2017/08/26 - 2017/09/08
3296位(同エリア6635件中)
サンフランさん
- サンフランさんTOP
- 旅行記152冊
- クチコミ80件
- Q&A回答388件
- 195,055アクセス
- フォロワー10人
これまで約2年間で小堀遠州作なる庭園をいくつか見てきました。枯山水ありの池泉式ありと種類はいろいろではっきりとその作風には「遠州好み」とは何なのかつかめぬままでいますが、…
まづ行ってみたのは、、相阿弥作の池泉式庭園に小堀遠州が手を入れたとある青蓮院。同じく清水寺成就院も相阿弥作の池泉式庭園に小堀遠州が手を加えている。なぜかここだけが木橋である。
次は南禅寺方丈の虎の子渡しであった。どの石が子を背負った虎なのであろうか? どこへ渡るのであろうか? 分からぬままで、…
同じ南禅寺の金地院は小堀遠州が伏見奉行であった頃の多忙な中で造られた。徳川を祀る東照宮も同じ敷地内にあり、礼拝石は家康の傘下であった小堀遠州がこの庭を造成したことを明らかにしている。
大徳寺方丈の庭は小堀遠州の作ではないとされているが、東庭が小堀遠州によるものとされているので、方丈もとも考えられる。
御香宮庭園、志賀院門跡の庭園は比叡山を歩いていた後で偶然に見つけた。池泉鑑賞式で、池に張り出た礼拝石がみごとであった。徳川家光の特命であったらしい。
さらに二条城庭園、鶴と亀島、御殿から見る庭園であったものを御水尾天皇の行幸に合わせて南側に作られた御殿からの焦点に合わせて石は立てられている。
正伝寺の枯山水庭園は石ではなくさつきの刈り込みで七五三の庭が作られている。京都本に書かれていた蓮花寺は寺の説明には小堀遠州の名前はなかった。ただ、その作風は間違いなく遠州好みと思われる。
以上の10箇所どちらもすばらしい庭園である。立てた石、平石の石橋、どうやら石の使い方、石の立て方には特徴があることは理解できます。あと5年前の紅葉の時期に鑑賞した高台寺庭園を加えて小堀遠州の庭を考える。高台寺の石組みは紅葉に目を奪われて記憶が薄い。再び緑濃いこの8月に訪れてみた。鶴島と亀島からなる池泉式庭園で、池が開山堂につながる渡り廊下によって二分されている。石はここも見事に立てられている。
- 旅行の満足度
- 3.5
- 観光
- 3.5
- 交通
- 3.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 私鉄 徒歩
PR
-
青蓮院
東山にある門跡寺院。小堀遠州は天皇家の庭には関わったが公家の庭にはかかわらなかったらしい。桂離宮参観の後で、小堀遠州を意識して拝観した庭には、桂離宮にあるような足元を照らす燈篭に目が入った。 -
南禅寺方丈
枯山水の虎の子渡しの庭。龍安寺も虎の子渡しの石庭。なぜここに虎の子渡しの庭があるのか? なぜ5山にも数えられなかった妙心寺の末寺である龍安寺にも虎の子渡しの庭があるのか? 南禅寺は5山の上。どちらもどの石が子を背負う虎なのか? 理解できない。 -
南禅寺金地院
鶴亀の庭。同じく枯山水の庭。鶴島の石は立てられている。松は次第に大きくなる。 -
御香宮庭園
小堀遠州の石を使って造営された。伏見奉行所に小堀遠州が作成していた庭園の石を受けて中根金作氏が作成したもの。 -
志賀院門跡
亀島の手前に突き出た礼拝石、平石の石橋も2つ。狭い場所に小堀遠州が凝縮されている。徳川家光の命により小堀遠州が作庭したとある。 -
正伝寺
さつきの刈り込みの庭の向こうに比叡山が見える借景。禅寺の7-5-3の庭はほかにもある。これがまた理解しがたい -
清水寺成就院
年2回、春と秋にしか公開しないこの庭園。撮影禁止であった。 -
大徳寺方丈の庭
禅寺の方丈の庭らしく広い前庭の奥に蓬莱山が設けられている。東庭は七-五-三の枯山水。こちらは小堀遠州作とされている。石の数はいくら数えても15以上ある。比叡山が借景であったそうですが、住宅が立て込んで今は見えない。もっとも距離的には相当小さく見えると思われる。 -
二条城庭園
小堀遠州が関わった庭園の中では1番の雄大な庭園 -
蓮花寺
紅葉が邪魔して庭園をよく観察できなかった。島へ渡された石橋、池岸の石の立て方は遠州風に違いない。 -
そこで今回は高台寺へ5年ぶりに訪れてみた。前回は紅葉の時期で紅葉に目を奪われて石もよく観察できなかった。
-
庭に回るとこのような光景が目にはいる。西側の偃月池だ。
-
その右に方丈の建物がある。
-
池が中央の回廊によって二分されている。
亀島は回廊の左側の池にある。 -
回廊の中央には、豊臣秀吉遺愛の観月台が
-
回廊の右には池が隠れるぐらいの大きな立石
開山堂を中心として池泉式庭園が広がっている。手前の立石は回廊から見るべきものであろうか? 回廊から開山堂、さらに上のお霊屋にむかって、龍が昇っている姿を現しているという。なるほどなるほど、禅宗の寺にはどこかに龍がなくてはならない。 -
これが鶴島
-
南の岬は鶴島であるという。
-
その鶴島の奥で結婚式の記念撮影が行われていた。仏前結婚?
-
開山堂側に回りこめる。
-
亀島の護岸はすべて立石で囲まれている。
-
水源は枯れてしまっているのか、どうにも無粋な竹樋で注がれている。
-
「臥龍池は高台寺建立以前の古庭園のなごり」としている。ということは、この庭園は建立に併せて設けられたと言うことか? 高台寺は1606年に出家した北政所が開創した」とパンフレットにある。ということは小堀遠州の初期の作ということであろうか? 中根金作氏はその著書、「京都の庭と風土」のなかで、「高台寺庭園はむかしから小堀遠州の作と伝えられているが確証はない。」としている。
-
開山堂の東側にも回廊がつながっている。臥龍池の手前の苔地は自然のものらしい。だいじにしてほしい。
-
「臥龍池の北側は山すそを利用した築山でこれに滝口が築かれている。いまは水路も消えて、石組みも見る影もなく、くずれて往時の姿はない。高台寺庭園のごとく、主要なる建物を中央に挟んで2つの池泉を配置した庭は珍しい。」(中根金作、京都の庭と風土)
-
これで小堀遠州の庭は打ち止め? まだまだ小堀に師事した作庭者がいる。「三宝院庭園の増改修に従事した賢庭は後に小堀遠州に従い南禅寺金地院の石組みを行っている。」(中根金作、京都の庭と風土)
9月8日
三宝院にやってきました。 -
こちらのご門からははいれません。
-
通用門で800円!参観料をお支払い。
-
早速庭園へ
寺の説明員によると、「正面の左が鶴島、右が亀島。奥にあるのが蓬莱山」とのこと。寺伝であろうか? 専門家の説明とは食い違っている。
「三宝院庭園は築造当時からの経過が克明に記録された庭園であり、桃山時代の作風と特徴を最もよく表現した名園である。特色に一つである三神山、蓬莱・方丈・えい洲の三島は表書院の前面に優雅な曲線を見せた汀を持つ大池の中央に中島が築かれ、兜松と称される樹齢数百年の五葉松が植えられている。蓬莱島である。」(中根金作、京都の庭と風土) -
兜松と称される樹齢数百年の五葉松は間違いなくある。五葉松も年を経て大きくなる。植えかえられる場合もありそうであるが、ここは数百年間刈り込まれてきたのであろうか?
蓬莱山には千年の仙人が松の美を食しながら生きながらえた」ことが言われる。五葉松がなくてはおかしい。蓬莱山=鶴と思っていたのであるが、….
寺の説明は良く分からない。蓬莱・方丈・えい洲の三島があるはずだが、島は2つしかない。
蓬莱・方丈・えい洲は禅寺に伝わる経文に書かれていることのはず。ここは真言宗なのだ。 -
「秀吉は1598年の醍醐の花見から半年あまりで三宝院庭園及び殿舎の建設に着手している。庭奉行越前守直定などに命じて、遣り縄張りを行わせている。
作庭工事は1ヵ月半ほどで終了している。そのスピード振りには驚嘆するものであるが、当時の絶対権力者、太閤秀吉の命により、日々数百人の人夫を動員して工事を急いだ。8月秀吉の病死後、12月には建物の復興と庭園の補作が進められて、12月には大部分が完成した。その後、1602年に入ると、その後22年間山水河原者・賢庭(けんてい)が庭園の増改修に従事している。」(中根金作、京都の庭と風土) -
賢庭が改修した部分はどの部分なのであろうか? 寺でいただいたパンフレットによると「庭園は秀吉自ら基本設計をした」とされている。基本設計とは何を指すのであろうか?
-
蓬莱山の下、左側に名石といわれる藤戸石が置かれている。藤戸石は聚楽第から持ち込まれたものとされている。
-
その左には滝口があり今でも水源があるという。
-
この庭、どこかで見たことがある。そうだ二条城庭園だ。滝口が右側にあればミニ二条城庭園。二条城庭園は1602年、家康が築城した際に二の丸御殿の前に作庭がなされたとされている。賢庭が関わったとされる1602-1624年は、ちょうど小堀遠州が二条城庭園に手を入れていた時期とも重なる。小堀遠州は1624年9月から二条城行幸御殿の普請奉行をおおせつかっている。
ここと二条城庭園、この2つの庭は何かつながりがありそうだ。小堀父子とも豊臣にも仕えて小堀遠州はのちに徳川に仕えた。徳川に仕えた頃の小堀遠州が豊臣秀吉の庭を作庭したとは考えられないが、秀吉の生前には秀吉に仕えた時期があったとも読める。徳川家康は伏見城を壊すなど豊臣の資産を消し去ろうとした。ここはその家康の破壊工作から逃れている。 -
表書院の手前にはミニガーデンがある。
-
醍醐寺三宝院を訪れた数日前、同じく小堀遠州と関係が深かったとされる妙蓮寺の玉淵(ぎょくしん)坊が作庭した知恩院方丈を訪れた。いつもは前を素通りしていた知恩院の山門は堂々としている。さすがに徳川のご加護を受けた寺院である。
-
方丈までは階段を何段か上る上のほうにある。
-
国宝の御影堂は改修工事中。一旦方丈の建物に入るが鴬張りの廊下を小走りに、庭に急いだ。
-
まず目にはいるのは池中の小島。こちらが南池? 背景の御影堂が工事中なので少し興ざめです。岬燈篭は桂離宮にもある。もっともこの池では舟遊びは難しい。
-
「遠州風の手法を用いた庭園は御影堂の奥にある大方丈に面して造られている。大小2つの池になって両方丈に面して造られている。背後には東山の山すそが迫り築山の代わりとなっている。作庭については1641年、片桐石見守が奉行となり方丈再建の際に妙蓮寺の(ぎょくしん)坊が量阿弥とともに参画したと伝えられる。玉淵は小堀遠州とも関係が深く、桂離宮の作庭にも関係したと伝えられる。」(中根金作、京都の庭と風土)
ここも池は二つに分けられている。橋がかけられ築山へ上がれるようになっている。 -
御影堂は工事中のため借景とはならず。
-
こちらが東池
「大方丈南の池には石橋を掛けた中島があり立石の石組みがなされその奥には円形の島が配置されている。3神山である。特色は東側池の大滝口の左手池中に石灯籠がすえられて、その足元に数個の景石が置かれて東池の焦点をなしている。このような構成は他には見られない。滝口前にある大石はもちろん3神山の一つである。」(中根金作、京都の庭と風土) -
中根先生によれば「神仙思想により発達した築山林泉庭」とある。
これが三神山を表す石であろうか? -
滝口近くに燈篭」とあるが、滝がない。
この燈篭がこの庭の最大の特徴らしい。 -
将軍お手上の松も植え替えられて3代目。そうですよね?同じ大きさを保つには植え替えないと相当に大きくなる。
-
庭は小方丈の前に展開している。お手上の松から石橋が掛けられている。このへんみるといかにも遠州風といえるのだろう。しかし、石橋の先は島には見えない。
-
その左手になぜか枯山水の庭がある。これは玉淵とは関係がなさそうだ。「25菩薩の庭、庭に配されている石は阿弥陀如と二十五菩薩を植え込みは来迎雲を表している」(立て看板)
-
小方丈の左手にも燈篭が1基
-
池中の燈篭を再び見て、...
-
池を二分する橋を渡って築山に登る。
-
築山の先には山亭なる建物がある。江戸末期の庭園があるようだ。
-
眼下に京都の町が見える。
-
右側の建物では静かに写経の最中
でもここが出口らしい。 -
下に下りてきました。
そこにあるのは蓮の池
残念ながらこの時期は蓮は終わり。
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
東山・祇園・北白川(京都) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
55