />手土産みたいなものだった。<br />ヴァルツエロビッチは、この会談で<br />かつて、ドイツもロンドン合意で<br />債務の帳消しという同じ扱いを<br />受けたではないかとその概略を述べたのだ。<br />コールは、結局<br />かつてドイツが受けたと同じ措置を<br />ポーランドに適用すると受け入れたのである。<br />歴史的な瞬間だった。<br /><br />1953年のロンドン合意を<br />持ち出したこと、これこそ決定打だった。<br />これが、突破口となり<br />ついにポーランドは、<br />債務の150億ドルを<br />帳消しにしてもらうことになった。<br />このことで、<br />ポーランドには、<br />新たな希望と新たな経済の機会が<br />与えられ、1990年代ポーランドは<br />信用を回復して行ったのである。<br /><br /><br /><br />(写真は<br />文化科学宮殿を撮影。<br />繰り返しになるが、<br />この建物は、1950年代<br />ソヴィエト・ヨシフ スターリン<br />からの贈り物だという。<br />地元の人間では、<br />眉をひそめながら通り過ぎる人々も<br />多いとか聞いた。)<br />

    突破口は、
    ドイツのヘルムート・コールとの
    ヴァルツエロビッチの会談だった。
    ヴァルツエロビッチは、この会談で
    事前に誰かに入れ智恵されていたのかも知れないが、
    1953年の第二次世界大戦後のロンドン合意の
    顛末をコールに話すのである。

    ロンドン合意は、
    戦前からのベルサイユ体制でできた
    ドイツの空前の債務を帳消しにするという
    連合国側の民主化したドイツ連邦への
    手土産みたいなものだった。
    ヴァルツエロビッチは、この会談で
    かつて、ドイツもロンドン合意で
    債務の帳消しという同じ扱いを
    受けたではないかとその概略を述べたのだ。
    コールは、結局
    かつてドイツが受けたと同じ措置を
    ポーランドに適用すると受け入れたのである。
    歴史的な瞬間だった。

    1953年のロンドン合意を
    持ち出したこと、これこそ決定打だった。
    これが、突破口となり
    ついにポーランドは、
    債務の150億ドルを
    帳消しにしてもらうことになった。
    このことで、
    ポーランドには、
    新たな希望と新たな経済の機会が
    与えられ、1990年代ポーランドは
    信用を回復して行ったのである。



    (写真は
    文化科学宮殿を撮影。
    繰り返しになるが、
    この建物は、1950年代
    ソヴィエト・ヨシフ スターリン
    からの贈り物だという。
    地元の人間では、
    眉をひそめながら通り過ぎる人々も
    多いとか聞いた。)

  • 2002年には、<br />ポーランドの所得は、<br />一人当たり12年間で5割方増えていった。<br />そして東欧では<br />最高の成長率を達成し、<br />2004年5月<br />民主化15年の歳月を経て<br />ついにEUのメンバーとなるのである。<br />経済改革は成功したのだ。<br /><br />ある国の運命は、<br />その国が世界とどんな関係性で<br />結ばれているかによって大きく左右されると考えたい。<br />これにはほぼ例外はない。<br />ポーランドは、<br />西にドイツ東にロシアという大国に<br />挟まれてしかも平坦すぎる国土という状況にあった。<br />地理的な条件は、過去200年間最も不利だったかも知れない。<br />しかし、1989年以降は<br />これこそが最も有利に働いたのである。<br />大戦後平和が戻ると<br />ポーランドの広大な平原は、<br />侵略軍をのせた戦車のかわりに、貨物を載せたトラックや<br />ツーリストを乗せた車を走らせるのに最高の場を提供した。<br />実際1990年代、<br />ポーランドには貿易と海外投資の節目ブームとなり<br />西ヨーロッパ諸国は、こぞって工場などの製造拠点を<br />ポーランドに置いた、結果何10億ドルもの資金が<br />流入した。<br /><br />ある社会が危機に陥った時、もとどおりにするには、<br />ほぼ間違いなく外部からの援助が必要となって来るだろう。<br />国家も一人の人間も同じではないのか。<br />人は、困った時家族友人公的制度など、<br />いろいろなところに助けを求めるのが殆どである。<br />自分の力だけで解決できる人間は殆どいないだろう。<br /><br />今まで、殆どすべての国が<br />歴史のある段階で、<br />何らかの援助を受けてきた。<br />アメリカは、独立戦争ではフランスの支持を得たし、<br />ヨーロッパ・日本は第二次世界大戦後は、<br />アメリカから援助を受けた。<br />その10年後は韓国も同じく恩恵を受けた。<br />ドイツとポーランドは債務免除という<br />大きなものを手にした。<br /><br />しかしながら、昔も今も<br />国際関係国際政治は、<br />赤裸々な弱肉強食の場であることに<br />変わりはない。<br />そのことを踏まえながらも<br />ついに、現在はEU大統領の位置を<br />ポーランドのトウスクが手に入れている。<br />今後EUひいては欧州がどうなっていくのかは<br />未だ不透明のままである。<br /><br />因みにポーランド通貨はズウォティであるが、<br />現時点では通貨をユーロとしていない。<br />ユーロとする機は熟しているが、<br />通貨切り替えには、極めて慎重であるようである。<br /><br /><br /><br />(写真は<br />ワルシャワ一番の繁華な通り<br />イエロゾリムスキエ<br />から撮影。<br />一番左手の奇妙に曲線のビルは、<br />ワルシャワの有名なショッピングモール<br />ZLOTE Tarasyである。)

    2002年には、
    ポーランドの所得は、
    一人当たり12年間で5割方増えていった。
    そして東欧では
    最高の成長率を達成し、
    2004年5月
    民主化15年の歳月を経て
    ついにEUのメンバーとなるのである。
    経済改革は成功したのだ。

    ある国の運命は、
    その国が世界とどんな関係性で
    結ばれているかによって大きく左右されると考えたい。
    これにはほぼ例外はない。
    ポーランドは、
    西にドイツ東にロシアという大国に
    挟まれてしかも平坦すぎる国土という状況にあった。
    地理的な条件は、過去200年間最も不利だったかも知れない。
    しかし、1989年以降は
    これこそが最も有利に働いたのである。
    大戦後平和が戻ると
    ポーランドの広大な平原は、
    侵略軍をのせた戦車のかわりに、貨物を載せたトラックや
    ツーリストを乗せた車を走らせるのに最高の場を提供した。
    実際1990年代、
    ポーランドには貿易と海外投資の節目ブームとなり
    西ヨーロッパ諸国は、こぞって工場などの製造拠点を
    ポーランドに置いた、結果何10億ドルもの資金が
    流入した。

    ある社会が危機に陥った時、もとどおりにするには、
    ほぼ間違いなく外部からの援助が必要となって来るだろう。
    国家も一人の人間も同じではないのか。
    人は、困った時家族友人公的制度など、
    いろいろなところに助けを求めるのが殆どである。
    自分の力だけで解決できる人間は殆どいないだろう。

    今まで、殆どすべての国が
    歴史のある段階で、
    何らかの援助を受けてきた。
    アメリカは、独立戦争ではフランスの支持を得たし、
    ヨーロッパ・日本は第二次世界大戦後は、
    アメリカから援助を受けた。
    その10年後は韓国も同じく恩恵を受けた。
    ドイツとポーランドは債務免除という
    大きなものを手にした。

    しかしながら、昔も今も
    国際関係国際政治は、
    赤裸々な弱肉強食の場であることに
    変わりはない。
    そのことを踏まえながらも
    ついに、現在はEU大統領の位置を
    ポーランドのトウスクが手に入れている。
    今後EUひいては欧州がどうなっていくのかは
    未だ不透明のままである。

    因みにポーランド通貨はズウォティであるが、
    現時点では通貨をユーロとしていない。
    ユーロとする機は熟しているが、
    通貨切り替えには、極めて慎重であるようである。



    (写真は
    ワルシャワ一番の繁華な通り
    イエロゾリムスキエ
    から撮影。
    一番左手の奇妙に曲線のビルは、
    ワルシャワの有名なショッピングモール
    ZLOTE Tarasyである。)

  • この地図は、相当に役に立った。<br />というより、街歩きにはこの地図が頼りだった。

    この地図は、相当に役に立った。
    というより、街歩きにはこの地図が頼りだった。

  • 詳細地図はやはり嬉しい

    詳細地図はやはり嬉しい

  • 同じである。

    同じである。

  • 明け初日は、まずは<br />有名なショッピングモール<br />ZLOTE Tarasyに<br />行ってみた、そのTarasyを背景に。

    明け初日は、まずは
    有名なショッピングモール
    ZLOTE Tarasyに
    行ってみた、そのTarasyを背景に。

  • 同じく。

    同じく。

  • ちょっと違う角度で<br />ZLOTE Tarasyを

    ちょっと違う角度で
    ZLOTE Tarasyを

  • 大写しで

    大写しで

  • この建物の中に入ってみた。<br />3階から外の景観を撮影。<br />

    この建物の中に入ってみた。
    3階から外の景観を撮影。

  • やはりこの文化科学宮殿は<br />目につくのである。

    やはりこの文化科学宮殿は
    目につくのである。

  • 1枚自分を撮った。

    1枚自分を撮った。

  • 違う角度から撮影

    違う角度から撮影

  • 少しずつ歩いて撮影

    少しずつ歩いて撮影

  • しつこく

    しつこく

  • 同上である

    同上である

  • 動画<br />イエロゾリムスキエ通りと、<br />旧市街地への入り口である新世界通りとの交差点からの撮影です。<br />工事中の建物左北へ進むと旧市街地へ。<br />https://www.youtube.com/watch?v=l1pyzWADIBk&amp;t=3s<br /><br />少しぶれが気になるところ。<br /><br /><br />新世界通りにやってきた。<br />ここまで、徒歩で約30分くらいだった。<br />もうすぐ、コペルニクス像があるところ。

    動画
    イエロゾリムスキエ通りと、
    旧市街地への入り口である新世界通りとの交差点からの撮影です。
    工事中の建物左北へ進むと旧市街地へ。
    https://www.youtube.com/watch?v=l1pyzWADIBk&t=3s

    少しぶれが気になるところ。


    新世界通りにやってきた。
    ここまで、徒歩で約30分くらいだった。
    もうすぐ、コペルニクス像があるところ。

  • 左は、聖十字架教会<br />右にコペルニクス像

    左は、聖十字架教会
    右にコペルニクス像

  • ニコラウス・コペルニクス<br />ポーランド出身の天文学者、法学者、医者でもあった。<br />1473年から- 1543年死去<br />地動説を唱える。<br />天体の回転について、<br />を公表するのは、死の直前だった。<br />早く公開していたら、<br />おそらく当時は狂人扱いされただろう。<br />けだし20世紀に大陸移動説を唱えた<br />アルフレート・ヴェーゲナーさえ狂人扱いされたのだからである。<br /><br />動画<br /><br />https://www.youtube.com/watch?v=eH8bTIV8S-k&amp;t=4s<br /><br />コペルニクス像がある広場の様子。<br />左側には、聖十字架教会

    ニコラウス・コペルニクス
    ポーランド出身の天文学者、法学者、医者でもあった。
    1473年から- 1543年死去
    地動説を唱える。
    天体の回転について、
    を公表するのは、死の直前だった。
    早く公開していたら、
    おそらく当時は狂人扱いされただろう。
    けだし20世紀に大陸移動説を唱えた
    アルフレート・ヴェーゲナーさえ狂人扱いされたのだからである。

    動画

    https://www.youtube.com/watch?v=eH8bTIV8S-k&t=4s

    コペルニクス像がある広場の様子。
    左側には、聖十字架教会

  • 広場の歩くところに<br />このようなはめ込みがあった。

    広場の歩くところに
    このようなはめ込みがあった。

  • 同上である

    同上である

  • 地動説が天動説より優位性を持つのは<br />1619年にケプラーが惑星は楕円軌道を描いているという<br />ケプラーの法則を発見してからである。<br />そしてアイザック・ニュートンが1687年に<br />自然哲学の数学的諸原理で万有引力の法則を発表し、<br />これによって地動説は完全なものとなった。

    地動説が天動説より優位性を持つのは
    1619年にケプラーが惑星は楕円軌道を描いているという
    ケプラーの法則を発見してからである。
    そしてアイザック・ニュートンが1687年に
    自然哲学の数学的諸原理で万有引力の法則を発表し、
    これによって地動説は完全なものとなった。

  • この際、何枚も撮影

    この際、何枚も撮影

  • 同じく

    同じく

  • 大きく<br />ニコラウス・コペルニクス

    大きく
    ニコラウス・コペルニクス

  • ポーランド科学アカデミーの建物<br />コペルニクス像の後方に位置している。

    ポーランド科学アカデミーの建物
    コペルニクス像の後方に位置している。

  • 聖十字架教会を再び違うように

    聖十字架教会を再び違うように

  • またコペルニクス像

    またコペルニクス像

  • ポーランド科学アカデミーの柱部分を

    ポーランド科学アカデミーの柱部分を

  • ポーランド科学アカデミーの柱部分を

    ポーランド科学アカデミーの柱部分を

  • ポーランド科学アカデミーの柱部分を

    ポーランド科学アカデミーの柱部分を

  • ポーランド科学アカデミー全体を

    ポーランド科学アカデミー全体を

  • 後ろからも

    後ろからも

  • 背後に、<br />聖十字架教会を

    背後に、
    聖十字架教会を

  • 斜めからも撮影

    斜めからも撮影

  • ポーランド科学アカデミー全体と<br />コペルニクス像

    ポーランド科学アカデミー全体と
    コペルニクス像

  • 聖十字架教会<br />2002年には聖人となった<br />ヨハネパウロ2世(前々ローマ法王)が訪れ、<br />教会が格上げされ<br />大聖堂となった。

    聖十字架教会
    2002年には聖人となった
    ヨハネパウロ2世(前々ローマ法王)が訪れ、
    教会が格上げされ
    大聖堂となった。

  • その入り口前に<br />十字架を背負う<br />キリスト像

    その入り口前に
    十字架を背負う
    キリスト像

  • 聖十字架教会<br />正面から大きく。<br />2002年には聖人となった<br />ヨハネパウロ2世(前々ローマ法王)が訪れ、<br />教会が格上げされ<br />大聖堂となった。

    聖十字架教会
    正面から大きく。
    2002年には聖人となった
    ヨハネパウロ2世(前々ローマ法王)が訪れ、
    教会が格上げされ
    大聖堂となった。

  • 中に入ってみた。

    中に入ってみた。

  • この教会はショパンの心臓が眠る<br />柱がある教会として有名である。

    この教会はショパンの心臓が眠る
    柱がある教会として有名である。

  • この教会はショパンの心臓が眠る<br />柱がある教会として有名である。<br />ポーランドのピアニストと言えば<br />ピアノの詩人と言われたショパンに代表される。<br /><br />映画「戦場のピアニスト」では、<br />ユダヤ系ポーランド人のピアニスト、<br />ウワディスワフ・シュピルマンの体験記<br />が母体となったが、<br />最後のシーンが印象的であった。<br /><br />シュピルマンは、廃墟の中で完全に孤立無援となり、<br />ドイツ軍将校ヴィルム・ホーゼンフェルトに物音で見つかってしまう。<br />シュピルマンを見つけたホーゼンフェルトは尋問し、<br />ピアニストであることを知るや、演奏するように命じる。<br />その見事なピアノの腕前と、<br />ドイツの敗退を予想するホーゼンフェルトは、<br />密かにシュピルマンに食料を差し入れ逃がすことになる<br />あのシーンである。

    この教会はショパンの心臓が眠る
    柱がある教会として有名である。
    ポーランドのピアニストと言えば
    ピアノの詩人と言われたショパンに代表される。

    映画「戦場のピアニスト」では、
    ユダヤ系ポーランド人のピアニスト、
    ウワディスワフ・シュピルマンの体験記
    が母体となったが、
    最後のシーンが印象的であった。

    シュピルマンは、廃墟の中で完全に孤立無援となり、
    ドイツ軍将校ヴィルム・ホーゼンフェルトに物音で見つかってしまう。
    シュピルマンを見つけたホーゼンフェルトは尋問し、
    ピアニストであることを知るや、演奏するように命じる。
    その見事なピアノの腕前と、
    ドイツの敗退を予想するホーゼンフェルトは、
    密かにシュピルマンに食料を差し入れ逃がすことになる
    あのシーンである。

  • この教会はショパンの心臓が眠る<br />柱がある教会として有名である。

    この教会はショパンの心臓が眠る
    柱がある教会として有名である。

  • 大統領官邸の入り口に<br />ユゼフ・ポニアトフスキ像

    大統領官邸の入り口に
    ユゼフ・ポニアトフスキ像

  • 大統領官邸である。

    大統領官邸である。

  • アダム・ミツキェヴィチ<br />1798年12月24日 - 1855年11月26日<br />国民的ロマン派詩人である。

    アダム・ミツキェヴィチ
    1798年12月24日 - 1855年11月26日
    国民的ロマン派詩人である。

  • その土台部分

    その土台部分

  • もう1枚

    もう1枚

  • 更に歩いて行くと<br />左側建物群を<br />見ていたら、<br />うだつが上がっているのを<br />発見した。

    更に歩いて行くと
    左側建物群を
    見ていたら、
    うだつが上がっているのを
    発見した。

  • うだつ、<br />言うまでもないことながら<br />火事の際の<br />火の延焼を防止するための<br />ものである。

    うだつ、
    言うまでもないことながら
    火事の際の
    火の延焼を防止するための
    ものである。

  • 動画<br />https://www.youtube.com/watch?v=MKSJE2HYD0E<br />王宮広場までの途中、<br />櫛比する左側建物群に、<br />うだつがあがっているのを見て<br />撮影。<br />むろん火よけの延焼を防ぐもの。<br />中国の杭州や烏鎮でもよく見かけた。

    動画
    https://www.youtube.com/watch?v=MKSJE2HYD0E
    王宮広場までの途中、
    櫛比する左側建物群に、
    うだつがあがっているのを見て
    撮影。
    むろん火よけの延焼を防ぐもの。
    中国の杭州や烏鎮でもよく見かけた。

  • ついでに、もう一枚も。

    ついでに、もう一枚も。

  • 王宮広場に到着した。

    王宮広場に到着した。

  • 王宮広場を<br />違うように撮影

    王宮広場を
    違うように撮影

  • 王宮広場、<br />次々に撮影

    王宮広場、
    次々に撮影

  • 柱は、1596年<br />ポーランド首都を<br />クラクフからワルシャワに<br />移したジグムント3世の碑である。

    柱は、1596年
    ポーランド首都を
    クラクフからワルシャワに
    移したジグムント3世の碑である。

  • こちらは、<br />王宮尖塔部分

    こちらは、
    王宮尖塔部分

  • 旧市街広場である。<br />このときは、<br />当方赤ワインを飲みながら<br />撮影したと思われる。

    旧市街広場である。
    このときは、
    当方赤ワインを飲みながら
    撮影したと思われる。

  • 旧市街広場である。<br />このときは、<br />当方赤ワインを飲みながら<br />撮影したと思われる

    旧市街広場である。
    このときは、
    当方赤ワインを飲みながら
    撮影したと思われる

  • 旧市街広場である。<br />このときは、<br />当方赤ワインを飲みながら<br />撮影したと思われる

    旧市街広場である。
    このときは、
    当方赤ワインを飲みながら
    撮影したと思われる

  • 更に旧市街広場である。<br /><br />当方赤ワインを飲みながら<br />撮影したと思われる

    更に旧市街広場である。

    当方赤ワインを飲みながら
    撮影したと思われる

  • ワルシャワ歴史博物館の<br />4階から撮影した<br />旧市街広場である。<br /><br />動画<br />https://www.youtube.com/watch?v=FbU_lWYFQYY<br />広場の中心には、人魚像が。<br />右手には剣、左手には、楯を持ち<br />ワルシャワ市を守るという市の紋章にもなっているとか。

    ワルシャワ歴史博物館の
    4階から撮影した
    旧市街広場である。

    動画
    https://www.youtube.com/watch?v=FbU_lWYFQYY
    広場の中心には、人魚像が。
    右手には剣、左手には、楯を持ち
    ワルシャワ市を守るという市の紋章にもなっているとか。

  • ワルシャワ歴史博物館のパンフ。<br />中に入ってみた。

    ワルシャワ歴史博物館のパンフ。
    中に入ってみた。

  • ここからは、<br />ワルシャワ歴史博物館の<br />展示物である。<br />14世紀街の誕生に始まり<br />1990年まで、<br />700年間の歴史を<br />いろいろと展示していた。<br />じっと、凝視して<br />回ったので<br />最後はふらふらだった。

    ここからは、
    ワルシャワ歴史博物館の
    展示物である。
    14世紀街の誕生に始まり
    1990年まで、
    700年間の歴史を
    いろいろと展示していた。
    じっと、凝視して
    回ったので
    最後はふらふらだった。

  • これでもかこれでもかと、<br />展示物は限りなく続いた。<br />10年前、プラハ国立博物館<br />の展示も、これでもかこれでもか<br />と次々に出てくるので、<br />大変疲れたことを覚えているが、<br />あの時と同じインパクトだった。

    これでもかこれでもかと、
    展示物は限りなく続いた。
    10年前、プラハ国立博物館
    の展示も、これでもかこれでもか
    と次々に出てくるので、
    大変疲れたことを覚えているが、
    あの時と同じインパクトだった。

  • 絵画形式で<br />見飽きることが<br />ないように仕組まれていたように<br />感じる。<br />ほんのその一部だけ公開します。

    絵画形式で
    見飽きることが
    ないように仕組まれていたように
    感じる。
    ほんのその一部だけ公開します。

  • 同上である

    同上である

  • 時々、博物館員が、<br />手助けに来てくれた。<br />ポーランド語なので<br />分からなかったが、<br />意思の疎通はできていたように<br />思う。

    時々、博物館員が、
    手助けに来てくれた。
    ポーランド語なので
    分からなかったが、
    意思の疎通はできていたように
    思う。

  • 同上である<br />絵画が連綿と続く

    同上である
    絵画が連綿と続く

  • 同上である<br />絵画が連綿と続く

    同上である
    絵画が連綿と続く

  • 同上である<br />絵画が連綿と続く

    同上である
    絵画が連綿と続く

  • 同上である<br />絵画が連綿と続く

    同上である
    絵画が連綿と続く

  • 同上である<br />絵画が連綿と続く

    同上である
    絵画が連綿と続く

  • 同上である<br />絵画が連綿と続くが、<br />少しずつ違った風景が

    同上である
    絵画が連綿と続くが、
    少しずつ違った風景が

  • 同上である<br />絵画が連綿と続くが、<br />少しずつ違った風景が

    同上である
    絵画が連綿と続くが、
    少しずつ違った風景が

  • 同上である<br />絵画が連綿と続くが、<br />少しずつ違った風景が<br />見えてきた

    同上である
    絵画が連綿と続くが、
    少しずつ違った風景が
    見えてきた

  • 街の成り立ちを

    街の成り立ちを

  • 絵画が連綿と続くが、<br />少しずつ違った風景が<br />見えてきた

    絵画が連綿と続くが、
    少しずつ違った風景が
    見えてきた

  • ワルシャワの街の<br />変化変貌ぶりを

    ワルシャワの街の
    変化変貌ぶりを

  • これは、少し<br />ユニークだった

    これは、少し
    ユニークだった

  • だんだん面白くなる

    だんだん面白くなる

  • 同上である

    同上である

  • うだつの<br />建物群が

    うだつの
    建物群が

  • 同上

    同上

  • 一枚一枚が生きていた。<br />ワルシャワ蜂起かな?

    一枚一枚が生きていた。
    ワルシャワ蜂起かな?

  • 砲弾を浴びて

    砲弾を浴びて

  • その後の<br />回復期

    その後の
    回復期

  • 砲弾を浴びた図

    砲弾を浴びた図

  • 天井の図柄は・・・・、<br />と係館員は語った。<br />なんとなく頷いたりした。

    天井の図柄は・・・・、
    と係館員は語った。
    なんとなく頷いたりした。

  • 素晴らしい天井図柄だった。

    素晴らしい天井図柄だった。

  • これは、1944年<br />ワルシャワ蜂起時の<br />地下へつなぐ階段、<br />当時のものだそうである。

    これは、1944年
    ワルシャワ蜂起時の
    地下へつなぐ階段、
    当時のものだそうである。

  • 再び旧市街広場を<br />撮影した。

    再び旧市街広場を
    撮影した。

  • ワルシャワ市内の<br />トラム・地下鉄詳細な路線図である。<br />これは、実に役に立った。<br />いつも、ズボンのポケットに<br />入れて、持ち歩いた。

    ワルシャワ市内の
    トラム・地下鉄詳細な路線図である。
    これは、実に役に立った。
    いつも、ズボンのポケットに
    入れて、持ち歩いた。

  • ワルシャワでは、<br />交通機関は<br />すべてこのチケットで、OK.<br />共通券である。<br />何度も利用した。<br />路線バス、<br />トラム<br />地下鉄全ての<br />共通券。<br />

    ワルシャワでは、
    交通機関は
    すべてこのチケットで、OK.
    共通券である。
    何度も利用した。
    路線バス、
    トラム
    地下鉄全ての
    共通券。

  • ワルシャワ歴史博物館を<br />見た後、<br />頭が疲労していたので、<br />ワジェンキ公園まで、<br />市内路線バス116番?だったと思う?が、<br />バスに乗った。<br />停留所近くには、<br />自動券売機があったので、<br />それを利用した。<br />バスがやって来ると<br />乗り込んだが<br />自分でチケットを<br />刻印した。<br />刻印が必要なことは<br />日本にいた時から知っていた。<br />バスの後ろから乗り<br />降りるときは前後どちらでもよい。<br />チケットを持っているかどうか<br />の抜き打ち検札は、全くなかった。<br />要するに、<br />欧州は殆どそうだが、<br />勝手に乗って、勝手に降りろよ<br />のシステムである。<br /><br />写真は、<br />ワジェンキ公園のショパン像<br />

    ワルシャワ歴史博物館を
    見た後、
    頭が疲労していたので、
    ワジェンキ公園まで、
    市内路線バス116番?だったと思う?が、
    バスに乗った。
    停留所近くには、
    自動券売機があったので、
    それを利用した。
    バスがやって来ると
    乗り込んだが
    自分でチケットを
    刻印した。
    刻印が必要なことは
    日本にいた時から知っていた。
    バスの後ろから乗り
    降りるときは前後どちらでもよい。
    チケットを持っているかどうか
    の抜き打ち検札は、全くなかった。
    要するに、
    欧州は殆どそうだが、
    勝手に乗って、勝手に降りろよ
    のシステムである。

    写真は、
    ワジェンキ公園のショパン像

  • ワジェンキ公園のショパン像を<br />だんだん大きく撮影

    ワジェンキ公園のショパン像を
    だんだん大きく撮影

  • 自分を1枚

    自分を1枚

  • もう1枚

    もう1枚

  • 更に大きく

    更に大きく

  • またまた1枚

    またまた1枚

  • 更に<br />自分を1枚<br />撮影した

    更に
    自分を1枚
    撮影した

  • この後、<br />バス・トラムを<br />縦横無尽に利用して、<br />一旦、ホテルへ帰り<br />休憩することになった。<br />その後、<br />夜になってから、<br />夕食のために<br />出かけた。<br />行ったのは、<br />ショッピングモール<br />ZLOTE Tarasyの<br />最上階である。<br />そこが、レストランなどの<br />階だった。

    この後、
    バス・トラムを
    縦横無尽に利用して、
    一旦、ホテルへ帰り
    休憩することになった。
    その後、
    夜になってから、
    夕食のために
    出かけた。
    行ったのは、
    ショッピングモール
    ZLOTE Tarasyの
    最上階である。
    そこが、レストランなどの
    階だった。

  • 翌5日の朝、<br />地下鉄を利用。<br />セントラル駅は、<br />イエロゾリムスキエ通り<br />ホテルの真向かいだった。<br />写真は、<br />セントラル駅のホームである。<br />これから、<br />地下鉄・トラムに乗り換えたりして<br />まずは、ポーランド・ユダヤ人博物館へ<br />行ってみた。

    翌5日の朝、
    地下鉄を利用。
    セントラル駅は、
    イエロゾリムスキエ通り
    ホテルの真向かいだった。
    写真は、
    セントラル駅のホームである。
    これから、
    地下鉄・トラムに乗り換えたりして
    まずは、ポーランド・ユダヤ人博物館へ
    行ってみた。

  • ポーランド・ユダヤ人歴史博物館のパンフ。<br />千年の歴史を垣間見た。

    ポーランド・ユダヤ人歴史博物館のパンフ。
    千年の歴史を垣間見た。

  • ポーランド・ユダヤ人博物館<br />の詳細案内書(右)と<br />チケット(左)。<br /><br />動画<br />https://www.youtube.com/watch?v=fHMR8O0JdGE&amp;t=9s<br />ポーランド・ユダヤ人博物館の前広場にて<br />撮影してみた。

    ポーランド・ユダヤ人博物館
    の詳細案内書(右)と
    チケット(左)。

    動画
    https://www.youtube.com/watch?v=fHMR8O0JdGE&t=9s
    ポーランド・ユダヤ人博物館の前広場にて
    撮影してみた。

  • 建物全体を。<br />ワルシャワ・ゲットーがあった跡地である。

    建物全体を。
    ワルシャワ・ゲットーがあった跡地である。

  • ナチズムの暴挙によって,<br />第二次世界大戦最大の汚点として知られる<br />ホロ・コースト。<br />ポーランドに何か所もあった所謂ユダヤ人絶滅収容所。<br />絶滅収容所での犠牲者、その数や、数百万といわれる。<br />ここは、ワルシャワゲットーがあった場所でもある。<br /><br />そもそも<br />ユダヤ人とは、どういう民族だったのだろうか、<br />ここで、少しばかり検証してみたい。<br /><br />ユダヤ人の起源については、<br />旧約聖書の数々の伝承に依るしかないが、<br />周知のように<br />ユダヤ人の別名としては、<br />ヘブライ人<br />イスラエル人があげられる。<br /><br />ヘブライ人とは、<br />「ユーフラテス河の川向こうからやってきた人」の意味であり、<br />荒野から「肥沃な土地へ入り込んで来た外来者」のことである。<br />旧約聖書の用語法では、ヘブライ人とは、<br />常に異民族から自己を区別し、<br />選民としての自分を表現する言葉でもあるようだ。<br /><br />これに対し<br />ユダヤ人の他の別名である<br />イスラエル人とは、<br />ユダヤ民族が「自らを表示するため」に<br />選び用いた名称である。<br />即ち、<br />自分たちの神「エール」である「ヤハヴェ信仰」<br />に基づき結合された「宗教的な部族集団そのもの」<br />がイスラエルである。<br /><br />紀元前6世紀にはバビロン捕囚(強制集団移住)がおこった。<br />ユダヤ人とは、とりもなおさず、<br />このバビロニアに滅ぼされた<br />ユダ王国の人々、<br />つまりバビロン捕囚となった<br />イスラエル民族の上層階級を<br />指して「ユダヤ人」(ユダ王国の人々)<br />という呼称が一般化し、<br />やがて<br />イスラエル人やヘブライ人の呼び方以上に<br />ユダヤ人という呼び方の方が<br />支配的になっていった、ということである。<br />つまり<br />ユダヤ民族を表示する<br />ヘブライ<br />イスラエル<br />ユダヤ<br />の3語は、それぞれ発展史の文脈で意味を持ち、<br />現在まで死語となることなく<br />存続してきたのであるが、<br />上記のうち<br />最も一般化された呼び方が<br />ユダヤ人である。<br /><br />写真は、ポーランド・ユダヤ人博物館の前広場<br />の様子である。<br />このとき、日本人ツーリストは<br />見かけなかった。

    ナチズムの暴挙によって,
    第二次世界大戦最大の汚点として知られる
    ホロ・コースト。
    ポーランドに何か所もあった所謂ユダヤ人絶滅収容所。
    絶滅収容所での犠牲者、その数や、数百万といわれる。
    ここは、ワルシャワゲットーがあった場所でもある。

    そもそも
    ユダヤ人とは、どういう民族だったのだろうか、
    ここで、少しばかり検証してみたい。

    ユダヤ人の起源については、
    旧約聖書の数々の伝承に依るしかないが、
    周知のように
    ユダヤ人の別名としては、
    ヘブライ人
    イスラエル人があげられる。

    ヘブライ人とは、
    「ユーフラテス河の川向こうからやってきた人」の意味であり、
    荒野から「肥沃な土地へ入り込んで来た外来者」のことである。
    旧約聖書の用語法では、ヘブライ人とは、
    常に異民族から自己を区別し、
    選民としての自分を表現する言葉でもあるようだ。

    これに対し
    ユダヤ人の他の別名である
    イスラエル人とは、
    ユダヤ民族が「自らを表示するため」に
    選び用いた名称である。
    即ち、
    自分たちの神「エール」である「ヤハヴェ信仰」
    に基づき結合された「宗教的な部族集団そのもの」
    がイスラエルである。

    紀元前6世紀にはバビロン捕囚(強制集団移住)がおこった。
    ユダヤ人とは、とりもなおさず、
    このバビロニアに滅ぼされた
    ユダ王国の人々、
    つまりバビロン捕囚となった
    イスラエル民族の上層階級を
    指して「ユダヤ人」(ユダ王国の人々)
    という呼称が一般化し、
    やがて
    イスラエル人やヘブライ人の呼び方以上に
    ユダヤ人という呼び方の方が
    支配的になっていった、ということである。
    つまり
    ユダヤ民族を表示する
    ヘブライ
    イスラエル
    ユダヤ
    の3語は、それぞれ発展史の文脈で意味を持ち、
    現在まで死語となることなく
    存続してきたのであるが、
    上記のうち
    最も一般化された呼び方が
    ユダヤ人である。

    写真は、ポーランド・ユダヤ人博物館の前広場
    の様子である。
    このとき、日本人ツーリストは
    見かけなかった。

  • 既に紀元前から<br />ユダヤ民族の絶滅計画は<br />ところどころに散見される。<br />旧約聖書エステル書<br />また<br />旧約聖書外側典マカベ前書<br />などがそうである。<br /><br />写真は、ポーランド・ユダヤ人博物館の前広場<br />の様子である。<br /><br />正面に入り口部分が見えている。

    既に紀元前から
    ユダヤ民族の絶滅計画は
    ところどころに散見される。
    旧約聖書エステル書
    また
    旧約聖書外側典マカベ前書
    などがそうである。

    写真は、ポーランド・ユダヤ人博物館の前広場
    の様子である。

    正面に入り口部分が見えている。

  • では、なにゆえ紀元前から<br />このようなユダヤ人皆殺しみたいな<br />思想が出てきたのだろうか?<br /><br />それは、<br />レオン・ポリアコフ著作<br />ヘレニズム時代の反ユダヤ主義<br />に詳しいが、一言でいえば<br />次のようなことだった。<br />(因みにヘレニズム文化は、周知のごとく<br />オリエント文化とギリシャ文化の融合である)<br />即ち<br />ユダヤ人の選民としてのヤハヴェ神への絶対的服従・ゆるぎない信頼、<br />掟と律法の死守、<br />異教の祭儀式は断固拒絶の宗教的排他性、と不寛容、<br />他の民族との社会的関連を全く許容しない唯一の民族性<br />このことが、<br />彼らを全滅させたいと企てる根拠となったと言えよう。<br /><br />また、古代社会では、<br />ユダヤ人はたびたびユダヤ教布教のための改宗運動を<br />試みているが、(実際布教活動で、一時は大きな成果を挙げていた)<br />このユダヤ教への改宗運動が、<br />他の民族から極めて嫌悪されていたことも事実である。<br />なぜなら、<br />男子には必ず割礼を有無を言わさず強要し、<br />安息日の厳守(人が死のうがどうだろうが、安息日は何もしない)<br />食物規定の細かい厳守(申命記やヨブ記に詳しい)を要求することは<br />いつの時代でも普通の人間ならば守ることは至難であろうからである。<br /><br />写真は、ポーランド・ユダヤ人歴史博物館の前広場<br />の様子である。<br />パネル写真が、並んでいたことを<br />覚えている。<br />

    では、なにゆえ紀元前から
    このようなユダヤ人皆殺しみたいな
    思想が出てきたのだろうか?

    それは、
    レオン・ポリアコフ著作
    ヘレニズム時代の反ユダヤ主義
    に詳しいが、一言でいえば
    次のようなことだった。
    (因みにヘレニズム文化は、周知のごとく
    オリエント文化とギリシャ文化の融合である)
    即ち
    ユダヤ人の選民としてのヤハヴェ神への絶対的服従・ゆるぎない信頼、
    掟と律法の死守、
    異教の祭儀式は断固拒絶の宗教的排他性、と不寛容、
    他の民族との社会的関連を全く許容しない唯一の民族性
    このことが、
    彼らを全滅させたいと企てる根拠となったと言えよう。

    また、古代社会では、
    ユダヤ人はたびたびユダヤ教布教のための改宗運動を
    試みているが、(実際布教活動で、一時は大きな成果を挙げていた)
    このユダヤ教への改宗運動が、
    他の民族から極めて嫌悪されていたことも事実である。
    なぜなら、
    男子には必ず割礼を有無を言わさず強要し、
    安息日の厳守(人が死のうがどうだろうが、安息日は何もしない)
    食物規定の細かい厳守(申命記やヨブ記に詳しい)を要求することは
    いつの時代でも普通の人間ならば守ることは至難であろうからである。

    写真は、ポーランド・ユダヤ人歴史博物館の前広場
    の様子である。
    パネル写真が、並んでいたことを
    覚えている。

  • では、古代ローマ人とユダヤ人の出会いは<br />如何なるものだったのか。<br />ここでは、西暦70年<br />所謂ユダヤ戦役によって、<br />エルサレム神殿が跡形もなくなるまでの<br />概略を見て見たい。<br />参考にしたのは、フラヴィウス・ヨセフス・<br />(ティトゥス帝=フラヴィウス・ティトゥスの後々の親友になる男)<br />のユダヤ戦記その他である。<br />余談になるが、<br />古代ローマの氏名の呼び方は、現在の日本のように、<br />先に家門が来て、<br />後にファーストネームが来る。<br />例えばユリウス・カエサルにしても、<br />ユリウス家のカエサルというふうにである。<br /><br /><br />写真は、ポーランド・ユダヤ人博物館の前広場<br />の様子。<br />パネル写真が、並んでいたことを<br />覚えている。

    では、古代ローマ人とユダヤ人の出会いは
    如何なるものだったのか。
    ここでは、西暦70年
    所謂ユダヤ戦役によって、
    エルサレム神殿が跡形もなくなるまでの
    概略を見て見たい。
    参考にしたのは、フラヴィウス・ヨセフス・
    (ティトゥス帝=フラヴィウス・ティトゥスの後々の親友になる男)
    のユダヤ戦記その他である。
    余談になるが、
    古代ローマの氏名の呼び方は、現在の日本のように、
    先に家門が来て、
    後にファーストネームが来る。
    例えばユリウス・カエサルにしても、
    ユリウス家のカエサルというふうにである。


    写真は、ポーランド・ユダヤ人博物館の前広場
    の様子。
    パネル写真が、並んでいたことを
    覚えている。

  • ユダヤ人が、古代ローマ人と最初の接触を<br />持ったのは、紀元前2世紀前半。<br />時のシリア王アンテオコスが、<br />ユダヤ教の禁止をユダヤ人に求めたことが<br />きっかけだった。<br />このとき、ユダヤ教そのものを禁止されようとしていたのだから、<br />ユダヤ人たちにとっては危機存亡の時で、<br />当時世界の覇者である宗教的寛容さで<br />知られた共和政ローマに救いを求めたのである。<br /><br />敵対者は滅ぼすが、<br />頼って来る民族は<br />友として迎え、援助し<br />自治権まで与えるという<br />共和政ローマに<br />ユダヤ民族は賭けたのである。<br />紀元前161年のことであった。<br />ローマの元老院は、ユダヤ民族と<br />同盟条約を締結。<br />これにより、ユダヤ民族は、<br />紀元前142年<br />シリアから独立し、<br />ユダヤ王国を宣言。<br />これをローマもすぐ承認する、<br />そして、ローマの保護下で、<br />ユダヤ民族は保護と特権を与えられていく。<br />特にユダヤ人を寵愛した者に、<br />かの知らぬものはいないユリウス・カエサルがいた。<br /><br />写真は、ポーランド・ユダヤ人博物館の前広場<br />の様子。<br />パネル写真が、並んでいたことを<br />覚えている。

    ユダヤ人が、古代ローマ人と最初の接触を
    持ったのは、紀元前2世紀前半。
    時のシリア王アンテオコスが、
    ユダヤ教の禁止をユダヤ人に求めたことが
    きっかけだった。
    このとき、ユダヤ教そのものを禁止されようとしていたのだから、
    ユダヤ人たちにとっては危機存亡の時で、
    当時世界の覇者である宗教的寛容さで
    知られた共和政ローマに救いを求めたのである。

    敵対者は滅ぼすが、
    頼って来る民族は
    友として迎え、援助し
    自治権まで与えるという
    共和政ローマに
    ユダヤ民族は賭けたのである。
    紀元前161年のことであった。
    ローマの元老院は、ユダヤ民族と
    同盟条約を締結。
    これにより、ユダヤ民族は、
    紀元前142年
    シリアから独立し、
    ユダヤ王国を宣言。
    これをローマもすぐ承認する、
    そして、ローマの保護下で、
    ユダヤ民族は保護と特権を与えられていく。
    特にユダヤ人を寵愛した者に、
    かの知らぬものはいないユリウス・カエサルがいた。

    写真は、ポーランド・ユダヤ人博物館の前広場
    の様子。
    パネル写真が、並んでいたことを
    覚えている。

  • ユダヤ人に与えた、古代ローマからの<br />特権と保護は主に次のようなものだった。<br /><br />1、小アジアにおけるローマ市民権を<br />持ったユダヤ人に対する兵役の免除<br />(この特権は、BC43年にはあらゆるユダヤ人<br />に対し、全ての兵役を免除と拡大された)<br />2、ユダヤ人が独自の集会所所謂シナゴーグ<br />を持つことの保障<br />3、ユダヤ人団体内部係争は、独自の裁判権を行使する自治権<br />4、安息日の厳守とその保障<br /><br />写真は、広場に展示されたもの。

    ユダヤ人に与えた、古代ローマからの
    特権と保護は主に次のようなものだった。

    1、小アジアにおけるローマ市民権を
    持ったユダヤ人に対する兵役の免除
    (この特権は、BC43年にはあらゆるユダヤ人
    に対し、全ての兵役を免除と拡大された)
    2、ユダヤ人が独自の集会所所謂シナゴーグ
    を持つことの保障
    3、ユダヤ人団体内部係争は、独自の裁判権を行使する自治権
    4、安息日の厳守とその保障

    写真は、広場に展示されたもの。

  • 上記のユダヤ人への保護は、<br />カエサルーアウグストゥス(初代皇帝)<br />ーティベリウス(2代皇帝)と<br />続いていく。<br /><br />ところが、<br />3代目のカリグラは、<br />詳細の事実関係は省くが、<br />何とユダヤ民族にとって<br />最も神聖な場所エルサレム(シオン)の神殿に<br />カリグラ自身の神像を建てることを命じたのである。<br /><br />ユダヤ人にとって、<br />可視的な偶像皇帝像を立てることは、<br />ユダヤの戒律を真っ向から否定するものである。<br />ユダヤ人大群衆の反対と嘆願、<br />ローマ保護下の傀儡政権ユダヤ王も<br />「これだけは・・・・」と神像建設中止を<br />必死で求めたので、計画はストップされたが、<br />カリグラは引き下がらず、一時は不穏な空気が<br />覆った。<br />このあと、ローマでカリグラは、<br />自分を守る親衛隊隊長に暗殺されてしまうので、<br />この問題は一応ペンディングされた。<br /><br />カリグラのあと4代目皇帝になったのは、<br />クラウディウスだった、<br />クラウディウスは、<br />AD41年に<br />ユダヤ王にアグリッパを任命<br />ユダヤは一時的に<br />穏便なときを過ごしたが、<br />僅か3年でアグリッパ治世が<br />終わり、ローマ直轄の属州に<br />再びなってしまう。<br />そして、ローマ皇帝クラウディウスは、<br />最後は妻に毒殺されて、<br />5代目皇帝にはあのネロが推挙されるのである。<br /><br />写真は、<br />ワルシャワゲットー記念碑である。

    上記のユダヤ人への保護は、
    カエサルーアウグストゥス(初代皇帝)
    ーティベリウス(2代皇帝)と
    続いていく。

    ところが、
    3代目のカリグラは、
    詳細の事実関係は省くが、
    何とユダヤ民族にとって
    最も神聖な場所エルサレム(シオン)の神殿に
    カリグラ自身の神像を建てることを命じたのである。

    ユダヤ人にとって、
    可視的な偶像皇帝像を立てることは、
    ユダヤの戒律を真っ向から否定するものである。
    ユダヤ人大群衆の反対と嘆願、
    ローマ保護下の傀儡政権ユダヤ王も
    「これだけは・・・・」と神像建設中止を
    必死で求めたので、計画はストップされたが、
    カリグラは引き下がらず、一時は不穏な空気が
    覆った。
    このあと、ローマでカリグラは、
    自分を守る親衛隊隊長に暗殺されてしまうので、
    この問題は一応ペンディングされた。

    カリグラのあと4代目皇帝になったのは、
    クラウディウスだった、
    クラウディウスは、
    AD41年に
    ユダヤ王にアグリッパを任命
    ユダヤは一時的に
    穏便なときを過ごしたが、
    僅か3年でアグリッパ治世が
    終わり、ローマ直轄の属州に
    再びなってしまう。
    そして、ローマ皇帝クラウディウスは、
    最後は妻に毒殺されて、
    5代目皇帝にはあのネロが推挙されるのである。

    写真は、
    ワルシャワゲットー記念碑である。

  • 西暦66年に勃発するユダヤのローマに対する<br />反乱の原因を<br />フラヴィウス・ヨセフスは、<br />ローマから送り込まれた4名の<br />ユダヤ総督の悪政にあったとしている。<br /><br />この4名はいずれも、ネロが皇帝をしていた時の<br />総督だった。<br /><br />特に戦乱へ突入する直前の最後の総督、<br />フローロスの統治は、<br />前の3名に輪をかけてひどいもので、<br />強奪と暴虐の限りを尽くしたものだった。<br /><br />多数の女子どもまで殺害される始末で、<br />ユダヤ民衆の憎しみと怒りは耐え難かった。<br />案の定、その時はやってきた。<br /><br />皇帝に納めるという言う口実で、<br />総督フローロスがエルサレムの神殿の<br />宝物庫から17タレントの金貨を<br />没収したのがきっかけだった。<br />1タレントは、六千ドラクマに相当する。<br />庶民の当時の生活水準にすると、<br />560人分の年収である。<br /><br />聖なる神殿を汚されては、<br />ユダヤの民衆はもはや耐えることができず、<br />たちまち暴動が起こった。<br /><br />世界帝国の覇者であるローマを向こうに回して、<br />敵として戦うことが如何に無謀で絶望的な戦いになるか<br />百も承知で反乱は勃発したのだ。<br /><br /><br />再び博物館の前広場<br />の様子。<br />

    西暦66年に勃発するユダヤのローマに対する
    反乱の原因を
    フラヴィウス・ヨセフスは、
    ローマから送り込まれた4名の
    ユダヤ総督の悪政にあったとしている。

    この4名はいずれも、ネロが皇帝をしていた時の
    総督だった。

    特に戦乱へ突入する直前の最後の総督、
    フローロスの統治は、
    前の3名に輪をかけてひどいもので、
    強奪と暴虐の限りを尽くしたものだった。

    多数の女子どもまで殺害される始末で、
    ユダヤ民衆の憎しみと怒りは耐え難かった。
    案の定、その時はやってきた。

    皇帝に納めるという言う口実で、
    総督フローロスがエルサレムの神殿の
    宝物庫から17タレントの金貨を
    没収したのがきっかけだった。
    1タレントは、六千ドラクマに相当する。
    庶民の当時の生活水準にすると、
    560人分の年収である。

    聖なる神殿を汚されては、
    ユダヤの民衆はもはや耐えることができず、
    たちまち暴動が起こった。

    世界帝国の覇者であるローマを向こうに回して、
    敵として戦うことが如何に無謀で絶望的な戦いになるか
    百も承知で反乱は勃発したのだ。


    再び博物館の前広場
    の様子。

  • 怒りを爆発させたユダヤの民は、<br />自らを制止する自制力を失ってしまったのだ。<br />ユダヤ側の主導権は、<br />次第に戦闘態勢を頑固に主張する<br />急進派で固められていく。<br />エルサレムに配置されていた<br />ローマ兵は<br />殺されたり、撃退されて、<br />シリア総督のローマ軍隊までもが<br />敗北し、ユダヤ反乱軍の士気は<br />高まりを見せた。<br />決して戦争を望んでいなかった<br />ユダヤの民たちも次第に急進派反乱軍に<br />引きずられていった。<br /><br /><br /><br /><br />ワルシャワゲットー記念碑を<br />横から写す。

    怒りを爆発させたユダヤの民は、
    自らを制止する自制力を失ってしまったのだ。
    ユダヤ側の主導権は、
    次第に戦闘態勢を頑固に主張する
    急進派で固められていく。
    エルサレムに配置されていた
    ローマ兵は
    殺されたり、撃退されて、
    シリア総督のローマ軍隊までもが
    敗北し、ユダヤ反乱軍の士気は
    高まりを見せた。
    決して戦争を望んでいなかった
    ユダヤの民たちも次第に急進派反乱軍に
    引きずられていった。




    ワルシャワゲットー記念碑を
    横から写す。

  • こうして、エルサレムのユダヤ人たちは、<br />自殺行為にも等しい全面戦争へ<br />いくこととなる。<br />このことを知った皇帝ネロは、<br />ユダヤ反乱軍のせん滅を期して<br />ヴェスパシアヌスの登用を決めた。<br /><br />AD67年、六万の大軍を率いた<br />ヴェスパシアヌスは、<br />フェニキアの海岸都市<br />プトレマイスを経て、<br />パレスチナ・ガリラや地方を制圧、<br />統率力で劣るユダヤ反乱軍は、<br />有能な精鋭のローマ軍団の敵では<br />なかった。(4枚下*印に、詳細を記載)<br /><br />AD68年、ヴェスパシアヌスは、<br />サマリアのカエサリアに滞在、<br />いよいよエルサレム攻略だというとき、<br />本国ローマでの皇帝ネロの自殺を<br />聞かされるのである。<br /><br />一旦、エルサレムユダヤ総攻撃は中断される。<br /><br />ヴェスパシアヌスは、ローマ帝国全体が<br />動揺していることにその動静をうかがい、<br />慎重に行動は控えていたのである。<br /><br /><br /><br /><br /><br />記念碑広場の<br />石碑を写す。

    こうして、エルサレムのユダヤ人たちは、
    自殺行為にも等しい全面戦争へ
    いくこととなる。
    このことを知った皇帝ネロは、
    ユダヤ反乱軍のせん滅を期して
    ヴェスパシアヌスの登用を決めた。

    AD67年、六万の大軍を率いた
    ヴェスパシアヌスは、
    フェニキアの海岸都市
    プトレマイスを経て、
    パレスチナ・ガリラや地方を制圧、
    統率力で劣るユダヤ反乱軍は、
    有能な精鋭のローマ軍団の敵では
    なかった。(4枚下*印に、詳細を記載)

    AD68年、ヴェスパシアヌスは、
    サマリアのカエサリアに滞在、
    いよいよエルサレム攻略だというとき、
    本国ローマでの皇帝ネロの自殺を
    聞かされるのである。

    一旦、エルサレムユダヤ総攻撃は中断される。

    ヴェスパシアヌスは、ローマ帝国全体が
    動揺していることにその動静をうかがい、
    慎重に行動は控えていたのである。





    記念碑広場の
    石碑を写す。

  • では、ネロはなにゆえ自殺する羽目になったのか。<br />これを、記載するとなると長くなるので、<br />詳細は省きたいが、<br />概略は次のとおりだった。<br /><br />色々と様々な経緯があるが、<br />1、ネロ暗殺計画、「ピソの陰謀」事件からみてみたい。<br />この事件計画の参加者は、20名から30名といわれる。<br />全員が、私利私欲ではなく<br />ローマ帝国の将来を憂慮する思いからだった。<br /><br />ネロ暗殺陰謀に加担したのは、<br />全員がネロと親しい人々だった。<br /><br />ネロの家庭教師で顧問だったあの<br />有名なセネカさえ参加している。<br /><br />しかし、この計画はあることから、<br />事前に発覚しピソもセネカも自死することになる。<br />そして、計画ではネロ殺害の実行者に予定されていたのは、<br />何と近衛兵軍団大隊長のフラウスだった。<br />フラウスは、ネロの尋問で、次のように答えている。<br />即ち<br />「あなたが、皇帝にふさわしく、敬意を払って値する<br />人であったころは、私ほどあなたに忠実な部下は<br />いなかったでしょう。しかし、あなたが、母を殺し、<br />妻を殺し、競技会に夢中になり、歌手稼業に熱中し、<br />放火まで犯すようになってからは、あなたへの<br />感情は、憎悪しかなくなったのです。」<br /><br />また、百人隊長のアルプルスも、ネロの尋問に、<br />「あなたの犯す数々の誤りを正すにはあなたを<br />殺すしかなかったのです。」<br /><br />この陰謀があってから、ネロは<br />警戒心の塊になった。<br /><br />2、「ベネヴェントの陰謀」<br />これは、ローマ軍団のエリート青年将校たちの<br />ネロ暗殺計画だった。<br />これも、なぜか芽のうちに摘まれて<br />10人全員が、死刑となっている。<br /><br />3、3名の司令官の死事件<br />これは、ネロがギリシャ旅行中に、<br />わざわざ、ライン川防衛の二人の司令官<br />スクリボ二ウス兄弟と、<br />シリア属州総督でもあった名将コルブロの<br />3名をギリシャに呼びつけ、<br />死の通知を突き付けた事件である。<br /><br />この事件があってから、<br />ローマ市民のネロを見る目は明らかに変わっていく。<br />ローマ全軍をネロは敵に回すことになる。<br />そして、イベリア半島全体が、反ネロで立つこととなる。<br />総大将は、北スペイン北東部属州総督ガルバだった。<br /><br />さすがに、ネロもこれには、仰天しローマにもどっている。<br /><br />元老院は、ガルバを、<br />元老院最終勧告で「国家の敵」と議決。<br />ところが、今度は市民たちがそれに怒りを発したのだ。<br />元老院は、「国家の敵」と議決したガルバと、<br />秘かに連絡を取り始める。<br /><br />最後は、元老院も市民も<br />逆にネロを「国家の敵」とした。<br /><br />ネロは急坂を転げ落ちるように転落していく。<br />誰からも見捨てられたネロに最後までつきあったのは、<br />たったの4人だったという。<br />そして、自殺。<br />ネロ30歳、AD68年6月9日だった。<br /><br />このあと、ローマは、1年半内乱状態となる。<br /><br /><br />写真は記念碑広場の<br />石碑拡大して。

    では、ネロはなにゆえ自殺する羽目になったのか。
    これを、記載するとなると長くなるので、
    詳細は省きたいが、
    概略は次のとおりだった。

    色々と様々な経緯があるが、
    1、ネロ暗殺計画、「ピソの陰謀」事件からみてみたい。
    この事件計画の参加者は、20名から30名といわれる。
    全員が、私利私欲ではなく
    ローマ帝国の将来を憂慮する思いからだった。

    ネロ暗殺陰謀に加担したのは、
    全員がネロと親しい人々だった。

    ネロの家庭教師で顧問だったあの
    有名なセネカさえ参加している。

    しかし、この計画はあることから、
    事前に発覚しピソもセネカも自死することになる。
    そして、計画ではネロ殺害の実行者に予定されていたのは、
    何と近衛兵軍団大隊長のフラウスだった。
    フラウスは、ネロの尋問で、次のように答えている。
    即ち
    「あなたが、皇帝にふさわしく、敬意を払って値する
    人であったころは、私ほどあなたに忠実な部下は
    いなかったでしょう。しかし、あなたが、母を殺し、
    妻を殺し、競技会に夢中になり、歌手稼業に熱中し、
    放火まで犯すようになってからは、あなたへの
    感情は、憎悪しかなくなったのです。」

    また、百人隊長のアルプルスも、ネロの尋問に、
    「あなたの犯す数々の誤りを正すにはあなたを
    殺すしかなかったのです。」

    この陰謀があってから、ネロは
    警戒心の塊になった。

    2、「ベネヴェントの陰謀」
    これは、ローマ軍団のエリート青年将校たちの
    ネロ暗殺計画だった。
    これも、なぜか芽のうちに摘まれて
    10人全員が、死刑となっている。

    3、3名の司令官の死事件
    これは、ネロがギリシャ旅行中に、
    わざわざ、ライン川防衛の二人の司令官
    スクリボ二ウス兄弟と、
    シリア属州総督でもあった名将コルブロの
    3名をギリシャに呼びつけ、
    死の通知を突き付けた事件である。

    この事件があってから、
    ローマ市民のネロを見る目は明らかに変わっていく。
    ローマ全軍をネロは敵に回すことになる。
    そして、イベリア半島全体が、反ネロで立つこととなる。
    総大将は、北スペイン北東部属州総督ガルバだった。

    さすがに、ネロもこれには、仰天しローマにもどっている。

    元老院は、ガルバを、
    元老院最終勧告で「国家の敵」と議決。
    ところが、今度は市民たちがそれに怒りを発したのだ。
    元老院は、「国家の敵」と議決したガルバと、
    秘かに連絡を取り始める。

    最後は、元老院も市民も
    逆にネロを「国家の敵」とした。

    ネロは急坂を転げ落ちるように転落していく。
    誰からも見捨てられたネロに最後までつきあったのは、
    たったの4人だったという。
    そして、自殺。
    ネロ30歳、AD68年6月9日だった。

    このあと、ローマは、1年半内乱状態となる。


    写真は記念碑広場の
    石碑拡大して。

  • 1年半のローマ帝国の内乱。<br />皇帝になったのは、<br />ガルバ(7ヶ月後に暗殺)、<br />次にオトー(ネロの幼友達で、妻をネロに横取りされた男)<br />だったが、3カ月で自殺、<br />そして、ついに<br />ヴェスパシアヌスは、<br />アレクサンドリアにおいて、<br />彼の軍団とシリア駐屯の軍団より、<br />皇帝に祭り上げられる。<br />皇帝となったヴェスパシアヌスは、<br />アレクサンドリアにとどまり、<br />エルサレム進攻を長男ティトゥスに全権を<br />委ね、エルサレムを撃つ決断をした。<br /><br /><br />写真は、中の様子である

    1年半のローマ帝国の内乱。
    皇帝になったのは、
    ガルバ(7ヶ月後に暗殺)、
    次にオトー(ネロの幼友達で、妻をネロに横取りされた男)
    だったが、3カ月で自殺、
    そして、ついに
    ヴェスパシアヌスは、
    アレクサンドリアにおいて、
    彼の軍団とシリア駐屯の軍団より、
    皇帝に祭り上げられる。
    皇帝となったヴェスパシアヌスは、
    アレクサンドリアにとどまり、
    エルサレム進攻を長男ティトゥスに全権を
    委ね、エルサレムを撃つ決断をした。


    写真は、中の様子である

  • (エルサレム炎上を書く前に、<br />省くことができぬ人間がいるので、<br />先にそちらから記載してみたい。)<br /><br /><br /><br />後年ユダヤ戦役を書くこととなる<br />フラヴィウス・ヨセフス・<br />(ティトゥス帝=フラヴィウス・ティトゥスの後々の親友になる男)<br />のことである。<br />ユダヤ人<br />AD37年生まれ、ネロと同じ年うまれ。<br />母は、ユダヤ王家、父方は祭司、<br />ユダヤの上流階級うまれである。<br /><br />27歳時、AD64年にはローマに<br />反乱で連行されたユダヤ人の釈放陳情で、<br />ローマを訪問している。<br />自分の目で、帝国の首都がどんなところかを、<br />確かめている。<br />後年、ユダヤ戦役で、投降して進路を変更するのは、<br />このときの体験があったからではないか。<br />帰国したのは、AD66年秋、<br />まもなく、<br />ローマ軍を迎え撃つ最前線の指揮官にされている。<br /><br />「ユダヤ戦記」は、このような人物が書いた<br />ユダヤ同胞の破滅の物語である。<br />また、彼の著作である大変な傑作となる<br />ユダヤ古代誌も<br />書いている。<br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br />同じく中の様子を

    (エルサレム炎上を書く前に、
    省くことができぬ人間がいるので、
    先にそちらから記載してみたい。)



    後年ユダヤ戦役を書くこととなる
    フラヴィウス・ヨセフス・
    (ティトゥス帝=フラヴィウス・ティトゥスの後々の親友になる男)
    のことである。
    ユダヤ人
    AD37年生まれ、ネロと同じ年うまれ。
    母は、ユダヤ王家、父方は祭司、
    ユダヤの上流階級うまれである。

    27歳時、AD64年にはローマに
    反乱で連行されたユダヤ人の釈放陳情で、
    ローマを訪問している。
    自分の目で、帝国の首都がどんなところかを、
    確かめている。
    後年、ユダヤ戦役で、投降して進路を変更するのは、
    このときの体験があったからではないか。
    帰国したのは、AD66年秋、
    まもなく、
    ローマ軍を迎え撃つ最前線の指揮官にされている。

    「ユダヤ戦記」は、このような人物が書いた
    ユダヤ同胞の破滅の物語である。
    また、彼の著作である大変な傑作となる
    ユダヤ古代誌も
    書いている。







    同じく中の様子を

  • *印<br />ヴェスパシアヌス率いる<br />ローマ軍団は、主戦力<br />3個軍団<br />これに加えて<br />北東ユダヤを統治するアグリッパ2世のユダヤ兵<br />アラビア兵も加わっている。<br /><br />このときに、<br />ヨセフス率いるユダヤ勢とローマ軍は<br />闘っている。<br />(ヨタパタの戦い)<br />結果は、ローマが勝つのだが、<br />47日間ローマ軍は足止めを食うこととなる。<br /><br />殆どのユダヤ人は自殺を選んだが、<br />ヨセフスは、死ぬことを選択せず<br />投降を選んだ。<br /><br />そして、ヨセフスは、予言する賭けに出た。<br />ネロの後に皇帝となるのは、<br />ヴェスパシアヌスであり、<br />その子どもたちだと<br />言ったのである。<br />これが功を奏したかどうかは分からないが、<br />その後ヨセフスは、ヴェスパシアヌス軍団と<br />行動を共にすることになり、<br />ティトゥスなどは、公然とヨセフスを<br />自分の友達扱いするようになった。<br /><br />AD69年以降のヴェスパシアヌス陣営軍は、<br />総指揮はティトゥス、<br />エジプト長官アレクサンドロス(ユダヤ人である)<br />は、ティトゥスの援護、<br />ヴェスパシアヌスは、アレクサンドリアで、待機、<br />そしてヨセフスは、エルサレムに向かって<br />同胞たちに降伏するよう努力した。<br />但し、答えは決まって拒否だった。<br /><br />エルサレム陥落後も、<br />ヨセフスは、ティトゥスと行動を共にし、<br />ついに、ヴェスパシアヌスは、<br />ヨセフスに自らの家門名<br />フラヴィウスを与える。<br />以後フラヴィウス・ヨセフスと呼ばれるようになるのである。<br />そして、ティトゥスとヨセフスは、親友になっていく。<br /><br />(余談であるが、<br />ティトゥスが、皇帝になった治世に、<br />ベスビオ火山が大噴火して、<br />ポンペイが全滅するという<br />悲劇が起きている。)<br /><br /><br />千年の歴史がそれぞれ<br />8つのパーツに分かれていた。

    *印
    ヴェスパシアヌス率いる
    ローマ軍団は、主戦力
    3個軍団
    これに加えて
    北東ユダヤを統治するアグリッパ2世のユダヤ兵
    アラビア兵も加わっている。

    このときに、
    ヨセフス率いるユダヤ勢とローマ軍は
    闘っている。
    (ヨタパタの戦い)
    結果は、ローマが勝つのだが、
    47日間ローマ軍は足止めを食うこととなる。

    殆どのユダヤ人は自殺を選んだが、
    ヨセフスは、死ぬことを選択せず
    投降を選んだ。

    そして、ヨセフスは、予言する賭けに出た。
    ネロの後に皇帝となるのは、
    ヴェスパシアヌスであり、
    その子どもたちだと
    言ったのである。
    これが功を奏したかどうかは分からないが、
    その後ヨセフスは、ヴェスパシアヌス軍団と
    行動を共にすることになり、
    ティトゥスなどは、公然とヨセフスを
    自分の友達扱いするようになった。

    AD69年以降のヴェスパシアヌス陣営軍は、
    総指揮はティトゥス、
    エジプト長官アレクサンドロス(ユダヤ人である)
    は、ティトゥスの援護、
    ヴェスパシアヌスは、アレクサンドリアで、待機、
    そしてヨセフスは、エルサレムに向かって
    同胞たちに降伏するよう努力した。
    但し、答えは決まって拒否だった。

    エルサレム陥落後も、
    ヨセフスは、ティトゥスと行動を共にし、
    ついに、ヴェスパシアヌスは、
    ヨセフスに自らの家門名
    フラヴィウスを与える。
    以後フラヴィウス・ヨセフスと呼ばれるようになるのである。
    そして、ティトゥスとヨセフスは、親友になっていく。

    (余談であるが、
    ティトゥスが、皇帝になった治世に、
    ベスビオ火山が大噴火して、
    ポンペイが全滅するという
    悲劇が起きている。)


    千年の歴史がそれぞれ
    8つのパーツに分かれていた。

  • では、エルサレム炎上を記載する。<br />AD70年8月<br />ローマ軍は<br />神殿の中庭に突入、<br />総崩れの反乱軍は<br />至聖所においつめられた。<br /><br />ユダヤ民族にとって、<br />最も神聖な場所である至聖所を攻撃すること<br />をためらったティトゥスは、<br />指揮官・将校たちを集め、意見を聞いた。<br />ティトゥスは、至聖所だけは救いたいと思っていたが、<br />大方の主張は、<br />「エルサレムに神殿が立つ以上、ユダヤ人は<br />繰り返し反乱・蜂起などを行うだろう。そうした<br />反乱の拠点たる神殿は、破壊すべきだ」<br />というものだった。<br /><br />8月末、ついに神殿は炎上。<br />犠牲者の数、タキトゥスは、<br />死者捕虜併せて60万人としている。<br />その後エルサレム神殿が再建されることは、<br />2度となかった。<br /><br />このユダヤ戦役によって、ユダヤの民<br />のその後の放浪ディアスポラの運命が<br />完全に決定づけられた。<br /><br />写真<br />ここは、書斎だったようである。

    では、エルサレム炎上を記載する。
    AD70年8月
    ローマ軍は
    神殿の中庭に突入、
    総崩れの反乱軍は
    至聖所においつめられた。

    ユダヤ民族にとって、
    最も神聖な場所である至聖所を攻撃すること
    をためらったティトゥスは、
    指揮官・将校たちを集め、意見を聞いた。
    ティトゥスは、至聖所だけは救いたいと思っていたが、
    大方の主張は、
    「エルサレムに神殿が立つ以上、ユダヤ人は
    繰り返し反乱・蜂起などを行うだろう。そうした
    反乱の拠点たる神殿は、破壊すべきだ」
    というものだった。

    8月末、ついに神殿は炎上。
    犠牲者の数、タキトゥスは、
    死者捕虜併せて60万人としている。
    その後エルサレム神殿が再建されることは、
    2度となかった。

    このユダヤ戦役によって、ユダヤの民
    のその後の放浪ディアスポラの運命が
    完全に決定づけられた。

    写真
    ここは、書斎だったようである。

  • 自分を1枚

    自分を1枚

  • 1934年の出来事を

    1934年の出来事を

  • 1936年の出来事

    1936年の出来事

  • 年数ごとに

    年数ごとに

  • 1937年には。

    1937年には。

  • 同様に。

    同様に。

  • ユダヤ歴史博物館を後にして、<br />やはりトラムを乗り継いで<br />今度は、ワルシャワ蜂起博物館<br />へ行った。

    ユダヤ歴史博物館を後にして、
    やはりトラムを乗り継いで
    今度は、ワルシャワ蜂起博物館
    へ行った。

  • 第二次世界大戦末、<br />1944年8月1日<br />ナチスドイツの支配に対し<br />ワルシャワ市民が蜂起した。<br />写真は、博物館マップである。

    第二次世界大戦末、
    1944年8月1日
    ナチスドイツの支配に対し
    ワルシャワ市民が蜂起した。
    写真は、博物館マップである。

  • このときは、中に入って<br />日本語のオーディォガイドを<br />耳に当ててじっくり聞いた。<br />当時の様子を伝えるビデオ<br />なども見てきた。

    このときは、中に入って
    日本語のオーディォガイドを
    耳に当ててじっくり聞いた。
    当時の様子を伝えるビデオ
    なども見てきた。

  • 写真はマップ、<br />館内は複雑に分かれていた。

    写真はマップ、
    館内は複雑に分かれていた。

  • これは、チケットである。

    これは、チケットである。

  • ワルシャワ蜂起の事実関係は、<br />余りに錯綜しており、<br />簡単に次のことだけ<br />記載してみた。<br />第二次世界大戦勃発により、<br />ポーランドは、ナチス侵略の第1の対象になった。<br /><br />ポーランド亡命政府は、<br />ルーマニアから、<br />パリ<br />そしてロンドンと移っていく。<br /><br />国内では、<br />国内軍(ロンドン亡命政府と連携)<br />労働者党<br />ポーランド国民解放委員会(後のルブリン委員会)<br />などが錯綜して乱立。<br /><br />1944年8月1日<br />軍事的には、反ナチス<br />政治的には、反ソ・反共の蜂起であるととらえたい。<br />この「嵐」作戦として実施されたワルシャワ作戦は、<br />多くの一般市民を巻き込んだ民族蜂起となった。<br />短期間のうちに<br />ドイツ軍からワルシャワを開放し、<br />進駐してくるソ連軍を主人として迎えるというものだった。<br /><br />しかしながら、<br />実際は、戦闘は63日間にも及び、<br />20万人の死者を出して、<br />ドイツ(ナチス)の勝利に終わった。<br /><br />作戦を成功させる前提には、<br />ソ連軍のワルシャワ到来での軍事提携が<br />あったが、<br />国内軍は、作戦の政治的な要素を優先させ、<br />ソ連軍との事前協議も行わず、<br />ソ連軍は蜂起3日目で、作戦を停止した。<br /><br />蜂起の反ソヴィエト色を知っていたスターリンが<br />ワルシャワを見殺しにしたと言われている所以である。

    ワルシャワ蜂起の事実関係は、
    余りに錯綜しており、
    簡単に次のことだけ
    記載してみた。
    第二次世界大戦勃発により、
    ポーランドは、ナチス侵略の第1の対象になった。

    ポーランド亡命政府は、
    ルーマニアから、
    パリ
    そしてロンドンと移っていく。

    国内では、
    国内軍(ロンドン亡命政府と連携)
    労働者党
    ポーランド国民解放委員会(後のルブリン委員会)
    などが錯綜して乱立。

    1944年8月1日
    軍事的には、反ナチス
    政治的には、反ソ・反共の蜂起であるととらえたい。
    この「嵐」作戦として実施されたワルシャワ作戦は、
    多くの一般市民を巻き込んだ民族蜂起となった。
    短期間のうちに
    ドイツ軍からワルシャワを開放し、
    進駐してくるソ連軍を主人として迎えるというものだった。

    しかしながら、
    実際は、戦闘は63日間にも及び、
    20万人の死者を出して、
    ドイツ(ナチス)の勝利に終わった。

    作戦を成功させる前提には、
    ソ連軍のワルシャワ到来での軍事提携が
    あったが、
    国内軍は、作戦の政治的な要素を優先させ、
    ソ連軍との事前協議も行わず、
    ソ連軍は蜂起3日目で、作戦を停止した。

    蜂起の反ソヴィエト色を知っていたスターリンが
    ワルシャワを見殺しにしたと言われている所以である。

  • 同上<br />ワルシャワ蜂起の記録だった。<br /><br />アンジェイ・ワイダの<br />映画<br />「地下水道」や<br />「灰とダイヤモンド」を<br />思い出していた。<br />両方ともに、<br />よく、当時の社会主義政権下で、<br />検閲をくぐりぬけて公開できたものだと<br />感心する。

    同上
    ワルシャワ蜂起の記録だった。

    アンジェイ・ワイダの
    映画
    「地下水道」や
    「灰とダイヤモンド」を
    思い出していた。
    両方ともに、
    よく、当時の社会主義政権下で、
    検閲をくぐりぬけて公開できたものだと
    感心する。

  • 同上である。

    同上である。

  • 同上である

    同上である

  • ワルシャワを守る<br />人魚像があった。

    ワルシャワを守る
    人魚像があった。

  • ロンドン、<br />ポーランド亡命政権は、<br />ロンドンにあった。

    ロンドン、
    ポーランド亡命政権は、
    ロンドンにあった。

  • その後、<br />トラム、バスを利用して、<br />昨日きた新世界通りを<br />歩き、<br />ショパン博物館へ行ってみた。<br />写真は、<br />ショパン博物館の入り口正面

    その後、
    トラム、バスを利用して、
    昨日きた新世界通りを
    歩き、
    ショパン博物館へ行ってみた。
    写真は、
    ショパン博物館の入り口正面

  • 大きく撮影<br />ショパンの演奏が<br />聞ける仕組みが色々とあった。<br />当方が好んで聞くのは、<br />Jazz ピアノトリオだが、<br />ショパンも面白く聞かせて<br />頂いた。<br /><br />チケットは、音符入りの<br />チケットだったと思うが、<br />今のところ、どこへいったのか<br />見つからない。

    大きく撮影
    ショパンの演奏が
    聞ける仕組みが色々とあった。
    当方が好んで聞くのは、
    Jazz ピアノトリオだが、
    ショパンも面白く聞かせて
    頂いた。

    チケットは、音符入りの
    チケットだったと思うが、
    今のところ、どこへいったのか
    見つからない。

  • その後、ヴィスワ川とシフィエントクシスキ橋のたもとまで<br />散策した。<br /><br />動画ヴィスワ川とシフィエントクシスキ橋の様子を。<br />https://www.youtube.com/watch?v=ueupjL7GaDE<br />

    その後、ヴィスワ川とシフィエントクシスキ橋のたもとまで
    散策した。

    動画ヴィスワ川とシフィエントクシスキ橋の様子を。
    https://www.youtube.com/watch?v=ueupjL7GaDE

  • 人魚像がこのように立っている。

    人魚像がこのように立っている。

  • 人魚伝説もあるそうである。<br />伝説の詳細は、割愛させて<br />頂く。

    人魚伝説もあるそうである。
    伝説の詳細は、割愛させて
    頂く。

  • 右手に剣<br />左手に楯<br />ワルシャワ市を<br />守るシンボルでもある。

    右手に剣
    左手に楯
    ワルシャワ市を
    守るシンボルでもある。

  • ヴィスワ川とシフィエントクシスキ橋

    ヴィスワ川とシフィエントクシスキ橋

  • ヴィスワ川と人魚像<br />このあと、散策しながら<br />新世界通りまで<br />戻り、夕食に行った

    ヴィスワ川と人魚像
    このあと、散策しながら
    新世界通りまで
    戻り、夕食に行った

  • 8月6日朝の様子である。<br />午前9時にチェックアウト済ませ、<br />ワルシャワ中央駅まで余裕を持たせ行く途中<br />1枚撮影。

    8月6日朝の様子である。
    午前9時にチェックアウト済ませ、
    ワルシャワ中央駅まで余裕を持たせ行く途中
    1枚撮影。

  • 同じく

    同じく

  • 中央駅到着、<br />ホテルから徒歩にて約5分である。

    中央駅到着、
    ホテルから徒歩にて約5分である。

  • これから、<br />EC特急列車に<br />乗り、ベルリンまで<br />約6時間45分の旅である。<br /><br />これは、<br />日本で予め購入した<br />特急券と乗車券二人分である。<br />何号車の指定席番号も打ち込まれているのは<br />日本と同じだった。

    これから、
    EC特急列車に
    乗り、ベルリンまで
    約6時間45分の旅である。

    これは、
    日本で予め購入した
    特急券と乗車券二人分である。
    何号車の指定席番号も打ち込まれているのは
    日本と同じだった。

  • 3日前に、調べ上げていたので<br />なんなくホームへ。<br />2番線から出るようだ。<br /><br />因みに欧州は、<br />改札口という概念は殆どない。<br />誰でも、ホームまで来ることはできる。<br /><br />極論すれば無賃乗車もできるということだが、<br />係員に見つかった場合は、<br />行政罰たる過料(あやまちりょう)は<br />半端なく高い。<br />おそらく、改札口がないということは、<br />それだけ、人件費を抑え、<br />人員のコスト面での<br />鉄道会社の配慮だと思われる。<br />(例外的に改札があったのは、<br />2011年スペインアンダルシアで、<br />マドリッドから新幹線AVEで、セビージャまで<br />乗った時である。<br />この時は、荷物のセキュリティチェックまで<br />あったことを覚えている。)

    3日前に、調べ上げていたので
    なんなくホームへ。
    2番線から出るようだ。

    因みに欧州は、
    改札口という概念は殆どない。
    誰でも、ホームまで来ることはできる。

    極論すれば無賃乗車もできるということだが、
    係員に見つかった場合は、
    行政罰たる過料(あやまちりょう)は
    半端なく高い。
    おそらく、改札口がないということは、
    それだけ、人件費を抑え、
    人員のコスト面での
    鉄道会社の配慮だと思われる。
    (例外的に改札があったのは、
    2011年スペインアンダルシアで、
    マドリッドから新幹線AVEで、セビージャまで
    乗った時である。
    この時は、荷物のセキュリティチェックまで
    あったことを覚えている。)

  • ワルシャワ中央駅と<br />表示している表示板を<br />1枚

    ワルシャワ中央駅と
    表示している表示板を
    1枚

  • 9時59分発のECが<br />ベルリン、ゲズント・ブルネン駅まで<br />行く。<br />これに乗るのである。

    9時59分発のECが
    ベルリン、ゲズント・ブルネン駅まで
    行く。
    これに乗るのである。

  • 2番線ホームから出る。<br />一枚記念に撮影した。

    2番線ホームから出る。
    一枚記念に撮影した。

  • 駅の構造図である。

    駅の構造図である。

  • まだ、列車は来ていない。

    まだ、列車は来ていない。

  • 9時59分発<br />ゲズント・ブルネン行き<br />これに乗る。

    9時59分発
    ゲズント・ブルネン行き
    これに乗る。

  • 動画<br />https://www.youtube.com/watch?v=59QoeWyFbZc<br />ECユーロシティ特急列車<br />ワルシャワ・ベルリン間<br />6時間45分の旅の始まりを<br /><br />社内のアナウンスがきちんとあった。

    動画
    https://www.youtube.com/watch?v=59QoeWyFbZc
    ECユーロシティ特急列車
    ワルシャワ・ベルリン間
    6時間45分の旅の始まりを

    社内のアナウンスがきちんとあった。

  • 車内の様子である。<br />途中、ポズナンでは、<br />かなりの乗客が降り、<br />またかなりの乗客が<br />乗ってきた。<br />乗車券チェックは、<br />2回あった。<br />乗り込んですぐと、<br />ポズナンで、<br />多数の乗客が入れ替わった時だった。<br /><br />途中、車内販売ではなく、<br />無料のコーヒーが出た。<br />但しこちらが要求しないと<br />素通りである。<br />

    車内の様子である。
    途中、ポズナンでは、
    かなりの乗客が降り、
    またかなりの乗客が
    乗ってきた。
    乗車券チェックは、
    2回あった。
    乗り込んですぐと、
    ポズナンで、
    多数の乗客が入れ替わった時だった。

    途中、車内販売ではなく、
    無料のコーヒーが出た。
    但しこちらが要求しないと
    素通りである。

  • 動画<br />https://www.youtube.com/watch?v=aODIXZiTbWY<br />ECユーロシティ特急<br />ワルシャワーベルリン間<br />車内の様子。オープンスタイル<br />横2列 2席車両<br />もうすぐ、国境である。<br />この写真のオーデル川を過ぎると<br />いよいよドイツである。<br />所謂オーデルーナイセ線である。

    動画
    https://www.youtube.com/watch?v=aODIXZiTbWY
    ECユーロシティ特急
    ワルシャワーベルリン間
    車内の様子。オープンスタイル
    横2列 2席車両
    もうすぐ、国境である。
    この写真のオーデル川を過ぎると
    いよいよドイツである。
    所謂オーデルーナイセ線である。

  • フランクフルト(オーデル)駅に<br />到着。<br />いよいよドイツである。<br />ベルリンは当方2度目、<br />かみさんは、3度目だった。<br /><br />ドイツに入ったので、<br />(注、この駅は、フランクフルトでも、<br />オーデル川のフランクフルトである。<br />国際金融都市フランクフルトとは、別の町である)<br />当然形式的だが、<br />パスポートチェックが<br />あるものと思っていたが<br />ルクセンブルグ、シェンゲン協定の<br />枠内国であるのか、<br />最後まで何もなかった。<br /><br />ただ、ドイツに入ったところで<br />車内をシェパード警察犬が、<br />通り過ぎた。<br />シェパード警察犬に、<br />何か食べる?<br />と聞いたら、一瞬<br />こちらをちらり見たが、<br />仕事中だよ、と言っているようだった。<br />昨日までの残り物のウォッカやワインを<br />車内で飲んでいたので当方の幻聴だったかも知れない・・・。<br /><br />以下ベルリン編に続きます。

    フランクフルト(オーデル)駅に
    到着。
    いよいよドイツである。
    ベルリンは当方2度目、
    かみさんは、3度目だった。

    ドイツに入ったので、
    (注、この駅は、フランクフルトでも、
    オーデル川のフランクフルトである。
    国際金融都市フランクフルトとは、別の町である)
    当然形式的だが、
    パスポートチェックが
    あるものと思っていたが
    ルクセンブルグ、シェンゲン協定の
    枠内国であるのか、
    最後まで何もなかった。

    ただ、ドイツに入ったところで
    車内をシェパード警察犬が、
    通り過ぎた。
    シェパード警察犬に、
    何か食べる?
    と聞いたら、一瞬
    こちらをちらり見たが、
    仕事中だよ、と言っているようだった。
    昨日までの残り物のウォッカやワインを
    車内で飲んでいたので当方の幻聴だったかも知れない・・・。

    以下ベルリン編に続きます。

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