出石・但東旅行記(ブログ) 一覧に戻る
各所に古い時代を偲ばせる歴史的建造物が揃っていましたが、時間の都合で端折りながらの出石城下町散策となりました。機会があれば再訪したい城下町でした。(ウィキペディア・その他)

2017夏、兵庫と島根の名所(14/15):7月24日(7):出石城下町(5):祇園社、明治館

20いいね!

2017/07/23 - 2017/07/24

80位(同エリア259件中)

旅行記グループ 2017夏、山陰の名所巡り

0

30

旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

各所に古い時代を偲ばせる歴史的建造物が揃っていましたが、時間の都合で端折りながらの出石城下町散策となりました。機会があれば再訪したい城下町でした。(ウィキペディア・その他)

交通手段
観光バス
  • 出石城下町の散策の続きです。町中の小さな神社の紹介です。石造りの鳥居には、『八坂神社』と『呉服(くれはとり)神社』の文字が並んだ木製の扁額が懸かっていました。(同上)

    出石城下町の散策の続きです。町中の小さな神社の紹介です。石造りの鳥居には、『八坂神社』と『呉服(くれはとり)神社』の文字が並んだ木製の扁額が懸かっていました。(同上)

  • 『祇園社由緒』のタイトルがあった説明立看板です。祇園さんは、『タケハヤスサノオノミコト(建速須佐之男命)』を祀る八坂神社の旧称と紹介されていました。相殿に祀られているのが、織物の神様の呉服神社です。(同上)

    『祇園社由緒』のタイトルがあった説明立看板です。祇園さんは、『タケハヤスサノオノミコト(建速須佐之男命)』を祀る八坂神社の旧称と紹介されていました。相殿に祀られているのが、織物の神様の呉服神社です。(同上)

  • 『祇園社由緒』にも紹介してありましたが、明治9年(1876年)の大火で文献が焼失し、勧請年は不明とされる神社です。この狛犬は昭和6年(1931年)に鳥居と共に建設されたものと紹介されていました。拝殿に向かって右手の阿形の雄獅子です。(同上)

    『祇園社由緒』にも紹介してありましたが、明治9年(1876年)の大火で文献が焼失し、勧請年は不明とされる神社です。この狛犬は昭和6年(1931年)に鳥居と共に建設されたものと紹介されていました。拝殿に向かって右手の阿形の雄獅子です。(同上)

  • こちらは拝殿に向かって左手の吽形の雌獅子です。『祇園社由緒』をも一度読み直しましたら、大火の後に社殿が1坪の敷地に再建され、その後、大正6年(1917年)7月、現在の本殿に改築されたと紹介されていました。(同上)

    こちらは拝殿に向かって左手の吽形の雌獅子です。『祇園社由緒』をも一度読み直しましたら、大火の後に社殿が1坪の敷地に再建され、その後、大正6年(1917年)7月、現在の本殿に改築されたと紹介されていました。(同上)

  • 初夏に咲く黄色の草花の光景です。キク科メランポジウム属の1年聖植物、メランポディウムのようです。メランポジウムなど、いくつかの表記が使われています。メキシコから中央アメリカにかけて、80種類ほどが分布しています。近年出回るようになった草花で、暑さに強く、盛夏も休まず開花します。メランポデュウムはラテン語で『黒い足』という意味で、黒くて太い根をもつ種からの命名です。(同上)

    初夏に咲く黄色の草花の光景です。キク科メランポジウム属の1年聖植物、メランポディウムのようです。メランポジウムなど、いくつかの表記が使われています。メキシコから中央アメリカにかけて、80種類ほどが分布しています。近年出回るようになった草花で、暑さに強く、盛夏も休まず開花します。メランポデュウムはラテン語で『黒い足』という意味で、黒くて太い根をもつ種からの命名です。(同上)

  • 淡い空色で徒食された建物は、出石明治館です。旧出石郡役所として1892年(明治25年)に竣工した西洋館は、現在は博物館として使われ、各種展示会やカルチャーセンターとしても活用されているようです。玄関のコリント式の柱頭などに明治時代の郡役所の威厳を残しています。(同上)

    淡い空色で徒食された建物は、出石明治館です。旧出石郡役所として1892年(明治25年)に竣工した西洋館は、現在は博物館として使われ、各種展示会やカルチャーセンターとしても活用されているようです。玄関のコリント式の柱頭などに明治時代の郡役所の威厳を残しています。(同上)

  • 出石城下町の歴史的建造物の出石明治館の全景です。正面玄関のある木造2階建の背部に平屋建を連結した構造です。今日は月曜日で閉館日でしたが、1階には、歴史を彩った出石の人物展として、斎藤隆夫、桜井勉、加藤弘之、山名宗全、沢庵宗彭らが紹介されているようです。(同上)

    イチオシ

    出石城下町の歴史的建造物の出石明治館の全景です。正面玄関のある木造2階建の背部に平屋建を連結した構造です。今日は月曜日で閉館日でしたが、1階には、歴史を彩った出石の人物展として、斎藤隆夫、桜井勉、加藤弘之、山名宗全、沢庵宗彭らが紹介されているようです。(同上)

  • 出石明治館の前にあった観光名所の案内です。魚屋町にある出石明時間を中心に、出石城址、辰鼓楼と経王寺が記されていました。経王寺は日蓮宗のお寺で、山号は一乗山、出石藩藩主歴代の菩提寺の一つです。(同上)

    出石明治館の前にあった観光名所の案内です。魚屋町にある出石明時間を中心に、出石城址、辰鼓楼と経王寺が記されていました。経王寺は日蓮宗のお寺で、山号は一乗山、出石藩藩主歴代の菩提寺の一つです。(同上)

  • 出石明治館の近くから眺めた、東南方面の光景です。地図を参照しますと、右手に伸びた道路は90度曲がって、『岩鼻稲荷神社』方面に続いていました。(同上)

    出石明治館の近くから眺めた、東南方面の光景です。地図を参照しますと、右手に伸びた道路は90度曲がって、『岩鼻稲荷神社』方面に続いていました。(同上)

  • 城郭を思わせる石垣の上に建つ新しい建物です。出石の名所案内で検索しても分からなかった施設ですが、石垣に『出石藩校・弘道館』らしい文字が見えました。『弘道館』ですと、出石3代目藩主の仙石政辰公が1775年(安永4年)に創設し、当時は『学問所』と呼ばれていました。出石の名所案内図には、諸杉神社と経王寺の中間の出石町材木に『弘道館跡』が表示されていました。(同上)

    城郭を思わせる石垣の上に建つ新しい建物です。出石の名所案内で検索しても分からなかった施設ですが、石垣に『出石藩校・弘道館』らしい文字が見えました。『弘道館』ですと、出石3代目藩主の仙石政辰公が1775年(安永4年)に創設し、当時は『学問所』と呼ばれていました。出石の名所案内図には、諸杉神社と経王寺の中間の出石町材木に『弘道館跡』が表示されていました。(同上)

  • 『学問所』は、1782年(天明2年)に出石4代目藩主の仙石久行公の時、敷地面積601坪、建坪241坪余の新校舎が建設され、『弘道館』と号されました。全国に6校あった『弘道館』のうち、最も古い歴史を持つようです。館名は論語の一節、『人能く道を弘む 道人を弘むにあらず』から採られました。(同上)

    イチオシ

    『学問所』は、1782年(天明2年)に出石4代目藩主の仙石久行公の時、敷地面積601坪、建坪241坪余の新校舎が建設され、『弘道館』と号されました。全国に6校あった『弘道館』のうち、最も古い歴史を持つようです。館名は論語の一節、『人能く道を弘む 道人を弘むにあらず』から採られました。(同上)

  • 立派な石垣の上に建つ建物光景です。石垣の上の長塀も、かつての城郭を連想させます。現在は、宗教施設になっている一角かも知れません。(同上)

    立派な石垣の上に建つ建物光景です。石垣の上の長塀も、かつての城郭を連想させます。現在は、宗教施設になっている一角かも知れません。(同上)

  • かつての武家屋敷跡とも思える場所の池の光景です。池の周りには、年代を感じさせる大きな石がふんだんに使われていました。右手には、キバナコスモスらしい花が咲いていました。(同上)

    かつての武家屋敷跡とも思える場所の池の光景です。池の周りには、年代を感じさせる大きな石がふんだんに使われていました。右手には、キバナコスモスらしい花が咲いていました。(同上)

  • 池で泳いでいた、錦鯉と野鯉らしい魚の光景です。ほどほどに餌を食べているのか、肥満体ではなく、二匹ともスリムな身体つきでした。(同上)

    池で泳いでいた、錦鯉と野鯉らしい魚の光景です。ほどほどに餌を食べているのか、肥満体ではなく、二匹ともスリムな身体つきでした。(同上)

  • 錦鯉が泳いでいた池とは別の池です。こちらの池では八重咲の白いスイレン(睡蓮)の花が咲いていました。多年生の水生植物で、世界の熱帯、亜熱帯に約40種類が分布しています。(同上)

    錦鯉が泳いでいた池とは別の池です。こちらの池では八重咲の白いスイレン(睡蓮)の花が咲いていました。多年生の水生植物で、世界の熱帯、亜熱帯に約40種類が分布しています。(同上)

  • 大きな文字で記されていた観光案内俵です。右方向に、願成寺と沢庵和尚に所縁の宗鏡寺が記されていました。小さい方の標識は、川崎尚之助碑でした。川崎尚之助(1836~1875年)は、出石藩士の子として生まれた、洋学者で会津藩士です。会津藩士の山本覚馬の妹・八重(後の新島八重)と結婚し、会津戦争(1868年)では、八重と共に鶴ヶ城籠城戦に参加しました。(同上)

    大きな文字で記されていた観光案内俵です。右方向に、願成寺と沢庵和尚に所縁の宗鏡寺が記されていました。小さい方の標識は、川崎尚之助碑でした。川崎尚之助(1836~1875年)は、出石藩士の子として生まれた、洋学者で会津藩士です。会津藩士の山本覚馬の妹・八重(後の新島八重)と結婚し、会津戦争(1868年)では、八重と共に鶴ヶ城籠城戦に参加しました。(同上)

  • 本通りから分岐した湖の道を選んだのは、この道の終端場所に沢庵和尚所縁の宗鏡寺(すきょうじ)があるためでした。宗鏡寺は、沢庵寺とも呼ばれている臨済宗のお寺です。登り坂になっていました。(同上)

    本通りから分岐した湖の道を選んだのは、この道の終端場所に沢庵和尚所縁の宗鏡寺(すきょうじ)があるためでした。宗鏡寺は、沢庵寺とも呼ばれている臨済宗のお寺です。登り坂になっていました。(同上)

  • 白いムクゲ(木槿、槿)の花の光景です。アオイ科フヨウ属の落葉樹です。ムクゲとフヨウ(芙蓉)は、見分けにくいケースもありますが、葉が細く、枝が直立していますから、ムクゲに間違いないようです。(同上)

    白いムクゲ(木槿、槿)の花の光景です。アオイ科フヨウ属の落葉樹です。ムクゲとフヨウ(芙蓉)は、見分けにくいケースもありますが、葉が細く、枝が直立していますから、ムクゲに間違いないようです。(同上)

  • 白いムクゲの花と葉のズームアップ光景です。フヨウ(芙蓉)の葉ですと、五角形に近い幅広い形をしています。また、フヨウは多く枝分かれして、横にこんもりと広がります。(同上)

    白いムクゲの花と葉のズームアップ光景です。フヨウ(芙蓉)の葉ですと、五角形に近い幅広い形をしています。また、フヨウは多く枝分かれして、横にこんもりと広がります。(同上)

  • 道の脇に祀られていた小さな社の光景です。小さいながらも、本瓦の立派な屋根を持っていました。中に祀られているのは、長い杖を持ち、緋の衣を着た白い立像でした。弘法大師像のようにも見えました。(同上)

    道の脇に祀られていた小さな社の光景です。小さいながらも、本瓦の立派な屋根を持っていました。中に祀られているのは、長い杖を持ち、緋の衣を着た白い立像でした。弘法大師像のようにも見えました。(同上)

  • 石垣の上で咲いていた薄いピンク色の花の光景です。とっさに思い付く名前は、セキチク(石竹)とカワナラデシコ(河原撫子)です。セキチクはカワラナデシコに比べて、花弁の切れ込みが浅いので、これはカワラナデシコのようです。カワラナデシコは、カラナデシコ(唐撫子)の別名を持ちます。(同上)

    石垣の上で咲いていた薄いピンク色の花の光景です。とっさに思い付く名前は、セキチク(石竹)とカワナラデシコ(河原撫子)です。セキチクはカワラナデシコに比べて、花弁の切れ込みが浅いので、これはカワラナデシコのようです。カワラナデシコは、カラナデシコ(唐撫子)の別名を持ちます。(同上)

  • 宗鏡寺までは、まだ道のりがありました。他にも見学したい場所が残っていますので、宗鏡寺の山門を確認したところで、引き返すことにしました。宗鏡寺の右手前には、川崎尚之助所縁の願成寺があります。(同上)

    宗鏡寺までは、まだ道のりがありました。他にも見学したい場所が残っていますので、宗鏡寺の山門を確認したところで、引き返すことにしました。宗鏡寺の右手前には、川崎尚之助所縁の願成寺があります。(同上)

  • 本瓦屋根を載せた、低い土塀があったお寺の境内のような場所です。奥の方にお墓が見えました。自由に出入りできるようでしたが、門がある場所に向かいました。(同上)

    本瓦屋根を載せた、低い土塀があったお寺の境内のような場所です。奥の方にお墓が見えました。自由に出入りできるようでしたが、門がある場所に向かいました。(同上)

  • 山門のようでしたが、表札は懸かっていませんでした。あとで地図で確認したところ、出石町宵田に位置する、浄土真宗の本願寺派のお寺、『祇林山・高福寺』でした。(同上)<br />

    山門のようでしたが、表札は懸かっていませんでした。あとで地図で確認したところ、出石町宵田に位置する、浄土真宗の本願寺派のお寺、『祇林山・高福寺』でした。(同上)

  • 立派な造りの『祇林山・高福寺』の本堂光景です。ネット検索しても、お寺に関することは何も分かりませんでした。(同上)

    立派な造りの『祇林山・高福寺』の本堂光景です。ネット検索しても、お寺に関することは何も分かりませんでした。(同上)

  • 『祇林山・高福寺』の境内に置かれていた狛犬の光景です。尻尾を高く上げ、頭を低くした、戦闘態勢のような姿の雄獅子です。(同上)

    イチオシ

    『祇林山・高福寺』の境内に置かれていた狛犬の光景です。尻尾を高く上げ、頭を低くした、戦闘態勢のような姿の雄獅子です。(同上)

  • こちらも、尻尾を高く上げ、頭を低くした、戦闘態勢のような姿の雌獅子の光景です。本堂の前ではなく、頑丈な格子造りの柵がある建物の前に置かれていました。(同上)

    こちらも、尻尾を高く上げ、頭を低くした、戦闘態勢のような姿の雌獅子の光景です。本堂の前ではなく、頑丈な格子造りの柵がある建物の前に置かれていました。(同上)

  • 頑丈な格子造りの柵がある建物のズームアップ光景です。建物の中には、『妙見大士』の文字の扁額が懸かっていました。北極星を神格化した、妙見菩薩に対する信仰が『妙見信仰』と呼ばれています。北極星は古代中国で天帝の化現した姿と信じられ、後に道教や仏教と習合して菩薩と尊称されるようになりました。(同上)

    頑丈な格子造りの柵がある建物のズームアップ光景です。建物の中には、『妙見大士』の文字の扁額が懸かっていました。北極星を神格化した、妙見菩薩に対する信仰が『妙見信仰』と呼ばれています。北極星は古代中国で天帝の化現した姿と信じられ、後に道教や仏教と習合して菩薩と尊称されるようになりました。(同上)

  • かなりの広さがあった、『祇林山・高福寺』の境内光景です。浄土真宗のお寺ですが、禅宗のお寺のような雰囲気の建物が並んでいました。一番左の建物は、新築間もない庫裏のように見えました。(同上)

    かなりの広さがあった、『祇林山・高福寺』の境内光景です。浄土真宗のお寺ですが、禅宗のお寺のような雰囲気の建物が並んでいました。一番左の建物は、新築間もない庫裏のように見えました。(同上)

  • 同じく、『祇林山・高福寺』の境内光景です。二階建てほどもありそうな大きな石碑がありましたが、近くまで言って見学するのは止めました。(同上)

    同じく、『祇林山・高福寺』の境内光景です。二階建てほどもありそうな大きな石碑がありましたが、近くまで言って見学するのは止めました。(同上)

この旅行記のタグ

20いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

旅行記グループ

2017夏、山陰の名所巡り

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

出石・但東の人気ホテルランキング

価格.com旅行・トラベルホテル・旅館を比較

PAGE TOP