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出石城址と城下町の紹介の続きです。出石城址と隣接する諸杉神社の見学の後、出石城下町を見学しました。出石城下町のエリアは、概ねかつての外堀に囲まれた区域とされます。(ウィキペディア・その他)

2017夏、兵庫と島根の名所(13/15):7月24日(6):出石城下町(4):谷山川、有子橋

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2017/07/23 - 2017/07/24

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旅行記グループ 2017夏、山陰の名所巡り

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旅人のくまさん

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出石城址と城下町の紹介の続きです。出石城址と隣接する諸杉神社の見学の後、出石城下町を見学しました。出石城下町のエリアは、概ねかつての外堀に囲まれた区域とされます。(ウィキペディア・その他)

交通手段
観光バス

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  • 『谷山川』に架かる橋の上から眺めた西側方面の光景です。川の右手が出石城下町、左手が城跡エリアになります。城跡方面の散策を終えて、次は城下町の散策です。城下町といっても、かつての『三の丸』のエリアを含みます。(同上)

    『谷山川』に架かる橋の上から眺めた西側方面の光景です。川の右手が出石城下町、左手が城跡エリアになります。城跡方面の散策を終えて、次は城下町の散策です。城下町といっても、かつての『三の丸』のエリアを含みます。(同上)

  • 振り返って眺めた南側方面の光景です。中央付近に見える石標には、先ほど見学した『諸杉神社』の文字が刻まれていました。地図には『諸杉神社』の東側(写真の左側)には『川下神社』が記されていました。この神社は、『諸杉神社』の境内摂社とするネット情報もありました。(同上)

    振り返って眺めた南側方面の光景です。中央付近に見える石標には、先ほど見学した『諸杉神社』の文字が刻まれていました。地図には『諸杉神社』の東側(写真の左側)には『川下神社』が記されていました。この神社は、『諸杉神社』の境内摂社とするネット情報もありました。(同上)

  • 『谷山川』より北側の街並み光景です。かつての『三の丸』か、その東側に隣接する街並み光景です。公共施設風の建物と駐車場がありました。(同上)

    『谷山川』より北側の街並み光景です。かつての『三の丸』か、その東側に隣接する街並み光景です。公共施設風の建物と駐車場がありました。(同上)

  • 『有子橋』の袂から眺めた出石城址がある南側方面の光景です。鳥居の先に伸びる参道が、有子稲荷神社への参道です。少し左に曲がって、赤い鳥居列へと繋がります。(同上)

    『有子橋』の袂から眺めた出石城址がある南側方面の光景です。鳥居の先に伸びる参道が、有子稲荷神社への参道です。少し左に曲がって、赤い鳥居列へと繋がります。(同上)

  • 欄干が朱に塗られた、『有子橋』の袂の光景です。この橋の袂には数段の石段が設けられていました。僅かに高低差がありますが、太鼓橋とまでは言えない恒久橋でした。(同上)

    欄干が朱に塗られた、『有子橋』の袂の光景です。この橋の袂には数段の石段が設けられていました。僅かに高低差がありますが、太鼓橋とまでは言えない恒久橋でした。(同上)

  • 『有子橋』の袂にあった、『有子山稲荷神社』の石標の光景です。朱色に塗られた『有子橋』が、参道の始まり地点のようでした。渡った先に鳥居があります。出石城址を貫く参道で、稲荷神社がある稲荷丸(稲荷郭)は、本丸より上に位置します。(同上)

    『有子橋』の袂にあった、『有子山稲荷神社』の石標の光景です。朱色に塗られた『有子橋』が、参道の始まり地点のようでした。渡った先に鳥居があります。出石城址を貫く参道で、稲荷神社がある稲荷丸(稲荷郭)は、本丸より上に位置します。(同上)

  • 色々なタイプの出石城址の観光案内図を目にしましたが、これもその一つです。出石城址が上方(南)中央に描かれた、イラスト入りの観光案内図です。(同上)

    色々なタイプの出石城址の観光案内図を目にしましたが、これもその一つです。出石城址が上方(南)中央に描かれた、イラスト入りの観光案内図です。(同上)

  • 天然のお堀の役割を持った、『谷山川』に渡された風鈴の光景です。写真を撮影している場所は、かつての『三の丸』です。古図によれば、このエリアは南側の『谷山川』を含め、周りはお堀で防御されていました。(同上)

    天然のお堀の役割を持った、『谷山川』に渡された風鈴の光景です。写真を撮影している場所は、かつての『三の丸』です。古図によれば、このエリアは南側の『谷山川』を含め、周りはお堀で防御されていました。(同上)

  • 『国指定文化財・山名氏城跡(有子城跡)』のタイトルがあった説明看板です。天正2年(1574年)、山名祐豊(すけとよ)が、それまでの本城であった、此隅山城に代わって立てた城であることなどが解説されていました。出石城址とともに、今年(2017年)に続日本百名城に指定されました。(同上)

    『国指定文化財・山名氏城跡(有子城跡)』のタイトルがあった説明看板です。天正2年(1574年)、山名祐豊(すけとよ)が、それまでの本城であった、此隅山城に代わって立てた城であることなどが解説されていました。出石城址とともに、今年(2017年)に続日本百名城に指定されました。(同上)

  • 『斎藤隆夫顕彰碑』のタイトルがあった立看板の光景です。斉藤隆夫(1870~1949年)氏は、出石町出身の弁護士で政治家です。卓越した弁舌・演説力を武器に度々帝国議会で演説を行い、満州事変後の軍部の政治介入、軍部におもねる政治家を徹底批判するなど、立憲政治家として軍部に抵抗した人です。(同上)

    『斎藤隆夫顕彰碑』のタイトルがあった立看板の光景です。斉藤隆夫(1870~1949年)氏は、出石町出身の弁護士で政治家です。卓越した弁舌・演説力を武器に度々帝国議会で演説を行い、満州事変後の軍部の政治介入、軍部におもねる政治家を徹底批判するなど、立憲政治家として軍部に抵抗した人です。(同上)

  • 『諸杉神社』を見学した後、『谷山川』に沿って、西側方面に移動しました。その途中の光景が続きます。『谷山川』に渡された風鈴の紐は、『谷山川』北岸の直近の城の石垣の上から伸びていました。(同上)

    『諸杉神社』を見学した後、『谷山川』に沿って、西側方面に移動しました。その途中の光景が続きます。『谷山川』に渡された風鈴の紐は、『谷山川』北岸の直近の城の石垣の上から伸びていました。(同上)

  • 『谷山川』に架かる『登城橋』の近くまでやって来ました。橋の先にある『登城門』を潜って、最初に出石城址を見学した場所です。(同上)

    イチオシ

    『谷山川』に架かる『登城橋』の近くまでやって来ました。橋の先にある『登城門』を潜って、最初に出石城址を見学した場所です。(同上)

  • 『谷山川』を挟んで眺めた、出石城址方面の光景です。左奥に『本丸東隅櫓』、右奥に『本丸西隅櫓』が見えていました。その直近に見えているのが『二の丸』の石垣、幅広く見えている手前の石垣が『下の丸』の石垣のようです。(同上)

    『谷山川』を挟んで眺めた、出石城址方面の光景です。左奥に『本丸東隅櫓』、右奥に『本丸西隅櫓』が見えていました。その直近に見えているのが『二の丸』の石垣、幅広く見えている手前の石垣が『下の丸』の石垣のようです。(同上)

  • 公園整備の際に建てられたのでしょうか、四方にアーチ門がある、西洋風の建物光景です。城下町にとっては少し異質な建物光景でした。(同上)

    公園整備の際に建てられたのでしょうか、四方にアーチ門がある、西洋風の建物光景です。城下町にとっては少し異質な建物光景でした。(同上)

  • 出石城址の太鼓橋と、その先の太鼓門の光景です。明治時代になり、廃城令で出石城も取り壊されましたが、堀、石垣などが現存し、また隅櫓、登城門・登城橋などが復元されました。橋の袂から手前がかつての『三の丸』、渡った先が『下の丸』です。(同上)

    出石城址の太鼓橋と、その先の太鼓門の光景です。明治時代になり、廃城令で出石城も取り壊されましたが、堀、石垣などが現存し、また隅櫓、登城門・登城橋などが復元されました。橋の袂から手前がかつての『三の丸』、渡った先が『下の丸』です。(同上)

  • 出石城下町の商店街の光景です。かつての出石城の城下町は、現在は豊岡市に属します。城下町として整備された町割が碁盤の目状であることなどから、但馬の小京都と呼ばれています。『豊岡市出石伝統的建造物群保存地区』の名称で国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。(同上)

    イチオシ

    出石城下町の商店街の光景です。かつての出石城の城下町は、現在は豊岡市に属します。城下町として整備された町割が碁盤の目状であることなどから、但馬の小京都と呼ばれています。『豊岡市出石伝統的建造物群保存地区』の名称で国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。(同上)

  • この辺りの商店街の建物は新しいですが、城下町の雰囲気を意識したデザインの建物でした。室町時代(1336~1573年)、守護大名の山名氏の居城であった有子山城の南麓に慶長9年(1604年)、外様大名小出吉英により出石城とその城下町が築かれました。江戸時代(1603~1868年)は仙石家の城下町となり発展しました。(同上)

    この辺りの商店街の建物は新しいですが、城下町の雰囲気を意識したデザインの建物でした。室町時代(1336~1573年)、守護大名の山名氏の居城であった有子山城の南麓に慶長9年(1604年)、外様大名小出吉英により出石城とその城下町が築かれました。江戸時代(1603~1868年)は仙石家の城下町となり発展しました。(同上)

  • 『重要伝統的建造物群保存地区・豊岡市出石伝統的建造物群保存地区』の長いタイトルがあった立看板の光景です。保存地区は、概ねかつての城下町の外堀に囲まれた区域と紹介されていました。(同上)

    『重要伝統的建造物群保存地区・豊岡市出石伝統的建造物群保存地区』の長いタイトルがあった立看板の光景です。保存地区は、概ねかつての城下町の外堀に囲まれた区域と紹介されていました。(同上)

  • かつての『三の丸』のエリアから眺めた南東方面の光景です。二段に積まれた長い石垣が見えました。手前が『谷山川』の南岸直近の石垣、奥の石垣が『下の丸』の北面の石垣のようです。(同上)

    かつての『三の丸』のエリアから眺めた南東方面の光景です。二段に積まれた長い石垣が見えました。手前が『谷山川』の南岸直近の石垣、奥の石垣が『下の丸』の北面の石垣のようです。(同上)

  • 少し怪しくなってきた空をバックにした大木の光景です。今回の旅行に出かける前に、100%雨を覚悟していました。それでも昨日から今日にかけて、雨の間を縫うように見学を続けましたから、そろそろ年貢の納め時のようです。(同上)

    少し怪しくなってきた空をバックにした大木の光景です。今回の旅行に出かける前に、100%雨を覚悟していました。それでも昨日から今日にかけて、雨の間を縫うように見学を続けましたから、そろそろ年貢の納め時のようです。(同上)

  • シートに覆われ、改修工事だった出石城下町のシンボルの一つ、『辰鼓楼(しんころう)』の建物です。出石城時代には、大手門と虎口があった場所です。南に向かって門を潜ると『三の丸』でした。『辰鼓楼』は、残された虎口の石垣の上に建てられています。(同上)

    シートに覆われ、改修工事だった出石城下町のシンボルの一つ、『辰鼓楼(しんころう)』の建物です。出石城時代には、大手門と虎口があった場所です。南に向かって門を潜ると『三の丸』でした。『辰鼓楼』は、残された虎口の石垣の上に建てられています。(同上)

  • 植木が伸びて、上の方の文字が読めませんでしたが、以前に撮影されたネット写真で前文を確認することができました。『城下町・出石』のタイトルで名所が列挙してありました。出石城址、沢庵和尚所縁の宗鏡寺、出石神社、家老屋敷や目の前の辰鼓楼等です。(同上)

    植木が伸びて、上の方の文字が読めませんでしたが、以前に撮影されたネット写真で前文を確認することができました。『城下町・出石』のタイトルで名所が列挙してありました。出石城址、沢庵和尚所縁の宗鏡寺、出石神社、家老屋敷や目の前の辰鼓楼等です。(同上)

  • 右側に見える『辰鼓楼(しんころう)』の周りに残る、お堀の跡の光景です。お堀は大部分が埋め立てられ、残っているのは僅かな部分だけのようです。(同上)

    右側に見える『辰鼓楼(しんころう)』の周りに残る、お堀の跡の光景です。お堀は大部分が埋め立てられ、残っているのは僅かな部分だけのようです。(同上)

  • 『辰鼓楼』の周りの街並み光景です。このお店の前にもお堀が残っていました。かつての『三の丸』の北側に残るお堀のようです。『鶴屋』の看板がありました。地元名物の出石皿蕎麦のお店です。(同上)

    イチオシ

    『辰鼓楼』の周りの街並み光景です。このお店の前にもお堀が残っていました。かつての『三の丸』の北側に残るお堀のようです。『鶴屋』の看板がありました。地元名物の出石皿蕎麦のお店です。(同上)

  • 出石城址の街並み散策が続きます。武家門らしい出入口があった、立派な屋敷の外回りの光景です。近くには、家老屋敷もありましたが、この建物は家老屋敷ではなかったようです。(同上)

    出石城址の街並み散策が続きます。武家門らしい出入口があった、立派な屋敷の外回りの光景です。近くには、家老屋敷もありましたが、この建物は家老屋敷ではなかったようです。(同上)

  • お店の前の飾りの紹介です。石臼の中に三体、外に四体のお地蔵様らしい像が飾ってありました。お店の前には小さな水路があり、その用水に架かった石橋の上でした。癒しの光景です。(同上)

    お店の前の飾りの紹介です。石臼の中に三体、外に四体のお地蔵様らしい像が飾ってありました。お店の前には小さな水路があり、その用水に架かった石橋の上でした。癒しの光景です。(同上)

  • 出石には、50軒ほどの蕎麦屋さんが店を出しているようです。この蕎麦のお店は、平成22年(2010年)、秋篠宮ご夫妻が食事に立寄られたとの貼紙がありました。(同上)

    出石には、50軒ほどの蕎麦屋さんが店を出しているようです。この蕎麦のお店は、平成22年(2010年)、秋篠宮ご夫妻が食事に立寄られたとの貼紙がありました。(同上)

  • 空模様が少し怪しくなってきましたが、『小京都』と呼ばれる出石城下町の散策を続けました。兵庫県には、三つの『小京都』と呼ばれる町があり、その一つです。<br />①篠山市:『丹波の小京都』<br />②出石町(現・豊岡市出石地区):『但馬の小京都』<br />③龍野市(現・たつの市龍野地区):『播磨の小京都』(同上)

    空模様が少し怪しくなってきましたが、『小京都』と呼ばれる出石城下町の散策を続けました。兵庫県には、三つの『小京都』と呼ばれる町があり、その一つです。
    ①篠山市:『丹波の小京都』
    ②出石町(現・豊岡市出石地区):『但馬の小京都』
    ③龍野市(現・たつの市龍野地区):『播磨の小京都』(同上)

  • 『小京都』の話の続きです。室町時代(1336~1573年)以降、各地の大名が京都を真似た町づくりをし、それが小京都の起源となったようです。1985年(昭和60年)に『全国京都会議』が結成され、本家京都も参加しています。この会議は、平成27年(2015年)に創立30年を迎えています。(同上)

    『小京都』の話の続きです。室町時代(1336~1573年)以降、各地の大名が京都を真似た町づくりをし、それが小京都の起源となったようです。1985年(昭和60年)に『全国京都会議』が結成され、本家京都も参加しています。この会議は、平成27年(2015年)に創立30年を迎えています。(同上)

  • 『じねん窯』の表札があった、『但馬の小京都』に相応しい建物の紹介です。『全国京都会議』の30周年資料から集約した、『小京都』の数は45箇所でした。その内訳です。東北5、関東・甲信越9、中部6、近畿5、四国3、中国8、九州9(京都は除いてあります) (同上)

    『じねん窯』の表札があった、『但馬の小京都』に相応しい建物の紹介です。『全国京都会議』の30周年資料から集約した、『小京都』の数は45箇所でした。その内訳です。東北5、関東・甲信越9、中部6、近畿5、四国3、中国8、九州9(京都は除いてあります) (同上)

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